内藤湖南と「恭仁山荘」
著者 角田 芳昭
雑誌名 阡陵 : 関西大学考古学等資料室彙報
巻 11
ページ 12‑13
発行年 1985‑05‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00024343
内藤湖南と「恭仁山荘」
関 西 大 学 創 立100周年記念事業の一環として、東 洋 学 の 泰 斗 内 藤 虎 次 郎 ( 湖 南 ) 博 士 及 び 乾 吉 ( 伯 健 ) 先 生 旧 蔵 書 籍 類 約3万 冊 と 湖 南 博 士 が 京 都 帝
く に
大を退官後晩年を過された「恭仁山荘」(京都府相 楽 郡 加 茂 町 瓶 原 ) と を 本 学 が 譲 り 受 け る こ と に
なった。
寄贈の経過については『関西大学通信」131号(昭 和58年10月16日号)に「内藤文庫」を迎えるにあ た っ て と 題 し 奥 村 郁 三 ( 法 学 部 ) 教 授 が 詳 細 に 書 か れ て い る 。 こ れ に よ る と 奥 村 教 授 の 恩 師 が 内 藤 伯 健 先 生 で あ っ た 関 係 と 、 内 藤 家 ご 遺 族 の ご 理 解 と、神田喜一郎 博 士 ( 湖 南 博 士 高 弟 ) の ご 厚 情 な どがあり本学に架蔵されることとなった。
蔵 書 は 主 に 漢 籍 が 中 心 で あ る が 、 書 画 類 、 金 石 文 拓 本 類 、 殷 代 甲 骨 、 唐 代 画 像 博 な ど 、 中 国 古 代 資 料 も 含 ま れ て い る 。 こ れ ら の 資 料 と 同 時 に 湖 南 が 晩 年 を 過 し た 「 恭 仁 山 荘 」 も 譲 り 受 け る こ と と なった。
内 藤 湖 南 (1866 1934)については学生時代に
「支那絵画史」を読み、その中の論文「南画小論』
「本 邦 南 画 の 鑑 貨 に つ い て」を卒業論文に引用し た た め 多 少 の 知 識 が あ っ た 。 そ こ で こ れ を 機 会 に 湖 南 の 人 と そ の 別 荘 「 恭 仁 山 荘 」 に つ い て 読 べ て みたい思いにかられた。
『書論』 13号 0978年 秋 号 ) は 内 藤 湖 南 特 集 号 で あ る 。 こ こ に は 神 田 喜 一 郎 、 吉 川 幸 次 郎 、 日 比 野 丈 夫 、 宮 崎 市 定 、 三 田 村 泰 助 、 田 村 実 造 、 小 野 勝 年 先 生 な ど 諸 学 者 が 湖 南 に つ い て の 思 い 出 を 綴 ら れ て い る 。 こ の 書 に 三 田 村 泰 助 先 生 が 「 徳 富 蘇 峰 と 恭 仁 山 荘 文 庫 」 と 題 し て 執 筆 さ れ て お り 、 湖 南晩年の様子と山荘の模様が知れる。
こ れ に よ る と 昭 和4年 4月19日 徳 富 蘇 峰 翁 が
「恭仁山荘」を訪問している。そこで徳宮蘇峰が 訪 問 し た 4月19B筆 者 も 訪 れ 、 こ の 目 で 恭 仁 山 荘
角 田 芳 昭
を 見 、 周 辺 遺 跡 を 訪 ね た い と 思 っ た 。 幸 い 小 野 勝 年 先 生 ( 関 西 大 学 ・ 龍 谷 大 学 講 師 ) が 同 行 し て 下 さ る こ と と な っ た 。 小 野 先 生 は 湖 南 最 晩 期 の 講 義 を 京 都 大 学 で 受 け ら れ た 方 で あ り 、 ま た 筆 者 の20 数 年 来 の 恩 師 で も あ る の で 特 別 に お 願 い し 、 ご 指 導 を 賜 わ る こ と に し た 。 先 生 も 昭 和8年 春 卒 業 時 に 訪 れ た の み で50数年ぶりの訪問とか。
昭 和4年4月 下 旬 の 東 京 日 々 新 聞 に 「 上 方 の 春 色」(恭仁山荘)と題する一文を蘇峰が書いている。
「四月十九日、昨日と打って換りたる好天気、
午 前 八 時 半 電 車 に て 奈 良 に 赴 く 。 奈 良 見 物 の た め で は な い 。 木 津 川 畔 な る 恭 仁 山 荘 の 内 藤 湖 南 翁 を 訪 ね ん が 為 に 、 而 し て 併 せ て 其 の 珍 害 奇 籍 に 見 参 せんが為に。(中略)此辺聖武天皇の御守、奈良よ
り 一 時 都 を 移 し 給 ひ し 恭 仁 の 故 都 趾 に て 、 そ の 道 傍 に は 、 今 尚 を 国 分 寺 の 伽 藍 の 礎 石 が 歴 々 と し て 存 し て い る 。 我 等 は 車 を 下 り て 、 湖 南 翁 の 恭 仁 山 荘 に 向 っ た 。 田 の 中 の 一 本 道 、 道 の 両 側 に は 亨 々 た る 様 が 相 並 ん で 列 を な し て い る 。 晩 秋 初 冬 の 候
は 、 正 し く 雲 林 画 中 の 趣 が あ る で あ ろ う 。 予 は 礫
た ん ぼ ぼ す み れ
や 楢 の 秋 葉 に は 偏 愛 が あ る 。 道 傍 に 蒲 公 英 や 笙 が お の が ま に ま に 咲 き 乱 れ て い る 。 特 に 菫 の 色 の 濃 か な る 、 我 を し て 覚 え ず 、 其 の 幾 片 を 摘 み 取 る こ
と を 禁 ず る 能 は ざ ら し め た 。 而 し て 山 腹 に は 、 七 八 の 人 家 が あ る 。 其 の 中 に 書 庫 ら し き 白 塗 の 土 蔵 と 一 軒 の 満 酒 た る 板 屋 と が 問 わ ず し て 湖 南 翁 の 恭 仁山荘たるを知った」
こ の よ う な 害 き 出 し で あ り 、 さ す が 当 代 随 一 の 文 筆 家 を 思 わ せ る も の で 、 簡 潔 に し て 実 景 を 描 写 し て い る 。 こ の 時 蘇 峰 を 案 内 し て 山 荘 に 向 っ た の が 岩 井 武 俊 ( 号 薙 南 ) 氏 で あ っ た 。 岩 井 氏 は 内 藤 湖 南 の 紹 介 で 大 阪 毎 日 新 聞 社 へ 入 社 し 、 後 年 考 古 学 ・ 歴 史 学 方 面 の 記 事 に 特 異 な 才 能 を 発 揮 さ れ た 人 で あ る 。 大 正6年10月15日の毎日新聞記事にお
恭 仁 山 荘 全 景 ( 京 都 府 相 楽 郡 加 茂 町 所 在 )
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白斎における湖南(昭和4年頃)
(内藤湖南全集第11巻より)
い て 、 河 内 国 府 遺 跡 『 第4回発掘調査(一)世界的大 遺 跡 の 発 掘 』 と 題 し 岩 井 苑 南 の 筆 名 で 発 表 し て い る 。 苑 南 の 号 も 湖 南 の 命 名 に な る と い う 。 以 降 連 続 し て17回 国 府 遺 跡 の 発 掘 を 報 じ 、 考 古 学 発 掘 を 学問として報道した巧績は大なるものであった。
ちなみにこれは毎日新聞社長本山彦ー氏が発掘さ れ た も の で あ り 、 こ の 多 量 の 資 料 が 関 西 大 学 へ 寄 贈 さ れ 、 現 在 整 理 中 で あ る 。 何 か 因 縁 め い た 想 い すら感じる。
内 藤 湖 南 (18661934)は慶応2年 (1866) 7 月 秋 田 県 鹿 角 市 十 和 田 町 毛 馬 内 に 生 ま れ 、 明 治18 年 秋 田 師 範 学 校 を 卒 業 し た 。 明 治20年 上 京 し 「 明 教新誌」「日本人」「万朝報」に筆をとり文名が広 く知られるようになった。その後「台湾日報」に 招 か れ 、 そ し て 「 大 阪 朝 日 新 聞 」 に 入 社 し 縦 横 に 健筆をふるった。
明 治40年10月 京 都 帝 国 大 学 へ 招 か れ 東 洋 史 学 の 講座を担当した。 42年 教 授 と な り 、 翌 年 文 学 博 士 の 学 位 を 授 け ら れ 、 支 那 学 の 権 威 と し て 重 き を な した。大正15年8月 停 年 退 官 し た 。 多 量 の 珍 書 奇 籍 を 収 集 し 、 蔵 書 五 万 冊 に 及 ん だ 。 ま た 名 筆 家 で もあった。昭和2年8月 京 都 府 相 楽 郡 加 茂 町 瓶 原 に 新 居 を 営 み 「 恭 仁 山 荘 」 と 名 付 け 隠 棲 し た 。 同 9年 6月26日 山 荘 に て 逝 去 、 享 年69オであった。
さ て 、 湖 南 が 新 居 と し た 「 恭 仁 山 荘 」 は 国 鉄 関 西 線 加 茂 駅 北 方2キ ロ の 山 腹 に あ る 。 こ の 地 は
みかのはら
瓶原といって百人一首藤原兼輔の「みかの原わき て 流 る る 泉 河 、 い つ み き と て か 恋 し か る ら ん 」 で 知られる山紫水明の地である。
奈 良 時 代 に 甕 原 離 宮 、 岡 田 離 宮 が 置 か れ 、 藤 原 広 嗣 の 乱 直 後 の 天 平12年 (740)12月 聖 武 天 皇 が 平 城 京 か ら こ の 地 に 遷 都 さ れ 大 養 徳 恭 仁 宮 と さ れ た 。 以 後3年 余 の 都 と な っ た が 、 宮 都 の 完 成 が な い ま ま 難 波 京 へ と 移 さ れ た 。 そ の 他 こ の 周 辺 に は 鋳銭址、国分寺、海住山寺など著名な史跡が多い。
蘇峰の記す如く滋れ、倫答羹の乱れ咲く中を恭仁 橋をわたり山荘へと若く。土蔵・母屋・ 離 れ が あ り、 60年 の 歳 月 に 建 物 も 荒 廃 し て い る 。 し か し 往
時 を し の ば せ る に 足 れ る 堂 々 た る 風 格 が に じ み 出 て い る 。 こ の 山 荘 も 岩 井 薙 南 の 斡 旋 に よ り 決 定 し たものといわれ、大正12年12月20日登記を済まし、
翌13年4月 頃 よ り 仕 事 に か か っ て お り 、 遅 く と も 14 15年中には完成をみたことであろう。(中西彦 治宛書簡)。また建築資材に亡父の遺見といって`
杉 材 等 を く れ る よ う 故 郷 へ 無 心 を い っ て い る 。 そ し て 新 築 な っ た 山 荘 へ 昭 和2年 8月 よ り 移 り 住 ん だ 。 そ し て 翌 年2月 落 成 式 を 行 な っ た と 考 え ら れ る ( 閲 大 内 藤 文 庫 に 新 築 記 念 写 真 が20数枚存し、
3年2月23日 写 す と あ り 、 神 主 の お 払 い を 受 け て い る 場 面 が 写 さ れ て い る ) そ し て こ こ へ 移 り 住 ん で 以 来 、 多 数 の 訪 問 客 と 歓 談 し 、 ま た 自 慢 の 蔵 書 を見せ喜んでいた。
恭 仁 山 荘 は 湖 南 終 濡 の 地 で あ り 、 各 界 の 名 士 達 が 訪 れ 歓 談 し た 由 緒 あ る 建 物 で あ る 。 現 在 は 荒 廃 しているが、創建当時の写真も残っているので、
復 元 は 可 能 で あ る 。 将 来 の 活 用 方 法 で あ る が 外 観 の み を 復 元 し 、 内 部 は 宿 泊 が で き ゼ ミ 等 が 行 な え る 施 設 に 改 装 し て は 如 何 だ ろ う か 。 周 辺 に 遺 跡 が 多 い の で 、 第 二 の 飛 鳥 文 化 研 究 所 と 同 様 の 機 能 を 有 す る 古 代 学 な ど の 研 究 所 を 設 立 し た ら ど う で あ ろ う か 。 幸 い こ の 近 隣 は 京 阪 奈 学 術 研 究 都 市 構 想 が 具 体 化 さ れ て い る の で 、 こ の一翼 を に な う 施 設 と し て も 可 能 だ と 考 え る 。 ま た 、 地 元 に 湖 南 顕 彰 会 も あ り 、 町 教 育 委 員 会 の 意 向 な ど も 尊 重 し 、 社 会 教 育 に 寄 与 し た い も の で あ る 。 と も あ れ 、 こ の 山 荘 が 有 効 に 活 用 さ れ 、 周 辺 遺 跡 の 研 究 と 湖 南 研 究が一層盛んとなっていくことを望むものである。
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`恭仁山荘四宝詩之— 恭 仁 山 荘 雑 詠 湖南書(書論13号)より
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