Part 2 PROFILE REPORTS Vol.07 Y UMI M AT S UZ A KI
夫の渡米についていき 研究の楽しさに気づく
―
まず、「研究者・松崎有未ができるまで」ということで、
どのような子供時代や大学生活
を過ごされたか、おうかがいし
ます。松崎有未(以下、松崎)出身地
は横浜ですが、その後、親の転
勤で栃木に引っ越したので、当
時は周りに何もない、子供もそ
んなにいない田舎育ちです。一
人遊びや機械いじりが好きだっ
たらしくて、親に聞くと、立て
るようになった頃には、ひたす
ら時計やテレビを分解してばか
りいたそうです。
―
遊びやスポーツなどは?思ったとおりに ならないからこそ 研究は『楽しい』 ﹁ 研 究 者 に な っ た の は ネ ガ テ ィ ブ セ レ ク シ ョ ン の 結 果 ﹂
そ ん な 意 外 な 〝 き っ か け 〟 を 明 か し て く れ た の は 間 葉 系 幹 細 胞 の 研 究 で 有 名 な 松 崎 有 未 准 教 授 ︒ 結 婚 ︑ 渡 米 ︑ 大 学 へ の 再 入 学 を 経 て ︑ 研 究 者 に な っ た 異 色 の 経 歴 を 持 つ 先 生 な ら で は の ﹃ 仕 事 観 ﹄ と 女 性 の 研 究 者 ・ 職 員 へ の サ ポ ー ト 体 制 に つ い て 語 っ て い た だ き ま し た ︒
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松崎 小学生の頃は、男の子と
一緒に野球です。外遊びは野球
しかなかったですから、放課後
になると原っぱに集まって、誰
かがバットを、誰かがボールを
持ってきて、草野球ばかりでし
た。中学校では女子の野球部は
ないのでソフトボール部に入っ
ていました。また、子供の頃か
らスキーをやっていて、中学生
では競技スキーを始めました。
―
そんな子供の頃の夢は何だったのでしょうか?
松崎 何になりたいとかは、特
にはありませんでした。外で野
球をやっているか、本を読んで
いるかという子供でしたから。
ただ、夏休みの自由研究は好き
で、毎回毎回かなり凝ったもの を出して、賞も何回かもらったことがあります。
―
理系に興味があったということですか。
松崎 理系に限らないのですけ
れどね。名所旧跡を調べたりも
しました。何かを調べたりとか
確かめたりとかが好きなので
す。たとえば、小学校低学年の
夏休みの自由研究では、水を入
れた小袋をたくさん作って、そ
れに色をつけて日向に置いてお
いて、温度の変化を経時的に調
べると黒が一番早い、というよ
うな実験。テーマを自分で考え
ること、考えて何かをやるのが
好きだったのでしょうか。
―
そういう興味のもち方や能 力が研究者になられたおおもとの力なのでしょうか。松崎 どうして研究者になったかというと、ネガ
ティブセレクションの結果
なのです。「どうしても研
究者になるんだ」と思って
いたわけでもないし、大学
だって、「この大学」とい
うこともありませんでした
から。理数系が得意だった
というわけでもなくて、た
だし文系は行くつもりはな
いので理系、理系なら理学
部かな、という程度。それ
で筑波大学の第一学群自然
学類に入りました。
理科で一番好きだったの
は生物だったから、専攻は
生物学を選ぼうと思ったら、 生物学は違う学群、学類だっ
たのですね。「これはしまっ
た」と思いました。数学、
物理学、化学、地球科学の
中でできそうなもの、しか
たないから数学を専攻した、
というわけです。まあ、な
んとか卒業はしましたが、
「生物をやりたかったな」と
いう思いは残りました。
―
それで医学部に入り直したのですか?
松崎 いえ、すぐにそうい
う気になったわけではあり
ません。大学卒業後すぐに
結婚して、夫のアメリカ留
学に一緒に行くことになっ
たのです。
お金がないから、私も向
滑 り 込 み 合 格 だ っ た の で 、 入 学 式 の 時 、
私 だ け 手 書 き の 名 札 で し た 。
こうで働かなければいけない。
それで、ワーキングパーミッショ
ンを申請しました。夫にはJ
–
1ビザという研究者のビザがあっ
て、配偶者はJ
–
2ビザという のが取れる。J–
2というのは、ワーキングパーミッションとい
うのを申請するとワーキングビ
ザがなくても働けるビザです。
夫の留学先、フィラデルフィア
大学の求人に研究室の実験助手
というのがあったので、応募し
てインタビューを受けに行った
ら、英語もろくに話せないのに、
なぜかわからないけれども奇特
にも雇ってくれたのです。
そこで実験というものを学ん
で、見よう見まねでやり始めたら、
「けっこうおもしろいじゃないか」
と。また、一緒に実験助手をし ていた人たちの中に、「メディカ
ルスクールに行くために学費を
貯めている」と言っているのが2、
3人いて、それで、「ああ、そう
いうのもありなんだ」と感じた
からかもしれませんが、帰国して、
「医学部でも受けてみようか」と
いう気になったのですね。
そんな気持ちの程度ですか
ら、大した受験勉強もせずに受
けた1回目は不合格です。次の
年、もう少しまじめに勉強した
ら、これが奇跡的に筑波大学の
医学専門学群に受かりました。
本当にビリで受かったのですよ。
「また落ちちゃった。まあいいか、
また来年受けるか」と思ってい
たところ、入学式の前日に大学
から電話がかかってきた。繰り
上げ繰り上げで最後の1人で滑 り込んだらしくて。だから、入
学式の時、他の学生はみんな印
刷された名札を付けていたけれ
ども、私のだけ手書きでしたよ。
出会いの積み重ねが 今の私をつくってる
―
医学部に入っても、最初から研究者を目指されていたので
はなかったのですか。
松崎 当初は、普通に臨床医に
なるつもりでした。転機といえ
るのかどうか、たまたまの出会
いが2年生の時にありました。
当時、理化学研究所にいらした
中内啓光先生(現東京大学医科
学研究所教授)が、私が入って
いたテニスクラブに来られて、
私が「アメリカで実験助手を
やっていたことがある」と言っ たら、中内先生が「うちは今、
実験助手がいないから夏休みに
アルバイトしに来ない?」と誘
われて、二つ返事でお受けし
て、夏休みだけでなく、そのま
ま理研に居ついてしまったので
す。本当になし崩し。たまたま
出会いがあって、たまたまそこ
に入って…という。
今ここにいる私は、そういう
積み重ねがあってなのですよ。
研究も私の場合、本当に行きあ
たりばったり。目の前にあるこ
とを、「何かおもしろそうだか
らやってみようかな」と始めて
みる。すると新しい興味が出て
きて、「じゃあ、次はこれをやっ
てみようかな」と、それを繰り
返しているだけで、基本的にあ
まり先のことを考えません。考
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えてもろくなことがないし、だ
いいち、考えたとおりになんか
ならないじゃないですか。
たとえば、実験で、「これを
やると、どうなるのですか」と、
学生は聞いてきます。私は、「やっ
てみないとわからないでしょう」
と言う。すると学生は不満なの
ですね、答が知りたい、教えて
ほしい、と。特に最近の学生は
真面目ですから、その気持ちは
わからないでもない。しかし、
何事もなるようにしかならない
でしょう。考えてもしかたがな
い、と思うのですけれど。中内
先生も、いつも「思いもよらな
いことが出た時がおもしろい」
とおっしゃっていました。
―
当時の中内研はどんな雰囲 気でしたか。松崎 当時の、理研の中内研は十数人のスタッフ、メ
ンバーです。現在九州大学
教授の中山敬一先生が大学
院出たてで、研究員でいらっ
しゃいました。中内先生が
ラボ頭で、他にはポスドク
の臨床医の先生たちがその
頃から多かった。それと、
大学院生が数名。医学部の
学生は、私ともう一人、和
歌山県立医大の男子が夏休
み、冬休みに来ていました。
上下関係に厳しくなくて、
みんな仲間という意識で和
気あいあい、小さくてもす
ごく楽しかったですね。
理研そのものが100人
くらいの、大学に比べれば 小さな所帯だったし、先生
と院生・学生という感覚は
なくて、みんな研究スタッ
フという共通意識があった
ようです。自由な感じ。研
究室の垣根すらあまりな
かったですね。何かわから
なかったら、誰々さんのと
ころに行って聞いて教えて
もらってきなさい、と。逆
に、こちらの研究室にもた
くさん来られます。たとえ
ば、中内研にあるフ ※ローサ
イトメーター〔P101参
照〕を他の研究室の人たち
が使いにくる。お互いに
いろいろ教え合って物を
融通し合っていましたか
ら。研究だけでなく、バー
ベキューパーティがあっ たり、テニス大会や野球大会が
あったり。たとえば、そのころ
に発生学の相沢慎一先生(現・
理化学研究所副センター長、グ
ループディレクター)や、八木
健先生(現・大阪大学教授)も
いらっしゃって、テニス、野球
をよくやりました。いまだに学
会で会うたびに、「テニスやっ
てる?」みたいな感じで声をか
けていただいてます。
その後、中内先生が筑波大学
の教授として移ってこられて、
その時私は筑波の大学院生だっ
たのだけれど、そうしたら、まっ
たく雰囲気が変わってしまいま
したね。理研では「さん」づけで、
みんな普通に名前で呼び合って
いたのが、「中内先生」になって。
横のつながりもほとんどなくて、
「 思 い も よ ら な い こ と が 出 た 時 が お も し ろ い 」
大学ってやはり違うのだなと思
いました。
多くの人と会って話す 研究でもそれが重要
―
学生、院生時代に悩みはありましたか?
松崎 その頃の悩みは、雑用で
こき使われたことですね。これ
が一番のストレスでした。だっ
て、大学から給料をもらってい
る人たちが研究に専念している
隣で、学部の学生、大学院生で
お金を払っている立場の人間
が、なんでこんな雑用をやらさ
れているのか、おかしいと思い
ません? でも、嫌いじゃない
からやってしまう、これはよく
ないですよ。とにかく雑用をほ
いほい引き受けてはだめです。 慶應に来てからは言われてもやらない、できる限り死んだふりをして、あまりやらないようにしていまし
た。やはり自分の立ち位置
を決めておかないとだめで
すね。
―
研究のスランプがあった時は、どうやってそれか
ら脱出しますか?
松崎 スランプというの
は、研究がうまく進まない
ということでしょうか? あまり考えないことにす
る。とにかくできる限り考
えない、何かやっているう
ちに必ず見つかる、と思う
ことにしています。
しかし、実験がうまくい かないとかというの
は、スランプのうちに
入りません。実験がう
まくいかないとき、こ
ういうことが問題か、
ああいうことが問題か
といって、いろいろ試
していって一つずつ潰
していく作業そのもの
が実験でしょう。それ
はスランプではありま
せん。
私にとってのスラン
プというのは、アイデ
アが出ない、次に何を
やるかテーマが見つか
らない時です。そうい
う時は、普通はあれこ
れ論文を読んだりして
よく勉強するのだろう と思うのですが、あまりそういうことはしません。だって、そこから得られるアイデアなん
て、基本的にもう出ている、発
表されていることでしょう。そ
れよりは、いろいろな人と話を
したりセミナーをいろいろ聞き
にいったりします。それも人が
やっていることではないかとい
われるかもしれないけれども、
人が話しているデータ、情報は
友 達 を い っ ぱ い 作 っ て 、 学 会 に 行 っ た 時 に
話 せ る 相 手 を 作 っ て お く の が 大 事 。
チャーミングな一面が垣間見える普段の松崎先生。
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リアルタイムにパッと出てく
る、生のものなのです。
それについてその人がどう説
明するかのほうが、文章を読む
よりイメージが鮮明で、良いア
イデアが浮かぶことが多いです。
シンポジウムを聞きに行ったり、
学会にできるだけ参加して、人
に会って話をすることがやはり
一番重要だと思う。話している
うちに何となく、「そう言えばこ
の間こんなことがあったな、あ
れはもしかしたらおもしろいネ
タになるかもしれないな」とい
うのを思いついたりします。と
にかく友達をいっぱい作って、
学会に行った時に話せる相手を
作っておくのが大事です。
―
先生は研究を楽しんでい らっしゃるように思えます。松崎 先ほども述べましたが、中内啓光先生が、口が酸っぱく
なるほどおっしゃっていたの
は、「思いもよらないことが出
た時はおもしろい」。こうなる
のではないかと思って実験して
みたらまったく予想外の、違う
結果が出たとします。ふつう
は、「やり方が悪かったのでは
ないか? 何か間違っているの
では?」と考えます。そういう
とき、中内先生は真っ先に、「お
もしろいじゃん、これ」と言う。
「考えたとおりになるのって全
然おもしろくないんだよ。考え
たのと逆の結果になった時がお
もしろいんだよ」と、常に、し
つこいくらいおっしゃっていま
した。「実験が失敗したのかな」 とへこんでいたのが、「そうか、
もしかしたらこれはおもしろい
かもしれないんだ」となると、
すごく研究が楽しめるんです
よ。今はなかなか楽しめないで
すね。やらなければならないこ
とが多くなってくると、どうし
ても研究で楽しめないですね。
―
アメリカに留学されていましたが、日本との違いはどのよ
うに感じられますか?
松崎 難しいところですね。研
究自体は日本のほうがとにかく
圧倒的にやりやすい。お金が
あって設備があって人がいれば
の話ですけれども。アメリカと
いっても行くところによりま
す。私が行っていたボストンは、
基本的に、「とにかく人を蹴落 としてなんぼ」の人が集まっているところだから、正直あまり楽しくありませんでした。とくに私が行った時には、いい意味でも悪い意味でも、ものすごくアグレッシブな人がいて、その人のおかげで研究室の中がしっちゃかめっちゃかだったので、
正直アメリカはあまりいい思い
出がない。最初に入った研究室
のボスとうまくいかなくて研究
室を変えたりしたので、途中で
テーマも変えざるをえなくなっ
たり、データは出ていたけれど
も論文も出せなかったし。
だから、研究や仕事の内容よ
りも、行くところは選んだほう
がいいですよ。ボストンには
ハーバード大やMITなどもち
ろん一流どころがあるけれど
も、街自体にもなじめなかっ
た。私はどちらかというと、イ
タリア系というかラテン系人が
集まっているところに行けばよ
かったかなと。西海岸にしとけ
ばよかった! というのが一番
の後悔かも。
慶應に来てからは、楽しいで
すね。やればやっただけ成果が
出るようになったし、慶應の人
たちは真面目なので、私が言い
たい放題、アイデアを出すだけ
で、みんなワーッと手を動かし
て論文も出してくれるので、非
常に楽で楽しいですね。学生、
臨床から来る人たちはやる気が
あるし、真面目で熱心。育ちが
いいからかしら。
―
雰囲気を大切にされている のですね。松崎 どうせやるのなら楽しいほうがいいじゃないですか。ア
メリカは、今はもう予算規模が
小さくなってしまっているか
ら、とにかくお金を取るために
みんな汲々としている。だから、
すごく慌ただしく、期間が短す
ぎてしまって、ほとんど半年単
位くらいで勝負をかけようとし
ているじゃないですか。あれで
は、たとえスタンフォード大で
あっても、とても楽しめないだ
ろうなと思う。
アメリカはお金をいっぱいか
けて人をたくさん使って、早く
やろうとする。みんなが思いつ
くようなことを早くやるのがア
メリカ。ヨーロッパはいいです
よ。のんびりというのではない けれども、お金がない分、頭をよく使ってアイデアでおもしろいことをやろうという雰囲気があるのではないでしょうか。
―
松崎先生の研究室の教育方針はどんなことでしょうか。
松崎
「必ず質問しろ」とだけ
言っています。黙って座ってい
るな、わからなければわからな
いと言いなさい、知らないこ
とは何の恥でもないのだから、
と。「こんな質問をしたら格好
悪い」と思ってしまうのは一番
よくない。学生はどんどん馬鹿
なことを聞けばいいのです。「な
るほど、ここから引っかかるの
か」というのが私たちにもわ
かってくる。「そのレベルで引っ
かかっているのか、では、もう 少しレベルを落として話そう」とか、「もう
ちょっと丁
寧に説明し
よう」と
か、それで
学生もまた
フィードバックが得られるので
す。だから、わからないことは
わからないままにしない、「そ
れは何ですか」とその場で聞き
なさい、とだけは言っています。
あとは自分でどうにかしろ、と。
―
女性研究者として、後輩へのアドバイスをお願いします。
松崎 なにせ、あまり女っぽく
ないからね(笑)。まぁ昔ほど、
「どうせやるなら楽しいほうがいいじゃない」という松 崎先生の言葉通り、ラボメンバーとの仲はとてもいい。
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女性だからといって、必ずしも
不利ではなくなってきています。
以前は男女2人いて実績が同じ
だったら間違いなく男性を採っ
ていたけれども、今はそうでもな
いでしょう。女性のほうが元気
だし、パワフルでエネルギッシュ
というのがだいぶ浸透してきて
いると思います。
一番難しいのは、やはり結婚
して子供を産んで育てることと
両立するところだと思います。
私は子供を産んで育てる余裕は
なかったから、子供無しで来て
しまったけれども、これから産
み育てようと思う人たちは、や
はりそこは頑張らなければいけ
ないですね。環境づくりを声高
に叫ぶことも重要です。しかし
女性たちのパワーが集団として 年々大きくなってきているで
しょう。昔は各研究室・研究
所・学会に女性研究者なんて1
人か2人しかいなかったから、
そのためにわざわざ託児所を作
ろうなんて動きも起きなかっ
た。でも、数が増えてくれば当
然その人たちが、しかも女性の
方がよりパワフルに仕事ができ
たりするから、子育てで離れら
れてしまうといったら困る、と
いう場合も増えてきている。そ
もそも人口の半分は女性なんで
すから、それを利用しないのは
即、国力の低下につながるわけ
なので、国をあげて子育てしや
すい環境を作ってしかるべきだ
し、国が頼りにならないなら各
institute
がきちんとやるべきでしょう。 同じ大学の医学部と附属病院なのに、看護師さんのための託児所はあっても女性研究者はそこを使えないとか、そういうことが結構あります。その辺をどうにかすれば、もっといいと思うけれども。私が言っても、「あ
なたは子供を産んで育てるわけ
ではないでしょう」と、とりあっ
てくれないから、女子学生や教 員・職員たちの署名を集めたりして、私たちがこれから研究者
になる、医師になるためにはこ
れではやっていられない! と
いうことを、頑張ってアピール
していってほしい。次世代に遺
伝子を残すのは大事なことです。
松 崎 有 未( まつ ざ き・ゆ み )
慶応義塾大学・総合医科学研究センター特別研究 准教授。筑波大学第一学群自然学類数学主専攻 および医学専門学群を経て1997年博士課程修 了。Children’s Hospital/Harvard Medical Schoolなどでのリサーチフェローを経験後、慶応 義塾大学医学部生理学教室にて助手、特別研究 助教授を経て、2007年より特別研究准教授。
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KUNIM A S A OHTA
恩師、藤澤肇先生との 運命的な出会い
―
研究者、太田訓正の素顔に迫りたいと思います。まずは先
生の少年時代のことをお聞きし
たいのですが。
太田訓正(以下、太田)出身は三
重県の伊勢市、家族は両親と妹
が1人、みんな研究者ではあり
ません。僕たちの時代はテレビ
ゲームとかインターネットみた
いなものが何もなかったから、
本当に野山を駆け回るという
か、野生児みたいな感じでした。
部活動は、中学では卓球。公
民館で友だちと卓球して遊んで
いたからですが、中学ではその
地区では結構強かったのです
よ。でも、卓球はやはりちょっ
と暗いというイメージがあっ
て、伊勢高校ではイメチェンで
サッカーです。僕たちの頃の
サッカー部は部室でたばこを吸
う先輩がいて、担任の先生から
は「そんな部活はやめろ」など
と言われていましたが、気にせ
ず続けました。Jリーグは僕た
ちが高校を卒業する頃にできた
のかな。その後、サッカー人気
は急上昇しましたね(笑)。
―
小さい頃の夢は何でしたか。太田 ずばり、フォーミュラ1
のレーサーですね。僕が小学生
の頃は、スーパーカーブームと
いうのがあり、スポーツ車の人
気がすごかったんです。フェ
ラーリやポルシェとか、街で見
かけるとワクワクしていました (笑)。鈴鹿サーキットが近かっ
たことも一因ですね。
―
子供のころから生物の観察が好きだったのですか。
太田 そうですね。そこまで格
好いいことはないけど、どこか
らか生き物を拾ってきては家で
飼っていました。思い出深いの
は、朝4〜5時に、山へカブト
ムシやクワガタを友達と採りに
いったことです。今の子供達は
そのようなことをしているので
しょうか? 観察ということ
はないですが、生き物にずっと
触れていたような気はします。
―
生物学科に進もうと思ったきっかけは何でしょうか。
太田 高校で進路を決める時に、 物理と化学を専攻していたこともあり、大学は工学部系に進学
かなとぼんやり思っていました。
1982年にラットの成長ホル
モン遺伝子を、マウス受精卵に
ものすごく細い注射針でマ ※イク
ロインジェクションして遺伝子
を組み換えたトランスジェニッ
クマウスが作製されたのですが、
体の大きさが普通のマウスの約
2倍になるという新聞記事を高
校2年生の時に読み、興味を惹
かれました。生物そのものを遺
伝子で操れるというのがとても
面白いなと思って。
担任の先生からは、医学部へ
進学したらどうかと言われたの
ですが、自分が医者になるとい
うイメージが全然湧かず…「ト
ランスジェニック」という単語 が理学部に進んだ一番のきっかけでしょうか。
―
学生時代の思い出深いエピソードはありますか。
太田 九州大学大学院修士では
ヒドラの味覚受容を研究してい
て、2年の時には軸 ※索ガイダン
ス、神経回路網形成に興味を持
ち始めました。当時は軸索ガイ
ダンスという領域がなくて、そ
れに近いことを研究しようと
思ったら医学部くらいしかな
かったのです。ちょうどその頃
に、軸索ガイダンスのパイオニ
いくつになっても 自分の手で 実験を!
﹁ 前 の 日 に 培 養 を 始 め た シ ャ ー レ を
翌 朝 に の ぞ く 瞬 間 は 今 で も ド キ ド キ し ま す ︒﹂
い ま な お ︑ 積 極 的 に 自 ら 実 験 を 行 い ︑ 数 々 の 実 績 を 挙 げ て き た 太 田 訓 正 准 教 授 は そ う 語 り ま す ︒ 新 規 遺 伝 子 の 発 見 や ︑ ガ ン 化 し な い 多 能 性 幹 細 胞 作 製 法 に 関 す る 論 文 の 発 表 な ど ︑ 世 界 の 注 目 を 集 め る 研 究 者 ︑ 太 田 訓 正 の 素 顔 と は ― ? PRO FILE R EP O RT S
【マイクロインジェクション】遺伝子の導入法。ガラス針で細胞に孔をあけてDNAを挿入する。【軸索ガイダンス】神経の発生段階において、神経細胞から標的細胞まで情報を送り出す突起(軸索)を伸ばすこと。
Part 2 PROFILE REPORTS Vol.08 KUNIM A S A OHTA
アと言われている藤澤肇先生(当時・京都府立医科大
学助教授、現・名古屋大学
名誉教授)が、九大のセミ
ナーに来られました。あれ
は運命的な出会いでした。
藤澤先生は、まさに自分
がやりたいことをやってお
られたのです。その日の懇
親会では偉い先生ばかりの
なか参加し、「自分でお金
を払うから参加させて欲し
い」とお願いしました。博
士課程からは京都府立医大
の研究室にもぐり込むこと
に成功しました。翌年、藤
澤先生は名古屋大学理学部
の生物の教授になられたの
で、何の疑いも無く一緒に
ついて行きました。僕がト ラックを運転して、機器類を名古屋まで運んだ思い出があります(笑)。
当時は、修士・博士と、
だいたい一貫した1つの
テーマを学ぶのが普通だっ
たと思うのですが、僕みた
いに途中でテーマや学校
を変える人はほとんどいな
かった。名古屋大での身分
証の名前は「特別研究学生」
でした。それくらいまれな
存在だったみたいです(笑)。
藤澤先生が九州大学にセ
ミナーに来られていなかっ
たら、軸索ガイダンス分野の
研究はやっていなかったか
もしれないし、当時はバブル
絶頂期だったので民間に就
職していたかもしれないで すね。
―
藤澤先生から、どういった指導を受けたのでしょうか。
太田 藤澤先生は態度で示すよ
うな先生でした。
50
歳ぐらいまでご自分で実験をされていた一
方で、大型の研究費も稼いでこ
られて、書類書きとか伝票の整
理を全部ご自分でされていたの
です。秘書さんやテクニシャン
は一人もいませんでしたから。
今、僕がそれをやれるかという
と、なかなか難しいですね。背
中で見せる先生でした。格好い
いですよね。
研究者・太田訓正の これからとは?
―
太田先生の今後の夢は? 太田 前述した九州大学の学科長は「研究者でなくてもいいか
ら、朝起きて、今日はこういう
ことをしようというワクワクす
るような生き方をしなさい」と
僕たち学生に言われたことを覚
えています。僕はもう基礎研究
の世界に入っていますから、今
日はこの実験をやろうとか、テ
クニシャンの人にはこれをして
もらおう、そういう朝を毎日迎
えられれば幸せですね。
―
では、プライベートで実現したい夢はありますか。
太田 何だろう。研究がプライ
ベートみたいなものだから。定
年後に、学会で訪れた国をもう
一度ゆっくり訪問したいです
ね。多くは空港と学会会場の往
復で終わってしまいますから…
そのためには今のうちに海外の
学会に参加しておかないといけ
ませんね。
―
逆に悩みはありますか。太田 悩みと言えば、どの職業
でも同じかもしれませんが、将
来が特に見えない仕事ですよ
ね。とくに研究というのは誰も
やっていないことを調べますか
ら、当然、成功すると思って実
験を進めますが、うまくいくか
どうかも分からないまま月日は
過ぎますし…大学時代は
60
人ぐらいのクラスでしたが、当時の
学科長の先生に「このうち研究
者として残れるのは2〜3人で
すよ」とズバッと言われたこと
を今でも覚えています。駄目な ものは駄目ということを覚えておくようにと。将来が見えない悩みはずっと持っています。
―
スランプを脱出するために大事にしている言葉はありますか。
太田 結局、研究者の悩みとい
うのは実験結果が出ないという
ことに尽きますから、もうやる
しかない。「失敗は、逆に考え
ると、もうその方向はもうない
よ、というのが分かったと思
え」と先輩に言われたことがあ
ります。実験して駄目だったと
思ったら、もうこちらはないか
ら次はこちらに逆方向とか方向
転換する。そう思うと失敗して
もちょっとは気が楽になったか
な。失敗もその方向は駄目だと
いうのを示していると思いま す。もう1つ素晴らしいお言葉で、僕の九州大学時代の恩師である森田弘道先生が、「小さく
納まるより大きく砕けろ」とい
う言葉を僕たち学生に紹介され
ました。砕けた後どうしてくれ
るんだと、心の中で突っ込みを
入れましたが(笑)。小さく納
まるということは簡単で、答え
が予想できるような研究はする
なということでしょうね。
―
研究をしていて、一番楽しい瞬間はどんな時でしょうか?
太田 前の日に培養を始めた
シャーレを翌朝にのぞく瞬間は
今でもドキドキします。軸索ガイ
ダンスの研究を行っていた時は、
神経をシャーレに接着させて培
養すると、神経突起がどれぐら い伸長するかとか、まっすぐ伸
びるのか、枝分かれするのかなど、
顕微鏡をのぞく瞬間ですね。
―
先生の研究していく上でのモットーは何ですか。
太田 やはり面白いことをサボ
らずにやるということです。今
までずっと自分の興味に合う研
究テーマをやってこられたのは
幸せでした。共同実験は大事だ
し、自分たちの守備範囲外の実
シ ャ ー レ を の ぞ く 瞬 間 は 今 で も ド キ ド キ し ま す 。
現在でも積極的にデータを調べる太田先生。
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E n t h u s i a s t i c c h a l l e n g e r s f o r t h e f u t u r e m e d i c i n eKUNIM A S A OHTA
験はお願いして行ってもらうこ
ともありますが、ポイントとな
る実験は、自分たちで行うよう
に心がけています。
―
自分で実験したいという気持ちは、准教授になってからも
ずっとありますか。
太田 あります。学生のデータ
よりは、自分で手を動かした
データを調べるほうが楽しいで
す。だからなるべく手を動かし
ていたいというのはあります。
ケンブリッジ大学に留学してい
た時、2012年ノーベル医学・
生理学賞を受賞されたジョン・
ガードン先生の研究室に行った
ことがあります。ガードン先生
はその当時で
60
代後半だったと思いますが、ご自分でカエル胚 の入ったシャーレを持って歩いておられ、僕たちと研究室内ですれ違う時には、ずっと立ち止まって僕たちが行き過ぎるのを待っておられました。ああいう姿勢を目の当たりにするとすごいなと思います。現在でも、ご自分で実験をされているのではないでしょうか。
―
研究室を大きくするよりも、自分が楽しい研究室を持ち
たいということでしょうか。
太田 そうです。留学して思っ
たのは、欧米の研究室ではスタッ
フ1人につき、研究員、学生と
テクニシャンといて、一番多い
ラボでも
10
人ぐらいでした。1人でラボ運営をコントロールで
きるというか、指示できるシス テムはいいなと思いました。 僕は今の研究室にいて最大の
時で8人グループでした。そう
なると、今日はこの学生にはこ
の実験をしてもらい、テクニシャ
ンの人には何々をお願いしてと、
毎朝、考えました。自分自身は
これをやると。あれはあれで大
変だったけど、なかなか充実し
ていました。こぢんまりとして
全てを把握できていて、このぐ
らいがちょうどいい。自分も実
験をし続けたいと思っています。
1回手を動かすことを止めてし
まうと、なかなか実験に戻れな
いというのがあるので。
―
研究者を目指す若手へのメッセージをお願いします。
太田 僕が学生の頃はインター ネットもなかったので、最新の論文を読む時は、図書館へ行ってコピーして読むというスタイルでした。今は情報がありすぎて、例えば、研究室を探す時にはホームページを見てよさそうなところに決めてしまうこともあるかもしれません。ありきたりですが、最後は、「自分が何
に興味を持っているか?」とい
う一点でしょう。
僕は大学院に移った時も、熊
本大に就職した時も、留学先を
決めた時も、いつも自分の興味
に合う研究室だけを選んできま
した。つらい思いをしたことも
ありましたが、損得を考えずに
自分のやりたいことをやってき
たので、失敗しても自己責任だ
と言い聞かせています。何事も
自分で決めるというのが一番大
事ですね。
最近、幹細胞を研究している
若い研究者と接する機会が増え
ました。日本には、幹細胞若
手の会が存在していなかった
ので、ある有志5人が
ISSCR
(International Society for Stem
Cell Research
)にちなんで、Tsukushi SCRS
という若手の会を設立しました(いわゆる勝
手連)。毎年、会合なる呑み会 を学会開催地で開いています
が、この会の参加者(ほとんど
が
30
歳前後)はとても勢いがあり、皆さん活きが良いです。僕
はオブザーバーというかたちで
Tsukushi SCRS
に参加させてもらっていますが、まだまだ彼・
彼女らに負ける訳にはいかない
という気持ちを新たにします。
また、参加者には、この出会い
を大事にして欲しいというメッ
セージを発しています。という
のも僕自身、当時、熊本大学学
長をされていた江口吾朗先生の
さきがけ「認識と形成」領域に
30
代半ばで入れてもらったのですが、江口先生やその時のメン
バーとの交流は、今でも「認識
と形成」研究会という形で継続
しているからです。
―
こういう学生に研究室に来てほしい、というのはありますか。
太田 やはり自分が面白いとい
うものを持っている人ですね。
興味がないと来てもらっても、
やりなさいという実験をやって
いるだけで、自分で考えないで
すから。こういう研究テーマで
実験を進めようと相談し、その プロジェクトを行いながら、時間が空いた時は、自分で独自の実験を試みる人がいいですね。
自分のやりたいことは、土日や
夜遅くとか関係なく。ツボには
まった時の若者のエネルギーに
はすさまじいものがあり、僕の
役目は、そのようなパワーをい
かに学生諸君から引き出してあ
げるかだと肝に銘じています。
太 田 訓 正( お お た・くに まさ)
熊本大学大学院 生命科学研究部 神経分化学分野 准教授。1987年九州大学理学部生物学科卒業、
1992年九州大学大学院医学系研究科単位取得退 学。理学博士。同年日本学術振興会特別研究員、
同年熊本大学大学院医学研究科助手、その後ケン ブリッジ大学研究員、さきがけ研究 21「認識と形 成」領域研究員(兼任)、熊本大学大学院医学研究 科助教授、同大学院医学薬学研究部神経分化学 分野准教授を経て現職。2012年には米科学誌プ ロスワン電子版に乳酸菌を使用したがん化しない 多能性幹細胞作製法に関する論文を発表し、世界 から注目を集めている。専門は幹細 胞 生物 学。
ラボのメンバーと。
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Part 2 PROFILE REPORTS Vol.09 K A ZUNORI K ATAOK A
興味と出逢いに導かれ 研究者の道へ…
―
今回は片岡先生が若手研究者だった頃の話をお聞きしなが
ら、先生の素顔に迫っていきた
いと思います。まずは子どもの
頃のことをお伺いしたいのです
が、先生はどのように過ごされ
ましたか。
片岡一則(以下、片岡)僕は生ま
れも育ちも東京です。小学校の
時は、落ち着きがないとか、お
しゃべりだとかで、よく先生に
怒られていました。昆虫採集や
植物採集、それから本を読むこ
とは好きでしたが、小学校の時
はあまり勉強しなかったですね。
―
小さい頃、夢はありましたか。手探りだった 若手時代を 振り返る
東 大 の ド ク タ ー コ ー ス で バ イ オ マ テ リ ア ル を
や り 始 め た 頃 は ほ と ん ど 訳 が わ か ら な い 世 界 だ っ た ― ︒ 赤 池 敏 宏 先 生 ︑ 岡 野 光 夫 先 生 ら と 共 に 新 し い 分 野 を 切 り 拓 い た 片 岡 一 則 教 授 に ︑ 試 行 錯 誤 を 繰 り 返 し な が ら バ イ オ マ テ リ ア ル の 研 究 を 始 め た 若 手 研 究 者 の こ ろ を 振 り 返 っ て 頂 き ま し た ︒
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E n t h u s i a s t i c c h a l l e n g e r s f o r t h e f u t u r e m e d i c i n e240
K A ZUNORI K ATAOK A
片岡 結婚式の時に、小学
校の先生が、僕が小学校を
卒業する時に書いた作文を
読んでくれたのです。自分
が何を書いたか覚えていな
かったのですが、そこには
将来の夢は「大学の先生」
と書かれていました。
―
ということは、夢を叶えたことになりますね。
片岡 そうなりますね。一
応、ドラマ仕立ての作文に
なっていて、「私は今、大
学の医学部で研究していま
す」「画期的な抗がん剤を
開発しました」「これから
記者会見です」などと書い
てありました(笑)。「やれ
やれ、今日も徹夜か」とい うのも合っている。たぶんその頃はそういうことをやりたかったのでしょうね。
ただ、当時はおしゃべりで
落ち着きがなかったので、
その時の雰囲気で考えが変
わるという感じだったと思
います。
でも中学に行ってから、
だんだんまともに勉強する
ようになりました。理科の
科目も面白くなった。歴史
や生物とか、化学も。漠然
と大学で研究をやりたいな
という意識はあったような
気はします。ただ分野とし
ては歴史とか生物、化学と
か。極めていい加減でした。
他にも医学とか。何でもよ
かったのです。
―
そんな先生が研究者を志すことになったきっかけはなんで
しょうか?
片岡 高校の時は文科系にする
か、理科系にするかで結構悩み
ましたね。実は高校3年になる
まで大学は文科系に行こうと
思っていました。最初は歴史を
やりたいから文学部と言ってい
たのですが、みんなに大反対さ
れた。「そんなことをやったら
将来、メシが食えないぞ」と言
われた。いい加減だったから「そ
うかな」と。それで法学部に行
こうと思っていました。
でも3年になる時に、急に理
科系に行きたくなったのです。
今はみんな高校が理系と文系の
コースに分かれてしまうでしょ
う。僕らの時はそこまで厳密で はなかったですね。高校3年になる時は数Ⅲがあるから、それを取るか取らないかでだいたい決まるのだけれども、それまでまったく同じなのです。だから、
どちらでも行けました。
―
学生時代に研究室に配属された時は、高分子の研究をされ
ていたとうかがいました。 片岡 そうです。大学は東大の
理Ⅰに行ったのですが、理科系
で行くのなら理Ⅰはいろいろな
ことができるから、そうしよう
かなというくらいの考えでし
た。ただ、大学に入ってから、
自分が機械系や電気系に才能が
ないことがわかりました。やは
り行くのなら化学系がいいので
はないかと思うようになった。
化学でいくとすると、理学部の
化学、生化学、薬学、あとは応
用化学。ここから選ぶわけです。
東大の場合、3年になる時に専
攻を決めるのですが、その時に
応用化学について説明してくれ
た先生の話がうまかったのかも
しれない。応用化学に行くと何
でもできるような……バイオも
できるし、もちろんエネルギー
もできるし、いろいろなことが
できると。その頃は石油ショッ
クだったので、環境問題など、
化学に対する風当たりが強かっ
た。だけど、僕は化学という学
問がなくなるはずは絶対にない
と思いました。それだったら、
可能性の高いところに行ったほ
うがいいだろうと。それで工学
部の合成化学を選択しました。 いま思うと、この選択は正解
だったと思います。なぜなら1
つには、行ってみたらすごく待
遇が良かった。応用化学は最近
では人気があるらしいけれど
も、僕が進学した時は最低でし
た。卒論の時なんか学生の奪い
合いになるし、学生実験をやる
時にも、手取り足取りずっと
やってもらえた。だから、学問
の分野を決める時は、「みんな
がやっているからやりたい」と
いうのはやめたほうがいいので
はないかと思います。
そういうことで応用化学に
行って、実際に授業を受けたり、
他の人からいろいろと話を聞い
たりしていくと、高分子が一番
これから伸びる分野だろうと思
うようになりました。実際に授 業も一番面白かった。中でも鶴田禎二先生の授業は非常にわかりやすかったので、鶴田先生の研究室に入りました。思いがけない恩師の 言葉に背中を押され
―
鶴田研究室での思い出深い出来事はありますか。
片岡 その頃、僕は医療という
よりバイオに非常に興味があっ
て、生体関連の化学をやりたい
と思っていたのです。鶴田研究
室には当時、井上祥平先生とい
う助教授がいらしたのですが、
井上先生はバイオに近いテーマ
をやっていた。僕もどちらかと
いうと、そちらに惹かれたので
すが、鶴田先生に「バイオもい
いけれどいつでもできるから、 高分子の基礎をもうちょっと
やったほうがいいだろう」と言
われました。その頃はだいぶ素
直な学生でしたから(笑)、鶴田
先生がそうおっしゃるのならと、
鶴田先生直属になったわけです。
そこで、大学院の修士の時は、
アニオン重合(P118参照)と
いう重合のメカニズムをやって
いました。まったくバイオと関
係ない、いわゆる伝統的なテー
マを研究していたのです。
中 学 で 漠 然 と 大 学 で 研 究 を や り た い と
い う 意 識 は あ っ た 気 は し ま す 。
京大合成鶴田研第1回生 1963 年11月
PRO FILE R EP O RT S
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それはそれで面白かったので
すが、そのうちドクターコース
(博士後期課程)へ行こうと思
うようになりました。だんだん
研究が面白くなってきたし、研
究で身を立てたいと思い始め
て、鶴田先生のところへ行っ
て「ドクターコースへ行きた
い」と話しました。すると鶴田
先生は、「それは大変よいこと
だ」と言ってくれて、ついては、
「今のテーマ、アニオン重合の
研究をずっとやってもいいのだ
けれども、それは分野的にかな
りできあがってきている。だか
らもっと将来的に重要になるよ
うな分野をやったらどうか」と
言われたのです。それは何かと
聞いたら「バイオマテリアル、
医用高分子だ」と。それまで鶴 田研究室ではやっていなかったテーマだったので「本当です
か?」という感じでした。
―
片岡先生にとって思いがけない一言だったんですね。
片岡 鶴田先生はその頃、高分
子の重鎮で、高分子学会の会長
であり、「アニオン重合の鶴田」
として有名だった。その先生の
口から思ってもいないような言
葉があったわけです。その頃
は、バイオマテリアルというの
は「医用高分子」といいました。
医学に用いる高分子。「医用高
分子がいいから、絶対にそれを
やりなさい」と鶴田先生に言わ
れたのは、これは晴天の霹靂で
したし、一番印象深い出来事で
す。それが元々、こういう分野 に入ったきっかけです。だから、
主体性があったというわけでは
ないのです(笑)。
未知の分野に取り組み 開拓者の苦楽を知る
―
その後、助手として勤められた東京女子医科大学も、鶴田
先生から紹介していただいたの
ですか。片岡 そうです。鶴田研究室の
5年先輩に、井上祥平先生のグ
ループだった赤池敏宏先生(現・
東京工業大学教授)がいました。
僕は鶴田先生に、「赤池君が女
子医大にいるから大丈夫。君は
そんなに心配しなくていい。今
までどおり高分子の合成をやっ
ていれば、動物実験は赤池君が
やってくれる」と言われたのだ けれども、ふたを開けたら全然話が違いました(笑)。
―
実際、行ってみたらどうでしたか?片岡 女子医大に行ったら赤池
さんが「これから動物実験だか
ら君も一緒にやろう」と言うか
ら、「冗談でしょう。僕は高分
子合成をやるので、赤池先生が
評価をやるのではないですか」
と言ったら「そういう態度はよ
くない。一緒に動物実験をやる
ぞ」と。行ってみたら、犬が麻
酔をかけられて寝ているし、そ
の首から血を採って抗血栓性を
調べると言うので「え?」とい
う感じでした。
―
女子医大時代、同僚だった赤池先生や岡野光夫先生
(現・東京女子医科大学先
端生命医科学研究所所長・
TWIns
センター長・教授)とは、3人でよく議論され
たりしていたのですか。
片岡 そうですね。それ以
前、東大のドクターコース
でバイオマテリアルをやり
始めたのですが、あの頃は
ほとんど訳がわからない世
界だった。今では当たり前
な、分子生物学という分野、
ゲノムの解析とかE ※LIS
Aといった技術、共焦点レー
ザー顕微鏡といったような
装置、そういったものはな
かったのです。細胞の実験
というと、細胞や血小板を
材料表面にくっつけて、血 栓ができたかどうかとか。
それから、それを固定して
走査型電子顕微鏡で見て、
偽 ※足が出ているとか出てい
ないとか、そういう議論で
始まったのです。だから非
常に現象論だったわけです。
だけど、やってみると結
構面白い。何もわかってい
ないから、やりがいがあり
ました。鶴田先生の知らな
いことをやっているという
ことも結構気持ち良かった
です。アニオン重合ではか
なわない(笑)。だけどこ
の分野だったら僕のほうが
上なのではないかと。それ でだんだんはまっていきまし
た。
僕がドクターコースを卒業し
た頃は、今みたいにポスドク(博
士研究員)制度がないわけです。
だから、たまたま運が良ければ
どこかの大学の助手の口がある
か、さもなければ外国に行って
ポスドクをやって、どこかの大
学の助手のポジションが空けば
いいなという、そんな感じだっ
た。僕が卒業する時に、ちょう
ど女子医大で、鶴田研究室の先
輩である赤池先生が櫻井靖久先
生に話をしてくれたのです。櫻
井先生もすごいのは、心臓外科
医なのだけれども、バイオマテ リアルの重要性をかなり認識されていた。そして助手のポジ
ションがあるから採ってもいい
と言ってくださり、それで僕は
女子医大に行きました。でも、
行ってみたら、いまと違って何
もないのです。本当に輪転機の
後ろとかで実験をやっていまし
た。それはそれは大変でしたね。
多くの刺激を受けた 梁山泊での若手時代
―
プロの研究者になられてから、若手時代の悩みなどはあり
ましたか?
片岡 研究するうえで「ものが
何もない」という悩みはありま
したが、一方においては、そう
いう新しい分野をやっていると
いう手応えはありましたね。「あ