論文
鹿児島城の地形・地質学的背景
大木公彦!)
l)891‑0197鹿児島市坂之上8‑34‑1鹿児島国際大学
まえがき
関ヶ原の戦い直後に築かれた鹿児島(鶴丸)城は吉野台 地の南端にあり北に城山を背負い.南には鹿児島(錦江)
湾が広がっている法隆寺の棟梁であった西岡常一は.法 隆寺が北に山を背負い南に川や田圃のあることから.冬の 乾燥した北からの風を防ぎ.南の水の存在が適度な湿度を もたらし.田圃の真ん中にある薬師寺に比べて法隆寺に使 われた木材の痛み方が少ないと述べている.一方.鹿児島 城の石垣石塀は,北に広がる吉野台地から切り出された 吉野火砕流の溶結凝灰岩を石材としている鹿児島城の立 地条件は地形・地質学的にみて理想的と言うことができる
ここでは鹿児島城のある城山がどのような地質からなる のか.その地形がどのようにしてできたのか. さらには北 に広がる吉野台地との係わりについて地形と地質の特徴に 触れながら述べてみたい.
謝辞:本論文は鹿児島国際大学の三木靖名誉教授の勧 めによって執筆したものである. また.鹿児島国際大学 考古学ミュージアムの鐘ケ江賢二博士には本誌への掲載
を勧めていただいた.お二人には心よりお礼を申し上げ
る.
吉野台地の地形と地質
吉野台地は鹿児島市の北東部に広がる台地で.東〜南東 縁は姶良カルデラ壁に相当する急峻な崖によって鹿児島湾 奥部と隔たれている(図l 。 2).北.西,南西縁には.北 東の寺山を源とする椅木川(下流は稲荷川)が台地を取り 囲むように流れている.梢木川より西側の地域も吉野台地
と考えてよいが. シラス(入戸火砕流堆積物)が厚く堆積 していることから全体に解析が進み,台地状地形はほとん どみられない. このことは10m置きに塗色した図3の地 形図で明瞭にわかる台地而は北東から南西へ緩く傾斜し,
やや扇状の地形を呈している(図l 3) 扇頂に相当する 寺山では標高が約420m.南西の縁辺部では約150mであ るちなみに寺山より3kmほど南にある県立吉野公園の 展望台が234mである寺山から南西の猜木川近くまでの 直線距離は約5kmで平均斜度は3.弱である.
吉野台地面の比較的水量のある川は.吉野町磯の仙巌園 付近に河口を持つ花倉川と磯川があり. カルデラ壁の溶結 凝灰岩(吉野火砕流)の崖に滝を作っている花倉川は寺
一一
空一
一●。
今
図2.桜島より見た吉野台地
図1鹿児島市の地形(大木『 1974;大木ほか', 2010)
多賀山公園に近い琉球人松付近で60mである(図5).
吉野火砕流は著しく溶結しており.吉野台地東〜南東 縁の急崖では柱状節理の発達する垂直の崖を形成してい る(例えば,磯仙巌園の千尋巌と彫られた岩) 吉野台地 の平坦面を形作っている地層は.基本的にこの吉野火砕流 の溶結凝灰岩で.その浸食面を非溶結の入戸火砕流堆積物 が覆っている(図5)入戸火砕流堆穣物は南へその厚さを 増し,楕木川左岸の傾斜地では30mにも達する場所があ る台地の標高250m以上では,入戸火砕流堆積物はほ とんど確認できず,谷沿いに露出する程度である.吉野火 砕流堆積物は台地北縁の谷壁に西へ高度を下げながら露出 する.吉田インター近くの台地北西端の花棚では花倉層 を覆って.上面の高度が200m前後で,最近まで「花棚 石」の名で溶結凝灰岩が切り出されていた(現在も看板が ある).西縁の下田町では楠木川の標高120mの河床から 160m付近の高さまで露出しているが周辺の吉野火砕流 堆積物の層厚から判断して椅木川河床の地下40m近くま で本火砕流堆積物が存在すると考えられる.
一方,横木川右岸の,台地北縁の関谷から吉田インター,
西縁の下田町までは吉野火砕流堆積物がまったく露出せ ず,入戸火砕流堆積物のみが崖に露出している(図5).下 田町以南では,下田三文字の椅木川から西へ約300mほど 離れた田入道北の谷の崖に吉野火砕流の溶結凝灰岩が露出 しているが.その最上部の高度は約100mで.楠木川左 岸の吉野台地に分布する吉野火砕流堆積物の最上部より約 60mほど低い.大木(1969MS)は,下田三文字の東西断 面を示し,楕木川沿いに断層を推定して西側が落ちている ことを指摘した(図6). この断層は吉野台地西縁の関吉か ら磯へ至る猜木川沿いの北西一南東方向の断層として活断 層研究会編(1980)に報告され㈱大木ほか(2010)によっ て稲荷川断層と命名されている また,吉田インターから 下田町(関吉)に至る猜木川沿い, さらにその延長である 長井田川の北東一南西方向の断層が存在し(活断層研究会 編, 1980;大木. 1995 ;大木ほか, 2010).楕木川がこれ ら2つの直交する断層に流路を支配されていることがわか
る.
図3.吉野台地の地形(大木b l994a,b,c)
山を源としているが,地下への浸透のために水量は極めて 少ない台地を取り囲むように流れる椅木川は.吉野台地 の北方に広がる牟礼ヶ岡,赤崩山系の水を集めて.一年を 通じて水量が多い
吉野台地の北方に広がる赤崩や牟礼ケ岡などの600mを こえる山体はおもに火山岩から成り,およそ60万年以降 に隆起したことが標高200m付近に分布する.貝化石を 含む海成層の存在でわかっている(大木, 2000). この隆 起によって吉野台地もおよそ60万年前以降に傾動し.北 東から南西へ台地面が傾いたことを地層から読み取ること ができる. この結果,北東部の大崎鼻.竜ケ水,三船地域 の急崖(カルデラ壁)の下半部は,約70〜50万年前の 火山岩類(三船流紋岩.竜ケ水(=牟礼ケ岡)安山岩大 崎鼻デイサイト,平松安山岩, 白浜玄武岩;大木・早坂,
1970;周藤ほか, 2000)から構成され, これらの火山岩を 覆って海成層(花倉層・磯火砕流),吉野火砕流堆積物が 重なっている(図4).吉野火砕流の噴出年代が約50万年 前と報告されている(町田・新井. 2011)ことから,花倉 層は50万年より古いと考えられる.
花倉層は吉野台地東〜南東縁の急崖で連続して追うこと ができる.北部の竜ケ水付近では標高300m付近に露出す るが,南へ高度を下げ.三船で最下部が海水準より下にな り、磯の鳥越ですべて海水準下になって見えなくなるそ れを不整合に覆う吉野火砕流も同様に南へ高度を下げ.そ の上面の標高は竜ケ水で300m,三船で180m,磯で120m,
楕木川より西側の地域の地形と地質
前述したように.楕木川より西側. 甲突川に挟まれた地
域の地形は吉野台地とまったく異なり浸食谷が発達して
いる(図3).長井田川.楕木川, 甲突川に囲まれた地域
において(図1, 3. 5;北端が下田町関吉.南端が城山).
、I
崎鳳
竜ヶ水の崖の地層
火山灰層 吉野溶結凝灰岩 花倉層(海成間)
一 一 一
火山岩類 大木I嘘峰越
図4.竜ケ水付近、カルデラ壁の地層の重なり
(大木. 1969MS)
吉野火砕流の溶結凝灰岩が露出する田入道北の谷の崖と南 の上竜尾町南洲墓地を結ぶ線より西側.長井田川と甲突川 に囲まれた地域には本火砕流堆積物の分布が確認できず.
約12.5万年前の最終氷期の海成堆積物である城山層より 若い地層が分布する上竜尾町南洲墓地は,鹿児島城趾(黎 明館)より約700mほど北へ離れている鹿児島城趾か ら200mほど南西に離れた場所(旧KKR敬天閣敷地)で 掘削された温泉ボーリングでは.海水準下33mから80m の間に吉野火砕流の溶結凝灰岩が確認され(早坂・大木 1971). この溶結凝灰岩の層は少なくとも南西へその分布 高度を下げている.
図5.吉野台地を形成する吉野火砕流堆積物(茶色)と 入戸火砕流堆積物(黄色) (大木.早坂1970に加壷)
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図6.吉野町下田三文字を東西に切る推定地質断面図
(斜線の地層:吉野火砕流堆積物;大木, 1969MS)
吉野火砕流(太田ほか, 1967)の溶結凝灰岩と石材(大木,
2015)
吉野火砕流の溶結凝灰岩は吉野台地のみに分布し、大 木・早坂(1970)は3枚の溶結凝灰岩(クーリングユニッ ト)を識別した.暗褐色〜灰色を呈し,ユータキシテイッ ク構造が非常に顕著である とくに吉野台地の花棚に分布 する上部溶結凝灰岩はユータキシテイック構造が発達して いる下門火砕流の溶結凝灰岩に似た岩相を示すが.褐色 を帯びていることや,普通角閃石が少ないことから区別す ることができる.
江戸時代に鹿児島城と城下町の石垣や石塀などに使われ た石材は,城下町に近い吉野台地南縁から切り出され,お もな産地であった鹿児島市皷川町のたんたどの地名から
「反田土石」と呼ばれた.雀ヶ宮落しを流下し、滝の懸か る磯川近くの磯山下からも切り出されたことが報告されて いる(平田, 1995) 1960年代後半まで磯の琉球人松でも 採石が行われていた.吉野台地の川上花棚にも採石場が あり.それぞれ「川上石」, 「花棚石」と呼ばれているが
現在は「花棚石」のみが販売されている.
吉野火砕流の溶結凝灰岩を使った代表的な石造物とし て.すでに述べた鹿児島城西南の役の弾丸跡が残る私学 校の石垣と石塀島津氏の別邸であった磯仙巌園の歴史的 建造物等がある鹿児島城から仙巌園へ至る古い町並みや.
薩英戦争の舞台にもなった海岸の砲台跡の周辺には「反田
土石」を使った石造物が多く残され薩摩藩が石の文化に
よって支えられていたことがわかるさらに島津氏の菩提
寺であった福昌寺の墓所の石垣石塀.石灯籠も, ほとん
どが「反田土石」である.鹿児島市の甲突川に架かってい
た五石橋で. もっとも下流にあった武之橋は磯山下から切
り出された吉野火砕流の溶結凝灰岩である(平田. 1995)
ちなみに他の4つの石橋の橋脚は加久藤火砕流の溶結凝灰
岩「小野石」を使っている鹿児島市市街地のいづろとい
う地名は石灯龍の鹿児島弁に由来している.いづろ通りの
角にある石灯篭も「反田土石」で.かつては波止場にあっ
たと記されており.そのためか風化が進んでいる.
図7.吉野台地の水源(鹿児島市水道局、2014) 図8.城山地域の地質(大木原図;枇幅1.13kmで上が北)
吉野台地の地下水と城山
北東から南西へ傾斜している吉野台地に降った雨水は,
台地面を覆う火山灰土壌に保水されながらゆっくりと地下 へ浸透し,おもに吉野火砕流の溶結凝灰岩に発達するク ラック(柱状節理)の中を,下流側の南西方向へ移動する と考えられる.その理由として.下位のおもにシルト層 からなる海成層(花倉層)が水を通しにくいこと.溶結 凝灰岩の層自体が北東から南西へ傾いていることが挙げら れる.南西の下流側には前述の椅木川に沿う断層が存在す るが,その断層面を流下し,最終的に本火砕流の溶結凝灰 岩が露出する田入道北の谷の崖(図6)と南の上竜尾町南 洲墓地を結ぶ線付近で湧出することになる.田入道付近に は金子,明ヶ窪日当平の,城山付近には玉里,冷水の鹿 児島市水源地があり.南北に並ぶ(図7).図7から明ら かなように,水源地は梢木川沿い,および上述の吉野火砕 流の溶結凝灰岩分布域西緑にあり,名水と呼ばれる湧水も
この地域に限られる鹿児島城跡(黎明館)の裏手にあた る城山への遊歩道沿いに「近衛の水」と呼ばれた名水を鹿 児島城へ導水した上水道の遺構がある. この上水道の遺構 は,おもにシルト層からなる城山層を掘削してつくられて いる.冷水から玉里付近に分布する城山層は小断層が発達 し,そこから複数の湧水が認められる.城山を含む山体は 永田町から玉里町へ至る冷水街道沿いの.北西一南東方向 の谷によって北東の吉野台地から独立している(図1. 3.
5) さらに狭義の城山は東北東一西南西方向の岩崎谷と新 照院の谷によってさらに分けられている.城山は集水面積 が小さく,安定して水が得られないことから.上水を冷水
から導水したと考えられる
城山地域の地質
城山地域の地質は.大木・早坂(1970),大木(1974)によっ て詳細に調べられ,報告された図8に地質図を示すが.
最近の調査によって地層境界の標高が少し異なることがわ かったので.各地層の記載の中では修正した標高を示す
城山地域の地層は,下位より城山層・竜尾層(図8の青 桃・黄緑).鳥越火砕流堆稜物(黄).入戸火砕流堆積物 (燈).桜島薩摩テフラ(紫)が重なっている下位の城山 層と鳥越火砕流堆積物は.城山地域の北東部に露出し,南 西部は入戸火砕流堆績物のみが城山の南東側の崖に露出し ているこれらの地層の浸食面を覆って.城山の頂上部お よび東斜面の一部に桜島薩嘩テフラ(=火山灰層)が分布 している.
城山層は,鹿児島城に面した城山の南東斜面の標高30 m付近まで露出しており,鳥越火砕流堆積物(阿多火砕 流堆積物)の直下に分布することから,最終間氷期5e (約 12.5万年前)の海成層と考えられている(大木. 1999ト下 山ほか, 1999). また,産出する貝化石や底生有孔虫化石 群集から内湾浅海域の堆積環境であったことが報告されて いる(大木・早坂1970;Oki. 1975).城山地域北東部に 分布する城山層はおもにシルト層からなり.一部に砂礫層 砂層を挟む.標高10m前後に下部貝化石層(大木・早坂,
1970)が存在し,大型重厚な殻を持つO・"sos"℃αgjgns
(Thunberg)が密集して産出する.標高20m前後の上部貝
化石層(大木・早坂, 1970)は.貝化石の殻がすべて溶け
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正 he図9.岩崎谷の城山層のシルト層と砂層の境界 図10.岩崎谷の城山層・鳥越火砕流堆積物の露頭
去っている. この層準には巣穴の生痕化石が多産し,大木 ほか(2013)が指摘したようにシルト層を覆う砂層(竜 尾層下部層)との関係は生痕化石が両者を貫いており.明
らかに整合関係である(図9)
城山層を覆う鳥越火砕流堆積物(大木1980)は.大木・
早坂(1970)の竜尾層上部層に相当し、大木(1974)によっ て鹿児島市西之谷付近に分布する竜尾層上部層は火砕流堆 積物の水中堆積物である可能性が指摘されていた.大木ほ か(2013)が報告した岩崎谷の露頭(図10)では標高 30m付近で本火砕流堆積物が城山層の砂層(竜尾層)を 覆っている. この露頭では本火砕流堆積物が海水の影響を 受けたと考えられる堆積構造を示し,城山層が堆積してい
る当時の海底を鳥越火砕流が埋め立てた可能性が高い.
桜島薩摩テフラ(小林. 1986)は大木・早坂(1970) の新期火山灰および軽石層下部の薄層理軽石質火山灰層に 相当し、鹿児島市北部地域の台地上の平坦面に広く発達す る吉野台地東縁のカルデラ壁を覆うように海岸から台 地上まで分布し,海岸近くの花倉では層厚が5mにも達 する大木・早坂(1970)は. この堆積物の層厚の変化か ら噴出源を桜島付近に求めている.一部に斜交層理が見ら れ,台地上で東の桜島側から西へ流動した堆積橘造を示す ことから.マグマ水蒸気爆発の堆積物と考えられる.城山 展望台へ至る遊歩道では.城山層.鳥越火砕流堆積物,入 戸火砕流堆積物を削った小規模の谷を埋めるように分布 し,鹿児島城跡(黎明館)に沿った遊歩道まで続いており,
その斜交層理の堆積榊造から.桜島薩摩テフラが小規模な 旧谷地形を遡ったと考えられる桜島薩摩テフラは縄文草 創期の約12,800年前に噴出したと報告され(町田・新井.
2011).城山の浸食地形を覆っていることから,縄文草創 期には現在の城山の原型は出来ていたことになる.
鹿児島城跡地(黎明館敷地)の基盤の地質
鹿児島県は.平成26年度「鶴丸(鹿児島)城跡保全整 備事業」にともなって,鹿児島県歴史資料センター黎明館 敷地内において.御楼門部跡の基礎調査のために3地点の ボーリング調査を行った.ボーリング調査地点は.御楼門 跡西側・五疋立御召馬厩跡付近(No. 1).御楼門跡北側.
桝形内(No.2),御楼門跡東側・横矢掛部分(No.3)であ る. ここでは大木ほか(2016)の報告を中心にその概略を 述べる
1)地下層序
ボーリング調査(図1l)によって地下地質は4層に分 けられ、下位より火砕流堆積物(Si).比較的固結度の高 い堆積物(t),軟弱な堆積物(a)が累重する.御楼門跡 西側(No. l).御楼門跡東側(No.3)の地下は.桝形の御 楼門跡地の敷地面より高い部分は埋土(0である.比較 的固結度の高い堆積物(t)はN値から城山層に対比され 軟弱な堆積物(a)は分布高度から縄文海進時の沖積層と 考えられる
2)火砕流堆積物
ボーリング調査によって得られた火砕流堆積物は弱溶結 から非溶結で,いずれのボーリングでも本火砕流堆積物よ り下位の地層に達しておらず.層厚は16.3m以上である(御 楼門跡北側;No.2).各ボーリング地点において御楼門 跡西側(No. 1)では標高3.09mより下に.御楼門跡北側(No.
2)では標高3.52mより下に.御楼門跡東側(No.3)では 標高3.27mより下に分布している2016年度に鹿児島城 跡地である黎明館の敷地内で行なわれた4地点のボーリン グ調査でも.ほぼ同じ標高に本火砕流堆積物の浸食面が位 置し、平坦面を形成していることが明らかになった.
本火砕流堆積物と鹿児島に分布する他の火砕流堆積物と
の比較を行なうために大木ほか(2016)は火砕流堆積物
噴出した入戸火砕流堆積物(通称シラス)は,すでに削剥 されていたこの地形を埋めたと考えられるが,その後の河 川による浸食海進に伴う波浪による浸食によって,地 下にはほとんど存在しない旧石器時代にあたる最終氷期 のピーク以降は海水準が急速に上昇し,約1 .3万年前の縄 文草創期には−60m前後であるが, この当時の鹿児島市 平野部地下の地表面はまだ海域にはなっていない.霧島市 上野原に縄文人が定住した9,500年前頃には‑30m程に なって一部が海域になっていたことがわかっている(大 木, 2000:大木, 2002;図13). 約7,000〜6,000年前に 現在の海水準に達し,約6,000〜5,500年前に海水準が最 も高くなったと報告されている(Zhenge/q/., 1994;斎藤 1998) この時期を日本では縄文海進と呼んでいるこの 海水準の上昇に伴って当時の陸域は浸食され,海域では 沖積層が厚く堆積したその結果現在の海水準より5m 前後も上まで埋め立てられ,その後の海水準の低下によっ て平野が出現したしたがって鹿児島市の平野部では縄 文海進以降の遺跡のみが存在することになる(大木ほか 2011).
図11.御楼門周辺のボーリングによる推定地質断面
(大木ほか, 2016)
中のガラスの主成分化学組成について分析し,吉野火砕流 堆積物の化学組成に極めて類似していることから.吉野火 砕流堆積物の一連の堆積物と考えたまた前述のように 鹿児島城趾内のボーリング地点から200mほど南西に離れ た場所(旧KKR敬天閣敷地)で掘削された温泉ボーリン グでは,海水準下33mから80mの間に吉野火砕流の溶結 凝灰岩が確認されていることから,本火砕流堆積物は.直 接コアで確認されていないが吉野火砕流堆積物の上位にあ ると考えられ層位学的に吉野火砕流堆積物と城山層の間 に位置すると考えられる.大木・早坂(1970)は、吉野火 砕流堆積物を下部,中部上部(クーリングユニット)に 分け,それぞれの間に堆積物が冷却する堆積間隙の存在を 報告した.今回その上位に一連の火砕流堆積物が見つ かったことから,吉野火砕流は4回のクーリングユニット を持っていると考えられる
まとめ
1.鹿児島城跡は吉野台地の南西端に位置し,背後にある 城山が冬の南西からの季節風をさえぎり,南東側は鹿児 島湾に面して適度な湿度が保たれることから.立地条件 の良い場所ということができる.
2吉野台地面は北東から南西に傾斜し,台地を形作る吉 野火砕流の溶結凝灰岩の分布を反影している. また,溶 結凝灰岩層の下位には透水性の悪い海成の花倉層が分布 しているため.吉野台地に降った雨水は溶結凝灰岩に発 達するクラック(柱状節理)の中を下流側の南西方向へ 移動し,湧出している.
鹿児島城に導水された冷水を水源とする水も,吉野台地 から地下水としてもたらされた良質の水である.
3鹿児島城の基盤の地層は↑約50万年前に噴出し堆積 した吉野火砕流堆積物の最上部と考えられる火砕流 堆積物,それを覆う約125万年前の海に堆積した城山 層からなり,基盤としては安定している.
4.城山の現在の地形は,縄文草創期の約12,800年前に噴 出した桜島薩摩テフラが,下位の地層の浸食地形を覆っ て城山の尾根部から斜面にかけて分布していること から,縄文草創期には現在の城山の原型は出来ていたこ 城山を形成する地層から読み取れる地史
吉野台地およびその周辺の地層の重なりから以下のよう な地史が読み取れる
約50万年前に噴出した吉野火砕流堆積物は吉野台地を 形作ったが,噴出時およびその後に続く傾動運動によって 堆積物は北東から南西へ緩く傾斜した.最終間氷期の約 12.5万年の海進によって台地の南縁は水没し、城山層を堆 積させた.その後,海が退き約1.6万年前にピークを迎 える最終氷期には,汎世界的に海水準が約120m下がっ たと報告されている.最終氷期から縄文草創期にかけて,
現在の鹿児島市の平野部にあたる地域は,場所によっては
当時の地表面が50m強も下にあったことが報告されてい
る(鹿児島市地盤図編集委員会1995 ;図12) 当時の城
山の南斜面は急で, ‑40mまでその急傾斜が続いていた
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約6,000年嗣
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約9,500年前
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