はじめに 中米グァテマラには、総人口の6割とも7割と もいわれるマヤ系先住民が暮らしている。19世紀 末より近代国家建設へ向けた国民統合が推し進め られるなか、先住民たちは前近代的で「遅れた」 マヤ文化の担い手とされ、大規模プランテーショ ンでの強制労働の、そして20世紀後半の内戦下で は虐殺の対象とされてきた。 だが1996年の和平協定から15年以上が経った今 日、大統領選挙においても多民族 ・ 多文化主義が 高々と唱えられ、先住民の側からも社会的尊厳の 回復を求めた運動が数多く展開されている。 しかしそれは、決して先住民と、混 ラ デ ィ ー ノ 血系非先住民 やとりわけ数パーセントの白人系支配階層との、 平等な社会構築が自動的に保証されていくことで はない。内戦の終結は、先住民であることがその まま生命の危険へと結びつくことに一応の終止符 を打ったものの、グァテマラという世界システム の周辺国家の、さらに先住民たちはその最も周縁 的存在として、一層厳しい経済的搾取の対象と なっている。 新自由主義のグローバルな展開下、2008年の世 界的経済危機を経たグァテマラ現代社会では、貧 困層が生き延びることに一層の困難を抱えるよう になった。そして新たに国策化した観光産業活性 化へ向けて、先住民のマヤ文化は、エキゾチック な眼差しに貫かれ「目玉商品」化されている。 本稿では、かかるグァテマラ現代社会の動向を 踏まえつつ、世界遺産にも登録されている観光都 市アンティグア市を事例に、市場経済に包摂され ゆく先住民女性の家事労働に焦点を当てた考察を 試みる。ひとつに彼女らは、中高級所得家庭での 家政婦、あるいはレストランやホテルでの底辺単 純サービス業にて商品化される労働力の給源であ り、そして同時に、観光産業に不可欠なマヤ文化 を提供する各種市場での労働力の給源でもある。 新自由主義と多文化主義が錯綜し混淆する観光 都市アンティグアの経済圏へ、彼女たちの家事労4 4 4 働を基点として広がる4 4 4 4 4 4 4 4 4 4親密圏がどのように包摂さ れつつあるのか。この分析を通じて、世界的経済 危機と新自由主義下で突如として現れた多文化 ・ 多民族主義に呼応しつつ、グァテマラ周辺資本主 義が、どのように新たな先住民搾取の構造を、す なわち先住民たちの貧困を再編しつつあるのかを 把握するための、新たな視座をこの試論では提示 したい。 1 先住民文化の否定から多文化主義下での観光 資源化へ まずはグァテマラのマヤ系先住民に関して重要 な点を二点述べておきたい。第一は、先住民が総 論 文
新自由主義下における多文化グァテマラ現代社会と先住民女性
─新たな底辺労働としての家事労働と伝統織物労働の再編をめぐる試論
中 田 英 樹 (PRIME 助手)人口の過半数を超えるとはいえ、彼ら彼女らは社 会的にマジョリティではない。スペインによる植 民地化以降、政治の要職にはじまりグァテマラを 支配してきたのは、おもに僅か数パーセントに過 ぎないスペイン系の白人である。 第二は、グァテマラのマヤ系先住民族の特徴に 関してだが、白人と黒人のように、先住民を規定 する生物学的な違いはきわめて希薄である。先住 民が6割(1) で白人系支配階層が数パーセントだ としたら、残りはラディーノと呼ばれるそれらの 混血であり、生物学的な区別は先住民とほとんど つかない。つまり山間部に暮らす先住民であって も、出自村落を離れ、固有の先住民言語と伝統衣 装を捨ててスペイン語で暮らす。そうした先住民 家族は、子供あるいは孫の世代ともなれば自らの アイデンティティも社会的な認知も、もはや完全 に ラ デ ィ ー ノ の そ れ と な る。 こ の 先 住 民 と ラ ディーノを区別する境界の曖昧さおよびその越境 の容易さこそが、本稿考察のポイントである。 さて、グァテマラでは19世紀末より、「リベラ ル改革」と呼ばれる抜本的な施策転換のもと、ス ペイン系旧支配階層の前近代的な社会構造を解体 し、近代的な大規模輸出農業を発展させること で、資本主義国家建設への道が模索されはじめ た。そうしてコーヒー大農園が次々と南部の低地 平野部に開墾されたのだが、農業条件に恵まれな がらも人のほとんど暮らしていない地域だったた め、政府や農園主は労働力不足に悩むこととなっ た。そこで政府は1873年に法案を出し、山間部の 先住民たちが大農園へと強制的に動員されること となった。 かくして数多くの先住民人口が、完全に大農園 での住み込み常駐労働者として山から吐き出さ れ、過酷な労働に従事することとなったのだが、 彼ら彼女らは、山間部に自給用のトウモロコシ畑 を確保できない先住民であった。つまりその一方 では、それに匹敵する数の先住民が、一年のうち の数ヵ月のみを大農園での季節労働者となって働 き、残りを出自の山間部共同体で暮らし続けた。 主食であるトウモロコシを中心とした自給自足的 な生活をしており、現金の必要性が格段に低かっ たからである。マルクスの言葉で言えば、労働力 を唯一の生き延びるための商品として売って現金 を得なくても、生きていくための生産手段を十分 に確保していた。つまり労働力を商品化する必要 がなかったのである(2)。 したがって19世紀末の「リベラル改革」から20 世紀前半にかけての歴代政府は、先住民の労働動 員が満足に行かないことに終始不満を抱き続け た。つまりグァテマラ現代史において、先住民に 対する「働かない」「怠けた」ゆえに「遅れた」 という差別的認識は、他ならぬコーヒー大農園と いうグァテマラ資本主義経済の根幹を成すダイナ ミズムから生じたものなのだ。そしてこの認識 が、20世紀後半において、内戦下での先住民虐殺 の根底へと流れ込む。 グァテマラは、1960年から36年もの長きにおい て内戦を経た。ラテンアメリカにおいて最長かつ 最悪の内戦といえよう。そしてそのもとで、多く の先住民が虐殺の対象とされた。ゲリラ狩りのな か、先住民たちの暮らす山間部で、数多くの先住 民共同体が丸ごと抹殺の対象となった(3) 。この 根底にあったのが、伝統的な自給トウモロコシ栽 培に根ざす先住民文化への、「遅れた」「国家の発 展阻害」としての理解である。「遅れた」マヤ文 化の担い手たるマヤ系先住民は、ゆえに「無知」 であり「容易にゲリラに洗脳された」というのだ。 次のような政府軍将校の発言は、こうした認識を 象徴したものといえる。 ─ ─インディオは自分たちが無知蒙昧で、読 み書きを知らず、貧乏で仕事もなく、農業 技術も足りないと自分で認めている。連中
は昔ながらのお粗末なやり方でトウモロコ シを植えている。こういった状況をすべて 利用して、敵がイデオロギーを埋め込んで いるのだ。我々は何をすべきか。ゲリラが 闘ってきたのと同じように、闘うことを学 び取るのだ。(ODAHG, tomo II, p. 142, 邦訳 114頁) 1996年に内戦が終結したとはいえ、先住民を抑 圧して権力を握っていた者たちは、相次ぐ恩赦に よって未だに特権的立場を占めている。何ら内戦 下での先住民に対する人権侵害は精算されていな いし、現在でも先住民への差別は根強く残ってい る。こうした諸問題に取り組み、然るべき社会的 正義の実現を求めることを目指した諸研究や運動 の重要性を疑問に付すつもりは毛頭無い。 だが看過してはならないのは、グァテマラ支配 階層側における先住民への社会的承認もまた180 度転換したことである。現在では、旧来からの保 守与党もグァテマラが「多民族」の「多文化主義」 にもとづいた国家であることを明言するように なった。もちろん筆者は、これで先住民の解放が やがてはもたらされるとナイーブに賞賛したいの では決してなく、ポスト内戦の国家再建において 「マヤ文化」が、国策とも化した観光活性化の「目 玉商品」となったことを、正面から踏まえたうえ での、批判的分析を展開したいのだ。伝統衣装を 織るといった「マヤであること」の営為そのもの が、今日では政府や支配階層にとって新たな富の 源泉となっている。 ならばどのように内戦「終結」後の多文化主義 へのイデオロギー転換が、相変わらず先住民たち を「真なるマヤ文化の担い手」としての従属構造 に、すなわち熾烈な搾取の対象へと押しやってい るのか。あるいは、それでも逆に何らかの、先住 民にとってポジティヴな社会的正義実現への可能 性がどこかに開かれたのか。この土俵で上記諸問 題に対峙するために必要なのは、先住民への搾取 や抑圧の問題を、再びグァテマラ資本主義経済の それとして手繰り寄せつつ、その現在進行形の時 代変化に呼応して再規定された実態をまずは把握 することにあろう。 2 本稿の理論的枠組みと分析対象の設定 この点に呼応する限りにおいてと留保しつつ、 目下の先行研究に問題点を指摘しておきたい。先 述のグァテマラ資本主義経済のダイナミズムにあ りながら目下の先行研究は、先住民を文化や言 語、アイデンティティなどを諸条件として本質的 に規定する内戦の歴史的文脈を背負っている。こ のことは、本稿が対象としたい先住民女性の営為 を分断したまま各々でシングル・イシュー化して しまい、家事労働を基点とする彼女らの全体像の 把握が困難になっていると思われる。すなわち、 本稿取りあげる先住民女性の家事労働が市場化さ れた領域としての、第一に、家政婦や縫製工場労 働、観光サービス業といった底辺単純労働市場で の女性をめぐる議論では、先住民であるか否かが 副次的レベルに追いやられたうえでのジェンダー に起因する経済階級的な議論に閉じており、第二 に、また他方での先住民の民芸品や伝統織物生産 に関する女性の議論では、(内戦下での先住民差 別に起因した暴力や虐殺の歴史的文脈を切っては ならないが故での)マヤという属性への社会的尊 厳の回復や文化の表象をめぐる議論に考察の焦点 が据え置かれていることである。 対して本稿では、繰り返すが先住民とラディー ノが分節され、先住民に対する抑圧的な歴史を胎 動させてきた生産労働の位相に、再び考察の力点 を引き戻したい。グァテマラ現代史研究者スミス は言う。 ─ ─20世紀初頭にかけて、ラディーノという
言 葉 は 中 米 の 残 り の 国 々 に お い て は (混 メスティーソ 血という言葉に取って代わられ)消え ていったのに対し、グァテマラでは新たな 意味を帯びるようになった。つまり西部山 間部における抑圧者や4 4 4 4、都市部および平野 部におけるホームレス 4 4 4 4 4 (そしてしたがって 4 4 4 4 4 4 4 4 常駐4 4)労働者4 4 4である。コーヒー経済ととも に、先住民とラディーノの階級的4 4 4ポジショ ンは分 デ ィ ヴ ァ ー ジ かれていった。(傍点引用者、Smith 1990, p. 86) すなわちひとつには農園という生産現場の只中 で、先住民であることを自ら拭い去り、先住民た ち へ の「 西 部 山 間 部 に お け る 抑 圧 者 」 た る 混ラ血系非先住民が分節される。グァテマラの先住デ ィ ー ノ 民女性運動家でノーベル平和賞を受賞したリゴベ ルタ・メンチュウは、山間部での伝統的な暮らし を家族がもはや維持できず、首都の富裕層へと家 政婦として働きに行かざるをえなかった日々を回 想し、次のように述べる。(Menchú, in Burgos 1985、 第14章「首都での家政婦」)。 ─ ─〔働きはじめたら〕家政婦はもう一人い て、〔中略〕その家政婦も生まれは先 インディへナ 住民 でしたが、もう混 ラ デ ィ ー ノ 血系非先住民の服を着て スペイン語を話していました。〔中略〕〔私 も大農園で農園管理者に扱き使われるなか で、少しはスペイン語がわかりました。〕 農園管理者の大半は先住民でしたが、私た ちと同じように先住民言語を話すことを嫌 いました。彼らはそんな小作人たちとは違 うのだ、ということを感じていたからで す。(Menchú, in Burgos 1985, p. 117) ─ ─スペイン語もとてもよく分かるように なって私は満足でした。働いて、5ヵ月、 6ヵ月と経っていました。ある時、奥様が もう一人の家政婦と話をするなと私に言い ました。〔中略〕たてついたり、何か企ん だりと、いろいろその家政婦が教えている のだと、その奥様は考えていたのでした。 (Menchú, in Burgos 1985, p. 123) このように、「先住民/非先住民」の分節は、 被抑圧的な先住民たちが支配側として転化しての ラディーノの分節のみであったのではない。雇い 主の「奥様」へかつての農園時代に支配者側へと 転化したラディーノを想起して重ねるメンチュウ の傍らで、同じく「奥様」にこき使われスペイン 語を話し洋服を着ているのは、ことあるごとに 「奥様」からインディオ(先住民への蔑称)と罵 られる「もう一人の家政婦」たるかつての先住民 女性である。そしてさらには、伝統衣装を着続け つつも「仕事に慣れ、スペイン語を覚えていった」 がしかし、山間部の共同体生活からは、遙かに惨 めな思いをしつつ家政婦として働く、「5ヵ月後、 6ヵ月後」のメンチュウがいる。 すなわち、上記スミス引用に倣えば、グァテマ ラでの資本主義労働市場における「先住民/非先 住民」の分節は、他方で、山間部から排出される 「都市部および平野部におけるホームレス(そし てしたがって常駐)労働者」たちの分節でもある のだ。本稿がグァテマラの先住民を考える際に、 先住民と非先住民の境界の不明瞭さこそを議論す べきだと言ったのは、この人たちを先験的に捨象4 4 4 4 4 4 した4 4議論で閉じてしまわないためである。先住民 が先住民として暮らすことすらも被従属的に揺ら がざるを得ない最貧困層の先住民女性の実態を、 多文化社会や多民族主義といったグァテマラ公共 圏の現在に即して射程に含めた議論をしたいのだ。 以上の問題関心に基づき、本稿では多文化主義 がきわめて顕著に社会空間を彩っている事例とし て、世界遺産都市アンティグア(正式にはアン ティグア・グァテマラ)を取りあげたい。アン ティグアは、首都グァテマラ・シティから車で1
時間ほどの人口約4万人の街で、スペイン植民支 配下の16世紀中頃から200年あまりにもわたって、 メキシコ南部から中米一帯にわたる統治領の首都 であった。かかる歴史と街に残る数々の修道院や 教会といったコロニアルな建築物のために、1979 年、このアンティグアはペルーのリマなどに先 立って、世界遺産として登録された。だからアン ティグアの観光化を象徴するこの登録は、そもそ もスペインが植民支配した「新世界」の重要都市 としてであって、何らかの征服された側である先 住民にかかわる理由ではない。 さてこの地域の特徴を指摘したい。端的には、 高級住宅街であり、貧困もなく、非識字率も低 い(4)といったプラスイメージである。市行政発 表のデータでは、先住民人口比率はわずか7.92% とされており、中心部の家は三軒に二軒が外国人 所有となっている(SEGEPLAN/DPT, p. 21)。確か に、世界遺産として指定されている区画中心部は こうした描写があてはまろう。牧歌的な石畳のコ ロニアルな街並みに、お洒落なホテルやレストラ ンが立派な家々に混じって並び、そこには一見、 格差や貧困、犯罪といった匂いは感じられない。 しかしアンティグア市郊外には、バスで数十分と いう範囲にたくさんの街が隣接している。そこに はアンティグアの観光産業で働く、数多くの労働 者が暮らしている。売春宿や立カ ン テ ィ ー ナち飲み酒場といっ た観光中心区域では認められていない施設もある。 さらにこうした地域では近年、いくつかの重要 な変化が現れた。第一は、レジデンシャルやコン ドミニアムといった集合高級団地が乱立したこと に象徴される、一部の富裕層によるさらなる貧困 層の労働力動員である。相次ぐ新自由主義的施 策、あるいは2008年の経済危機により、貧困層の 生活は一層厳しくなった。首都や郊外での治安 は、年々悪化する一方だ。そこで新自由主義の所 謂「勝ち組」は塀に囲われたセキュリティの堅い コンドミニアムをもとめ、そしてそこに膨大な家 政婦市場が発生していく。毎日夕刻になると、コ ンドミニアムの守衛門出入口には、帰途につく家 政婦の女性が溢れかえるようになった。 第二は、パカ Paca とよばれる中古衣料市場の 急成長である。これはアメリカ合衆国において途 上国へ寄付すべく集められた中古衣料が、大量に グァテマラへと流れ込んだものだと言われてい る。ズボンもシャツも上着も、サイズも一切区別 せず全部まとめて圧縮してコンテナ毎の固まりで 流通するこの中古衣料は、ジャンパーやシャツで も一品あたり数十円と格安であり、都市圏に限ら ず山村でも、市場の立つ日にはピックアップの荷 台に何もかもが山積みとなって、「本日、パカ屋 開催!」と人だかりをつくる。先住民の伝統衣装 は、手織りの本格品なら数万円、工場製の簡略品 でも数千円はする。2008年の経済危機以降、もは やパカを買うしかない人口は圧倒的に増大した。 貧しい先住民家庭では、娘を家政婦へ働きに出 さざるを得ない。家で祖母や母が娘に織物を教え る機会が無くなる。そして、いわゆる洋服なら ずっと安い。パカならその差は一層広がる──先 住民の伝統衣装はこうして大きく衰退していって いる。 そして最も重要な第三が、アンティグア観光産 業における、先住民なる要素の一層熾烈化した商 品化である。スペイン植民期からのコロニアルな 伝統として評価された街並みに、征服された先住 民の文化が混淆していく。白い教会の入り口に、 色彩豊かな先住民衣装を売る露店が並ぶ。 この一方で先述の先住民女性運動家リゴベル タ・メンチュウの1992年ノーベル平和賞受賞には じまり、1993年には「国際先住民年(世界の先住 民の国際年)」が設定され、1994年には国境を越 えたメキシコ南部で同じマヤ系先住民が主体と なったサパティスタ民族解放軍が蜂起するなど、 国際的なレベルで先住民の権利や社会的尊厳の回 復を目指す気運が高まった。抑圧され蔑まれてき
た先住民が解放への途を模索するなか、政府側の 支配層がこれを逆利用する構図が、こうして現在 にいたり成立したのだ。アンティグアは、もはや 復活祭でのカトリックの伝 プ ロ セ シ オ ン 統パレードなどに加え て、先住民文化を満喫するための観光地へ転化し た。従業員が先住民の伝統衣装を着ている高級ホ テルも現れた。 こうした現代的動向に呼応しつつ先住民女性ら は、このアンティグア観光経済圏へとどのように 組み込まれ、暮らしてきたのか。以下では、個人 レベルでの彼女らに焦点を据えつつ、家族や親戚 といったネットワークの編成変化が、ライフ・ヒ ストリー各々の局面での家事労働の構成変化と、 従事してきた市場経済における生産労働とのあい だの関係を、どのように組み替えてきたのか見て みよう。 3 先住民女性の労働構成変化─ライフヒスト リーの聞き取りから 事例1)S: 地元定住拡大家族を基盤に村のイン テリへ まずは、アンティグアからバスで20分ほどの近 郊先住民村落サン・アントニオ(・アグアス・カ リエンテス)のL家におけるS(35歳)を取り上 げたい。77歳(1934年生)になるSの祖父は、村 はずれのトウモロコシ畑を中心に伝統的な自給農 業で暮らしを立ててきた。このL一家は、敷地に 祖父母からの四世代にわたる計三世帯が暮らす、 典型的な先住民村落土着の拡大家族といえる。S は、現在では結婚して3人の子供を抱えここで暮 らすが、Sの母は再婚して村内に別の住居を構え ている。 Sは現在、村の学校で家庭科の先生をしてい る。首都の高等専門学校(家政科)卒と地元では きわめて高学歴であり、スペイン語の読み書きも まったく問題ない。さらに織物は、グァテマラで はもっとも綺麗なウィピル(5) とも言われるこの 村での、きわめて高度な両面織りを7才か8才の 時に祖母から教えてもらいすでに習得している。 母親が再婚したため、5才より祖父母に引き取 られて育ち現在にいたる。幼少期のライフ・ヒス トリーの特徴としては、この祖父母の公共教育を 与えることへの強い重要視があげられる。祖父母 はそもそも、子供たちが学校に行かずして自らと 同じような貧しい自給小農としての人生を歩むこ とを否定的に考えていた。ゆえにSも、5才から 6才まで Pre Primaria(保育園)に、次いで小学 校へ通ったが、まだ村内に公立小学校がない当時 に高額な私立であれ通わせた祖父母は、きわめて 先住民家庭にして「近代的」な考え方を持ってい たといえる。 一方、S自身もつねに何らかの仕事をして家計 を手伝ってきた。小学校の時は、祖母がつくった タマーレス(チマキのようなもの)を籠に入れて 近所の家を売りに回った。中学校時代には、祖母 が近郊都市で安く箱買いしてきたトマトやアボカ ドを道売りしていた。だがあまりお金にならない と S は 考 え、 学 校 の 休 み 時 間 に 学 友 が 食 べ る 軽 レファクション 食 を売りはじめる。トスターレス(薄く焼い た直径10センチほどの円形チップスにアボカド・ ディップなどを塗ったもの)を持っていって売っ ていた。ただし、中学三年には、卒業までの単位 日数が不足したため、午後からの授業に専念すべ く祖母がその商売を肩代わりし、彼女は再びトマ トやアボカドを午前中だけ道売りする。 中学卒業後、片道二時間弱はかかる首都の家政 科専門学校(6) へ通いはじめる。栄養学やハン ディクラフト、菓子作りや装飾を学ぶ三年間の講 習コースに加えて、一年間の校外実習期間があ る。朝5時に家を出て、夜の7時に帰ってくると いうものだった。祖母が毎日、100から150のチュ チート(同じくチマキのようなもの)をつくり、 それを籠に入れて始業前に正門前で売っていた。
遠いところから通う朝ご飯を食べてこない生徒に 「暖かいチュチートを売っていました。いつも完 売でした。アイデアは私が祖母に言いました。お 金が足りなかったからです」。 実習の4年目には、休暇期間に首都の富裕家庭 で家政婦として働いた。「第14地区の TV7チャ ンネルのあるところ〔超高級エリア〕のコカ・ コーラのオーナーの家でした」。その家に住み込 みで働き、食事、寝床付きで月給1,500ケツァー ル。日中は家を空ける親に代わり、小さな娘の面 倒を見るのが主な仕事だった。家政婦としてはか なり割のいい口である。 専門学校を卒業した後は大学に行きたかった が、祖母はもう援助できず、アンティグアの星付 きホテル Radisson Hotel の調理場で働く。オムレ ツやパンケーキなど「いろいろな食べ物〔の作り 方〕を学びました」。やがて今の夫と知り合い結 婚したが、引き続きL家の敷地に暮らし現在に至 る。夫は、アンティグアと首都を結ぶバスの運転 手である。 長女(現在13才)を産んだときは祖父母や叔母 たちに子守を任せてホテルで働き続けたが、次女 (現在11才)を産んだときに、計一年半働いたホ テルを辞めた。家に籠もって子育てに専念した が、子供たちが手を離れるとすぐに地元の学校で 働く。午後2時から4時まで、得マ イ ・ エ リ ア意分野である裁 縫などを教え、給料は35分の一コマで10ケツァー ルだった。 そしてまた、ホテルを辞めてから、販売を目的 とした織物を本格的にはじめた。それまでも自分 の服を買ったことはなく、すべて手製だったが、 「サン・アントニオのウィピルを着ていたのは時 折でした。たいていは布を店から買ってきて、家 で〔ウィピルではなく、簡単な先住民スタイルの 伝統衣装を〕つくっていました」。現在では、ウィ ピルを一枚約2ヵ月かけて織り、仲買をする地元 の女性に売っている。価格は一枚2,000から2,500 ケツァールという(250から300US$)。テーブル マットなどの小さなものなら1日か2日、小さな カバンなら2日くらいで、こちらはだいたい30か ら40US$で売っている。そうして「家にいなが ら織物をして、2時間学校で教えて、娘の子守を して」、6年間を過ごした。 そして現在、かつて自分が学んだ中学校に転職 し3年目を迎える。終身雇用ではない年次契約だ が、180人の生徒を前に月曜日から金曜日まで、 午後1時半から6時半まで働いている。2009年の 月給は2,300ケツァールだった。一般的な家政婦 の倍の稼ぎである。 2000年から2005年頃までは、「ウィピルの売り 上げはとても愉快なものでした。しかし今はもう 〔違います〕。売り上げはとても低いものです。機 械織り、コンピューターでの製造が溢れていま す。ウィピルもコンピューターで作られます」。 〔それは見たらすぐに分かるでしょ、と筆者が問 えば〕「とはいえ、いま首都での雇用はきわめて 厳しいです。人びとはウィピルを買うほど十分に 稼いではいないのです。経済は不況で、雇用も悪 い。仕事がない。ということで人たちはより求め 易くて割の合う値段としてどれがそれに当たるか 見ているのです」。 このように伝統織物産業の動向を俯瞰的に捉え ているSに、先述の中古格安衣料パカについて聞 いてみた。〔そういうわけでパカも売れるのです ね〕「人はそのようにいってますね。だからパカ なのだと。一山いくらで売ってますから。旦那の 給料では〔これまでの服に〕届かないのでしょ う」。「とはいえ、少なくとも伝統衣装は、伝統衣 装は…少なくとも、私は変えない〔着ない〕で しょう。〔※だが、Sの家でこの聞き取りをして いる時は、彼女はTシャツにGパンだったことに 彼女自身も気づき〕いま私はこのよう〔な洋服〕 ですが、それは家にいるからで走りまわったり何 につけてもこの方が楽だからです。でも仕事に行
くときはズボンなど履きません。伝統衣装で行き ます」(7)。その前日に筆者は、彼女が学校へ働き に行くところを偶然すれ違ったのだが、その際彼 女は白い綺麗な伝統衣装のブラウスに、艶やかな 伝統腰布を巻いてマウンテンバイクで学校へ向 かっていた。 また娘への教育に関する考え方にも触れておき たい。長女(中学1年)は、まったく織物も習得 していないし、ほぼ先住民言語は話せない(家で はすべてスペイン語である)(8)。現在のSの安定 した生活は、かつての祖父母が教育を与えてきた おかげであることを彼女は十分認識している。だ が同時に、織物に関しても一級の技術を持つ。子 どもたちに織物を教えていますか、と問いかけて みた。 「〔次女の〕Sh には教えています。彼女は織物 が好きみたいです。でもね、子どもたちの違いと は指のようなものです。各々が違います。好きな 子もいれば嫌いな子もいる。〔長女の〕Me はあ まり好きではないようです。でも私は、学ぶべき だと言っています。いつの日か仕事が無くなるか もしれません。その時は織物が、生き抜くために 乗り越えさせてくれます」。「子どもたちには何が 好きで何が嫌いかをまず見なければなりません。 彼女〔Me〕に対しては、まずは卒業して、そし て働いて大学で勉強を続けて欲しいです。ならば 大学での勉強が、生き抜くために凌ぐことを可能 にしてくれるでしょう。〔中略〕それは私ができ なかったことです」。 この村に女性の先住民運動団体のようなものは ないが、高度な学校教育を受け、織物の技術も一 流というSは、内戦後に社会進出を果たす典型的 な先住民女性の諸条件を備えているといえよう。 またこの拡大家族は、祖父母の代から子どもたち に教育を与えていけるほど、安定した基幹的先住 民農家であった。だがSの世帯をふくめ、敷地内 での親子間での会話はすべて、カクチケル語では なくスペイン語である。また、娘たちが先住民と4 4 4 4 して 4 4 織物を覚えるべきなどとはまったく考えてい ない。高等な学歴も、織物を織ることも、彼女自 身には当たり前の生き抜く手段のひとつとして認 識されているのだ。 これを一方でアンティグアの公共圏から捉えて みれば、ひとつには、家事労働に関する知識が市 場化された家庭科の先生というインテリとして、 また、アンティグア観光産業市場では、グァテマ ラで最高レベルのサン・アントニオの両面織り ウィピルを生産する先住民女性として、十分な社 会的ステータスの認証と、経済的保証が付されて いるのである。 事例2)MとCの姉妹: 山奥から移住後は兄姉で 支え合って安定 次にアンティグアから約百キロ離れた北中部山 村からの姉妹MとCを紹介したい。彼女らの父親 (現在50才)は12クエルダ(約10アール)のトウ モロコシ畑をもっていたが、銀行から借りた借金 返済がうまくいかずに売却し、現在は3クエルダ ほどとなった。12クエルダならば、かなり大家族 の自家消費でも賄えるが、3クエルダではとうて い不足する。そこで父親は季節労働者として出稼 ぎに行くようになった。1節で述べたように、山 間部で自給農業を営みつつ、不足分を現金に求め 季節労働者として南部大農園へ出稼ぎに行くとい う先住民世帯の典型例である。母親はこの山間部 の家庭を出ることなく拡大家族を切り盛りしてき たが、家事の傍ら織った伝統衣装はアンティグア に持って行って売ってきた。 同じ敷地には、彼女らの叔父家族も暮らしてい る。叔父はグァテマラ農村社会ではもっとも貧し い階層である小 ホ ル ナ レ ー ロ 間使いを職業としている。4人の 子供がおり、いずれも学校には「通っている」も のの、ほとんどは父親の引きうける隣人からの雑 務を手伝っている。また近所には、子供10人を抱
える兄姉の家族が暮らす。 このB一家には、子供が10人いる。三男(15才) 五女(13才)六女(10才)四男(7才)は、年齢 的にこの山間部の拡大家族でまだ完全扶養されて いるが、長女(30才)を筆頭に、次女、そしてこ こで紹介する三女(M)と四女(C)、長男、次 男は、山間部での拡大家族が自給をベースとした 生活に困難を抱えるにつれて、アンティグアに相 次いで移住してきた。 アンティグアでの生活基盤確立を可能にしたの は、市場内の一件の食堂オーナーに拠るところが 大きい。B家の隣人が、作った民芸品を卸しにア ンティグアへ定期的に山を降りて旅をしていた。 その隣人が、偶然アンティグアのその食堂の女性 オーナーより、食堂を手伝う働き手を探している との情報を知らされ村へと持ち帰った。それを聞 いたB一家において、まずは長女がアンティグア へ出稼ぎにでた。オーナーがアンティグア市内に 借り上げた安い部屋に暮らしながら、食堂で働く ようになった。 やがて長女はこの食堂のオーナーの息子と結婚 する。オーナーはバス・ターミナル傍の民芸品市 場に、いくつか店を構えてもいた。当時息子は、 学生をしながらその民芸品店のひとつを任されて いた。長女はそこで食堂をやめて、この店で働く こととなった。長女の家族は、夫が相続したこの 店を筆頭に、現在ではアンティグアの同じ民芸品 市場で三店舗を切り盛りするに至っている。 さて、食堂を辞めた長女の欠員に、次女が村を 出てアンティグアへ移ってきたが、やがて結婚し て食堂を辞め現在では専業主婦となっている。そ れを継いだのが三女Mである。2003年頃の話だと いう。このMは三年ほど働いて辞め、後釜が四女 Cである。Cの後には、次に続く姉妹がまだ小さ かったことから、B家からは誰も続いていない。 一方、Cの二歳下、五歳下に男兄弟がいるが、彼 らは長女の築いたこのアンティグアの民芸品商売 をあてに移り住み、店をそれぞれ任されている。 また長女の結婚後の夫についてだが、「7年ほ ど前」(2003年頃)に夫はアメリカ合衆国へと出 稼ぎに行った。その稼ぎを資金として、やがてア ンティグア市郊外の低所得者居住区に土地を購入 し、出稼ぎから4年目には家を建てはじめてい る。その後も増築し、現在は長女夫婦とその子供 三人(9才、7才、5才)、MとC、そしてその 弟二人と、移り住んできた兄姉が皆一緒に暮らし ている。ただし現在9才と6才の子供が二人いる 次女の家族は、一緒に暮らしていない。長女の子 ども達とすぐにケンカをするからだという。ま た、MやCなど長女家族以外のメンバーいずれ も、この家主たる長女家族に部屋代や食事代など は払ってはいない。 三女M(1985年生まれ、26才)は、キチェ語は 当然完璧に話すが、スペイン語もほぼ問題ない。 8才の頃から、隣人たちに頼まれた小間使いをし ていた。僅かの駄賃を稼いだり、代わりに食べ物 をもらうこともあったが、世話になる隣人のため 無償の時もある。また近郊の大 ア シ エ ン ダ 農園に出かけて チーズを売りもしていた。学校はほとんど行って いない。彼女は食堂を辞めた後、長女夫婦の切り 盛りする民芸品店をひとつ任されるようになる。 民芸品店以外の職業には就いていない。だが興味 深いことは、じつは本人は織物を教わったことが なく、まったく現在でも織ることはできない。 一方、四女のC(1988年生まれ、23才)は、M とは対照的に、幼少の頃は母親の手伝いをし、す ぐに織物を教わった。彼女も学校にはほとんど 行っていない。また簡単な日常会話レベルのスペ イン語は話すが、かなり困難がある。Cは姉Mが 食堂を辞めた後釜としてアンティグアへ移り住ん だが、Mと同じく、食堂コーナー一帯の蒸し暑い 閉塞感が嫌になって辞めた。興味深いのは次の一 歩である。姉のMは、長女Sがすでにアンティグ アにて軌道に乗せていた民芸品商売を次の仕事と
して選んでいた。しかしCは、織物の一級の技術 を持ちながら、まったくそれを好まなかった。C はアンティグア観光産業でマヤ文化の生産者たる 先住民として 4 4 4 4 4 4 、今日にいたり働いたことは一度も ない。 彼女が選んだのは、家政婦であった。筆者はC をよく知るが、スペイン語にも難があり、さらに きわめて温和しく控え目な性格である。この彼女 が食堂を辞めた後に、アンティグア市内外の高級 な家々を一軒一軒、家政婦として雇ってくれない かと訪ねて回った。そして一軒の家で働き始める ものの、ウマが合わずに五ヵ月で辞め、また別の 家を探す。その次の家でも長続きしなかったのだ が、その次に、市内で安宿を経営しており、掃除 やベッドメイキングなどをこなす働き手を捜して いたグァテマラ人女性に出会い、その宿で働くこ ととなる。 さらにCは、ある程度働いた後に貯めたお金を 持って再び出自のキチェの村へと帰ったのだが、 そこで彼女は、伝統織物を織りはじめる。それら 商品は、アンティグアの兄姉の店で売るのではな く、地元で売っていたという。 しかし六ヵ月ほどで、再び山を降りて町へ出る ことを決める。「労働の割には値段が届かない」 と思ったからだという。同じようにアンティグア 近郊の家で数ヵ月家政婦の雇い口を見つけ、次 は、次女が首都で暮らしていることを頼って首都 にて同じく家政婦を八ヵ月間する。次女の家族 が、首都の借家を引き払い、アンティグア近郊へ と引っ越した際に(夫は首都で左官屋の補助をし ている。引っ越し後もアンティグアから首都へと 通勤している)Cもアンティグアへと引き上げる。 その後Cは働いていない。長女がすでに民芸品 店を三軒切り盛りしており、子供の世話や家事な どに手が回らなくなっていた。よってCは家政婦 時代と同じ労働だが、今度は長女の家で毎日掃除 や洗濯をして食事を作り、「姉の子どもたちに宿 題はしたの!と叱ったりしながら、毎日楽しく暮 らしている」という。 そしてCは同時に織物を再開する。どれも手の 込んだ力作で現在三作目だが、商品にはしていな い。一作目は長女の義母のため、二作目は自分の 母親、そして今は自分のために織っている。 この姉妹についてポイントを指摘するならば、 その先住民としてのあり方の対照性にあるだろ う。マヤ系先住民文化を目玉商品とするアンティ グア観光産業市場において考えれば、Mは先住民 衣装を着て、毎日大勢の外国人観光客の訪れる一 等地にある民芸品市場で、先住民の伝統織物を売 る先住民労働者として社会的な役割を担ってい る。だが彼女は、まったく織物が織れない。山間 部村落で暮らしていた幼少から、先住民家庭にお ける女性が従事してきた、自給のための先住民織 物を織ったことは一度もない。 このMを反転した人生としてCのそれがある。 彼女は先住民言語を主体とした日常を暮らし、ス ペイン語に大きな困難を抱える。家政婦労働での 基本的な会話はできるものの、伝統織物店で毎日 外国人たちとスペイン語で会話をしているMに比 べ、圧倒的にスペイン語に触れる必要性は低い。 また幼少より織物を覚え、アンティグアから実家 に帰ったときや、アンティグアの長女の家で家事 手伝いをする現在は、織物に従事する。そしてこ の織物についてだが、山間部の出自先住民村落で は近所に売り生計を助けるために織っていたC が、アンティグアでは、観光産業にて現金を稼ぐ ためではなく、祖母や母親が代々受け継いできた ように、自ら生活の一部として織っていることは 重要である。つまり、こうしたアンティグアにお けるCの、先住民言語で暮らし、織物を織って自 ら着用する、あるいは母や恩人に贈呈するといっ た行為、そして織物を自分たちのために織りなが ら姉夫婦の子守をして家事をするという営為は、 遙か昔から先住民女性が代々繰り返してきた伝統
的な先住民としてのそれである。しかしCは、ア ンティグアの先住民文化を目玉商品とする市場経 済において、伝統的マヤ文化の生産(商品の販売 という行為も含む)者たる先住民として、社会的 な機能を果たしたことはない。アンティグア市場 経済に統合されるCの生は、先住民であることと はまったく無関係の、家政婦という底辺単純労働 者としてである。 本論の結論とも密接に結びつくのであるが、こ の両者のどちらが先住民としての日々を社会的に 送っているのかは、両者の生各々を観光産業や家 政婦単純労働市場という生産労働市場から捉える のか、先住民家族を再生産する家事労働の側面か ら捉えるのかで、まったく逆の認識が引きだされ るのである。 事例3)JとR: 家族分断で移住した脆弱な互助 の土壌の事例 最後にアンティグアに移住してきたJとRの二 人の女性を取りあげたい。荒 あば ら屋に暮らす最貧困 層の二人である。間借りする集合荒ら屋の敷地に は、何人もの物乞いが一日数十円で雨を凌ぐため だけに軒先を「間借り」している。Jも数年前ま ではアンティグアで物乞いをしていた。 Jから見てみよう。Jはほとんどスペイン語を 話さない。山間部キチェ族の家族に生まれたJだ が、幼少の頃から家族とともに暮らしてきたのは 南部低地平野部である。つまり事例1)のL一家 を、山間部での自給農業で生活してきた定住先住 民世帯の例として、事例2)のB一家を、そこま で安定が確保できず、父親が南部大農園の季節労 働者となった例として中間に置くならば、事例 3)のこのJやRの家族は、そうした山間部で自 給生活をする手段をほぼ完全に失い、山間部先住 民コミュニティから引き剥がされて、南部大農園 に常駐する底辺労働者階級の家族へ転化した例と して位置づけられる。 さらにJの家族の場合、暮らしぶりは一層厳し いものだった。家族で南部コーヒー農園の広がる マサテナンゴ県のサマヤック Samayac へ移住し たが、父親が早々に他界したのだ。グァテマラ社 会のセーフティネットとはまったく切れたところ で生き延びるこうした最貧困家族において、父親 が欠けることは、きわめて生き延びるための困難 をもたらす。他界した後には、母親が「飴売り」 をして生計を立ててきた。野球場での売り子のよ うに、肩から箱をぶら下げ、飴やタバコ、ガムや ピーナッツなどをバラ売りして歩く仕事であり、 物乞いを除けば、最も少ない元手ではじめられる 「カタギ」の生業である。 Jには兄姉が四人いるが、Jも含めて子どもた ちはマサテナンゴのコーヒー農園で働いた。だが この南部での生活も困難になり、観光客の集まる アンティグアに10年前に家族ごと移住してきた。 「向こうではもう仕事がなかったから」と彼女は 言う。当初は観光客相手に物乞いをしていたが、 物心が付いてからは、アンティグア中央公園など で母親と同じく「飴売り」をして稼いでいる。ま た、コーヒー農園のある南部は暑いが、彼女も母 親も、今日にいたって伝統衣装以外を身につけた ことはない。 同じ集合荒 あば ら屋の敷地内で暮らす同じキチェ族 のR(24才)は、一番上の現在28才の長男をはじ めとする6人兄姉の長女である。彼女は山間部サ ン・アントニオ・キチェ村の出身だが、彼女の家 族も15年ほど前に一家で山間部の村落を離れ、南 部大農園の広がるテキサテ Tequisate へと移住し た。父と母、そして働ける限り年上の兄姉が、南 部のコーヒー農園で働いていた。だがJと同じ く、南部での仕事がみつからないと、父母を残し 22歳の兄と18歳の弟とともに、5年ほど前よりア ンティグアに移り住む。 兄はアンティグアの市場(観光客相手の民芸品 市場ではない。八百屋や服屋などの地元住民向け
の昔ながらの屋内集合市場)で、首都から仕入れ てきた鞄を売っている。弟は同じ市場の魚屋で働 いている。 移住したRはトルティージャ(主食であるトウ モロコシ粉の薄焼きパン)屋で働きはじめた。そ こに毎日買いに来ていたのが現在の夫であり、言 葉も同じキチェの同郷ということで知り合いに なった。結婚してトルティージャ屋を辞め、現在 は3人の子供を育てる専業主婦である。夫は大き な市の立つ近郊の町を順に鞄を売り歩く、店を持 たない底辺層の行商人である。男性先住民は一般 的に先住民服を着ない。スペイン語を十分に話す 彼らは、家の外では、もはや先住民と見なされる ことは完全にないだろう。 このようなJやRだが、両者共にまったく織物 は織れない。だが熱帯の南部平野部で暮らしてい た幼少から、(厚手のウィピルは着ていないもの の)布に装飾を施した先住民スタイルの伝統衣装 をつねに着ていた。それでも彼女らは、この「略 式」先住民衣装を作るためのミシンや裁縫もやっ たことがない。つねに購入してきたのだが、一着 数千円と値段は彼女らにとって非常に高い。しか し彼女たちは「それが 習 コストゥンブレ 慣 だから」と言い、あ たりまえのように先住民衣装を着てきた。自ら購 入 し て い る 先 住 民 ス タ イ ル の 服 は、「800( ケ ツァール)、あるいは1,200とか1,500とか」という。 先述のパカなら十数ケツァールである。しかし 「パカなど考えたこともない」。 言葉に関して言えば、スペイン語でやりとりす る機会が日常で極度に限定されているため、Jに 至ってはほとんどスペイン語を理解しない。聞き 取りはスペイン語だったが、ほとんどにおいてR の解説が必要だった。ほぼ毎日は出自村落のキ チェ語である。Rも普通にスペイン語で意思疎通 はできるが、先述のM、ましてやSに比べれば桁 違いに怪しい。 この彼女らの生は、目下のアンティグア観光経 済圏にどのように組み込まれるのか。「でも今は あまり(飴売りに)行けないの。だって警察が嫌 がらせをするから」とJはボヤく。筆者がこの聞 き取りをした二日前も、中央公園で「飴売り」を していたら警察が没収していったらしい。片言だ けのスペイン語を話し、先住民衣装を着て、外国 人溢れるアンティグア中央公園にて「飴売り」を するJ。それは筆者にとって、あるいは多くのア ンティグアを訪れた観光客にとって、ひとつの典 型的な先住民観光都市アンティグアを構成する風 景なのだが、警察にとっては、アンティグア観光 協会にとっては、「マヤ文化」溢れる観光空間か ら排除されるべき「貧困の先住民」なのだ。 Jは貧困の先住民として、「マヤ文化」の生産 者としての先住民として、搾取されることすら認 められず、アンティグア警察という国家権力に よって排除される。だが、こうした彼女らのライ フ・ヒストリーは、山間部マヤ系先住民の最貧困 層が辿ってきた先住民のそれである。たとえ彼女 らの幼少期の記憶や経験に、山間部での伝統的な4 4 4 4 4 4 4 4 4 先住民の自給的な暮らしがないとしてもだ。この ことを否定するのは、グァテマラの20世紀同時代 史を最底辺で支えてきた、圧倒的な数の先住民の 存在を否定することに等しい。 おわりに─再生産労働からみた生産労働市場 ─ ─低所得階層は、公教育、就業機会、住宅 供給、社会保障をはじめとするさまざまな 財やサービスから阻害されている。そのた めに、彼らは、地縁・血縁による相互扶助 によってセーフティネットを創出・維持す る必要に迫られた。近住拡大家族は、低所 得階層のセーフティネットであり、相互扶 助や金銭の貯蓄・貸し付け、相談所などの 役割を果たしている。(小松 2010, p. 62)
グァテマラの先住民貧困層は、この大 メトロポリタン 都会メキ シコ・シティの低所得階層についての小松の言及 と同じく、政府からの医療や教育といった「上」 からの社会サービスの享受など、到底期待できる ものではない。そしてそれが先住民で、さらに女 性なら一層のこと、グァテマラ公共圏──それを 国家・市場・さらにはハーバマス的コミュニケー ション空間のいずれとしようが──からは分断さ れ周縁化され、家のなかへ埋もれて不可視化され る。 そうした彼女たちが、ひとつにホテルやレスト ランの使用人、あるいは家政婦という底辺単純労 働者として労働力を商品化していく。それは先住 民であるというよりもはるかに端的に、現代グァ テマラ国民国家の底辺における産業労働者とし て、2008年経済危機以降いっそう厳しさを増した 新自由主義のグァテマラ現代社会において、ます ます周縁へと不可視化され熾烈化する搾取の対象 となることである。 同時にこの彼女たちはその一方で、伝統民芸品 市場での「本物の先住民」という「資格」を持っ たマヤ文化を提供する感情労働者として、あるい は「正真正銘」手作りの先住民伝統織物の生産者 として、アンティグア地域経済へと包摂されてい く。内戦が終結してようやくグァテマラ社会に よって先住民たる彼女らに承認されたこの労働も また、多文化主義というグァテマラ現代社会の再 編に呼応して先住民女性に対して開かれた、国家 経済に包摂され搾取される新たな回路となってい る。もちろんこれが、取り返しの付かない犠牲と 引き替えに内戦終結後、「マヤ」なるものの社会 的承認回復を要求してようやく歩むことのできる ようになった、「トウモロコシの人間たち」(9) 先 住民の長い道のりに他ならないとしてもだ。 だが、こうして彼女らが家から出て「公共圏」 へと包摂されていく、まさにその家の陽のあたら ない「裏庭」で、19世紀末からの強制労働から20 世紀後半の内戦を経て新自由主義と多文化主義の 21世紀現在にいたり、農園の、工場の、レジデン シャルの、塀の外側で彼女たちが繰り返してきた 日々の営為に、私たちが本稿を通じて確認できる の は、 そ れ で も こ の な か に 担 保 さ れ て き た 周 マ ル チ チ ュ ー ド 縁を生きる人びとの潜勢力とも言えようもので ある。 拡大家族各々における多様なネットワークが家 族構成員のライフ・ヒストリーの各段階に応じて 再編されるなか、家長はじめ男性の従事する労働 経済市場の外側で、本稿で取りあげた彼女たちの 誰もが、子供を育てる、掃除をする、洗濯をする、 食事を作る、そして織物を織るといった家族再生 産労働の編成を、絶え間なく複雑に組み替えてき た。生き延びるために各々が体得してきた、この やりくりの豊穣な選択肢をそのまま丸抱え、山間 部の村落から、アンティグア近郊の貧困層居住地 域から、彼女たちはアンティグアという本稿紹介 した諸特徴を備えた歪な資本主義経済へと、飛び 込み包摂される。 ここに保たれた潜勢力の構成は、先進国からの ガクシャや国際的なナントカ人権団体が、彼女た ちを現代グァテマラ多文化主義国民国家において どの程度マヤ系先住民として社会的尊厳が確立さ れたか否かと問いかけ、鳥瞰的視点から診断して も、おそらくピントが合うはずのない親密圏であ る。彼女たちの営為を、ひとつには先住民として のあり方を捨て去ってラディーノ化してしまう過 程、あるいは先住民として耐えつつ尊厳を獲得し ようとするたたかい、もしくはその両者を抑圧的 な社会のなかでうまく交渉しながら柔軟に揺れ動 く運動、などと意味付け、さらにそれを評価する ならば、それはいったい本稿取りあげたような女 性たちにとっての、何を問題とするための議論た り得るのか。この問いの含意はそう軽くはないは ずだ。
この点をめぐって本稿が最低限取りたかった立 ち位置とは、少なくとも外部者の私たちによっ 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 て4、彼女らにとっての貧困という問題は副次的4 4 4な 問題として対象化されてはならないということで ある。そして繰り返すが、貧困であるか否かに関 して、先住民としての生を捨てたのか維持してい るのか、などと外から彼女ら各々の「客観的」属 性をいくら多様に並べ問いかけたところで、そこ にある解答の選択肢はあまりにも乏しかろう。イ ンテリへと成功したSも元物乞いのJも同じく先 住民であり、そこにどちらがより先住民としての 属性を多く備えているか、そのような外部が独断 で判断するための客観的基準など、どこにもない からである。 彼女らを取り巻く公共圏をいかように設定しよ うが、そのいずれからも誰にもまして排除されて きた先住民女性たちが、農園労働者として、家政 婦として、物売りとして、あるいは物乞いとして、 地域社会を生き延びていく。こうした彼女たちの 経験が構成するグァテマラ現代史を切ってしま い、ポスト内戦の現代における先住民女性の抱え る諸問題を、(とりわけ遠い日本に暮らす私たち4 4 4 が4)ひとつには前近代的な偏見によって差別され る本質化された先住民の問題として、そして他方 には、世界共通の普遍的な女性に対する抑圧の問 題として分断して論じることで閉じるならば、そ の議論は圧倒的多数の最貧困先住民女性にとっ て、そしてラディーノ化したことすら忘れた最貧 困層の女性にとって、「遠いところで鳴っている 鐘にしか聞こえません(10)」となろう。アントニ オ・ネグリは言う。 ─ ─今日の貧困は4 4 4、活動を価値あるものにで4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 きないというたんなる事実でしかない 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 こと をわれわれは知っている。したがって、貧 しい移民あるいは閉め出された者も、表現 すべき潜勢力を何らかの形で持ち合わせて いる者なのである。(強調ネグリ、ネグリ 2003, p. 115) この時、本論で紹介した彼女らに関して言うな らば、再生産労働の視点から、あるいはそうした 言葉を使わない日々を生き抜く営みの視点から、 いったい何が公に価値を与えられ、新たな搾取に 曝されようとしているのか。そしていかなるポジ ティブな潜勢力がそれでもなお現実を変革する動 きとして現出し得るのか。こうしたことを考えて みることに、ひとつのグァテマラ周縁社会を生き 抜く人びととともに考えるための回路があるよう に思う。 註 (1) 本論冒頭では、「6割とも7割とも」と敢 えて国家統計局の公式数値(39.4%)を用 いなかった。39.4%に含まれるのは、政府 の国勢調査がカバーできた先住民である。 センサスが国家権力の浸透した公共圏での 営為であり、先住民はその公共圏で歴史的 に被抑圧下にあった以上、かかる自己申告 を経て集計されたセンサスの数値が、実際 よりも遙かに下回ることは当然といえよ う。 (2) こうした「リベラル改革」に対する先住民 側の反応については McCreery(1994)や Cambranes(1985)をはじめ多くの著作が 詳説している。 (3) 「人口約1000万のグァテマラで、20万人の 死者・行方不明者、150人の国内避難民と 15万人以上の国外避難民がこの内戦によっ てもたらされた。死者・行方不明者の90 パーセントが非戦闘民であり、総犠牲者の 83パ ー セ ン ト が マ ヤ 系 先 住 民 で あ る 」。 (ODAHG、日本語解題5頁) (4) アンティグアのあるスチテペケス県全体で
の数値が13.64%であるのに対して、アン テ ィ グ ア の そ れ は7.93 % と さ れ て い る。 (SEGEPLAN/DPT 2010: 31) (5) ウィピルとは先住民女性が伝統的に着てき た、ポンチョのようなもの。当村のウィピ ルは、模様や色彩の美しさもさることなが ら、その両面織りのゆえに有名でもある。 すなわち表と裏が同模様となる。 (6) 首都でも所得層の高い第13地区(Zona 13) にあるマリオン・バロン・バック家政学校 のこと。 (7) 先住民がほとんどのこのサン・アントニオ 村においても、パカを売る店がいくつか現 れた。そのうちの一軒は、昼間は開店して おらず、夕暮れから数時間店を開けるのみ である。その時間帯でないと、地元の村人 は恥ずかしがって行かないからだ、という ことだった。 (8) (先住民言語のカクチケル語は話せるので すかという質問に対して)「はい。学校で 習っていますから。カクチケルの授業で」 と彼女は答えた。数学や理科の授業と並ん で、英語やカクチケル語の授業があるとい う。彼女にとってカクチケル語は、英語と 同じあたかも外国語のような位置づけで あった。 (9) 20世紀半ば頃より、国家の構成要素として 先住民文化の復権を掲げるインディヘニス モにたったグァテマラのノーベル文学賞作 家アストゥリアス Astúrias, Miguel Angel が 発表し、代表作となったのが『トウモロコ シの人間たち Hombres de maíz』であった。 コーヒーを非先住民文化の象徴として、そ れにこの「トウモロコシの人間たち」を対 峙させつつ、暴力に晒された内戦から戦後 の尊厳回復運動へと運動を展開したメン チュウは、しばしばこの「トウモロコシの 人間たち」を自らの先住民としてのアイデ ンティティの基盤として援用しており(リ ゴベルタ・メンチュウ著『私の名はリゴベ ルタ・メンチュウ』参照)、今日のグァテ マラでも先住民たちが日常的にしばしば用 いる表現となっている。 (10) 日本農村部の底辺女性を論じた文筆家一条 ふみの言葉。黒田(2009)を参照。黒田は 言う「ある種の女性を排除したところで成 立するフェミニズムが、自らそのことを疑 うことができなくなった時点で、フェミニ ズムは自らの終焉を招くことになるであろ う」(105頁)。 参考文献
Burgos, Elizabeth. 1985. Me llamo Rigoberta Menchú
y así me nació la conciencia, Decimocuarta
edición (1997), México D. F.: Siglo Veintiuno Editores.
Cambranes, Julio Castellanos. 1985. Coffee and
Peasants: The Origins of the Modern Plantation Economy in Guatemala, 1853-1897, English
version revised by Carla Clason-Höök, Stockholm, Sweden: Institute of Latin American Studies. 小松仁美、2010、「メキシコ合衆国首都 DF にお けるストリート・チルドレン─近住拡大家族 が果たす役割に着目して」、『ラテン・アメリ カ論集』、第44号、ラテンアメリカ政経学会、 pp. 55-73. 黒田大介、2009、「よみがえる『生き残り運動』」、 『インパクション』、2009年10月号、pp. 100-109. McCreery, David. 1994. Rural Guatemala, 1760-1940,
California: Stanford University Press.
Negri, Antonio. 2003. Guide: Cinque lezioni su Impero
e dintorni, Milano: Raffaello Cortina Editore. (小
講義』、2004年、青土社)
ODHAG (Ofi cina de Derechos Humanos del Arzobispado de Guatemala). 1998. GUATEMALA: Nunca
más, Guatemala: (REMHI) Recuperación de la
Memoria Histórica.(一部抄訳が日本語訳され ている。飯島みどり・狐崎知己・新川志保子 訳、『グァテマラ 真実と和解を求めて』、 2000年、東京、岩波書店)
SEGEPLAN/DPT. 2010. Plan de Desarrollo; La
Antigua Guatemala, Guatemala: SEGEPLAN/
DPT.
Smith, Carol. 1990. Origins of the National Question in Guatemala: A Hypothesis, in Carol Smith, ed.,
Guatemalan Indians and the State: 1540 to 1988,
pp. 72-95, Austin: University of Texas Press, p. 86.
査読審査後掲載決定 (受理日2012年12月5日)