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―アルチュセール理論と精神分析理論の接合の試み―

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(1)

【研究ノート】

信じさせることから距離をとるために

―アルチュセール理論と精神分析理論の接合の試み―

For the escape from ideology

――L.Althusser and psychoanalysis――

野 見  収

Osamu NOMI

はじめに

 教、 、 、 、 、 、 、 、 、

育者の言うことを学、 、 、 、習者に信、 、 、 、 、じさせるということがなければ、教育関係は成り立たない。学習者 が、教育者の言うことを全く信じない、聞く耳をもたない、ということであれば、その関係はまた別 の名で呼ばれるべきものであろう。

 だが、信、 、 、 、 、じさせるということに問題はないか。教育者の語りが真理・真実であるという保証は何も ないはずだ。所謂「再生産論」の思潮が告発してきたように、教育者は自分でも気づかぬうちに、特 定の階層にとって都合のよい言説を真理・真実の名において語り、それを学習者に信じさせることで、

権力者による抑圧や不平等の維持・拡大に加担しているのかもしれない。

 ならば、これからの教育研究においては、教育者の語りを信じさせる仕方と同じくらい、そこから 距離をとる仕方についても考察されるべきである。例えば、ある教育者(他者)の語りを、複数ある 、 、 、 、 、のの見方のうちの一つとして引き受けてみせる、そうしたし、 、 、 、 、なやかさを学習者に保証するような教 育をいま、構想しなければならない。

 そこで本稿が着目するのが、フランスのマルクス主義者

L.

アルチュセールである。アルチュセー ルは

1960

年代後半、精神分析思想に接近するなかで、上述の「再生産」をめぐる問いに応えようと した。すなわち、それ自体としては真理としての保障のないイデオロギー的な言説が、無意識の媒介 においていかに、真理の言説としての装いを身に纏い、人々をイデオロギーに染めゆくのか?さらに 進んで、「イデオロギー的主体

le sujet idéologique」の形成プロセスに隙はないのか?これらの問いの

考察である。

 本稿は、このアルチュセールによる考察を、精神分析の祖

S.

フロイトおよびラカン派精神分析家

B.

フィンクの議論に接合することで、教育が信、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

じさせることから距離をとるた、 、 、めに必要な理論的視角 を提示しようとするものである。

(2)

(1)アルチュセール

 アルチュセールがイデオロギー的主体の形成プロセスとして好んで例示したのは宗教的信仰の獲得 の場面であった。

 キリスト教的な宗教イデオロギーは語る――これこそ汝である。汝はピエールだ!これこそ 汝の生まれである。汝はキリスト生誕後

[

西暦

]1920

年に生まれているが、ずっと以前に神に よって造られたのである!これこそこの世における汝の場所である!これこそ汝のなすべきこ とである!

Voici ce que tu dois faire !

もし汝がそうするなら、「愛の掟

loi d

amour

」に従うなら、

汝ピエールよ

toi Pierre

、汝は救われ、キリストの栄えある身体の一部になるであろう!等々…。

(下線筆者)[IAIE:300 =370]

 

 「これこそ汝なすべきことである!

Voici ce que tu dois faire !

」(下線部)以降のくだりが象徴して いるように、この言説はその受け手に対して、人間のあ、 、 、 、 、るべき姿(「愛の掟

loi d

amour

」に従うこと、

そしてそのことによって救われ、キリストの身体の一部となること)を示しつつ、そのあ、 、 、 、 、るべき姿が 他の誰でもなく「汝ピエール

toi Pierre」の姿であることを認めるよう呼

、 、 、 、びかけている。この呼びかけ にピエールが応じるとき、彼はキリスト者という名のイデオロギー的主体になるだろう。

 してみれば問題は、いかにして呼びかけに応じさせるかである。言うまでもなく諸個人は、いかな る呼びかけに対してもつねに応じるわけではない。その呼びかけが諸個人を呼びとめるにふさわしい ものでなければ、諸個人をイデオロギー的主体として構成することはできない。

 そこで宗教的言説に導入されるのが、真、 、 、 、 、 、

理を語る者としての「神」である。

 キリスト教的な宗教イデオロギーはさらに付け加えて言う。――私の声によって汝に語りか けているのは神である

c’ est Dieu qui s’ adresse à toi par ma voix。 [IAIE: 300 =370]

 このように、「これこそ汝のなすべきことである!」(先の下線部)と語るのが、真理を語る者とし

ての「神

Dieu」だというなら、なるほどこの言説は、諸個人を呼びとめるにふさわしいものとなろう。

つまり「汝」が、「ピエール」という名をもち、「神」によって造られ、「愛の掟」に従う限りにおい てキリストの栄えある身体の一部となりうる主体であることを、神=真理を語る者によって保証され るのだ。

 アルチュセールはさらに語る。

 自分の〈名〉によって呼びかけられ ‐ 名指されたモーセは、神によって呼ばれたのが「ま さしく」自分であったことを認めており、したがって彼が主体であること、すなわち神の主体

(3)

sujet

であり、神に従う主体、〈主

Sujet

〈主〉にであることを認め ることになる。その証拠に、モーセは神に服従し、また彼の率いる民を神の命令に服従させる のである。それゆえ神は主体であり、モーセであり、神の民の無数の主体であり、神に呼びか けられたその対話者、すなわち神の鏡であり、神の反、 、映である。人間は神に、 、 、 、似せて作られたの ではなかったか?あらゆる神学的な考察が証明しているように、神は人間なしですますことが 全く「可能であるはず」であるにもかかわらず、人間たちが神を必要とし、諸主体が〈主体〉

を必要としているのとまったく同様に、神は人間たちを必要とし、〈主体〉は諸主体を必要と しているのである。

[IAIE: 301=371-372]

 このようにアルチュセールは、モーセが神に服従すると同時に民、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

たちを神の命令に服従させたとい う聖書の記述のうちに、神にな、 、 、 、 、 、

りかわったモーセの姿を見出す。すなわち「〈主体〉Sujet」(神=真理 を語る者)によって形成されるのが、「主体=服従す、 、る者

sujet

」であると同時に「主体=服従さ、 、 、せる

sujet

」でもあることを見出す。

 モーセが民たちを服従さ、 、 、せる者でありえたのは何故か。それは(「アロンへの信託」や「しるし」

という出来事があったにせよ)、結果として、民、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

たちがモーセに神を重ねたからであろう。つまり、

神が民たちを自らの命令に服従させる(神の民にする)ためには、モーセという鏡に自らを、民たち に向けて映し出す必要があったのだ。モーセという鏡があってはじめて、神は神であることができた のである。

 もちろん、神の鏡はモーセだけではない。モーセに呼びかけられた民たちもまた神の鏡となり、さ らに別の民たちを、服従し服従させる主体として形成する。だからこそ神の民は「無数」となる。

 こうして、イデオロギー的言説において諸個人の主体化を保証しているのは言説の真理性でありつ つ、言説の真理性を保証しているのは諸個人であるという、興味深い事実が明らかになる。

 もちろん、この保証関係がただ一人の個人と言説の真理性との間で生じるのではなく、あくまでも 個人と言説の真理性との間で生じる以上、この保証構造は単なる円環ではなく、複数の円環が一点 を共有するような形となる。ここで共有される一点とは、言うまでもなく言説の真理性である。

順を追って説明したい。まず、ある個人αが自らの言説の真理性を構成し(①)、そのことを通じて 個人βが主体化される(②)(図

1)。

 そしてまた個人βが、個人αの言説を受け継ぐかたちで、自らの言説の真理性を構成し(③)、そ のことを通じて個人γが主体化される(④)(図

2

)。このやりとりは無数の個人の間で無限に続いて いくだろう(図

3)。

(4)

 さて、こうしてみたとき、あらためて問われるべきは、主体化される個人においてイデオロギー的 言説を真理として受け入れさせるものへの問い、『出エジプト記』でいえば、なぜ民たちはモーセに 神を重ねることができたのか?という問いであろう。

 この問いにたいし、アルチュセールが与えた仮説がこれである。

(5)

…人間個人がイ、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

デオロギー的主体として呼びかけられると、人間個人の内部に、ある種差的な 効果、すなわち無、 、 、 、 、 、 、

意識なる効果が産出され、その効果が、人間個人にイ、 、 、 、 、 、 、 、 、

デオロギー的主体とし ての機能を請け負わせる

permet

のではないか。[TNTD: 139=155]

 呼びかけによって、呼びかけられた諸個人のうちに無意識なる効果が産出される。そして、この無 意識という効果が、諸個人にイデオロギー的主体としての機能を「請け負わせる

permet」。つまり無

意識なる効果が、「呼びかけ」の受け入れを可能にするというのだ。これは、諸個人に言説の真理性 の受け入れを可能にするものが、無意識だと言っているに他ならない。

 こうして本稿は、無意識の学、精神分析の圏域へと入り込んでいくことになる。

(2)フロイト

 アルチュセールは、自らのイデオロギー理論とフロイト学説(精神分析思想)との近縁性を次のよ うに示唆している。

…子どもは、生まれる前から、つねに

-

すでに主体であり、懐妊以後、子どもが「待たれて」

いる種差的な家族的イデオロギー的な布置のなかで、またこの布置によって主体であることを 割り当てられているのである。…彼がすでにまえもってそうである性的主体(男の子あるいは 女の子)に「成ら」なければならないのは、多少とも「病理学的な」(この用語にひとつの割 り当て可能な意味があると仮定して)この仮借ない構造のなかにおいてであるということは付 け加えるまでもない。イデオロギーによるこのような拘束と、このまえもって行われる割り当 て、さらには家庭における養育・しつけと、それに続く教育のあらゆる儀式は、フロイトが性 欲の前

-

性器期的および性器的「段階」の諸形態において、したがってフロイトがその諸特徴 から無意識であると見定めたものの「手がかり」において、研究したものとなんらかの関連を もっていることは知られている。

[IAIE: 299=368-369]

 よく知られているようにフロイトは、症状はもとより、夢、機知、失錯行為など日常生活における 諸活動、諸現象を、過去に無意識へと抑圧されたものが現在におよぼす効果として見定めることによ り、幼児期の心的状況を事、 、 、 、後的に構成した。この研究の過程において見出されたのが、子どもにおけ る性的欲望の変遷と、その抑圧へとむかう諸段階(前性器期および性器期)であり諸メカニズムであっ た。

 「イデオロギーによるこのような拘束と…」(下線部)以降の記述が示すように、ここでアルチュセー ルが、このフロイトの性

-

抑圧的発達論と、自らのイデオロギー的主体形成論を重ねようとしている ことは明らかだ。アルチュセールは、フロイトと同じく、「家族」に着目することで、諸個人に言説

(6)

の真理性を受け入れさせるものの所在を、無意識=幼児期という失われた過去に見出そうとしている。

 これをふまえ以下では、フロイトがおよそ

1905

年から

1924

年にかけて論じた幼児性欲の発達

-

圧過程から、フロイト的無意識の内実を抽象したい。

 まずは人生の最初期、所謂「乳飲み子」の時期にあたる「口唇期」から見ていこう。誰もが知るよ うに、この時期の子どもは自らの生命を維持するために乳房を吸う。が、フロイトに言わせれば、こ の人間の原初的行動を支えているのは自己保存欲だけではない。自己保存欲に委託されてはいるもの の、そこには性欲の存在が認められる。すなわち子どもは乳房の吸引にともなう口唇の刺激によって 性的満足を得、乳房を性愛の対象としているというのである。

 もっとも、この性愛は長くは続かない。フロイト曰く、発達にしたがい次第に「自分に満足を 与えてくれる器官をもっている人物について、子どもが全体的な表象を形成できるようになる」

[DAS:125=168-169]

と、「性欲動はこれを性愛の対象としなくなる」[DAS:125=168-169]という。

 なるほど、子どもははじめ、乳房(部分)とそれを所有する母親(全体)という所有関係と、乳房(母 親)とそれを吸う者(自分)という自他関係を認識できていないだろう。したがって乳房を、望んだ ときに必ず手に入るもの、その意味で自、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

分の思い通りになりうるものとして幻想する。だが、発達に したがい乳房の所有者が認識できるようになると、乳房が自分のものではなく母親のものであること に気付く。他、 、者が所有する乳房、すなわち必ずしも自分の思い通りになるとは限らない対象に、これ 以上の期待はできない。そこで子どもは自分がいちばん欲しい乳房をあきらめ、そのかわりになるも のを探すのである。

 このように性愛の対象が乳房から他に移るにつれ(あるいは神経系が成熟していくにつれ)、次第 に優位となる性感帯も口唇から肛門へと移っていく。すなわち「肛門期」への移行である。

 この時期になると子どもは、糞便の肛門通過によって生ずる粘膜刺激を、排便によって性感的に利 用しはじめる。腸内の糞便がより多量になるほど肛門粘膜の刺激は増大するため、時に子どもは排便 を我慢して親をやきもきさせたりもする。が、次第に「言われる通りに排便し、愛情のために便を捧 げる」

[ÜT:406

383]

ようになるという。

 つまり、(最終的には)性感の追求という自己の欲望が第一ではなく、毎日の排便という 、 、 、 、 、者の欲望を、 、 、 、 、欲望する(ラカン)ことこそが第一となるのである。このことの意味は大きい。

 すでにみたように、口唇期において子どもは、「いちばん欲しい」乳房が自己の一部分ではなく他 者の一部分であることに気付く。そしてこの気付きの過程に存在するものは、乳房=母親が必ずしも 自分の思いにこたえてくれないという体験、すなわち他者を愛すれども愛してもらえない体験であっ た。

 だとすれば、肛門期にみられる他者の欲望の欲望とは、口唇期における愛、 、 、 、 、 、 、 、

してもらえない体験が引 き起こす、愛、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

されることへの欲望だといえないか。さらに言えば、肛門期において子どもは、愛され ることを欲望することで、未だ得られぬ乳房を今度こそ自分のものにしようとしているといえないか。

(7)

 この観点は、次に続く「男根期」を読み解くうえで重要な視角となる。

 フロイトによれば、男根期とは性感帯がペニスに移る時期であり、ここにおいて子どもは、母と ペニスを通じて交わることを望み、「父親と立場をいれかえることで母親と関係を結ぼうとする」

[UÖ:398=301]

 このいわば、父にとってかわることで、母と性的に結合しようとするもくろみは、母の愛するもの になろうとする(他者の欲望を欲望する)という点で、肛門期と重なる。すなわち、子どもは引き続き、

親(母)に愛されること、ひいては母=乳房を自分のものにすることを目指すのである。

 もっとも、そう思うように事はすすまない。フロイトによれば、子どもはこのもくろみの過程で、

ときに、親への性愛によって生じる性的興奮をマスターベーションによって放出しようとする(性器 いじりなどの行動がこれを象徴している)。だが父(あるいは父の権威を借りた母)は、しつけの観 点からこれを許さず、子どもにペニスの切断、すなわち「去勢の脅し

Kastrationsdrohung」をかけるこ

とによって行為を制止する。他方、子どもはこの脅しを、自らの欲望にたいする責、 、めとして受け取る という

[UÖ: 396-397=299-300]

 こうして子どもの内的構図に、父という敵対的な第三者が参入してくることになる。口唇期、肛門 期では愛する者(母)との二者関係で済んでいた話が、男根期ではそこに敵対者(父)が加わって三 者関係となる訳だ。この男根期における母への性愛と父との敵対の構図こそが、世に知られた「エディ プス・コンプレックス

Ödipuskomplex

」であるが、これにより事態は子どもの欲望にとってより困難 なものとなる。

 母を自分のものにしようとするとペニスを失う。ペニスをなくして母を自分のものにすることはで きない。つまり、いずれにせよ母を自分のものにはできない。他方、母をあきらめれば、ペニスをな くすことはない。最終的に、子どもはペニスと母への性愛を天秤にかけて、ペニスをとる。すなわち、

「子どもの自我は、エディプス・コンプレックスから目を背ける

das Ich des Kindes wendet sich vom Ödipuskomplex ab」[UÖ: 398=302]

のである。

 この「目を背ける

abwenden

」という語は強い意味でとらねばならない。これに続けてフロイトは、

「自我がエディプス・コンプレックスから目を背けることを「抑圧」と名付けることに反対する理由 はない

Ich sehe keinen Grund, der Abwendung des Ichs vom Ödipuskomplex den Namen einer „Verdrängung

zu versagen」[UÖ:399

303]

と述べている。このことからわかるように、「目を背ける」という

のは意識の上で我慢するなどというレベルの話ではなく、母への性愛と父との敵対関係をともに 、 、 、 、 、 、 、 、 、

意識へと抑圧するということを意味しているのである。

 では一体何が、無意識への抑圧を可能にするのか。それは先に見た、父にとってかわろうとする機 制と深いかかわりがある。

 リビドーの対象備給が放棄され、同一化がこれに代わるのである。

Die Objektbesetzungen

(8)

werden aufgegeben und durch Identifizierung ersetzt.

父親または両親の権威が自我の中に取り入れ られ、そこで超自我の中核となる。超自我は、父親の厳しさをそっくり受け継ぎ、近親相姦に たいする父親の禁止命令を永続化し、自我がリビドー的な対象備給を二度と繰り返さないよう にする。

[UÖ: 399=302]

  子 ど も は、 愛 す る 母 に 愛 さ れ る た め に、 母 の 愛 す る 父 に「 同 一 化

Identifizierung」、 つ ま り

、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

ってかわろうとする。だが、まさにそのなりかわりにおいて父の厳しさまでも受け継いでしまい、

子どもは自らのうちに、自、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

分に対して近親相姦の禁止命令をだす自分としての「超自我」をつくりだ す。これにより、子ども自らが禁止命令の主体となり、「対象備給が放棄される

die Objektbesetzungen

werden aufgegeben」、つまり母=乳房を自分のものにしたいという欲望を自

、 、ら抑圧することになる。

皮肉にも、愛されたいという欲望が、愛したいという欲望の抑圧につながり、結果、愛されたいとい う欲望も無意識へと抑圧されてしまうのである。

 以上が、フロイトにおける幼児性欲の発達

-

抑圧過程の概略である。

 ここまでの理解をまとめておこう。まず子どもは母を自分のものにすべく欲望するが(x)、それを 母に受けいれてもらえない。したがって子どもは母に受け入れてもらうべく、母の欲望する(a)も のを欲望する(

b

)。子どもにとってこの母の欲望は、肛門期においては毎、 、 、 、 、日の排便を、 、 、 、求めるにとどま るものであるが、男根期においては父、 、 、 、 、 、

であることを、 、 、 、求めるものへと発展する。そこで子どもは父と同 一化し、その人格を自らのものにする(c)。だが子どもはその際、母への欲望を禁止する父の姿まで 自分のものにしてしまうために、自らの根本的な欲望を自ら禁止する羽目に陥り、結果、このすべて のプロセスを無意識へと抑圧してしまうのである(以上、図

4

)。

(9)

(3)アルチュセール×フロイト

 すでに確認したように、アルチュセールは、無意識の効果がイデオロギー的言説を真理として受け 入れさせると主張した。その上で無意識が、抑圧されたエディプス・コンプレックスをその内容とす るというならば、イデオロギー的主体の形成過程とはすなわち、エディプス・コンプレックスの抑圧 過程の派生物として理解しなければならない。そこで、これらの過程をともに思い返すとき、二つが 構造的にぴったりと重なりあうことに気付く。

 そもそもの起源にあるのは母への欲望である。子どもは、必ずしも自分の思い通りにならない乳房

(=母親)を自分のものにするという欲望のために、母親が欲望するものを欲望するようになるので あった。この幼児期における欲望の転換(図

4

)が、無意識の効果として、現在の他者との関係(図

2

において再現される。すなわち人(個人β)は他者(個人α)への欲望を達成するために、他者(個人α)

の言説のうちに他者の欲望を読み取り、それを自らも欲望するようになるのである。ここでいう他者 が欲望するものには、他者(個人α)が自己(個人β)にそうあってほしいと願う(と個人βが思う)

もの、すなわち、他、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

者が望む自己のあるべき姿が含まれている。他者(個人α)は自らの欲望にした がってそれを実現すべき真理として構成する(a)。そして自己(個人β)も自らの欲望(b)にしたがっ てそれを受け入れ(c)、真理の構成を引き継ぐのである。

 こうしてみれば、言説の真理性の受け入れを可能にするものとは、幼児期における欲望の転換、す なわち他、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

者の自己化のために自己を他者化する、というロジックだといえよう。このロジックが、無 意識の効果として現在に貫徹されることで、個人は他者を通じて主体化されるのである。

 では実際、自己の他者化によって他者の自己化は可能になるのか。むろんそれはありえない。自己 に同化しきれないからこそ他者は他者なのである。他方、他者の自己化が不可能であるのに自己の他 者化は可能になるのか。それもありえない。自己を他者化するためには、他者の欲望を読まねばなら ないが、その欲望を読みきれないからこそ他者は他者なのではないか。とすれば、他者の自己化のた めに自己を他者化するというロジックは、不、 、 、 、可能な無意識的幻想だということになる。

 ならば、この不可能な幻想の点にこそ、主体化プロセスの「隙」が認められるのではないか。この 幻想が解体されるならば、自己の他者化への欲望が失われ、自、 、 、 、 、 、 、 、

己のあるべき姿についての言説から真 理性が失われる。つまり、信じ従うことから解き放たれた主体となりうるのである。

(4)フィンク

 では、いかにしてこの幻想の解体は実現されるのか。このことを考えるためにはラカン派精神分析

B.

フィンクの議論が役に立つだろう。

…ラカン的な立場からすれば、分析家

analyst

とは、分析主体

analysand

の要求のうちに単なる 要求以上の何かを聞きとる〈他者〉

Other

の役割を演ずると同時に、いざ解釈の段になればそ

(10)

の役割を放棄するのでなければならない。分析主体に対して明快でわかりやすい意味付けを与 えるならば、ある種の依存を引き起こしてしまい、これを放棄させるのは非常に困難である。

つまり、分析主体は、自分は解釈を要求してそれを受けとりさえすればよいと心得るようにな り、分析家は中身のつまった壺のように知識を持った者であるとみなされ、分析主体の方は空 の壺のようなものであり、分析家に伝えられること以外には何も知らない、という具合になっ てしまう。分析主体と分析家のあいだに、これほど親と子、教師と生徒のような関係を作り出 してしまう事態はほかにない。またこれほど強く依存心を呼び起こし、分析のはじめから分析 主体を幼児化し、分析を構造的に終わりのない養育的もしくは教育的な過程へと変えてしまう こともない。

[CILP:45=66-67]

 この主張は、分析のあるべき姿を教育関係との批判的比較において表現しているという点で興味深 い。

 フィンクは言っている。まず、分析家

analyst

は、分析主体

analysand

(クライエント)の知る べきことを知っており、それを言葉にして教えてくれる「他者

Other」の役割を演ずる必要があ

る。しかし同時に分析家は、解釈にいたってその役割を放棄しなければならない。そうでなければ、

、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

育関係におけるように、分析主体は分析家の解釈に依存し、自分で考えることをしなくなってしま うのだ、と。

 明らかなように、ここでフィンクは本稿と問題意識を共有している。「他者」の役割を演ずるとは、

欲望の原因となる(その人の欲望しているものを欲望したくなるような存在になる)ということであ り、分析主体

/

学習者を信じさせ従わせるということである。「他者」の役割を放棄するとは、欲望 の原因となることをやめ、信、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

じさせることから距離をとるということである。前者にとどまることな く後者にまで至ることが分析のあるべき姿だというなら、本稿が学ぶべきはフィンクにおける前者か ら後者への移行の理論である。

 フィンクはこの移行について、次のように語っている。

 分析家は血筋、慰め、哀れみ、その他何であれ両親が望んだ物と同じ物を望んでいるとみな される。〈他者〉が何を欲するかについての分析主体の観念が何度も繰り返し投射される。…

分析主体は分析家が何を求めているか、さまざまに想定するわけだが、分析家はそれに対抗し て、分析主体が期待していることとは別のことに関心があることを表明する。

[CILP:57=86-87]

 

 他者の欲望を欲望することの源泉が無意識に抑圧された両親の欲望の欲望にある以上、分析場面に おいて分析主体が無意識的に期待するのは、いま自分が欲望している分析家の欲望と、かつての両親 の欲望とが一致することであろう。ゆえに分析主体は、その期待にそくした形で、あらかじめ分析家

(11)

の欲望をあれこれと想定することになる。

 もし、分析家がこの想定に応じるならば、分析主体の欲望の原因として機能することになろう。し かし今求められているのは、その役割を放棄することである。したがって、分析家は自らの欲望が分 析主体の想定とは異なるものであることを繰り返し示さねばならない。

 こうすることによって、〈他者〉の欲望は疑問符のなかへ投げ込まれる。〈他者〉の欲望は、

分析主体がこれまで想定してきたものではない。それどころか分析主体がいつも想定してい たようなものであったことはおそらく一度もない。それはおそらく分析主体の側の想像物ない しは構築物なのであり、分析主体が自分の両親の欲望の謎に対して出した答えを表している。

[CILP:58=87]

  

 分析主体は自らの想定がことごとく退けられることを通じて他者の他者性に直面し(1)、いままで 他者の欲望だと考えていたものは、実は他者のものではなく自らが想像・構築したものであったこと に気づく。他者の欲望だと思われたものが自己の欲望であった以上、自己の他者化などということは、

これまでもこれからも不可能であると思い知る。

 こうして、他者の自己化のために自己を他者化する、という不、 、 、 、可能な無意識的幻想が、文字通り不

、 、 、 、 、能であることへの気づきを通じて崩壊する。分析主体は自己の他者化の欲望から解き放たれ、ここ

にいたってはじめて、自らの根源的欲望(他者の自己化の欲望)とその不可能性と正面から向き合う ことになる。そのとき分析主体が、イデオロギーから解放されていることは言うまでもない。もはや 分析主体にとってあ、 、 、 、らゆる他者の言説は、信じ従うべき真、 、理ではない。

 さて、以上の議論を教育の議論に置き換えたとき、教育が信、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

じさせることから距離をとるために必 要なことが見えてくる。

 それは、次の二つの段階にかかわるだろう。(1)学習者にとって教育者がその欲望を欲望したくな るような存在になること。

(2)

教育者の欲望が学習者にとっての謎であるようにすること。

 まず

(1)

。つまり学習者にとって教育者が「知る者・信じるに足る者」となること。その実現に際 して教育者は、個々の学習者の原初的親子関係のあり方に応じて、働きかけのスタンスを調整するこ とになるだろう。「母的な」スタンス(教師が母の位置を占める)、「父的な」スタンス(教師が母の 欲望の位置を占める)、それらの混合、等々。いずれにせよ、この段階の検討は本稿の焦点ではない。

 次に

(2)

。本稿の焦点である。

(1)

の成立により、学習者は自らの欲望にしたがって教育者が自分に 求めているものを捉えよう、輪郭づけようと努力する。が、教育者はその努力に対し攪乱する。たと

(1) この点に関してフィンクは次のようにも述べている。「私たちは、彼ら

[

両親

]

の求めるものを読み取ろうとするなかで、

次のような事実に直面する。すなわち、人はいつも本音を言うとは限らない、つまり、彼らは自ら欲しいと言っているも のを本当にいつも求めているわけではないという事実、彼らは要求するものをいつも欲望しているとは限らないという事 実である。」[CILP:54=81]

(12)

えば、多義的な指導を行うことで。あるいは矛盾を矛盾のままに伝えることで(2)。この攪乱により 学習者は教育者の他者性に直面し、他者の欲望を読み取ることの不可能性を悟る。ここにおいて、他 者の語りはすでに信じ従うべきものではなく、状況の文脈に応じて取捨可能な、複数あるも、 、 、 、 、のの見方 のひとつでしかないだろう。この

(1)

(2)

の間にとられた距離こそが、本稿が求めるものに他なら ない。

 信じ従うことから学習者が解放されるということは、教育者が「知る者・信じるに足る者」とし ての座から降りることを意味する。J.ランシエールが言うように、これまで教育なるものがおよそ、

、 、る者、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

が知らない者を教え導くという「知性の不平等

l

inégalité des intelligences

」を前提として成立 してきたのだとすれば(3)、今後求められるべき教育においては、この図式こそが解体されねばなら ないだろう。そしてその後に再構築されるべきは、知る者と知らない者の区、 、別に、 、 、 、 、はじまり区、 、 、 、 、別の解消 、 、 、 、おわる教育観、ないしは、区、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

別の解消に教育の成果をみる教育観(4)である 。

 とは言え、そこへと到る理論的・制度的・実践的具体像はまだ見えない。多くの課題を残しながらも、

現時点で本稿が語りうるのはここまでである。

引用文献に関する註

 アルチュセール(

Louis Althusser

)、フロイト(

Sigmund Freud

)、およびフィンク(

Bruce Fink

)から の引用は次の略号を用い、頁数とともに文中に挿入する。

・Althusser, L.

TNTD: Trois notes sur la théorie des discours,1966. Écrits sur la psychanalyse : Freud et Lacan, STOC/

   

IMEC, 1993, pp.117-170.

=石田靖夫他訳「言説理論に関する三つのノート」『フロイトと

   ラカン―精神分析論集』、人文書院、2001年、125-188頁。

IAIE: Idéologie et appareils idéologiques d’ État,1970. Sur la reproduction : Idéologie et appareils

   

idéologiques d

État, Presses Universitaires de France, 2011(1995), pp.263-306.

=西川長夫他訳「イ    デオロギーと国家のイデオロギー諸装置」『再生産について―イデオロギーと国家のイデオ    ロギー装置』、平凡社、2005年、319

378

頁。

(2) 具体的には、社会科教育において「生産諸条件の再生産」(アルチュセール)の観点に立つことが挙げられるかもしれない。

生産諸条件(土台)が国家権力を介して人々の意識(上部構造)を規定し、またその反作用として、人々の意識(上部構 造)が生産諸条件(土台)を規定するというこの観点に立って授業を構成することで、学習者は社会的生存と民主的生存

(権力に従属する必要性と権力から自由になる必要性)という相反する価値・規範の前で葛藤することになる。この葛藤が、

ここで言う「攪乱」に通ずる可能性は十分にあり得えよう。 

    この社会科教育をめぐる問いは次に示す論考において、かつて検討したことがある。野見収「公教育における今日的課 題と社会科教員養成―社会認識形成論のための一考察―」『総合学術研究紀要』第

14

巻第

2

号、沖縄国際大学総合学術学会、

2011

年、1-35頁。あるいは、野見収「「発達教育学」の今日的可能性に関する覚書」『総合学術研究紀要』第

16

巻第

1

号、

沖縄国際大学総合学術学会、2012年、79-97頁。

(3) Rancière, J., Le maître ignorant, Librairie Arthéme Fayard, 1987=梶田裕

/

堀容子訳『無知な教師―知性の解放について』、法政 大学出版会、2011年。

(4) この観点と、伝統芸道の継承における「守破離」の思想との関連性は興味深い。今後検討したい課題である。

(13)

Freud, S.

DAS: Drei Abhandlungen zur Sexualtherie,1905. Gesammelte Werke

, Imago Publishing, Co. Ltd.,

   1991(1942), S.29-145.=中山元編訳「性理論三篇」『エロス論集』、ちくま学芸文庫、

1997

年、

   

15

200

頁。

  ÜT:

 

Über Triebumsetzungen, insbesondere der Analerotik,1917. Gesammelte Werke

., Imago

   Publishing, Co. Ltd, 1991(1946), S.401-410.=中山元編訳「欲動転換、特に肛門愛の欲動転換    について」『エロス論集』、ちくま学芸文庫、1997年、375

387

頁。

  UÖ:

 

Der Untergang des Ödipuskomplexes,1924. Gesammelte Werke

Ⅹ Ⅲ

., Imago Publishing,

   

2010(1940), S.393-402.

=中山元編訳「エディプス・コンプレックスの崩壊」『エロス論集』、

   ちくま学芸文庫、1997年、295

307

頁。

Fink, B.

CILP :

 

A Clinical Introduction to Lacanian Psychoanalysis: Theory and Technique, Harvard

   University Press, 1997.=中西之信他訳『ラカン派精神分析入門―理論と技法―』、誠信書房、

   2008年。

参照

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