学 位 論 文
( 令 和 三 年 三 月
)
井 上 靖 の 歴 史 小 説
――
『 敦 煌 』 に お け る 歴 史 的 要 素 に 関 す る 研 究 を 通 じ て ――
岡 山
大
学
大 学
院
社 会
文
化
科 学
研
究 科
周
霞
井 上 靖 の 歴 史 小 説
――
『 敦 煌 』 に お け る 歴 史 的 要 素 に 関 す る 研 究 を 通 じ て ――
【 目 次
】 序
章 敦 煌 の 地 と 小 説
『 敦 煌
』
・・・
・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・ 4 第一 節 敦煌 の地 と敦 煌学
・・
・・
・・
・
・・
・・
・
・・
・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・・
・・ 5 第二 節 井上 靖の
『 敦煌
』創 作・
・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・
・・
・ 20 第三
節 小説
『 敦煌
』と その 研究
・・
・・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・ 35
第 一 章
開 封 ・ 科 挙
・・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・
・・
・・
・
・・
・・
・
・・
・・
・・
・・
・ 47 第一 節 宋代 の科 挙・
・・
・・
・
・・
・
・・
・・
・・
・・
・・
・
・・
・
・・
・・
・・
・・
・・ 48 第二
節 開封 の都 市風 景・
・
・・
・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・
・・
・
・・
・ 60
第 二 章
涼 州 ・ 馬
・ ・
・
・ ・
・
・ ・
・ ・
・ ・
・
・ ・
・ ・
・ ・
・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
74 第一 節 河西 地方 と涼 州の 概要
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・ 75 第二
節 涼州 の馬
・・
・・
・・
・・
・・
・
・・
・
・・
・・
・・
・
・・
・
・・
・
・・
・・
・・
・ 81
第 三 章
興 慶 ・ 西 夏 と 西 夏 文 字 ・
・
・ ・
・ ・
・ ・
・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・
・ ・
・ ・
90 第一 節 李元 昊の 西夏 王国
・・
・・
・・
・
・・
・・
・
・・
・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・・
・
・ 91 第二
節 西夏 文字
・・
・・
・・
・・
・・
・
・・
・
・・
・・
・・
・
・・
・
・・
・・
・・
・
・・
・ 105
第 四 章
于 闐 ・ 尉 遅 光 ・
・ ・
・ ・
・ ・
・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・
・ ・
・ ・
・
・ ・
・
・
116 第一 節 于闐 の尉 遅一 族・
・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・
・・
・
・・
・ 117 第二
節 尉遅 隊商 の旗 印・
・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・
・・
・
・・
・ 121
第 五 章
瓜 沙 二 州 ・ 節 度 使 と 仏 教
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・
・ ・
・ ・
127 第一 節 沙州 帰義 軍節 度使
・・
・・
・・
・
・・
・・
・
・・
・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・・
・
・ 128 第二
節 敦煌 の仏 教・
・・
・・
・
・・
・
・・
・・
・・
・・
・・
・
・・
・
・・
・・
・・
・
・・
・ 139
終 章 井 上 靖 の 歴 史 小 説 ・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・
・ ・
・ ・
156 第一 節 散文 詩に 源を 発す る「 漆胡 樽」
・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・・ 157 第二
節
『 蒼き 狼』 論争
・
・・
・
・・
・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・・
・
・・
・ 162 第三
節 井上 靖の 歴史 小説 の作 法・
・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・・
・
・ 175
【 注
】・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・・
・
・
・
・
・
・
・
・
・・
・
・
・
・
・
・
・
・・
・
・
・
・
・
・
・ 184
【参 考文 献】
・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・・
・・
・・
・・
・
・・
・・
・・
・・ 216
凡例
・ 小 説
『 敦 煌』 の 本 文は
『 井 上 靖全 集 第 12 巻』
( 新 潮社
、 一 九九 六 年 四月
) に よ った
。
・ 引 用 に あ たり
、難 読 と思 わ れ る箇 所 以 外の ル ビ は省 略 し た。 ま た
、旧 字体 は 新 字 体に 改 め た。 た だ し、 地 名
、 人 名 な ど の 固 有 名 詞 は 原文 の ま ま と し た
。 傍 線 及 び
〔
――
周 注〕 で 示 し た 注 記 は筆 者 に よ る も の で あ る
。 な お
、 引用 の 中 に
、 現 代 の 判 断 基 準 で は 不 適 切 な表 現 が あ る が
、 原 文 の歴 史 性 を考 慮 し
、 元の ま ま とし た
。
・ 暦 年 の表 記 は ま ず 年 号 を 示 し
、 そ の 後 に西 暦 を
(
) で 補 っ た
。 た だ し
、 注 に おけ る 文 献 の 出 版 年 は 西暦 の み で表 記 し た
。
・ 歴 史 上 の 固有 名 詞 や本 稿 中 の 章名
・ 節 名・ 項 目 名を 挙 げ る場 合 は
、〈
〉 で示 し た
。
・ 井 上 靖作 品 の 初 出 情 報 は
、『 井 上 靖 全 集
』( 一九 九 五年 四 月
~ 二
〇
〇
〇 年 四 月
) に よ っ た
。短 編 小 説 は
「
」、 長編 小 説 は『
』 で示 し た
。
序 章 敦 煌 の 地 と 小 説
『 敦 煌
』
井 上 靖( 一 九
〇 七
~ 一 九 九 一 年
)
の歴 史 小 説『 敦 煌』(
『 群 像
』第 14 巻 第 1 号
~ 第 5 号
、一 九 五 九 年 一 月
~ 五 月
)
は 一 一 世 紀 初頭 の 中 国、 北 宋 の 時 代を 背 景 に描 か れ たも の で ある
。主 人 公「 趙行 徳
」が
「進 士 試験
」 を 受 験 す るた め
、 郷里 で あ る 湖南 の 田 舎か ら 都 開封 に 上 る。 彼 は 礼部 の 試 験を 優 秀 な成 績 で 通過 し た が
、 吏部 に お ける
「 身
、 言、 書
、 判」 の 試 験の 待 ち 時間 に 居 眠り を し
、目 が 覚 める と 試 験は 終 わ っ て いた た め
、落 第 す る こと に な る。 落 胆 した 趙 行 徳は ひ た すら 歩 き 続け
、 開 封城 外 の 市場 に 入 り
、そ こ で 全裸 の 西 夏の 女 が 売り に 出 され て い ると こ ろ を救 い 出 す。 西 夏の 女 は お 礼と し て、 趙 行 徳 に 一枚 の 小 さな 布 切 れ を差 し 出 した が
、 そこ に は 意味 の わ から な い 異様 な 形 の文 字 が 記さ れ て い る
。 そ の 文 字 に 惹か れ
、 趙 行徳 は 西 夏 行 きの 旅 に 発 つ。 途 中 で
「 朱 王礼
」 の 率 いる 西 夏 軍 の 漢人 部 隊 に 編 入 さ れ
、射 手 と し て幾 多 の 戦 闘 を経 験 す る
。 そし て
、 戦 火 の中 の 甘 州 城内 で
、 彼 は ウイ グ ル の 王 女 を 救 い、 や が て 彼女 と 愛 し 合 うよ う に な る。 し か し
、 そ れか ら ま も なく
、 西 夏 文 字を 学 ぶ た め に 興 慶 に派 遣 さ れ る。 趙 行 徳 は 一年 以 内 に 帰 って 来 る と い う約 束 を し てか ら
、 ウ イ グ ルの 王 女 と 別 れ を 告げ る
。 そ の後 朱 王 礼 も 王女 に 恋 慕 する よ う に な る が、 結 局
、 王女 は 西 夏 王
「李 元 昊
」 に 奪 わ れ
、彼 の 側 室 にな る
。 二 年 後、 生 き て 帰 って き た 趙 行 徳に 再 会 し た後
、 王 女 は 苦し ん で
、 心 の 潔白 を 証 明す る た め に城 壁 か ら投 身 自 殺す る
。 朱 王 礼 は
、 王女 へ の 思 いか ら
、 彼 女 の死 を 惜 し み、 帰 義 軍 節 度 使配 下 の 瓜 州で 李 元 昊 に 背く こ と に な り
、 趙 行徳 も そ の部 下 と し て 軍に 加 わ る
。最 後 に
、 彼 らは 沙 州
( 敦 煌
)
ま で撤 退 し
、 東か ら は 西 夏 の 軍 に 追い つ め ら れ、 西 か ら は 回教 徒 の 軍 に 迫ら れ
、 沙 州 の僅 か な 兵 力と と も に 壊 滅の 運 命 を た ど る
。 朱王 礼 も 沙 州帰 義 軍 節 度 使「 曹 賢 順
」 も戦 死 し
、 賢 順の 弟
「 延 恵」 は 城 内 に 留ま っ て 自 ら を 火 中 に投 じ る
。 趙行 徳 は 沙 州 が焼 け 落 ち る 寸前
、 寺 に 所 蔵さ れ て い る膨 大 な 経 典 を守 る た め
、 于 闐 王 族の 後 裔 と 称す る 商 人
「 尉遅 光
」 の 欲心 に 乗 じ て そ れら を 城 外 の千 仏 洞 へ 運 んで 塗 り こ め る
。 そ れ か ら 九
〇〇 年 近 い 歳月 が 経 ち
、 二〇 世 紀 初 頭 にな っ て
、 そ れら の 経 典 が発 掘 さ れ
、 文化 遺 産 と し て 世界 の 注 目を 集 め る
。 以 上 が 小 説『 敦 煌
』の 内 容 であ る
。 本章 で は まず
、 敦 煌の 地 の 歴史
、 敦 煌学 の 興 起 と発 展 に 関 す る 情 報 を確 認 す る。 そ して
、井 上 の 著 述に 基 づ き
、『 敦 煌
』創 作 時の 参 考 文献 リ ス ト を整 理 する
。 そ の 後
、『 敦 煌
』 の先 行 研 究を 紹 介 した う え で、 本 研 究 の意 義 を 述べ る
。
第一 節 敦煌 の地 と敦 煌学 一、
〈敦 煌〉 の歴 史沿 革 敦 煌 の 地 は 中国 甘 粛 省 の西 北 部
、 新 疆ウ イ グ ル 自治 区 に 接 す る あた り に 位 置す る
。 砂 漠 の中 に あ る が
、 南 側 には 祁 連 山 脈の 支 脈 が 伸 びて き て
、 そこ か ら 流 れ こ む党 河 の 水 によ り 形 成 さ れ たオ ア シ ス 都 市 で あ る。 前 漢 武 帝
( 在 位 前 一 四 一
~ 前 八 七 年
)
の 時 代に
、衛 青
、 霍 去 病を 将 軍 と す る漢 の 部 隊 は 匈 奴 との 戦 い に勝 ち
、河 西 地方
( 黄 河 以 西 の 地 域
)
を 回 復し た
。そ の後
、元 鼎 二
( 前 一 一 五
)
年 に は 武 威
( 涼 州
、)
酒 泉
( 粛 州
)
の 二 郡
、元 鼎 六
( 前 一 一 一
)
年 に は 張 掖( 甘 州
、)
敦煌
( 沙 州
)
の 二 郡 が 設置 さ れ
、こ れ で〈 河西 四 郡
〉が 成 立 し た。
〈 敦 煌
〉と い う 地 名が 史 書 に現 わ れ るの は
、こ の 時 が 最初 で あ る
。 以 降
、 漢( 前 漢 は 前 二
〇 六
~ 八 年
、 後 漢 は 二 五
~ 二 二
〇 年
、)
魏( 二 二
〇
~ 二 六 五 年
、)
晋
( 西 晋 は 二 六 六
~ 三 一 六 年
、東 晋 は 三 一 七
~ 四 二
〇 年
各)
時 代 に開 拓 が 進む に つ れて
、敦 煌 に は内 陸 か ら官 僚 や 移 民が 送 り 込ま れ
、 漢 民 族 が 人口 の 主 体 を占 め る よ う にな っ た
。 一方
、 周 辺 の 諸 民族 に 囲 ま れる 中
、 民 族 構 成が 複 雑 に 変 化し
、 長 い間 敦 煌 は
、漢 民 族 と異 民 族 によ り 交 代で 支 配 され て い た。(
1)
以 下
、 支 配に 関 わ る歴 史 上 の重 要 事 項を
【 表
①】(
2)
にま と め る。
【 表①
】敦 煌 の支 配に 関わ る 歴史 上の 重要 事 項 一八
世紀
(清
) 一三 世紀
(元
) 一一 世紀
(宋
)
一〇
~一 一世 紀( 五代
・宋
)
九世 紀中 葉( 唐)
八世 紀後 半( 唐)
年 代
(王 朝)
清朝 の管 轄す ると ころ とな る。
モン ゴル 族が 支配 する
。 タン グー ト族 の西 夏が 支配 する
。
帰義 軍節 度使 曹氏 一族 が支 配し
、甘 州 ウイ グル や于 闐( ホー タン
)と 婚姻 関係 を結 ぶ中 で漢 族支 配を 保つ
。
敦煌 の漢 人豪 族張 氏が 吐蕃 を駆 逐し
、唐 に復 帰す る。
チベ ット 系の 吐蕃 が支 配す る。
事 項
敦 煌 は シ ル ク ロ ー ド( 絹 の 道
)
上 の 要 衝 と し て、 政 治
、 軍 事
、 経 済や 東 西 文 化 の 交 流 な どに お い て 重 要 な 役 割 を果 た し て いた
。 漢 代 か ら、 敦 煌 の 盛衰 は こ の 地 の 安定 と 密 接 に関 連 し て い る
。ま た
、こ こは 東 西 の貿 易 と 文化 交 流 の中 心 地 にあ た り
、中 国 と西 方 諸 国と を 緊 密に 結 び 付 けて い る。 中 国 か ら は特 産 の 絹が
、西 方 か ら は玉 や 宝 石な ど が
、敦 煌 を中 継 駅 とし て 運 ば れて い た
。さ ら に、 中 国 文 化 が 西 方に 伝 わ っ てい く 起 点 で ある と と も に、 西 方 文 化 が 東に 伝 わ っ てく る 最 初 の 受容 地 で も あ っ た。(
3)
な お
、西 方 か ら伝 わ っ てき た 代 表 的な 文 化 とし て
、〈 仏 教
〉が 大 き な位 置 を占 め て い た。 前漢 と 後 漢 の 交 代 期 頃に は
、 既 に仏 教 は 中 央 アジ ア の 大 月氏 の と こ ろ か ら、 河 西 地 方を 通 し て 中 国 本土 に 入 り
、後 漢の 都 洛 陽と 東 南 海 一帯 に 流 伝し は じ めて い た(
4)
と い う。 一方
、敦 煌 の 仏教 と 言 えば
、
〈 莫 高 窟〉 を 外 す こと は で きな い の であ る
。莫 高 窟 は
、〈 千 仏 洞〉 と も 呼 ばれ
、敦 煌の 南 東 郊外 に 広 が る 鳴 沙山 の 断 崖に 営 ま れ た石 窟 寺 院で あ る
。莫 高窟 の 開 鑿 は前
秦( 三 五 一
~三 九 四 年)
の 建 元二
( 三 六 六
年)
、楽 僔 と いう 沙 門 が修 行 の 場と し て 鳴沙 山 の 断崖 に 窟 を掘 っ た のが 始 め と され る
。そ の 後、 窟 が 増 え 続 け
、壁 画 や 塑 像も 施 さ れ る よう に な っ た。 ま た
、 自 分 自身 の 功 徳 を後 世 に 伝 え よ うと し
、有 力 者や 為 政 者も 石 窟 造 営に 参 画 して い た
。こ う し て、 四 世 紀か ら 一 四世 紀 の 元 代( 一 二 七 一
~ 一 三 六 八 年
)
に至 る ま で、 千 年 に 渡っ て 掘 り続 け ら れ、 約 四 九〇 窟 が 現存 す る
。(
5)
莫 高 窟 は 一九 八 七 年に 世 界 遺産 に 登 録さ れ
、龍 門 石窟
( 河 南 省 洛 陽 市
、二
〇
〇
〇 年 に 世 界 遺 産 に 登 録 さ れ た
、)
雲 岡 石 窟
( 山 西 省 大 同 市
、 二
〇
〇 一 年 に 世 界 遺 産 に 登 録 さ れ た
、)
麦 積山 石 窟
( 甘 粛 省 天 水 市
、 二
〇 一 四 年 に 世 界 遺 産 に 登 録 さ れ た
)
とと も に
「中 国 四 大 石窟
」 に 数え ら れ る。 二、
敦 煌 学の 興起 敦 煌 莫 高 窟 に残 さ れ た 遺産 と し て は
、壁 画
、 塑 像、 文 書 類 な ど があ る
。 こ のう ち 文 書 は
、西 夏 が 敦 煌 を 支 配 した 一 一 世 紀に
、 第 一 七 窟の 蔵 経 洞 に 封じ 込 め ら れ てい た と 見 なさ れ る も の で
、大 部 分 が 経 典 で ある
。 こ れ らの 文 書 は 二
〇世 紀 初 頭 の 清朝 末 期
、 こ こに 住 み つ いた 一 人 の 道 士
・王 圓 籙 が 偶 然 に 発見 し た も ので あ る
。 当 時、 王 道 士 は 敦煌 の 役 所 に 届け 出 た が
、誰 も 関 心 を 示さ ず 反 古 同 然 の扱 い で あっ た
。そ の 後
、一 九
〇七 年 の イギ リ ス の スタ イ ン 探検 隊 を はじ め
、フ ラ ン ス、 日 本
、 ロ シ ア
、ア メ リ カ など
、 列 強 各 国の 探 検 隊 が 敦煌 を 相 次 い で訪 れ
、 王 圓籙 と 交 渉 し
、お び た だ し い 文書 や 美 術品 を 持 ち 帰っ た
。以 下
、敦 煌 文物 の 発 見 及び 流 出 に関 す る 重 要事 項 を【 表
②】 に ま と め る。
【 表②
】敦 煌 文物 の発 見及 び 流出 に関 する 年 表 そ
れ ら の 文 物 類 は そ れ ぞれ 中国 の 京 師 図 書 館
( 現 国 家 図 書 館
、)
イ ギ リ ス の 大 英 博 物 館
、フ ラ ン ス の ギ メ 東 洋 美 術館
、 日 本 の東 京 国 立 博 物館
、 ロ シ ア のエ ル ミ タ ー ジュ 美 術 館 やア メ リ カ の フォ ッ グ 美 術 館 など に 所 蔵さ れ て い る。(
6)
な お
、敦 煌 蔵 経洞 の 発 見と 敦 煌 文 物の 流 出 に伴 い
、〈 敦 煌 学〉 が 誕 生し
、学 界 の 関 心を 集 めて い る
。 広 い 意 味 では
、 壁 画 や塑 像 な ど を 扱う 美 術 史 的研 究 や 石 窟 の 考古 的 研 究 など も
〈 敦 煌 学
〉に 含 ま れ る が
、 中心 に な っ てい る の は 各 種古 文 書 に 関 する 研 究 で あ る。 蔵 経 洞 から 発 見 さ れ た古 文 書 の 内 容 と し ては
、 仏 教 をは じ め
、 歴 史、 地 理
、 法制
、 経 済
、 文 学、 言 語 な ど多 方 面 に 及 んで い る
。 そ し て
、 漢語 だ け で なく
、 チ ベ ッ ト語
、 コ ー タン 語
、 ウ イ グ ル語
、 西 夏 語、 モ ン ゴ ル 語な ど
一九 二四 年
(民 国一 三年
)
一九 二〇 年頃
(民 国九 年)
一九 一四 年頃
(民 国三 年)
一九 一一 年
(清
・宣 統三 年)
一九 一〇 年
(清
・宣 統二 年)
一九
〇九 年
(清
・宣 統元 年)
一九
〇八 年
(清
・光 緒三 四年
)
一九
〇七 年
(清
・光 緒三 三年
)
一九
〇〇 年
(清
・光 緒二 六年
)
年 代
アメ リカ のラ ング ドン
・ウ ォー ナー が来 訪し
、二 六面 の壁 画を 剥が して 持ち 去る
。
ロシ ア革 命か ら逃 れて きた 約九
〇〇 人の ロシ ア人 が莫 高窟 に住 みつ く。 彼ら の生 活で 約三 八の 窟が 煤け たり 傷ん だり する
。
ロシ アの オル デン ブル グが 来訪 し、 二六 三窟 の壁 画を 剥が して 持ち 去る
。
日本 の大 谷探 検隊 の吉 川小 一郎 が来 訪し
、数 百点 の古 文書 を王 道士 から 入手 して 持ち 去る
。
敦煌 残存 の文 物を 保全 する ため
、清 朝政 府が 官令 を出 し、 残る 数千 点の 古文 書を 敦煌 から 北京 の京 師図 書館 に移 す。 一方
、王 道士 はま だ大 量の 古文 書を 隠し 持っ てい る。
ペリ オが 北京 を訪 れ、 自ら が得 た敦 煌文 書の 一部 を中 国人 学者 たち に披 露す る。 清朝 側が それ を見 てシ ョッ クを 受け る。
フラ ンス のポ ール
・ペ リオ が来 訪し
、さ らに 数千 点の 古文 書を 持ち 去る
。ま た、 ペリ オ探 検隊 には 軍医 で測 量技 師の ヴァ イヤ ン、 写真 技師 のヌ エッ トと いう メン バー がお り、 莫高 窟の 測量 調査 や写 真撮 影も 行う
。
イギ リス のオ ーレ ル・ スタ イン が来 訪し
、数 千点 の古 文書 を蔵 経洞 から 持ち 去る
。
敦煌 石窟 に住 みつ いた 道士
・王 圓籙 が偶 然に 蔵経 洞を 発見 する
。彼 は敦 煌の 役所 に届 け出 てい るが
、反 古同 然の 扱い であ る。
事 項
西 域 の 諸 言語 に よ って 書 か れ たも の も ある
。(
7)
敦 煌 文 書 の年 代 に 関し て
、東 洋 史 学 者の 池 田 温( 一 九 三 一 年
~
)
に よ れば
、「 全体 の 三
、四
% の 紀年 文 献 に よ って み る と、 五 世 紀 初の 十 六 国時 代 か ら北 宋 初 の十 一 世 紀初 に わ たっ て お り、 無 紀 年の も の も
、 おお む ね 四世 紀 後 半
~十 一 世 紀前 半 に 属す と 認 めら れ る
」(
8)
と いう
。 さ らに
、 池 田 温は 敦 煌 学 の 歴史 を 概 観し
、 次 の 四つ の 時 期に 区 分 して い る
。 第
一 期 二 十 世紀 初
~ 一九 一
〇 年代
、 探 険、 発 見 から 初 期 の紹 介 整 理の 時 期
。〔 草 創 期
〕 第 二 期 一 九 二〇 年 代
~四
〇 年 代初
、 各 国で 将 来 文献
・ 文 物を 対 象 にバ ラ バ ラ に研 究 の 進 め ら れた 時 期
。〔 生 長 期〕 第 三 期 一 九 四〇 年 代 中期
~ 七
〇年 代
、 敦煌 芸 術 研究 所 が 現地 に 設 立さ れ
( 一 九四 四
) 石 窟 研 究の 中 核 がで き
、 五〇 年 代 に はス タ イ ン将 来 文 献の マ イ クロ が 完 成し
、 総 括的 研 究 が緒 に つ いた 時 期
。〔 確 立 期〕 第 四 期 一 九 八〇 年 代
、中 国 敦 煌吐 魯 番 学会 が 成 立し
、 研 究の 推 進 母体 と な り
、急 速 な 進 展 を 見つ つ あ る時 期
。〔 発 展 期
〕(
9)
そ し て
、 日本 の
〈 敦煌 学
〉 に絞 っ て 言う と
、 それ は 日 中両 国 の 学者 の 提 携に よ り 築 かれ た も の で あ る
。 先の
【 表
②】 に 示 し たよ う に
、一 九
〇 九( 清
・ 宣 統 元 年
、 明 治 四 二
)
年
、 ペ リオ が 敦 煌か ら 持 ち 出 し た 一部 の 古 文書 を 北 京 の学 者 た ちに 披 露 した
。そ の 学 者に は
、中 国 人 の蒋 伯 斧
( 一 八 六 六
~ 一 九 一 一 年
、)
董 康
( 一 八 六 七
~ 一九 四 七 年
、)
羅 振 玉( 一 八 六 六
~ 一 九 四
〇 年
)
以 外 に、 当 時北 京 に 住 ん で い た 日 本 人 の 田 中慶 太 郎
( 一 八 八
〇
~ 一 九 五 一 年
)
もい た
。 彼ら は ペ リ オの 披 露 に甚 だ し くシ ョ ッ クを 受 け
、 そ の 後 羅 振玉 ら に よっ て
、 中 国の
〈 敦 煌学
〉 が 発足 し た
。一 方
、 田中 は 救 堂生 と い うペ ン ネ ーム で
、北 京 在住 の 日 本人 居 留 民が 発 行 して い た『 燕 塵
』誌
( 清 国 に お け る 唯 一 の 日 本 語 雑 誌 で
、 一 九
〇 八 年 一 月 創 刊
、 一 九 一 二 年 三 月 廃 刊
)
の第 2 巻 第 12 号 に
「 敦煌 石 室 中の 典 籍
」 と い う 題 で敦 煌 文 書 を 紹 介 し た
。 そ し て
、 羅振 玉 と 田中 は
、 京 都帝 国 大 学の 旧 知 の内 藤 虎 次郎
( 一 八 六 六
~ 一 九 三 四 年
、 号 は 湖 南
)
と 狩 野 直 喜
( 一 八 六 八
~ 一 九 四 七 年
、 号 に 君 山
、 半 農 人 が あ る
)
に も 報告 し
、そ の後 ま も なく 日 本 では 京 都 を中 心 に
〈 敦 煌 学
〉が 開 け てき た
。 翌 一九 一
〇
(清
・ 宣統 二
、明 治 四 三)
年、 清 朝 政府 の 官 令に よ り 敦煌 残 存 の 古 文 書 が 北京 に 運 搬さ れ た
。 それ ら の 古文 書 を 調査 す る ため に
、 京都 帝 国 大学 の 内 藤虎 次 郎
、狩 野 直 喜
、 小川 琢 治
( 一 八 七
〇
~ 一 九 四 一 年
、)
富 岡 謙 蔵( 一 八 七 三
~ 一 九 一 八 年
、 号 は桃 華
、)
濱 田 耕作
( 一 八 八 一
~ 一 九 三 八 年
、 号 は 青 陵
)
の五 人 は 清国 に 派 遣さ れ
、 同年 八 月 下 旬か ら 一
〇月 中 旬 にわ た り 北京 に 滞 在 し て い た
。彼 らの 調 査 につ い て は、 翌 一 九 一一
( 明 治 四 四
)
年 二 月五 日 付 の『 大阪 朝 日 新聞
』の 日 曜
附 録 に
、「 京 都文 科 大 学清 国 派 遣教 授 報 告展 覧 会 号」 とい う 題 で二 頁 に わた り 報 道さ れ た
。中 国行 き の 目 的 と実 績(
10)
に 関 す る内 容 だ け でな く
、「 敦煌 石 室 発 見写 経
」、
「 北京 護 国 寺仏 像
」、
「 北 京天 寧 寺 十 三 重 塔」
、「 洛 陽附 近 発 掘 物」 や
「 河南 龍 門 の景
」 な どの 見 出 し付 き の 写真 も 載 せら れ た
。さ ら に
、 二 月一 一 日 から 翌 一 二 日に
、 京 都大 学 に おい て 報 告の 展 覧 会が 開 か れ、 学 会 をは じ め
、社 会 的 に も 興味 関 心 が寄 せ ら れ
、い わ ゆ る「 敦 煌 ブー ム
」 が引 き 起 こさ れ る
。 ま た
、大 谷探 検 隊 は一 九
〇 二
~一 九 一 四年 の 間 に三 回
( 第 一 回 は 一 九
〇 二
~ 一 九
〇 四 年
、 第 二 回 は 一 九
〇 八
~ 一 九
〇 九 年
、 第 三 回 は 一 九 一
〇
~ 一 九 一 四 年
)
に わ た り、 中 央 ア ジ ア 各 地で 探 検 を 行 な っ て い た。 第 三 回 の 一 九 一 一( 清
・ 宣 統 三
、 明 治 四 四
)
年
、隊 員 の 吉川 小 一 郎( 一 八 八 五
~ 一 九 七 八 年
、大 谷 光 瑞 の 弟 子
)
は 敦 煌に 着 き
、 道 士 王 圓籙 と 交 渉 した 結 果
、 数 百点 の 古 文 書 を入 手 し て 日 本に 持 ち 帰 った
。 同 年
、 中 国で は 清 朝 を 倒 す 辛亥 革 命(
11)
が 勃 発 し
、羅 振 玉 は 北 京に 在 住 し てい た 親 友 の藤 田 豊 八
( 一 八 六 九
~ 一 九 二 九 年
)
と京 都 の 内藤 虎 次 郎、 狩野 直 喜
、桑 原隲 蔵
( 一 八 七 一
~ 一 九 三 一 年
)
ら の斡 旋 に よ って
、大 谷 光 瑞
( 一 八 七 六
~ 一 九 四 八 年
、 浄 土 真 宗 本 願 寺 派 第 二 二 世 法 主
、 大 谷 探 検 隊 を 派 遣 し て い た 人 物
)
の 資 金 援助 を 受 け
、 王国 維
( 一 八 七 七
~ 一 九 二 七 年
)
や家 族 を 伴っ て 日 本へ 東 渡 した
。そ の 後
、八 年 間
(一 九 一 一
~ 一 九 一 九 年
、 い わ ゆ る「 東 渡 八年
」)
京 都 に 居留 す る こと に な った
。大 谷探 検 隊 の収 集 し た文 物 が 日本 に 将 来 され た こと
、 そ し て 羅 振 玉 と王 国 維 の 滞日 は
、 京 都 にお け る 中 国学
、 こ と に 金 石学
、 甲 骨 学や 敦 煌 学 に 刺激 を 与 え た
。 た だ し
、 北 京搬 送 分 と 大谷 探 検 隊 の 将来 品 に は 仏教 典 籍 が 多 く を占 め て い る。 そ れ 以 外 の研 究 を 行 な う た め に、 日 本 の 学者 た ち は イ ギリ ス や フ ラン ス な ど の 収 蔵品 を 実 地 に調 査 し
、 写 本や 文 書 を筆 録 あ る い は 撮 影し て 学 界 に 紹 介 す る こと に つ と め た
。 一 九一 二
( 大 正 元
)
年
、 狩 野直 喜 が ヨ ー ロ ッ パ 出 張 に派 遣 さ れ
、ロ ン ド ン や パリ の 敦 煌 文書 を 調 査 し
、 貴重 な 資 料 を筆 写 し て 日 本に 持 っ て き た
。 その 後
、 矢吹 慶 輝
( 一 八 七 九
~ 一 九 三 九 年
)
が 二度 ロ ン ドン に わ た り、 ス タ イン の 将 来し た 古 写 経 を 写真 に 撮 って 日 本 に 持ち 帰 っ た。 そ し て、 一 九 一 九( 大 正八
)
年か ら 一 九二 一
( 大 正 一
〇
)
年 に かけ て 羽 田 亨
( 一 八 八 二
~ 一 九 五 五 年
)
が フ ラ ン ス に 留 学し
、 そ の 後 一 九 二 六
( 大 正 一 五
)
年 に ペリ オ と 共 編 で
『 敦 煌 遺 書』 第 一 集 を 出 版 した
。 羽 田 の 次 に
、一 九 二 四
~ 一 九 二五
( 大 正 一 三
~ 一 四
)
年
、 内 藤 虎 次 郎 と石 濱 純 太郎
( 一 八 八 八
~ 一 九 六 八 年
)
も ヨ ー ロッ パ に わた り
、 多 くの 材 料 と 多数 の 写真 を 日 本 に 持 っ て きた
。 昭 和 に 入る と
、 小 島 祐馬
( 一 八 八 一
~ 一 九 六 六 年
)
が 一 九 二 六( 昭 和 元
)
年 から 一 九 二 八( 昭 和 三
)
年 ま で に パリ に 留 学 し
、 ペ リ オ 将来 の 敦 煌 文 書 を 調査 し
、 そ の 結 果 を
『 支那 学
』 誌 上 に
、「 巴 黎国 立 図 書館 蔵 敦 煌遺 書 所 見録
」と いう 題 で 九回 に わ たり 連 載 した
。ま た
、那 波 利貞
( 一 八 九
〇
~ 一 九 七
〇 年
)
が一 九 三 一( 昭 和六
)
年 よ り
、二 年 間 フ ラン ス に 滞在 し
、多 く の 社 会 経済 史 学 関連 の 文 書 を 筆 写 した
。 そ の後
、 神 田 喜 一郎
( 一 八 九 七
~一 九 八 四 年
)
が 一 九三 五
( 昭 和 一
〇
)
年 か ら 翌
( 昭 和
一 一
)
年 に か け て、 一 年 余 り パ リ に と どま り
、 敦 煌 古 書 を 調 査 する と と も に
、 多 く の 写 真を 撮 り
、
『 敦 煌 秘 籍 留 真』 と
『 敦 煌秘 籍 留 真 新 編』 の 二 書 を 作成 し た
。 そ の他 に も た くさ ん の 学 者 がパ リ や ロ ン ド ン に 留学 し
、 敦 煌文 書 の 抄 写 や写 真 を 日 本 に持 ち 帰 っ た
。そ れ ら 日 本に 持 っ て き た情 報 は 実 物 を 見 て いな い 研 究 者に も 伝 え ら れ、 日 本 に おけ る
〈 敦 煌 学
〉は 京 都 を 中心 に さ ら に 展開 す る
。(
12)
そ の 中 で も
、京 都 帝 国 大学 は 先 頭 に 立ち
、 敦 煌 学 を含 む 東 洋 学 関係 の 教 官 を迎 え
、 様 々 な講 座 を 設 け る
。開 設 時 から 昭 和 前 期の 状 況 は、 次 の
【表
③
】(
13)
に 示 した と お りで あ る
。
【 表③
】京 都 大学 東洋 学関 係 の主 要教 官一 覧
(一 九 四五 年以 前) そ
し て
、 京都 帝 国 大学 関 係 の 雑誌
『 芸 文』(
京 都 帝国 大 学 文 学 部 の 京 都 文 学 会 が 編 集 刊 行 し て い た 学 術 雑 誌 で
、 一 九 一
〇 年 四 月 創 刊
、 一 九 三 一 年 三 月 廃 刊
)
と『 支 那 学
』(
京 都 帝 国 大 学 の
「 支 那 学 会
」 の 名 の 下 に 編 集 刊 行 し て い た 学 術 雑 誌 で
、 一 九 二
〇 年 九 月 創 刊
、 一九 四 七 年 八 月 廃 刊
)
も刊 行 さ れ、 そ の 中に は〈 敦 煌 学
〉や
〈 西 域 学
〉に 関 す る 論文 が 数 多 く 掲 載 され て い た
。 ま た
、 一 九二 九
( 昭 和 四
)
年 に
、東 洋 学 の 研 究 機 関 と して の 東 方 文 化 学 院 京都 研 究 所( の ち 東 方 文 化 研 究 所
、 戦 後 京 都 大 学 人 文 科 学 研 究 所 に 合 併
)
が 発 足し
、そ の 所員 の 多く は
梵語 学・ 梵文 学
支那 語学
・支 那 文学
考古 学
地理 学
東洋 史
仏教 学
美学 美術 史
東洋 美術 史
支那 哲学 史
印度 哲学 史
専 門 分 野
・榊 亮三 郎
・狩 野直 喜
・鈴 木虎 雄
・倉 石武 四郎
・ 青木 正児
・濱 田耕 作
・梅 原末 治
・小 川琢 治
・桑 原隲 蔵
・内 藤虎 次郎
・ 羽田 亨
・富 岡謙 蔵
・矢 野仁 一
・今 西龍
・那 波利 貞
・宮 崎市 定
・田 村実 造
・羽 渓了 諦
・澤 村専 太郎
・ 植田 壽蔵
・瀧 精一
・高 瀬武 次郎
・ 小島 佑馬
・松 本文 三郎
・ 本田 義英
担 当 教 官