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評価と昇給との結合をめぐる教師たちの忌避情感の形成

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博士論文

評価と昇給との結合をめぐる教師たちの忌避情感の形成

同志社大学大学院

社会学研究科産業関係学専攻

49073501 岩月真也

(2)

1

目 次

1章 問題の所在……… 4 1 問題意識 ――4

2 先行研究の検討―勤評闘争期と現代― ――9 2-1 勤評闘争期

2-2 現代

2-3 評価技術論的矮小化 3 目的と方法 ――18

3-1 目的

3-2 方法

4 構成 ――24

2章 勤評実施側から見た愛媛勤評闘争―勤評実施側の視角と死角―……… 26 1 はじめに ――26

2 自民党から見た勤評闘争 ――28 2-1 勤評実施の方策

2-2 自民党から見た愛媛勤評闘争

3 愛媛県教育委員会から見た勤評闘争 ――32 3-1 勤評実施に対する竹葉の構え

3-2 竹葉から見た愛媛勤評闘争 4 勤評実施側の視角と死角 ――38

3章 勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉―職場の手記を手掛かりに―41 1 はじめに ――41

2 愛媛県での勤評闘争 ――42

2-1 第一次愛媛勤評闘争:1956年11月~1957年6月

2-2 第二次愛媛勤評闘争:1957年10月13日~1957年12月15日 3 勤評闘争下の現場教師たちの抵抗の源泉 ――49

(3)

2 3-1 人間関係の連帯と分断

3-2 評価差による昇給への抵抗 3-3 親や住民との関係

4 現場教師にとっての勤評闘争と日教組対策としての勤評の意味 ――58

4章 教員評価制度が導入された学校現場―評価面に即して―……… 62 1 はじめに ――62

2 県レベルの教員評価制度 ――66 2-1 教員評価制度導入のねらい 2-2 教員評価制度における評価の規定 2-3 評価結果の活用―開示と給与への反映―

2-4 まとめ

3 学校現場レベルの教員評価制度 ――76 3-1 幅のある評価対象

3-2 学校現場の評価

3-3 評価と日々の働きぶりとの関係

3-4 3つの問題

4 秩序と評価の整合性 ――84

5章 教員評価制度の導入された学校現場―組織構造に即して―……… 87 1 はじめに ――87

2 諸会議の側面 ――90 2-1 学校現場の諸会議 2-2 諸会議の限界

3 子どもの観察と授業観察の側面 ――97 3-1 子ども観察

3-2 授業観察

4 情報収集の側面 ――106 4-1 学校現場の情報収集 4-2 情報収集の限界

(4)

3 5 学校の組織構造 ――110

5-1 校長による教師たちの仕事の把握と評価との関係 5-2 学校の組織構造と学校現場の評価との関係

6章 評価と昇給とが結合した世界―東京都の場合―……… 117 1 はじめに ――117

2 教師の賃金決定 ――119 2-1 教師の人事考課制度

2-2 勤務成績区分の決定―勤務成績等に基づく推薦と業績評価―

2-3 教師の昇給

3 管理職の賃金決定 ――125 3-1 管理職の人事考課制度 3-2 管理職の昇給

4 評価と昇給との結合による学校組織の変貌 ――128 4-1 管理職統制

4-2 「割合なしの『標準』」 5 おわりに ――131

7章 忌避情感の形成とその含意……… 135 1 整理 ――135

2 忌避情感の形成 ――137 3 学校という特異な世界 ――142

4 問いと答え―学校組織内の現場教師への視線― ――145 5 今後の研究課題 ――148

参考文献一覧……… 150

(5)

4 1章 問題の所在

1 問題意識

本研究は勤評闘争期と現代とに現れた評価と昇給との結合に抵抗する教師たちの情感が いかに形成されているのかを描こうとした試みである。

1990年代以降、教育課題の改善や教師の意欲・能力の向上を目的として、教師に対する 評価と昇給とを結合させようとする教員評価制度の導入をめぐる議論が浮上した。現段階 においては、この教員評価制度が多くの自治体で実施されるに至っている。1990年代以降 に登場した教員評価制度は、教師たちからの激しい抵抗を受けた。教師たちの抵抗とは評 価されることに対する抵抗である。この教師たちの評価されることに対する抵抗は、実は 1990年代以降の教員評価制度導入の時期に初めて生じたものではない。1950年代後半に生 じた勤評闘争が発端であった。1950年代後半には、すでに評価に対する教師たちからの抵 抗が生じていたのである。

評価されることに抵抗する教師たちとはいったい何者なのであろうか。この問いは、本 研究の根本にあり、また出発点でもある。教師たちの抵抗に対する理解が欠如したままに、

制度化を進めることは学校現場を混乱に導くことになるのではないかとの危機感を抱かず にはいられないからである。例えば、現在、「抜本的改革」という言葉が流布しているけれ ど、根元がどのような性質であるのかが理解されぬままに根元を引き抜くことは軽率に過 ぎる。「構造改革」という言葉についても同様に、改革の対象とされる構造それ自体がいか なる構造を有しているのかが理解されぬままに改革することは、やはり軽率に過ぎはしな いか。したがって、評価と昇給との結合という改革の対象とされている教師たちの抵抗を きちんと理解したいのである。これが本研究の根本にある問題意識である。

評価と昇給との結合をめぐる教師たちの抵抗を理解するためには、教師たちの抵抗が生 じた過去と抵抗が続いている現代の様相が描かれなければならない。Elias(1939b)は次のよ うに指摘している。「現在の出来事を眺めることが過去の出来事の理解を容易にし、過去の 出 来 事 の な か へ 沈 潜 す る こ と が 現 在 起 こ っ て い る こ と を 明 ら か に す る 」(Elias

1939b=1978:456)。過去を理解するためには現代を観察せねばならず、現代を理解するには

過去を観察せねばならない。本研究との関連で表現すれば、現代の教員評価制度を観察す ることが過去の勤評闘争の理解を容易にし、過去の勤評闘争のなかへ沈潜することが現代

(6)

5

の教員評価制度の様相を明らかにするということになる。それゆえ、本研究は過去の勤評 闘争と現代の教員評価制度とを研究の対象に位置づけた。

本研究の対象時期は勤評闘争期と現代である。ここで勤評闘争の経過と現代の教員評価 制度の経過とを振り返っておきたい。以下、勤評闘争の発端から沈静化までの経過と現代 の教員評価制度の導入から現状までの経過とを確認する。

まず勤評闘争の経過を確認しよう。勤評闘争の発端は愛媛県であった。1956年11月、

愛媛県では、県財政の赤字克服という理由から教師の昇給は7割の者に制限され、その昇 給決定に勤務評定が使用されることとなった(愛媛県教員組合・編集委員会 1958:4-6)。そ の後、愛媛県で勤評問題が深刻化するなか、文部省は教員の勤務評定を全国で実施する方 針を決め、1957年12月、都道府県教育長協議会により「教職員の勤務評定試案」が発表 された。この発表を受けて各県は1958年4月実施を目指して勤務評定の実施へと踏み切っ

た(高橋 1996: 20)。これ以降、勤務評定をめぐる全国的な闘争が勃発することとなる。

1957年12月22日の第16回臨時大会において、日本教職員組合(以下、日教組と略する) の小林委員長は次のような非常事態宣言を発した。「権力による教育の統制が、型にはまっ た人間をつくりあげ、国民全体を大きな不幸におとしいれるものであることは、われわれ があの悲惨な戦争をとおして、骨身に徹するまで思い知らされたことであった。しかし、

戦後十余年をへたこんにち、日本の教育は、ふたたび重大な局面にたたされている。……

とくに勤務評定は、近来急速にすすめられてきた一連の反動文教政策の仕上げをねらって 打ち出されたものであることは、疑う余地がない。それは、権力をもって教師をたえず束 ばくし、その自由を圧殺しようとするものである。また、それは、教育の自主性をうばい、

創意によるかっ達な教育実践をおさえ、教員組合活動を封じ込めようとする陰険な意図を 含むものである。……こんにちの状況こそ民主教育の非常事態であることを認識し、覚悟 を新たにし、ゆるがぬ団結と統一行動をもって、勤務評定を阻止し、教育の権力支配を粉 砕するため、ねばりづよく強力にたたかいぬくことを宣言する」(日教組 1967: 347-348)。 日教組にとっての勤評闘争は、権力による束縛、自由の圧殺、自主性の奪取を阻止し、民 主教育を守る闘争であった。この非常事態宣言以降も勤評闘争は激しさを増し、各地で一 斉10割休暇闘争が行われていた1

さらに、1958年9月14日、日教組と日本高等学校教職員組合(以下、日高教と略する)

1 例えば、19584月から3ヵ月の間、東京都、福岡県、和歌山県、高知県において一斉10割休暇闘争 が行われていた(坂本 1996:29)

(7)

6

は次のような声明を出し、9月15日の統一行動突入への決意を表明した。「日教組、日高教 は平和と民主主義を守りぬくため、緊密な共闘をもって第一次行動の体制を固めてきた。

……われわれはあくまで教育の権力支配をねらう勤評を阻止し、反動的文教政策の撤回を かちとるために全国50万の教師の怒りを結集し、いかなる弾圧をも排除し、既定方針どお り九・一五全国統一行動をとり、断固たたかう」(日教組 1967:394)。しかし、「九・一五全 国統一行動は大きく傾斜した。大多数が正午授業打ち切りに突入したのは、北海道、岩手、

山形、宮城、東京、群馬、新潟、京都、大阪、兵庫、和歌山、鳥取、広島、愛媛、高知の 17都道府県にとどまった」(日教組 1967:395)とされる。1958年10月14日、15日、16 日に第19回臨時大会が開かれた。ここで長谷川都教組委員長は次のように語っている。

「九・一五闘争にあらわれた様相についてわれわれは謙虚に反省してみる必要がある。…

…父母大衆は教師のたたかいにまだ警戒的であり、勤評が戦争につながると説いてもまだ ピンとこない。そんななかで組合員も勤評絶対反対のうけとめ方に当惑し、自信をもって 説得に当りえなかった」(日教組 1967: 397-398)。このように勤評闘争に対する認識は、組 合と父母との間でズレが生じていた。

1959年1月、勤評書を強奪された県が36あり、実施延期が山梨、提出拒否が高知、福 岡、規則未制定が北海道、神奈川、長野、京都、提出時期を引き延ばしているところが大 阪、兵庫、徳島であった(日教組 1967:405)。しかしながら、様々な指摘を配慮して、多く の都道府県の実際の勤務評定においては、「教職員の勤務評定試案」に盛り込まれていた相 対評価が削除された(高橋 1996:23)。その後、大半の都道府県で勤務評定の形骸化が進んで いくのであった。大まかではあるけれど、以上が勤評闘争の経過であった。

次に現代へと視点を移してみよう。以下、現代の教員評価制度の導入経緯と現状とを確 認する。1950年代後半に生じた勤評闘争終結以降、約半世紀の間、教師の評価と昇給との 結合をめぐる議論よりも、安保闘争、人確法闘争2、主任制反対のたたかい、教科書改悪反 対のたたかい等がにぎわいを見せていたようである3。勤評闘争が一段落した 1960 年前後

2 「人確法」とは通称であり、正式には「学校教育の水準の維持向上のための義務教育諸学校の教育職員 の人材確保に関する特別措置法」(1974225日公布、法律第二号)という。教師たちの給与につい て、「一般の公務員の給与水準に比較して優遇措置を講じ、すぐれた人材を確保し、学校教育の水準の維 持向上に資することを目的としており、国に対し、そのための財政上の計画的実現を義務づけ、同時に、

人事院に対し、197411日から教員の給与改善が行なわれるよう必要な勧告を義務づけたもので

ある」(三輪 1979:43)。この「人確法」は教師たちの給与改善を目的とされているけれど、教職員組合

は本法が「5段階給与」構想実現という差別的性格を有していると警戒していた。なお、「5段階給与」

とは教育職員の給与表に記されている等級を3等級から5等級へ変更することを意味する。この変更が 教職員組合の目には差別として映っていたのである。

3 日教組(1989)の「総説 日教組運動40年のあゆみ」(pp.1-41)を参照した。

(8)

7

から新しい教員評価制度の議論が活発になる1990年代以降までの間、教師に対する評価と 昇給との結合をめぐる論議は、中心的な争点として位置づけられることはなかった。しか し、1990年代後半以降、勤務評定に代わる新しい教員評価制度の議論が浮上した。この新 しい教員評価制度の議論の浮上には、公務員制度改革の流れと教育改革の流れとがある。

なお、東京都については独自に教員評価制度の導入を図っている。戦後から現代までの教 師に対する評価に関する出来事は表1.1の通りである。

教員評価制度の導入経緯として、まず、2000年に教育改革国民会議が「教師の意欲や努力 が報われ評価される体制をつくる」ことを提言した4。その後、2002年の中央教育審議会答 申は「各都道府県教育委員会等における勤務評定の評価方法等の工夫、表彰制度や特別昇給 の実施等を通じて、優秀な教師を適切に評価しその処遇の改善を図っていくことも求めら れる」ことを提言する5。さらに、2002年の経済財政諮問会議は「経済財政運営と構造改革に 関する基本方針2002」でも「文部科学省は、早期に新たな教員評価制度の導入を促進する。

また、教師の一律処遇から、やる気と能力に応じた処遇をするシステムに転換する」ことを 示した6。さらに、2007 年の中央教育審議会答申では、「教員評価の取組を一層促進し、教 員一人一人の能力や業績を適正に評価し、教員に意欲と自信を持たせ、育てていく」こと、

「評価結果を、任用や給与上の措置などの処遇に反映させるように促し、教員の指導力や勤 務実績が処遇上にも報われるようにしていく」ことを提言している。なお、評価結果を処遇 に反映させる場合には「客観性のある評価制度を検討していく」ことと、「学校現場において は、個々の教員だけでなくチームワークによって子どもたちへの教育をおこなっている意 識が強いため、そのような学校現場の特殊性を考慮した評価の在り方について、今後、検 討していく」ことの重要性を指摘している7。このような経緯を経て教員評価制度の導入 が進められていくこととなった。

ここで教員評価制度の実施状況を確認してみよう。2006年4月現在では、62教育委

4 教育改革国民会議「教育改革国民会議報告―教育を変える17の提案―」

(http: //www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/houkoku/1222report.html)より。

5 中央教育審議会答申「新しい時代における教養教育の在り方について」

(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/020203/020203a.htm#01)より。

6 経済財政諮問会議「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002 (http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizai/tousin/020621f.html#2-2)より。

7 中央教育審議会答申(2007)「今後の教員給与の在り方について」

(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/07041100.pdf)より。

なお、勤評闘争から現代までの大まかな流れについては表1.1を参照されたい。東京都の独自路線、公 務員制度改革関連、教育改革関連について記してある。

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8 表1.1 勤評闘争から現代までの流れ

年代 月日 事項

1956

62 「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」を強行可決(630日公布) 101 任命制教育委員会発足

111 愛媛県教育委員会、勤務評定実施決定

1959 2月末

北海道、神奈川、京都を除く43都道府県が実施を決定し、うち37都県が全部またはほとんど 評定書の提出(都道府県教育長協議会編『勤務評定問題の経緯』1959年、94)。都道府県レベ ルでの実際の勤務評定は、教育長協議会の試案を変更する(都道府県教育長協議会編『勤務評定 問題の経緯』1959年、136139)

1974 225 「学校教育の水準の維持向上のための義務教育諸学校の教育職員の人材確保に関する特別措置

法」(いわゆる「人確法」)制定

1984 8 【東京都独自路線】「活力ある都政をすすめる懇談会」自己申告制度と業績評価制度の導入を

提言(高橋 2005:271)

1986 41 【東京都独自路線】一般行政系職員に自己申告・業績評価制度を実施(高橋 2005:271)

1994 12 【東京都独自路線】教育管理職を含む管理職に成績率を導入し、業績評価を勤勉手当に反映(

2005:271)

1995 41 【東京都独自路線】教育管理職に自己申告・業績評価制度を実施(高橋 2005:271)

1998 612 【公務員制度改革】「中央省庁等改革基本法」の制定(第48条(国家公務員制度の改革))→「能

力、実績等に応じた処遇の徹底」等についての検討を定めた(高橋 2005:273-274)

1999 3

【東京都独自路線】「教員の人事考課に関する研究会」報告(「これからの教員の人事考課と人 材育成について―能力開発型教員評価制度への転換―」)→新しい教員評価制度を検討し整備す ることを提言(勝野 2004:6)

1999 3 【公務員制度改革関連】公務員制度調査会「公務員制度改革の基本的方向に関する答申」(勝野

2004:12)(高橋 2005:274)

1999 427 【公務員制度改革関連】地方公務員制度調査研究会報告「地方自治・新時代の地方公務員制度

―地方公務員制度改革の方向―」「年功序列から能力、実績の重視へ」と提案(高橋 2005:274)

2000 41 【東京都独自路線】新教員評価制度の実施(高橋 2005:261) 2000 121

【公務員制度改革関連】「行政改革大綱」閣議決定「年功序列的昇進や年齢給的な処遇を改 め、成果主義・能力主義に基づく信賞必罰の人事制度の原則を明確にするなど、国家公務員法、

地方公務員法等の見直しを行う」とされた(高橋 2005:274)

2000 1222 【教育改革関連】教育改革国民会議、「教育を変える17の提案」を発表「教師の評価をその

処遇などに反映させる」(勝野 2004:12)

2001 1 【教育改革関連】文部科学省「21世紀教育新生プラン」を発表「教師の意欲や努力が報われ

評価される体制をつくる」ことを記す(勝野 2004:12)

2001 3 【公務員制度改革関連】「能力、実績等の評価・活用に関する研究会」の報告書(勝野 2004:12)

2001 1225

【公務員制度改革関連】「公務員制度改革大綱」閣議決定「年功序列的昇進や年齢給的な処 遇を改め、成果主義・能力主義に基づく信賞必罰の人事制度の原則を明確にするなど、国家公 務員法、地方公務員法等の見直しを行う」、「能力や業績を適正に評価した上で、真に能力本 位で適材適所の人事配置を推進するとともに、能力・職責・業績を適切に反映したインセンテ ィブに富んだ給与処遇を実現すること」などを提案(勝野 2004:12-13)(高橋 2005:274)

2002 2 【教育改革関連】中央教育審議会答申「今後の教員免許制度の在り方について」は新しい教員

評価システムの導入を提言(高橋 2005:261)

2003 41

【教育改革関連】文部科学省は2003~2005年度にかけて、全都道府県・指定都市教育委員会 に「教員の評価に関する調査研究」を委嘱この3年度の間に「教員評価システムの改善を図 り、2006(平成18)年度には、本格的導入となるよう指導」することとなった(高橋 2005:261)( 尾 2010:13-14)

2003 7月以降 【公務員制度改革関連】「公務員制度化改革大綱」の見送り(高橋 2005:276)

2004 1220

【教育改革】中教審・教育行政部会「学校の組織運営の在り方について(作業部会の審議のま とめ)」「能力や業績を適正に評価するとともに、これを適切に人事や処遇に反映すること が極めて重要」(藤田 2005:133-134)

2004 1224

【公務員制度改革関連】「今後の行政改革の基本方針」(新行政改革大綱)を閣議決定「公 務員制度化改革大綱」が目標としていた2006年度からの実施「改めて検討する」と見送られ た(高橋 2005:276)

出所:山田恵吾・耳塚茂樹編著(2005)『教育史からみる学校・教師・人間像』、梓出版社、pp.210-216、勝 (2004)、高橋(2005)より作成。

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9

員会中57教育委員会が教員評価制度の試行又は実施が行われていた8。2012年4月現在に は全都道府県において教員評価制度が実施されるに至っている9。では、教師に対する評価 結果が処遇に結びついている自治体はどれほどあるのか。2012年4月現在において、12都 府県と6市が教師の評価結果を昇給に活用している。12都府県については、岩手県、宮城 県、埼玉県、東京都、神奈川県、長野県、大阪府、兵庫県、鳥取県、香川県、高知県、大 分県である。6市については、さいたま市、川崎市、横浜市、相模原市、大阪市、堺市であ る。なお、管理職に限定した上で評価結果を昇給に反映させているのは、京都府、京都市、

広島県、山口県であった10。このように一部の自治体では評価結果を昇給に活用するに至っ ているのである。

なお、評価結果を昇給に反映させている都府県市の評価方法を確認してみると、評価結 果に分布規制を適用する相対評価を行なっているのは東京都と岩手県のみであり、他の府 県市では評価結果に分布規制を適用しない絶対評価であった11。したがって、東京都と岩手 県以外の自治体では、将来的にどうなるのかはさておき、現状としては必ずしも教師間に 評価差による昇給差を生じさせる仕組みを設けてはいないということである。一方、東京 都と岩手県においては、教師間に一定程度の評価差による昇給差を生じさせる仕組みにな っている12

以上、勤評闘争の経過と現代の教員評価制度の経過とを確認した。次に先行研究が勤評 闘争と現代の教員評価制度に対してどのような議論を展開していたのかを検討してみよう。

この検討からは、先行研究の議論の土台に対する疑惑が浮かび上がることとなろう。

2 先行研究の検討―勤評闘争期と現代―

以下では本研究の視角を明瞭にするため、次の手順を踏んで先行研究の検討を行なうこ

8 基礎資料:「5(1)教員評価の改善について」中央教育審議会答申(2006)「今後の教員養成・免許制度の在 り方について」2006711日。

(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/06071910/020/021.htm)より。

9 文部科学省(2012)「教員評価システムの取組状況(平成2441日現在)」、文部科学省ホームページ、

201332日アクセス。

URL:http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/jinji/__icsFiles/afieldfile/2013/02/19/1331017_01.pdf なお、愛媛県のみ「一部の教職員、一部の学校で実施」とされている。

10 同上より。

11 同上より。

12 東京都については6章で検討する。なお、岩手県の制度を確認したところ、岩手県と東京都の分布規制 のあり方は同様であった。

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10

ととする。本研究の対象時期は勤評闘争期と現代にあった。まず、勤評闘争に対して先行 研究がどのような評価を下していたのかを検討する。次いで、現代の教員評価制度に対し ても先行研究がどのような評価を下していたのかを検討する。先行研究は評価と昇給との 結合に抵抗する教師たちをどこまで捉えているのであろうか。

2-1 勤評闘争期

先行研究は勤評闘争に対してどのような評価を下していたのか。先行研究によれば、勤 評闘争とは第一に政治闘争であったということ、第二に自民党の日教組対策として実施さ れたということ、このように理解されている。以下、詳しく確認していこう。

1990年代に入り、評価と昇給との結合を意図する教師に対する新しい評価制度が議論さ れ始めたのに伴い、「教師はどこまで評価できるのか」(佐藤・坂本 1996:1)という観点から、

かつての勤評闘争を検討する必要が生じた。それゆえ、1990年代以降、社会問題にまで発 展した1950年代の勤評闘争の経緯や当時の争点を整理し、教師に対する評価のあり方に示 唆を与える研究がなされるようになった。また、教師を含めた公務員に対する人事管理制 度の構築という観点からも、かつての勤評闘争が扱われている。これら一連の研究は、か つての勤評闘争を振り返り、そこから得られた教訓を教師に対する新しい評価制度に活か す意義ある研究と言える。総じて、これら多くの先行研究は、勤評闘争とは政治闘争であ ったと評価を下している。

高橋(1996)は「勤評の全国実施をめぐって大きな混乱がおこった第1の理由は、勤評が政

治的に利用されたことにある」(高橋 1996:23)としている。坂本(1996)は「当時の社会 状況は技術革新による高度経済成長の前期にあって、経営全般の合理化が要求されるとと もに、産業構造の変化や急激な社会変化のおこった時期であった。また、大規模な労働争 議などの労働運動と60年安保条約改定を迎えての反対運動等が頻発し、政治的にも不安定 な混乱した時期でもあった。これらをふまえて勤評論争(闘争)を考えるならば、当時の社会 的動向に影響を受けた現象としてみることも不可能ではない」(坂本 1996:34)と見る。日教 組の組合費によって運営されていた国民教育研究所の所員であった深山氏は勤務評定を

「校長に勤務評定権限をあたえることによって、職場の教職員にたいする『包括的な支配 権』をあたえ、それによって、財界や自民党の要求する反動的な教育の忠実なにない手に しようとするもの」(深山 1972:62)としている。さらに若井(1996)は、この深山氏の勤務評 定に対する見解を踏まえ、「このような勤務評定批判が多くの小・中学校等教職員の支持を

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11

得て、勤務評定の実施をめぐって、長期に及んで熾烈な反対運動が展開され、いくつかの 紛争(事例)は、裁判(いわゆる『勤評裁判』)にまで発展した」(若井 1996:46)と述べて いる。稲継(2006)においても、「教員勤評の問題は、当時の政治的対立軸(「政府・与党自民 党」対「日教組・野党」)が背景にある政治問題である」(稲継 2006:133)と勤評闘争を見て いる。

1990年代以前の研究においても、勤評闘争は政治問題として捉えられている。教育の戦 後史編集委員会(1986)は、「1950年代後半にくりひろげられた勤評をめぐっての保守・革新 両陣営をあげての激突は、日本の教育史にとどまらず、戦後史に残る“大事件”といっていい だろう」(教育の戦後史編集委員会 1986: 87-88)と述べている。大田(1976)も、「政府・自民 党は具体的かつ詳細に教育の官僚統制と日教組対策をねらっていたのである」(大田

1976:272)として、勤評闘争を政治闘争として捉えている。五十嵐・伊ケ崎(1970)は「教育

行政上の重大事が政治的傾向を帯びたものであった」(五十嵐・伊ケ崎 1970:191)と論じて いる。このように勤評闘争とは第一に政治闘争であったと捉えられている。では、教師か らの抵抗を受けながらも、勤評を推し進めた勤評実施側の意図とは何であったのか。

勤評実施側の意図は日教組対策にあったとされている。先に見た教育の戦後史編集委員

会(1986)の「1950 年代後半にくりひろげられた勤評をめぐっての保守・革新両陣営をあげ

ての激突」(教育の戦後史編集委員会 1986:87)とは、革新陣営には社会党及び日教組が位置 づけられ、保守陣営には自民党が位置づけられている。それゆえ、勤評闘争の政治闘争的 特徴が指摘されていたのである。以下の先行研究は勤評実施側の中心的な主体が自民党に あることを前提として、勤務評定実施の意図が日教組対策にあったと見ている。

五十嵐・伊ケ崎(1970)は、1957年10月に自民党がまとめた「日教組対策の具体的な方針」

の中に「勤務評定を励行」が含まれていることを指摘し、「勤評問題が『日教組対策』のひ とつとして掲げられ、その線にそって強力に実施されていった」(五十嵐・伊ケ崎 1970:191) と論じている。また、毎日新聞社会部(1959)は、当時の愛媛県の白石春樹自民党県連幹事長 が「勤評を実施して昇給できる教員と落ちる教員を作れば、教組は必ず割れる。実施の責 任者である校長はきっと組合の圧力にたえかねて教組を離脱するだろう。校長のいなくな った教組が弱体化するのは火を見るより明らかだ」(毎日新聞社会部 1959:328)と発言した として、勤務評定の実施の意図を教組対策としている。この白石発言を踏まえた上で大田

(1976)と萩原(1996)は次のように指摘する。「自民党は日教組対策に腐心し、その方策をま

とめていた。……政府・自民党は具体的かつ詳細に教育の官僚統制と日教組対策をねらっ

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ていたのである」(大田 1976:271-272)。萩原(1996)も同様に「政策要路者たちがそこに込 めた狙いと論理は……(白石自民党県連幹事長の;引用者)言葉に端的に象徴されている」(萩

原 1996:260)としている。佐々木(1988)もまた、「白石春樹も、後に知事になってから『私

が胸を張って自慢できることは、愛媛県が日本で一番先にやったあの勤評でございます。

この日教組退治こそ、私の全政治生活を通して、私自身が自慢できる最大唯一のものであ ったと思うのでございます」(近代史文庫史料委員会「勤評闘争研究グループ」 1987:6-7) との発言に注目して、勤評闘争を余儀なくした勤評政策の目的は「日教組退治」にあった としている (佐々木 1988:378-379)。このように勤務評定の実施には、自民党による日教組 対策としての意図が内包されていたということである。

なお、勤務評定の意図が日教組対策にあったとする白石春樹自民党県連幹事長の発言に は、次のような事情が絡んでいる。「自民党県連は、久松知事が26 年(1951年;引用者)の 選挙で革新陣営に推されて出馬、当選したさい(知事は30(1955年;引用者)年選挙で自民党 に変わった)選挙に功績があった教員の一斉2号昇給を行なったことが、赤字財政の大きな 原因となったと考え、また参院選挙のたびに自民党が苦杯をなめたのは教組の選挙活動の ためだとして勤評を教組対策として重視していた」(毎日新聞社会部 1959:328)。つまり、

勤務評定が日教組対策として実施された背景には自民党による選挙対策としての側面があ ったということである。それゆえ、日教組対策としての勤務評定が意図されたわけである。

勤務評定の実施が自民党による日教組対策として意図されていたのではあるけれど、勤 務評定は自民党のみで推し進められたわけではない。自民党は勤評実施に大きな役割を果 たしたのではあるけれど、愛媛県内においても勤評実施の体制は次のように整えられてい た。勤務評定の実施を決定した久松愛媛県知事は、「教育長に自分の直系で自民党県連にも うけのよい県商工労働部長大西忠氏をすえ、教育委員もいままでの教組系を除き保守系の 顔ぶれをそろえた」(毎日新聞社会部 1959:327)。久松が任命した教育委員について、近代 史文庫史料委員会「勤評闘争研究グループ」(1987)は次のように紹介している。「教委の委 員長に選ばれた竹葉秀雄は、国粋主義者安岡正篤の高弟で、“日教組は日本の教育を破壊す る元凶である”という固い信念をもち、“自分が委員長になれば大きな紛争が起こるがよろし いか”とダメをおしたという」 (近代史文庫史料委員会「勤評闘争研究グループ」 1987:6)。 このように愛媛県内において、教育対策・選挙対策を背景とした日教組対策としての勤務 評定実施に向けた久松及び県教委の体制が整備されていったのである。

1950年代後半に巻き起こった勤評闘争の発端の地である愛媛県下の勤評闘争は、選挙対

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13

策や教育対策が混在した日教組対策として、自民党と愛媛県教育委員会によって推し進め られていったのである。

以上の勤評闘争に対する先行研究の知見は次のように整理できよう。すなわち、第一に 勤評闘争とは政治闘争であったということである。第二に勤務評定実施側の中心的な主体 として着目すべきは、自民党及び愛媛県教育委員会であった。もちろん、文部省や都道府 県教育長協議会も勤評実施側に属すると考えられるけれど、後に見るように文部省や都道 府県教育長協議会の勤評政策は、自民党からの協力要請に起因している。したがって、勤 評実施の中心的な勤評実施側の主体を理解するには、まず自民党と愛媛県教育委員会に焦 点が当てられなければならない。第三に、自民党と愛媛県教育委員会の勤評実施の意図は、

日教組対策にあったということである。それゆえ、勤評実施側の見る主たる対象は日教組 であった。

次に1950年代後半に勃発した勤評闘争から約半世紀後に登場した勤評に代わる1990年 代後半以降の教員評価制度に対して、先行研究がどのような評価を下していたのかを確認 していこう。

2-2 現代

現段階までに教員評価制度に対してどのような研究がなされ、どのような評価が下され ていたのか。主な先行研究としては、佐藤・若井(1992)、佐藤・坂本(1996)、堀尾・浦野(2002)、 元兼・八尾坂(2004)、佐藤(2004)、勝野(2004)、八尾坂(2005)、露口(2005)、藤田(2005)、

古賀他(2006) 苅谷・金子(2010)などの研究があげられる。これらの研究は、諸外国の教員

評価制度に関する研究や国内において先行実施した都道府県に関する研究、さらには、教 員評価制度に関する調査票調査に分類できる。なお、調査票調査では、主に校長と教師に 対して教員評価制度に対する意識や態度を考察している。また、これらの先行研究は、日 本と諸外国を対象にしながら、各都道府県に対して制度の課題や改善のための提言を言及 している。これらの中でも、特に、先行実施された東京都、A県、B県、大阪府については、

何が述べられてきたのか。以下では、上記 4 都府県に関する先行研究を中心に触れてみた い。

まず、東京都の教員評価制度の効果を探った研究がある。浦野(2002)では、教育の課題に 対して「今日必要なアプローチは、教職員、子ども、保護者、さらには住民の間のコミュニ ケーションを活発にして、教育上の問題と課題をこれらの『当事者』が共有し、協力しあ

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14

うことではなかろうか」(浦野 2002:149)という観点から、東京都の校長と教師に対して教員 評価制度の導入後の意識ついて考察を試みている。

東京都の公立学校の小学校・中学校・高校の校長2280人と教師1332人から得られた回 答を集計した結果、「人事考課制度によって、教師のもっと頑張ろうとする意欲が高まって いる」と感じる小学校の教師は 1 割以下であった。また、「人事考課制度は教師の専門的な 力量の向上(職能成長)に役立っている」と感じる小学校の教師も1割以下であった。「人事考 課制度は、学校経営の改善に役立っている」と感じる小学校の教師についても、やはり1割 以下であった。この結果から、「『教師の意欲(モラール)の向上』と……『教師の職能成長』

とは人事考課制度の主要な目的のはずであるから、この数値から判断すれば、東京都の人 事考課制度は目的を達成していない(あるいは失敗である)ということにな」り、「学校改善 (改革)の弊害となる恐れがある」 (浦野 2002:171-181) と指摘する。

また、勝野(2004)も制度の効果について論じている。勝野氏は「『制度としての評価』の 批判的な検討を行いつつ、教師の教育専門家としての成長のための評価の理論を探求する こと」、「教員評価制度、さらには学校評価に子ども、父母・保護者、地域社会がどのよう に関わるか」という問題意識から教員評価制度の考察を試みた。その結果、上述した浦野

(2002)の東京都の校長と教師に対する調査票調査を用いて、「教師の資質能力の向上につい

ては効果を認めることはできない」(勝野 2004:30)と指摘している。さらに、浦野(2002)の 調査票調査の自由回答欄から、「校長自身が評価に自信が持てないでいるのである。このこ とは、評価者訓練の改善という問題を浮かび上がらせるだけではない。評価基準を中心と して、制度そのものの根本的な再検討がなされなければ、たとえ評価結果の本人開示が行 われ、異議申し立て制度が整えられたとしても、東京都の教員人事考課制度が目的として いたような効果を生じさせることは困難であると言えるだろう」(勝野 2004:31」とも指摘し ている。

以上のように、浦野氏と勝野氏は、東京都の教員評価制度の効果について、制度の導入 による教師の能力や意欲の向上はみられないと述べている。

さらに、教員評価制度の弊害を指摘する研究もある。藤田(2005)は、教員評価制度につい て、「成果主義的・管理主義的な評価制度を導入することが当然と見なされるようになりつ つある。……いま一度、思い込みや偏見を排し、誠実かつ十全に検討すべき重要な問題で

ある」(藤田 2005:134)として教員評価制度の検討を試みる。藤田氏は教員評価制度に対する

弊害を次のように指摘する。その弊害とは、協働性の低下である。藤田氏によると、「教師

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15

は一人で教育活動に当たっているわけではない。学校運営や教科指導は個々の教師が個別 的に責任をもっているとはいえ、学校行事や特別活動はもちろん、学級の活動レベルや雰 囲気にしても、学校全体の活動レベルや雰囲気にしても、全教員の協力・協働によって支 えられている。また、学級運営や教科指導にしても、教科担任制の中学・高校などでは、

各教科の教師が同じクラスの生徒の教育・指導を協働的に行っている。学級担任制の小学 校でも、当該年度の児童の学習・学業態度や学級・学年の活動レベル・雰囲気などは、前 年度までの教師の指導に大きく依存している。例を挙げればきりがないが、そのように学 校づくりも教育実践も、同僚間の相互信頼と協力を前提にして、協働して取り組むべき、

共同の営みである。成果主義は、そうした同僚性・協働性・共同性の基盤を分解し、その レベルの低下を引き起こす危険性が極めて大きい」(藤田 2005:138)と指摘する。さらに、人 事考課制度は「個人主義的で、教師の協働性の基盤を掘り崩す可能性が強い」、また、「管 理主義的で、教師の専門性と主体性・自律性を歪め、自由闊達な教師文化の展開を抑制す ることにもなりかねない」(藤田 2005:139-140)と指摘している。

藤田氏のいう「成果主義的・管理主義的な評価制度」とは何なのか。藤田氏によると、「管 理的評価は、組織の運営やその事業・活動の効率性・卓越性・円滑さの確保・向上を目的 として、成員の活動(職務遂行)とその成果を評価し、統制しようとするものである」(藤田

2005:134)としている。そして、成果主義的評価については、「管理的評価は、外発的な動

機づけを重視し、評価結果を実利的な報酬面での処遇(給与や昇進等)に反映させることにな りがちである。つまり、成果主義的・能力主義的な評価・処遇になりがちである」(藤田

2005:135)としている。このように、藤田氏のいう成果主義的な評価制度とは、評価結果を

処遇に反映させるものを意味しているようである。そうすると、多くの都道府県や政令指 定都市での評価制度は、評価結果を処遇へ反映させようと設計中あるいは実施中であるの で、成果主義的な評価制度といえる。

また、苅谷・金子(2010)は、「成果主義や教員管理の発想から出発した評価制度は、教員 を個人としてとらえようとする傾向がある。しかし、教員の力量形成を主たる目的にする のであれば、そこには同僚性といった集団性を基盤にしつつ、教員の仕事には、個人の側 面と組織の側面の二つが分かちがたく結びついていることを考慮に入れなければならない」

(苅谷・金子 2010:188)とも指摘している。このように、成果主義的な教員評価制度が協 働性の低下をもたらすという指摘がなされている。この指摘は重要である。常に、協働性 の低下を視野に入れながら制度設計をすることは欠かすことができないだろう。

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16

以上の先行研究は、もっぱら教員評価制度の陰の側面を指摘していたが、光の側面を指 摘する研究もある。

八尾坂(2005)は、「人を評価することは難しいことであるが、自ら気づき省みる機会を与

える健全なプレッシャーのもと、自己変革能力を求める人事評価は期待されてくる」という 問題意識から、東京都と大阪府の都府レベルで制定された運用方法を考察している。その 結果、八尾坂氏は、教員評価制度について次のように指摘している。「人事評価における合 目的性、公平・公正性、客観性、透明性、納得性の 5 原則は不可欠な要素であるが、やは り効果的に運用する心得を無視できない。校長・教頭が教師一人ひとりとの対話を通じて、

個々のよさを認め、生かし励ますといった支援的コミュニケーションを取り入れ、しかも 親和的雰囲気(学校文化)を構築できるかどうかによって、自己申告の機能も変容してこよう。

教師の微妙なメンタリティーへの配慮がものの言い方にも求められてくる。管理職の力量 として、『部下である教職員を感じさせ、動かすシンボリックでしかも人間味のある変革的 リーダーシップ』の発揮いかんで、この人事評価制度自体が諸刃の剣となることもあり得

る」(八尾坂 2005:499)。他方、2003年に先行実施されたA県とB県の教員評価制度に関する

研究は乏しいと言わざるを得ないけれど13、B県の評価制度について、古賀他(2006)は「制度 運用の態様をそのプロセス全体を通して詳細に抉り出し、改善に向けた具体的課題までを も考究しよう」との観点から、公立学校長に対して調査票調査をおこなった。その結果、B 県の教員評価制度において、面談時間の確保、評価者訓練、客観性・公平性な評価という 課題を指摘しつつも、校長が学校改善への寄与におおむね肯定的であったことから「一定 の意義を見出すことができよう」 (古賀他 2006:39-57)と指摘する。このように八尾坂氏や 古賀氏らは、制度の課題を認識しつつも、健全なプレッシャーや学校改善への寄与という 点で一定の意義を指摘している。

以上の先行研究では、都道府県レベルで制定された教員評価制度の大まかな実施形態や 校長と教師の意識・態度の把握を通じて制度の意義や懸念・弊害が指摘されてきた。これ らの研究のように、都道府県レベルで制定された制度の実施形態や学校現場の校長や教師 の意識・態度を把握することは、制度を改善し構築するうえで欠かすことはできない。た とえば、上記の先行研究からは、評価結果の開示や苦情処理の整備、労使協議、評価者訓 練、面談時間の確保、管理職と教師の親和的なコミュニケーション等の必要性が導き出さ れている。このように教員評価制度の改善に対して様々な指摘がなされているわけである。

13 ここで挙げた先行研究やいくつかの雑誌の中で断片的には語られているに過ぎない。

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17 2-3 評価技術論的矮小化

以上、勤評闘争期および現代に関する先行研究を見てきた。これらの先行研究の帰趨は、

結局のところ評価技術の問題であった。つまり、教師を評価することに対する困難性が常 に議論され続けており、それゆえ、どのように教師を評価するかという評価の技術論が存 在するということである。

勤評闘争期を論じた高橋(1996)は次のように述べている。「教員の職務の特殊性をめぐる 側面」については、「教員の職務には特性があることは事実であるが、公務員や民間企業の 労働者にも多種多様な職務があり、それぞれに特性を有しているが、特性をふまえた勤務 評定ないし人事考課がおこなわれているのである。すなわち、教員の場合に勤務評定がと くに不可能であるとは、人事考課の理論においては認められないのである」(高橋

1996:23-24)。さらに、「勤務評定そのもののもつ困難性」については、「完全無欠な勤務評

定制度は望みえないとはいえ、多数の人間からなる組織を、組織目的にしたがって管理し ていくためには、個々人の勤務成績についての評価をおこなわないではすまされない。し たがって、評定要素、評定方法等を工夫することによって、より妥当で客観的な評定がお こなわれるようつとめていくほかない」 (高橋 1996:23-24)。また、若井(1996)も「実践的 あるいは事務的にみても、勤務評定はその結果が教員の人事異動に必ずしも十分に生かさ れているとはいえず、『科学的人事管理』への寄与という観点から、評定結果の積極的活用 のあり方が検討されなくてはなるまい」(若井 1996:54)と論じている。現代の教員評価制度 下の教師に対する評価についても、「現行の勤務評定(教員評価)の内容・方法等の技術的 合理化に向けて改善への努力が要求されるであろう」 (坂本 1996:38)という指摘や「学校 教育目標の決定や教育計画の作成など、学校経営の主要事項の決定に教員の参加」や「豊 富な知識と経験に裏打ちされた高度な専門性に基づく指導・助言能力」の必要性 (高橋

2005:277-278)が指摘されている。苅谷・金子(2010)もまた、「評価項目をめぐる解釈の余地

という問題」を指摘している(苅谷・金子 2010:186-187)。

このように評価技術に関する多くの議論が展開されているわけである。これらの議論は、

評価の困難性ゆえに評価に対する教師たちの抵抗があるという考えを前提としている。苅

谷・金子(2010)は、評価されることへの「現場教師たちの抵抗感の源泉」が「評価制度が前

提とする能力観とは異なる能力観を持つ」(苅谷・金子 2010:178)ことだとしている。能力 観の相違は教師たちの抵抗の一つの要因にはなりえよう。したがって、教師に対する評価 の困難性は疑いの余地はなく、評価技術の議論は評価を実施する上では欠かせない議論で

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あろう。しかし、評価技術の問題は、闘争が生じた核心ではなく、周辺的位置づけに過ぎ ないのではないか。もっと言えば、評価の困難性が技術に起因したものであるとの前提は 少々疑ってみる必要があるのではないか。評価技術の問題は査定が常識化している民間企 業でさえ、未だに評価技術の問題を論じている14。ここに、教師たちの評価に対する抵抗は そもそも評価技術の困難性ゆえに生じるのであろうか、という疑惑が浮上するのである。

民間組織の歴史を見てみると、楠田(2004)によれば、査定をめぐる議論のなかで査定導入 を阻止しようとする労働組合が現場労働者からの突き上げに合っていたとされる(楠田

2004: 124-132)。つまり、現場の労働者たちが評価を欲していたのである。これは評価され

ないことに対する現場労働者たちの不満が契機となり、査定導入を推し進めたことを意味 する。したがって、評価のあり方は、現場労働者たちからの査定要求がまず存在し、査定 導入→技術問題という順序で展開したといえる。

一方、教師たちに対する評価をめぐる問題を技術論的に論じる先行研究を図式化すれば、

技術問題→査定導入という順序になる。評価の技術的問題が解決されない限り査定を導入 できないという構えでは、教師たちの評価への抵抗を正しく理解できないのではないか。

教師に対する評価の困難性を技術的問題と捉えることは、教師たちの評価への抵抗の理解 を歪曲かつ矮小化することになるのではないか。教師たちの評価のあり方の技術問題→査 定導入という順序は、建前として存在しているに過ぎないのではないか。民間組織の出発 点が査定要求にあったけれど、教師たちの出発点は技術問題以外の何物かにあったのでは ないか。このような教師たちの評価に対する抵抗を技術論的に論じることに対する疑惑が 先行研究を検討することによって浮上するのである。

3 目的と方法

3-1 目的

評価されることに抵抗する教師たちに対する先行研究の見方は、簡潔に言えば、教育ま たは教師を評価するのは困難なので抵抗が生じる、というものであった。ここで言う困難

14 高橋(2010)のまえがきが面白い。「人の評価は難しい。……第一生命が毎年募集している『サラリーマ

ン川柳』でも評価はかっこうのネタだ。たとえば、『いい評価 思っていたら E評価』(平板人)とか、

『自分でも 出来ぬ目標 出す上司』(小天)とか。サラリーマンにとって、評価にまつわる悩みは奥深

い」(高橋 2010:)と論じている。民間企業でさえも評価のあり方は未だに課題であり続けているとい

うわけである。

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の意味とは「技術的に」ということである。確かに教師の仕事の成果や能力を測定し評価 することは困難であろう。評価が困難であるにも関わらず、評価しようとするから教師た ちの抵抗が生じるとされている。では、学校組織においても企業組織においても評価の難 しさを抱えているにも関わらず、どうして評価の有無が生じるのだろうか。企業組織の場 合、先に見たように現場労働者たちが評価してほしいという思想を有していた。この評価 してほしいという思想の有無が、評価の有無を決定づける契機となるのではないか。

では、人々の思想と評価という制度とはどのような関係にあるのだろうか。Berger &

Luckmann(1966)によると、制度が制度たり得る仕組みは次のようである。「人はそれら(制

度;引用者)が機能しているという理由からではなく、それら(制度;引用者)が正しいとい う理由からある行為に確信をもつ」(Berger & Luckmann 1966:118)と述べている。要す るに制度を支えているのは人々の制度に対する正当性にあるということである。思想と評 価との関連で言えば、評価することに対する正当性を有する思想なしには評価が制度化さ れないということである。事実、先に見たように、企業組織において、職能給が導入され る際、組合側は抵抗していたけれど、現場労働者たちからの評価を是とする突き上げに合 い、職能給が拡大していくこととなる。それが企業組織の評価をめぐる歴史であった15

また、Berger & Luckmann(1966)は制度に対する機能主義的解釈の弱点についても述べ

ている。この点は面白い。すなわち、「制度に対する機能主義的解釈の弱点は……現存しな い実用性を求めようとする傾向にある」(Berger & Luckmann 1966:203)。これまでの評 価と昇給との結合をめぐる教師たちの抵抗については、評価の有無に対する効果、危険性、

とりわけ、評価技術の困難性という機能主義的解釈に偏り過ぎていたといえる。

評価されることに対する教師たちの抵抗は評価の技術的問題に由来するものではなく、

実は現場教師たちの評価制度に対する正当性の欠如に由来する。このような知見を得て、

本研究は評価に抵抗する教師たちの情感16を研究の焦点に据えるに至った。

筆者の関心はこれに留まらない。もう一歩進んで、評価されることに抵抗する教師たち の情感がどのように形成されているのかについても解明したい。では、情感の形成を検討 するにしても、情感形成という掴み所のなさそうな事柄にどのように接近すればよいのだ

15 楠田(2004)pp.124-132を参照。

16 本研究で使用した情感という言葉は、Elias(1939=1977,1978)が情感を使用していたことに倣っている。

他に適切な言葉があるかもしれないけれど、本研究ではひとまず情感を使用することとする。なお、

Elias(1939)には「Affekt(afέkt)という「激情」「興奮」を意味する言葉が使用されていた。本研究で 使用した情感という言葉においても「激情」や「興奮」といったニュアンスが含まれている。

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ろうか。そのヒントはElias(1939)にあった。Elias(1939)は人々の情感の変容とその情感を 形成する組織構造の変容との整合関係を見事に描いた作品である。この作品では、人々の 相互依存関係の網の目が張り巡らされた組織構造が人々の情感を形成する様が描かれてい たのであった。組織構造こそが情感を形成するものの正体というわけである。したがって、

本研究は組織構造の変容と情感の変容とを描くまでには至らないけれど、評価されること に抵抗する教師たちの情感の形成を検討する際、学校の組織構造に着目することとした。

すなわち、本研究の目的とは、評価に抵抗する教師たちの情感がいかに形成されている のかを明らかにすることである。

3-2 方法

本研究の目的は評価に抵抗する教師たちの情感がいかに形成されているのかを明らかに することであった。以下、この目的を達するためにいくつかの課題を設定し、その課題へ の接近方法を示すこととする。主として、ドキュメント分析及びインタビュー調査を行っ ている。

第一の課題は、勤評実施側から見た愛媛勤評闘争を描くことを通して、勤評実施側がど のように勤評の実施を展開したのか、勤評実施側の目には何が映り何が映らなかったのか を明らかにすることである。この課題には中心的な資料として自民党の極秘・秘密文書と 愛媛県教育委員長の著書を分析することで接近する。先行研究が明らかにした勤評闘争の 発端である愛媛勤評闘争の勤評実施側の主な当事者は、自民党と愛媛県教育委員会であり、

その意図は主として日教組対策にあった。この理解で満足してよいのであろうか。答えは 否である。勤評実施側の中心的な主体やその意図は見えてきたのだけれど、教師たちから の激しい抵抗に直面しながらも、どのように勤務評定の実施を推し進めていったのかまで は見えてこない。勤評闘争の実施側に対する研究の弱点とは、愛媛県の勤評闘争において どのように勤評を推進していたのかが詳細には描かれていない点に他ならない。勤評実施 側の勤評実施の展開がぼやけているのは、これまでの研究が教組側の視点から勤評実施側 を捉えていたことに起因しているのではないか。激しい教師からの抵抗にもかかわらず、

何故に勤評実施側は勤評実施に邁進し、どのように実施を推し進めていたのかは、勤評実 施側の視点を持たねば見えてこない。勤評闘争の発端の地域ではどのように勤評の実施が 展開されていたのかを鮮明にする必要がある。その上で勤評実施側の目には何が映り何が 映らなかったのか、つまり勤評実施側の視角と死角とを検討する。

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第二の課題は、現場教師から見た愛媛勤評闘争を描くことによって、現場教師たちの勤 評に対する抵抗とは何であったのかを明らかにすることである。この課題には、中心的な 資料として愛媛勤評闘争下の現場教師たちの手記を分析することで接近する。勤評闘争の 経緯を眺めると、勤評闘争は政治闘争であったと言うことは可能である。また、その側面 は多分に有していた。勤評闘争に対する日教組の運動には、「平和」、「自由」、「権力統制」、

「反動教育」、「戦争」、「民主主義」、「民主教育」といった言葉が頻繁に登場する。勤評闘 争が政治闘争的性格を帯びていたからである。勤評闘争の一側面を見ると、政府や文部省 と日教組との熾烈な政治闘争に映る。しかし、先行研究からは、勤評闘争下において勤務 評定に抵抗する現場教師たちの姿が詳細には見えてこない17。この闘争の内部はどのような 様相を呈していたのでろうか。現場の教師たちはどのように抵抗していたのだろうか。ま た、どのような苦労を抱えていたのだろうか。現場の人間模様が見えてこないのである。

したがって、これまで十分に検討されることのなかった現場教師の視点から、勤評闘争を 捉える試みがなされなければならない。この現場の教師たちの勤評への抵抗の源泉―換言 すれば、教師たちの抵抗の動機―を捉えなくては、教師たちが何故に抵抗していたのかが 分からない。また、勤評に抵抗する教師たちの理解に到達することができない。

第三の課題は勤評実施側から見た勤評闘争と現場教師たちから見た勤評闘争とを俯瞰す ることによって、勤評実施側の推進した日教組対策としての勤評闘争に意味を付与するこ とである。勤評闘争に対する研究には次の点が不足していた。その不足とは勤評実施側の 意図が日教組対策にあったというのは事実の描写に過ぎず、日教組対策としての勤務評定 には何ら意味の付与がなされていない点である。それは日教組対策としての勤評実施を展 開した勤評実施側を彼らの視点にまで降りたって見ようとはしてこなかったからではない か。また、現場教師たちの抵抗についても彼らの視点にまで降りたって見ようとはしてこ なかったからではないのか。したがって、日教組対策としての勤評実施の意味は、勤評実 施側及び現場教師側の両面から見た勤評闘争を描いた上で付与することとしたい。

第四の課題は、勤評闘争期に生じた教師を評価に対する抵抗が現代にもなお継承されて いるのかを確認することである。この課題には、過去の勤務評定に代わる現代の新しい教 員評価制度を先行実施した地域の教師たちに対する調査票調査の結果を参照して接近する。

17 なお、教員組合代表者の視点から勤評闘争を見た著書として、内田(1979) 、望月(19761980)木村

(1996)が挙げられる。これらには、組合代表者たちがどのように闘争に参加し、どのようなものの考え方

をしていたのかが記されている。しかし、組合の代表者ではない学校現場の普通の教師たちがどのように 抵抗し、どのように勤評闘争を捉えていたのかについては、十分に記されているとは言えない。

参照

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