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ソシュールは,ヘーゲルを読んだマルクスを読んだ! : 「論理的構文論」の立場から

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学講義』――以下 CLG と略――の叙述で挙げておこう。

<引用 A > これ[独語で gast の複数が gasti!gesti→geste(Gäste)と変遷し たこと]とほぼ似た事実が,アングロサクソン語でも生じた:最初は fo¯t 「足」,複数 *fo¯ti;to¯ -p「歯」,複数 *to¯ -pi;go¯s「ガチョウ」,複数 *go¯si,

etc.といった;ついで第一次の音韻変化,すなわちウムラウトのそれ

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であり,また逆に動因を揚棄する運動は外面態を定立する運動なのである。 Das Setzen des Anstoßes oder Äußerlichen ist selbst das Aufheben dessel-ben, und umgekehrt ist das Aufheben des Anstoßes das Setzen der Äußer-lichkeit.

<資> 第2節流通手段 c 鋳貨。価値章標 7パラグラフ

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changement sur chaque point se fera:10)Par innovations successives,

précises, constituant autant de détails, qu’on peut définir.

まず関連する CLG の叙述を引く。 <CLG> 進化は継起的で明確な改新の形式をとり,それだけの部分 的事実(音韻論的,語彙論的,形態論的,統辞論的事実,等)をなす, これらはその性質に応じて,列挙し,記述し,分類することができよう。 (p.281) 「その性質に応じて,列挙し,記述し,分類する」こは「定義する」こ とであるから(4),二つのテキスト・「講義」と CLG の間に齟齬はない。

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dé-tails」とは,「これらを人が定義することができる」,その限りでの「これ ら」(細部・部分的諸事実)であり,つまりは定義されうる「音韻論的事実」 と「形態論的事実」である。前者「音韻論的事実」はいま「*fo¯ti が *fe¯ti となり,*fe¯ti が fe¯t となった」(引用 B )ことである。これはよかろう。そ してその結果たる「偶性的状態 fo¯t:fe¯t」(同)は――*fe¯ti に関しては省略―― 「形態論的事実」である。それは「交替 alternance」すなわち「二連の共 存的形態間で規則的に転換する・一定の二個の音または音群のあいだの対 応」(CLG p.221)だからである――ゆえにそれはゲシュタルト構造をなす――。fo¯t: fe¯t は,なるほど「それが新たに取り込んだ意義をしるすべく運命づけら れたものではない」(引用 B )が,しかし「人はこれを,単数・複数の別を 立てるために流 ! 用 ! す ! る !

s’empare」(同)。‘s’empare’は‘prendre violemment ou indûment possession’だから「力」であり,この「(流用する)力」が 「(そのとき以後)fo¯t の複数は fe¯t である」(同)と「定義する」(定立する)の である。そこで『資本論』第1文に準えて次が言える:「[他の音韻からなる 標章としての]fe¯t が[定義されて]fo¯t の複数[言語章標 sprachliches Zeicen]で ある」――‘sprachliches Zeicen’は独語訳 CLG で‘signe’(言語記号)の訳語とし

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は *fe¯ti である]が定義[fo¯t の複数は fe¯t である]によって否定されるのだから である。 さて CLG の次の叙述は『資本論』との関連において注目されるところ である。 <CLG> 総じて制約的価値というものは,それの支えとなる可感的 要素 l’élément tangible と混同することがないという特質を示す。かく して貨幣の価値を定めるものは金属ではない;名目上5フランにあたる 1エキューも,銀の価としてはその半値でしかない;それは打出し像の いかんにより,政治的境界のかなたこなたにより,値が上下する。この ことは言語能記にかんしてはいっそう真である;それは本質において毫 も音的なものではない;それは無体であり,資料的実体によらず,もっ ぱらその聴覚映像を他のすべてのそれから分かつ差異によって成立する ものである。(p.166)

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する」(fe¯t は言語記号である)のだから,「動因を揚棄する運動は外面態[言 語章標(言語記号)]を定立する運動である」――なお「約定的価値」が fo¯t:fe¯t の ように「人間にとって物と物との関係という幻影的形態をとる」(『資本論』p.124)の は,「約定」が「人間そのものの一定の社会的関係にほかならない」(同)からである――。 (1) (1)−i <大> c 力の無限性 1パラグラフ 第1文 力は,それの諸契機がまだ直接態という形式をもっている限り,有!限!で! ある Die Kraft ist endlich, insofern ihre Momente noch die Form der Un-mittelbarkeit haben;

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ということだけでなく,またそれらはたんに限界づけられているという だけではなくて――もしそうであればそれらはまだその限界の外に定在 をもっていることになる――,むしろ非存在がそれらの物の本性・その 存在をなしているということである。(WdL I S.139) 『資本論』である。「金はそれ自身の単なる無価値な章標によって置き換 えられうる」,しかし「金」は無価値でないのだから,「なぜ[強制通用力は] 置き換えうるのか?」 そしてこれは「力が有限である」ことについての 問いである。 次のことがすでに説かれていた,「貨幣通流(6)そのものが,鋳貨の実質 純分を名目純分から分離し,その金属定在をその機能的定在から分離する」 (p.212),したがってそれぞれの定在は「直接態という形式をもっている」。 そこで次が言える:「無価値な章標は,それが新たに取り込んだ機能をし るすべく限界づけられている[定められている]begrenzt というだけではな くて――もしそうであればそれらはまだその機能の外に定在をもっている ことになる[が,ここでは金属定在は名 ! 目 ! にすぎないのだから]――むしろ非存在 がその[強制通用力の]本性・その存在をなしている」。かくして「[われわ れは強制通用]力[についてそれ]は有!限!で!あ!る![と語る]」。 (1)−ii <第3回講義> 1910年11月18日 第27文 人は軽いあるいは重い諸要素・きわめて多様でありうる諸要素を区別す ることができる。On peut distinguer les éléments petits ou grands, élé-ments qui peuvent être très divers.

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出)のだからである――かくして「[非存在たる]力の自己[の存在]へと関係する 反省」である――。そして『資本論』は「金がこのように置き換えられうる のは,金が鋳貨または流通手段としてのその機能において孤立化または自 立化される限りでのことにすぎない」と説き――「 A の限り B 」であることは 必ずしも「 A ならば B 」でないから――,ここでも「力の前提する反省と力の 自己へと関係する反省とはこの[直接態という]規定においては区別されて いる」。 (2)−ii <第3回講義> 1910年11月18日 第28文 形態論的秩序においては:gëbames,gebamês[ママ],あるいはまた音 韻 論 的 秩 序 に お い て は s→z。Dans l’ordre morphologique:gëbames,

ge-bamês[sic]ou bien dans l’ordre phonétique s→z.

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反省」は「音韻論的秩序」である,なぜなら「音韻論的事実」(音韻は s で あるか z であるか)の度外視[非存在]こそが「[力の]本性・存在をなしてい る」のだからである――「音韻変化がおそうのは語でなく,たんに音である」ゆえ ん――。これを gëbames に即して言えば, <CLG> あらゆる改新の歴史はつねに二つの分明な distinct 瞬間が 見出される:1.それが個人において発生した瞬間[ウムラウト];2. それが,外見上はおなじでも,集団によって採用されて言語事実[gibu: gëbames の「交替」・すなわち後者の「その機能[複数1格の意義]における孤立化 または自立化」]となった瞬間。(P.137) ということであるから,ここでも「区別 Unterschied」は判明である―― ‘dis-tinct’は‘différent’の類語。‘différent>différence;Unterschied’――。 (3) (3)−i <大> c 力の無限性 1パラグラフ 第3文 前者はそれだけで存立する外的な力として現われ,後者はこの外的な力 への関係において受動的なものとして現われる。jene erscheint als eine für sich bestehende äußerliche Kraft und die andere in der Beziehung auf sie als passiv.

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son aire, c’est-à-dire s’accomplira sur une somme de territoire déterminée. 「講義」は「各地点での[言語の]変化」の「第二」を説くが――「第一」 は本稿(0)−ii――,その叙述はいささか分かりにくく,関連する CLG を 参照する。 <CLG> そうした改新のおのおのは,一定面積の上に,分明な地域 を占めて完成する。(p.281)

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こうして力はその形式に関して制約されており,また同時に内容に関し ても制限されている Die Kraft ist so der Form nach bedingt und dem In-halte nach gleichfalls beschränkt;

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二つに一つ:一つは a)改新が領土全体をおおい,そしてこれは最も稀 な事例で,言語を変更しながらも差異を少しも作らない,一つは b)[改新 の]地域が限定された領土以外を含まず,これは最も頻発する事例である。 De deux chose l’une : ou bien a)elle couvrira tout le territoire, et ce cas, qui est peut-être le plus rare, tout en modifiant la langue, ne crée rien qui prépare une différence, ou bien b)l’aire ne comprend qu’un territoire lim-ité, c’est le cas le plus fréquent.

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のを聞いた場合,そのつどそれは同じ表現であるとの感じをもちはする ものの,言い場所によって口調のちがいや抑揚のために,はなはだしい 音的差異が現われる――そのはなはだしさは,ほかの場合ならば別の語 を区別させるほどである(参照,pomme と paume,goutte と je goûte,

fuir と fouir,etc.);(p.151)

「はなはだしい音的差異 des différences phoniques très appréciables」は 「*fo¯ti が fe¯t に置き換えられる」際にも現われる(7)。いま「改新[*fo¯ti が fe¯t

となる]は分明な地域を占めて完成している」・つまり fe¯t は地域の内で引 き続き言語交通している。だから子の発する fe¯t を聞いた親は,自分の発 する *fo¯ti との「はなはだしい音的差異」に気づくのである――日本語の例を 挙げよう。「食べられる」と「食べれる」の使用者は現在ほぼ同じ割合である――。親 子間・世代間の発音の差異,「方言的事実」とはこれである。「地理的多様 性は時間的多様性に翻訳されねばならない」(CLG p.279)からだ。 (5) (5)−i <大> c 力の無限性 1パラグラフ 第5文 というのは形式に関しての規定態は内容の制限をも含んでいるからであ る。denn eine Bestimmtheit der Form nach enthält auch eine Beschrän-kung des Inhalts.

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「はなはだしい音的差異」は連発される Messieurs! に認められるだけで なく,例えば pomme と paume とのあいだにも認められる。しかし前者 について「同じ表現 la même expression」とする人が,後者についてはそ う捉えない。このように両者は「[外に現われた]形式に関しての規定態」が 異なる――‘expression>exprimer←exprimere 外に向けて押す’――。そして連発 さ れ る Messieurs! は「一 つ の 語[意 義]」と さ れ,pomme と paume と は 「別の語」とされる。これは「形式に関しての規定態は内容の制限をも含 んでいる」からである。 『資本論』においても「形式に関しての規定態が内容の制限をも含んで いる」。というのは,「金鋳貨と金地金とは,もともとただ外形 Figur によっ て区別される」(p.211)のだから「個々の金鋳貨」と「紙幣によって置き 換えられうる最小総量の金」とは「[外に現われた]形式に関する規定態」の 異なりであり,それによって「こと was」(内容)の「あてはまる」か否か が決まる(制限される)からである。 (5)−ii <第3回講義> 1910年11月18日 第31文 これこそ方言の差異に関するすべての核心である。C’est là le nœud de tout ce qui regardera les différences de dialectes.

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(6) (6)−i <大> c 力の無限性 1パラグラフ 第6文 だが力の活動性は自 # 己 # を # 発 # 現 # す # る # ことにある,すなわち,すでに明らか になっているように,外面態を揚棄して・これを力がそのなかで自己と同 一的であるところのものとして規定することにある。Aber die Tätigkeit der Kraft besteht darin, sich zu äußern, d.h., wie sich ergeben hat, die Äußerlichkeit aufzuheben und sie als das zu bestimmen, worin sie iden-tisch mit sich ist.

<資> 第2節流通手段 c 鋳貨。価値章標 8パラグラフ 第6文・第 7文

!この最小総量の金は,たえず流通部面に住みつき,持続的に流通手段 として機能し,それゆえもっぱらこの機能の担い手として実存する。Sie haust beständig in der Cirkulationssphäre, funktionirt fortwährend als Cirkulationsmittel und existirt daher ausschließlich als Träger dieser Funk-tion."したがって,その運動は,商品変態 W−G−W――そこでは,商 品の価値姿態は,ただちにふたたび消えうせるためにのみ,商品に相対す る――の相対立する諸過程の継続的相互転換を表わすだけである。Ihre Bewegung stellt also nur das fortwährende Ineinanderumschlagen der ent-gegengesetzten Processe der Waarenmetamorphose W-G-W dar, worin der Waare ihre Werthgestalt nur gegenübertritt, um sofort wieder zu verschwinden.

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<大> 力は自 ! 己 ! を ! 発現する。発現とは,力が外面態を自分自身の契 機として定立し・かつそれとともにその力が他方の力によって誘発され ているということを揚棄する,という意味で反作用である。(WdL II S.178) 『資本論』第6文。「[紙幣によって置き換えられうる]最小総量の金が,た えず流通部面に住みつき,持続的に[引き続き]流通手段として機能し, それゆえもっぱらこの機能の担い手として実存する[機能が自立化する]」, このことにおいて「(強制通用)力の活動性[機能]」が「自己を発現する」。 これについては既述した。 第7文。「商品変態 W−G−W」においては「商品の価値姿態は,ただ ちにふたたび消えうせるためにのみ,商品に相対する」。すると G と区別 される W において「価値姿態は消えうせる」。つまり W は商品の「外面 態」である――「商品は,自然形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ,商 品として現われる」(p.81)――。そして「商品変態 W−G−W の相対立する 諸過程の継続的相互転換」たる「その[自己を発現する]運動」(力の活動性) は,「外面態[W]を揚棄して・これを力がそのなかで自己[G]と同一的 であるところのものとして規定する」,そうした運動である。 (6)−ii <第3回講義> 1910年11月18日 第32文

おのおのの事件はその地域をもつだろう。Chaque événement aura son aire.

「事件[出来事]」については CLG に次の使用例がある。

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他者への関係は力の自己自身への関係であり,力の受動態は力の能動態そ のものに存するということである。Was also die Kraft in Wahrheit äußert, ist dies, daß ihre Beziehung auf Anderes ihre Beziehung auf sich selbst ist, daß ihre Passivität in ihr Aktivität selbst besteht.

<資> 第2節流通手段 c 鋳貨。価値章標 8パラグラフ 第8文・第 9文

!商品の交換価値の自立的表示は,ここでは一時的契機でしかない。Die selbständige Darstellung des Tauschwereths der Waare ist hier nur flü-chtiges Moment."この自立的表示はただちにふたたび別の商品によっ て置き換えられる。Sofort wird sie wieder durch andre Waare ersetzt.

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力がよってもって活動性へと誘発されるゆえんの動因は,力の固有の誘 発する運動である Der Anstoß, wodurch sie zur Tätigkeit sollizitiert wird, ist ihr eigenes Sollizitieren;

<資> 第2節流通手段 c 鋳貨。価値章標 8パラグラフ 第10文 だから,貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざける過程においては, 貨幣の単なる象徴的実存でも十分なのである。Daher genügt auch die bloß symbolische Existenz des Geldes in einem Proceß, der es beständig aus einer Hand in die andre entfernt.

「動因」と「誘発する運動」については先行して次が説かれていた(「b 力の誘発」)。 <大> 力のふるまいは,規定されて・その結果規定されたことに よってなにか他のものがそのなかに入ってくるという・受動態ではな い;そうではなくて動因はただ力を誘 ! 発 ! す ! る ! だけである。力はそれ自身 のもとで自分の否定態である;力の自己からつきはなす運動は力自身の 定立する運動である。したがって力の行いはあの動因が外的なものであ ることを揚棄することにある;力は外的なものをたんなる動因とし,そ れを力自身の自己からの固有のつきはなす運動として・力!の!固!有!の!発!現! として定立するのである。(WdL II S.176) つまり「力の自己からつきはなす運動」(力の活動性)が「動因[弾み] An-stoß」を「力自身の自己からの固有のつきはなす運動 das eigene Abstoßen ihrer selbst von sich として・力!の!固!有!の!発!現!として定立する」のだから, 「力がよってもって活動性へと誘発されるゆえんの動因は,力の固有の誘

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『資本論』。「貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざける」のは「力の 活動性」だが,いま「力はそれ自身のもとで自分の否定態である」。とい うのは,「或るものを遠ざける etw entfernen」ことは或るもの[外的なもの] が「動因」として「自ら遠ざかる sich entfernen」ことだからである。換 言して「力の[貨幣を]自己からつきはなす運動[遠ざける運動]は力自身の [動因・遠ざかる貨幣を]定立する運動である」――例えば,ボートの舳が岸にぶ つかれば反作用でボートは岸から離れる。このとき岸はボートをつきはなすが,これ はボートが動因(弾み)となって自ら岸から離れることでもある――。そこで「力 がよってもって活動性へと誘発されるゆえんの動因は,力 ! の ! 固 ! 有 ! の ! 誘発す る運動である」と説かれ,そうであれば「貨幣を絶えず一つの手から別の 手に遠ざける過程においては,貨幣の単なる象徴的実存でも[動因・弾みと して]十分なのである」。 (8)−ii <第3回講義> 1910年11月18日 第34文 かくしてゴールにおける,pórta のようなアクセントのない音節に置か れた a が無声の e になる(pórta→porte)という重要な現象。Ainsi en Gaule grand phénomène des a placés en syllabes atones comme pórta devenant

emuets(pórta→porte).

「アクセントのない atone 音節」とは,「力がそれ自身のもとで自分の否 定態である」,そのような音節である――‘a−tone’:‘a-’(否定・欠如)+‘-tone’ <‘τóνoϛ’(力強さ)――。すると「pórta のようなアクセントのない音節に

置かれた[有声の]a」は「力の否定態」における a であるから,『資本論』

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e になる」

(9) (9)−i

<大> c 力の無限性 1パラグラフ 第9文

力のもとに現われてくる外面態は直接的なものではなく,力によって媒 介されたものである die Äußerlichkeit, welche an sie kommt, ist kein Un-mittelbares, sondern ein durch sie Vermitteltes;

<資> 第2節流通手段 c 鋳貨。価値章標 8パラグラフ 第11文 いわば,貨幣の機能的定在がその物質的定在を吸収するのである。Sein funktionelles Dasein absorbirt so zu sagen sein materielles.

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<第3回講義> 1910年11月18日 第35文

この改新はローヌ川地方の全体には及んでいない(fenna−女性)。Cette innovation ne porte pas sur toute la région rhodanienne(fenna − une femme). 「この改新」は「pórta→porte」だが,これは「アクセントのない音節」 (力の否定態)における現象だから,「力のもとに現われてくる外面態[porte] は直接的なものではなく,力によって媒介されたものである」。つまり『資 本論』に準えて:「力のもとに現われてくる外面態の機能的定在がその物 質的定在を吸収する[有声か無声かが問われない]」。それゆえ「ローヌ川地方」 の一部に見られる「fenna」でも「機能的定在」としては事が足りる。 (10) (10)−i <大> c 力の無限性 1パラグラフ 第10文 力の固有の本質的な自己との同一性が直接的ではなくて,力の否定に よって媒介されているのと同じように so wie ihre eigene wesentliche Identität mit sich nicht unmittelbar, sondern durch ihre Negation vermittelt ist;

<資> 第2節流通手段 c 鋳貨。価値章標 8パラグラフ 第12文∼第 13文

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werden.!貨幣の章標に必要なのは,それ自身の客観的社会的妥当性だ けであり,紙製の象徴はこの妥当性を強制通用力によって受け取る。Nur bedarf das Zeichen des Geldes seiner eignen objektiv gesellschaftlichen Gültigkeit und diese erhält das Papiersymbol durch den Zwangskurs.

『大論理学』だが,『資本論』に「反射 Reflex」とあることにちなみ,「力」 を「光」としよう。すると「力」(光)はその「反射」において「その固 有の本質的な自己との同一性」である。これはよかろう。ただし光源[反 射される光]が消滅すればその反射もなくなるように,反射されるものと 反射するものとが相互に反転することはなく,この「同一性」は「直接的 ではない」。そうではなくて,それは「力の否定〔反射〕によって媒介され ている」。 『資本論』第12文で「貨幣」は「反射としての貨幣」であり,したがっ て「その固有の本質的な自己との同一性」である。「ただそれ自身の章標 として機能するにすぎず,だからまた[無価値な]章標によって置き換え られうる」とはこの謂いである。ただし価値のある「貨幣」が「[無価値な] 章標」と同一というのだから,その「同一性」は「直接的ではない」。 第13文。「貨幣の[無価値な]章標」である以上,それは「それ自身の客 観的社会的妥当性」が「必要」である。「紙製の象徴[貨幣の章標]はこの 妥当性を強制通用力によって受け取る」から,「妥当性」は「[無価値な]紙 製の象徴」のもとにある。つまり「妥当性」(貨幣との同一性)は「力の否 定[無"価値]によって媒介されている」。 (10)−ii <第3回講義> 1910年11月18日 第36文

(34)

CLG に次の言語事実が挙げられる。

<CLG> スラヴ古語で,「語」という意味の slovo は,単数具格を

slovem ,複数名格を slova,複数属格を slov というふうに作る;この

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そこで第13文に準えて次が言える:「 ・ の章標に必要なのは,それ自身 の客観的社会的妥当性だけであり,ゼロの象徴はこの妥当性を[流用する] 力によって受け取る」。いま「妥当性」は「ゼロの象徴」のもとにある。 つまり「妥当性」( ・ との同一性)は「力の否定[ゼ!ロ!]によって媒介され ている」。 そして「言語は,何か[或るもの]と無との対立 l’opposition de qelque chose avec rien で満足しうる」のであるから,どの資料的記号[或るもの] が消失するか・「その[消失する]地域[範囲]は前もって限定されることが できない」。「アクセントのない音節に置かれた a」の消失についても同じ ことが言える。 (11) (11)−i <大> c 力の無限性 1パラグラフ 第11文 換言すれば,力は,力 ! の ! 外 ! 面 ! 態 ! が ! 力 ! の ! 内 ! 面 ! 態 ! と ! 同 ! 一 ! で ! あ ! る ! ということを 発現する[外にあらわし示す]のである。oder die Kraft äußert dies, daß ihre

Äußerlichkeit identisch ist mit ihrer Innerlichkeit.

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Geld völlig auf in seine Funktion als Cirkulationsmittel oder Münze, und kann daher im Papiergeld eine von seiner Metallsubstanz äußerlich getren-nte und bloß funktionelle Existenzweise erhalten.

「紙製の象徴」が「客観的社会的妥当性を受け取る」ところの,その「国 家強制が有効である」ことは「(強制通用)力」の「発現」であり,「力 ! の ! 外 ! 面 ! 態 ! が ! 力 ! の ! 内 ! 面 ! 態 ! と ! 同 ! 一 ! で ! あ ! る ! ということの発現」である。すなわち, 「国家強制の有効」が「一つの共同体の境界によって画された,すなわち 国内の,流通部面の内部においてである」ことは「力の外面態」の現われ であり,「貨幣が流通手段または鋳貨としてのその機能に完全に解消して しまい,それゆえ,紙幣において,その金属実体から外的に切り離された, 単に機能的な,実存様式を受け取る」ことは「力の内面態」の現われであ る。そして「発現」(国家強制の有効)が「力の外面態」においてだ!け!・「力 の内面態」においてだ ! け ! であるのだから,このとき「力の外面態は力の内 面態と同一である」。 (11)−ii <第3回講義> 1910年11月18日 第37文 どこが侵された地域であるかを認めることができるだけだ。On ne peut que constater quelle a été l’aire envahie.

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p.96),その「能記」は「感覚的 sensorielle である」(同)。音韻変化を経て能記はい ま fe¯t だが,それは「*fo¯ti に代わって他の材料からなる標章 marque または象徴」で ある――邦訳 CLG では‘marque’を「標識」,‘symbole’を「象徴」と訳す――。そ して「精神の知覚する観念的差異 différence idéelle はすべて,分明な能記によってお のれを表出しようとする」(CLG p.169)のであって,例えば単数に対する複数が交 替で表出される。「fe¯t によって象徴的・感性的に表わされているその fo¯t との関係[交 替]で言語価値[単数・複数]が観念的に表現されている」ゆえんである。 (6)「貨幣の通流 der Umlauf des Geldes」については『資本論』英語版翻訳者が次の

注を残している:「この言葉[currency ドイツ語では Umlauf]は,ここでは,そのも との意味,すなわち貨幣が手から手に渡るときに貨幣がたどる過程または経路という 意味で使われており,流通[circulation ドイツ語では Zirkulation]とは本質的にちが う過程である。」 (7)念のための一言だが,「*fo¯ti が fe¯t に置き換えられる」ことが史実として見られる わけではない。

(8)なお「商品価格の一時的に客体化された反射 Verschwindend objektivirter Reflex der Waarenpreise」は仏語版『資本論』で‘Reflet fugitif des prix des marchandises’と 訳され,その‘fugitif’は‘Qui passe, disparaît rapidement.’の謂いである。

使用テキスト:

Hegel, G.W.F., Wissenschaft der Logik I・II , Suhrkamp.(寺沢恒信訳『大論理学』1∼3 以文社)

Marx, K., Das Kapital , Diez.(資本論翻訳委員会訳『資本論』第一分冊 新日本新書) Saussure, F. de, Troisième cours de linguistique générale(1910-1911),Pergamon. テキスト以外の文献:

Saussure, F. de, Cours de linguistique générale, Payot.(小林英夫訳『一般言語学講義』 岩波書店)

Wittgenstein, L., Tractatus logico-philosophicus, Suhrkamp.

Wittgenstein, L., Notes Dictated to G. E. Moore in Norway in Notebooks 1914-1916, The University of Chicago Press.

(文献の引用に際し,邦訳書を挙げたものは原則としてそれぞれの訳文を借用し,引用頁数も邦 訳書のそれを掲げた。ただし以文社版『大論理学』は初版の邦訳書であるゆえ,存在論からの引 用に際しては拙訳を用い,また引用頁数もすべて原書のそれを掲げた。邦訳書からの引用に際し ては使用文字種を変えた場合がある。邦訳書を挙げていないものは拙訳を用いた。)

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