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論 文
清代外モンゴルにおける駅站の牧地実態に関する一考察
*トシェート・ハン部の諸駅站と旗との間の牧地境界画定過程 朝魯孟格日勒
Actual Condition of Posthouse’s Pastureland in Outer Mongolia during the Qing Period
Demarcation Process of Some Borders between Posthouses and Banners in Tüsiyetü Qan Ayimaγ
CHOLMONGEREL
This paper examines the sharing and demarcation of pasturelands among posthouses and the neighboring banners in Outer Mongolia during the Qing Period, using historical documents preserved in the National Central Archives of Mongolia. The following results were obtained.
The pastureland borders of Qaračin Posthouse, Zhangjiakou Road Posthouse, Sayir usu Road Posthouse, Küriy-e Front Road Posthouse, and Uliyasutai Front Road Posthouse were established between the 45th (1780) and 47th (1782) year of Qian Long’s 乾隆 reign. Depending on geographical conditions such as water and grass, pastureland ranging from 15 to 70 γaǰar was distributed to each posthouse from their neighboring banners; this was achieved by measuring parallel and vertical directions in relation to the main road of the posthouse, except for the case of the Uliyasutai Front Road Posthouse.
Following this, from the 45th year of Qian Long’s reign (1780), the oboos, which were the new borders of the posthouses and the banners, began to be established. They were finally completed in the reign of Tong Zhi同治 (1862–
1874), and based on the pastureland range regulations established between the 45th and 47th year of the Qian Long reign. The fact that there was no change in the pastureland of posthouses in Outer Mongolia during the Qing period was also clarified in the text. On the contrary, the pastureland border between ayimaγs and banners was continually changed in settlements of pastureland conflicts. The disputed area was considered hard to change, as it was essential
Keywords: Qing Dynasty, Outer Mongolia, Posthouse, Pastureland, Border demarcation
キーワード : 清朝,外モンゴル,駅站,牧地,境界画定
* 本稿は,平成28–31年度科学研究費補助金(若手研究B)による研究成果の一部である。また,そ の内容は「日本モンゴル学会」(於大谷大学,2016年11月26日)にて口頭発表している。席上で 貴重なご教示,ご助言を賜った方々に衷心より感謝の意を表したい。
はじめに
清朝支配下の外(ハルハ)モンゴルには盟 旗制度が敷かれており,盟やその下位の旗 という行政組織が置かれた(稿末の地図1)。 各盟には盟長,副盟長ら,各旗には旗長,協 理台吉らの官員が各々任命されて,盟や旗内 の諸事務を処理していた。また,外モンゴル 地域を含む藩部に対する中央の監督機関とし て北京の理藩院が設置され,その理藩院と盟,
旗との間には庫倫辦事大臣衙門等,地方駐防 官の役所が設けられていた。この中央の理藩 院と地方とを人や公文書によって連結する役 割を果たしていたのが駅站システムであっ た。そもそも駅站制は,中国では古く秦・漢 の時代からかなり発展しており,唐代には首 都の長安と地方を結ぶ等,一層の拡大・整備 がなされた。この制度はその後の宋,元,明 の時代にも受け継がれ,例えばモンゴル帝国 期で言うと,チンギス・ハン時代の公道に駅 站を設けた「ジャムチ(駅赤)」と呼ばれる 駅站システムは,オゴデイ・ハン時代に全国 的規模にまで発達し,政治・軍事上の指令・
通信・行軍等のために使われる特別路線と,
使節・官吏・商人等が旅行・赴任・運輸・通 商のために利用する一般路線との二体系が あった(田村編2000: 124–129,杉山2000:
87)。こうしたモンゴル帝国期における空前 絶後の移動・通信システムは,当時のモンゴ ル人による戦争が生み出した結果であるとも 言われ,その後の各王朝からも軍政事務とし
て重要視されていた(劉2004: 33–42)。 このように,国家の運営を支える柱の1つ となった駅站システムは,清朝においても受 け継がれ,その範囲は境域の拡大に伴って明 代を凌ぐものとなった(劉2004: 44)。清朝 における駅站は,国防・軍事を主目的とする 通信・交通組織であり,文書伝達,物資輸送 や官員接待等の役割を果たしていた。この駅 站システムの高度な運転こそが国内統治に必 要な各種の消息・情報獲得の源となって清朝 の中央集権化を促したのであり,駅站の成熟 と完備は中央集権政治発展の必要条件であっ た(劉2004: 302–303)。つまり,駅站は清 朝という巨大帝国の運営状況を左右する要素 の1つになっていたと言えよう。清代モン ゴルにおける北路駅站は,ジューンガルとの 戦争の過程で最終的に乾隆20(1755)年に 設置・固定され,北部辺境地域における重要 な国防交通網を形成して,外モンゴルと北京 とを緊密に連結していた(金峰1979a)。地 方に対する清朝中央の安定した統治・管理に は駅站の正常な運営が必要不可欠であり(劉 2004: 303),モンゴルへの統治においても駅 站システムが重要な役割を果たしていた。例 えば,『理藩院則例』中の「凡そ口外に駐箚 する将軍大臣が公務を摺奏し,法律通りに駅 站の馬を公務に使用する以外に,仮に勝手に 駅站の馬を使ったならば兵部例の通りに処罰 せよ」,「諸ジャサグ(旗長)の各種公務であ るなら,駅站で伝達せよ。私用であるなら,
勝手に(駅站を)利用させないようにせよ」1)
for the national administration, thus highlighting how severe the Posthouse Management System of the Qing Dynasty in Outer Mongolia was.
はじめに
1. 乾隆45(1780)年から乾隆47(1782)年 にかけての駅站への牧地分配
2. 境界オボー設置への展開
3. オボー設置作業の停滞
4. 駅站と旗との牧地境界の最終画定 おわりに
等々の条文通り,公務以外での駅站の使用が 禁じられる等,諸事務の円滑化を図る措置が 取られていた。
清代外モンゴルの駅站は官設駅站とソム駅 站の2種類に分類され,前者は清朝政府が自 ら設置してその財政や設備を統轄していたの に対し,後者は全て外モンゴルの各盟,旗が 独自に設置・管理していた。本稿では前者の 官設駅站を研究対象とするが,これに当たる 北路駅站には本節で後掲する表1にある如 く,路線によって張家口路駅站,サイル・オ ソ路駅站やフレー南北路駅站等々があった。
稿末の地図1に示したように,張家口路駅站 は,トシェート・ハン部を通るヒラ・モホル 駅站からトゥグリグ駅站までの5駅站と内モ ンゴル地域内の18駅站から形成されており,
11番目のジス・ホンゴル駅站から東南方向 にある張家口を経由して,北京に至る。サイ ル・オソ路駅站は,モホル・ガショーン駅站 から,サイル・オソ駅站を通ってハダト駅站 までの全21駅站からなる。このサイル・オ ソ駅站は,東南方向へは前述の張家口を経て 北京へ至り,北の方向へは外モンゴルの政治,
経済,文化の中心たるフレーを通過してロシ ア国境のヒャグトへ到達し,西北方向へは軍 事拠点であるウリヤスタイ,ホブトを通って,
新疆に至る。このように,サイル・オソ駅站 は,清朝の国防戦略や外モンゴルと内地との 経済・文化の往来等において極めて重要な役 割を果たしていた。また,このサイル・オソ 駅站から北のフレーに至る14駅站がフレー 南路駅站と呼ばれ,フレーからヒャグトま での11駅站がフレー北路駅站と呼ばれてい た2)。駅站の管理組織は基本的には外モンゴ ル各盟旗の行政システムと類似しており,例 えば,サイル・オソ路駅站の場合は,北京の 理藩院→チャハル都統→サイル・オソ衙門の
理藩院章京→駅站の正・副参領という行政管 理ルートであり,フレー南北路駅站の場合は,
理藩院→庫倫辦事大臣→駅站の協理台吉と いう行政管理ルートであった(金峰1979b)。 ただ,王公統治を基本とする盟旗とは異なり,
駅站はチャハル都統や庫倫辦事大臣等の駐防 官衙の統轄下にあり,かつ外モンゴル4盟 や内モンゴルのハラチン・トゥメドから動員 された兵を独自に編成して配置したものであ り,盟旗社会とは根本的に統治構造や編成原 理を異にする社会として作り出されたもので ある。
駅站の設置に関しては,「凡郵政。毎百里 為一傳。…均於水泉形勢之地安設(全ての郵 政は,百里ごとに1つの駅站とする。…水や 地勢のよい地に設置する)」3)の如く,駅站同 士の距離や牧草地,水といった地理状況が必 要条件であった。ただし,南のゴビ砂漠を通 る駅站間の距離は,水草のある地点を物色し たため百里とは限らない場合があった。置か れた各路駅站には公務を支えるための家畜が 備えられており,その家畜の数は駅站によっ て異なるが,例えば「サイル・オソ路の各駅 站の場合,乗用ラクダ(あるいは乗用馬)20 頭,貨物用ラクダ10頭,食用羊25頭(を 備える)」4)と法律上明示されていた。そこ で,これらの家畜に,より良い牧草地を提供 することが駅站公務の円滑な運営に必要不可 欠となるため,各駅站にその周囲の各盟,旗 から特定の牧地を割り当てることとなった
(Насанбалжир 1964: 69–72)。ただ,外モン ゴルにおける駅站のこの種の牧地調整は,乾
隆20,30年代までは清朝とジューンガルと
の戦争や外モンゴルの内乱等に応じて駅站の 設置,撤退や移動が頻繁に行われていたため,
事実上不可能であったと考えられる。例えば,
乾隆21(1756)年にハルハの蜂起によって,
1)『理藩院則例』巻33「郵政下,増纂,擅用駅逓夫馬」。同じく巻33「郵政下,増纂,因公馳駅」。
2) 文書中では,フレー南北路駅站を[buukiy-a]駅站とも呼称している。
3)『欽定大清會典』巻719「郵政」。
4)『理藩院則例』巻31「郵政上,増纂,賽爾烏蘇駅站」。
軍台[čerig-ün örtege]5)がフルジェ・アルダ ホ[kürǰe aldaqu]の道へ移動させられてい た。後の乾隆36(1771)年に7番目の皇女の お見えをきっかけに,各駅站間の道を直線で 結ぶように修復作業が行われた際,サイル・
オソ路駅站の21番のモドン駅站をジョロム ト[ǰurumtu]へ,腰站(子駅站)のハビルガ 駅站をボラグ・スージ[bulaγ seguǰi]へ各々 移した6)。翌乾隆37(1772)年に庫倫辦事大 臣の指示下で,フレーからタラ・ドロン(サ イル・オソ)までのフレー南路駅站において も,各駅站を直線で結ぶ道が修復された7)。
その後の駅站の設置・固定に伴って,乾 隆45(1780)年 と 同47(1782)年 に 各 盟,旗から良い牧草地が駅站に分配され
(Насанбалжир 1964: 72),この駅站用の牧地 では駅站の賦役負担者以外の者による遊牧が 禁じられた(Насанбалжир 1964: 72–73)。例 えば,当時の駅站への牧地分配について,理 藩院は,「軍台の(牧地)境界画定は,馬,
家畜を肥やして放牧し,全ての緊急事務を,
余裕をもって迅速に伝達することが,極めて 重要である」8)とチャハル都統に通達してい る。つまり,駅站用牧地の維持・確保はそ の運営管理に直結する極めて重要な要素の1 つであった。また,駅站の路線が一旦確定さ れれば,個々の駅站の位置も一般的には固定 された不変のものとなる(金峰1979b: 535) ことから,駅站の牧地も容易に変動されたり はしなかったと考えられる。一方,清朝のモ ンゴル統治策たる盟旗制度の一環として実施 された盟や旗の牧地境界画定政策に伴って,
乾隆46(1781)年に外モンゴル西部3盟,
嘉慶10(1805)年にトシェート・ハン部内 諸旗といった盟や旗の牧地境界が初めて画定 された(岡1988a)が,その後の各盟や旗間 の牧地紛争によって境界は徐々に変更され,
道光(1821–1850年),同治(1862–1874年) 年間になってようやく最終的に画定されて定 着した(朝魯孟格日勒2014–2015a,同2015b,
5) 駅站は主に国防・軍事の目的で使われていたため,時折軍台や軍站とも呼称されていた。
6) M-9-1-1654-458a-461b. 道光10(1830)年9月10日付トシェート・ハン部盟長鎮国公ソノムワン チョグからの当該盟長鎮国公(左翼後旗)の印務を管理する協理台吉ら宛箚文。当該文書によると,
両駅站は移転したものの,その駅站名は変更されなかった。この移設後の駅站名称変更については,
中村2019でも詳しく考察されている。また,フスレ2016では,駅站の道以外に政府専用の道「公 主の道」があり,駅站の道より遥かに近いと論じているが,チャブチル駅站まで平坦な道となるよ うに修復した際,上記2官設駅站を移転させる等,アルタイ軍台の支線が使われていた状況がうか がえる。その「公主の道」と駅站の道との詳細な関係については,更なる検証が必要であろう。なお,
この注で前述した文書番号は,後述のモンゴル国立中央文書館の所蔵番号である。本稿で多用する M-9フォント文書群は,トシェート・ハン部盟長衙門の文書から構成されており,主にトシェート・
ハン部盟長らと理藩院,チャハル都統,サイル・オソ衙門,庫倫辦事大臣,管轄の諸旗,諸駅站と の間でやり取りされた公文書である。その他に用いるM-1,M-10,M-143,M-145,M-146とい う5系統のフォント文書群は,庫倫辦事大臣衙門,トシェート・ハン部副将軍衙門,ハルハ20駅站,
フレーからタラドロンまでのボーヒヤ駅站,フレーからヒャグト(キャフタ)までのボーヒヤ駅站 の文書から各々構成されている。以下,文書番号とその年月日,作成者,宛先とを繋げて,出典史 料を示すこととする。
7) M-10-2-767-1. 乾隆37(1772)年春の中の(2)月26日付(トシェート・ハン部盟長)副将軍トシェー ト・ハン,副盟長参贊からのフレーからタラドロン(駅站)までの計14駅站を管理した協理台吉 インボー宛箚文。
8) M-10-2-1044-4. 乾隆46年3月30日付トシェート・ハン部盟長トシェート・ハン,副盟長の所か らの当該部の駅站と隣接する(左翼中旗の)ジャサグ多羅郡王チバグジャブ,(左翼末旗)ジャサ グ頭等台吉ドンドブドルジ,(中右末旗)サンドブドルジ,(左翼後旗ジャサグ)固山貝子デチンラ ムピル,(左翼右末旗)ジャサグ頭等台吉オルジンジャブ,(サイン・ノヤン部中前旗)ジャサグ多 羅貝勒デムチョグジャブ,(サイン・ノヤン部右翼中左旗)ジャサグ輔国公チェデンジャブ,(サイ ン・ノヤン部右翼左末旗)ジャサグ頭等台吉ナワンチレン,(サイン・ノヤン旗)ジャサグ・ノル ブジャブ宛箚文。
同2017)。同時に,この盟旗の牧地境界画定 政策の浸透・定着によって,従来から特定の 牧地が分配されていなかったイヘシャビは,
「外モンゴル最高の活仏たるジェブジョンダ ンバ・ホトグトの隷属民であるイヘシャビ は,ハルハ4盟のどこで遊牧してもかまわ ない」と言われてきた自由な遊牧権を徐々に 喪失し,牧地利用権の面においては盟・旗制 の枠内に組み込まれていった(朝魯孟格日勒 2018)。それでは,駅站の牧地利用権は,こ うした情勢に影響されることなく,変動しな いままであり続けられたのであろうか。
従来の研究においては,例えば,Нацагдорж 1963: 137は,駅站には長さ50–70里(ガジャ ル)14),幅30–40里の範囲の牧地が分配され ていたと略説している。Насанбалжир 1964
は,乾隆45・47年に旗からアルタイ軍台に
50–70里の牧地が割り当てられたこと,牧地
分配に伴う駅站と旗との牧地紛争が多発して いたこと及び駅站の牧地における旗民の遊牧 が禁じられていたことについて論述してい る。また,金峰1979aと同1979bは,清代 外モンゴルにおける駅站の設置・固定の過程 やその管理組織を各々詳細に考察している。
韓2000は,主として清代モンゴルにおける 駅站の方位を検証した。劉2004は,漢地を 含めた清朝全体の駅站システムと管理等を論 じている。フスレ2016は,清朝,中華民国 初期における張家口とフレーとの間の道には
「台站で結ばれた道」,「公主の道」,「参詣の 道」及び「商業の道」等複数の道があったこ とを論述している。中村2019は,文書史料 9) 金峰1979a: 528,Ринчен 1979に基づいて,筆者が作成した。
10)ここにあげるフレー南路駅站名は後述の注67,68にある公文書史料,フレー北路駅站名は後述の 注72にある公文書史料にそれぞれ基づいた。
11)張家口路駅站は,内モンゴル領内にある18駅站と外モンゴルに設置された5駅站とを併せた計23 駅站を含む(金峰1979a: 515,Mönggündalai 2006: 361–365参照)。
12)当該駅站名は,文書中で[ǰegeren]と表記されているため,それらの文書に基づいた。
13)ここでの駅站名のモンゴル文転写はРинчен 1979に基づいた。
14)長さの単位であり,1里が576メートルに相当する(Шагдарсүрэн 2003: 18参照)。 表1 外モンゴル北路駅站の一部の路線名及び駅站名9)
(路線:北京→内モンゴル→フレー,ヒャグト(キャフタ),ウリヤスタイ。地図1を参照)
駅站名称 アルタイ軍台 フレー駅站10)
張家口路駅站11) サイル・オソ路駅站 ウリヤスタイ南
路駅站 ウリヤスタイ西
路 駅 站(ホ ブ ト 東路駅站)
フレー南路駅站 フレー北路駅站
路線 ヒラ(ヒリン)・モ ホル[kir-a muqur]
(シラ・モホル)
↓西北 ト ゥ グ リ グ [tögürig]
モホル・ガショーン[muqur γasiγun]
↓西,サイル・オソ(タラドロン) ハダト[qadatu]
ハラ・ニドゥン [qara nidün]
↓西北 ウリヤスタイ
ウリヤスタイ
↓西 ホブト
フレー
↓南 サイル・オソ
フレー
↓北 ヒャグト
駅站数・
名 5。
ヒ ラ・ モ ホ ル,
ボロン[bulung],
スージ・ボラグ [seüǰi bulaγ],ト リ・ ボ ラ グ[toli bulaγ], ト ゥ グ リグ
21。
モホル・ガショーン,ホニチ[qoniči],
ビ ル ゲ フ[bilgekü], ハ チ ャ ブ チ [qačabči], ジ ャ ラ ト[ǰalatu], ジ ュ ゲ ブ リ[ǰögebüri], ボ ロ・ オ ボ ー [boru obuγ-a],フトゥルドロン[kötül dulun],タラドロン[tala dulun],モ ドン[modon],ハビルガ[qabirγ-a],
シ ボ ー タ イ[sibaγutai], ロ ー ス [luusa], ヒ リ ン・ ジ レ ム[kira-yin
ǰirem],シャグショルガ[šaγšurγ-a](メ
ンゲトゥ[menggetü]),チャブチル [čabčir],ハシヤト[qašiyatu],ジェ ゲレン[ǰegeren]12),オンギ[onggi],
ウネゲド[üneged],ハダト13)
20。
ハ ラ・ ニ ド ゥ ン, ゲ ル デ ィ [gerüdei],タチョ [taču], ジ ェ ル ト[ǰertü], シ ャ ラ ガ ル ジ ョ ド [šarγalǰud]等々
14。
駅站名は省略 14。
ソ ノ ス ホ ラ ン ト [sonusqulangtu], バ ヤ ス ホ ラ ン ト[bayasqulangtu],
ボ ハ(ア モ グ ラ ン ト [amuγulangtu]), ジ ル ガ ラ ント[ǰirγalangtu],ウンドゥ ル ド ボ[öndürdobu], タ ラ ボ ラ グ[talabulaγ], ナ リ ン [narin], モ ド ン[modon],
ト ー リ ム[toorim], ボ ロ ダ ガ[borudaγ-a](ボ ロ ブ レ ン[borubürin]), バ ヤ ン ホ シ ョ ー[bayangqosiu], ビ ルゲフ[bilgekü],ソロガイ [soluγai],スージ[seüǰi]
11。
フ イ[küi], ボ ル ガ ル タ イ [borγaltai],ボロントロガイ [bulungtoluγai](ゴ ン チ ャ グ[γongčag]), バ ヤ ン ハ ビ ロ ハ イ[bayanbiruqai], ハ ラ ゴ ル[qaraγool], シ ャ ン ドドボ[šangdudobu],ノム ト[nomtu],デレストゥ・ボ ロ ン[deresütü bulung], ジ ルへ・ゴル[ǰirüke γool],ナ リ ン モ ガ イ[naringmoγai]
(イベチグ),ギランノール [gilangnaγur]
と現地調査とを駆使して,清代外モンゴルに おけるアルタイ軍台の支線である「フレー以 南駅站」の設置状況,駅站名称の異同等を考 察し,その運用が長期にわたって体系的・統 一的であったことを指摘している。しかし,
如上の諸研究では,外モンゴルにおける駅站 に対する具体的な牧地分配状況や駅站と旗と の間の境界画定の経緯等といった問題はなお 未解明である。これらを解明しておくことは,
外モンゴルにおける清朝の駅站管理体制の一 端や,盟旗の境界画定事業を把握・理解する 上でも必要不可欠のはずである。
そこで,本稿においては,モンゴル国立中 央文書館等所蔵の公文書史料を用いて,まず 清代外モンゴルにおける盟,旗の牧地境界画 定の一環として,アルタイ軍台の支線である サイル・オソ路駅站,張家口路駅站やフレー 南路駅站等の牧地が旗から如何なる形で分配 されていったのかを考察する。次いで,盟や 旗同士の牧地境界の画定過程・状況と比較検 討しつつ,駅站と旗との間における牧地境界 画定の経緯を検証する。これらの考察を通し て,駅站管理を通じた清朝の外モンゴル統治 の一端を理解・把握すると同時に,盟・旗の 牧地境界画定政策の位置づけを評価したい。
1. 乾隆45(1780)年から乾隆47(1782)年 にかけての駅站への牧地分配
前述した通り従来の研究においては,乾
隆45・47年に旗の牧地の一部が駅站に分割
されたと論述されているものの,その内情等 の詳細な状況はまだ不明である。当時,乾隆 20(1755)年のジューンガル滅亡による西方 への盟,旗の牧地移動・拡張に伴って西部3 盟を中心に,牧地を巡る激しい対立や紛争が 頻発し,外モンゴル地域全体が混乱に陥って
いた。乾隆帝は,外モンゴル地域で深刻化し た牧地問題を警戒し,牧地拡張実態の調査 のため,乾隆45年に兵部侍郎ベチンゲをウ リヤスタイへ派遣した。そして,翌乾隆46
(1781)年に西3盟の盟界が欽差大臣バトに よって画定されることで,盟旗制度の一環と して盟や旗の牧地境界の画定事業が本格化し ていくわけである。では,駅站と旗との牧地 境界画定はどう展開していたのか。その状況 について,サイル・オソ衙門がトシェート・
ハン部盟長に伝達した道光10(1830)年の 文書には次のように書き留められている。
乾隆45年4月に理藩院が「内ジャサグら と軍台の人々15)が住んでいる牧地の四方 が境界を接した地域の名,数等を精査して,
詳細な文書を作成して,至急報告せよ」と 命令した事に対し,チャハル都統衙門が,
「(サイル・オソ衙門は)サイル・オソの諸 駅站と境界を接した諸ジャサグ旗に文書を 送達し,彼ら(諸旗)の官員と共に調査し て境界地を画定し,オボー標識を設置して 詳細な檔子を作って報告せよ」と命じてき たことに関して,(わがサイル・オソ)衙 門が(その状況を)隣接した諸ジャサグ旗 に送り,…16)。
乾隆45年4月の理藩院の命令を機に,内 外モンゴルにおける全軍台と旗との牧地境界 画定事業が本格化したわけである。その内,
外モンゴルにおけるサイル・オソ路駅站とそ の隣接する周辺諸旗との牧地境界画定作業 は,サイル・オソ衙門がその事情をトシェー ト・ハン部左翼後旗に伝達することによって 展開していくが,その伝達内容は乾隆45年 にトシェート・ハン部左翼後旗の印務を管理 する四等台吉ムンフジョリグト,参領ゲンド 15)文書中に「arad」と書かれている。この語はタイジに対する意味での平民を表すと同時に,タイジ を含む「人々」という意味でも用いられるが,本稿で引用する文書では,ほとんどの場合,後者の 意で用いられている。
16)前掲注6に同じ。
ンが,同部盟長の印務を管理する副盟長に報 告した文書で次のように転送されている。
現在,サイル・オソ等の地の駅站の事務を 管理する衙門から,我々(左翼後旗)に通 達した文書の中で,「昔からアルタイ軍台 の駅站がジャサグ旗らの牧地の中にある 上,駅站と旗とが境界を接する牧地のオ ボー標識[oboγ-a temdeg]がないことは,
後に事件(牧地紛争)が発生したら調査す るのに極めて困難である。ゆえに,貴方の 旗から官員を派遣して,私の衙門から出し た大臣と協議し,牧地のオボー標識を建て よう」と言った…17)。
駅站と旗との間の牧地紛争及びその調査処 理等への備えを理由として,乾隆45年7月 に左翼後旗の北部・北東部に接して北西から 南東の方向へ伸びるサイル・オソ路駅站の一 部の駅站(主にハラチン駅站)と左翼後旗と の牧地境界が画定されたのである。理藩院に よる駅站の牧地境界画定布告の背後には,お そらく当時外モンゴル各盟間で拡大・深刻化 していた牧地紛争を懸念・配慮した動きが あったと思われる。その画定作業には,サイ ル・オソ衙門やサイン・ノヤン部諸旗の官 員,及びトシェート・ハン部左翼後旗の管旗 章京ドガルジャブ,左翼右末旗の協理台吉テ グスボヤント,ハラチン駅站の参領デムベリ ルらが関わっており,左翼後旗のみならず,
トシェート・ハン部左翼右末旗,サイン・ノ ヤン部諸旗と隣接したサイル・オソ路駅站の 牧地画定も実施された。ここで,左翼後旗か
ら下記の文書で言及されている9駅站(後 掲の地図2)に分配された具体的な牧地の状 況を見ると,次の通りである。なお,この文 書中では南東方向を「東」,北西方向を「西」
と呼んでいる。
このわが旗の牧地の東側からフトゥルドロ ン,タラドロンの2駅站の西側に各50里,
モドン,ボラグ・スージ,シラ・シボータ イのこれら3駅站の西側に各40里,ロー ス,ヒリン・ジレムの2駅站の(東西)両 側に各40里,メンゲトゥ,チャブチルの 2駅站の東側に各40里(を割り当て),計 9駅站の牧地の境界を全て水,牧草地の均 等さを見極めて協議し,オボー標識を建て て処理しました。…18)
左翼後旗から9駅站各々へ分配された牧 地の範囲は駅站の東西両側あるいは片側に各
40–50里であり,水草の状況によって異なっ
ていた。その具体的な分配方法に関しては,
例えば,乾隆47(1782)年に庫倫辦事大臣 の指示下で,トシェート・ハン部左翼右末旗 と中旗の牧地がフレー南路駅站に分配された 際,「フレーより南の14駅站ごとに50里分 の牧地を与えた内,この50里を縄で測る際 に,道沿いに30里,道の東西側に各10(里) の20里を,1駅站に計50里を指示して与え よう」19)と関連文書に記載されている。ここ では,分配された牧地が,その面積ではなく,
横幅の20里と縦幅の30里の和で示されて いるために,50里分の牧地という表現になっ ているわけである。つまり,駅站を通る大道
17) M-9-3-422-1. 乾隆45(1780)年秋の最初の(7)月12日付ジャサグ(トシェート・ハン部左翼後) 旗の固山貝子デチンラムピルの印務を受け取って処理する四等台吉ムンヘジョリグト,扎蘭章京ゲ ンドンらからの御前行走同部盟長トシェート・ハンの印務を臨時代行した副盟長ジャサグの多羅郡 王チバグジャブ宛呈文。
18)同上。
19) M-9-1-250-52a-55a. 乾隆48(1783)年10月16日付フレーからタラドロンまでの駅站を管理し た協理台吉オバシからの乾清門行走ハン・オール盟盟長,ジャサグ旗の固山貝子副盟長宛呈文。
M-9-3-550-18. 乾隆48年冬の中の(11)月初3日付フレーからタラドロンまでの駅站を管理した 協理台吉オバシからの乾清門行走ハン・オール盟盟長,ジャサグ旗の固山貝子副盟長宛呈文。
を軸として,指定範囲の牧地が東西と南北に 各々均等に分配されている(右図)。このた め,駅站の牧地自体は長方形になり,これが 当時の牧地図上で駅站がほとんど長方形で示 されるゆえんでもある。
また,前述した理藩院の命令下で,清代モ ンゴル地域におけるアルタイ軍台の支線とな る内モンゴル・オラーンチャブ盟四子王旗を 通る6番のボロト駅站から11番のジス・ホ ンゴル駅站まで,その続きである外モンゴ ル・トシェート・ハン部に分布する12番の ヒラ・モホル駅站から15番のトゥグリグ駅 站までの計10駅站の牧地が,乾隆46年に 画定された。その詳細な状況については,乾 隆46年3月30日にトシェート・ハン部盟 長トシェート・ハンが,駅站と境を接した
(左翼中旗)ジャサグ多羅郡王チャバグジャ ブ,頭等台吉(左翼末旗ジャサグ)ドンドブ ドルジ,輔国公(中右末旗ジャサグ)サンド ブドルジ,固山貝子(左翼後旗ジャサグ)デ チンラムピル,頭等台吉(左翼右末旗ジャサ グ)オルジンジャブ,多羅貝勒(中前旗ジャ サグ)デムチョグジャブ,輔国公(右翼中左 旗ジャサグ)チェデンジャブ,頭等台吉(右 翼左末旗ジャサグ)ナワンチェレン,(サイ ン・ノヤン部)サイン・ノヤン(旗ジャサグ) ノルブジャブら宛に転送したサイル・オソ路 衙門からの文書では,次のように記述されて いる。なお,このサイル・オソ衙門の文書と は,チャハル都統衙門よりサイル・オソ衙門 へ送られた,理藩院とチャハル都統との間で やり取りされた文書である。
…アルタイ軍台を全面管轄する(チャハ ル)都統衙門から送られてきた文書に,「…
理藩院から送られてきた文書に,『…アル タイ軍台を全面管轄する(チャハル)都
統衙門より呈報した文書に,〈報告するた め(です)。我々の印務所から上呈したの は(以下の通りです)。張家口(路)駅站 を管理する協理台吉ヴォドンが提出した文 書に,《我々の駅站扎蘭章京ヴォボーらが 送った文書に,【つい最近,私が理藩院の 命令に従って,駅站と旗の牧地境界を画定 するために,ハルハの(和碩親)王,ハル ハの(固山)貝勒,四子王らの諸旗から 派遣された台吉チュルドゥム,梅倫(章 京)ナソン,ソム章京らの官員らと合同で 駅站を順次調査してみると,ボルト駅站か ら15番の駅站までの11駅站の牧地は全 部ゴビ地域で,生える草が少なくて水が希 少です。また,11番の駅站から15番の駅 站までのこれら6駅站20)の近く30,40里 周辺に生えるアルタン・ハルガナ[altan qarγan-a]21)を,毎年駅站が選別して,上 が使うために準備して届けます。ここで,
駅站と旗双方が決して衝突しないように,
土地の状況に合わせて,片方に各30里を 測って決めよう,と協議すると,皆が同意 したため,文書を書いて,手印を書いて
([γar-un temdeg ǰiruǰu]),オボー標識を 建てました。…22)
20)駅站には主駅站と腰站があり,主駅站数を数えるのが普通であるが,この場合は腰站も数に入れて いる。
21)一種の植物であり,薬物として使用される場合が多いと言われている。小沢重男によると,日本語 で「山桃」と訳される。
理藩院の命令に則って,乾隆46年に内モ ンゴル四子王旗がボロト等6駅站に,外モン ゴル左翼中旗がヒラ・モホル駅站等4駅站 に各々30里の牧地を分配する形で牧地境界 が画定された。また,皇帝が派遣した特定の 人物ではなく,張家口路駅站,内外モンゴル の四子王旗,左翼中旗という関係三者の官員 間での画定事業であった。その内,左翼中旗 とボロン駅站との場合,「東側はジューン・
チェル[ǰegün čel],南側はドゥルブルジン [dörbölǰin],西側はチャガン・ドボ[čaγan dobu],北側はオラーン・トーリム[ulaγan
toyirim]という地にオボー・標識を建てまし
た」23)と記されているように,分配された牧 地の四方に各々境界オボーを設置していた。
同時に,前述のトシェート・ハン部盟長より 関連諸旗に伝達された文書の宛先に注目する と,当時の画定事業は,上述の2旗に留ま らず,外モンゴル中部2盟の左翼末旗等の8 旗とその領内の駅站間でも行われる等,外モ ンゴルの広範囲に拡がっていた。
ところが,その分配直後,「…駅站の牧地 で全部30里を測ったら,わが(四子王)旗 の20ソムの人々に家畜を遊牧させる牧地が 見つからず,(我々は)更に困る」24)といっ た四子王旗の報告に乗じて,張家口路駅站の 扎蘭章京ヴォボー,四子王旗の協理台吉ゴン チョグジャブ,梅倫章京ドルジらが再分配に 踏み切った。その状況は下記の通りである。
…ボルト駅站から11番の駅站までのこれ ら6駅站の牧地を調査してみると,ボルト,
…これら3駅站に唯一水草があるのを均 等に(分配)して,片側15里,9番の駅 站はゴビの周りを通過するため,片側20 里に決定して,オボー標識を建てた。10,
11番の駅站の東側が正にゴビ地域である 上,11番の駅站の周辺地域から毎年上が 使用するアルタン・ハルガナを採るため,
以前協議した通り片側30里に決定したこ とに(対して),ハルハの(固山)貝勒の
(左翼中)旗は,10番の駅站の西側が彼ら の牧地に接していると言って,四子王旗と 争って文書を送達したことに,…(左翼中 旗は)官員を派遣しなかったため,四子王 旗の官員らと共に皆で(牧地を)見分して,
30里の所に,ゴルバン・ハシヤトという 地にオボー標識を建てて,…25)
内モンゴルの四子王旗と外モンゴルの左翼 中旗間で境界問題を抱えているとは言え,四 子王旗を通過する6駅站には,水草と地勢状 況に応じて,6,7,8番の駅站に各15里,9 番の駅站に20里,10,11番の駅站に各30 里を再び測量し,オボーを設置した。こうし た展開を傍観していた外モンゴル左翼中旗側 も,既定の30里を15里に減らすことを理 藩院へ要請したものの,理藩院は下記のよう に伝達している。
…現在(固山)貝勒ラワンドルジが,彼の 牧地側に(駅站に分配する牧地を)30里 に決定した境界(範囲)を減らし,15里 にしていただきたいと言って,文書を送達 したことは,全く駅站の事を重視せず,牧 地を得ようと考えているに過ぎない。また,
10番の駅站の境界は彼らの牧地に境界を 隣接すると言って四子王旗と牧地を争って いながら,(全く)官員を派遣して協議さ せなかったことは,非合理であるため,こ れを管轄の(固山)貝勒ラワンドルジに通 達し,官員を派遣して四子王旗と合流し
22)前掲注8に同じ。
23) M-9-1-238-43a-45b. 乾隆48(1783)年5月12日付アルタイ路軍台を全面管轄する(チャハル)都 統からのハン・オール盟盟長宛箚文。
24)前掲注8に同じ。
25)前掲注8に同じ。
て,10番の駅站が既に誰の牧地に隣接し ているかを調査させるほか,また彼の配下 の人々に周知して,今後馬(等の)家畜を 放牧したり,糞等を取りに行ったりする際,
今画定した駅站の境界を決して越えてはい けない…26)。
結局,駅站への牧地再分配という外モンゴ ル左翼中旗の要請が拒否された上,越境遊牧 も厳禁されている。これに比して,四子王旗 の場合は,駅站との牧地境界の再画定・調整 が理藩院へ報告される前の段階で行われたわ けである。すなわち,理藩院は上呈済みの駅 站と旗との牧地境界の変更・再分配をなかな か容易には認めなかったと考えられる。
続いて,外モンゴル・ウリヤスタイ南路駅 站の牧地画定作業は乾隆47(1782)年3月 に実施され,ウリヤスタイ定辺左副将軍らの 所から派遣された副章京ドルジ,書記ナンダ イらの下で,次のように分配されている。
ハルハの20駅站27)の牧地を画定・決定 した地の名は(以下の通りである)。5番 のシャラガルジョドから最初のハラ・ニ ドゥンまでの駅站が遊牧する地の名は(以 下の通りである)。シャラガルジョド駅 站の牧地の南端はモー・ホドギン・アマ [muu qudduγ-un ama], 西 端 は ボ ム バ ティン・アマ[bumbatu-yin ama],北端 はベーラ・シャラガルジョディン・オル ジャル[bayir-a šarγalǰud-un ulǰar],東端 はモホル・エルギ[muqur ergi],イへ・
ア ラ グ[yeke alaγ], こ の 中 で 遊 牧 し よ う。…ハラ・ニドゥン駅站の牧地の南端は イルゴイ・ブゥリトゥ[irγui böritü],西 端はハラ・ウジュールイン・アル[qara
üǰegüür-ün aru],北端はオモグトイン・
ヒ ラ[omoγtu-yin kira], 東 端 は モ ー・
ジョヒヤンノー・ジューン・ウンチ[muu ǰokiyan-u ǰegün üngči]の北,この中で遊 牧しよう28)。
ウリヤスタイ南路駅站の四至のみが画定さ れたものの,具体的な牧地範囲の測量と実際 の境界オボーの設置は行われなかったことが わかる。同様に,トシェート・ハン部右翼 右旗と駅站との間においても,「以前乾隆45 年に旗と駅站間の牧地境界を画定したもの の,当時詳細に測ってオボー標識を設置する ことはしなかった」29)という記述の通り,実 際のオボーが設置されていなかった。このよ うな境界を確定してもオボーを設置しない状 況は,嘉慶10(1805)年のトシェート・ハ ン部内諸旗の境界画定の際,トシェート・ハ ン旗と左翼後旗との間でも見られる(朝魯孟 格日勒2014–2015a)。
こうして,乾隆45年から乾隆47年にか けて,アルタイ軍台の支線であるサイル・オ ソ路駅站,張家口路駅站,フレー南路駅站,
ウリヤスタイ南路駅站の牧地境界が順次画定 されたが,境界オボーを設置していないケー スも散見された。当時の駅站と旗との牧地境 界画定は,外モンゴルの広範囲にわたって拡 大していたものの,初期段階における画定事 業に留まり,オボー設置による一層の整備・
強化がその後の焦点となったわけである。
2. 境界オボー設置への展開
乾隆53(1788)年と同58(1793)年には,
トシェート・ハン部左翼右末旗等の人々によ るフレー南路駅站の牧地内での遊牧が,両者 26)前掲注8に同じ。
27)ウリヤスタイ南路駅站のことを指している(Гэрэлбадрах 2006: 136参照)。
28) M-143-1-78-1. 乾隆47(1782)年3月付の定辺左副将軍の所から遣わされた書記ナンダイ,梅倫章 京ドルジらがハルハの20駅站の牧地を画定・決定した地名に関する檔冊(日にちの記載なし)。 29) M-9-3-3434-20. 道光25(1845)年6月20日付(トシェート・ハン部)盟長トシェート・ハンから
のサイル・オソ衙門宛咨文。
間で牧地紛争を引き起こしつつあった30)。そ の結果,両者間において,「各々(駅站と旗) の牧地を知ってもらい,丈夫なオボーを建て させれば,後日どうあってももめごとを起こ すことができない上,双方に有利であるため,
…」31)と協議されており,牧地境界のオボー 設置が重要視され始めた。実際,当該の左翼 右末旗とフレー南路駅站間の牧地紛争は乾隆 44(1779)年から勃発しており,当初双方を 仲良く遊牧させることで処理調整が行われて いた32)。つまり,乾隆53年の左翼右末旗と 駅站との紛争を機に,紛争処理・解決の鍵は 既定の分配地域に如何にオボーを設置するか に転じたと考えられる。こうした状況に拍車 をかけたのは,嘉慶16(1811)年の下記の ような指示であった。
(サ イ ル・ オ ソ 衙 門 か ら)「我々二 人 の
(正・副)参領が管轄する21駅站は,ト シェート・ハン,サイン・ノヤン両盟の諸 ジャサグ旗の牧地を横断する形で設置した 上,以前理藩院,(チャハル)都統の所か ら駅站と旗の牧地を各々分けて画定し,牧 地を指示・決定したものの,駅站から近い 諸ジャサグ旗の人々は駅站の人々と皆仲良 く,軍の駅站の牧地境界内で共に遊牧する ことが多い。チャハル都統が『他旗のモン ゴル人を牧草地に近づけ,入れてはいけな い』と言って指示したのに従い,…(盟長
らが)駅站の近くに住む諸ジャサグ旗に通 達して,各々の管轄の諸旗の中で駅站の牧 地内に住む人々全員を今後至急移動させ,
以後は駅站の牧地で共に遊牧することや,
(境界を越えて)移動することを直ちにや めさせよう」と言って(私トシェート・ハ ン部盟長,副盟長に)伝達した33)。
このチャハル都統の指示によって,駅站と 旗との人々の遊牧は,乾隆45(1780)年か ら乾隆47年にかけて画定された牧地の範囲 内へと,嘉慶16年に改めて制限が徹底され たことがわかる。乾隆45年の段階では,「今 後馬(等の)家畜を放牧したり,糞等を取り に行ったりする際,今画定した駅站の境界を 決して越えてはいけない」といった理藩院に よる通達があった34)ものの,乾隆45年から 展開する牧地境界画定があくまで牧地紛争発 生防止のために施行されたためか,さほど厳 重な制約が強いられてはいなかったと考えら れる。
では,何故この時期に牧地境界の厳守が命 じられて越境遊牧が禁じられたのか。その1 つの可能性として,「私(チャハル都統)が 管轄する各地(駅站)のモンゴル人が他地域 のモンゴル人を(牧地に)住まわせ,(彼らと) 親しくなり,物騒な事態になることを差し止 め,各地の官員が随時調査して,全てのジャ サグ旗のモンゴル人や内地の漢人を牧地に近 30) M-10-2-1196-1. 乾隆53年10月初4日付庫倫辦事大臣副将軍多羅郡王額驸(ユンデンドルジ)か らのボーヒヤ駅站を管理した協理台吉チョイジョンジャブ宛箚文。M-10-3-285-1. 乾隆58年3月付
(庫倫辦事大臣)副将軍多羅郡王額驸(ユンデンドルジ)からの(トシェート・ハン部左翼右末旗) ジャサグ・オルジンジャブ,ボーヒヤ駅站の協理台吉チョイジョンジャブ宛箚文。
31) M-10-3-285-1. 乾隆58年3月付(庫倫辦事大臣)副将軍多羅郡王額驸(ユンデンドルジ)からの(ト シェート・ハン部左翼右末旗)ジャサグ・オルジンジャブ,ボーヒヤ駅站の協理台吉チョイジョン ジャブ宛箚文。
32) M-9-3-383-11. 乾隆44年付(トシェート・ハン部)盟長トシェート・ハン,(副盟長)参贊からの(当 該部左翼右末旗)ジャサグ・オルジンジャブ宛箚文(月日の記載なし)。
33) M-9-3-1616-4. 嘉慶16年4月付(トシェート・ハン部)盟長トシェート・ハン,副盟長からの(サ イン・ノヤン部)盟長,副盟長宛の咨文と(左翼後旗)鎮国公ソノムワンチョグ,(右翼右旗)輔 国公チェワンドルジ,(左翼右末旗)ジャサグ・オルジンジャブ,(左翼中左旗)ジャサグ・アジャ ラ,(左翼末旗)ジャサグ・マイダリジャブ,(中次旗)ジャサグ・ジャンチョブジャブ,エルデニ・
シャンジョドバ宛箚文(日にちの記載なし)。 34)前掲注8に同じ。
づけたり入れたりすることがある場合,直ち に追い出そう。…今後,(駅站の)牧地を行 き来する他のジャサグ旗のモンゴル人や,移 動する漢人を牧地内に近寄せたり住まわせた りしないようにせよ」35)という命令の通り,
多発していた各地のモンゴル人同士の牧地紛 争やモンゴル人と漢人とのせめぎあいの問題 があったと考えられる。例えば,モンゴル人 同士の場合,駅站の兵士(駅站戸)と駅站の トスラホ・オラーや旗民との間の牧地紛争が 頻発しており36),そのトスラホ・オラーが駅 站牧地内で遊牧すべきかどうかという問題が 新たに浮上していた。こうした駅站が抱える 種々の牧地問題の一つとして,乾隆45年か ら乾隆47年にかけて画定した駅站と旗との 間の牧地境界が再び議論される過程で,境界 地域における新たな境界オボー設置の動きが 広まったわけである。ちなみに,駅站とトス ラホ・オラーとの場合も例外ではない。筆者 の入手した公文書史料によると,乾隆47年 には特定の範囲の牧地がトスラホ・オラーに 分配されており,後の嘉慶年間に駅站とトス ラホ・オラーとの間で牧地紛争が起きた際にも,
当初の分配範囲が処理の基準になっていた。
3. オボー設置作業の停滞
嘉慶年間以降のオボー設置作業に関して,
嘉慶21(1816)年にサイル・オソ路駅站中 のヒリン・ジレム駅站とトシェート・ハン部 右翼右旗との対立が始まる。前者が,「乾隆 45年に諸駅站,旗の牧地を画定する際,(ヒ リン)ジレム,ハシヤト等の地から測ったこ とがなく,フヘ・オソ等の地から始まり,両 側に(牧地)範囲を決めてオボー標識を建て た地域の名をすでに理藩院に送達したことを 全て檔冊に記録した。…フヘ・オソ,トゥグ リグといった地から,法律通りに縄で測って 決定し,オボー標識を建てて,後日争わな いように処理しよう」37)と主張したのに対し て,後者は乾隆45年の牧地分配の実状を把 握できないと言って抵抗している。同様な対 立状況は,サイル・オソ路駅站中のモドン 駅站と左翼後旗との間や,ハチャブチ駅站,
ジャラト駅站,ボロ・オボー駅站と左翼中左 旗,左翼末旗との間でも見られる38)。つまり,
嘉慶年間以降における駅站と諸旗との間のオ ボー設置作業の焦点は,乾隆45年から乾隆 47(1782)年にかけて画定した地域を基準に するか否かにあったことが見て取れる。その 内,道光13(1833)年にサイル・オソ路駅 站中のハチャブチからボロ・オボーまでの駅 35)前掲注33に同じ。
36) M-9-3-1779-10. 嘉慶20(1815)年10月29日付シャグショルガ等の駅站のトスラホ・オラーを管理 する台吉ゴンボジャブからのハン・オール盟の副盟長ジャサグ多羅郡王殿宛呈文。M-9-3-1779-14.
嘉慶20年5月付(トシェート・ハン部)盟長の印務を管理した副盟長からの(左翼後旗)参贊鎮 国公ソノムワンチョグ宛箚文(日にちの記載なし)。なお,トスラホ・オラーとは,駅站が使用す る交通手段としての家畜などを提供する人々であり,通常は駅站周辺で遊牧している。その具体的 な遊牧状況については,現在別稿を準備中である。
37) M-9-3-1859-2. 嘉慶22(1817)年5月付(トシェート・ハン部)盟長の印務を管理した副盟長から のサイル・オソ衙門宛咨文。
38) M-9-1-1646-293b-294b. 道光10(1830)年春の中の(2)月18日付サイル・オソ等の地の軍台の事 務を管理する(サイル・オソ)衙門からの乾清門行走ハン・オール盟(トシェート・ハン部)盟 長ジャサグ鎮国公,副盟長公品級頭等台吉宛咨文。M-9-1-1650-263a-265b. 道光10年5月10日付
(トシェート・ハン部)盟長鎮国公,副盟長からサイル・オソ等の駅站を管理する(サイル・オソ) 衙門宛咨文。M-9-1-1654-458a-461b. 道光10年9月10日付(トシェート・ハン部)盟長鎮国公か ら盟長鎮国公の(左翼後旗)印務を管理する協理台吉宛箚文。M-9-3-3521-19. 道光27(1847)年 正月20日付(トシェート・ハン部左翼末旗)ジャサグの頭等台吉オドムジの印務を代理した管旗 章京チェワンダシからハン・オール(盟)の盟長殿の印務を管理した御前行走副盟長ハルハのト シェート・ハン殿宛呈文等々。
站と左翼中左旗との牧地境界のオボーが,乾 隆45年の画定地域に設置されている39)。こ れは,道光15(1835)年に各駅站が牧地の 境界地域を兵部へ改めて上奏するようになっ た40)当時の社会情勢によるものと考えられる。
こうしたオボーの設置作業は,後の道光 23(1843)年の規定41)によって一段と厳重 に催促されるようになったものの,依然難航 していた。この問題は例えば,従来通り乾隆 45年から画定していった地域にオボー設置 を求めるサイル・オソ衙門側と,牧地を新た に測って分配しようと主張するトシェート・
ハン部側との対立に現れていた42)。両者の激 しい対立の背景として,各々の裏事情が浮き 彫りとなる。サイル・オソ衙門側の根拠とし ては,理藩院が下した「既に決した駅站の牧 地は改めてはいけない」という命令の存在 があった43)。一方,トシェート・ハン部盟長 は,「それらの駅站,旗が牧地を争った事件 は,以前境界として地名を指定したけれど,
その地の所属の官員旗民らが賛同できないた め,複雑な争い事になり,これだけ長引かせ,
皆を更に困窮させるに至った上,唯,駅站の 牧地の境を数値で決定するのは,現在測って みて元の件に照らし合わせ,どちらかの不平 不満を終わらせればこそ,公務のためにな る」44)といって,旗側の要望に応じて再測定 を求めている。つまり,牧地境界画定が現地 の旗民にとって受け入れ難いものであったか らこそ,双方間における牧地紛争が絶えず起 こり,その牧地境界画定は最終的になかなか 合意できず,自ずと長引いたとも思われる。
実際,清代外モンゴルにおけるソム駅站,
例えば,トシェート・ハン部盟長衙門からフ レーまでのビチグ駅站の場合,「1つの旗の牧 地の中に,いくつもの駅站(の牧民)が点在 して住んでいる。それらの旗の牧地は若干狭 く,彼ら(駅站の官員)が駅站の牧地を各方 向へ測れば,諸旗の牧地があちこちで分断 されることになり,(諸旗の)牧地に不利で ある。…」45)といった左翼軍を管轄する副将 軍の配慮があり,ソム駅站の牧地は官設駅站 のような特定の測量された地ではなく,井戸 1つ,冬営地2つという範囲の地域であった46)。
39) M-9-1-2635-157a-158a. 同治4(1865)年4月19日付ジャサグ頭等台吉三次紀録ダラムセンゲ(左 翼中左旗)の印務を管理する管旗章京チェレンドルジからの御前行走ハン・オール盟盟長七次加級 三次紀録ジャサグ和碩親王鎮国公宛呈文。
40) M-9-3-5045-35. 同治5(1866)年11月16日付勅令で遣わされた(満洲人)庫倫辦事大臣,(モン ゴル人庫倫辦事)大臣セチェン・ハンからのハン・オール盟盟長チェレンドルジら宛箚文。
41)「モンゴルの諸旗は各々の境界地域にオボーの標識を建て,牧地図を作成して檔子に記録した上,
毎年管轄の旗長が自ら(牧地状況を)調査して理藩院に提出・報告せよ」という理藩院の命令(M- 9-3-3384-10. 道光24(1844)年12月付(トシェート・ハン部)盟長鎮国公からの(トシェート)ハン,
(和碩親,多羅郡)王,(固山)貝子,(鎮国,輔国)公,ジャサグ,印務の協理台吉ら宛箚文)。 42) M-9-3-3520-26. 道光27(1847)年4月21日付サイル・オソ等の地の軍台の事務を管理する(サイ
ル・オソ)衙門からのハン・オール盟長の印務を管理した御前行走副盟長ハルハのトシェート・ハ ン宛咨文。M-9-3-3520-2. 道光27年12月初3日付サイル・オソ等の地の軍台の事務を管理する(サ イル・オソ)衙門からの御前行走副盟長ハルハのトシェート・ハン宛咨文。M-9-3-3520-30. 道光 27年9月初6日付サイル・オソ等の地の軍台の事務を管理する(サイル・オソ)衙門からのハン・
オール盟長の印務を管理した御前行走副盟長ハルハのトシェート・ハン宛咨文。M-9-3-3521-15. 道 光27年9月20日付(トシェート・ハン部)盟長和碩親王,副盟長トシェート・ハンからのサイル・
オソ衙門宛咨文。
43) M-9-3-3520-30. 道光27年9月初6日付サイル・オソ等の地の軍台の事務を管理する(サイル・オ ソ)衙門からのハン・オール(盟)の盟長の印務を管理した御前行走副盟長ハルハのトシェート・
ハン宛咨文。
44) M-9-3-3521-15. 道光27年9月20日付(トシェート・ハン部)盟長和碩親王,副盟長トシェート・
ハンからのサイル・オソ衙門宛咨文。
45) M-9-3-2387-79. 道光6(1826)年6月14日付御前行走ハルハの左翼軍を管轄する副将軍トシェート・
ハンからの乾清門行走ハン・オール盟盟長鎮国公,副盟長輔国公宛呈文。
こうして長引いていた駅站と旗との牧地境 界におけるオボー設置作業を本格化させたの は,同治3(1864)年に牧地図編纂のために 布告された「我らの内外盟の境界を接する諸 ジャサグ旗が接した地域,卡倫47),諸駅站と 境界を接した地域の状況を自ら調査して計測 し,地図・檔冊を作成して報告する際,本来 は境界を隣接した諸旗,卡倫,駅站が必ず共 に(行動し),各々の境界を接した地の状況 を一緒に査察して処理すべきである」48)という 理藩院の命令である。これは,駅站と旗との 牧地境界のみならず,盟,旗間や卡倫との牧 地境界といった外モンゴル全域における牧地 境界画定事業の終結に決定的な影響を及ぼし たものであったと考えられる。その内,駅站 と諸旗との間の牧地画定に関する協議は,「旗 と駅站が境界を隣接する地においては,昔建 てた牧地の標識がある地に(境界のオボーを) 以前の通りに設置して修理させよ。絶対に駅 站の大道を再び測ってはいけない」49)という 理藩院の命令の下で展開されることとなった。
4. 駅站と旗との牧地境界の最終画定
こうして,諸駅站と旗との牧地境界が本格 的に画定されていくわけであるが,同治3年 に行われたサイル・オソ路駅站中のハチャブ チ駅站,タラドロン駅站,ハビルガ駅站とト シェート・ハン部左翼後旗との間の境界画定
状況は下記の通りである(地図2)。
「あまり従わずに,(牧地を)変更して測っ て処理し,理藩院に提出した古い地図や檔 冊に合致しなくなってはいけない」と(理 藩院が)指示したことがある。かつて(乾 隆45(1780)年に)決定した50里の範囲 から(牧地が)不足しないように推定して,
オボーを建てるならば,支障があるかどう かについて,皆が協議すると,彼らの双方
(駅站と旗)の官員が同時にお互いに同意 して誓約書を出したため,…50)
結局,理藩院の命令に則って,乾隆45年 に定められた地域に同治3年になって境界の オボーを設置している51)。また,同様な画定は,
トシェート・ハン部左翼中旗とサイル・オソ 路駅站中のモホル・ガショーン駅站等3駅站 との間,及び張家口路駅站中のトゥグリグ駅 站等5駅站との間でも行われていることがわ かる(地図3)52)。ところが,同治3年11月 22日にトシェート・ハン部左翼中旗は,「駅站 の東西方向の牧地境界を各30里にして縄で 測り,オボー標識を建てるべきであるのに,
駅站の片方が(自分たちの)思うままに,地 名が一致しない所,あるいは同じ地名を持つ 離れた遠い所に勝手にオボーを設置して,我々 の1つの旗の牧地の中心を多く失わせ,諸台 吉,旗民が遊牧するのに妨げとなった…」53) 46)ソム駅站の牧地状況に関しては,別稿にて論じたい。
47)国境や国内の境界線上に設置された警備所のような組織である。
48) M-145-1-703-12. 同治3(1864)年2月22日付ハン・オール(盟)盟長の印務を管理した乾清門行 走参贊二次加級七次紀録ジャサグ鎮国公からのフレー以南のハルハの14駅站を管理する協理台吉 ドルギジャブ宛箚文。
49) M-9-3-4859-2. 同治3年8月13日付勅令で遣わされた(満洲人)庫倫辦事大臣,(モンゴル人庫倫 辦事)大臣セチェン・ハンからのハン・オール盟盟長和碩親王チェレンドルジ宛箚文。
50) M-9-3-4860-10. 同治3年6月初1日付(トシェート・ハン部盟長らの)指示で事件処理に派遣さ れた梅倫章京チェベグオチル,台吉テグスジルガルからの(同部)盟長副盟長和碩親王宛呈文。
51)同治3年の布告が出された背景についは,上村2014参照。
52) M-9-1-2620-128a-128b. 同治3年10月付(トシェート・ハン部盟長の印務を)管理した盟長から の副将軍多羅郡王(左翼中旗)の印務梅倫章京ゴンジブ宛箚文。
53) M-9-3-4862-28. 同治3年11月22日付乾清門行走ハルハの左翼軍を管轄する副将軍六次加級二次 紀録(左翼中旗)ジャサグ多羅郡王の印務を暫時管理した梅倫章京ゴンジブらからのハン・オール 盟盟長の印務を管理した二次加級一次紀録ジャサグ輔国公宛呈文。
と盟長に訴えており,今回の牧地画定に対す る不満を露呈している。当時の処理状況を,
処理に遣わされた左翼中旗の管旗章京ロドイ の供述からうかがうと,下記の通りである。
…理藩院,(庫倫辦事)大臣,(トシェート・
ハン部)盟長らが,「駅站の牧地を絶対に 測ってはいけない。かつて(乾隆46年に) 決定した名前のある各々の地でオボーを建 てるように」と指示した通りに,(我々管 旗章京らが)…駅站の西側にある昔の名の ハダン・ボラグ[qadan bulaγ] …に到着す ると,古いオボー標識が一切ないのにもか かわらず,当該(左翼中)旗の書記エンヘ ドゥルーらの人々は,「昔の名前のある地 がここだ」と言って指し示し,たどり着い た各々の地に,指示通りにオボーを建てた 上,…牧地を一切測らなかったため,それ ら名前のある各々の地が以前(乾隆46年 に)画定した30里の(範囲)外であるこ とは分からなかった54)。
この時,実は乾隆46年に画定された地域 ではなく,駅站に分配した地域を越えた左翼 中旗側の牧地に境界のオボーが設置されたの である。こうした処理結果を理由として,左 翼中旗はモホル・ガショーン等3駅站には東
西40,50里,トゥグリグ駅站,ヒリン・モ
ホル駅站等5駅站には東西各30里を縄で新 たに測って分配するように主張している55)。
これに対して,同治4(1865)年にヒリン・
モホル等の駅站を管理する管旗章京は,「…
合流した官員がオボーを建てた諸地域の名前 は元の記録と一致しているのに,乾隆45年 の画定を改める,あるいは(再び)測るとい うのは,理藩院が改めて指示しない限り,我 らの方から官員を派遣して(旗の官員と)共 に協議させても,元の案件には無用である…」56)
と言って応じなかった。最終的に,左翼中旗 の不服がトシェート・ハン部盟長の印務を管 理する右翼右旗旗長のワンチョグチャグドル スレンによって理藩院へ上申された57)。
その結果,理藩院は,「各々の所から良い 有能な官員を派遣して共に行動し,牧地を順 番に測量して,誠実に調査・処理し,檔子に 画定した地の通りにオボー標識を建てよ。少 しでも捻じ曲げてはいけない。…」と言って チャハル都統と庫倫辦事大臣に命じ,同治 5(1866)年にチャハル鑲黄旗の参領である チェデン,サイル・オソ路駅站等を管理する 理藩院章京のソンソ,トシェート・ハン部左 翼末旗旗長チェレンドンドブ,協理台吉ワン ダンドルジ,管旗章京イダムジャブ,左翼中 旗の副章京ゴンジャブらが左翼中旗と諸駅站 との紛争処理にあたった58)。その処理状況は 以下の通りである。
唯,各駅站の東西両側の既定の牧地より多 かった分を旗に与え,同じく既定の牧地よ り少なかった分を旗が元の範囲まで補って 54) M-9-1-2663-147b-148b. 同治5(1866)年の管旗章京ロダイによる報告。
55) M-9-3-4862-29. 同治3年12月初6日付乾清門行走ハルハの左翼軍を管轄する副将軍六次加級二次 紀録(左翼中旗)ジャサグ多羅郡王の印務を暫時管理した梅倫章京ゴンジブらからのハン・オール 盟盟長の印務を管理した二次加級一次紀録ジャサグ輔国公宛呈文。
56) M-9-1-2630-287a-287b. 同治4(1865)年2月13日付ボルト等の11軍台を管理するトゴスイン・
オルドゴ,勅で恩恵を賜った二次加級参領章京らからのハン・オール盟盟長の印務を管理した二次 加級一次紀録ジャサグ輔国公宛咨文。
57) M-1-1-4974-27. 同治4年付ハン・オール盟盟長の印務を管理したジャサグ輔国公ワンチョグチャグ
ドルスレンからの理藩院宛上奏文(月日の記載なし)。
58) M-9-1-2656-126b-127a. 同治5年正月12日付勅令で遣わされた(満洲人)庫倫辦事大臣,(モンゴ ル人庫倫辦事)大臣セチェン・ハンからのハン・オール(盟の印務を)管理した盟長(輔国)公バ
(バルダルドルジ)宛箚文。M-9-1-2663-140a-145b. 同治5年4月17日付(トシェート・ハン部盟 長らの)指示で派遣されたジャサグ・チェレンドンドブ,協理台吉チェワンジャブ,管旗章京イダ ムジャブからの(当該部)盟長和碩親王,副盟長鎮国公宛呈文。