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鍵屋六之丞考

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鍵屋六之丞考

著者 籠谷 次郎

雑誌名 新島研究

号 101

ページ 3‑22

発行年 2010‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012997

(2)

はじめに

一 新島研究ととみの実家 二 韮塚一三郎氏の所見 三 鍵屋の系譜  四 中山道浦和宿と鍵屋 おわりに

はじめに

 本稿は近世新島研究の一課題として述べる小論である。主題となる「鍵 屋六之丞」と言っても、どのような人物か、また新島研究とどうかかわる のか、疑問や戸惑いを感ずる方も多いと思われる。これまで新島研究のな かでは、まったくといってよいほど登場していないからである。しかし、

「中田六之丞」といえば思い出すであろう。新島七五三太(襄)の母とみの 父(中山道浦和宿在住)であることを。

 さきに私は、中田六之丞は正しくは鍵屋六之丞であり、同家の中田姓は 明治に入ってからの姓であることを述べた1)。とみの夫新島民治が記した

「新島家祝物到来覚帳」(記載事項は天保3年−慶応2年)2)、同じく民治が 記した新島家「過去帳」3)による。前者には、彼は鍵屋六之丞、浦和宿鍵 屋六之丞、単に「浦和」とも記され、没(天保12年2月8日)後、相続の 金蔵は浦和鍵屋金蔵と記されている。慶応3年12月24日付け七五三太のと み宛書簡に「浦和のおぢさんは如何御座候哉」と機嫌を伺う一文がある4)。 金蔵のことである。後者では、彼の死を「天保十二年辛丑二月八日 俗名

籠 谷 次 郎

(3)

鍵屋六之丞    行年七十二才 武州浦和宿玉蔵院葬」と記す。後述するよう に同家は近代文書には中田姓で登場し、近世文書には鍵屋の名で登場して も中田姓での登場はない。とみの実家は正しくは鍵屋、父を鍵屋六之丞と する所以である5)。  

 しかし、前稿では研究上、中田説がどのようにして生まれ、定着したの か。また考察として必要な鍵屋の系譜、浦和宿での住まいの様子等につい ては触れなかった。本稿は研究史に学びながら、これらについて述べるも のである。

一 新島研究ととみの実家

 これまで新島研究のなかで、とみの父、とみの実家はどのように述べら れてきたのか。いくつかの説があるので、まずその推移についてみておこ う。おおまかにみて、二つの見解があった6)

 初期の見解は、とみの実家は中山道浦和在の蕨村といわれ、家業は半農 半商(藍玉、紺屋)とする。姓への言及はない。同説は根岸橘三郎『新島 襄』(大正12年)7)にみる見解である。同書は一部とはいえ新島家所蔵史料 を用いての新島傳であったことから、同説は長く継承された。湯淺與三

『新島襄小傳』(昭和11年2月)8)、湯淺與三『新島襄傳』(昭和11年9月)9)、 鑓田研一編『新島襄 人生読本』(昭和13年)10)、砂川萬里『新島襄・本多 庸一』(1965年)11)、鑓田研一編『新島襄 わが人生』(2004年)12)にも見え る。長期にわたり人びとの目に触れたはずである。

 次に登場したのは、とみは「武蔵国足立郡浦和宿中町 中田六之丞女

「穀物問屋」兄弟四人 男三人末子」「中田氏は浦和に於て、相応の身代な

り、人望家。」とする説である。森中章光「新島家の家系」(昭和30年)13)

にみる説である。同氏の最初の著作である『新島襄先生』1巻(昭和12年)

では、さきの根岸説に疑問を呈しており14)、氏はとみの出自について早く から関心をよせていたことがわかる。同説の根拠は、襄没(明治23年1月 23日)後の明治23年6月9日、とみ(84歳)が自分の経歴について新島家 の相続者公義に語った「とみの口述」15)である。

(4)

 森中氏が依拠した同口述は、公義が記した「新島家起原」とともに、か つて同氏が新島(得夫)家で書写したもので、書写ノートの判型(洋式ノー ト、ニットー 規格B6)から昭和10年代後半の採集と思われる。森中氏 は、昭和15年(1940)ごろから同17、18年をピークに関東・関西を中心に 新島関係史料の収集をおこなっており16)、このころ新島家で採集(書写)

したものと思われる。「新島家の家系」はこれらを史料に作成、発表された ものである。新島研究史上、とみの実家についての最初の考察である。

 以降、とみの父は「浦和宿中町中田六之丞」とされ、やがて同家中田姓 が定着する。定着へ大きな布石となったのは森中章光編『改訂増補新島襄 先生詳年譜』(昭和34年)である。同書は、とみを「浦和中町中田六之丞長 女」と記す17)。同書元版の『新島襄先生年譜』(昭和17年)ではとみの出自 についてはふれていないので18)、『改訂増補新島襄先生詳年譜』の同記載は

「とみの口述」を踏まえての補訂であったことがわかる。やがて1980年代 以降、中田姓は定説となり、現在にいたる。『新島襄全集』5巻(1984年)19)、 同3巻(1987年)20)、同8巻(1992年)21)、『現代語で読む新島襄』(2000年)22)、 本井康博『新島襄と建学精神』(2005年)23)のほか、とみを研究対象とした 韮塚一三郎「同志社の創設者新島襄の母 とみ」(昭和60年)24)、関口徹「同 志社創立者新島襄とその母浦和仲町生まれの『中田とみ』について」(2001 年)25)、関口徹「新島襄の母とみの『口述』を改めて聴く」(2007年)26)、関 口徹「新島襄の母とみと信州中之条代官荒井平兵衛」(2008年)27)において も、とみは「中田とみ」の名で登場する。

 史料上、とみの実家を中田とするのは「とみの口述」だけではない。

(1)明治4年(1871)作成と推定される新島家家族書上28)、(2)明治11 年8月作成と推定される家族書上29)、(3)明治29年1月10日、新島公義筆

「新島冨子ノ略履歴」30)にも見える。(1)は、とみの名を「登美」と記し

「武蔵国足立郡浦和県御支配所 同所中田六之丞末女」とし、(2)は同じ く「登美」と記し「武蔵国足立郡浦和宿農 中田六之丞亡長女」とする。

ここでは家業を「農」とするが31)、中田姓であることにかわりはない。

(3)は、とみ葬儀に際し記されたもので、とみの名を「冨子」と記し「中 田六之丞ノ長女」とする。

(5)

 「とみの口述」を含め、これらはすべて明治期の記載である。これらを根 拠に近世にまでさかのぼり、同家を中田とするのは早計である。近世農民 町人社会においても私的に苗字を持つ人は少なくない。苗字はほとんどの 人が持っていたという意見もある32)。しかし、とみの実家は、現在のとこ ろ、近世文書でみる限り鍵屋六之丞、六之丞没後は鍵屋金蔵、また後述す る弘化年間浦和宿並絵図では「鍵六」の名で見えても、中田姓では見えな い。私がこだわるのはこのためである。史料は一次史料によることが望ま しい。

二 韮塚一三郎氏の所見

 「とみの口述」を否定するもの ではない。同口述は、とみが自ら の履歴を語った数少ない貴重な記 録である。しかし、語ったのは明 治23年、新島家が江戸を離れてす でに23年の時が過ぎていた。明治 維新を経て国家の制度もかわり、

人びとの生活も大きくかわってい た。人の記憶には、過去の記憶を 新しい記憶の中で語ることがあ る。よくあることである。

 しかし、研究上「とみの口述」

と は 別 に、 中 田 家 は 寛 保 年 間

(1741−1744)、明和年間(1764−

1772)には存在し、のち中田家は 鍵屋を名乗ったとする見解があ る。前述韮塚一三郎氏の見解であ る。地元(浦和)史料を用いて、

此本紙

中奉書半切

而御座

浦和宿中

伝十郎殿

宮崎写

置者也

郎殿事也

鹿嶋大神宮

内ノ木

寛保 壬戌十

月 

是ハ修

除に何

穀不実皆流

︵前略︶

穀成就

史料1 鹿嶋神主寺之事

注 宮崎喜六編『短才見聞録』(『浦和市史』3巻   近世史料編Ⅰ.61頁)。

(6)

史料2『短才見聞録』にみえるという玉蔵院絵図

清兵衛

平兵衛兵衛

勘右衛門

弥五

善兵衛釜屋十兵衛

彦四郎 忠次郎又四

善五郎

注 玉蔵院内の建物名は二つの門以外は省略。  

  韮塚一三郎「同志社の創設者新島襄の母    とみ」掲載。

又四

五兵 黒門

上  中仙道 往還  

裏門

西

(7)

とみを中心に同家を論じた考察であり、学ぶべきことが多い。

 韮塚氏によると33)、(1)「中田家」の菩提所は中山道浦和宿玉蔵院で、

明和3年(1766)同院家老宮崎喜六が「日毎月毎」に見聞したことを記し た『短才見聞録』34)に中田伝十郎、中田善五郎の名が見えるとし、この両 人を重視する。史料1の記載である。これをどう読むか。氏は寛保年間

(1741−1744)に中田伝十郎の名が、明和年間(1764−1772)に中田善五郎 の名が見えるとし、この両人を六之丞の祖とみる。疑う余地がないという35)

(2)中田家は「鍵屋」と称し、米穀問屋を営んでいたという。氏は中田家 が「鍵屋」と呼んだ時期はわからないとするが、善五郎の時代にはすでに

史料3 弘化年間玉蔵院門前図

上州屋治助呉服店 小金井庄吉 大和屋太郎 質屋文   下寺大門 尾張屋弥郎料理店 油喜菓子店 会津屋藤次郎綿商 丸惣穀問屋 恵比屋弥吉豆腐商

亀料理店 喜三郎 武蔵團子 煙草店 穀問屋商 足立屋女郎見世 内屋庄

薬師店 上州屋友

郎荒物店 明屋敷 湯屋茂吉

玉蔵院

注 韮塚一三郎「同志社創設者新島襄の母 とみ」および本文注36)小島論文掲載の   弘化年間浦和宿並絵図(ともに影印版)から作成。

︵中山道

(8)

「鍵屋」を名乗っていたという。『短才見聞録』が別途掲載する玉蔵院絵図 に、玉蔵院門前街道向かいに「鍵屋善五郎」の名が見えるとし(史料2)、

これに拠り同所を中田善五郎(鍵屋善五郎)の住まいとみる。(3)さらに くだって、弘化年間浦和宿並絵図(1844−1848)36)に、さきの玉蔵院絵図 にみる同じ位置に「鍵六穀問屋商」の名がみえることから(史料3)、重ね て中田家鍵屋を提示する。以上が韮塚氏が述べる中田家鍵屋説の説明であ る。 

 しかし、同説明には疑問が多い。(1)寛保年間に見えるとする中田伝十 郎、明和年間に見えるとする中田善五郎が、なぜ六之丞の祖といえるの か。説明はない。(2)中田伝十郎と中田善五郎の続柄も明らかでない。

(3)氏は『短才見聞録』の二つの記録(史料1・2)から中田善五郎を鍵 屋善五郎とみる。これが中田家と鍵屋を結ぶ重要な論拠となっている。し かし、氏が依拠した玉蔵院絵図の同箇所の文字は読みづらく、『浦和市史』

も読みに苦慮した箇所である37)。同箇所は「鋤や善五郎」と読めても「鍵 や善五郎」とは読みにくい38)。(4)史料上、鍵屋が米穀問屋と確認できる のは、現在のところ、「鍵六穀問屋商」と記す弘化年間浦和宿並絵図である

(史料3)。明和期の人物とみる善五郎と同絵図とは約80年の隔たりがあ る。米穀問屋は「明和年間」にまでさかのぼることができるかどうか。断 定には、なお,いくつかの中間項が必要と考えるが、どうであろうか。疑 問が残る。

三 鍵屋の系譜

 中田家を玉蔵院の有力檀家とみる韮塚氏は、玉蔵院の過去帳に見える同 家の人びとを紹介している。貴重な紹介である。紹介は、(一)原文引用箇 所と(二)説明箇所にわかれる。

 (一)六之丞と彼の父母について。

   享和三癸亥年五月十七日     鍵屋六之丞親

     七十一歳

(9)

    俗名伝兵衛事    右伝兵衛父ハ九十七歳      存命中

     母九十三歳ニテ      存命也

   楽定頓円清信士

 ここからわかるのは、(1)鍵屋六之丞の父は伝兵衛、享和3年(1803)

5月17日に死亡、71歳。法名は楽定頓円清信士。(2)伝兵衛の父母の名は 記されていないが、同年(享和3年)父は97歳、母は93歳。ともに存命で ある。

 (二)説明箇所は、紹介を要約すると、(1)六之丞の妻(とみの母)は 文政12年4月2日に死亡。(2)六之丞の子は鍵屋金蔵。(3)金蔵の妻は 嘉永4年正月11日に死亡。(4)金蔵の死は明治6年9月21日という。

(5)金蔵没後の同家には「鍵屋」の呼称を用いての記載は、過去帳には見 えないという。(6)明治9年9月9日に中田富蔵という者が死亡。韮塚 氏は金蔵の子とみる。(7)以降、同過去帳に同家の記載はない。不明とい う。

 ここから何が読みとれるか。若干の新島家文書を加え、鍵屋の系譜を作 成すると、図1のようになる。伝兵衞の父は宝永4年(1707)生まれ、つ づく伝兵衞は享保18年(1733)生まれ、六之丞は明和7年(1770)生まれ であることがわかる。鍵屋では伝兵衞の父から金蔵まで、時期にして宝永 4年(1707)から明治6年(1873)まで約170年、伝兵衛の父、伝兵衛、六 之丞、金蔵の四代続いたことがわかる。すべて鍵屋の名で記され、金蔵没 後に中田の姓が見える。韮塚氏が紹介する玉蔵院過去帳の記載からも中田 姓は明治に入ってからの姓であるとこもわかる。  

 史料1にみる中田伝十郎(寛保年間)、中田善五郎(明和年間)を六之丞 の祖と見るなら、両人は鍵屋の系譜(図1)のなかで、どの時期の人か。

玉蔵院過去帳では伝兵衞の父の名がわからないのが残念であるが、善五郎 は後述する文化八年浦和宿絵図(1811年)39)にも登場するので、善五郎は 鍵屋の系譜の中では六之丞の父伝兵衞、六之丞の時期と重なる。善五郎が

(10)

図1

注 本文注24)韮塚論文、新島家「過去帳」遺品庫資料上1679(『安中市史』5巻、安中市、平成14年、所収)から作成。 鍵屋六之丞家の系譜

.9.21没1873 永4年1707衛の父名は不

正徳元年生1711衛の母

享保18年生1733伝兵衛

和7年1770六之丞

金蔵 生年不詳

生年不詳

生年不詳 丞の妻

蔵の妻 享和年97歳、没年不詳1803

享和年93歳、没年不詳1803

享和.5.17没、71歳1803

12.2.8没72歳1841

12.4.2没1829

.1.11没1851

(11)

鍵屋の人として入り込む余地はない。伝兵衞、六之丞が善五郎を名乗った ことは確認できないので、同系譜で見る限り、善五郎は鍵屋六之丞家とは 別家と思われる。また、文化八年浦和宿絵図には別紙裏書の住人署名211 人のなかに、伝十郎、善五郎の名も見える40)。伝十郎と善五郎も別家の可 能性が高い41)。 

四 中山道浦和宿と鍵屋

 韮塚氏は『短才見聞録』所載玉蔵院絵図(史料2)に見える善五郎の住 まいと、弘化年間浦和宿並絵図(史料3)に見える「鍵六穀問屋商」の位 置が同じであることも重視する。中田家鍵屋説の重要な論拠の一つとなっ ている。善五郎の時代に鍵屋と呼び、米穀問屋を営んでいたと述べるのも これに拠る。しかし、すでに述べたとおり明和(1764−1772)から弘化

(1844−1848)までは約80年の隔たりがある。この間、浦和宿並も変化して いる。一例として住民の動きについてみると、享和2年(1802)260軒で あった浦和宿の家数は、文化・文政期(1804−1830)208軒に減少、天保14 年(1843)に273軒(人口1230人)となり、文久元年(1861)には298軒に なっている42)。増減する家数の変化は住民の移動変化を物語る。

 浦和宿は近世を通して天領である。「天保十四年 中山道宿村大概帳」43)

によると、浦和宿は、江戸へ6里6町、蕨宿へ1里14町、大宮宿へ1里10 町、高763石8斗8升8合、南の岸村境より北の針ケ谷村境まで宿往還長18 町28間、道幅2間44)、うち宿内町並は南北10町42間、惣家数273軒、うち本 陣1軒(中町)、脇本陣3軒(上町2・中町1)、旅籠屋15軒である。人馬 継問屋場は中町にあり、問屋・本陣・名主兼帯1人、年寄2人、帳附3人、

役人代役1人、定使4人が日々詰める。宿建人馬は50人・50匹である。宿 高札場は1カ所、中町問屋場本陣脇にある。

 図2は『浦和市史』作成の浦和宿の復元図である。江戸時代の絵図や明 治の地図などをもとに復元したといわれるので、幕末・明治初期の様態と 考えてよい。宿並が拡大したのは北部の上町と南部の下町である。天保期 ごろには、上町は北へ約2町拡張され、下町は南へ約1町ほど延長された

(12)

という45)。玉蔵院門前は中町の南端である。中町は上町と下町の間に位置 することから、住民の増加は上町、下町に比べ少なかったと思われるが46)、 住民の入れ替わりは多かったと思われる。玉蔵院門前街道向かい6軒がど う推移したか、宿絵図が存在する明和、文化、弘化期について整理すると、

図3のようになる。まず感ずるのは商業化の進行である。弘化期には店は 常設化していたことがわかる。三期を通して、名前から判断して同じ住人

(家族)が継続していると思われるのは又四郎―又四郎―泉又煙草店ぐら いで、同位置であることから当該住民を継続同一住民(家)と考えるのは 早計である。個々にわたる移動については後日の研究に待たなければなら ないが、鍵屋に限ってみるなら、鍵屋には移動がみえる。鍵屋が玉蔵院門 前街道向かい(鋤や善五郎跡)にみえたのは六之丞時代と思われる。鍵屋 が商家として繁栄したのは六之丞時代と思われ、商家として繁栄した六之 丞時代に転じたと思われる。どこから転じたのか。

 文化八年浦和宿絵図(211軒)には六之丞の住まいは見えないが、父伝兵 衞の住まいが見える。岸村に近い浦和宿下町南端の街道西側六軒群(図2 の 箇所)の北端である。「傳兵衛 上畑壱畝廿九歩 内拾弐歩 新屋 敷」と記す区画である(史料4)。この一群の区画は、同以北の区画とくら べると少し小さい(図2)。浦和宿の民家一区画の地割りは、間口は2間余 から34間余までさまざまであるが、奥行は約50間ほどの短冊型で、街道に 面して屋敷地、その裏に畑地がある。これが同宿の一般的な地割りであ る。しかし、この六軒群は全戸奥行が20間ほどで、一般の地割りに比べ短 い。「新屋敷」という記載もあり(史料4)、同所は宿発生当時からの町並 でなく、ある時期新規造成の地といわれる。同絵図に詳しい野尻靖氏の所 見である47)

 伝兵衛は同絵図作成8年前の享和3年に死亡(図1)。同家は六之丞の 時代に入っているが、まだ六之丞を名乗る人物の住まいは見えないので、

同所が伝兵衛時代および六之丞初期の住居と思われる。

 浦和は宿場町であると同時に市場町(二、七の市)でもあった(図2)。

市は北から上市場(上分杭以北、2・17日)、中市場(上分杭と下分杭の間、

7・22日)、下市場(下分杭以南、12・27日)があり、三ケ所で月2回ずつ

(13)

図2 浦 和 宿 復 元 図

注1 大上町はもと上町のうち。

 2    箇所については史料4参照。

 3 原図は『浦和市史』通史編Ⅱ、浦    和市、昭和63年、287頁。一部追    加。

岸村

大上町 中山道 至与野町

針ケ谷村 至大宮宿

宿入口   定杭

薬師堂 市神 上  

中  

下  

御殿山

玉蔵院卍

高見世場杭

高見世場杭

脇本陣 脇本陣 本陣

上分杭

下分杭

至蕨宿

(14)

図3 玉蔵院門前街道向かい六軒の時代推移 (1)『 短才見聞録 』( 明和3年 )にみえる玉蔵院絵図

(2)文化八年浦和宿絵図

(3)弘化年間浦和宿並絵図  本文史料3に掲載。

玉蔵院 山門

図3 玉蔵院門前街道向かい六軒の時代推移

中仙

︵中 山道

冨  

郎右衛門

廿 歩  廿 歩  廿 同   歩  同   歩  廿 廿 同   廿 厘 

同  

(15)

開かれた。市ではもっぱら米・麦・荏・そばなどの穀物や灰の取引がおこ なわれた48)。活気があったのは18世紀末(寛政頃)から19世紀初頭(文化・

文政頃)といわれている49)。この時期、鍵屋では伝兵衛の晩年、つづく六 之丞の時代である(図1)。

 六軒群は浦和宿の南端である。鍵屋は「穀問屋」と伝う。市の繁栄、商 いの活発化とともに中市場の中町、玉蔵院門前街道向かいの元善五郎の地 に移ったと考える。文化八年浦和宿絵図にみる同地は屋敷5畝27歩、藪18 歩、同7歩、上畑3畝18歩で、伝兵衛屋敷地の5倍以上である。

 鍵屋には弘化期「鍵六」の呼称がある。史料3でみたとおりである。鍵 屋金蔵時代の呼称であり、鍵屋が六之丞時代に繁栄したことを物語る呼称

史料4 文化八年浦和宿絵図最南端(西六軒・東四軒群)

注 浦和宿図上での位置については、図2「浦和宿復元図」参照。

岸村 佐 

与兵衛 勘五郎 利右衛門 善兵衛 傳兵衛

至 蕨 宿

上畑四

畝弐歩 畝三 ︵内二

内八歩 

新屋敷

上畑四畝

︵内壱畝廿

九歩 内六歩 

新屋敷

上畑四畝 拾五歩

内廿弐歩五

       新屋敷

上畑四畝

拾五歩 畝七歩 内七歩   内弐   

新屋敷 上畑壱畝廿九

内拾弐歩  

新屋敷

上畑四畝 拾五歩

内弐

畝七歩五厘 内拾四歩   

新屋敷

中山道

長蔵

定六

勘五郎

小兵衛

上畑壱畝廿四歩 内十七歩  新屋敷

上畑三畝歩 内壱畝弐歩    新屋敷

上畑壱反弐畝廿四歩 内二畝八歩五厘      新屋敷

岸村分

(16)

である。玉蔵院過去帳にみる伝兵衛の記載を「鍵屋六之丞親」として六之 丞に基準をおいて記すのも六之丞時代の繁栄を物語る。

おわりに

 浦和宿鍵屋、鍵屋六之丞に関する史料は乏しい。以上、限られた周辺史 料からの考察であり、限界があることは承知している。「とみの口述」によ ると、とみには3人の兄がいたという。しかし、長兄と思われる金蔵以外 は、現在のところ、名前すらわからない。また、穀問屋商と伝う鍵屋の経 営内容、さらに注31)、注41)で述べた事項についても触れることができな かった。残る課題、新たに生じた課題も多いが、疑問も含め、鍵屋につい て広く問い尋ねることも必要と考え、作成した稿である。

 鍵屋であろうと、中田であろうと、その違いを問うことにどれだけの意 味があるのか、疑問視される方もいるであろう。瑣末な議論であり、どち らでもよいではないかと。 

    私がこだわるのは、確かな史料に基づく史実の確認である。史実の確認 は歴史研究の基礎作業である。新島研究とて例外でない。人物の場合、人 物像をとらえる上で、もっとも重要な作業と思うからである。 

1) 拙稿「安中藩士岡田源七郎と新島家」『新島研究』99号、同志社社史資料センター、      

2008年。同「近世新島家の儀礼と贈答の人びと」『新島研究』100号、同志社社史  資料センター、2009年。

2) 「新島家祝物到来覚帳」『新島研究』93号、同志社社史資料室、2002年。同帳に見え る浦和宿鍵屋からの贈り物は、以下のとおり。

鍵屋当主 新島家の儀礼 新島家への祝物 新島家の返礼

浦和宿鍵屋六之丞 天保3.11.18  於䦭出産 金三百疋、同弐朱 ̶

天保4.3.  䦭初節句 金弐分 ̶

天保9.4.  出火見舞 金弐分 ̶

天保9.4.28  三四吉出産 金壱分 ̶

(17)

浦和ゟ 天保5.  大坂加番 金百疋 䩱皿十、はし、百人一首一部

天保14.5.  七五三太初幟 金百匹 ̶

浦和鍵屋金蔵 弘化4.11.15  七五三太袴着初 金弐百疋 ̶

「浦和ゟ」2件のうち、天保5年大坂加番は六之丞から、天保14年七五三太初幟は金 蔵からのもの。贈物7件、すべてが貨幣であるのは特徴的。

3) 新島家「過去帳」同志社新島遺品庫収蔵資料(以下、遺品庫資料と略)、上1679(『安 中市史』5巻、安中市、平成14年、所収)。  

4) 『新島襄全集』3巻、同朋舎出版、1987年、43頁。

5) 『浦和市史』3巻近世史料編Ⅲ、浦和市、昭和59年、は「天保三年閏十一月 戸田川 渡船場積問屋場所分帳」を掲載している(同書、735−739頁)。荒川筋下戸田村積 問屋得意宿村場所分帳である。同帳には勘次郎引請分に浦和宿商人9人の名が見 え、なかに「鍵屋六之丞」の名も見える。天保3年といえば、くわが生まれた年で ある(注2)。社会的に六之丞がどう名のっていたかを知る史料でもある。  

6) 「新島家起原」遺品庫資料、上1677(前掲『安中市史』5巻、所収)は、とみを冨女 と記し「武州浦和足立氏ノ女」と記す。新島研究史上、同説を支持する見解はない ので、本稿では触れない。

7) 根岸橘三郎『新島襄』警醒社書店、大正12年、50頁。

8) 湯淺與三『新島襄小傳』昭和11年、62頁(徳富蘇峰『日本精神と新島精神』関谷書 店、所収)。

9) 湯淺與三『新島襄傳』改造社、昭和11年、48頁。

10) 鑓田研一編『新島襄 人生読本』第一書房、昭和13年、21頁。

11) 砂川萬里『新島襄・本多庸一』東海大学出版会、1965年、12頁。

12) 鑓田研一編『新島襄 わが人生』日本図書センター、2004年、13頁。本書は、凡例 によると、新島襄著・鑓田研一編『わが人生』(全国書房、1946年)を底本に作成 したという。全国書房版(1946年)は未見であるが、版を重ねた書であることがわ かる。

13) 森中章光「新島家の家系」『新島研究』3号、洗心会、1955年。

14) 森中章光『新島襄先生』1巻、洗心会、昭和12年、79頁。

15) 「とみの口述」「(新島)家系関係」遺品庫資料、上1681(関口徹「新島襄の母とみ

(18)

の『口述』を改めて聴く」『新島研究』98号、同志社社史資料センター、2007年、に 全文が紹介されている)。

16) 吉田曠二『わが生涯の新島襄−森中章光先生日記』不二出版、1991年、70−71頁。

17) 森中章光編『改訂増補新島襄先生詳年譜』同志社・同志社校友会、昭和34年、1 頁。『新島研究』12号(1956年)に掲載された「新島先生詳年譜(1)」では、すで に改訂されており、森中氏の発表としてはこれが最初と思われる。

18) 森中章光編『新島襄先生年譜』同志社校友会、昭和17年、1頁。

19) 『新島襄全集』5巻、「新島家の家系図」、同朋舎出版、1984年、514頁。

20) 前掲『新島襄全集』3巻、747頁。

21) 『新島襄全集』8巻、「新島家の人々」、同朋舎出版、1992年、巻末4頁。

22) 現代語で読む新島襄編集委員会編『現代語で読む新島襄』丸善、2000年、288頁。

23) 本井康博『新島襄と建学精神』同志社大学出版部、2005年、4頁

24) 韮塚一三郎「同志社の創設者新島襄の母  とみ」『埼玉の女たち 歴史の中の25人』

さきたま出版会、平成元年増補2刷、所収。

25) 関口徹「同志社創立者新島襄とその母浦和仲町生まれの『中田とみ』について」『さ

いたま市立浦和博物館館報 あかんさす』76号、2001年。 

26) 前掲関口「新島襄の母とみの『口述』を改めて聴く」。

27) 関口徹「新島襄の母とみと信州中之条代官荒井平兵衛」『新島研究』99号、同志社 

社史資料センター、2008年。

28)・29)「新島家家族関係」遺品庫資料、上1680(前掲『安中市史』5巻、所収)。明        治4年作成と推定される「新島家家族書上」の時期および作成目的については、竹        内力雄「新島襄の『平民』戸籍の創出と平民主義」『新島研究』97号、同志社社史       資料センター、2006年、参照。

30) 新島公義筆「新島冨子ノ略履歴」遺品庫資料、上1755。「(新島襄母堂葬儀)記録」

遺品庫資料、上1757。

31) 後述するとおり明治6年9月に金蔵が死亡。その後、鍵屋では職業を変えるほどの 大きな変化があったのではないかと思われる。

32) 森安彦『古文書が語る近世村人の一生』平凡社、1996年3刷、65−68頁。

33) 以下、二、三、で述べる韮塚氏の見解および同氏の史料紹介は、特記しない限り注 24)の韮崎前掲書による。

(19)

34) 『浦和市史』3巻近世史料編Ⅰ、浦和市、昭和56年、所収。

玉蔵院は新義真言宗の古刹で、創建は平安時代にまでさかのぼるという。中世に は、弘法大師の再来といわれた印融法印(永正16年没)によって中興、以降、醍醐 寺三宝院の直末となる。近世に入り元文2年(1737)に豊山長谷寺の移転寺とな る。住職には、後に江戸の役寺の住職になった者、豊山長谷寺の小池坊の能化と なった者など著名な僧が少なくなかった(前掲『浦和市史』3巻近世史料編Ⅰ、32 頁)。家老宮崎喜六が仕えた玉蔵院十八世快尊は、のち小池坊の能化(豊山二十七 世)となった人である(『浦和市史』通史編Ⅱ、浦和市、昭和63年、92頁)。玉蔵院 寺領は近世を通して10石、浦和郷内(『浦和市史』3巻近世史料編Ⅳ、浦和市、昭和 60年、199−200頁)。

35) 史料1に見る中田伝十郎、中田善五郎を六之丞の祖とみる見解は、前掲関口「同志 社創立者新島襄とその母浦和仲町生まれの『中田とみ』について」においても見え る。

36) 同絵図の正式名称は不明。同絵図は小島煕「浦和史談その1 宿場と二七の市」

『浦和』5号、浦和⊖名店会編集部、1966年、に紹介。また、同絵図写本が『浦和市 議会史』下巻後編、浦和市議会、昭和39年、の表・裏表紙見返しに掲載されてい る。

37) 前掲『浦和市史』3巻近世史料編Ⅰと韮塚氏の読みには違いがある。『浦和市史』が

「善五郎」「十兵衛」と読んだ箇所(同書、84頁)を、韮塚氏は「鍵屋善五郎」「釜 屋十兵衛」と読んでいる(韮崎前掲書、277頁)。  

38) 同絵図は、青木義脩執筆『玉蔵院』(浦和歴史文化叢書3)浦和市郷土文化会、昭 和52年、に挿図1「玉蔵院境内図」(影印版)として掲載されている。同箇所6軒 の私の読みは、北から友次郎、又四郎、鋤や善五郎、善兵衛、釜屋十兵衛、彦四郎 である。本文図3(1)のようになる。

39) 同絵図は浦和市(現、さいたま市)所蔵。市有形文化財(歴史資料)。平成4年3 月25日告示。たて5.21メートル,よこ3.4メートル。浦和宿の全域と周辺村の一部を 描いたもので、一筆ごと田畑の等級と面積を記し、街道に沿っては宿並を一軒ずつ 家を表示し、戸主、屋敷、藪、畑の面積等を記している。別紙裏書に、同絵図作成 の趣意と211人の署名捺印がある。同裏書によると、文化8年4月、名主、年寄、

惣百姓立会の上、水帳に引き合わせ、宿内の田畑、屋敷、藪、山林、芝野、草野な

(20)

ど一筆ずつ確認し、作成したと記す(小野文雄「浦和宿絵図」『浦和市文化財調査 報告書』37集、浦和市教育委員会、平成5年。野尻靖「文化八年『浦和宿絵図』研 究二題」『浦和市史研究』8号、浦和市総務部行政資料室、平成5年)。現在、同絵 図のうち宿並部分が複製され、さいたま市立浦和博物館で展示されている。本稿は この複製版を利用した。善五郎の住まいは玉蔵院絵図にみる場所と同じ(図3参 照)。

40) 伝十郎の住まいは見えないが、同絵図の署名欄に伝十郎の署名捺印がある。この 年、彼はですに死亡。相続人がいたと読める。署名211人の名前は野尻前掲論文に も掲載されている。

41) 伝十郎、伝兵衛を論ずる場合、気になる二つの史料がある。『浦和市史』3巻近世史 料編Ⅲ、浦和市、昭和59年、に収録された(1)元禄3年(1690)4月、町中127人 の名主・年寄衆宛「入置申証文之事」(町中困窮につき定使屋敷売渡証文)と、(2)

宝永8年(1711)1月、町中133人の「入置申証文之事」(問屋場賄所敷地引替証文、

宛人不明)である(同書、536−539頁)。(1)では町が定使屋敷を伝十郎に売却、

町中127人の中に伝兵衛の名が見える。(2)では町中133人の中に伝十郎、伝兵衛 の名が見える。年次から考えて二人は各同一人であろう。この伝十郎が、韮塚氏が 指摘する寛保期の中田伝十郎、この伝兵衛が鍵屋六之丞の父伝兵衛につながる人物 かどうか。現在のところ、判定できない。今後の課題として記憶に値する人物であ る。

42) 前掲『浦和市史』通史編Ⅱ、285頁。

43) 前掲『浦和市史』3巻近世史料編Ⅲ、523頁以下。

44) 同帳によると、中山道道幅は岸村以南蕨宿までは3間あるいは3間余から4間、針 ケ谷村以北大宮宿までは3間で、浦和宿の2間が目立つ。明治初年の『武蔵国郡村 誌』では、浦和宿内の同道幅は6間と記す(埼玉県編『武蔵国郡村誌』2巻、埼玉 県立図書館、昭和29年、59頁)。

45) 注42)と同じ。

46) 弘化年間浦和宿並絵図に見る戸数は212軒、うち上町96軒、中町47軒、下町69軒。

47) 野尻前掲論文。

48) 前掲『浦和市史』通史編Ⅱ、287頁。

49) 前掲『浦和市史』通史編Ⅱ、481頁。

(21)

追記 本稿は、さきに発表した「近世新島家の儀礼と贈答の人びと」の作成過程で生ま れたものである。史料収集にさいしては竹内力雄先生、原田敬一先生、同志社社史 資料センター、佛教大学図書館をはじめ、さいたま市総務部市政情報課、さいたま 市立浦和博物館、さいたま市立中央図書館、埼玉県立文書館、埼玉県立図書館でお 世話になった。厚く御礼申し上げる。

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