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豆 州 西 浦 組 久 料 村 の 漁 業 生 産

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(1)

論 説

豆 州 西 浦 組 久 料 村 の 漁 業 生 産

山 口 徹

121

は じ め に

久料村は村高一三石余︑家数も江戸時代を通して一五軒(内一軒は寺)︑水呑はなく︑人口も八〇人程の内浦湾に面し

た小村である︒海岸は西北に面し︑大岩巨石が海底まで続き︑背後には起伏に富んだ山がせまり︑冬は北風が厳しく︑

(1)波浪が打ち寄せ︑﹁全汐早二而大風波当厳敷﹂とあるように漁業には不向の場所であった︒

(2)明治二三・四年の調査によると久料村は農業が三分五厘︑林業が三分五厘︑漁業が三分の村で︑農業は畑雑穀の生

産が中心で︑いわゆる商品作物の生産は無く︑林業も江戸︑沼津に積み出す薪︑眞木︑もや木の伐り出しが中心であっ

た︒このように久料村は農業生産力も低く︑林業も村民達が生活を甑てるためには十分でなく︑漁業にいたっては﹁網

戸場悪敷︑猟師無御座候﹂状態にあり︑﹁村中二而立猟網所持仕候︑輔︑鮪︑まくろ︑めしか︑鮭此分立猟仕候得共︑

舟手間︑岡手間︑萬相残所二而御三分一差上ケ申候﹂程度のものであった︒

久料村は村高も家数も少なく︑それ故に︑農業でも︑山稼でも生活を支えられず︑また漁場条件も悪く︑漁業でも

(3)生活を支えられない村であったと言えよう︒

(2)

このように︑山が迫まり︑船を撃ぐべき浜も入江もほとんどない海付の村︑しかも全村民が漁業を営む村が伊.廿半

島には多い︒

本稿は︑こうした海付の村の漁業の在り様と︑漁業の性格を久料村に残された漁業関係史料を検討することによっ

て明らかにしようとしたものである︒なお本稿は拙稿︑㎜︑星州西浦績久料村の生産と生業⁝海村の一類型﹂(﹃歴史と民

俗﹄9)を前提として執筆したものであり︑史料はことわらない限り久料村の久保田泰義家文書を使用している︒

浜 丸 帳 か ら 見 た ︑ 久 料 村 の 立 網 経 営

一海猟分一之義︑鮪︑鰹︑めじか

是ハ百姓夏之内︑耕作山稼之間二㍍猟仕候事も御座候︑その節ハ薪同前二改を請︑永引仕候て三分一差上申候︑

尤まれに釣漁仕候事も御座候︑其節ハ御卜分一指ピケ申候︑右魚彿方之義ハ沼津其外近村へ申触︑入札二仕相場

申候

右の史料は享保一二年の﹁村差出下書﹂の浜方(漁ゐ)分一についての記述である︒この記述から明らかなように︑

この村の漁業は耕作︑出稼の合間におこなう鮪︑鰹︑めじか等の黒潮に乗って回遊してきた魚を立切網(大手網)に

よって捕獲する漁業が中心で︑釣漁はほとんどおこなっていない︒肱網漁にしても﹁立猟仕候事も御座候﹂とある様

に︑必ずしも毎年行なわれたものでないことを予想させる︒事実︑占r保一四年︑享保一五年︑享保一七年︑宝暦一二

年︑宝暦一三年︑明和︑一年の﹁諸分一取立帳﹂で浜方(漁方)分一の記載があるのは享保一五年︑宝暦一︑一年だけであっ

た︒他の年には立漁があっても︑分一の対象になる程の漁獲量がなかったのであろう︒この点については前掲拙稿を

参照されたい︒

(3)

豆州西浦組久料村の漁業生産 123

このように久料村の漁業はこの村のセたる生業とは言えず︑漁業に不可欠の漁船︑網船も無く︑延享四年の﹁当夘

年久料村船数書上帳﹂に.一艘の小乗船が﹁是ハ夏中立漁仕候節︑網さやめ付舟井田畑之こ屋し持送り仕候二付︑御役

永之義︑前々より御免被成下候﹂と立網漁に使用されている記述があるのみであった︒本来漁船は船役が掛かるもの

であり︑役永が免除されていることは︑この村の立網漁が規模の小さい︑にもかかわらず役を免除する必要がある︑

この村にとっては糧を得る為に重要な生業であったことを物語っている︒本節はこうした意味をもつ久料村の漁業の

実態を明らかにせんとするものである︒

表1は安政六年未七月六日︑同八月卜一日の.踊冊の﹃鰹浜丸覚帳﹄(津元五郎右衛門)を販売先順に整理集計したもの

である︒

(4)浜丸とは水揚された魚のことで︑地域によっては水魚とも言う︒この史料は立網漁によって水揚された鰹の漁獲高

とその販売の内訳を記帳したものである︒この帳簿に集計された鰹の高は津元及び網子の配分︑つまり代11当りの計

算と分一計算の基礎になるものである︒したがって︑水揚された鰹の数量と販売された価額が示されるのが一般的で

あった︒しかるに︑安政六年の.一冊を比較して見ると︑七月六日の﹁鰹浜丸覚帳﹂の場合は数量のみの記載で価額の

記載はない︒これに対し︑八月卜一日の﹁鰹浜丸覚帳﹂の場合は数量とその代金が記載されている︒後に示す︑文久

元年の﹁めじか浜丸帳﹂も数量と代金が記載されている︒したがって︑八月卜一日の記載様式が久料村の場合でも浜

丸帳の一般的姿であったと蒔えよう︒

そもそもこの地域の立網漁の場合︑﹁海附村々漁業有之候節者︑内浦6沼津宿迄人札触差出し候得者︑商人人勢疏寄

入札致し︑直段相定︑札金之儀各卜日延︑又者五日延二而売渡︑日限之通取蹉来候﹂とある様に蹉網漁のある日には沼

津あたりまで入札触を出し︑集まった商人達に人札によって水揚された魚を販売していたのである︒この水揚された

(4)

表1安 政6年 鰹 浜 丸 明 細 単 位 売1還 は本 。 売 ヒ額 は文 。

江 戸:

沼津 魚 町

、i商 人 中 治五 右衛 門 i中町 庄 右衛 門 新 町 汰坂 屋 宮 町 佐 七

下河 原長 五郎L 下河原武 右衛 門

常 八 源 吉 :甚助 i茂左衛 門

捌醸 ㈱ 繊 難 酬

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預 り魚 7月rr計 8月 合 計7・8月 合 計

1

6日 分7月7口 分;7月7口 売h盤i売L額

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売騰i剋 噸

一 『 一

売L鰍 売f%

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1 35073,850 350 73,850 9.2

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一トー一一 一一一一一 一一 一一

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5010,550 30.6,330 755;159,305

13 20 15 45 45 104 1,073226,403

50'10,550 20'4,220 .̲̲旦D'4,220

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2,743 4,220 3,165 9,495 9,495 21,100 26,4032$.2

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西浦 平 沢 平沢 久連 i古 紅 梨 犀 保 河 内 河 内 久 料 久 料

i・昇右衛 門 作 右 衛門 惣 七 九 兵衛 i源兵衛 喜 四郎 治 兵衛 平 右衛 門 小 計

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3,804802,466

̲塑i 史 料:安 政6年7月 鰹 浜 丸 覚 帳 」 ・同 年8月 鰹 浜 丸 覚 帳 」

(5)

鹿州 西 浦 組 久 料村 の漁 業生 産 125

魚を落札した売先ごとに数量と販売代価を記録したのが浜丸帳であった︒

と▼︑ろで七月の場合は販売代金の記載がないがこの年の販売額を知るたあに八月の落札価額錘本三支で販売額を算定した︒また七月七日の場合には﹁預り魚﹂として久料村の治兵衛以五五人に三九本の鰹が渡されている・▼︑の﹁預り魚﹂は︑八月の﹁浜丸帳﹂には無く︑その項に示売覚Lとして治兵衛以下エハ人に五七本の鰹が販売さ

れた▼﹂とが記載されている︒}しの}﹂と々り判断して七月の.預り魚Lは久料村の百姓達に小売された鰹であると考え

まず表‑の売上量︑つまり水揚高を見ると七・八月の合計は鰹三八〇四本︑そのうち五四%のδ五ヒ本が八尺

四五%の一七四七本が七月の水揚であった︒八月の.一〇五七本の水揚の内二一本が八月一二日の水揚で・残り二〇三六本が八月=日の水揚であ.た︒八旦.百の.二本は八月=日の立網漁の残りと考えると両者とも八月=目

の水揚と考えて良い︒しかし︑七月六日︑ヒ日の場合は﹁七日取﹂と頁を新らためて明記されていることから︑二日

間に二回︑立網を入れたものと判断される︒

このように考えると︑ヒ月六日には八三五本︑ヒ月七日には九一二本︑八月一一日には・二本の↓二日水揚された

残りを含あて∴〇五七本の鰹が水揚されたことになる︒高の水揚量はかなり大きな差があるように見える・それは回遊しぞる魚群の大きさによるものであろう.この点は匙において見た通りである・即ち・藻五年の藷色

御分一改取立帳﹂によると︑この年久料村では五月.一〇目︑同∴五日︑六月.百︑同四日に立網漁があり︑それぞれ

の日に五四本︑天五本︑七〇本︑西三本の水揚があ︒た︒更に宝賢.琵には六月西日に四二〇本・六月二六日に一五五〇本︑七月二三日に五七五本の水揚があり︑この年にも日によって一回の水揚量に大きな差があることが明︑bかにな.ている︒ちなみに︑享保五年の鰹水揚量の合計はλ.⁝︑禾︑宝暦三年の場合はこ茜五本と

(6)

なる︒したがって︑表1の安政六年の鰹の水揚合計は三八〇四本であるから︑享保一五年の約二倍の水揚があったこ

とになる・この年は・かなり豊漁であったと︑.肖えよう︒この︑;の﹁鰹浜丸覚帳﹂に記載された鰹の量を右の様に考

え得るとすれば・その量から判断して︑この年久料村において︑おこなわれた籍漁の全てであると考える}﹂とが出来

る・したがって・この年にこの村で凱網漁がおこなわれたのは七月の.︑具︑回)︑と八月の.亘..回)︑計四日西回)で

あった・h口凍五年の場合は11月から六月にかけて四日(四回)︑宝暦二年の場合は六月か・り七月にかけて三日(...

回)であった・久料村の矯漁は︑‑月から八月にかけて年間︑わずか三日か・り四目おこなわれる漁業であったと}口える︒

このように見てくると・この村には専用の網船︑漁船もなく︑農耕︑薪.眞木の運搬に使つ小乗船を立網漁に使用

し・釣漁もなく・漁業も百姓達の農間稼であると記した﹁差出帳﹂の記述ももっともな}﹂とであった︒もっ♪﹂も︑第

五節で述べる様に・延享三年﹁久料村︑足保村・﹂虚には﹁此段両村共二漁網船七籟つ\︑其外小也網︑取網所

持仕候・右仕英修覆共浄元︑網子同用二出金いたし候﹂と煮網船を一組つつ所持していたと記されている︒

ところで︑享保一五年と宝暦一二年の御分一取立帳の水揚高を安政六年の﹁鰹浜丸帳﹂の水揚高(販売μ咀)と比べる

と先に述べた様に安政元年の水揚高(販売頃)は享保一五年の水揚高(販売鼠)の約一倍であった︒

ところが販売額で比べると享保五年の販売額一.責四︑べ文の約六五倍︑八〇.頁四六六文であ.た︒二茜五

本の水揚高(販売量のあった宝暦=一年の販売額.三貫八三三文に比べても約一四倍である︒占子保五年︑宝蟹︑一

年との価額で比べた場合の︑あまりにも大きな開きは何を意味するのであろう︒

販売量は享保五年の場合は二倍︑宝暦一.犀の場合丁五倍であり︑販売量の差によるものでないワしと岐口.つま

でもない・となるとそれは鰹本の落札価額の差によるものであると考えざるを得ない︒事実︑鰹本の価額墜榛

五年が六・八文・宝暦一.死が九・四文であ.たのに対し︑安政六年の価格墜本.二支であ.た︒

(7)

127豆 州 西 浦組 久料 村 の漁 業 生 産

安政六年は先にも述べた様に豊漁であり︑にもかかわらず︑鰹本が二二文と販窒の少ない享保五年・宝暦﹁.奮りも︑ヨ.倍︑三蒋と高い}﹂とは宝暦から安政の間に鰹の相場を押し上げる・鰹需要の増大・市場條件の変化があった〒﹂とを示している︒それがどのあたりにあったのかは今後に残された課題である・次に表‑から鰹の市場

條件が発展したと思われる安政六年の鰹の販売状況を見ることにしよう︒

安政六年の販︑冗量︑額が最も多いのは久料村の属する庸の村々で︑その販売額桀体の亡二%・二九八璽四三文である.次いで藩の村々で全体の.︑八・︑兎︑二.天貫四9︑文の畢買い取っている・西浦と藩を合せ

ると全体の六五.︑.萢なる.次いで販売額の多いのは一六ニハ%に当る三.二軍三五二文の販売があった沼津売

りであった︒最も少ないのが内浦で全体の.︑・四%︑天貰九九〇文であった︒江︑戸の商人売は七三貫八五〇文で・総販売額の九..写あ.た︒▼﹂のよ・つに︑量的に見ると販売の中心は庸と静浦が巾心で・次いで沼津町に天・六%の販売果あった▼しとが借される︒江︑戸売は九・・磨︑痢に満套いが・鰹の販売は・先にも述べた様に入札の触を出し︑集.た買手に対し入札によ.て販売するものであり︑江.戸商人が鰹の買付に内浦・西浦・藩の漁

業を目当てに買付けに来ている▼﹂とを示す肇として注目される.明らかに︑この地域の攣が沼津を忠とした地域市場を越えて江戸市場の療に組み込まれていることを物語っている.それでは・ここ醤手として現れた人々は

表‑か︑りどの様な性格を持った買手として考え得るのであろうか︒次にこの点を検討することにしよう・表2は鰹の購入︑つまり落札者の規模と農分布を見たものである︒まず落札︑購入の規模を見ると表‑にも明らかな様に久料村の彦助︑儀右禽の禾か・り久料村の治兵衛の一.一.ε杢治兵衛の場合は天本の小売があるから・購入

..四)

すでに指摘しておいた様に︑背七日の預り魚Lとあるのは︑分の場合は示売覚Lと盟され・更に﹁卜二

(8)

商 経 論 叢 第28巻 第1号 128

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霧 鰍

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表2安 政6年 鰹 売上高 別人数

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12

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1人 糊 体)[6

史 料 二 表1に 同 じ

日網揚﹂には﹁弐本手間引当村与兵衛﹂と立

網漁の手間として渡したことを示す例が四例ほど

記されている︒﹁預り魚﹂︑および﹁小売覚﹂の鰹の

買手は表1に明らかなように全て当村︑つまり久

料村の百姓であった︒この﹁小売覚﹂の最高は久

料の源右衛門のこ五本であった︒表2では.一五本

以下を小売分と考え三〇本から七六本︑一〇〇本

以下を小規模の商人売とし︑一〇〇本以上を大規

模な商人売とした︒この区分けによって販売規模

を見ると︑人数では小売が全体の六六.七%の三

四人で最も多く︑次いで小規模の商人売が二七.

四%︑一四入で大規模な商人売は五.九%︑わず

かに三人に過ぎない︒これを売上高で見ると三.一

九四本の総売上高に対し︑小売は一一%︑三六.一

本︑小規模の商人売は︑一五・八%︑八五〇本︑人

規模の商人売は.一〇八二本で︑実に総売上高の六

三.二%に当る︒つまり売上高は人数とは逆に

なっている︒

(9)

亜州断浦組久料村の漁業生産 129

δ○本以上の売上のある三人の・つち︑天は久料村の治兵衛と平右衛門︑天は静浦多比村の与七である・このうち︑久料村の治兵衛は三二七本と磐多く買人れ︑次いで多比村の与七が七五五本と多い・久料村の治兵衛は慶応

三年﹁漁方修覆除金諸濃﹂には尺両一秀.茱︑銭三〇文村商人治兵衛仕切歪かしと成Lとの記載があり・治

兵衛が商訟あ.た▼︑とがわかる.安政六年の﹁禦貢割付帳﹂によると︑この年の治兵衛の篶は九斗二升四A・であ.た︒前稿で述べた様に︑久料村の百姓持高は最高看六升五合︑最低七斗二升一合で・宕以上はわずか二人・ほとんどの百姓壇.同は︑八︑九斗に平均化していた︒また多比村の与七は魚の加工業を明治以隆手広く続けている加工業者である︒おそ・りく久料村落兵衛も︑この村で最も大き魚の加工をおこなつ加工業者であろう・この地方

の魚加工はAコ日でも全国有数の干物の加工地であるが︑この当時は鰹節の生産もおこなっていたと思われる・漁村では加工業者も五+集屋あるいは五+集商人と言われ︑九+九里の地曵網地帯では網附商人・附属商人などとも呼ばれた︒し奈.て表‑で﹁隣村商人﹂罵込商人中Lと記される商人のなかにも加工業者が居たと思われる・次に表2よ

り︑売上高が三〇本から七六本の小規模の買入商人と︑二五本以下の小売について見ることにしよう︒

まず久料村について見ると︑久料村の場A篇は先の二人を除いた全てが.五査下の小売である・更に久料村が属する西浦の諸村には三〇査上の取引はなく︑全てが小売であった︒これに対し︑三〇本から七六本を取り引きする商

いは︑沼津町と静浦の諸村に集中し︑沼津町の場合は茂左衛門が.蚕買っているだけで他は七六本七名・五〇本二

名とな.ている︒静浦の場合も三〇本〜五〇本が四人と二五本以下の小売よりも多い・静浦の場合δ本以下はなく・小売の売上げ合計は四八本であった︒

Ψしのよ.つに見てくると︑久料村の立網漁による鰹の販売は久料村の治兵衛︑平右衛門︑多比村の与七をはじめとする静浦の五卜集商人と沼津の商人への販売が中心で︑其他は久料及び西浦諸村への小売であったといえよう︒

(10)

表‑表2で見る限り・静浦の多比︑日野︑馬込︑攣浜︑内浦の三津に五秦屋︑五藁商人が多い様に見える.

多比は現在でも魚の型業者が多いと︑﹂・われ︑馬込は茜人中Lとあり︑また内浦の三津村には前掲拙稿で分析した

ように沼津町と共にt肥の魚が販売されていた︒

ところで表‑を分析する過程で気になるのは鰹の商品形態である︒例えば鰹の小売の場A口︑数本を買.た場A口は生

魚として食べる藷に買ったと思われるが5本︑︑6本と買入れた場A口には島である}しとを考えると︑どの様に

型して保存したかが問題になる︒個人の家で鰹節に聖す登﹂とは考え・りれない︒となると︑塩づけか︑;ぼ切りL

である・伊豆の鰻即生産の中心地︑畢では鰹節製造業者が鰹を塩づけにし︑干し﹁つぼ切り﹂にして保存し︑正月

の讐に使用する轟慣があるが︑この地域でもそうし養習慣があるのかも知れない︒}しの占だついては調査をす

る必要があろう・塩づけについては鰹について調査したことはないが︑鮪の場A口は輪切りにし︑塩づけにして桶につ

め江戸に運んでいた・それを﹁すき身﹂‑﹁通身﹂と︑二・ったという︒したがって︑鰹の場A口も当然︑そ.つし茄工が

なされていたと思われる・季で見ると江戸商人中に三五〇本の鰹が売・りれているが︑おそりく塩づけされ︑﹁すき

身﹂にして・桶につめ・江戸に送られたのであろう.土肥の場合は篠で明らかにした様に︑小揚船で沼津︑三津に

運ばれ・沼津⁝潔から江・戸に廻船で運ばれていたことが確認されている︒西浦の諸村の場A口は廻船がなく︑薪.眞

木にしても戸田・沼津の廻船を籍して運んでいたので鑓︑買付けた江戸商人が沼津︑一︑潭か.b廻船を利用して運

んだのであろう︒

右の諸点はこの地域の漁業史料と対話している過程で気になる点を交えて推測したものに過ぎない︒しかし︑その

ことは漁業史を学ぶ場合・轡バ・漁法は勿論のこと︑漁期や加工方法︑食習慣や流通︑市場の條件を視野に入れなが

ら検討することが必要であることを物語っている︒

(11)

X31 豆州西浦組久料村の漁業生産

さて︑久料村の漁業を問題とする;の目的は︑すでに瀧において・また本稿一節で需したように・この村の

漁業が厳しい︑口然條件と︑戸数もわずか西戸であるなかで︑津元五郎右衛門が網船を持ち漁具を所有することによって︑攣を従属せしめ︑いわゆる網兀讐をおこなうのではなく︑漁具も村有であり・その意味では津元五郎右禽

を中︑心とした繍の仕へ同経営の内容と性格を持つこの村の漁業のあり様を明らかにするところにあった・それは多少

の違いはあるとはいえ︑西浦諸村の立網漁に共通する漁業の性格を明らかにすることでもあった・この点に関連した

興味ある事実を表1は語っている︒

それは表1を見ると五郎右衛門が七月七日には﹁預り魚﹂として︑一〇本︑八月の﹁小売覚﹂では六本・つまり・﹁預り魚﹂は小売りと判断し得るからこの年には合計↓六本の鰹を買っていたことになる︒

五郎右衛門は▼︑の睡浜丸帳Lの記帳者であり︑久料村の津元で︑名主でもある︒いわゆる網元経営の場合・例えば九レ九胆の地曵網経営の双魚帳L︑﹁浜丸帳﹂を見ても︑網元が水魚の買手として出てくることは全くなく・畠の魚は分房議となる魚獲物か・り除いていたからである︒九f九里の鰯地曵網漁の場合・鰯以外の籍悌と呼ばれる

高級魚は水揚の際に役人の目を盗んで網︑兀やtだ.た賄︑船頭・沖合などによって暗売りされたと・昌︒われてい(梨しかるに︑久料村の詣漁の場合は津.兀である五郎右衛門や︑最も合の買手である村の治兵禦自用の鰹を浜で

買.ている事実は楚物は勿論の▽︑と姦経営そのものが津︑兀個人には帰属していない・村共同体に属する共同響

であることを物語っている︒津元は共同経営の管理者であり︑津元名主と言うにふさわしい存在であったと言えよう︒以上︑﹁鰹浜丸覚帳﹂によ.て︑久料村の鰹の販売状況を検討してきた︒その輩︑久料村の鰹の販売は地元久料村

の治兵衛︑平右禽への販売を除くと西浦諸村(A凸久料村)への販売は小売が4‑心で︑商人への販売は静浦・沼津・ついで江戸への販売が中心であった︒こうした傾向は文久元年六月の﹁めじか浜丸覚帳﹂でも確認できる︒

(12)

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史 料=文 久 元 年 「め じか 浜 丸 帳1

表3文

一「 廠 縣 到 駆

久元年6月 め じか販 売 明細

文)「一/

表3は文久元年のあじか販売の状況を示したもので

ある︒めじかは鮪の小さいもので︑この地域の立網漁

の主要な魚種であった︒

表3からめじかの販売は所在不明の商人仲間売を除

くと沼津が最も多く︑全体の二五・四二%︑四七貫一

〇〇文︑次いで静浦多比村の与七︑治助に七五本︑三

五畏三二五文のあじかが販売されている︒馬込村の源

四郎への五五本︑二五貫九〇五文を加えると︑静浦へ

の販売は六一貫︑一三〇文︑全体の三三.〇四%にな

る︒これは商人仲間への販売と同額であり︑沼津問犀

売より一四貫一三〇文多い︒多比の与七への販売高は

安政六年の鰹の販売でも︑他村売の中で最も多かっ

た・ともあれ・ここでも静浦・沼津の商人鳶冗が販売の忠であ.たことが確認される︒久料村及び西浦諸村への販売

は足保の吉左衛門清吉への五本の販売を含あて三丁五本︑西貫八三六文であ.た︒そのほとんどが︑預り魯

つまり小売であった・当然のことなが・り小売の忠は久料村で販売総数(預り色{)は二四本︑小売全体の七六%︑天

平均二本であった・小売の合計総販士冗額の八%︑一割に満たない︒総売上の九割が商人売であ.た︒なお︑姦六

年鰹の相場は一本三支であったが︑文久元年六月のめじかの相場は約四六九文であ.た︒魚の相場は年により︑

日によって変動が大きいが︑それでも鰹よりめじかの方が高いことだけは附言しておきたい︒

(13)

豆州西浦組久料村の漁業生産 133

二 久 料 村 の 漁 方 勘 定

久料村には津元五郎右衛門が記帳した︑数点の勘定帳が残されている︒

猟諸勘定日記﹂である︒まず︑同日記を検討することにしよう︒

諸勘定覚

一金壱両庄兵衛方6取ル

此己け

三 分 四 百 文

二 百 文

三 拾 文

三 拾 六 文

御役人へ遣

重須酒て割合

甚兵衛二遣シ

ゑんま弐枚

酒て割出ス

〆 三 分 六 百 六 拾 六 文 i 弓 残 テ おハ 百 三 拾 文

八 月 廿 九 日 ゑ な し 一 三 束 分 清 次 郎 分

代 弐 両 鍵 壱 貫 百 五 十 弐 文

そのうち最も古いものは享保一四年の﹁立

(14)

沼 津 壱 束 分 次 郎 左 衛 門 分

代 弐 分 壱 貫 弐 百 四 f 九 文

. 一 口 〆 弐 両 弐 分 弐 貰 四 百 五 文

此 内

壱 分 勘 兵 衛 渡 ス

百 文 半 左 衛 門 五 郎 左 衛 門 両 人

沼 津 二 泊 リ 入 用

〆 壱 分 百 文 引

残 テ 弐 両 壱 分 弐 貫 三 百 五 文

金.両庄兵衛方6取ル

〆 四 両 壱 分 弐 畏 九 百 三 卜 五 文

弐 両 壱 分 壱 貫 三 百 文

御 三 分 一 之 分

鎌 七 百 文 薪 分 一

〆 弐 両 壱 分 弐 貫 弐 百 四 拾 八 文 彿

残 テ 弐 両 六 百 八 拾 四 文

(15)

一 弐 分 鎌 八 百 六 拾 四 文 木 負 村 勘 左 衛 門 分 取 ル

百 〆 弐 両 弐 分 責 五 百 姻 妖 翅

壱 分 九 月 四 日 太 郎 右 衛 門 渡

135α 州 西浦 組 久料 村 の漁 業 生 産

右の史料は享保一四年の勘定日記の始めの部分である︒この記載例から明らかなように︑この日記は入金があると︑

一筆ごとにその支払の内分け︑その差引を計算し︑次の入金額と合せた有金の支出内訳を順次計算し︑記帳していっ

たものである︒ただ最初の﹁残テ六百三拾文﹂は八月廿九日の鰹の販売代金に加算されていない︒八月二九日以降は

全て残高が繰越されている︒最初の﹁六百三拾両﹂がなぜ操越されていないのかは不明である︒

ところで︑八月廿九日の場合はゑなし一三束分清次郎分沼津一壱束分次郎左衛門分

とあり︑江梨の清次郎と沼津の次郎左衛門に売った魚の代金であった︒この魚が鰹であるかめじかであるか︑あるい

は鮪であるかは明らかではないが︑この史料が﹁立猟諸勘定日記﹂であるから︑立網漁の漁獲物であることは間違い

ない︒他の﹁誰々ヨリ取﹂との記載も魚を買取った者であったと考えられる︒

表4は享保一四年の勘定目記を入金︑出金に分け︑その内訳を分類集計したものである︒

まず入金を見ると︑魚の買取人は当村久料村の︑一人︑と江梨︑木負︑沼津の各一人︑合計κ人︑その購入件数は八

(16)

表4享 保14年 立漁諸勘 定 明細 ()は%

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入 金

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牛数 金 銭 銭 二 直 シ

羅姦 丁

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ゑ ん ま2枚 沼 津 へ泊 入用 庄 兵 衛 へ渡 勘 兵 衛 へ 渡 1太 郎 右 衛 門 へ渡

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史 料:享 保14年 「立 猟 諸 勘 定 日記 」 備 考:銭 相 場 は 金1両 一5,120文

(但 し:史 料 中 の9月ll日 相 場)

件であった︒最も購入額の多いのは久料村の

甚兵衛と沼津の次郎右衛門で︑その購入額は

六両︑銭に直すと三〇貫七二〇文で︑この年

の総売上高九七貫九一七文の三一・八%に当

る︒したがって︑この二名で六三・六%を購

入したことになる︒地域で見ると︑この甚兵

衛と次に多い庄兵衛が共に久料村の者であ

り︑この.一名の合計は五三・一%︑ほぼ売上

の半分が久料村で販売されたことになる︒に

もかかわらず︑売上高の三一%が沼津売であ

ることは前節で見た様に︑この地域の立網漁

が沼津を中心とした市場を前提におこなわれ

ていたことを物語っている︒なお魚を購入し

た件数は八件であったが︑立網を入れたのは

五日であった︒ここでも︑前節で明らかにし

た︑立網漁がおこなわれるのは年に数日で

あったとの結論を確認することができる︒次

に出金について見ることにしよう︒

(17)

豆州西浦組久料村の漁業能産 137

出金の合計は銭に直してこ九貫九四六文である︒それはこの年の収入九七貫九一七文の三〇・六%に当る︒その差

引残六九.四%に当る六七貫九七一文が代掴当りとして津元及び網子に分配されたものと思われる︒事実︑次に検討

する天保七年の﹁漁方勘定帳﹂では差引残高が代割りされている︒おそらく︑この年も︑﹁漁方勘定帳﹂で代割計算が

なされたのであろう︒

さて︑出金の内訳を見ると︑御役人へ遣した三分と四〇〇文を含めた分一金が銭に直して一七貫七六〇文と支出全

体の五九.三%を占め︑次いで庄兵衛以下八名に対する渡金が︑総支出の三九・三%を占めている︒酒手其他の支出

は四一六文︑ ・四%に過ぎない︒

庄兵衛以下の渡金の内容は不明であるが︑五左衛門と重須村の久兵衛を除いた六名のうちに庄兵衛を除いた五名に

は一件一分(一貫二八〇文)つつの均等の支払がなされている︒そこに何らかの意味が隠されていると思うが明らかで

はない︒庄兵衛は収入の項に明らかなように魚の購入件数が最も多く︑また二件︑二分の支出がなされた五郎右衛門

は︑この日記の記帳者で︑久料村の津元である︒この点と何らかの関連があるのかも知れない︒ともあれ︑総収入の

三〇%に当る支出の内容は以上の通りであった︒次に天保七年の﹁漁方勘定帳﹂を検討して見ることにしよう︒

表5は同史料を整理したものである︒天保七年﹁漁方勘定帳﹂は最初に

一金五両二分江なし与右衛門分

四拾〆六百七文

一金壱分小売分

四〆八拾八文

(18)

と入金分・つまり魚の販売高と買取入が記され︑最後に総売上高が記され︑﹁此永三拾四貫九百四拾五文丸高﹂と永

換算されている︒丸高とは浜丸高の意味であり︑この入金が立網漁の漁獲物の販売高であることを示している︒この

永ご一拾四貫九百四拾五文から

永 六 〆 九 百 八 拾 九 文 か け 弐 割

拾 四 二 割 壱 軒 二 付

壱 人 前 弐 分

永 四 百 九 拾 九 文 弐 分

永 四 貫 五 百 九 拾 弐 文 レ 九 人 若 衆 か け

差引残

永弐拾弐貫八百六拾四文

とまず︑永六貫九八九文の﹁かけ弐割﹂を引き︑それを一四に割った壱軒二付永四九九文.︑分と永四貫五九.一文の一

九人分の﹁若衆かけ﹂を引く︒﹁壱人前弐分永四百九拾九文弐分﹂は永六貫九八九文を一四で割った数と一致する︒一

四という数は︑この村の寺を除いた家数である︒﹁かけ二割﹂とは何を意味しているのかは明らかでないが一かけ.一割﹂

の﹁永六貫九百八拾九文﹂は丸高﹁永三四貫九百四拾五文﹂の二割に相当する︒したがって︑﹁永四百九拾九文.一分﹂

は丸高の二割を一四軒の軒割によって久料村の百姓に配分されたものである︒しかし︑この一人前の永を﹁かけ︑一割﹂

に加え︑差引く計算の意味は理解出来ない︒﹁かけ二割﹂とコ九人若衆かけ﹂を差引くと差引残は永︑一三貰三六三二

文となり︑﹁永四百九拾九文二分﹂︑つまり﹁拾四二割壱軒二付永四百九拾九文.一分﹂と一致する︒

(19)

亘州西浦組久料村の漁業牛産 139

衷5天 保7年 漁 方勘定 明細

出 金

き{ノ}(14〆761史

牲割2蘇鷹ll妾

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,ftき十f/klメ337文5分 二f℃ノ}(1メ230文 '壱f℃'rア}く920文5分 永 に 面 し

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̲一 聖 …塑4r三̲些 ・凱 一ユ 史料=天 保7年 「漁 方勘 定 帳 」 久 料 村 津 元 ∫f郎右衛 門

け}一 『}}… 〜 一 … 十

﹁かけ﹂の意味は不明であるが久料村の総家

数一四軒で割った﹁かけ﹂と十九人の若衆に配

分した﹁かけ﹂がまず差引かれ︑次いでその

差引残﹁永弐拾弐貫八百六拾四文﹂から︑その

一割が﹁永弐尉弐百八拾六文四分壱割修覆

引﹂として差引かれている︒﹁壱割修覆引}とは

後述するように漁目パ其他の修覆費である︒更

に︑若衆卜六人︑年寄六人︑下男共子共︑寺︑延

寿院︑満念寺の項目で合計︑金︑一分三朱と︑一九

貫八六八文︑永に直して五貫七九文四分が差引

かれる︒

その結果残った差引残﹁永拾五貫四百九拾四

文弐分﹂から﹁金三分﹂と﹁永廿四文七分﹂が

﹁御分⁝﹂として差引かれ︑更に﹁ゑびす﹂を差

引いた﹁永拾四貫七︑肖六拾壱文﹂を﹁此割べ拾

四代﹂と.論四で割り﹁壱代二付永六.百拾五文﹂

と代月当りが計算されている︒

このように見てくると﹁漁方勘定帳﹂は浜丸

(20)

表6天 保7年 浜方諸払 明細

総支払額 文

2,400 x,400 2,400 goo

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(両 、 分 、 朱 文) 手 間 の 覚

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酒 ・酢 代 盆 前 酒 代 盆 後 酒 代 肴 代

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7.53$

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凝 鷲1400300

喜 八1200

150

17人(85)

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銭 二直 シ小計

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(78.95)

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史 料:天 保7年 「浜 方 諸 払 帳 」 備 考 二 銭 相 場 は金1両....1文

(但 シ、 同 年 「漁 方 勘 定 帳 」 の 相 場)

高から︑引分と分一金を差引き︑津元や網子に対する配分基準額︑つま

り代11当りを計算する帳簿であった︒その意味では﹁漁方勘定帳﹂が立

網漁経営における基本帳簿であると言えよう︒

表5は右の天保七年﹁漁方勘定帳﹂を入金丸 ロ同と出金諸引とに分けて

集計したものである︒この年の丸高つまり魚の販売高は永三四貫九四五

文︑そのうち村︑つまり久料村の平右衛門がほぼ半分を買付け︑残りの

半分を江梨︑三津︑古宇︑馬込の商人が買っていた︒村の平右衛門は安

政六年の﹁鰹浜丸覚帳﹂でも治兵衛とともに一〇〇本の鰹を買付けてお

り︑治兵衛の場合は商人であることが他の史料で確認されているが︑平

右衛門も︑この天保七年を見ると商人であったと見ることが出来る︒

永三四貫九四五文の入金(販売高)に対し︑支出の合計は永二〇貫一八

四文︑総販売高の五七・七五%であった︒そのうち御分一とゑびすを引

いた一九貫四四六文一分が前節で明らかにした﹁諸色引﹂と﹁十五引﹂

の分で︑それは総販売高︑つまり丸高の五五・六四%に当る︒また︑代

計算の基礎となる﹁差引残﹂は永一四貫七六一文で︑それは丸高の四

二・七四%であった︒

ところで︑﹁漁方勘定帳﹂の御分一を差引いた部分が諸色引と十五引で

ある︒その内容は表5の様にコ四軒によって軒割された﹁かけ二割﹂

(21)

百州西浦組久料村の漁業生産 141

と﹁卜九人若衆かけ﹂とコ割修覆金﹂︑更に若衆︑年寄︑下男に対する払金︑御神祭︑諸寺への払金であった︒若衆

↓六人︑年寄六人︑下男共への払は天保七年﹁浜方諸払帳﹂では表6の如く︑﹁手間の覚﹂として出て来る︒表5と表

6を比較して見ると若衆一六人への払は表5ではヒニ○○文︑表6では二四〇〇文となっているが表5の年寄以下六

人の二四〇〇文は表6では甚兵衛以下六人として一人前四〇〇文合計二四〇〇文となっている︒また︑表5の下男共

に対する払三三五〇文は表6の権ヒ以ド八人︑喜八︑常占︑万蔵以ド七人への支払合計と一致する︒このことから判

断すると︑表5の若者︑年寄︑下男共に対する払は立網漁に参加した︑この者達への手間賃であったと見ることがで

きる︒つまり︑代割される配分金とは別に︑立網漁に働いた者に対する労賃が支払れていたことになる︒

この事実は立網漁の漁業組織詩津兀組織が津元と代水主と若者︑年寄︑下男︑子供等の手間取りによって編成され

ていたことを物語っている︒この地域で網子と言う場合︑代水主のみを意味するのか︑手間取りも含む表現なのか︑

これまでの研究では明らかになっていない︒今後に残された課題である︒

三 史 料 に 現 れ た 立 網 漁 の 諸 経 費

この地域の立網漁は伊豆七島に沿って北上し︑駿河湾に入りこの地域の海岸に接して回遊してきた魚を山嶺にある

魚見人の合図によって︑大手網をもって血切り︑諸種の附属網をもって岸辺に曵寄せ︑取り網をもって捕獲する漁法

である︒その網をあらかじめ仕掛ける漁場を網戸︑網戸場︑網渡場と書った︒第五区西浦地区の場合は六区の内浦諸

村の様に袋状の入江はなく︑張置網と呼ぶ︑藁製の網を掛けて置き海岸線と海岸線にやや平行に張った張置網の口を

魚が入ると立切網により塞ぎ︑附属のすくい網を使って︑とりあげるという漁法であった︒﹃静岡県水産誌﹄巻四によ

ると︑﹁久料.足保小区の漁具﹂には﹁立切網二使用スル網具ハ張置網(長凡四百五十尋)二張︑大手網(長五百尋浮丈三

(22)

十尋)一.張︑す網(長四ド日尋浮丈‑.十尋)四張︑中す網(長百:十尋浮丈..十尋)二張︑浮網(長一.一百尋浮丈十.一尋)二張︑大

麻網(長,百尋浮丈.‑.レ尋)二張︑中麻網(長百..十尋)︑まき網(長百尋浮丈十尋)︑大小丈網(長八十尋浮丈六尋)︑中小丈

網へ長八卜尋浮丈四尋)..張︑取網(長..間半巾︑一︑間).一張等ニシテ﹂と記されている︒

この様に︑甑網漁には人小様々な網が必要であり︑とくに張置網は藁製で漁期中は張置くもので︑毎年取り替える

必要があった︒こうした漁網の外に︑この網を仕掛け︑魚を曵寄せ︑すくいあげるためには漁船も必要であった︒こ

うした漁船や漁具の製作︑修覆にはかなりの経費が必要であったと思われる︒前節で見た漁方勘定帳類の支出︑諸色

引分にはこれらの経費は出てこなかった︒これらの費用は一体どの位のものであったのであろうか︒残されている若

﹁の史料から見ることにしよう︒

久料村には慶応三年の﹁漁方修覆除金諸彿帳﹂と題する融冊の帳簿が残されている︒この史料は

慶応一.夘年

一金百壱両三歩夘年除金

一同︑二拾八両弐朱同修覆金

一同五両三歩ト同網半代

九百一二拾⊥ハ文

︑二口

〆金百四拾五両弐分弐朱ト

九百三卜六文

と夘年除金︑修覆金︑網半代計三口の入金が記され︑﹁此彿方﹂として︑その支出を記帳したものである︒

(23)

鼎圃剛観騨書耕諦嵜繭瀾郵帥蹴洪温諾 豆州 西 浦 組 久 料 村 の 漁 業 生産

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143

(24)

表7は・その内容を費目別に分類集計したものである︒入金合計は金に直し一四五両三分であり︑そのうち約七〇

%の一〇一両三分がこの年の除金︑二六%の三八両二朱が修覆金︑残りが網船半代であった︒それぞれの費目の意味

内容ははっきりしないが︑この史料が﹁夘年漁方修覆除金諸彿帳﹂であるから︑この三口はこの年の﹁浜丸﹂(水揚高)

から船及び漁具類の修覆引当て金として除かれた金であることは間違いない︒

次節で検討する﹁立漁浦法井徳用割合仕形書上帳﹂に

残五拾五本

八本弐分h厘拾.五引

是ハ網船︑網︑碇︑修覆入用二退置申候

とあり﹁十五引﹂として網船︑網︑碇の修覆入用が除かれている︒この史料はめじか百本の水揚があったと仮定して︑

その配分︑分一の計算の方法と比率を定めたものである︒したがって︑この計算方法によって﹁浜丸﹂つまり︑水揚

高から除かれた修覆引当分が︑﹁除金﹂の意味であると考えるのが妥当な解釈であろう︒勿論︑この三口のうち︑﹁同

修覆金﹂とある三八両二朱については右の解釈で説明がつくが﹁夘年除金﹂︑﹁同網船半代﹂については﹁十五引﹂に

含まれているのか︑別途に用意されたものなのか︑﹁網船半代﹂とある半代とはどの様な意味なのかははっきりしな

い︒ただこの史料の表題から考え︑漁方修覆の引当金であることは間違いないと言えよう︒

入金をこの様に考え得るとすると︑漁方の修覆引当金を支出した内訳を示したのが︑この諸彿帳であり︑表7はそ

の明細を支出費目別に集計したことになる︒

表 7 は ・ そ の 内 容 を 費 目 別 に 分 類 集 計 し た も の で あ る ︒ 入 金 合 計 は 金 に 直 し 一 四 五 両 三 分 で あ り ︑ そ の う ち 約 七 〇%の一〇一両三分がこの年の除金︑二六%の三八両二朱が修覆金︑残りが網船半代であった︒それぞれの費目の意味内容ははっきりしないが︑この史料が﹁夘年漁方修覆除金諸彿帳﹂であるから︑この三口はこの年の﹁浜丸﹂(水揚高 )から船及び漁具類の修覆引当て金として除かれた金であることは間違いない︒次節で検討する﹁立漁浦法井

参照