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1  第 1次 大極殿地域の変遷

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(1)

第 V章  

1次 大極殿地域の変遷

平城 宮 の中枢部 に位置す る第

1次

大極殿地域の遺構が

,第

I期 。第 Ⅱ期・ 第 Ⅲ期 に大別でき ることは

,す

で にのべた ところであ る。 ここでは各時期 が さらに小期 に細分 しうること

,お

び各時期の遺構 にみ られ る配置計画な どについて考察 す る。

A  平 城 宮造 営 以 前 お よび造 営 時 の遺 構

広場地 区で検 出 した古墳

SX7800は 5世

紀後半 にぞ くす る。 宮 内にかつて存在 した古墳 が平 古 墳 時 代 城宮造営時 に破壊 された ことは

,市

庭古墳 や神 明野古墳 の大型前方後 円墳 の痕跡をすで に発見

して い ることによって

,歴

然 と して い る。

SX7800は

大 型前方後 円墳 とは ことな る珂ヽ方墳 で あ るが

,類

似の古墳 は

6ALR区

(第43次調査

)に

おいて も検 出されてい る。 こうした小古墳 の発見 と宮 内の各所 で発 見 され る埴輪や上器 の存在 によって

,い

まで はみ られない多 くの古墳 が存在 した ことが うかがわれ るのであ る(ng.96)。

広場地 区の溝

SD3772は

浅 い溝 であ り

,東

北方 か ら西南方 に流れ る。地形的には丘陵縁端 の低 地 にあた り

,付

近 か ら古墳時代の遺物が発見 されて い ることな どか ら

,古

墳時代 にぞ くす る可 能性 がつ よい。 この溝 に近接す る

2棟

の建物SB3773,

SB3774も

時期を決め る手掛 りを欠 くが

西南 に向 い あ って い るので溝 と同時存在 の遺構 とした。宮 内の佐 紀池や第

2次

東朝集殿下層 に古墳 時代 の大溝 が あ り, 木製農具 や土器 な どが発見 されて い る。 この地域 は位 置的 に両 者の中間点 にあ り

,こ

れ らの遺構 も古墳 時代 にぞ くす るもの とお もわれ る。

広 場地 区を南北 に貫通す る

SD7787は

下 ツ道東側溝 にあた る。平城宮 内では朱雀門

,第 1次

朝堂 院南 門で 検 出 してお り

,幅

20m内

外 の道路 敷 が

,奈

良盆地 の 北辺 にお よんでい ることがわか る。今 回検 出 した東側 溝 の遺存状況 は必ず しも良好 でないが

,東

側溝の北端 は広場地 区の北辺で とどまり

,も

との丘 陵上 では検 出 して いな い。 さきに大膳職地域第

I期

の建物 として報 告 した

SB167,SB1761ま ,北

面築地 回廊 の建設 以前 に ぞ くす ることにな った。 ともに平城 宮の方位 に くらべ て北 で西 にふれて い る。 また

,比

較 的規模 の大 きい建 物 であ り

,SB167に

は建替え もみ とめ られ るので

,平

 

 

争―――r―――

― イ , 甲 ″1

ng,96 

造営前の遺構

2ヱ

(2)

V章

城 宮造営 にともな う仮設建物 とは しがたい。 だ とすれ ば

,下

ツ道 が存在 した頃の建物であろ う か。広場地 区で検 出 した

2棟

の建物

SB7780,SB7790も

同様 の遺構 であ る。ただ し

,一

般 の住 宅 ともかんがえ られず

,そ

れ ら建物 の性格 についてはいまの ところ不明である。 しか し

,想

像 をた くま しくすれ ば

,さ

きに朱雀 門付近

6ABY区

の西側溝 (SD1900)から出土 した木筒 に「過 奈 羅 関 所」 ふ くまれて いた ことか らす ると

,SB176・ SB167あ

るいは SB7780。

SB7790な

どは奈羅関

に関係す る官衛 の建物であ った可能性 もある。

広場地 区の

SB7816,SB7817,SB7824は

いずれ も地 山面 で検 出 した小規模建物 であ り

,時

期 を決め る手掛 りを欠 く。 ここで は平城宮造営 当初 におけ る仮設小屋 にあててお く。広場地 区の 建物

SB7765,殿

舎地 区 と大膳職地 区の建物

SB7164,SB8117な

どは

,第 I期

の遺構 と して説 明 して きた。それ らは層位的 に第

I期

の遺構 と同 じ状況 で検 出されたが

,柱

掘形 が小 さ く柱間 が 不揃 いであ ることな どか ら

,造

営 時 の仮設小屋 にあて た。

築 地 回 廊

B ttI期 の遺構

第I期は

4小

期 に細分す ることがで きる。 それ は創建

,増

,解

,再

建 とい う第

1次

大極 殿 の創建 か ら機能停止 にいた る変遷 であ る。

第 二

‑1期 (ng,97)南

SB7801か

ら四周をめ ぐって築地回廊

SC5600,SC7820,SC5500, SC8098が

続 き

,回

廊 内の北側 に一段高 い壇 を も うけ

,そ

の前面 に導積擁壁

SX6600を

築 く。

SX

6600の 左右 には斜道

SF9232Aが

つ き

,中

央 に木造 の階段

SX6601が

あ る。擁壁の南 は広 々とし た礫敷の広場 で

,中

軸線上 に南北溝

SD7142を

東側溝 とす る約

40m幅

の南北通路 が存在 した こ とにな る。広場 における施設 として は井戸

SE7145が

唯― で あ る。 回廊 内か らの俳水 は南面築 地 回廊SC5600に付設 され た各種 の盲暗渠 や玉石敷 の雨 落溝 によってい る。

壇上(殿舎地区)で は正殿

SB7200と

後殿

SB8120が

確認 されて い るにす ぎない。左右 にも建物 が存在 しうる余地 をの こ して い るが

,遺

構 と して残存 しない。正殿

SB7200の

前 には仮設 的な 小規模建物 が3回にわた って建替 え られてお り

その うち もっとも古 い

SB6680を

この時期 に あて た。 この建物 はSB7200の 北面 階段 と同位置に想定 しうる南面階段位置を さけてお り

,本

来 は南面 に も

3個

の階段 が存在 した ことを しめ してい る。

東外郭 には南北溝

SD8765を

掘 り

それ に築地 回廊 内か らの排水を うけて いる。

SD3765の

端 は不明瞭だが

,北

部 では後 の南北溝

SD3715と

同位 置 にあ り

それが西 に直角 に折れて

SD

3765に 連 ったのではあ るまいか。東外郭の北部 に

3棟

の小規模建物

SB8330,SB8315,SB8234

があ る。建設時の雑舎 にも比定 しえ よ うが

,そ

の位置が築地回廊 の東面北門位置に接 してい る ことか ら

,警

固の衛士 な どの詰所 とかんがえ られ よ う。 なお

,後

の調査 によって

,第 1次

朝堂 地域 では

SD3765の

18m東

で古 い南北塀

SA3410が

確認 されて い るが

,こ

の南北塀 が東外郭 で

どの よ うに展 開す るかあき らかでない。

北外郭 の状況 は以前 に報告 した考察 とはかな りことな るところとな った。すなわち

,第 I期

の官衛建物 か ら

2棟

の建物がへ り

,西

方 に想定 した園池SG1491ま 十日地形を造営時 に埋立てた も ので あ り

,ま

た後 にも若子 の撹乱を うけて い るもの と理解せ ざるをえな くな った。 したが って この時期 の建物は宮 の中軸線をは さんで

,東

SB317,西

SB170を

配 し

,後

方 に東西溝

SD

正殿と後殿

1)『

平城宮報告 正』p.34

】ヒ 外 郭

(3)

第 1次 大極殿地域の変遷

ng.97

I‑1期

の主要遺構

141が 流れ るとい う簡単 な建物配 置を とる(ng.50)。

I‑2期

(■

g.98)南

面築地 回廊SC5600に 東 楼

SB7802を

増築 した時期 で あ る。 広場 の礫 は敷 きなお し

,南

北 通路 の幅 が約

14mに

狭 くな った ことが東側 溝

SD7760に

よ ってわか る。同 時 に雨 落溝な どが部分 的 に改修 され るが

,回

廊 内は基本 的 に変 化 しな い。

殿舎 地 区では正殿

SB7200の

前面左右 にたつ方形 の小建物

SB6636,SB6643を

この時期 にあて た が

,そ

れ は さきの

SB6680よ

りも新 しい とい うほ どの意味 で あ る。 また建物SB6605も方形建 物 のの ち仮設 的 にたて られ た もの とかんがえ る。 ともか く

, 2棟

の小建物 はさきに想定 した左 右 の階段位置 にあた って お り,この時期の南面 階段 は中央 のみの1個に減少 した ことがわか る。

東外郭 では南北溝

SD3765が

埋立 て られ

,築

地 回廊 の東南 隅 に朝堂院の塀

SA5551A,SA5550A

が とりつけ られた。つ ま り

,こ

の時期を特徴づ け る点 は朝堂院 が とりつ け られた ことであ り,

SB7802の

建設 も朝堂 院 か らの偉観 を配慮 した もののよ うであ る。 しか し

,SB7802と SA5551A

SA5550Aを

同時 につ くった証拠 はな く

朝堂 の ほ うが さきに 成立 してい る可能性 もあ る。

後述 す るよ うに『 続 日本紀』 によれ ば 霊亀元年 には 朝堂 院 が確実 に存在 して いる。

SD3765の

廃止 に ともな って

,内

裏 。第

2次

大極殿地域 との境界 に新 しい南北溝

SD3715が

つ くられた。

東楼の増築

tEl.

S E 7145

2Z5

 

 

(4)

SA5551 SB

東面築地回 廊の再建

V章  

ag・ 98

I‑2期

の主要遺構 この

SD3715と

2次

大極殿西外郭 とには さまれ る幅のせ まい地帯 に

SB5495を

は じめ とす る

小規 模建 物 が南北 につ らな り

,溝

上 には橋状 の施設

SX5527,SX5540,SX5528が

つ くられ る。

こ うした小建物が さ らに南 にのびて い ることが

,後

の調査 で判明 して い るので

,朝

堂院 の建設 に ともな う仮設小屋 に比定 してお く。

北外郭 については

,第 I‑1期

と大 きな変化 がない もの とかんがえ る。

I‑3期 (ng.99)東

面築 地 回廊

SC5500が

撤去 され

,南

北塀

SA3777に

変 え られ る時 期 で あ る。 殿舎地 区の正殿

SB7200も

この時期 に撤去 され た もの とす る。 これ は後述 のよ うに恭仁 京 遷都 に際 して大極殿 と歩廊 を移建 した ことにあて るか らで ある。 この地域の第

I‑4期

の使 用 状況を しめす

SB7802出

土 木簡 によれ ば

,殿

舎地 区の建 物 がすべて消失 した とはかんがえ ら れ な いので

,後

殿

SB8120に

つ いては残存 した もの と推定す る。東外郭

,北

外 郭 につ いて は大 きな変化 がなか ったよ うであ る。 広場 の井戸

SB7145に

つ いて は一応 この時期 まで存続 す るも の としたが

,SB7200な

ど とともに撤去 されて存在 していないか もしれない。

I‑4期 (ag 100)第 1次

大極殿地域 が復興 す る時期 であ る。正殿

SB7200は

再建 され な か ったが

,東

面築地 回廊

SC5500が

再建 され た。 同時 に

,回

廊 内か らの排水を南北溝

SD3715に

δ

(5)

第 1次 大極殿地域 の変遷

ag。 99

I‑3期

の主要遺構

く数条 の木樋暗渠や開渠 がつ け られ た。南 面築地 回廊SC5600の北側 に東西溝

SD5590を

掘 り,

北方 か らの雨水 な どを ここに集め

,南

東 隅 の木 樋暗渠 で回廊外 に排 水す るよ うに改 め た。第I

‑1・

2期 の広場南部 には多量の砂質上 が堆積 してお り

,こ

の地 区の滞水状況 を物語 って い る。

そ こで

,郭

内の排水 に留 意 した結果

,排

水施設 が

SC5500の

南部 に集 中す ることにな った もの とお もわれ る。 また

,第

‑1期

に設 置 した回廊基壇縁 の盲暗渠 が

,こ

の ころには 目詰 り して 機能 が失 われた ことによ るのであ ろ う。 回廊 の雨 落溝 も改修 されて い る。

東外郭で は

,南

寄 りの ところで東西塀

SA3780と

東西溝

SD3775と

で送蔽 し

,門 SB3746を

って往来す るよ うに した。北外郭 には中軸線を はさんで東西 にわかれ る建物群 が存在 す るが, 北辺 に東西溝

SD126を

め ぐらす程度 で

,と

くに建物を囲続 す る施設をつ くっていな い。

第 二期 の地割 り

(ng,101)は

じめ に第

1期

の第

1次

大極殿地域 が平城宮全体 のな か で

どの

 

宮内地割 り よ うに設定 されてい るか とい う点 につ いて のべ よ う。 大極殿南門(SB7801)と 朱笹門心 々距 離 は

53304m■ 0.296=1800尺

(大宝大尺1500尺

,以

下大宝大尺は大 と路する)。

 

この長 さは平城京 地割 り

1)さ

きにのべたように平城遷都初期に想定 され

る遺構の基準尺は0.294〜0.296と短い。 ここで

はその大きいほうの数値をとった(『平城宮報告

Ⅸ』p.86)。

胡 45S脇

2=7

(6)

南 北 方 向

V章  

ng。100

I‑4期

の主要遺構 計 画の

1坊

分 の長 さ と一致 し

,平

城 宮 の南 北長 さが

2条

分 の長 さを基準 に してい ることか らす れ ば

,朱

雀 門か ら1条分 の長 さをへ だてた平城 宮 の北半 に第 二次大極殿を割 りつ けた ことを意 味す る。平城宮の宮城諸門は条坊地割 り計画 に もとず くものであ るか ら

,西

面 の佐伯 門か らの び る道路 よ りも大極殿南門が若千北 によって い ることにな る。 ちなみに

,南

に位 置す る第

1次

朝堂 院南 門 と朱雀門心 々距離 は248.84m‐

0296=840.4尺

840尺

,大

700尺 )とな り

,第 1次

朝 堂 院 の南北長 は

284.2m‐ 0.296=959.8尺

(■960尺

,大

800尺)で あ る。

1次

大極殿北面築地回廊 と南 門 との心 々距離 は

317.7m‐ 0.296=1072.9尺

(■lo80尺

,大

800 尺

)で

あ る。 それ に対 して北面築地回廊 と北面大垣 との心 々距離 は170.lm■

0.296=575尺

580尺

,大

483尺

)と

端数を生 じることにな る。 こ うした ことか ら

,南

北方 向の地割 りは朱 雀門を 起 点 と し

,大

宝大尺100尺単位 の ラウ ン ドナ ンバ ーで朝堂院 と大極殿の位置を決め

,端

数 が後 方 にあつ め られ た ことを意味す る。

1次

大極 殿地域 の中軸線 と東面築地回廊 との心 々FE離 は

883m‐ 0296=297.3尺

(■300尺,

大250尺

)で

あ り

,全

体 の東西幅を176.6m(600尺

,大

500尺

)に

復原 しうる。一方

,内

裏地域 の北 面 塀

SA486は

総長

177m(600尺 ,大

500尺

)で

あ り

,第

1次大極殿 回廊 との間 に300尺 (大250尺)

8

東 西 方 向

(7)

第 1次 大極殿地域の変遷

│     │

X        Y

 菊解R ZSD‐  B50′aカ

 4すメ密 節ユ ο4r29 ぅ /.r姥つ̲255 9j99′δ0  ,望骸餌 石

̀ ,8589独7

 

65, TaD‐89,′

 '4j4π959 ヱ 鉗6拗   , V.ア2   εttV aB9  j密.む  ア θZ897

1ナ 59944θ   B58d,972

ng。 101 平城 宮内における第1次大極殿地域 の地割 り 数年 は天平尺,X.y.の値 は平面直角座標 系 第6系

,単

m,値

は負数 である。

ag。

102 

第 I期建物の配置計画

2ヱ

9

(8)

大 宝 大 尺

建 物 配 置

V章

の間隔をお くことが判明 して い る。すなわち

,南

面宮城門である西 の若犬養門 と東 に位置す る 壬生門 との心 々距離1800尺 を

3分

,そ

の中央部分を第

1次

大極 殿地域 にあてたのであ る。な お

,内

昼 地球 と第1次大揮殿地域 との中間点 はほぼ南北溝

SD3715に

あた り

,若

犬養門 中軸延 長線 と第

1次

大極殿地域 との中間点 は佐紀池か らの水を導 く南北溝

SD3825と

ほぼ等 しい。

このよ うな ことか ら

,第

1次大極殿地域 と外周 の大垣 および宮城諸門 とが密接 な位置関係 に あ ることが判明 した。 しか しなが ら

,そ

れ は計画上 の ことであ り

,実

際の施工 では大垣 な どと は別個 に建設 されたであろ う。 この ことを裏付 ける資料 が

,中

軸線 の振れであ る。朱 雀門心 と 朝堂院南 問心 とを結ぶ中軸線 は平城宮方位 に対 して西へ 32′5″振 れて お り

,朝

堂院南門の中 心 は朱雀門の中心 に くらべて

1.06m西

に扁 して いることにな る。つ ぎに朝堂院南 門心 と大極殿 南 門心 とを結ぶ 中軸線 は平城宮方位 に対 して01′13″西 へ振れ

,大

極殿南 門の心 が

0.lm西

に 寄 って い ることにな る。大極殿南F]心 と大極殿北面築地回廊心 とを結ぶ中軸線 は04′33″西 へ 振れ

,北

面築地回廊心が

0.3m西

によ ってい ることにな る。つ まり

,朝

堂院

,大

極殿地域 にお け る中軸線 の振れは小 さ く

,施

工誤差 として看過 で きる数値であ るのに対 し

,朱

雀門 と朝堂院 南 門 に存す る中軸線 の振れ は大 き く

,両

者 の間 に測定基準 に違 いがあ ることを しめ している。

との時期 の地割 りを特徴づ けるもう一つの ことは

,( )内

で示 したよ うに大宝大尺 によれば,

ラウ ン ドナ ンバ ーをえ られ る点であ る。 この ことについては

,藤

原宮

,難

波 宮 な どとの比較 が 必要 であろ うが

,第 1次

大極殿地域 が藤原宮か らの遷都 当初 か ら存在 した ことを裏付 け る有力 な手掛 りとな る。

第 二期 の建物配置

(ng.lo2)殿

合 地 区におけ る復原 した

2棟

の建物 は ともに 中軸線上 にあ る。正殿SB7200の心 (N196)は

,嬉

積擁壁SX6600(N163)か ら北面築地回廊心 までの距離 106.5 m(360尺

,大

300尺 )の南

1/3地

点 とほばひ と しく

,後

殿SB8120の推定基壇前縁(N232.2)が 北 1/3 地点 とほぼ一致す る。一方

SX6600と SB7200基

壇前縁 との距離 は18.22m(÷60尺 )であ り

,SB

7200とSB8120と の基壇間隔 は21.4m(約70尺 )にな る。

2棟

の建物 は ともに東西 の築地回廊心 々 距離を

3分

した中央 におさまってい る。以上 のよ うな ことか ら殿舎地 区の地割 りは

,殿

舎地 区 を

9等

分 したの ち

,中

心部 の南

2画

を正殿

,北

1画を後殿 にあてた もの と推測 され る。

I‑2期

に増築 したSB7802の東西心

(w22515)は

築地 回廊基壇 の 東入隅部

(w1845)か

ら南門の中軸線 までの距離を

2等

分 した地点 とほぼ等 しい ところにあ り

,南

面築地 回廊 の内法 を

4等

分 に した地点 に東西建物 の心をおいた ことが想定 できる。

C  第 Ⅱ期 の 遺 構

第 Ⅱ期 の遺構で は

,殿

舎 地 区東第1群建物のSB6660と SB6655に

,或

いは

SB7151増

改築が認

め られ る程度 であ り

,建

物 の重複 関係 によって小期 にわけ ることはできない。 しか し

,中

央建 物群 のSB7150の柱抜取痕跡 か らは,他の建物 の場合 よ りも若千古 い平城宮土器

Vが

出上 して い る。後述す るよ うに

SB7150を

西 宮寝殿 にあて ると

,宝

亀元年 (770)イ こ称徳天皇 は ここで崩御 した ことにな る。 平安 時代 の例 で は天皇 の没後 その寝殿 を とりこわ した慣例があ るので

, SB

7150は 称徳天皇崩御後 に とり壊 した可能性 が強 い。第

1次

朝堂院を画す る塀

SB5551A,SB5550 Aは

この時期 に築地 に改め られた。ただ し

今 回の調査地 ではそれを裏付 け る資料を発見 して お らず

,後

の朝堂院地域 の調査成果 に もとず いてい る。

220

(9)

第 1次 大極殿地域の変遷

ag。 103

第 Ⅱ期の主要遺構

この時期 に南面 と北面の築地回廊を内側 によせ るのであ るが

,そ

の際

,6 ABE― KoM地

区 における第

I期

東面築地 回廊南部 の状態 が問題 とな る。 この場合つ ぎのよ うな状況 が想定 で き るであろ う。

l SC5500が

なお築地 回廊 と して存続す る。

2 SC5500の

築地 のみ存続 して朝堂 院 の築地 と連絡す る。

3 SC5500を

完全 に撤去 して

,ど

の よ うな遮蔽物 も設 けなか った。

遺構 と してはなに も存在 しないのであ るが

,こ

こでは第

1次

大極殿地域 と第

1次

朝堂院地域 との連続性 と

,第

1次朝堂院 の北面築地 が北面 の全域を遮蔽 した痕跡 がない ことか ら

, 2の

立 場 を とり

,こ

の時期の東面築地 回廊

SC3810Aと

朝堂院築地

SA5551Bを

結 ぶ築地 が存在 した も の とかんがえ る。傍証ではあ るが

この時期 の南面築地回廊外 の東西塀

SA7815の

東端 が

か つての回廊基壇付近 で停止 してお り

基壇 とともに 築地 が存在 した ことが 想定で きる。

 

ただ し

,第

1次朝堂院 の詳細 な時期区分や終末年代 につ いて は

,現

在進行 してい る同地域 の発掘調 査成果 にもとず いて後考 したい。 広場地 区の礫敷 も整備 され るのであ るが

井戸

SE9210を

設す るほかは建物な どを建てた痕跡 はない。

築地回廊の 縮小

1)も

し築地 を設けていた らSB7802南 側柱掘形の埋上に土層変化が生 じているはずである。

22ヱ

(10)

V章  

東外郭では依然 と して南北溝

SB3715が

中央幹線水路 と しての機能 を維持 す る。 回廊 の東面 北 門外 に

2棟

の建物がたつ。第

I期

の場合のよ うに衛士 な どの詰所 にあててお く。北外郭の大 膳職 と しての官衛 は この時期 に成立す る。 この地域 は

3小

期 にわかれ るが

,す

で にふれたので

ここでは再論 しないことにす る (p.94参照)。

第 ■期 の地割 り

 

す でにのべて きた よ うに

,こ

の時期の築地 回廊 は第I期の それを縮小 した 敷地の縮小

 

ものであ る。東西幅は第

I期

の規模を踏襲 し

,南

北 の長 さが縮 まるのであ る。すなわち

,南

´

築地 回廊

SC3810Aは

I期

の南面築地 回廊位置か ら北へ99.85m(333尺)移動 し

,北

面築地 回廊

SC6670は

第I期の北面築地回廊位置か ら南へ31.52m(lo5尺 )移 して い るのであ る。

 

したが っ

,南

北 の長 さは186.08m(620尺)とな り

,東

方 の内裏地域 とほぼ等 しい方形 に近 い平面形 を と って い る。第

I期

か ら第 Ⅱ期の間 には基準尺 の変化 があ る。 この時期 の殿舎地 区における建物 の基準尺 が29,9に 復原 で きることか らす ると

,東

西 幅 は590尺

,南

北長620尺 とな る。 また

,こ

の時期 に改修 された石積擁壁

SX9230は

南北

2分

1地

点 で東西 にのび

,こ

の地域 を南北 にわ けて い る。そ して

,南

半分 は依 然 と して広場であ る。

第 Ⅱ期 の建物配置

(ng.104)殿

舎地 区の中央 と 東半分 とで15棟の建物を検 出 したのだが,

建物配 置を左右対称 にかんがえ ると全体 で27棟 の建物が林立す ることにな り

,回

廊を くわえ る と敷地面積 に対す る柱心 での建築面積 の比 は約

37%と

な り

,内

裏地域 の盛 時におけ る建物の棟 数 に比肩 して い る。 しば しばのべて きた よ うに建物配 置はす こぶ る計画的であ り

,殿

舎地 区全 10尺 方 限 域を10尺(2.99m)方眼 に割 り

,個

々の建物を配 して いる。 建物群 は石積擁壁 と北面 回廊心か ら

それぞれ 内側 に45尺 へだた り

東西 回廊心か らそれぞれ40尺 内側 に位置 し

,東

西 510尺

,南

220尺

の長方形 区画 内におさまる。 その内部 に原則 として柱間寸法を10尺 とす る建物を中心部 と外縁部 とに大別 して配置 したよ うである。すなわち

,中

心部 は南北140尺

,東

西350尺 の長方

形 区画 であ り,中 心 に間 口9間の

3棟

を南北 に並列す る正殿(SB6610,SB6611,SB7150)をお き,

廂 のあ る脇殿を四隅 にお き

,そ

の間 に主殿 と脇殿

,脇

殿 と脇殿 とを結ぶやや河ヽさい建物 を介在 させ る。外縁部 は

,中

心部で あ る長方形 区画の外側をめ ぐる幅80尺 の コ字形 の部分であ り

,中

霞 露

:││:│

ag.104 

第 Ⅱ期建物の配置計画

(11)

第 1次大極殿地域の変遷 心 部の後方 には東西棟

,側

面 には南北棟 の建物を配 してい る。復原的にい うな らば

,こ

の正殿

と脇殿の後方 に計

6棟

を配 し

,脇

殿 の左右 にそれ ぞれ

4棟 ,合

計14棟 の付属建物を配 置 してい ることにな る。

第 Ⅲ 期 の遺 構

第 Ⅲ期 の遺構 につ いては

, 2小

期 に区分 した。 た とえ ば東北隅のSB8219。

SB8218に

建替え がみ られ るものの

,全

体 と して建物配 置 に大 きな変更 がない。 一方

,正

殿

SB6620の

後身建物 とみ られ るものがあ るが単

規模 が格段 に小 さ く

他 の建物群 と 併存 した とは かんがえ られな い。 こうした ことか ら

,後

述 の よ うに第 Ⅲ

‑1期

を平城上皇 の内裏 にあて

,第

‑2期

をそれ 以後 の もの とみな している(ng 105)。

第 Ⅲ期 の建物配置(ng。

lo6)こ

こで は第 Ⅲ期 当初の建物配置について検討 しよ う。 この時期 の建物 は第 Ⅱ期 とことな り

,廂

を広 くとることを特色 とし

,す

べ ての建物が10尺 の柱間寸法 で ないため

,第

Ⅱ期のよ うに単純 な方法 では解決 しない。殿舎地 区は第 Ⅱ期 と同様 に南北 は北面 築 地心 か ら石積擁壁 まで310尺

,東

西 は築地心 々距離590尺 の長方形 区画を もつ。 この区画 内を 東西 。南北 に画す る塀 は

,中

軸線 お よび北面築地 。石 積擁壁を基準 とした10尺 方眼で計画的に 配 置 されてい るよ うであ る。

中軸線上 にあ る正殿SB6620の棟通 りは石 積擁壁

SX9230の

北 110尺

,北

面築地 の南200尺 の と ころにあ り

,殿

舎地 区南北長 さを ほば

3分

した南

3分

1線

上 に位置す る。同 じく中軸線上 に あ る後殿SB7170の棟通 りは北面築地の南80尺 にあ り

,SB6620と

の心 々距離は200尺 であ る。脇 殿 の位 置は

,正

殿 と後殿 によって規制 されてい るよ うであ る。 南 に位置す る

SB6622の

棟通 り は中軸線 の東110尺にあ り

,そ

れ は正殿 と石積擁壁 との距離 にひ と しい。 また

,北

妻柱列 は正 殿 の南廂 にそろえている。

SB6622の

東 にあ る

SB8300の

棟通 りは中軸線 の東 190尺 に位 置 し,

南妻柱列 をSB6622に そろえてい るよ うであ る。北 に位置す る

SB6621は

棟通 りを後殿 の それ に そ ろえ

,桁

行 の心 は中軸線の東100尺にあた る。 もう1つの脇殿

SB7173は ,周

囲の正殿

,後

殿

,脇

殿SB6621との関係 で位置が決め られ たよ うであ る。すなわち

,東

側柱筋をSB6621の西 妻柱 筋 に

,西

側柱筋を後殿 の東妻柱筋 にそろえてお り

,結

果 的 には棟通 りが中軸線 の東55尺 と な る。 また桁行の心 は正殿 の北廂 と後殿 の南廂の中間 にあ る。 このよ うに して主要建物の配 置 が きま り

,そ

れを塀でか こんでい る。

北面築地心か ら160尺

,殿

舎地 区南北長310尺 の ほぼ中間 にあた る地点 に東西塀

SA6624を

も うけ

,ま

た北面築地心 か ら40尺 南 に後殿 を画す る

SA6626を ,80尺

南 に北東隅の附属屋 区域を

2分

す る

SA8217が

もうけ られて い る。 東西 を画す る塀 としては

,中

軸線 か ら150尺東 に

SA

6625を もうけ後殿

SB7170,脇

殿

SB7173,SB6621,SB7172,SB7209を

か こむ 区画をつ くり,

さ らにその東 に30尺 の通路をおいて付属屋 区域をか こむ

SA6629を

設 けてい る。 また中軸線の 東110尺 の ところに

SA6623を

つ くり

,正

殿 の東面を画 してい る。以上 の塀 はすべて整然 と して 10尺 方眼 にの る。 そ して

,塀

でか こんだ東北隅の区画 のなかにはそれぞれの中心 に

1棟

ずつ建 物を配 置 して い る。 なお

,広

場地 区の

SB7141,SB92220に

つ いては第 Ⅲ期 にお く絶対的な根 拠 がな く

,第

Ⅱ期 に遡 る可能性 もあ ることはすでにのべ た。

10尺方 限

塀 の 区 画

22θ

(12)

D7177

婿争

5偕

ng。 105

第Ⅲl期の主要遺構

ag・ 106 第Ⅲ l期建物の配置計画

(13)

第 1次 大極殿地域の性格

2  第 1次 大極殿地域の性格

四周 に長 方形 の築地 回廊 を め ぐらす第1次大極殿 の区画 は

,平

城 宮 で もっとも重要 な 区画 の 一 つで あ る。ところで この区画 には,す でに述べて きた よ うに第

I期

か ら第 Ⅲ期 に至 る変遷 がみ とめ られ る。 この

3時

期にわかれ る各時期の遺構がどのような性格の ものであ り,『続 日本紀』

をは じめとす る文献史料にみ られる宮殿名称にどのように対応す るのであろか。 この点につい て

,従

来か ら蓄積 されてきた先行学説に対する検討をふ まえなが ら

,若

子の考察をこころみて みよう。

諸 説 の検 討

この区画 についての最初 の まとまった見解 は

,関

野貞 の『 平城京及大 内裏考』 であ る。関野 は この 区画を 内裏 とかんがえ

,そ

の南 につづ く朝堂院風 の南北 に長 い地域を南苑 に比定 し

,さ

らに東方 で大極殿 や十二堂 な どの土壇 の一部が残存す るところを朝堂院 にあてた。 また

,後

に 問題 にす る西 宮 の所在地を 平城宮西辺 に 位 置す る「大 りの宮」 とい う 小字名 のあるところと し

,東

官 は朝堂 院 の北

,内

裏 の東 に推定 した。一方

,『

続 日本紀 』 に しば しばあ らわれ る中宮 については

,そ

の機能が内裏 とほぼ同 じであ ることか ら

,内

裏 の別称 とかんがえ たのであ る。

関野貞 のつ ぎに提起 された説 は,『 平城宮報告I』で提起 し

,『

平城 宮報 告 Ⅱ』 で補 足 した説 であ る。 そ こでは

,平

城 宮造営 当初 には宮 の 中央 に第

1次

内裏

,第 1次

朝堂院がつ くられ

,天

平 12年 (740)の 恭仁京遷都 ののち

天平 17年 (745)の 平城還都 を上限 と し

宝字年間 の平城 宮改作 を下限 とす るいずれかの時期 に東方 に第

2次

内裏

,第 2次

朝堂院を新設 した とかん がえ た。関野が地上 にの こる土壇や畦 畔あ るいは字名 によって宮殿 名を比定せ ざるをえなか ったの に対 して

,こ

の新 しい見解 は第

2次

の大極殿 と内裏 の

1郭

を発掘調査 した成果を加味 してい る ところに基 本 的な相違 があ る。すなわ ち関野が比定 した内裏 の東部

,つ

まり東宮比定地の発掘

調査 に よ って

,大

規 模 な 区画を もち

,平

安 宮 内裏 にきわ めて類 似 す る遺構 の存在 があ き らか に な った ことに よ る。以後

,こ

の仮説 は当研究所の発掘調査を進 め る過程 のなかで継承 され るこ とにな る。 しか しなが ら

,発

掘調査 が本格 的に進む と予 期せ ぬ事 実 が次第 に浮 び上 って きた。

す なわ ち,そ の後第

1次

内裏 と第

2次

内裏 とを平行 して調査す る過程 において,す くな くとも,

両地域 の創建 時期 には

,30年

におよぶ時間的なへだた りはない ことがあき らかにな った。つ ま り

,第 2次

内裏 の遺 構 もおそ くとも神亀年間頃 に造営 され て い る ことがあ き らか にな ったので あ る。 さ らに

,関

野貞説以来

,方

八 町 と想定 されて きた平 城 宮 が

,1964〜

1967年 にかけての調 査 によ って

,東

方 に約

250mほ

ど拡大 してい ることが判 明 し

この地域 を東宮ない しは東院 に 比定す るのが望 ま しい とかんがえ るにいた った。 この よ うに して

,発

掘初期 に確立 した第

1次

内裏・ 第

1次

朝堂院

,第 2次

内裏・ 第

2次

朝堂院 とい う仮説 に対 して

,修

正 を くわえ ざるを得 ない事態 が生 じて きたのであ る。

第1次

,第 2次

の内裏の発掘が ともに進行 し, 両 地域 の遺構 に対す る比較検討 が容易 にな っ

2)『

平城宮報告Ⅱ』p.■1〜 112

 

野 説

発 掘調査 に よる改訂

1)『

平城宮報告I』 p.16

(14)

 

部 説

その他の説

開始 と終末

V章

 

た時期 に

,新

しい見解を示 したのが阿部義平 の「平城宮の内裏・ 中宮・ 西宮考」 であ る。阿部 は文献史料 にみえ る中宮 。西宮 。東宮の三宮をそれぞれ時代 によ りことな る宮殿 の固有名称 と んかがえ

一 つ一 つの名称 につ いて

対応 す る 遺構を探 しだす とい う手順をふん だと

 

その結 果

,奈

良 時代 当初 には第1次内裏 を 中宮

,第 2次

内裏 を西宮

,東

拡張地域 を真宮 と し

,そ

れ ぞ れの宮殿 が時代 とともに変化す る過程を想定 した。 この ことか ら

,西

宮 と内裏 とは同 じ性格 で あ り

,西

宮を 内裏 の別称 とみ た。阿 部説 のなかで

,も

っとも根拠 が明白な部分 は

,天

18・ 19 年 (746・ 747)頃には 第

2次

内裏 が西宮 とよばれた こと

お よび 平城上皇期 の西宮 が第

1次

裏 にあた るとす ると ころで あ る。前 者 の根理 は内裏北外郭 にあ る土壊

SK820か

ら出土 した天平

18・ 19年 頃の西宮兵衛 についての木 簡 であ って

,こ

の付近 に兵衛 の警護す る西宮 があ った こと を推定 させ るものであ る。後者 の根拠 は『 類衆符宣抄』にみえ る天長

2年

(825)の 平 城 宮西宮 に関す る官符であ り

,平

城 上皇 の官 が西官 とよばれ た ことを しめ して い る。 また

,発

掘調査 で 検 出 した遺 構 によ ると

,第 1次

大 極殿 地域 ではあ き らかに平城上皇時代 の宮殿 が存在 して い る が

,内

裏地域 では その時期 の遺構 がな い。 この よ うな ことか ら

,第 1次

大極殿地域 の平安 時代 遺 構を平城上皇の西宮 にあてたのであ る。

阿部 の説 は

,第 1次

大極殿地域 の発掘調査 がなお進行 中に提起 され た ものであ り

,そ

の後 の 発掘経過 か らみ ると

,な

お検討 の余 地をの こ した。その後

,狩

野久

,鬼

頭清 明 は

,第 1次

大極 殿地域 の創 建遺構 が

,和

銅遷都時 におけ る大極殿 であ り

,そ

こには前期難波宮

,藤

原 宮

,平

城 宮第

2次

大極殿 な どとは ことな る殿舎配 置がみ られ ることか ら

,唐

長安大 明宮 の合元殿 を模倣 した当時 と しては斬新 な立案計画 の もとに建設 された ものであ ると した。今泉 隆雄 は第

1次

極殿地域 の ほぼ ととの った発掘成 果 と内裏 地域

,第 2次

大極殿地域 の発掘成果 を掛酌 して

,平

城 宮 の主要宮殿 の比 定を行 な った。今泉 は和銅創建 の大極殿 と朝堂を第

1次

大極殿 地域 とその 南 に展 開す る第

1次

朝堂 院地域 にあて た。養老

5年

以 降,大 極殿 と朝堂院 は東 の第

2次

大極殿,

2次

朝堂院地域 に うつ され

,旧

地 には中宮・ 朝堂の呼称 があたえ られた とす る。 内裏地域 に つ いては呵部 の説を支持 して 西宮 にあて

東院 について も 同様 に東張 出 し 部 をあて るのであ る。 その後

,恭

仁宮大極殿 およ び平城宮第

2次

大極殿 の発掘調査 が行 なわれ るに至 って

,こ

れ も再考をよぎな くされた。以上 の よ うな諸説 を尊重 しなが ら

,い

ま一度第

1次

大極殿地域 の変 遷 をふ りかえ ってみ よ う。

B  第 工期遺構 の年 代

この時期の遺構 が 和銅創建時 に さかのば ることは

短 期間 の うちに消滅 す る東外 郭の南北 溝

SD3765か

ら和銅 の年紀を もつ 木 簡 が 出土 してい ることや

,全

体 のプ ランが 大宝大尺 に準拠 して い る ことによ って あき らかであ る。 南面築地 回廊 に付設 され た東楼

SB7802の

柱 抜取痕跡 か ら天平勝宝

5年

の年紀 があ る木 簡 が 出上 してお り

,伴

出の上 器 が平城宮土器 Ⅳ にぞ くし

,そ

れ と同型式の上器 が

,簿

積擁壁

SX 6600を

埋 立 て た埋上下部 な どか ら発見 されてい ることはす

1)阿

部義平「平城宮の内裏・ 中宮・西宮考」『研

    3)鬼

頭清明「 日本 における大極殿の成立」

究論集 Ⅱ』奈文研学報第23冊 1973,p.71〜

91    

『 古代史論叢』中 吉川弘文飴 1978,p.47〜74

2)狩

野久「律令国家 と都市」『大系 日本国家史

    4)今

泉隆雄 「平城宮大極殿朝堂考」『関晃先生

I古

代』東京大学出版会 1975,p.219〜

254     

還暦記念 日本古代史研究』吉川弘文舘 1980

(15)

第 1次 夫極殿地域の性格 で にのべた ところで ある。 この よ うな ことか ら

,終

末 について は天平勝宝

5年

(753)が一応の 目安 とな ることにつ いて は問題 ない (ng。97〜100参照)。

第I期は

4小

期 に細分 され るが

,第 I‑1期

を和銅創建時 にあて ることはい うまで もない。

I‑2期

の年代 について は資料 を欠 くが

,南

北溝

SD8765を

東方 に移動 した もの と想定 され る南北溝

SD3715が ,霊

亀元 年 (715)の 年記 を もつ木簡をふ くむ土壊

SK5535を

破壊 して い るこ とか ら

,霊

亀年間を遡 ることはな い。一方

,SD3715の

下 流 に位 置す る堰

SX8411か

,神

亀 〜 天平初年の造作を物語 る木簡 が 出上 して お り

,な

かに「西高殿」・ 「東高殿」。「高殿料」 な ど の建物名称を記す ものがあ り

, F続

日本紀』 にも南楼・南高殿 として出現 している。

 

この高殿 を

SB7802に

比定す る な らば

I‑2期

を 神亀〜天平初年の 時期にあて る ことができる。

朝堂院の出現 については

和銅

6年

のこととして

,『

三代実録』元慶

8年

5月29日条 に朝堂ヘ の出入のことをのべた部分があ る。

 

しか し

これは第

1次

大極殿地域内で も想定 しうる。

 

と ころが

,霊

亀元年正月の新羅使接待の記事では

中門 (朝堂院南門

)で

諸方 の楽を奏 し

南聞 (大麒 南門

)で

大射 してお り

,大

極殿 と朝堂院が別 々の区画であったことを しめ している。 こ のことか ら和銅末年頃に朝堂院が形成 されたものとかんがえる。

後述するようにこの地域の正殿を創建時の大極殿に比定す るのだが,『続 日本紀』天平15年11 月条に「初て平城の大極殿井 に歩廊を壊 して,恭仁宮に遷 し造 ることここに四年

,そ

の功線かに 畢 りぬ」 とのべ られている大極殿をそれにあて るな らば

,第 I‑2期

の終末は天平12年 (740)

頃になる。

tt I‑3期 ,第 I‑4期

の年代を探 る直接の手掛 りはないが

,第 I‑3期

を恭仁宮 時代にあて

I‑4期

の始 まりを天平17年 (745)の平城還都後にあててお く。その終末につ いてはすでにのべた。

『 続 日本紀』にのべ る恭仁宮へ移建 した平城宮大極殿が

,今

回報告す る第

1次

大極殿なのか 東方の第

2次

大極殿なのかを検討す る必要がある。幸いここ数年の間に恭仁宮大極殿

,平

城宮 第

2次

大極殿の発掘調査が完了 してお り

,さ

らにかつて調査 された藤原官大極殿 も比較対象 に な しうる。結論的にいえば山背国分寺金堂を旧恭仁官大極殿 とすれば

, SB 7200を

その前身建 物にあてるのがもっともふ さわ しい。

SB7200は

わずかにのこった基壇の地覆石抜取痕跡か ら,

53.lm(180尺29.5m(loo尺)の基壇 に

,桁

9間 (451m),梁

4間 (207m),柱

間寸法 は桁行17

(50m)等

,身

舎梁間18尺

(53m)に

17尺

(50m)を

想定 した。恭仁宮大極殿では

53.lm×

28.2mの

基壇 に礎石および根固め石が残存 してお り

,桁

行 9間

(447m,基

楽尺

30Cm,以

下同じ),

梁間 4間 (19,8m)の 四面廂建物が復原 されている。その柱間寸法は桁行の両端間15尺

(45m),

中の 7間 を17尺

(51m)等

間 とす る。梁間では身舎を18尺

(54m)と

,廂

を15尺(4.5m)と す る。平城宮第

2次

大極殿は

,46.Om(155尺

23.3m(80尺 )の 基壇を もち

,桁

9間

(129尺

),巽

4間

(54尺)の四面廂建物である。柱間寸法は身舎の桁行・ 梁間 とも15尺

(446m)等

間 とし

,廂

の出12尺

(357m),基

壇の出13尺

(3,87m)と

なる。 これによって

,同

9間 4面

建物であって

1)加

藤優「 1976年 発見の平城宮本簡」『年報19

77』 p. 38

2)国

史大系『続 日本紀』天平8年二月の条の南殿 は金沢文庫本では南楼 となってお り

,天

20年 正月にあらわれ る南殿について紀略 では「南高 殿」としている。遺構 に即 してかんがえると

SB

7802が当時南楼。南高殿 とよばれた ことになる。

3)中

谷雅治ほか「恭仁宮跡昭和52年度発堀調査 概要」『埋蔵文化財発堀調査概線 』京都府教育委 員会

1978,p24

4)井

上和人「平城京大極殿の調査」『年報1979』

p.1

5)足

立康・ 岸熊吉『 藤原宮伝説地高殿の調査 二』 日本古文化研究所 1936,p.48

殿

大 極 殿

恭仁大極殿

(16)

V章  

  

,平

城 宮第

2次

大極殿 は一廻 り小 さ く

,恭

仁宮大極殿 にな りえない ことはあき らか であ る。

なお

,平

城 宮第

2次

大極 殿 の下層 に

7間

×

4間

の掘立柱建物が存在 したが

,基

壇上 の建物 に建

藤原大極殿 替えを行 な った痕跡 はない。つ ぎに藤原宮大極殿 についてのべ ると

,か

つての発掘調査 では基 壇 は約

40m× 30mで , 7間

(114尺

,34.2m)× 4間

(60尺

,18m)の

四面廂建物 とされ た。

 

この

場合 の柱 間寸法 は桁行 の両端間を15尺

(45m)と

,内

5間

を 18尺

(54m)と

,梁

間 は15

(45m)等

間 であ る。 しか しなが ら

,近

年 に行われた藤原宮大極殿周辺の発掘 によれ ば

,桁

行を

9間

に想定 しうる可能性 が生 じて い る。 この場合 の柱間寸法 は

,身

舎桁行・ 梁 間 とも17尺 等 間

,廂

を15尺 にかんがえている。

以上 の よ うな ことか ら

,恭

仁宮大極殿 の前身建物 としてSB7200を あて ることは妥 当であ り,

平面 プ ラ ンは恭仁宮大極殿 と類似 して い ることにな る。殿舎地 区か ら発見 され る平城 宮瓦

Iが

恭 仁宮大極殿か らも出上 して い ることも有力 な根拠 になろ う。藤原宮大極殿 も

SB7200と

似 た 規 模 であ り,藤 原宮か ら移建 した可能性 がな くはない。 しか し,身 捨梁 間の寸法 が短 い ことは移 建 の可能性を少 くしてい る。 また

,和

3年

二月 に藤原宮で行 なわれた儀式 に大極殿 と重閣門 が使用 された可能性 があ り

同年 3月 の遷都時 には平城宮大極殿が存在 した とすれ ば

SB7200

は藤原宮か ら移建 した ものではな く

,平

城 宮 で新築 した大極殿 とみな しうる。

SB7200を

和銅創建 の大極殿 にあて るな らば

, 7〜 9世

紀 の他宮 に くらべて 大極殿 と朝堂院 平城大極殿

 

との関係

,あ

るいは内裏 と大極殿の位 置関係 において

,か

な りことな った様相を呈 して い るこ とにな る。 しか し

,大

極殿 が 内裏 の南 に位置 していない宮城 プ ランは長 岡宮

,平

安 宮 な ど平城

宮 以降の諸宮 にみ られ る。大極殿の前面 を閤門 と回廊 で囲わず前面を広場 とす る点 は竜尾壇を 設 け

,平

安 宮 の場合 と共通す るのであ る。 したが って

内裏 と

SB7200の

位 置関係か ら

SB7200

を大極殿 でない とす る意見 は成立 しない。

一 見変則的 にもみえ る 第

1次

大極 殿 の形態 が

なぜ平城宮創建時 に 採用 され たので あ ろ う 大

 

 

 

か 。大極殿の前面を一段低 い広場 にす る宮殿配 置 とい う類似性か らすれば

,唐

長安大 明宮の合 元 殿 に近 い形態 といえ よ う。

 

それ は壇 の中央 に合元殿を お き

左 に翔鸞閣

右 に棲鳳 閣を配 し

,閣

下 の広場 と竜尾道 でむすぶ。一方

,本

来 の長安太極宮では

,大

極 殿前面 に殿 門を おいて 廊 で囲む形態 が想定 されて い る。 しいて いえ ば藤原宮

,後

期難波宮

,平

城 宮第

2次

大極殿 は,

太極宮のパ ター ンにぞ くす るのであ る。 そ して

,第 1次

大極殿 は長安城大 明宮の新 しい宮殿 プ ラ ンに もとずいてい るよ うであ る。 しか し

,大

極 宮 では大極殿 の後 に両儀殿を

,大

明宮 で は合 元 殿 の後 に宣政殿・ 紫震殿を配 し

,日

本 の 内裏 的 な機能を もつ宮殿を ともな ってい るので

,第

1次

大極殿 のプ ランが まった くの模倣 ともいえない。

四周を築地 回廊 で とりか こみ

,前

の2/3を 石敷広場 とし

,後

の1/3に 殿舎をたて る第

1次

大極 大 極 殿 と

 

殿 は

,計

画段階 において朝堂院を南 につ くることを予定 しなか った形跡 があ る。す なわ ち

,早

  

くに埋 立て られ る南北溝

SD3765が

朝堂 院 内の 東辺部を貫通 して い るか らであ る。 この溝 につ いては

,官

造営時の拶F水溝 であ り宮殿 の完成後 には埋立て られ るべ き一時的な溝 とす る見方 も あ る。だが

,回

廊 内の暗 渠排水が この溝 に注 いでい るので

,少

くとも開撃 当初 において は

,永

続 的な施設 と して掘攀 した とみ るべ きで あ る。 しば しばのべて きた よ うに

,大

極 殿 の前面 に展 開す る広大 な 広場を もつ配 置が

1次

大極 殿 の もっとも 大 きな特色 にな って い るのであ る

1)山

崎信二・ 松本修 白「飛鳥 。藤原宮跡 の発掘調査」『 年報1978』 p.44

223

(17)

第 1次 大極殿地域の性格 が

,朝

堂院の設 置が考慮 されなか った とすれ ば

,回

廊域 には大極殿 と朝堂 の機能 がか ね そなえ

られて いたのではないか と思 いいた るのであ る。中国では漢か ら唐 にいた るまで

,朝

堂 は東西

二 つ も うけ られ るだけで

,日

本 の よ うな十二 堂を も うけない といわれ る。朝堂 は長安太極 宮 で は承天 門前 の東西 にあ り

,大

明宮 で は左 右 閣 の それ ぞれ東西 ない しは東南・ 西 南 に想定 されて

1)

い る。 このよ うにかんがえてみ ると

,い

まは まった く痕跡を とどめないが

,SB7200の

東西 にそ れぞれ1棟の朝堂があ り

,殿

下 の朝庭 とともに各種 の朝儀 に対応 した とす る見方 も

,無

稽 の こ とでは あ るまい。広場地 区におけ る第

I期

の朝堂相 当建物遺構 の有無 にういて は

,こ

の地域 で は礫敷 を除去 し

,地

山面 まで掘下 げて い るので

,も

し存在すれ ば

,基

壇 の掘込地業や地覆石抜 取痕跡 な どの片鱗 で も検 出で きるはず で あ る。遺構 が存在 しない ことか ら

,広

場 地 区 に朝堂 相 当の建物 がなか った とかんがえざるをえない。 この場合

,や

や時期が遅れて建設 され る南接す る朝堂院 との関係 が問題 にな る。す なわ ち

,本

来 は第

1次

大極殿地域 のみで完 結 すべ きなのに なぜ 朝堂院が設 け られ たのであろ うか とい う疑 間であ る。いまの ところ確固た る解答 は もちえ ないが

,一

つの見透 しを提示 してお こ う。岸俊男 の見解 によれば

,日

本 の朝堂 院 には朝儀・ 朝 参・ 朝政 の三機能を そなえて い るとい う。遷都 の当初

,藤

原宮 の よ うに朝堂 の よ うな施設 が計 画 されて いない ことは朝堂院の機能 の うち朝儀 のみを とりあげ,大 極殿の機能 と併合 したため,

大極殿 の前 に広大 な礫 敷広場を確保す ることにな ったのであろ う。 この場合

,さ

きにのべ た よ

うに殿舎地 区の東西 にそれぞれ

1棟

の朝堂 があ った もの とかんがえ る。前期難波宮 の大極殿相 当建物 の斜前方 に位 置す る左右 の南北棟建物 がその存在 を示 唆す る。つ ま り

,唐

制 にな らって

儀 式を主 とす る朝堂 と大極殿を合体 させ たのであ る。 さ らにいえば

,本

来 は大極 殿南 門 と朱雀 関 の間 に長安城皇城 の よ うな曹司の配 置を計画 したのではあるまいか。第

1次

朝堂 院地域 の倉」

設 を和銅末年 ごろお くことについて はす で にのべ た。 しか し

,計

画 に反 して 旧来通 りの朝堂院 がつ け加え られた ことは

,再

び朝儀・ 朝参・ 朝政 の機能 が この地域 に課せ られ た ことを意味 し て い る。つ ま り

,再

度 藤原宮 の よ うな大極 殿 と朝堂 院 の関係 が復興 され たので あ る。

1次

大極殿地域 の正殿を大極殿 にあて るな らば

,阿

部 らが この地域 を 中宮 に比 定 す る見方 は困難 にな る。中宮 は『 平城宮報告 Ⅱ』 での検討 によれば

,宮

子皇太夫人 の御所 とす る説 もあ るが

,内

裏 と同一 機能 を有す る殿舎 であ り

,恭

仁遷 都 以前 に この呼称 が多 く用 い られ

,授

位・

賜 宴・ 蕃客献物・ 読経 な どの行事 が行 なわれてい る。 一方

,中

宮 の供養院(天平9年10月20日)

があ った り

中宮宮子 が崩 じて いた りす るの は(天平勝宝6年7月19日

), 

そ こが公的儀式や宴 会 に使用 された と して も

,一

方 には起居 の便 を もつ居 住空間を そなえ

,院

といわれ る小 区画 に 分 割 されて いた ことを意 味 して い る。第 I期の第

1次

大極殿 にはそ うした居住空間を想定 しえ ないのであ るか ら

,中

宮 とす るわ けにはいかない。消去法的ないい方 であ るが

,こ

の点 か らす

るな らば

,中

官 は内裏地域 の別称 とか ん がえ るの が無 難で あ る。

この地域が大極殿 と して の機能 を そなえて いたのは第

I‑1, I‑2期

であ り

,恭

仁遷 都以 降の使用法 について は判然 と しない。大 極殿 は恭 仁宮 へ移建 された とはいえ

,そ

の後殿 は残存 した とお もわれ る。

SB7802出

土木 簡 によ るか ぎ り

,天

平 勝宝

5年

段 階 において は南 門 が衛 門府

1)佐

藤武敏「唐の朝堂に ついて」『難波宮 と日 本古代国家』塙書房 1977,p.183〜212

2)岸

俊男「朝童の初歩的考察」『橿原考吉学研

究所論集 宿1立三十五周年記念 』吉川弘文館 1975, p 509‑541

中宮の居住 性

229

(18)

三殿連続の 正殿

平安宮内裏

 

 

V章

 

に警護 され

,内

「大殿」とよばれ る建物 が存在 して い るか らであ る。養老令 によれば衛 門府 の 管掌す るのは閤門ではな く,宮 門であ る。閤門 は大極殿 ない しは内裏 の諸門 にあて られてお り,

したが って大極殿 が恭仁宮 に移建 された後 は

,大

極殿 のあつかいを うけていないのであ る。

C  第 Ⅱ期 遺 構 の宮 殿 比 定

第 正期 は小期 に細分 され ることな く

,多

少 の変更 はあ るにせ よ天平勝宝

5年

以降 に建設 がは じま り

,長

岡遷 都 まで30年余 り存続 した とかん がえ る。終末 の年代 は

,こ

の時期の建物 の柱痕 跡 な い しは柱抜取痕跡か ら平城宮土器

Vが

出土 して い るこ とか ら決定 した(ng 103参照)。

この時期

,築

地 回廊 は方形 に近 い平面形 に縮少 し

,後

方 の殿舎地 区に多数の掘立柱建物 が林 立 す る。

 

中軸線上 に 位 置す る

SB6610,SB6611,SB7150は

棟 を ことにす るが

,連

続す る建物 で あ り

,そ

の平面積1,134m2に比肩す る建物 は

,他

に例をみない。正殿を 中心 に して左右 に計

4棟

の脇殿をお き

,そ

れぞれ廊状建物 でむ すんで床を ひ とつなが りに して い る。 この よ うな状 況 か らすれ ば

,そ

の利用形態 と して大極殿 は考慮外 であ り

,居

住空間 が要請 され る宮殿 をか ん がえな けれ ばな らない。 とはいえ

,殿

舎地 区の前 は一面 の広場であ り

,公

的儀場 としての使用

も可能 であ る。居住性 のあ る生活空間を具備す る宮殿 としては

,こ

の時期 の中宮・ 中宮院ない しは内裏 であ り

,西

宮 もそれ にふ くめて よか ろ う。

平 安 宮古 図 によれ ば

,内

裏南半の中心 は 南殿(紫痕殿)であ り

,そ

の東 に南か ら春興 。宜 陽 の /2殿を お き

,西

に南か ら安福 。校書 の

2殿

お き

,建

物 が コ字形 にめ ぐる内側は公 的な空間 とな る。北半 は天皇 の私的生活 の場であ る常寧殿 を 中心 と した区画であ る。平安宮 内裏 に類似す る 建 物配置を とるのは

,奈

良 時代 の平城宮では内裏地域 であ り

,そ

れが奈良時代 の全期間 にわた って存続 した ことは

,発

掘 調査 によ って あ き らか にな ってい る。だか ら

,内

裏 の位 置 につ いて の異論 は存在 しない。内裏北方 の官行地 Ⅸにあ る土 壊

SK820か

ら出土 した木簡 によれ ば

,天

18・ 19年 段 階では内裏地域を「西宮」とよんだ ことがわか る。つ ま り

,そ

の時点 では西宮 は内裏 の別称 であ った。

中宮 の呼称 は天平勝宝

6年

以後 にあ らわ れ る こ と は な い。中宮院 は天平 17年 にあ らわれ る が

,こ

れ は居住 空間を もつ内裏地域 にあて は まる。つ ぎに中宮院があ らわれ るのは淳仁朝であ る。

 

中宮院 の位 置を しめす史料 はの こって いない。

 

ただ,『 続 日本紀雪天平宝字

8年

10月 9日 条 にあ らわれ るつ ぎの記述 は

,あ

る程度

,中

宮 。中宮院の位置決定 に役立つであ ろ う。

高野天皇遣兵部卿和氣王

,左

兵衛督 山村 王

,外

衛 大繕百済王敬福等

,率

兵敷 百 園 中宮院 ,時 帝返而未及衣履

,使

者促之

,敷

輩侍衛 奔 散無人 可従

,僅

典母家三爾人

,歩

到 固書 寮西北之 地

,立

地 山村王宣詔 日

,(中

)事

,痔

公 及其母

,到

小子 門

,虜

道路 鞍馬騎之,(下略)

この記事 は仲麻 呂の乱 に際 して

,高

野天 皇 が淳仁天皇を淡路 国へ配流す る部分であ るが

,注

目すべ きは淳仁天皇が辿 った宮 内か ら宮外へ 出 る道筋であ る。中宮院 ・ 図書寮 ・ 河ヽ子 門 があ らわれて い るが

その うち小子門の位置が ほば推定 され る。 小子 門を記す木簡 が

平 城 宮東 拡 張部 で南 に開 く宮城 門

SB5000付

近 の溝 か ら発見 されて い るか らであ る。 この ことか ら一 応

SB5000を

小子 門 に比 定 して い るので あ るが

,た

とえ それ に当否があ るにせ よ,小子 門が平 城宮

230

(19)

第 1次 大極殿地域の性格 の東方 に位置す る門であ ることは否定 しえないで あ ろ う。 したが って

,淳

仁天皇 は中宮 院 か ら 出て東南 の方 向へ裸足 で歩 いた ことにな り

,図

書 寮 の西北 の地 で詔 を うけたので あ る。図書 寮 の所在地は まだ明 らかでないが

,中

宮 院 か らさほ ど遠 方 にあ るとはお もえない。和気 王 らは中 宮 院 をか こんで近 くに待機 して いた はず で あ るか ら

,当

,図

書 寮 の西北 の地 は 中官 院 の東南 の あた りに接 していた とお もわれ る。 この よ うにかんがえ るな らば

,中

宮 院の位置 は第

1次

極 殿 地域 よ りは

,内

裏地域 にかん がえ るほ うが至 当で あ る。 これ よ り先

,天

平宝字

6年

5月 に

保 良宮か ら帰 ったの ちは

,淳

仁帝が 中宮 院 にお り

,高

野天皇 が法華寺 に住む状況 がつづ いて い た。 それでは第 Ⅱ期の広大 な遺構 に対 して

,ど

の よ うな宮殿名をあてた らよいので あ ろ うか。

それ については第 Ⅲ期の遺構をのべ たあ とでふれ ることに したい。

平 城上 皇 の宮殿

第 Ⅲ期 の年代 は遺構 に ともな って平 城宮土 器 Ⅵが発見 されて い ることか ら

,平

城上 皇 が この

地 に再興 した平城宮の遺構 にあて ることがで き

,大

4年

(809)か らお よそ15年 間存 続 した こと にな る。第 Ⅲ期は第 Ⅲ

‑1期

と第 Ⅲ

‑2期

に細分で き

,第

‑1期

は平城上皇 の時代 に比定で き る。第 Ⅲ

‑2期

1期

の遺構を とどめて い るとはいえ

,建

物配 置のバ ランスが崩 れ て お り, 平 城西宮 が平城上皇 の親 王 に賜与 され た 天長

2年

(825)以降 の遺構 とお もわれ る。『 文徳 実 録』

天安元年 (857)3月 乙卯条 にあ る「遣 六衛 府舎 人等於平 城」とい う記事 は当時 なお平城 京 が都市 機能 を維持 した ことを しめ し

,第

‑2期

が存在 した間接的な証左 とな る。

第 Ⅲ

‑1期

の建物配 置 は前殿 と後殿 を中軸線上 にお き

,そ

れぞれ の左右 に脇殿 を配 す る。

(

の よ うな建物配置か らすれ ば

,内

裏 的で あ り

,さ

きにのべ たよ うに平城西宮 とい うのは第 Ⅲ一

1期

の遺構 の ことであ ることはほぼ間違 いのない ところであ る。つ まり

,築

地 にか こまれ る方 格 の 区域 が内裏 であ り

,そ

の南 に少 し く離 れて位 置す る建物SB 7803を大極 殿 相 治の建 物 に比 定 しうるのであ る。 第 Ⅲ期 の建物配 置 が 内裏 的 で あ る 点 について はす で にふれ た ところで あ るが

,そ

れ は概観 的な印象 で あ って

,平

城 宮 内裏地 区あ るいは平安宮古 図 と比 較す るな らば, 細部 においてかな りの 相違点 を見 出す こ とがで きる。

 

ここでは 他 の内裏 との比較 を試 みなが

,平

城上皇 の内裏 の検 討 を進 めてみ よ う(ag。 105参照)。

第 Ⅲ期 におけ る築地 でか こむ 方形 区画 は第 Ⅱ期 の築地 回廊域 を踏 襄 し

,石

積擁壁

SX9230以

北 の殿舎地域 と以南 の広場地域 をその まま残存 させ たため

,特

異 な宮殿配置 とな った。 ほぼ同 一 敷地面積を もつ平城宮 内裏で はこの広場地域 の中央 に回廊ない しは塀を コ形 にめ ぐらして 内 裏 正殿 を閤門 中心線上 にお き

,左

右 に それ ぞれ

1棟

な い しは

2棟

の建物 を配 し

,そ

れ は平安宮

の紫震殿 と宜陽・ 春興 殿

,校

書・ 安 福殿 に相 当す るもの とされて い る。 しか し上 皇 内裏 にお け

1)『

平城宮木簡Ⅲ』解説p.48。 なお,1981年133次調査では若犬養門(南面西門

)付

近の二 条大路北側濤か ら内膳司か ら小子部門へあてた 文書木簡が出土 している『平城官木簡概報16』。 この結果

,小

子門は正確 には「小子部門」 とい い

,他

の宮城十二門とともに氏の名をもち

,十

二門相当の門であることが確認 され

,解

説 Ⅲの 説 を補強 した。位置について も出土地が二条大

路側・iSであることか らみて解説 Ⅲ と矛盾 してい ない。

2)平

安時代になって平城上皇が再輿 した平城宮 が正式にどのようによばれたかについてはあき らかでない。実際は御在所 などとよぶべ きであ ろ うが

,こ

こでは便宜的に上皇の居住空間 をか

りに上皇内裏 とよぶ ことにす る。

平 城 西 宮

上 皇 内 裏

23′

参照

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変更量 ※1