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多 │

ドキュメント内 1  第 1次 大極殿地域の変遷 (ページ 37-44)

  

  

瓦 恭仁宮期

国分寺期

6284A ・ 6284C・ 6284E

6285A・ 6285B・ 6308・ 631lA・6301B

6291♂o6320A o 628211a・ 6130A  6321A

Kふ105・K〕v[06

6664C・ 6664K

6685B・ 6691♂【o6682A・ 6664F・ 6671B

i?研 瑠

::∃)6724・ 672に

6721ttH KH05・ KH03・ KI■ 02・KI103・ 6732

のように平城宮瓦Ⅲ期に位置づけるものもふ く まれ るが

,今

回は

,恭

仁宮造営期のもの として 取 り扱 った。

Tab。

44 

恭仁宮軒瓦の分類

恭仁宮 と平城宮 との間 に存在す る同絶関係軒瓦 の大半 は

,恭

仁宮遷 都 に ともな って平城宮か ら運 んだ もの とみて さ しつかえなかろ う。そ して

,軒

瓦 か らも

,『

続 日本紀』 の記事が傍証 さ れ るこ とにな る。ただ し

,恭

仁宮大極殿 に葺 いた もの と想定 されて い る

6320Aaに

つ いては間

題 があ る。つ ま り

,同

絶で あ って も

,平

城宮 で は外縁 の凸線鋸歯文 を凸面鋸歯文 に彫 りなお し た

Abが

多 く存 在 して い るか らであ る。 この ことは

,同

絶で あ って も

,恭

仁宮の

6320Aaが

古 く

,平

城 宮 の

6320Abが

新 しい もので あ ることを物語 って い る。一方

,恭

仁宮で6320Aaと 組合 さる

6691Aは ,南

面築地 回廊地 区と殿舎地 区に集 中す るが

,6320Aと

は組合わず対応す る軒丸 瓦 も見 出 しがたい。平城還都後 の第 Ⅱ期建物造営 に ともな う補助瓦 と して用 い られてい る らし いので あ る。

法隆寺東院で は

,天

平 10年 代 の創建瓦 と して

6691Aが 6285Bと

組合 って用 い られてい る。 と もに恭仁宮 に存在す るが

,組

合せ 関係 は ことな って お り

,法

隆寺東 院の

6691Aに

は凸面 に格子 目叩 きの調整 を施 す な どの

,他

にみ られ ない独 自の技法 があ る。一方

,平

城宮 の ものは

6285A

Bで

あ り

,少

しく形 が ことな り

,そ

れ も主要 な瓦 にはな って いない。 この ことか らす ると,

法隆寺東院 法 隆寺東院 と 恭 仁宮・ 平城宮 の あいだに存在す る 同施関係 は

絶型 の移動 によ る可能性 があ

1)京

都府教育委員会「恭仁宮跡昭和53年発掘調 査概要」1979,p.1〜63

2)平

城官 と同施の瓦には,6282Ha・ 6721A・

C

2を8

・E

6285‐A (KM03B,

628t5‐B

rKM030

Ⅷ   ″

j!ぉ

(KH08A,

667'‐B (KH'0'

ag。 114 平城官 と恭仁宮の同範軒瓦

2を9

V章

 

察 る とみなけれ ばな らない。

しか し

,恭

仁宮 と平城宮 の同飽 関係 は

,瓦

工房 内の 問題 で あ る可能性 がつ よい。その手掛 りと して第

1次

大極殿地域 か ら出土 した人名刻 印瓦 があ る。人名刻印 は丸 。平瓦 にみ られ

,恭

仁 宮で多量 に用 い られている とともに

,東

大寺 の前身で あ る金鐘寺 の金堂 とされ る 法 華

 

 

法 華堂の所用瓦で もあ る。 それ らは人名 が共通す るば か りではな く

,瓦

の製作技法 も共通 して お り

,同

一工 房 の製 品で あ ることについて は衆 目の一 致す るところ で あ る。 さ らに

,印

形 の磨 耗状況 か らすれ ば

,恭

仁宮

・ 法華堂 よ りも平城宮の もののほ うが後 につ くられた もの と推測 されてい る。 また

,法

華 堂付近 か ら

6691A

‑6285Aが

2) 出上 して お り

,そ

れ らが人 名刻 印瓦 と一 連 の ものであ ることが うかがわれ る。 この よ うな ことか ら

,恭

仁 宮・ 法華堂の瓦がほぼ時期を同 じくして造 ら れ

,そ

の絶型が法隆寺東院 の創建 時 に も用 い られ た こ とが想定で きる。一方

,平

城 宮で は

,平

城 還都後 の修 理 に際 して用 い られたであろ うことが類推 で きること

1)人

名亥1印瓦については

,そ

の人名が

,造

東大 寺司の瓦工名 と一致す るとい う藤沢一夫 の見解 がある。 藤沢 一夫「造瓦技術の進展」『 日本 の 考古学Ⅵ』1967,p.293

2)奈

良県教育委員会『 国宝東大寺閉山堂修理工 事報告書』1971,第113図

3)巨

勢朝臣奈氏麻 呂は

,天

平勝宝5年 (753)3

250

ag。 115 6320Aの二種

上 a(恭 仁宮

)下

b(平城宮)

,造

宮卿のまま発 じていることか ら

,還

都後 の平城宮の造営にも係っていた と推定 され る。

4)恭

仁官 と法華堂の人名亥1印瓦については

,智

努王が介在 した とす る森郁夫 の見解がある。森 郁夫 「東大寺法華堂の瓦」『 南祁佛教』第43・

44号 1980,p.140〜 p.148

にな る。つ ま り

,天

平 10年 代前半 の主要 な軒瓦文様であ った

6691A, 6285A・ B,6320Aお

よ び人名刻印瓦 は

,天

平 17年 以 降の平城宮 で は残影 として存在 し

,第

1次大極殿地域 の

6134A―

6732A・

6282B‑6271C,第 2次

大 極殿地域 の

6225‑6663の

軒瓦文様 が主流 にな って変化 して

│ヽ くとい う見透 しがたつのであ る。

瓦工 房 と宮城や寺院の造営長官 とを直結 させ るのは危 険で あろ うが

うえの よ うな瓦製作 が 造宮の長官

 

共通 す る事情を 裏付 けるよ うな人事 に 注 目 したい。

 

巨勢朝 臣奈砥麻 呂 と智努王が

天平 13年 (741)に恭仁宮の造宮卿に任命 されている。『 法隆寺東院縁起』によれば

天平19年段階の造院 司長官は巨勢朝臣奈瓜麻呂であ り

智努王は神亀

5年

(728)に東大寺の前身である金鐘寺 の造 営にかかわる造山房司長官に任命 された ことが記録 されている。

5  ニヒ

A  平 城 宮 土 器 Ⅳ・ Ⅶ の 再 検 討

今 回報告 した土器 のなかで

,編

年上 問題 にな る東楼

SB7802出

土土器 および 第 Ⅲ期遺構か ら 出上 した土 器 につ いて

,主

と して土 師器食器類製作 の調整手法 を中心 に して検討 を こころみて み よ う。

東 楼

SB7802出

上 の 土 器

SB7802の

柱抜取痕跡 か ら出土 した 土 器 は短期 間の うちに投 棄 された もので

平 城宮土器 Ⅳ にぞ くす る。 しか しなが ら

これ まで平城宮土器Ⅳの代表例 として きた

SK219の

上 師器調整手

1)

法 とは様 相が い ささか ことな る。

SK219出

土土 師器 の調整手法 の割合 をみ ると

,杯 Aで

a手

5,3%, b手

92.1%, C手

2.6%,皿 Aで

a手

7.5%,b手

65.3%, C手

27.2%で

あ り

,b手

法 が圧倒 的多数を

しめてい る。 また

,暗

文を もつ ものは まれであ った。 これ にたい し

,平

城官土 器 Ⅲの代表例 に な って い る

SK820で

a手

法 が圧倒 的多数 を しめ

,杯 Aで

66.3%,皿 Aで

78%に

た っ して い る。

C手

法 が この時期 に出現す るが

,ご

く少量 にす ぎない。 また

,暗

文 を もつ ものが多数を しめて い るので あ る。

2)      3)       4)

平 城宮土 器Iの

SD1900,平

城宮土 器 工の

SD485,平

城宮土器

Vの SK2113の

様 相 を くわ え,

平城宮 出土土 師器 の調整手法 の流れを た どってつ ぎの よ うな結果 がでて い る。つ ま り

,平

城宮 土器I・

Iで

a,b両

手法

,Ⅲ

で は

a手

,Ⅳ

では

b手

,Ⅳ

以降

C手

法 が主体 とな るとい

5)

う変化で理 解 され て きたので あ る。

ところでSB7802出土土 器 をみ ると

,杯 Aの

うち

a手

60.5%,b手

7.9%,C手

31.6%

で あ り

,皿 Aで

a手

85,9%,b手

5,1%, C手

9,0%と

な る。一方

,暗

文 を ほ どこす も のはまれであ る。 こうした

SB7802の

状 況 を

SK820,SK219と

比 較す るとど うだ ろ うか。

SB7802

土器 の

3手

法 の比 率 は

,SK820土

器 と くらべ ると

,a手

法 が主体をにな って い ることは共通す るが

,C手

法 の割合 が

SK820土

器 よ りもか な り大 きい。 また

,SK219土

器 と比 較すれ ば

a手

b手

法 との割合 が逆転 してい ることにな る。

C手

法 は

SK219で

は皿

Aに

顕 者 にあ らわれてお り

,SB7802で

は杯

Aに

多 い とい うちが いがあ る。 また

暗文 が

SB7802に

まれであ ることは

SK219と

共通す る特徴 といえ よ う。

 

このよ うなに調整手法 か らみ ると

SB7802土

器 は

平城宮 土 器 Ⅲの

SK820よ

りも新 し く

,こ

れ まで平城宮土器Ⅳ として きた

SK219よ

りも古 い様 相を もつ

ことにな る。

SB7802土

器 は しば しばのべ て きた よ うに

天平勝宝

5年

の 紀年木簡 と伴 出 した もので年代

1)『

平城宮報告I』 p.63〜68

2)『

平城宮報告Ⅸ』p.54〜60

3)『

平城宮報告Ⅵ』p.38〜

50,PL.55〜

64

4)『

平城官報告Ⅶ』p.90〜94,PL.51・52

5)『

平城宮報告Ⅶ』p.143・ 144

5

SK219・

SK820の

 

平城宮土器

Ⅳの古いタ イプ

25Z

の 器 一爪 岡 長 土

V章  

  

1点

が きまって い る。 平城宮土器 Ⅲのなかで

SK820土

器 よ りも 若千新 しい 段 階の もの と し て

,SK2101土

器 があ る。

 

この上壊か ら出土 した木 簡 の年紀 で もっとも新 しいのは天平勝宝 2 年 で あ り

,SB7802出

土木簡 よ りもわずか

3年

早 い。

 

しか しなが ら

調整手法 は

SK820と

同様 の傾 向を しめ し

,暗

文 を もつ もの も多数を しめ る。

以上 の よ うな検討をつ うじて

SB7802土

器 は

,SK820・ SK2101土

器 と

SK219土

器 との中間 に 位 置す る土器群 とい うことにな る。手 法 的 には平城宮土器 Ⅲにはぞ くさず

,今

回 の報告では平

城宮土 器 Ⅳ のなか にふ くめた。

 

その実年代 は平城宮土器 Ⅲの

SK2101に

連続す るもので あ り,

平 城 宮土 器 Ⅳ の前半期 にお くことがで き る。

SB7802土

器 によ って

平城宮土 器 Ⅳの上 限 の1 点 が天平 勝宝

5年

(753)に定 った ことにな る。

 

したが って

共 伴 の紀年木 簡か ら天平 宝字

6年

(762)を 中心 とす る年 代を与 えて きた

SK219土

器 は

,平

城宮土器 Ⅳ の後半 を代表 す ることにな った。

 

第 Ⅲ 期 遺 構 出 上 の 上 器

第 Ⅲ期 の殿舎地 区の建 物

SB8224,溝 SD6631,SD6633, SD7175か

ら出上 した土器 は

,平

城 宮土 器Ⅶ に ぞ くす るもの と かんが えて い る。 しか し

,さ

きに 平城宮土器Ⅶ の 代表例 と して報 告 した

SE31lB土

器 とは若千様相を ことに してい るので

,以

下 において平 安時代初期 の上 師器 食器類 についての調整手法を比較検討 してみ よ う。

平 城 宮土 器 Ⅵ

す なわ ち 長 岡京 時代 の上 器 は

,平

城宮跡 か らは好資料 が 発見 され ていな い ので

,長

岡京SD51・

SD1301出

上 の上 師器 を資料 に して

,8世

紀 末葉 の上 師器 をのべ る。

SD51

,長

岡京廃都時 (延13年,793)に 埋 め られ た 溝 であ り

,SD1301か

らは 延 暦 6・ 8。

9年

(786〜 790)の紀年木 簡が 出上 してい る。この

2条

の構 の土 師器食器類 の調整手法 には

,杯

・ 皿 に

b手

法 。

C手

法・

f手

法 がみ られ る。

 e手

法 は皿 の法 量 の小 さい一群(口11 6Cm・ 高さ2.8Cm) と擁

Cに

み られ るにす ぎない。食器類 の

C手

法 には

,後

述 の

SE31lBで

み られ るよ うに

e手

で調整 したのちに全面 ヘ ラ 削 りす る

C手

法 はみ られ な い。

 

こ うした 調整手法す ると

長 岡京 SD51・

SD1301土

器 は平城宮土器

Vに

連 続す る様 相を しめ してい ることにな る。

平 城宮土器Ⅶ の代表例 と して きた

SE31lBに

つ いては ど うであろ う。杯

Aで

C手

83.7%, e手

2,3%, f手

14.0%,皿 Aで

C手

94.6%, e手

5.4%,椀 Aで

C手

73.9%, e手

19.5%, f手

6.6%と

な って い る。

C手

法 が 盛行 してい るが

と くに杯

,椀

には

e手

法 の の ち全面 をヘ ラ削 り した

C手

法 が多 い傾 向が顕 著 にみ られ る。

SE31lB土

器 に 後続す るも

1)『

平城宮報告Ⅶ』p.87〜

90,PL.60

2)F平

城宮報告Ⅳ』p.24〜28

3)『

平城宮報告Ⅶ』で

6ABO区

の建物SB■6の 雨落溝出上の土器群 (『平城宮報告 Ⅱ』p.70・

71参照

)を

長岡京併行 とかんがえていたが

,そ

の後の長岡京の調査の進展にともない

,長

岡京 時代の土器の様相があきらかにな り

,SBl16の

土器群 は

,長

岡京の上器群 より後出的な型式 で 平城宮土器Ⅶにで くす ることがあきらかになっ たので

,修

正す る。

4)京

都府教育委員会「長岡京左京三条一坊第 2

252

次発掘調査概要」『埋蔵文化財発掘概報 (1975)』

1978, p, 34‑39

5)向

日市教育委員会「長岡京左京13次

(7ANE

SH地区

)発

掘調査報告」『 向 日市埋蔵文化財報 告第4集』1977,p.1〜39

百瀬ちどり「長岡京の供膳形態の上師器につ いて」『長岡京 ニュース』第■号 1979

この論文では

,長

岡京の土師器 と平城宮土器 V・ Ⅶの上師器が対比 され

,長

岡時代の上師器 の様相が くわ しくのべ られている。

SE31lBの

  

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