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木 村 時 夫

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日本歴史の基礎構造

木村時夫

国土と風土

 !孤立と鎖国一

 歴史と国土・風土  ある国の歴史と︑それがくり広げられる︑その国の国土や風土とは密接な関係がある︒た      おとえば隣の中国には︑昔から﹁中原に鹿を逐う﹂という言葉があるように︑黄河流域の気候と物質にめぐまれた地

方の獲得をめぐって︑多くの民族や王朝の間で戦乱が続き︑それが最近にいたるまでの中国の歴史の特色であっ

た︒ またロシアは建国以来︑南下政策というものを伝統的な国策としていた︒それは元来のロシアの国土が北を一年

の大半が凍結する北海にとざされ︑その周辺に夏期も使うことのできる不凍港をもっていなかったからである︒つ

まり不凍港を獲得する最も簡単な方法は︑南下して黒海をへて地中海に出るか︑直接バルカン半島を南下して地中

1 早稲田人文自然科学研究 第31号(S62.3)

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海に出るかである︒それを実現するために︑それぞれの地方に勢力を扶植することを南下政策といった︒その南下

政策がうまく行かない時は︑シベリアを越えて太平洋岸に港を設けようとしたこともある︒日露戦争や第﹁次大戦

の時のロシアの行動はこれによって理解できるし︑最近のソ連の中近東での動向もこれと無関係ではない︒

 アメリカ人の伝統的な精神をフロンティア・スピリットとか︑開拓精神とかいう︒これもアメリカが建国した当

初の︑東部一三州が気候にも資源にもめぐれていなかったので︑アメリカ人の眼は自然と西部の太平洋岸にそそが

れ︑多くの困難をおかし︑西進し︑開拓して今日の大アメリカを実現したのである︒

 このようにいずれの国も︑その歴史はそれがいとなまれる国土の位置と風土の特色に左右されるものである︒そ

れならば日本歴史が展開する舞台ともいうべき国土と︑その背景ともいうべき風土の特色にはどのようなものがあ

ったろうか︒

 日本国土の特色  日本の国土はアジア大陸の東北部に海をもってへだて︑ほぼ北緯四五度三〇分から同二四度

の間に︑東北から西南にむかってのびる︑狭小な多数の島々から成るいわゆる列島である︒そしてこの列島の背骨

をなすように高峻な山脈が縦貫し︑またそれから派生する諸山脈によって︑国土の大半は山地をなし︑平野は少な

い︒そしてこれらの山地を水源とする河川は二︑三の大河を除けば多くは高地から平地に︑あるいは滝をなし︑あ

るいは激流岩をかむという形で︑ ︷気に海に注ぐ︒

 このような日本の国土の特色は︑日本の歴史をどのように特色づけるであろうか︒

 日本と漢字圏文化  われわれはふだん文字として漢字と仮名とを併用している︒漢字の略字化や当用漢字の制

度は漢字の字画が複雑で︑その数が多いという不便さを除くための措置であるが︑この一見不便な漢字もこれを除

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日本歴史の基礎構造

外してはわれわれの日常生活はなり立たない︒平仮名︑片仮名は日本人の創作ではあるが︑それも漢字の一部分を

借用したものであることはいうまでもない︒ただし漢字が表意文字であるのに対し︑仮名はアルファベットのよう

な表音文字で︑そこに日本語を文字で表わそうとした︑日本人の創意と努力とを見るべきであろう︒この漢字と日

本人との宿命的な結びつきも︑日本の国土が古くから漢字文化を開花させた︑中国に隣接するアジア大陸の東北に

あったからである︒しかし日本人は昔から漢字は使用したが︑中国語そのものを学んで︑日常生活に用いるという

ことをしなかった︒日本の歴史と中国の歴史とはいろいろな所で関連をもち︑後で見るように日本の政治組織や精

神生活の面で︑日本人が中国に学ぶところは多かった︒しかし日本人の衣食住の基本的な部分は決して中国風を学

ぶということはなかった︒たとえば中国人は現在でも椅子とテーブルと寝台の生活をしているが︑日本人は伝統的

には畳の上に座り︑蒲団をのべて寝るという生活をしていた︒食べる物でも︑中国人は肉も野菜もすべて油であげ

るか︑いためるといった︑いわゆる中華料理を常食とするが︑日本には近代にいたるまでその風習はなかった︒日

本人はむしろ生鮮な食品をそのまま生で食べることを好んだが︑中国人には今もその風習はない︒

 これは日本と中国とが隣接しているとはいっても︑海をもって距り︑その気候風土を著しく異にしていたから︑

中国文化中には日本人が取入れようとして取入れられなかったものや︑最初から取入れようとしなかったものがあ

ったのである︒

 朝鮮半島はほぼ日本と同じように︑大陸の東北部にあるが︑大陸とは地続きで︑日本の国土の形態とはちがう︒

昔から朝鮮半島には中国の政治支配の拠点が置かれ︑文化的にも中国の影響が圧倒的であった︒中国をはじめとす

る大陸における諸勢力の興亡が︑そのまま朝鮮半島に影響した︒朝鮮の不幸な歴史の展開は︑日本と異なるこのよ

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うな大陸との関係によるものであろう︒そしてそれは今日の朝鮮半島が︑第二次大戦以後︑三八度線を境に二つの

国に分裂し︑今にいたっても統一されない︑民族の悲劇とも関係があろう︒

 日本が大陸から海をへだてた島国であったことの利点を強調しすぎたようであるが︑少くとも交通不便な時代に

は︑島国は外部から侵略されることのない安全な国として考えられた︒事実︑蒙古軍が二度にわたる攻撃によって

もついに日本占領の目的を達することができなかったのは︑神風説は論外としても︑その主な.原因は日本が四周を

海に囲まれた島国であったからであろう︒その時蒙古軍から強制され︑軍船を造り︑兵士を乗りこませ︑日本侵略

の手先を勤めさせられた︑朝鮮の高麗王朝の悲運に比べれぽ︑島国日本は有利な立場にいたのである︒

 島国の封鎖性  しかし軍事的に有利といわれた島国の孤立性は︑当然のことながら国内において封鎖性という

一種の保守性を生むことになる︒

 ほど良い気候にめぐまれ︑食べる物にも困らない島国における生活においては︑人人はあえて危険をおかして海

を渡り︑他国から新文化を求めようとはしない︒太古の日本人にはそういう消極性が強かった︒たしかに遣附使に

続いて遣唐使を派遣し︑新しい中国の文物を取入れ︑それに刺激されて日本の文化は飛躍的に発展した︒しかしそ

ういう政府間の交渉に刺激され︑一般民間人が新文化を求めたり︑交易のために中国を訪れたことはない︒中国の

新文化によって日本の文化が発展したといっても︑それは為政者の問のことであり︑それによって一般民衆の生活

が向上したということはない︒日本人に特有な思想︑信仰が今日まで色こく残り︑独特な風習が根強く残っている

のは︑日本人が他の民族との接触を求めず︑長い年月にわたり︑この島国の中で孤立した生活を続けていたからで

はなかろうか︒

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日本歴史の基礎構造

 日本語と縄文土器  日本語の起原については以前から多くの学者によって研究が進められ︑最近でも東南アジ

アの各地で使用されているタミル語が︑日本語のルーツとして騒がれたこともある︒しかし反論も多く︑まだ定説

とはなっていない︒明治時代には日本語と朝鮮語︵ハングル語︶とは同一言語から出たという説が唱えられたが︑

今日では誤りとされている︒まして戦前戦中は同文同種などといって︑中国語と日本語の密接な関係が強調された

が︑それは単に両国民が漢字を一部共通な文字としているだけのことで︑言語学的には︑日本語と中国語とは発音

も語法も全く異質なものである︒つまり日本語がその周辺地域に︑類似した言語を見出すことができないというこ

とは︑それだけ日本語が長い歴史︑つまり日本民族が日本民族として︑孤立して長い間生活してぎたことを示すも

のである︒

 縄文式土器もその文様や型は日本に独特なもので︑特に発達した後期の縄文土器に見られる複雑怪奇な文様と型

式は︑日本に特有なものであると同時に︑そういうものを生み出した︑先史日本人の思想や信仰もまたわが国に固

有なものであったと思われる︒

 海外進出から鎖国へ  鎌倉時代の末期から室町時代の初めにかけ︑北九州や瀬戸内海の漁民や土豪が交易のた

め︑朝鮮半島や中国沿岸に出かけていき︑時に海賊まがいの暴掠を行なった︒これを中国人や朝鮮人は倭冠と呼ん

だが︑このような日本人の活発な対外活動は︑二度にわたる蒙古軍の襲来に刺激されたものである︒

 徳川時代の初期には︑幕府がそれを奨励したからでもあろうが︑日本人の海外渡航熱は非常に高まった︒東南ア

ジアやフイリッピソの各地に日本人が多数移住し︑その経済活動はきわめて活発であった︒しかしそれもひとたび       よ そ鎖国となると︑その後はあえて禁を犯して海外に渡航する者もなくなり︑日本は地球上の多くの変乱を他所に︑国

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際的には長い隠棲生活を送ることになる︒

 鎖国と日本の近代化  鎖国の功罪については種々な議論が行われているが︑ともかく二〇〇余年の長きにわた

り・世界の動乱にまぎ込まれることなく︑平和を維持することができたということは︑世界史上の珍らしい事実で

ある︒そしてそれを可能にしたのも︑日本が島国であったという国土の地理的条件によるところが大であった︒

 その二〇〇余年にわたる鎖国によって︑日本が海外発展の機会を失い︑世界の進運におくれ︑いたずらに封建的

諸制度だけを育くんだという枇判もある︒しかし鎖国とはいえ︑平和な二〇〇年の間に︑すでにそれまで取入れた

幾種類かの異質の文化によって︑部分的には変容してきた日本文化というものを精錬し︑一面では外来文化を咀し

ゃくして・それを自家本来のものに取組み︑内容の豊かな日本文化に組成していった時代が︑鎖国下の二〇〇余年

ではなかったのか︒

 明治維新以後・日本はヨーロッパを模範とする近代化を推進する︒そしてそれを僅々一〇〇年たつかたたぬ中に

実現した︒もっともその近代化の成果については︑現在︑その皮相性やひずみ等が指摘されている︒たしかに公共

用の建物だけが宏壮で近代的であるのに対し︑ウサギ小屋といわれる一般住宅とのアンバランス︑官尊民卑的な諸

制度等についてはたしかにそういうことがいえる︒しかし伝統的な生活意識とそれにもとつく生活様式︑日本の風

土の中から生まれた諸種の風俗や習慣等々を色こく残し︑決してヨーロッパ一色に塗りこめられなかった︑日本の

近代化の歩みとその成果には︑なお見直すべぎ長所︑美点があるのではないか︒近代文明の行詰りにあえぐ人々

が・洋の東西を問わず︑故郷のように探し求める何かが︑近代化されたという日本の現在のどこかにあることを知

るべきではなかろうか︒

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日本歴史の基礎構造

 これまで見逃されがちであった島国と鎖国との関係や︑鎖国に対するやや肯定的な見解について記したわけであ

るが︑島国−鎖国が日本にもたらした否定的な面も指摘しておかねぽならない︒

 国際的視野の喪失  島国という国土の地理的条件がもたらす孤立性と︑それを加速した後年の鎖国政策とが日

本にもたらした否定的な面の最大なるものは︑日本人の国際的視野の狭小性とその喪失である︒現代のわれわれ

は︑常にその周りに多数の外国人を目撃し︑時にはこれと交流することもある︒そして時には大挙して日本人自か

らが海外に行き︑外国の風土と人情とに接してくる︒これは戦後の特殊な現象であるばかりでなく︑日本の歴史に

初めて登場する華々しい現象である︒

 かつての日本人は鎖国前の長い年月の間といえど︑外国人に接することはほとんど無かったといってもよい︒或

いは外国人との接触という点では︑鎖国前も鎖国後も変化がなかったといってもよかろう︒すでに記したように︑

今日︑外国人と接触する機会が多いといっても︑われわれはどうしても外国人を外国人と意識せざるを得ない︒こ

れはロソドソの街角で︑外国人から道を質ねられた私の体験と鋭いコントラストをなす︒

 数年前︑ドイツ婦人をめとった一卒業生が︑夫妻同伴で私を訪れてきた︒私はその夫人に向って﹁日本に来て最

初に覚えた日本語は何ですか﹂と質ねた︒私は﹁ありがとう﹂か﹁こんにちは﹂かと︑秘かに想像するところがあ

ったのであるが︑彼女の答えは意外にも﹁ガイジソ︵外人︶﹂であった︒宮城県の田舎であったためもあろうが︑彼

女は行く先々で︑﹁ガイジソ﹂﹁ガイジソ﹂といわれながら︑子供の群につきまとわれたという︒

 都会ではそれほどでないにしても︑外国人を見る日本人の眼は︑やはり鋭く外国人を意識しての差別の眼であ

る︒

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 国際摩擦とトラブル  昨今では日本人も大挙して外国へ行くといったが︑それはいわゆる団体旅行である︒外

国語に弱く︑外国の事情に通じていないから︑単独での海外旅行は少なく︑集団的な旅行になる︒外国語となると

それを潮力年にわたって学習しているにもかかわらず︑会話は不得手である︒それはこれまでのロ本人が外国語に

よる会話を必要とせず︑日本語で生活に事欠かなかったからである︒そもそも日本における外国語はその文字を通

じて新文物を摂取する手段にすぎなかったのである︒中国や東南アジアの諸国民には外国語を巧みにあやつる人が

多い︒それは外国語の使用を強制されたか︑あるいはそれなしには生活できなかった︑ヨーロッパ勢力の圧倒的支

配下に在ったこととも関係があろう︒

 他の民族と接触せず︑他国を訪れたことのなかった︑かつての日本人の眼はきわめて狭小なものとなり︑他国に

もそれぞれの歴史があり︑それに育くまれた文化のあることを理解せず︑日本の歴史や文化だけを唯一絶対のもの

と信じ︑それを標準にして他を測り︑これを軽蔑するか︑自分だけが尊いという独断に陥っていたのである︒最近

でもロ本人が外国との外交上のトラブルや経済上の摩擦に対し︑諸外国を批判する根抵に︑わが国だけの立場に固

執し︑他国の事情を理解しようとしない態度がなくはない︒異質の社会に容易に溶けこもうとしない︑国際的非社

交性も︑国民の長い島国生活の所産である︒

 島国の開放性  これまでは島国のもつ孤立性やその封鎖性を主として論じてぎたが︑島国にはそれと全く反対

の開放性がある︒一見矛盾しているようであるが︑孤立性とか封鎖性とかいうものは︑交通手段が発達しない時代

において︑島国が大陸や他の島々から孤立していた時代や︑その余波としての特色をいったものである︒しかし一

八世紀末に蒸気機関が発明され︑一九世紀初頭からそれを取付けた船舶が大洋を航海するようになると︑島国のも

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日本歴史の基礎構造

つ孤立性は失われ︑島国は海面を航行することによって︑どこからでも到着することのできる︑開放された場所と

なった︒ 日本の近海に黒船が姿を現わし︑日本人が警戒心を強めるとともに︑やがて北から南からも︑日本に開港と交易

とを求めて外国船が訪れるようになるのも︑一九世紀に入ったばかりの文化・文政のころであった︒

 開港や通商の要求はもともと平和的なものであった︒しかし世界の趨勢を知らぬ日本人はそれらを侵略の前ぶれ

と考えた︒鎖国という幕初以来の制度があったとはいえ︑それを盾にして頑強に開港を拒み︑通商を拒絶したの

は︑見知らぬ異国人に対する警戒心と︑聖経の眠りをむさぼる現状維持的な気持が強かったからである︒

 境無しの水路  林子平が﹃海国翌翌﹄を著わし︑﹁これからの日本が戦わねぽならないのは︑汽船に乗って海上

からやってくる外国の軍隊である︒﹂といって︑砲台の築造や大船の建造︑ならびにそれに必要な政治︑社会の変革      オランダを強調したのは一八世紀の末であった︒その書物の最初に﹁細かに思えば江戸の日本橋より唐︑阿蘭陀迄境無しの

水路也﹂と言っているのは︑交通事情の一変した段階での︑島国のもつ開放性という危険な状態をいち早く認識し

て世人に訴えたものである︒江戸日本橋の下を流れる水は︑さえぎるものもなく︑遠く中国やオランダまで流れて

行くものである︑ということはオランダや中国からでも︑船を用いれば海面づたいに︑日本橋の下までも攻めよせ

ることがでぎるという認識である︒

 事実日本はこの林子平の警告が発せられてから六〇年たつかたたぬ中に︑ペリーのひきいる四隻の軍艦の前に屈

し︑政策を大転換して開国に踏み切らざるを得なかった︒

 海軍国日本の悲劇  軍事的には難攻不落と思われた島国の利点が︑一転して何処からでも攻めて来られる危険

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な地点として︑その開放性に気付いた時︑日本人は海軍力充実の必要性を痛感した︒維新以後四〇年にみたぬ短い

年月の間に︑来攻するロシアの大艦隊を撃破するだけの海軍力を備えることができた︑日本政府の努力とともに︑

それが何に由来するかを考えてみるべきである︒

 昭和史の悲劇は︑遠くはワシントン会議︑近くはロソドソ会議という二つの国際会議に始まると思うが︑それは

二つとも日本の海軍力を制限する国際条約を成立させた会議である︒この両会議が日本人の欧米に対する警戒心と

対抗意識とを高め︑陸海軍部の勢力を急速に上昇させ︑やがてそれが政治勢力を凌駕し︑後の軍部独裁の時代を生

んだ︒このように︑昭和敗戦の悲劇を︑島国という国土の特殊性と結びつけて考えることもでぎる︒

 しかし同時に︑ようやく訪れた平和な時代における︑島国日本の在り方とその将来を考えることが必要なことも

論をまたない︒そして島国という日本の宿命が︑決してその平和希求の理想と矛盾するものでないことはいうまで

もない︒

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モンス!ン地帯

 一日本人の原点1

 桜前線の北上  島国という国土の特色以上に︑日本の歴史に影響を与え︑日本文化を画くんだものはその気候

風土である︒狭い日本の国内においても︑それぞれの気候風土の中で育った者にはそれだけの差違があるように思

われる︒ごく対照的なものをえらんでも︑東北人と九州人とは前者を寡黙︑沈重というならぽ︑後者は情熱的とか

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日本歴史の基礎構造

湖動的とかいわれよう︒このように一つの国土の中に多くの地方的特色をもっているということは︑それぞれの地

域が山や川によって孤立しているとともに︑風土的にも多様性をもっていることを示す︒そしてそれは列島といっ

ても︑それが東西にではなく︑南北に連なっているという事情にもとつくところが多い︒

 われわれは春の桜の開花期を示す︑桜前線というものを知っているが︑大体一月か二月に︑鹿児島の南端を発足

する桜前線は︑年によって多少の相違はあっても︑三ヵ月から四ヵ月をへて北海道に上陸して終る︒このように緩

かに季節が移り変っていく国は他にはない︒

 かつて和辻哲郎博士はその代表的著作﹃風土﹄の中で︑世界をいくつかの気候帯に分けたが︑日本をその中のモ

ンスーン地帯に入れた︒モンスーン地帯というのは︑四季それぞれに方向のちがう風︑すなわち季節風の吹く地域

で︑季節風地帯ともよばれる︒要するに四季の変化のある地域で︑アジア大陸では中国の黄河と揚子江とにはさま

れた地帯などがそれにあたる︒日本人の多くは︑春がくれば暖かくなり︑やがて夏の暑さを迎えるが︑秋とともに

冷涼に変じ︑やがて冬のきびしい寒さを迎えるといった︑四季の規則正しい緩慢な移行を普通のことと思っている︒

しかし世界のすべての地域の季節がそのように推移するものではない︒常夏の国といって冬を知らぬ国もあれば︑

夏を知らぬ厳寒の地域もある︒それほど極端ではないにしても︑四季の区別のはっきりしない国々は多︑い︒八月︸

日のテムズ川を︑外套を着て震えながら下った思い出が私にはある︒冬でも太陽の出る日本を羨んだ北欧の友もあ

った︒ 海流と水蒸気  ともかく日本は規則正しく四季が変化し︑四季それぞれの気温と︑それぞれの風雨︑およびそ      し が しげたかれらの変化に即応した景観の変化とがある︒それが何によって生ずるのか︑かつて志賀重昂︵一八六三〜一九二七︶

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はその名著といわれる﹃日本風景論﹄の中で︑日本の風景の美くしさの原因として︑

 ①気候︑海流の多変多様なこと

 ②水蒸気の多量なこと

 ③火山岩の多いこと

 ④流水が浸食激烈なこと

などをあげた︒

 ③と④とはたしかに日本の風景の美観の主題をなすものであるが︑直接気象とは関係がない︒しかし①と②の指

摘は重要である︒日本列島の太平洋側と日本海側とをそれぞれ寒流が南下し︑暖流が北上している︒この寒暖の両

海流の影響で気温に変化があるぽかりでなく︑両海流の合するところは︑しばしば良好な漁場となる一方︑季節に

よっては濃霧の発生するところとなる︒日本に水蒸気が多く︑太平洋岸における︑夏期の耐え難いほどの湿気も︑

洋上から季節風によってこの水蒸気が多量に運びこまれるからである︒冬期︑大陸からの季節風がもたらす︑日本        せきりょう海上の湿気は列島の脊梁をなす立山の連峰にさえぎられ︑日本海側に多量の積雪をもたらすが︑太平洋岸には乾燥

をもたらす︒太平洋側と日本海側とでは︑それぞれ表日本と裏製本といわれるように︑同じ日本の国土の中にあり

ながら︑文化の特色や生活形態や風習を異にし︑日本歴史で占めるその役割もそれぞれ異なっている︒

 民族の基本的性格  それはともかく︑寒暖の二流とその衝突︑季節風︑それに日本の複雑な地形等々が相まっ

て︑日本の多様な気候を生むのである︒そして概して言えば温暖な気候と適当な雨量︑そして夏期の高温多湿と

が︑日本人をして稲作を主とする農耕民族たらしめたのである︒

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日本歴史の基礎構造

 隣国中国の主たる民族である漢民族も農耕民族であるが︑漢民族はたえずその周辺の狩猟民族や遊牧民族から侵

略され︑長期にわたってその政治的支配を受けたことがある︒モンゴル族による元王朝や満州族による清王朝など

がその代表的なケースである︒農耕民族たる漢民族が概して平和的であったように︑それは同じ農耕民族である日

本についてもいえる︒そしてそのような民族の基本的性格が︑主としてその国土の地理的条件によって形成された

ということは注意されねばならない︒

 雑草のないギリシア  前記和辻博士がその青年時代︑初めてギリシアの地を踏んだ時︑同行の農学専攻の先輩

教授が﹁和辻君︑ギリシアには雑草がないんだよ︒﹂と指摘したという︒時期は初夏の候であったらしいが︑パルテ

ノンの遺跡も地面は一面に白っぽく乾き︑草はわずかに蔓草のようなものが地面をはうのみであった︒若き日の和

辻博士は︑その季節ならば膝を没するほどにも生いしげっているであろう︑故国の様子を回顧して感ずるところが

あったという︒すなわち︑雑草の無いギリシアは低温︑乾燥であり︑日本の雑草はその高温と多湿のしるしである︒

雑草の無いギリシアはついに農業国とはなり得ない︒したがって地中海の縁辺を侵略し︑食糧と同時に奴隷を奪っ

た︒そこからギリシアの繁栄と滅亡の歴史が始まる︒雑草に悩まされる日本は︑稲作を中心とする農業国家として

の歴史を歩むようになる︑と︒後に彼が﹃風土﹄一巻に情熱を傾けるようになるのは︑このギリシアでの体験から

ではなかったろうか︒

 文学と美術の素雪  それはさておき︑志賀が多変多様といった日本の気候の四季それぞれにおける微妙な変化

を象徴するものに︑大気の変化︑すなわち雲︑霧︑霞︑三等がある︒さらに霧にいたっては朝霧︑夕霧︑夜霧︑狭

霧等々がある︒これはまた雨についても風についても言えることで︑それらには季節とその特色とによって種々の

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呼称がある︒そしてその一つ一つが和歌の主題であり︑俳句の季であり︑総じて日本文学の主要な部分をなす︒源

氏物語をはじめ︑日本の古典文学には季節の変化と︑それに即応して生活する人の側の情緒に関する叙述の部分が

きわめて多い︒季節に関する名詞︑すなわち季語を用いなければ︑伝統的俳句というものは成立しないことからみ

ても︑日本文学と自然とのかかわりは深い︒またそのため︑日本文学における主情性︑情緒性︑人間性はいわれて

も︑その哲学性︑政治性︑社会性の欠如が指摘されている︒そしてそれは今にいたっても︑私小説の系譜を引くも

のが日本文学の主流をなすこととも関係があろう︒

 このことは美術の分野についてもいえることで︑中国からその手法と題材とを学びながら︑次第に題材を日本の

自然にとり︑手法的にも繊細︑優美な大和絵を生み出し︑やがてそれが狩野派や土佐派の手法となって︑日本画の

伝統的性格を形成していったのである︒

 宗教性の欠如  このように恵まれた自然の中に生活してきた日本人は︑絶えて自然の厳しさ︑すなわち暑さ寒

さ︑澗渇︑飢餓というものに長く直面したことがない︒その点︑烈日と激しい気象の変化の中に生きてぎた沙漠の

民や︑耐え難い暑熱の中にあえぐインドの民とも異なる︒ということは日本人は自然との対比において人間の無力

さを痛感したこともなげれば︑人間の未来について思いをいたすこともなかった︒またロ常生活における生ぎるた

めの努力というものをそれほど必要としなかったのである︒宗教というものが苛酷な自然や民族の悲運に絶望し︑

現実生活における幸福を諦め︑死後の世界に栄光と安楽を求め︑そのためには現世においていかに在るべきかを説

くものであるとすれぽ︑日本にはそのようなめ75教が発生する余地はなかった︒日常生活において反省を強いられる

こともないから︑哲学の生れる可能性もなかった︒日本人は喜び︑驚き︑悲しみもするが︑日本の四季が緩慢に推

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日本歴史の基礎構造

移するように︑その喜怒哀楽の情は永続しない︒楽天的という言葉がよくあたる︒仏教もキリスト教もイスラム教

も︑それらがどのような自然の中で︑どのような人々によって形成されていったかを思えば︑このことは理解され

よう︒ したがって日本人は︑仏教を取入れても︑キリスト教を受容しても︑いずれもその本来のものとは異なる︑葬式

仏教やクリスマス・キリスト教のような似て非なるものにしてしまう︒神前で結婚式を挙げ︑仏教によって葬られ

るというのが標準的日本人の在り方で︑宗教に厳しい国民からは考えられぬことである︒

 しかし︑また︑それがために宗教的対立によって国を割ったこともなげれば︑数百年にわたる宗教戦争の災害を

持たなかったことは︑このような日本人の宗教に対する寛容性のためかもしれない︒また余りにも宗教的で︑昔か

らの信仰に固執するため︑近代化の途を阻まれ︑いまだに近代国家たり得ない国々のあることも考えさせられると

ころで︑宗教的な寛容と不寛容とに対し︑軽卒な価値判断を下すことはできない︒

 自然の暴威と非合理精神  さて︑恵まれた自然環境の下で楽天化し︑無気力化した日本人について記したが︑

この日本人に対し自然が暴威を振い︑日本人につくづくと自然の恐しさを思わせたものがある︒それは地震と︑そ

れにともなう津波と火山の爆発と台風とである︒しかし前二者は局部的なもので︑その頻度も決して多くはない︒

しかし台風にともなう集中豪雨と︑それによる河川の決潰や洪水による人命や農作物の被害は毎年のように何処か

に生ずる︒そしてその被害はしばしぽ予測でぎない場合が多い︒

 ナイル河の氾濫はぎわめて定期的で︑人畜に被害を及ぼすことがないという︒むしろ上流から運ばれてくる肥沃

な土が下流の豊作を生むという︒又氾濫した河口地帯の測量のため︑それに必要な数学と幾何学とが発達したとも

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いう︒日本の河川の氾濫はこれとちがい︑集中豪雨とか鉄砲水とかよぼれる豪雨の急襲によって生ずる︑不測の事

態である︒日本人はこの時だけ自然の暴威を︑予測し難く︑捉え難い恐怖の対象とする︒ナイル河の定期的氾濫に

対しては科学が生れ︑ヨーロッパにおける秩序ある自然の推移からは︑それを予知し︑予かじめその対策を講ずる

ための諸科学が発達した︑と説く人もある︒日本人が自然とは予かじめ予測し難い暴威であるとする時︑これを神

として崇め︑極力その暴威から免れようとする︒ここに西欧世界と異なる︑非合理や神秘の精神が生れてくる︒そ

してその限りにおいては諸物に精霊の存在を信ずるアニミズム︵精霊崇拝︶が生れてくるのであ・る︒かつてラフカ

ディオ・ハーンの心を魅惑した日本人の怪談的世界の背景には︑このような日本人の原体験があるのではなかろう

か︒そしてそれは日常生活における自然現象をどこまでも探究して︑その現象の背後にある︑原理︑法則を発見し

ょうという科学的志向を欠如し︑すべてを精霊の所為であるとして情緒化し︑これを崇拝し︑信仰の対象にしてし

まう︑日本人の神秘的解決法なのである︒

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小さな巨入

 −矛盾する日本人一

 人種・民族・国民のちがい  国土の地理的条件という舞台の上で︑日本史を演じた毛役は誰であったのか︒い

うまでもなく日本民族である︒それでは日本民族というのはどういう人々の集団なのであろうか︒人々の集団で一

番大きいものは人種である︒人種というのは人間をその身体的特色によって分類したものである︒すなわち皮膚の

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日本歴史の基礎構造

色︑瞳の色︑毛髪の形状︑骨格︑体躯等々によって分けた︑黒色人種︑白色人種等がそれである︒日本人はその皮

膚の色によって︑中国入やモソゴール人と同じく︑黄色人種︑もしくはその居住する地域によってアジア人種とも

いわれる︒これらの人種の中で︑言語や基本的生活様式︵これはかってその生活を農耕もしくは狩猟︑遊牧のいず

れによって立てていたかということ︶を共通にする集団を民族という︒民族の特色として宗教その他の共有をいう

ものがあるが︑言語にしても基本的生活様式にしても︑要するに歴史を共有することによって生じたものであるか

ら︑人種が自然的集団であるとすれば︑民族はそれを基礎とした︑歴史的集団であるということができよう︒

 したがって日本民族は黄色人種に属するが︑日本語を共通するという点で︑漢民族をはじめとする他のアジア民

族とは異なり︑農耕を主とする点で︑モソゴール民族や満州民族とも異なる︒

 つぎに国民と民族とのちがいを説明しておこう︒日本国民と日本民族とはどのようにちがうのであろうか︒国民

というのは政治的に統一された一定の人間集団をいう︒したがって日本国民というのは日本の主権の下にある人

間︑今日の状況からいえば︑日本国憲法の規定する権利と義務を享有するところの人間の集団とでもいえよう︒そ

うすると日本国民の中には帰化︑もしくは国籍取得という形で︑日本民族以外の民族も含まれているし︑逆に日本

民族であっても︑同じように国籍や市民権を得ることによって︑他の国の国民となることができる︒日本人を両親

としながら︑アメリカで生れた子供はアメリカの市民権が与えられ︑日本国民となるかアメリカの市民となるかは

成人後の選択に委されている︒このように民族というものが選択を許さない運命的なものであるのに対し︑国民と

いう概念は︑政治的ないし人為的な人間集団であるといえる︒そしてむしろ国民の中に︑いく種類かの異なる民族

を含むのが現代国家の普通の場合である︒

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 日本といえどその例外ではなく︑古くから国土の北部にアイヌ民族が居り︑近代以後は朝鮮民族︑中国系諸民族︑

そして少数ではあるが欧米系の諸民族をも︑その国民の中に包含している︒

 珍しい単一民族国家  しかし日本が他の国々と異なる最も大きな特色は︑その国民の中に含む異民族の数︑し

たがって割合がきわめて少く︑日本国民の大部分が日本民族で占められているということである︒そしてこのよう

な国を単一民族国家︑あるいは単に民族国家というのに対し︑他の国々を複合民族国家という︒

 単一民族国家の特色は日本語の新聞が全国で読まれ︑NHKをはじめとする日本語放送が全国いたるところで聴

取され︑理解されていることに︑端的に示されている︒

 中国には全人口の六%︑五〇余意四︑○○○万の異民族をその国民の中に包含している︒読者はテレビ等でこれ

ら中国の少数民族が︑それぞれの民族衣装をつけて歌舞する様子を見たことがあろう︒衣装や歌舞ならまだいい

が︑それら少数民族がそれぞれ固有の言語と風俗習慣をもっているとしたら︑中国の統一事業の困難なことが理解

できよう︒しかしこれは中国に限ったことではなく︑インドでもソ連でも︑アメリカでも同じことで︑それぞれ困

難な少数民族問題を抱えている︒アメリカにおける黒人問題の深刻さや︑イギリスにおけるアイルランド問題の激

化は︑いまだにわれわれの記憶に新たである︒

 最近のわが国における一つの風潮として︑わが国を単一民族国家とよぶことを好まぬ傾向が一部にある︒それは

アイヌ民族や在日朝鮮人︑在日華僑等の少数民族を抱え︑それに対する適当な対策も講じないで︑日本が単一民族

国家であると︑いうのは︑不幸な少数民族の立場を無視するものであるということにあるようである︒しかし右に挙

げた日本の国内における異民族の問題は︑普通にいうところの少数民族問題とはいろいろな点で異なるし︑何より

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日本歴史の基礎構造

も全国民の中に占めるその数と割合の少いところがらみて︑日本を単一民族国家とするのは不当ではない︒

 つぎに日本におけるこのような単一民族国家がどのように成立したかは︑結局日本民族の起原にまでさかのぼら

なければならない︒しかし日本民族の起原そのものが今の段階では明確にされていないのであるから︑ただ結果と

して日本が単一民族国家であるという以外にはない︒

 日本民族の成立  日本民族の由来については︑いずれかの地域からの渡来説が有力であった︒たしかに日本人

の風俗︑風習の中には︑その起原を北方ないし南方の諸民族に求めることができるものがある︒しかし戦後の考古

学の著しい発展の成果によれぽ︑日本人の祖先がこの列島で生活するようになったのは︑従来考えられていたより

もはるかに古いようである︒各地における原人の人骨や︑縄文式土器に先行する旧石器の発見などがそれである︒

そうすると各方面からの人種の渡来に先立って︑この列島に土着していた人類の存在を認めざるを得ない︒そして

このいわば先住土着の人類と新たな渡来人種との関係は︑後者が前者の勢力を併呑ないし一掃したとは考えられな

い︒むしろ新たな渡来人種は先住民に異質の文化の痕跡を残しながらも︑人種的には融合同化され︑このような文

化的︑人種的融合同化の過程をくり返しながら︑日本民族が形成されたと考えるのがよいのではないか︒

 やはり戦後の一学説として︑アジア大陸北方の騎馬民族が朝鮮半島を経由して日本列島に侵入し︑大和朝廷を形

成したという︑北方騎馬民族説や征服王朝説などが唱えられたが︑にわかに首肯できない︒それはまず第一にそれ

を定説化するためには︑騎馬族の渡来の経路が考古学的にも︑伝承的にも事実をもって裏付けられなけれぽならな

い︒第二には征服王朝説をとれば︑被征服民族の存在を考えなければならない︒ヨーロッパの古代に見るギリシア

やローマの奴隷制度というものは︑すべて異民族間における武力争覇の結果生じたものである︒古代日本における

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奴隷制の存在を主張するならぽ話は論外であるが︑日本の古代にはこのような事実を見ることはできない︒

 古事記の伝える建国の過程が歴史事実でないことは︑今や定説となっているが︑少くともそこには外部から侵入

してきた異民族による日本の統一過程を示すものはない︒むしろ戦う両方の側が日本語を語っているということを

指摘することができる︒

 早くから先住していた人種を基礎とする︑渡来人種の平和的かつ緩慢な同化融合を︑日本民族成立の過程とした

い︒ このことは日本語を仔細にみれば︑様々な地域の言語の特色を含みながら︑しかも独立した言語として︑日本の

周辺に︑その類似したものを見出すことができないことによっても裏付けられるであろう︒

 民族国家の特色  このような日本の民族国家としての特色は歴史の種々な面に表出している︒その一つは強固

な団結力と急速な国論の統一とである︒強固な団結力は昔からの対外戦争の場合において遺憾なく発揮されている

し︑大化改新や廃藩置県︑ひいては戦前の新体制運動など︑政治的な大変.革が︑それほどの問題を引き起こさずに

成就されているなどの例は︑早急な国論の統一を示すものであろう︒戦時中︑日本に駐在したアメリカ大使グルー

が︑﹃滞日十年忌というその著の中で︑日本の世論の推移を時計の振子のように︑極端から極端に変る︑といったの

はこのことであろう︒

 これは全国民が日本語という言語を共通にしている他に︑同民族という心易さが︑議論以前に何事かを了解し得

るからであろう︒口本には﹁眼は口ほどに物を言う﹂という諺があるが︑日本人は種々=.﹈挙げするより︑沈黙を尊

しとした︒日本人が外国語に留熟しないのはそのためであるかもしれない︒それよりも日本語が同民族間内部の言

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日本歴史の基礎構造

葉として発達したためか︑インド・ヨーロッパ系の言語と比べ︑著しい特色ある発展をとげたように思う︒日本語

はしばしぽ主語を欠いて用いられるし︑時制が甚だあいまいである︒また単複の区別も明瞭でない︒これらは異民

族を予想しない仲間うちの言語であったからではなかろうか︒

 家族国家論の盲点  戦前の日本においては︑この民族国家であることを︑一大家族国家と言い︑右に挙げた団

結力も国論の統一も︑すべて家族国家という特異な体制にもとつくとした︒しかし家族国家という言葉で最も強調

されたのは︑天皇と国民との関係︑すなわち支配者と被支配者の関係についてであった︒当時︑天皇と国民との関

係は︑義は君臣にして情は父子といわれた︒儒教的大義名分論に立てば︑天皇は君主で国民は臣下である︒そして

天皇が絶対的権利を有するのに対し︑臣下たる国民は天皇に随順して忠誠の誠をつくす義務のみを有するわけであ

る︒しかし実際には︑天皇は日本という家族国家における一大宗家の長であるから︑国民との関係は父子の関係で      せきしあつて︑権利と義務とで結びつけられる諸外国の君臣関係とは異なるとされた︒しかし天皇が国民を赤子のように

いつくしみ︑仁慈をたれられるに対し︑国民は親の子に対するように︑時によっては一身を犠牲にしても︑転たる

天皇に奉仕せねぽならぬとされた︒

 このような戦前の家族国家論は︑ともすれば天皇の国民に対する仁慈が抽象的かつ形式的であったのに対し︑国

民は天皇に対する奉仕を盾に︑その犠牲を強制される場合が多かった︒

 あ.いまいな権利観念  これは個人の家庭生活においても同様で︑少くとも戦前においては家族構成員に対する

父権︑戸主権等が強調され︑家族のそれに対する服従と奉仕とが美徳とされ︑家族が家のために犠牲になるという

場合も少くはなかった︒

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 そのためか日本人は義務の観念はよくこれを理解し︑その完全な遂行を美徳とする傾向はあるが︑権利について

は真にこれを理解することが少なく︑かえってそれを主張することを忌む傾向すらある︒かつて法学者川島武宜

は︑その著﹃日本人の法意識﹄の中で︑日本の法律の規定は義務の規定だけが多く︑権利に関する規定がほとんど

ない︑と言っている︒たとえば自動車運転の規則でも日本においては︑こうこうせねぽならぬ︑とか︑こうこうし

てはならないという規定は多いが︑運転者として︑こういうことができるという権利の規定がなく︑その欧米にお

ける同種の規定と著しく異なるといっているが︑面白い指摘である︒

 かつて明治憲法の制定に際し︑伊藤博文が国民の権利について説明したところ︑並居る明治の功臣連中は︑わが

国においては︑天皇のみが権利を萌せられ︑国民は義務だけを有するので︑権利のあるはずがないといって︑こぞ

って伊藤に反対した︒伊藤が︑国民の権利の規定なくして何の憲法であるか︑と反論して議論は収まったという︒

民族国家−家族国家における権利と義務の関係をうかがわせる話である︒

 日本の過保護現象  そうはいうものの︑実際の家庭生活がすべて強大な父権によって抑圧された︑不幸なもの

であったということはできない︒勿論︑子の親に対する孝行は強調されたが︑親の子に対する愛は無限のもののよ

うで︑そのため子女の自立性や独立心を損う場合もあった︒

 戦後の各分野における過保護現象も︑民族国家という山本に固有な特色から生ずるところが多い︒民族国家にお

いてはかってのユダヤ人や華僑のように︑活動の場を異民族の中に求める必要がない︒その点むしろ日本人の活動

の場はこの島国内の同一民族の内部という︑きわめて限定されたものであった︒それだけに競争が激甚であったと

いえよう︒さらにもう一つは民族国家は階級社会ではない︒その出身民族によって差別されることはない︒したが

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日本歴史の基礎構造

って日本においては︑社会的地位はその人の努力いかんによっていくらでも上昇させることができる︒このような

場合︑親が子にかける期待は大とならざるを得ない︒子は常に一家の代表として︑親が叶えることのできなかっ

た︑諸々の夢を叶える代表選手として大切に養われる︒民族国家たる日本の国民の眼には︑海外という広大なる市

場が視野に入らぬと同時に︑自分中心の生活以外の︑公共というものにも視野が及ばぬ︒子に極度の勉強を強制

し︑高学歴を身につけさせ︑よりよい就職を期待して子に努力を強制するのは︑すべて一身一家のためである︒な

りふりかまわぬ︑自己中心主義が過保護現象の根抵にあるのである︒

 欧米の階級社会  われわれが歴史の教科書の上で︑自由︑平等のお手本としてきた︑欧米の国々は意外に階級

社会である︒フランスでは今でも華族の爵位が通用している︒イギリスも出身地とその語るキソグス・イングリッ

シュによって区別される︑一握りの人々が上流社会を構成し︑中流以下の社会も︑ホワイト・カラーとブルー・カ

ラーの階級に峻別されている︒アメリカといえども︑北米移住の際のパイ下学アーの子孫が上流社会を形成してい

る︒筆者はロンドンにおいて︑その中流社会が決して日本におけるような上級学校志望の上昇志向を持たず︑位置

づけられた秩序の中でつつましく生きている姿をしばしば体験した︒

 異民族への対応  さて国内の問題としてではなく︑民族国家という︑いわば純粋集団の成員が︑何らかの事情

で異民族と接触するにいたった時︑どのような特殊な反応を呈するのであろうか︒すなわち自分の属する民族以外

に他民族のあることを知らず︑しかも島国という特殊な環境において︑ほとんど民族的交流のない日本人の場合︑

外国人に対する態度はどのようなものであったろうか︒

 異民族というものを知らないのであるから︑r初めてこれと接触した時︑まず拒絶反応を呈する場合と︑逆に好奇

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心から親愛の情を示すのと二つの場合があり︑日本の歴史上においてはそれぞれ二つの場合を実例としてあげるこ

とができる︒しかし少くとも近代以前あれほど尊崇していた中国人︑朝鮮人ならびにその有する文化に対する評価

が︑一転して蔑視に代った事実を思う時︑日本人が異民族や異質の文化に対する時は︑常に自分自身を標準とし

て︑相手の優劣︑高下を判定し︑ある時はこれを尊敬し︑ある時はこれを蔑視し︑ともかく判然たる区別をして然

る後接したのではなかろうか︒

 自分の尺度で人をはかる  このように考えるのは歴史上のいろいろな事実によることはいうまでもないが︑現

代日本人に名刺交換の風習があるからである︒名刺には必ずといっていいほど︑その職場と︑その職場内における

職掌上の地位とが︑いわゆる肩書として印刷されている︒企業内には種々な職階制があるが︑その地位を示さない

では︑相手側との交渉がうまく進捗しない︒名刺交換の風習が諸外国に皆無とはいわないが︑日本のように必須の

しきたりとして行われているところは︑私の知る限り中国を除いてはない︒名刺交換の風習が中国からきたとして

も︑その意義は日本に独自なものと思う︒

 相手の人物が自分より優れ︑自分にない特殊な技術を所有していると理解した時︑その人物を採用し︑外国人で

あることを問題にせず︑日本人と同じように優遇した例は︑昔から非常に多い︒遣階使や初期の遣唐使の中にはそ

ういう外国人が多かったし︑強大な軍事権を委ねられた︑坂上田村麻呂も帰化人の子孫であった︒ことに明治以

後︑多くの官庁や諸学校において西欧文化の指導に当ったり︑政治外交の顧問となったのは︑お雇外国人といわれ

た欧米系の外国人であった︒政府はこれら外国人に日本人とは比べものにならぬ高給を与えて優遇した︒札幌農学

校で教鞭をとり︑当時の日本青年に多くの感化を及ぼしたクラーク博士も︑開拓使が彼に予約した高給にひかれて

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日本歴史の基礎構造

赴任したものであるという︒

 尊敬と蔑視のあいだ  日本人はこのような特殊な才能や技術を有する外国人を日本人以上に優遇したが︑一旦

その技術を修得してしまうと遠慮なくこれらお雇外国人を解雇し︑その技術をもって長く日本国内に留ることを許

さなかった︒かつて日清戦争までは︑赴任してくる新任の中国公使に刺を通じ︑これと交歓の機会をもつことが︑

日本文化人の誇りであったといわれるが︑中国が日本との一戦に敗れた後は︑これに対する幾視の態度が強まり︑

それは今次の敗戦時まで続いた︒朝鮮についても同じことが言え︑誇り高い新井白石ですら︑朝鮮の使節に対して

自作の詩に対する批評を乞い︑讃辞を受けるとそれを無上の光栄としていた︒少くともそういう文学上の事柄につ

いては︑中国についで朝鮮に兄事するという日本人の態度は︑明治時代の初期まで継続するのであるが︑韓国が軍

事的に日本の下位に立った段階からは︑日本人の韓国を見る眼は蔑視のそれに代った︒

 これに反して欧米人に対してはどうであったか︒少しくさかのぼって南蛮人といわれたイスパニア人やポルトガ

ル人︑少し下ってオランダ人等に対しては︑彼等の渡来の目的が交易であったから︑彼等は日本の政治的権威に対

して従順で︑日本人の自尊心を傷つけることがなかった︒そのため日本人は中国流の華夷思想に立って彼等を南蛮

人と呼び︑優位を保っていた︒そのもたらす物品はたしかに珍奇︑華麗なものが多かったから︑日本人は一部人士

がそれを愛好することはあっても︑あくまでもそれを点耳品とし︑生活必需品とは考えなかった︒したがって︑あ

えてそれらの製造技術を学ぼうとはせず︑また国内で生産することもなかった︒まだ日本人の自己の伝統に対する

自負心が働いていたのである︒

 自負とコムプレクスの交錯  しかしペリーの一行によって代表される︑アメリカ人に対してはどうであった

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か︒もちろん伝統的な夷人観に立ってこれを蔑視し︑開国︑通商に対する︑激しい反対運動すなわち嬢夷運動が展

開された︒しかしそれはアメリカの国力︑文化︑軍事力を理解しなかった人々の間のことで︑時の為政者たる幕府

当局者はよくそれを理解していた︒アメリカ人の乗ってきた蒸気の力で走る軍艦︑その搭載する大砲︑それから献

上された電話機︑蒸気機関車の模型︑ライフル︑ピストル等々の近代科学の粋ともいうべきものを見て︑その実力

に圧倒されてしまったのである︒もち論︑それ以前において︑蘭学者などが書物から得た知識として︑アメリカの

歴史や政体やその国力等を理解しており︑それがまわりまわって幕府の開国政策に影響したということはあり得

る︒ともかく日本人はアメリカ人との応接の段階で︑その優越性を奪われ︑自尊心も自負心も失ったのである︒

 閉鎖的な島国に育った日本民族という純粋種族は︑あたかも世間知らずの旧家の主人のように︑自家の伝統に固

執する誇り高い守旧性と︑外来の新しい文化に接すれば︑好奇心に駆られて自家の伝統に対する誇りをも失いかね

ない︑浮薄性との二つの矛盾した性格を併有していたのである︒言葉を換えていえぽ︑己れに対する自負心と他に

対する劣等感とを併せもっていたのである︒

門日本の歴史はある意味で︑日本人の第三国に対する自負心と劣等感との交互連続の歴史である︒中国文化一辺倒

の後に続く国風文化の時代︑文明開化に続く国粋主義の時代︑日露戦争後のヨーロッパ尊崇の時代に続く︑日本精

神︑ないし八紘一宇の時代等はよくこれを示している︒

 戦後四〇年の日本がそのどちら側にあるかを考えてみるのも大切なことである︒

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日本史の不思議

 一天皇と皇室1

日本歴史の基礎構造

 日本史の原点  日本の歴史を振りかえってみる場合︑天皇および天皇を中心とする皇室の存在を無視すること

はできない︒なぜならば武家政権が成立するまでの外交は︑すべて天皇の名によって行なわれた︒また天皇は独裁

君主ではなかったが政治の中心であり︑官吏はすべて天皇の任命するところであり︑幕府成立以前は天皇を中心と

する宮廷が政治の場でもあった︒文学︑美術︑舞楽︑宗教︑建築等々の文化一般が︑天皇を中心とする宮廷におい

てまず隆盛をきわめたことも歴史上の事実である︒

 そして歴史上の政治変革が一つとして天皇の権能と関係のないものはなく︑また皇室がこれに関与しなかったも

のもない︒これは摂関政治︑院政︑幕府︑王政復古等々の例を挙げるまでもなかろう︒

 天皇に代ろうとした者  筆者はかねてから考えている日本歴史上の不思議な現象のいくつかを提示し︑それが

何によるものであるかについて読者の判断をお願いしたい︒それはまず第一に︑日本史の上では天皇の地位にとっ

て代ろうとする勢力がかつて現われたことがない︒具体的には武力をもって皇居に侵入するなどして︑天皇一族を

亡きものにしようとした者がないということである︒武家政権の樹立者はそれぞれの武力によって︑天皇の地位に

とって代ることができたであろうが︑あえてそれを試みる者はなかった︒それは何故であろうか︒

 なるほど﹃日本書紀﹄は蘇我馬子が部下をして墨斑天皇を殺害させたことを記しているが︑これは身に迫った危

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険を察知した︑いわば馬子の先制行動で︑天皇の地位そのものとは関係がないし︑推古天皇がその次に即位してい

る︒また道鏡が天皇の地位にとって代ろうとしたということが伝えられているが︑これもその背後には︑対立する

藤原氏との抗争がからんでいるのであって︑伝えられるような道鏡の言動がそのまま事実とはいい難い︒鎌倉幕府

の執権の中には︑北条義時のように天皇︑上皇を島流しにした老もあるが︑これとても天皇そのものを廃絶したの

ではなく︑都ではそれに代る天皇が在位していた︒代々の将軍は政権を手中に収めたとはいえ︑号砲大将軍という

将軍たるに必要な官職は︑天皇が親授するものとしてこれを怪しまなかった︒

 国家統合の中心  その第二は︑日本国内の分裂という危機に際し︑その統一回復の中心として︑常に天皇が求

められたということである︒

 源平二氏の抗争の時も︑両陣営が最も関心を抱かざるを得なかったのは天皇の去就であって︑平家が安徳天皇を

擁して西海に浮べば︑源氏は都において後鳥羽天皇を擁立したではないか︒これは応仁の乱における東西両軍の場

合も同様であった︒その最も顕著な例は︑いわゆる戦国の時代︑幕府の実権が消滅し︑群雄が地方に割拠して紛乱

をきわめた時︑天下統一の志を抱く武将は︑いずれも上京して︑天皇から天下統一の勅命を受け︑それをもって自

己の武力行使の大義名分としょうとした︒上杉も武田も今川も織田もすべて上京︑待詔を唯一の目的として画策︑

行動した︒当時の天皇といえば︑それ以前から政治的にも軍事的にも何らの実権はなく︑日々の供御︵食事︶すら

事欠くといった衰微した日常であった︒何故そのような微力の天皇に︑天下統一の原点になることを求めたのであ

ろうか︒ 古いことではなく︑穰夷か開港かという外交問題が紛糾し︑西南諸藩の策謀もあって︑国内が困難を極めた徳川

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日本歴史の基礎構造

時代の末︑尊王論︑王政復古論を唱えて日本の再編成を企図する者は︑すべてその中心に天皇を据えようとしたの

である︒ 昭和に入ってからも︑欧米からの外圧を強調し︑重臣︑政党︑財閥︑官僚の排除による︑国家社会主義的体制の

実現を叫んだ︑いわゆる青年将校運動もまた天皇親政を呼号した︒

 国家的危機に際して︑このように国民の期待が天皇に集まるのは何故であろうか︒

 存続した天皇制  第三には︑日本は今次の大戦で︑敗戦という︑いまだかってない悲惨な事態に遭遇した︒し

かしそれにもかかわらず︑天皇も皇室も存続した︒もっとも新憲法の規定によって︑従来天皇にあった主権は国民

のものとなり︑天皇は国民統合の象徴とはなったが︑このことは大きな戦争における敗戦国の政体が変化した事例

が多く︑なかんづく王制や独裁制を廃絶した場合が多い︑世界史上の事実からみて︑日本の場合は異例に属すると

思われる︒

 なるほど敗戦の直後においては︑天皇の戦争責任や天皇制の廃止などが論議されたが︑結局そのいずれも実現せ

ず︑天皇はその権能を変えたが︑制度としてはなお存続した︒そしてかつて国民が天皇︑皇室にそそいだ敬愛の情

にいたっては戦前も戦後も変るところがない︒今日といえども天皇一家の御動静は国民の主要関心事の一つであ

る︒ このような筆者が不思議と思う現象に対し︑その原因をどのように説明したらよいのであろうか︒

 民族の内部から出た皇室  すでに前節において︑日本が世界でも珍らしい単一民族国家であることを指摘し︑

その生成の過程および天皇と国民との関係についても記しておいた︒原因の第一はそのことと深く関係がある︒

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(30)

 およそ国家の成立には︑一民族が外部から侵入して先住の民族を駆逐するか︑あるいは併存するいくつかの民族

の中から︑特定の一民族が他を排除するか︑いろいろな場合が考えられる︒しかし多くの場合そのために武力が行

使され︑国家の成立以後︑その内部に支配︑被支配の関係が樹立され︑その関係はまた支配者の権利に対する︑被

支配者の義務の関係でもあった︒ところがわが国が単一民族国家であるということは︑国家の成立に際して異民族

との抗争を含まず︑国家統一の支配老は同じ民族の内部から出た︒これが皇室である︒したがって天皇を長とする       ちゅうきゅう皇室はその国民に対し︑かつて武力を行使した歴史がなく︑また権利を盾に国民を謙訂したこともない︒日本の歴

史には国民が皇室の圧制に叛旗をひるがえしたという事実はない︒そこには︑後に多くの弊害を生むにはいたつた

が︑家族国家の面影があった︒

 部族間の抗争とその服属  しかし国家の統一に際し︑武力抗争が全くなかった訳ではなく︑多少の武力行使が

あったことは︑記紀の記載によっても知られる︒だがそれはあくまでも同一民族内部における部族間の争いという

べぎもので︑多くは話合いの結果として︑皇室の祖先による統一が進められた︒それは皇室による統一後も︑かつ

て皇室の統一に反抗した地方豪族が︑それまでの政治的︑社会的地位をそのまま保証され︑国造︵くにのかみ︶と

して存続した事実によっても知ることができる︒

 その最もよい例が出雲部族の場合である︒かつての出雲部族は皇室を長とする大和の勢力に対する有力な対抗勢

力で︑これを服属させるために︑大和の勢力は多くの困難に遭遇したらしい︒記紀の出雲に関する記事が︑陰惨

で︑死後の世界︵よ み黄泉の国︶のように描かれているのはそのためであろうといわれる︒しかしその記紀は出雲を皇

祖天照大神の弟スサノオノミコトの支配する所として︑皇室との密接な関係を強調している︒そして事実として出

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日本歴史の基礎構造

雲国造はその後の皇室から殊遇を受けており︑現に出雲大社の世襲的宮司千家家は出雲国造の子孫である︒

 その他九州南部の鱗児族や大和の副櫛族なども同様であったが︑その服属後はそれぞれ都において特殊な地位を

与えられ︑大嘗祭などの宮廷における儀式に際しては︑特別な職務を分担させられてもいる︒      え ぞ ただ︑東国からその北方にかけては︑当時蝦夷とよばれたアイヌ民族に対し︑しばしば武力を行使した︒しかし

その討伐後は敗残の蝦夷を︑かつてのギリシア︑ローマのように奴隷扱いをすることなく︑各地に分散し︑課役を

免じ︑農耕の資を与えるなどして︑極力同化を試みた︒これらのいわゆる蝦夷対策はその後の令の規定の中に収め

られている︒       ふしゅう 後に平泉を中心に大きな勢力を振った︑いわゆる奥州藤原氏は︑自からを俘囚︵服属した蝦夷のこと︶の長と称

しているので︑その祖先はそのような同化した蝦夷と関係があったのではなかろうか︒

 新穀にまつわる皇室の祭祀  さて︑それでは皇室の祖先は︑なぜ同じ民族の中から出て︑平和のうちに国家統

一者の地位についたのであろうか︒勿論それを説明する文献史料があるはずはない︒その確実な説明は人類学︑民

俗学︑考古学等の今後の駅究の成果をまたなければならない︒しかし記紀の伝承や︑今日のわれわれの生活の中に

残る風習等を考察することによって︑いくらかはそれを推測することが可能である︒

 戦前においては︑わが国の天皇による政治の特殊性を示すものとして︑祭政一致という言葉があった︒祭祀すな

わち祖先の霊を祭り︑年初に皇祖や天神地紙に五穀の豊穣を祈り︑秋にはその収穫に対して感謝の祭を行なうとい

うことと︑国家の政治とが同一の比重をもって行なわれねばならぬということであった︒したがって天皇は政治的

には国家の元首であるとともに︑国家の祭主でもあり︑そのような権能は天皇の祭祀大権ともいわれた︒勿論戦後

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