第3章 両国民衆の「私的」な初等教育機関に関する比較
近世両国の諸民衆教育機関は、誰によって設営されたのか、またどのような目的で誰のため に設けられたのか、さらには学習者はどのような知識を身につけたのか、どの程度の教育費な どが負担されたのか。このような教育機関の設立主体、経営形態、教育対象、教育内容などい わゆる教育機関の性格は、民衆教育の普及に多大な影響を与えたはずである。したがって、近 世両国における諸民衆教育機関の性格の相違を明らかにするとともに、この相違が民衆教育普 及に及ぼした影響を検討しなければならないのである。本章では、以上の問題意識をもちなが ら、両国民衆の「私的」な初等教育機関、すなわち日本の寺子屋と中国の族塾や啓蒙私塾を取 り上げ、それぞれの開設の実態や性格を明らかにしたい。
第1節 中国における族塾の発達とその性格
本節では、中国において近代学校制度が導入される以前に、宗族集団(同族集団)がその子 弟の教育ために設けた初等教育機関である族塾を対象とし、族塾の設立と普及状況や設営形態 について考察する。さらに、族塾の教育対象と教育活動の特徴を明らかにし、族塾の開設と普 及の要因を探る。主な資料として、浙江省と江蘇省を中心とする地方志や族譜1を用いること にする。
1.族塾の母体である宗族集団について
族塾の性格を把握するために、まずその経営基盤である宗族集団の特徴を明確にしておきた い。宗族とは、父系の一族、すなわち同姓の親族の結合である2。中国社会では、父系の親族 を重んずる傾向が強く、同姓の一門が集って住む伝統は古く存在した。この点について、「休 寧銘洲呉氏家記」に記載された安徽省休寧県銘洲村の呉氏一族を例として説明する3。
この村に居住している呉氏一族の始祖は、唐末黄巣の乱(9世紀末)の折に、江西省から新
― 存忠 ― 1人 ( 殤 )
獄―詳―如璧―
宗昌 ( 止 )
― 宗蔭 ( 止 )
敏文
( 止 ) 班 宗貺 ( 止 )
―
寛
山―千老―泰厚―韶宗――
洪
斯文
裕
天瑞
高祐 ( 止 )
―天慶
復僊
普祐 ( 止 )
―
永逸
希甦 ―徳
安
―存美
― 2人 ( 止 )
―
永逐
希庸 ―徳
春
―存正
― 1人 ( 止 )
存誠 ― 1人 ― 1人
― 敬宗 ―徳昱 ―存制
― 3人 ― 2人
- 5 -
存謹
― 2人 ― 5人 ― 2人 ― 3人 ― 3人
13
- - 徳烜―存信 ― 1人 ― 3人 ― 2人 ― 2人
存滋 ― 2人 ― 4人 ― 7人 ― 1 4 人 ― 3人
― 存潤 ― 1人 ― 1人 ― 1人
― 存淳 ― 3人 ― 4人 ( 止 )
―徳
晧
存済 ― 1人 ― 4人 ― 2人 ― 2人
―
永昌
存恕 ― 1人 ― 6人 ― 7人 ― 8人 ― 5人
―徳
昶
存紹 ― 5人 ― 1 1 人 ― 2 0 人 ― 4 0 人 ― 3 5 人―2人
栄祖―
存森 ― 3人 ― 3人 ― 9人 ― 7人
永隆 図3の1
安 徽 省 休 寧 県 銘 洲 村 に お け る 呉 氏 の 世 系 図
4
― 存林 ― 2人 ― 2人 ― 5人 ― 4人
18 世 19 世 20 世
21 世
22 世
23 世
24 世
25 世 16 人 26 世 34 人
27 世 53 人 28 世 64 人
29 世 89 人 30 世 52 人 31 世 2人
―
希敬―
徳昻 ―存傑 ― 5人 ― 7人 ― 7人 ― 9人 ― 7人
安休寧県の龍江へ逃れてきた呉嫗であるという。その後、呉氏は龍江において多くの子孫 を数えたので、10 世から龍江周辺の村に移り始めた。銘洲村における呉氏一族は、1287 年(元代至元 24 年)に移住した 19 世の栄七(本名は不詳。1277 年生まれ、1298 年に没し た)の子孫であるといわれている。1287(至元 24)年の移住から 10 代目の 27 世孫呉子玉 が 1584 年(明代万暦 12 年)にまとめた「休寧銘洲呉氏家記」によれば、約 300 年間の呉 氏一族の世系関係とその歴史は、図3-1に示したようになる。この世系関係図をみると、
「休寧銘洲呉氏家記」を編集している時点(1584 年頃)で、少なくとも 27 世から 31 世ま での5世代にわたる数十の家族、100 人以上の呉氏一族が、共同祖先を意識しながら、同 じ銘洲村に生活していたことがわかる。
これらの呉氏の人々や家族は、①必ず1つの姓を有し、②それを父系により伝承し、③
「同姓不娶」(姓を同じくする父系親の間では婚姻が禁止される)の制によって父系親は相 互に結婚せず、という原則にしたがって、同姓父系親は宗族として強く結合し、同一の村 落に住み、1つの特有の地域社会集団(local community)を形成していた。
さらに、明代から清代に移るにつれて、銘洲村呉氏一族の結合は一層緊密となり、呉氏 の共通の祖先を祭る専用の場所としての祠堂を建てた。その内で族内の紛争を解決し、節 日には祭りを行い、一族の集会を催した。祠堂は銘洲村における呉氏一族結合の中心的な 役割を果たしていたといえる。
また、呉氏一族は全族の共有財産として「族田」を設け、この土地は全族の大多数の同 意がなければ売ることができなかった。土地からの収入は祖先祭祀の費用を賄うほかに、
族内貧困者を救済し、学校を建て、一族の防衛施設や道路橋梁を建設することにあてる。
以上の例にみるように、中国社会における宗族集団は、一般的にいえば、その形成過程 には次の4つの特徴が現れている。
第1は、一族が集り住むという特徴である。共通の祖先を有する各家庭が特定の村落に 居住し、そこで社会的・経済的・宗教的な活動を展開し、自然的に特有の地域社会集団を 形成していた。これは、宗族集団を形成する前提である。
第2は、一族の共有財産いわゆる「族産」と祠堂を設けたことである。族産は宗族結合 の存在を示す物的な基礎で、その用途によって名称が異なっている。祭田、墓田、太公田
(太公とは祖先の意味)などは祖先の祭りのための田であることを意味する。書田、学田、
灯火田などは一族の教育費のための田であることを指している。また、義荘、義田は族内 貧困者を救済するための田であることを意味する。
祠堂(宗祠ともいう)は田地以外の一種の族産であり、一族結合の物的な顕著な現れで ある。共通祖先を祭る場所だけではなく、一族のさまざまな問題を議論する場所でもあり、
また一種の族内紛争を解決するための裁判所でもある。そして明代・清代になると、それ は一族の子弟を教育する学校所在地になる場合も多くなった。祠堂が一族団結の中心とし て自覚をされていることを示している。
第3は、族譜を作ることである。族譜は一族の世系関係を中心として、それに伝記・墓 地・祠廟・義荘、族規家訓・祖先の詩文や著書などを付加することによって、その族の歴 史を物語る書籍である。族譜を作ることは、祖先への共族意識を媒介として一族の人々の 血縁的なアイデンティティを高め、一族の統一感を維持し強化する役割を果たしたのであ る。
第4は、宗族組織を作ることである。宗族の構成員が多く、共同事業が多い場合、族長 だけでなく、何人かの役員が選ばれ、族内の争いを調停し、悪事を処罰し、また異族との 交渉にも当たる。
中国の宗族の形成は紀元前 10 世紀の周代(1100-200BC)に遡ることができる。しかし、
歴史的文献においては、上述した宗族集団の備える4つの特徴が記述され始めたのは、北 宋(960-1126 年)以降である5。族産中の義田の創始者は、北宋の范文正(即ち范仲淹)
である。范氏義田の創立(北宋の慶暦・皇祐年間、即ち 1041―1054 年)後、これに倣う者 が各地に続出し、義田設置の風が時とともに各地に広がった。祭田の設置も北宋の煕寧・
元豊年間(1068-1085 年)にはすでに一般の習俗として行われていたようであるが、殊に 明代・清代に入ってその普及の度は一段と高まった6。また、祠堂を建て、族譜を作ること も北宋に始まり、明代・清代になるとかなり普及した7。各地における宗族集団の形成の例 は、宋代以降の地方志にもみられる。例えば明朝万暦年代の浙江省黄岩県では、「宗族がや や大きくなると、祭田を置き、宗祠を設け、世々代々の拠り所」8としたという。また、清 朝乾隆年代の江西省贛県では、「村には、一族が集って居住し、六つの村に住んでいる人々 がすべて同姓であり、数千戸に達し、(彼らは)必ず宗祠を建て、祭田を置く」9という。
また、清朝嘉慶年代の安徽省旌徳県でも、「都市と農村に一族が集まって住んでいる場合が 多い」10といわれている。つまり、有力な宗族集団は数か村ないし数 10 村にまたがって存 在しており、自然村落より大きな団体となる場合もあった。
このように、厳密な宗族集団の形成は、北宋から始まり、南宋と元代を経て、明代・清 代に至り、高度に発達したといえよう。
宗族集団の発展、特に一族結合の強化と義荘・義田などの族産の拡大につれて、族人の 子弟を教育する機関、すなわち族塾が生まれてきた。では、族塾はどのように発展し普及 してきたのだろうか。
2.族塾の発達と普及の状況
(1)各時代における族塾の開設の推移
族塾は一族の共有財産によって経営され、一族子弟を教育するために設けられた、いわ ば同族内義学のようなものである。その呼び方はさまざまである。某氏族館や某氏義塾、
あるいは書塾や義学が普通の呼び方であるが、設置場所によって某氏荘塾あるいは祠塾と も呼ばれている。
一族の義学すなわち族塾の歴史は古く、唐末五代(10 世紀末期)にも遡ることができる
11。北宋初期(960 年以降)に、主に一族の子弟の教育のため、時には就学の資力がない 異郷の人の入学を認めた族塾は、一部の資産家の出資によって建てられた。この中で、江 州徳安県陳氏族塾の東佳書堂、洪州奉新県胡氏族塾の華林書堂及び南康建昌県洪氏族塾の 雷塘書院は特に有名である。例えば陳氏一族は徳安県に集って居住し、人口が 700 人あま りに達していた大きな宗族である。その族立学校東佳書堂は、陳氏一族の子弟を教育する ほかに、「延四方学者、伏臘皆資焉、江南名士皆肄業其家」12といったように、周囲の子ど もを入学させ、書籍などを与え、生活費も補助し、英才を育てたのである。
しかし、文献に詳しく記載され、後世に大きな影響を与えた古い族塾の例は、北宋の名 相范仲淹(989-1052 年)が蘇州に創設した范氏義学である。『范氏家乗』13によれば、范 仲淹が 1050(北宋皇祐2)年に、兄范仲温と協議し、長年の宿願である范氏義田・義荘の 設立を実現した。それとともに、范仲淹が范氏一族の義学すなわち族塾を創建した。族塾 は范氏一族の共有財産である義田の収入によって運営される形をとっている。このことが、
以下の文献によって明らかになる。
范文正公嘗建義宅、置義田義荘、以収其宗族、又設義学以教、教養咸備14。
范文正すなわち范仲淹が義田や義荘を建てたと同時に、義学を設け、宗族の子弟を教育 するというのである。
南宋以降、一族が族塾を設ける風は各地に流行し、その中で范氏義学を倣って族塾を建 てる例が各地方志や族譜に多くみられる。例えば、饒州楽平では、高級官吏である王剛中
(1170 <乾道6>年卒去)は、生涯においてずっと范仲淹を敬慕し、「千畝の田を購入して 義荘を作り」、また族塾を設け、一族の子弟をみな入学させた」15。また、潭州衡山出身の 趙葵は、南宋の丞相まで抜擢された人物であるが、彼の父は「一族の子弟のため、范仲淹 を倣って義荘を作ろうとしたが、実現できなかった」。趙葵は父の遺志を継いで、義田五千 畝を設け、族塾を建て、「一族の子弟が六歳になると、小学に入学し、十二歳になると、大 学に入学する」16と定めた。
元代・明代を経て、清代に入ると族塾は一層発展した。例えば、浙江省慈溪県の葉氏族 塾は 1832(清代道光 12)年に葉維新三兄弟が捐銀で設けたものである。その動機は、「欲倣 宋范文正公遺法、置義田以瞻族属……又設義学、俾生而得所教」(宋代范文正公の方法を倣 い、義田を置いて族人の世話をする。また義学を設け、族人が教育を受けることができる)
というものであった17。また、湖南省湘潭県の『龍船港李氏五修族譜』に記載された「勧 捐義学引」は、冒頭に「世の中に一族が名門豪族と称するには、必ず有名な儒学者と才徳 兼備の男がいる」と述べ、しかし我が一族には「この数十年、勉強して科挙を受ける人も 僅かしかいない」。その根本的な原因は「族人が貧しくて教育を受けることができないから」
である。よって「昔の范文正公が義学を設けたように」、義学を建てなければならないと力 説した18。
各地で范氏義学にならって族塾を設置し、普及させてきたという事実は、少なくとも2 つのことを意味していると考えられる。1つは、范氏義学のありかたはその後の各地にお ける族塾に手本を示し、ほかの多くの宗族集団が族塾を設立することに大きな影響を与え たと考えられる。もう1つは、范氏義学はほかの族塾より早い時期に建てられ、族塾の嚆 矢であることである。
范氏義学が創設されて以来、各年代における族塾の開校数はどのように変遷してきたの だろうか。これを究明するために、長江以南の地域を中心とする清末民初の各地方志と各 時代の一部の族譜を調べ、その結果を「<付録>資料四:中国における各時代の族塾開設 一覧」にまとめた。しかし、これらの地方志は教育機関について官学を中心として記述し ているので、私立である族塾について触れていないものが大半である。また族譜において は、族塾に関する記述の詳細が一様ではないので、収集された族塾のデータは十分とはい えない。したがって、限られた情報により各時代における族塾の開設推移を正確に判断す
るのは難しいが、しかし表3-1からわかるように、族塾開設についての主な特徴として 以下の点を指摘できる。
第1に、1050(北宋皇祐2)年に范氏義学という 族塾が誕生してから、元代を経て明代に至る長い間
(約 600 年間)、その発展は極めて緩慢であり、族塾 の萌芽期ともいえる。また、地域別にみれば、浙江 省や江蘇省など族塾の発祥地あるいは近隣の地域に 集中して、まだ全国的な普及には至っていなかった ことがわかる。
第2に、清代に入ってから、族塾が次第に発達す るようになった。特に乾隆時代になると、その開設 が急に増え、清末の光緒年代に至った。この時期は、
族塾の一大発展期であるといえる。また、地域別の 族塾の開校数からみると、族塾発祥地の近隣地域だ けでなく、華中の湖南省や湖北、華南の広東省及び 華北の河南省まで広まっていたことがわかる。
第3に、宋代、元代ないし明代には、族塾を設立したのは、人口が多く経済に恵まれた いわゆる有力宗族だけではなく、その発起者
清朝になると、後述の浙江省鄞県の例にみ られるように、経済状況が豊かではない小 さい宗族も族塾を開設し始めることになる。
(2)清末に
の多くは士大夫や高級官僚であった。しかし、
おける族塾の普及状況―浙江省 県を例として―
どの程度普及したのだろ 鄞
近代学校制度を導入する以前、すなわち 清末までに族塾は
うか。これに関する資料は極めて少ないが、
1876(光緒2)年に刊行された浙江省鄞県志 には、族塾の設立状況が比較的詳しく記述
されており、さらに 1935(民国 24)年に刊行された同県志の中に、全県の宗族の始祖・居 表3-1 各年代に開設された族塾校数19
年代 族塾数 各年代の%
宋代 3 2.8%
元代 3 2.8%
明代 3 2.8%
康煕 3 2.8%
雍正 0 0.0%
乾隆 9 8.5%
嘉慶 10 9.4%
道光 16 15.1%
咸豊 12 11.3%
同治 21 19.8%
清代
光緒 26 24.5%
計 106 100.0%
不詳 22
合計 128
浙江省などの各地方紙と族譜より作成
住地・人口・族産・組織などについての調査結果が 422 ページ(B5 サイズ相当)にわたっ て掲載されている。ここで、これらの資料を用いて、浙江省鄞県を例として、族塾の設立 や普及の状況を探ってみる。
①鄞県における宗族集団の構成
んで上海の南方にある。鄞県は古来交通貿易
氏族」編をみると、これは
示されたデータを統計してみると、全県には自
にすぎない。大部分の宗族は 50 から 1,000 表3-2 鄞県における宗族集団の基本データ
873 鄞県は浙江省の東部に位置し、杭州湾を挟
の一中心地として、唐、宋代から海外貿易で栄え、早くから日本との往来が盛んであった。
『鄞県志』(光緒2<1876>年刊行)によれば、清朝時代には、鄞県は浙江省の寧波府の府 治所在地であり、慈溪・鎮海・定海・奉化・餘姚などの県と接している。地形が蝶の形に 似ており、東西方向は広く(約 70 キロメートル)、南北方向は狭い(約 33.1 キロメートル)。
面積は約 1,377 平方キロメートルであり、人口は 1855(咸豊5)年には 214,531 人(男性 のみ)であり、1912(民国元)年には 650,220 であった20。
以上は鄞県の地理上の概要であるが、次に『鄞県通志』の「
全県における宗族集団の始祖・場所・祠堂・族譜・人口・組織・風俗習慣・調査時期など を、他の地方志では例をみないほど克明に挙げている。これらのデータは、「調査時期」欄 に 1933(民国 22)年あるいは 1934(民国 23)年と明記されていることから、この地方志が 刊行された 1935(民国 24)年の2年前からの調査に基づいたものである。調査時点の 1933
(民国 22)年における全県人口は 700,481 人であり21、清末民初の全県人口 650,220 (1912 年)より 7.1%しか増えていなかったので、両時期における全県の宗族集団の基本的な構成 は大きく変わっていないと推察できる。
さて、上述の『鄞県通志』氏族編22に掲
然村落が 873 村あり、宗族はあわせて 709 個であり、宗族数と村落数の比は 1.23 となる。
このことにより、宗族集団は平均的に自然 村落より大きい集団であることがわかる。
また、一番小さい宗族は1戸4人で、逆に 一番大きな宗族は 3,000 戸 10,000 余人から 構成されている。人口 50 人未満の小宗族は 53 個となり、全体の 10.7%を占め、人口 1,000 人以上の大きな宗族は 60 個であり、
全体の 12.1%を占め、両者を合わせて 20%位
自然村落
姓数 139
宗族数 709
1宗族あたり平均戸数 179
1宗族あたり平均人口数 497
『鄞県通志』氏族編(一)、(二)より作成
人の人口から構成されている。平均的にみれば、1宗族あたりの戸数は 179 であり、1宗 族あたりの人口数は 497 人である(表3-3と表3-4)。
また、宗族の結合の強さを示す祠堂や族譜を有する宗族の数を統計してみると、表3-
4
県は祠堂や族譜の発達した地方であり、宗族の結合の強い地方であるといえる。これら
②鄞県における族塾の普及状況
9 宗族の中でどの位の宗族が族塾を設けたのだろうか。
こ
での約 200 年間には、全県における各宗族により設立 さ
のようになる。この表によれば、祠堂を持つ宗族と族譜を持つ宗族は、全体のそれぞれ の 77.7%と 66.9%である。祠堂と族譜を両方持っている宗族は 64.9%、すなわち全体の 約2/3に達している。前にも述べたが、一族の結合の中心となる同族の祠堂や族譜を有 するか否かは、宗族の結合の強さを示す1つの客観的標準ともなる。この意味からいえば、
表3-4 鄞県における宗族集団の状況 表3-3 鄞県における宗族人口の構成
鄞
の点はこの地方で族塾を普及させた1つの大きな背景といえよう。
さて、上述した鄞県における 70
れについては、まず 1876(光緒2)年刊行の『鄞県志』に記述された族塾をまとめてみ ると、表3-5のようになる23。
この表をみると、清末同治年代ま
れた族塾は合わせて 29 校である。これは同県に設立されたほかの各種教育機関、すなわ ち県学1か所、書院3か所、義学 10 か所24と比べて、圧倒的に多い。しかし、これらの 29 校の族塾の全県における 709 か所の宗族に占める割合はわずか 4.1%であり、普及率は
自然村落数 873
姓数 139
宗族人口 宗族数 百分比
50 以内 53 10.7%
51 150
宗族
百分比
- 136 27.4%
151-300 109 21.9%
301-500 70 14.1%
501-100
集団数 709
祠堂あり 551 77.7%
祠堂なし 47 6.6%
祠堂不詳
0 69 13.9%
1001-2000 44 8.9%
2001-5000 14 2.8%
5000 以上 2 0.4%
計
111 15.7%
族譜あり 474 66.9%
族譜なし 111 15.7%
族譜不詳 124 17.5%
内訳
両方あり 497 100.0%
不詳 212
合計 709
祠堂と族譜 460 64.9%
『鄞県通志』氏族編(一)、(二)より作成 『鄞県通志』氏族編(一)、(二)よ 作成 り
低いレベルにとどまっていたことがわかる。
表3-5 清代鄞県における族塾の一覧表
時期 発起人 経営過程
名称 場所 創建
董氏崇本義学 董氏義廟 不明 邑人:董允霦 学田
陸氏双井書院 西隆 乾隆 23 (1758)年 陸兆
45 畝 里人:陸漢赤・
蘆・陸大任 学田 2
張氏起文義学 里仁堂 乾隆年間(1736-1795 年) 里人:
学田 60 畝 張協恭・張肇
豊・張震初等
全氏桓溪義学 砂港口 乾隆年間(1736-1795 年) 里人:全祖煜 学田田 20 畝
施氏崇本堂義学 黄公林 嘉慶 12(1807)年 里人:施博九 学田
王氏義学 唐家堰 嘉慶 22(1817)年 里人:王汝文 学田 77 畝
徐氏敦本義学 大墩 嘉慶 24(1819)年 里人:徐桂林 一族出資
朱氏真吾義学 它山廟東 道光 13(1823)年 里人:朱孝銓 義荘
袁氏始基堂義学 大堰道 道光5(1825)年 里人:袁万経 学田
虞氏豊文義学 虞家墖 道光 18(1838)年 里人:虞維清・虞異・
虞炯 学田
董氏罌湖書院 洞橋 道光 23(1843)年間 里人:董瀾など 義荘
呉氏義荘義塾 張斌橋南 道光年間(1821-1850年) 里人:呉楠 義荘
周氏啓文義学 蜃蛟衕 咸豊2(1852)年 里人:周端珩・周一
15 畝
英 学田 1
蔡氏敦本義塾 搬火橋 咸豊年間(1851-1861 年) 里人:蔡筠 義荘
兪氏玉成義塾 兪家閘 咸豊5(1855)年 里人:兪根 学田 100 畝
周氏棣萼書塾 西壩柳 咸豊6(1856)年 里人:周沚 学田 150 畝
朱氏尊経義塾 藕纜橋 咸豊6(1856)年 里人:朱肇裕 学田 120 畝
水氏滌源家塾 上宅 咸豊7(1857)年 里人:水望月 一族出資
張氏逢原義学 張家岸 同治2(1863)年 里人:張守源 一族出資
朱氏竹林義塾 朱園 同治5(1866)年 里人:朱汝金等 学田 40 畝
胡氏養正書院 胡家墳 同治6(1867)年 里人:胡咸炎等 学田 100 数畝
沈氏中林義学 櫟社 同治7(1868)年 里人:沈倫恬 一族出資
李氏善教堂義塾 李家坑 同治7(1868)年 里人:李聖良等 学田 50 畝
王氏□余書塾 王家衕 同治8(1869)年 里人:王震等 学田 150 畝
周氏承啓書塾 新荘 同治9(1870)年 里人:周荇等 学田 50 畝
朱氏義正義塾 藕纜橋 同治 11(1872)年 里人:朱学章等 不詳
『鄞県志』巻九学校・族塾(光緒2年刊行)より作成
ところが、同『鄞県志』巻九族塾の注記には、「鄞之義荘皆有家塾併入於此以類従焉」25 と
、中国では 1902 年に「欽定学堂章程」が発布され、近代学校制度が導入され 始
普及状況から、約 30 年
ほとん ど
志』にはその設立時期を明記してい る
から、
学
小学あるいは族塾をまとめてみると、表3-6の よ
た 1886(光緒2)年刊行の『鄞県志』に記された族塾の宗族数に対する割合が 4.1%
で
あるように、鄞県における義荘がすべて族塾をもっており、類推するためにここに併せ て記入するという。つまり表3-5に示された族塾は当時鄞県における一部の族塾であり、
すべての族塾ではない。しかし、清末鄞県においては、実際にどの位族塾が存在していた のか、これに関する詳しいデータは清末の地方志などに記載されていない。そこで前述し た 1935(民国 24)年刊行された『鄞県通志』を用いて、鄞県における族塾の普及状況を探 ってみる。
周知の通り
めた。1911 年に中華民国が成立し、教育当局が族塾を含め旧教育機関である数多くの私 塾を改良し、小学堂へと転換した。したがって、1935(民国 24)年刊行の『鄞県通志』に 記載された各宗族立の教育機関は、大部分が族立小学堂となった。
1933、1934(民国 22、23)年に調査された鄞県における族立小学の
前の清末における族塾の普及率を推定できる主な理由は、以下の3点である。
第1に、前述したように、族塾は 1902 年の学制改革以後にも私塾改良方針の下に 私立学堂、あるいは私立小学となって存続している。逆にいえば、民国初期の大部分の 族立小学の前身は族塾であるとみることができる。
第2に、民国年代に新設された族立小学は、『鄞県通
が、これは族塾から改良された族立小学を区別するためであると推測できる。
第3に、清朝崩壊以降、中国は政治や社会経済の面で内憂外患に陥っていたこと 制改革を実行するのはなかなか難しく、特に農村においてはその教育状況は清末とは実 質的なあまり変わっていなかった26。
さて、『鄞県通志』氏族編より各宗族立
うになる27。表3-6にまとめた族立教育機関のうち、族塾が9校、族立小学が 87 校で、
合せて 96 校になる。また、87 校の族立小学の中に、3校が民国初期の設立と明記されて おり、それらを除いて、残された 93 校の教育機関の全県宗族数に対する割合は 13.1%と なる。
上述し
あることを考えると、清末鄞県における各宗族の族塾開設率は 4.1%以上、13.1%以下 と推定すれば妥当であろう。
表3-6 鄞県における族塾・族立小学の一覧表
宗 祠堂 規模
無 族譜
有無 経済状況 宗族成員
の職業 戸数 人口
族 始祖出所 教育機関 経営方法
有
洪 本省慈溪県 小学 不詳 あり なし 普通 農工商 20 82
翁 福建省 小学 共同経営 あり あり 貧しい 農業 不詳 70 余
馮 本省慈溪県 義塾 義荘 あり あり 不詳 商は多く 不詳 910 余
龔 本県 族塾 不詳 あり あり 豊か 農業は多数 不詳 39 8
徐 本省餘姚県 学 4 畝 工
余
益智小 祠田3 あり あり 自給 農業と手
業 400 余 1,600 虞 不詳 豊文小学 350 余畝 あり あり 豊か 農業は多数 不詳 1,500 余 兪 江蘇省呉興
県 福謙小学 共同出資 あり あり やや豊か 農業は多数 423 1,700 余 兪 本県 光裕小学 不詳 あり あり 昔は豊か 農業は多数 600 余 1,892 兪 本省台州 翠英小学(族塾) 不詳 あり あり 豊か 多様である 300 余 不詳 兪 本省嵊県 兪樹小学 兪氏義荘 あり あり 自給 農業は多い 100 前後
呉 佩倫小学 田200 余畝 あり あり 自給 多様である 不詳
呉 福建省 小学 義田 あり あり 自給 農業は8 割、
商業は1 割 130 余 600 余 朱 安徽省 朱氏小学(朱氏義
塾)
満ち足りる 人は多数 義荘 あり あり 衣食が
不詳 不詳 不詳
朱 江蘇省蘇州 い 業
は多数 余
小学 義荘 あり あり 豊かではな 商業と農
不詳 1,000 朱 咸祥 小学 義田など あり あり 貧しいものは多い 農業は多数 不詳 452 朱 本県 時雨小学(1934 設立
年) 不詳 あり あり 昔は豊か 商業は多数 不詳 100 余
胡 郡城西河営 文山小学(養正書 は多数
院) 不詳 あり あり 豊かなもの 農業は多数 不詳 1,194
屠 本省定海県 小学(3校あり)
義荘 あり あり 豊かではない 多様である 不詳 (男性)800 前後
屠 郡城 元貞小学 不詳 あり あり 豊かではない 殆ど農業 不詳 70 余
陳 江蘇省蘇州 立同小学 不詳 あり あり 貧しいものは多い 多様である 3,000 余
陳 小学 義荘 あり あり 普通 多様である 120 余 不詳
陳 福建省 族立小学 不詳 あり あり 普通 多様である 600 余
陳 本県 族立小学 不詳 あり あり 豊か 主に商業 300 余 800 余
陳 本県 小学 (銭氏と共
経営)
同あり なし 自給 多様である 12 47
陳 本県 小学(義塾) 満ち足りる
人は多数 余
不詳 あり あり 衣食が
殆ど農業 不詳 100 陳 本県 小学(1926 年設立) 不詳 あり あり やや豊か 商業は多数 50 余 300 前後 陳 本県 徳星小学(1930 年設
立) 不詳 あり なし 不詳 農業と商業
は多数 不詳 200 余 陳 江蘇省蘇州 族立小学 不詳 あり あり 豊かではない 農業は多数 不詳 530 余
陳 不詳 族立小学 馬姓・陳姓・王
姓と共同経営 あり あり 自給 業は4割 農は3 割、工 後 100 前 400 余
殷 本県 族立小学 不詳 あり あり 豊か 農業は多数 不詳 1,000 余
聞 本県 崇賢小学 族田150 畝 ものは多い 農業と商業
あり あり 貧しい
は多数 100 余 300 余 袁 本省慈溪県 族立小学 不詳 あり あり 豊かなものは多数 商業、知識人 300 前後 不詳
袁 本県 族塾 不詳 あり あり 自給 商業、知識
人、漁民 92 241 袁 本省奉化県 私塾 不詳 あり あり 貧しいものは多数 農業は多数 不詳 270 余 孫 本省奉化県 族立啓賢小学 不詳 あり あり 豊か 農業は多数 58 160
潘 族立小学 族田9 畝 あり なし 不詳 農業は多数 不詳 70 余
全 本省銭塘 族立小学 不詳 あり あり 豊かではない 農業は多数 不詳 200 余
姚 本県 小学 不詳 あり あり 不詳 すべて農業 50 余 16 余0
羅 本省餘姚県 族立小学 不詳 あり あり 自給 手工業は多
い 不詳 110 余 華 江蘇省無錫 龍井小学(族塾) 族田100 畝余 あり あり 自給 農業は多数 80 余 300 余
汪 本県 荘溪小学 不詳 あり あり 貧しくない 農業は多数 不詳 100 余
黄 本県 族立小学 不詳 あり あり 不詳 商業は9割な
ど 400 余 不詳
張 本県 族立小学 不詳 あり あり 自給 商業は5割、
農業1割 不詳 349
張 張氏小学 不詳 あり あり 自給 農業は多数 57 200 前後
張 江蘇省蘇州 族立小学 不詳 あり あり 普通 農業は多数 110 340 余
張 福建省南汀 小学 不詳 あり あり 普通 農業は5割、
商業は4 割 不詳 461
王 睦州桐廬 書院 不詳 あり あり 不詳 商業は多い 400 余
王 本県 小学(王氏義塾) 族田 あり あり 普通 農業と商業 不詳 200 前後
王 本県 族立小学 不詳 あり なし 自給 農業と樵夫 100 余 不詳
王 本省鎮海県 小学 不詳 あり あり 貧困者は多く 農業は多数 不詳 120
王 本県 小学 不詳 あり あり 豊かではない 農業 不詳 100 前後
王 不詳 小学 不詳 なし 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳
章 不詳 小学 族田200 畝 あり あり 自給 農業は多数 532 744
康 不詳 小学 五姓の宗族共
同経営 あり なし 豊か
商業は6 割、
農業と工業 は4 割
不詳 不詳
姜 不詳 姜氏小学 あり あり 自給
割 240 不詳
義荘 農業は4割、
商業は6
丁 本県 族立小学 不詳 あり あり 貧困者は多い 商業は多い 100 余 500 余 応 本県 小学 族田70 畝余 あり あり 不詳 多様である 100 余 不詳 周 四川省成都 学
周韓小 不詳 あり あり 自給 い 手工業は多
170 不詳
周 本県 小学 四姓の共同経
営、族田20 畝 あり あり 自給 農業は多数 40 余 不詳 周 本県 私塾(2校あり) 族田80 畝余 あり あり 自給 商業は多数 不詳 1,350
周 本省象山県 小学 不詳 あり あり 自給 農業は多数 不詳 1,000 余
周 不詳 小学(1934 年設立) 不詳 あり あり 豊かなものは多数 手工業は多
い 不詳 1,010
劉 本県 小学 不詳 あり あり 自給 農業は多数 不詳 1,600 余
任 本県 小学 不詳 あり あり 豊か者は1/3、自
3
給2/ 農業は多数 不詳 510 余
厳 本県 小学 不詳 あり あり 自給 農業は多数 不詳 800 余
厳 本省姚江 小学 義荘 あり あり 自給 多様である 不詳 200 余
厳 不詳 小学 不詳 あり あり 豊かではない 農業は多数 72 300 余 董 本省慈溪県 順徳小学 族田120 畝 あり あり 貧困なものは多数 農業は多数 不詳 530 余
董 本県 親仁小学 不詳 あり あり 貧困なものは多数 農業と商業
は多数 不詳 500 余
董 本省奉化県 小学(義学) 不詳 あり あり 普通 農業は多数 80 不詳
孔 本省奉化県 基徳小学(孔氏義
学) 不詳 あり あり 自給 農業は多数 50 余 180 前後
水 東越 小学 不詳 あり あり 自給 農業は多数 不詳 2,5 0 余0
李 福建省銅山 学 一族の共有財 1,390 前
族立小 産 あり あり 自給 多様である 不詳
後
李 不詳 族立小学 義荘 あり なし 豊かなものは多数 農業と商業
は半々 不詳 1,000 余 李 本省鎮海県 族立小学 不詳 あり あり 貧困なものは多数 農業 不詳 50 余
李 不詳 族立小学 不詳 あり あり 豊か 農業と工業
は多数 不詳 700 余
李 不詳 族立小学 不詳 あり なし 豊か 商業は一番
多い 不詳 300 余
許 本省金華県 羅姓と共同経
ものは多い 族立小学
営 あり あり 貧困な 手工業は多
い 不詳 100 余
杜 蘇呉 族立小学 不詳 あり あり 自給 農業は多数 不詳 1,500 余
夏 族立小学 不詳 あり あり 自給できるものは は多数 60 余 300 余
多い 農業
夏 本県 族立小学 族田60 畝余 あり あり 不詳 農業は多数 10 余 70 余
蒋 不詳 族立小学 不詳 あり あり 貧困なものはない 農業 不詳 160
傅 姚江 族立小学 族田 あり あり 不詳 商業は多数 342 1,436
顧 不詳 族立小学 族田 なし なし 豊かではない 農業は多数 不詳 142
蔡 本県 族立小学 義荘 あり あり やや豊か 商業は多い 不詳 2,000 余
戴 本県 族塾(2校あり) 不詳 あり あり 貧しいものは多い 商業は多い 不詳 1,640
謝 本省餘姚県 定徳小学 不詳 あり あり 貧しい 農業は多数 不詳 30
祝 蘭溪 小学 不詳 あり あり 自給 商業は多い 不詳 211
郁 不詳 小学 不詳 あり あり 貧しいものは多い 農業と商業
は多い 209 不詳 郁 不詳 族立小学 族田30 畝余 あり あり 普通 多様である 200 余 不詳
陸 本県 小学(龍井書院) 不詳 あり あり 自給できない 商業
120 360 余 農業と
は多数
楽 本省鎮海県 小学 不詳 なし あり 豊か 商業は多い 不詳 40 余
『鄞県通史』氏族編(一)、(二)より作成
③族塾の設立と宗族の規模など要素との関係
けた宗族は、その宗族規模(構成員人口)、
宗
宗族規模(構成員人口)に関してどのような特徴 鄞県では、教育機関(族塾や族立小学)を設
族の結合の強さ(祠堂や族譜を設けたかどうか)や経済状況などの要素との間に、どの ような関係をもっていたのだろうか。
まず、教育機関を設けた宗族は、その
が
から、人口の多い宗族は族塾や族立小学を設ける傾向が強
た宗族と一族の結合との関係は表3-8に示した通りである。既
最後に、教育機関を設けた宗族と宗族の経済状況との関係を探ってみる。表3-9は鄞 県
全宗族 あるかを検討してみる。表3-6から教育機関を持つ宗族の人口数を分類し、統計して、
これと鄞県のすべての宗族の人口構成を対比してみると、表3-7のようになる。この表 によれば人口 100 人以内の宗
族は、すべての宗族の 15.2%
を占めているのに対して、教 育機関を設けた宗族の中に、
人 口 100 人 以 内 の 宗 族 は 9.7%しかない。逆に、1,000 人以上の大きな宗族の割合は 10.2%であるが、教育機関を 設けた宗族においては、それ が 24.7%にのぼった。このこと いことが指摘できる。
次に、教育機関を設け
表3-7 族塾の設立と宗族の規模との関係 教育機関を設けた宗族 宗族の人口別
数量 百分比 数量 百分比
100 以内 9 9.7% 108 15.2%
100-299人 20 21.5% 160 22.6%
300-499 人 16 17.2% 83 11.7%
500-999 人 20 21.5% 74 10.4%
1,000 以上 23 24.7% 72 10.2%
不詳 5 5.4% 212 29.9%
合計 93 100.0% 709 100.0%
『鄞県通志』氏族編(一)、(二)より作成
述したように、祠堂の設立や族譜の刊行が一族の結合の強さを象徴していた。表3-8か らわかるように、祠堂を設立した宗族あるいは族譜を刊行した宗族は、全体の宗族と比べ て、族塾や族立小学を設ける傾向が明らかに高く、宗族の結合の強さと教育機関の設立の 間に、緊密な関係があることがわかる。
表3-8 族塾の設立と宗族の結合の強さとの関係
族塾を設けた宗族 全宗族 族塾を設けた宗族 全宗族
祠
数量 比
族譜の
数量 比
堂の
有無 数量 百分比 百分 有無 数量 百分比 百分
あり 90 96.8% 551 77.7% あり 83 89.2% 474 66.9%
なし 3 3.2% 47 6.6% なし 9 9.7% 111 15.7%
不詳 0 0.0% 111 15.7% 不詳 1 1.1% 124 17.5%
合計 93 100.0% 709 100.0% 合計 93 100.0% 709 100.0%
『鄞県通志』氏族編(一)、(二)より作成
における全体の宗族の経済状況と教育機関を持つ宗族の経済状況の対比表である。これ をみると、豊かな宗族は教育機関を開設する傾向が高いことがわかる。さらに、表3-9 の中に、不詳を除いて統計すると、全体の宗族の経済状況では、貧困・普通・豊かな宗族
がそれぞれの 32.8%、50%と 17.2%となっているのに対して、教育機関をもつ宗族では、
それぞれの 28.9%、42.2%と 28.9%である。族塾など教育機関を設けた宗族は全体の宗族 の経済状況より豊かであることが一層明確に示されている。
以上の考察からいえば、総じ 表3-9 族塾の設立と経済状 て清朝期には、宗族の結合が強
い、しかも経済的に豊かな浙江 省鄞県においても、族塾を設け た宗族は全体の宗族の 4.1%~
13.1%にすぎなかった。したが って、中国のほかの地域におい ても、族塾の普及率はそれほど高
するのは、その宗族の規模、経済状況、宗族の結合の強さと相当に関わっていたといえる。
しかし、規模の小さい宗族あるいは経済に恵まれていない宗族が、一族の子弟の教育のた め族塾を設立したケースも少なくないとみられる。
いと
.族塾の教育対象
前述したように、族塾は宗族の経営する初等教育機関である。その教育対象は「<付録
(1)資力のない子弟
教育対象が貧しい子弟や孤児に限られている極端な例である。この 況との関係
全宗族 族塾を設けた宗族
経済状況
数量 百分比 数量 百分比
貧困 24 25.8% 133 18.8%
普通 35 37.6% 203 28.6%
豊か 24 25.8% 70 9.9%
不詳 10 10.8% 303 42.7%
合計 93 100.0% 709 100.0%
『鄞県通志』氏族編(一)、(二)より作成 はいえないであろう。また、宗族集団が族塾を開設
3
>資料四:清代中国における族塾開設一覧」をみる限り、対象が明記されていない族塾を 除いてほとんど例外なく、一族の子弟を対象としている28。しかし、族塾の教育対象を詳 しく分析してみると、資力のない子弟、資力のないかつ人格優秀な子弟、才能のある子弟 という3種類に分けることができる29。次にこれらをやや詳細に分析する。
毘陵の屠氏家塾は、
族塾は 1856(咸豊6)年に建てられ、その教育対象は「恤孤家塾規條 十則」の第1条にみ られるように、「専ら一族の中の苦しく節を守る婦女の子どもあるいは勉強する資力のない 者」(専為苦節婦之子無力読書而設)30であった。しかし、清代の地方志や族譜からみると、
このような例は稀であり、むしろ族塾の対象はまず一族内の好学の子弟であって、そのほ かに就学する資力のない者が特に配慮されるという例が多く見られる。
例えば、上に挙げた『鄞県志』に記された 29 か所の族塾の中に、施氏崇本堂義学・徐氏
は、張氏
同じよう
(2)資力がなく、かつ人格優秀な子弟
された族塾は、特に資力がなく、かつ人格優秀な子 ど
敦本義学・周祠啓文義学などの族塾は、特に資力のない子弟を入学対象としたと明記され ている。施氏崇本堂義学の場合は、1807(嘉慶 12)年に、族人の施博久が校舎を建て、息 子が一族に寄付を呼びかけ、率先して田 50 畝を寄付し、族塾の経営費用とした。その教育 対象については、「族之単寒者、皆得就学」(一族の中で、身寄りがなく貧しい人を入学さ せる)と決めている31。また、徐氏敦本義学は 1819(嘉慶 24)年に徐氏祠堂の隣に建てら れたが、その入学対象は施氏崇本堂義学と同様に、「使族姓孤寒咸得沐詩書之教」32(一族 の孤児や貧しい人が皆教育を受ける)と記され、主に教育対象を孤児や貧しい人に限定し ていた。さらに周祠啓文義学は 1852(咸豊2)年に創建された周氏一族の族塾であり、「啓 文義学記」によれば、族塾を設立する理由は、「わが族の資力のないものも、机や硯を置く 場所を得る」33(使吾族之貧無力者、皆得謀一几一硯之地)ためであるとしている。つま り、この族塾教育は主に資力のない一族の子弟を対象としていたのであった。
また、1841(道光 21)年に編集された浙江省会稽県の「重修登栄張氏族譜」に
一族の「義田條規」10 則が掲げられている。その第7条「勧学」34をみると、「設蒙塾一 所訓無力延師者」(啓蒙族塾を一か所設け、教師を招く資力のない者を訓導させる)と規定 しており、この張氏族塾は特に資力のない一族の子弟を対象としたようである。
以上から明らかなように、族塾は、義田や義荘といった宗族集団の共有財産と
に、本来貧しい人を救済するという性格をもつ教育施設であった。したがって、族塾の入 学条件はまず一族内の好学の子弟であって、その中で特にほかの私塾に就学する資力のな い者を対象としていたといえる。
京江潤東の王氏宗族集団により設立
もを対象とした族塾の1つである。「若竹王氏家乗」にある「祠規」35によれば、「立義 学、族中貧不能延師者、倶送子入祠読書」、すなわち義学を建て、一族の中に貧しく教師を 招く資力ない者の子どもを入学させていた。さらに、もし幼い子どもが人並み優れた人格 や学力をもっているならば、父兄が彼らを入学させない場合、一両の罰金に処し、もし他 人が悪口をいい、子どもの就学を引き止めるならば、厳しく体罰するという。この例から みれば、族塾は教師を招くことができない貧しい人を教育対象としているが、その中でも 特に人格と学業がともに優れた人の教育に力を入れている。このような例は、ほかの族譜