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後藤, 晴子

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Academic year: 2021

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

老いる経験の民族誌 : 南島で生きる人びとの日常実 践と物語に関する文化人類学的考察

後藤, 晴子

http://hdl.handle.net/2324/1398301

出版情報:Kyushu University, 2013, 博士(人間環境学), 課程博士 バージョン:

権利関係:Public access to the fulltext file is restricted for unavoidable reason (2)

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(様式8)

氏 名 :後藤 晴子

論文題名 :老いる経験の民族誌

―南島で生きる人びとの日常実践と物語に関する文化人類学的考察―

区 分 :甲

博 士 論 文 の 要 約

老いる経験とはなんだろうか。日々蓄積されているエイジング研究では、ケアや介護、福祉とい ったいわゆる非労働としての老人たちと、私たち=「非老人としての私たちもしくは現代社会」は これからどう対峙していくべきなのかという議論がその中心的位置を占めている。一方で、不安定 な社会のなかで、どうしたら幸せに老いることができるのかといった問いは、大衆長寿化を迎えた 現代日本に生きる人びとにとって重要な人生課題のひとつになりつつある。

超高齢化社会の到来とともに社会の関心が高まった老年学(Gerontology)の起源は、19世紀に 遡る。当初は衰退の科学と揶揄されたように、その内実は老人衛生と老人の健康の維持程度の議論 に留まっていた。老年学において現在のような研究が行われるようになったのは、生物学の躍進を 背景に生命現象一般の研究が盛んに行われるようになった第二次世界大戦後のことである。これに 対し文化人類学でエイジング研究が盛んになったのは(レオ・シモンズのパイオニア的エイジング 研究[Simmons1945]を除けば)、1980年代以降のことであった。そこでは老人をたんに社会問題 として取り上げるのではなく、それぞれの国や地域で異なる老いの複雑さと多様性に着目し、エイ ジングの文化的・社会的側面について議論が行われるようになった。こうした研究は日本の文化人 類学界でも、1980 年初頭に片多順[1981]によって「老年人類学」という言葉が紹介された頃か ら、少しずつ行われている。とくに近年では病院や老人介護施設をフィールドに高齢者の自立、親 密圏とケア、地域社会と介護の問題や、ロングステイやIターン、高齢者と生きがいに関する議論 といった、より現代的な課題に即応しようとする実践的な研究が増加している。

文化人類学におけるエイジング研究は、どちらかといえば社会問題として取り上げられることの 多かった老人や老いの研究に新たな視角を提供した。しかしそれはいまだ発展途上の領域で、その 議論は決して充分ではない。加えてここには、学問の特質上陥ってしまいがちな問題も存在する。

①問題としての老人像を忌避し、老人や老年期を積極的に読み換えようとするあまりに、敬老の精 神に満ちた異文化や過去を羨望するだけに終始しまいがちであること。②「老人」というカテゴリ ーとしてひとくくりに議論してしまうことによって、ジェンダーに代表されるような社会・文化的 な差異は無視され、そこにある多様性を把握し損ねてしまう可能性のあること。その結果③人びと の個々の経験が議論の遠景へと退いてしまい、超時代的な記述に陥ってしまうこと。そして④ライ フコースの最終段階として考察すべき老年期を、個別なものとして研究・考察することによって、

老人たちが生きてきた文脈のなかで、エイジングという現象を捉えることを難しくしてしまうこと の4点である。

これらの問題を克服するためには、老いをライフコースのなかで(生きるという過程のなかで)

考える必要がある。より具体的には、「老人(the aged)」よりもむしろ「老いる(aging)」という 経験そのものを対象とし、それぞれの人生だけでなく、他の世代や社会に何をもたらしているのか

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考察することが重要になる。つまり老人を問題という観点から考察するのではなく、また老い衰え ることを積極的に読み換えるのでもなく、あくまでも衰退を含みこんだ存在・事象として可能性を 問わなくてはならない。そのためには高齢者施設や病院という限定された空間のなかで議論するよ りも、地域社会で生きる高齢者の実践を歴史的・地域的な背景を踏まえて考察するほうが効果的だ と考えた。

よって本研究では独自の文化的背景を持つ、高齢化がすすんだ沖縄離島の事例をもとに、歴史的・

地域的文脈のなかで老いるという経験を捉えなおすことを目的とした。具体的には、1)「老い」と いう現象を、「老いる(=aging)」という動的なプロセス、「生きる」という社会的プロセス、ライ フコースの先にあるものとして再定置し、2)多様な選択肢のなかで、柔軟/剛直な決断によって 描かれる人びとの生の営みを考察すること。そこから得られた3)老いる人びとの営みを世代的な 知恵に変換することによって、4)私たちの人生とこれからの社会をより豊かにする実戦的方法を 学問的・実証的に提示することに主眼を置いている。以下、章ごとの内容について簡単に触れてお きたい。本稿は、これまでのエイジング研究における問題を研究史から検討した1章、研究方法に ついて考察を行った2章、調査地の概要を述べた3章、フィールドワークによって得られた知見か ら「老いる」という経験を異なるテーマで個別的に検証した4章、5章、6章、7章、8章と結論 部にあたる9章、および他地域の事例を検討した補論によって構成している。

1章では、エイジングをめぐる研究史について取り上げた。先に述べたとおり高齢化社会の到来 は老年社会学をはじめとする社会諸科学、人文諸科学におけるエイジング研究を推し進めた。これ らの研究は現在の高齢化社会に即応する即戦力となっているものの、そこで老いるという現象は基 本的に解決すべき社会問題として取り上げられている。一方文化人類学や民俗学では、どちらかと いえば老いをあえて肯定的に捉えようとする戦略が多くとられてきた。しかしそれはともすると過 去(もしくは異文化)を懐かしむだけのものになってしまいがちで、新たな老人像を形成する一助 になってしまっている。1章ではこれらの問題と本研究の位置づけについて考察を行った。

2章では、本研究の主題たる「老いる経験」を考察することの利点と欠点について理論的、方法 論的な考察を行った。具体的には、ヴィクター・ターナーやブルナーによって展開された経験の人 類学の議論[1986]を中心に、宗教的経験について議論を行ったウィリアム・ジェイムズ[1996]

や経験と体験の違いについて言及した鶴見俊輔[1967]らによって論じられた、「経験」に関する 諸議論について整理することによって、エイジングを「老い」ではなく「老いる」という現在進行 形の「経験」として捉えることの可能性について考察した。また「経験」を効果的に捉える方法と して、民俗学的な「聞き書き」の援用の効能について、宮本常一[2002(1960)]の手法を参照し ながら検討した。

3章以下ではフィールド事例から上述の問いについて具体的に検討した。3章でフィールドの概 要について触れた上で、4章では当該地域における老人の地位や立場について、フォークターム(老 人を指す言葉や年長者を指す言葉)や社会組織、儀礼における老人たちの地位と役割から考察した。

当該地域には日本とほぼ変わらない老いる人びとへの認識のある一方で、<カジマヤー>に代表さ れる長寿文化や長幼の序、高齢女性の宗教的な高いステイタスが存在する。それらは以前とは形を 変えつつも現在も継承されている。こうした文化・社会的な文脈は、3章や4章だけでなく、5章、

6章、7章、8章にみる老いる人びとの現在、過去そして未来につながる経験のあり様をもある部 分において規定している。

5章では、老いる人びとが直面する「身体的な衰え」に焦点を当てた。環境的な制限から長い間 近代医療に恵まれてこなかった島では、近代医療と民間医療の両方とうまく付き合いながら衰えゆ く身体と向き合う方法を培ってきた。人びとは自らの衰えに積極的に立ち向かうのではなく、「年を

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取ったら仕方がない」と受け流すことによって、過干渉とはまったく異なる身体との向き合い方を する。そこには、老いる人びと独特の日々老い衰えてゆく身体との付き合い方がある。この一見す ると消極的にみえる「差し控え」とも言うべきかまえは、現在進行形の生き方を下支えしている。

6章では、老いる人びとの「いま―ここ」の現在進行形の老いる日常を照らすために、老いる人 びとの「人生の物語」を検討した。人生の物語(経験の表現)とは、ライフヒストリーと同じく現 在から調査者とのやり取りを通して再構築される物語である。人びとの過去の経験は常に「現在の 地点から語られるもの」でしかない。しかし「いま―ここ」から編集され語られる過去こそが、老 いる人びとの現在にとっては重要である。沖縄が経験した歴史的大事は、人びとの物語にも大きな 影響を与えているが、人びとの人生の物語に影響を与えるのはそれのみに限られない。たとえば亡 夫の傍にいることを選んだ女性、身体を引きずりながら一人暮らしを続けた女性たちの日常は、一 見すると不自由さや苦労に満ちた生きにくさを感じさせる。だが、それらはしばしば当然の結果―

―様ざまなモノ・ヒトとの「情緒的なつながり」のなかから必然的にもたらされたもの――として 説明される。ある女性は親密な他者への思いの強さこそが島に残るという選択を形成したといい、

別の女性は島の宗教的文脈のなかで宗教的なものとの関わりあいが深まった結果、島との距離をぐ っと縮めたと話す。島で生きる人びとの人生の物語の語り方にみてとれるのは、調査者を通して行 われた過去の選択を説明し、現在のあり様を意味づける営みの一端であったといえる。

7章では、死や死者との関わりから議論を行った。タイトルの「死にがい」という言葉は、社会 学者の井上俊[1973:5-24]が論考のなかで用いた言葉で、積極的および消極的な死の意味付けの 総体を指す。島の独特の祖先祭祀のみならず、月命日などに代表される様ざまな儀礼は、死者との 付き合いを日常的に継続させている。しかし死後の世界との関わりは、こうした儀礼や島で重要な 役割を果たす宗教的職能者の介在によってのみ成立するものではない。死者との関わりは、もっと より身近で具体的なものである。とくに親や配偶者、兄弟に代表されるような親しき死者とのつき あ い は 、 生 前 の そ れ と 連 続 す る も の と し て 継 続 し 、 そ こ に は い わ ば 「 継 続 す る 絆 」[Klass &

Silverman 1996:xvii]が成立している。こうした絆は、生者にとって鮮やかに死者の存在と死後 の世界を実感させるものとして機能している。

8章では、本研究で主に議論してきた現老人世代ではなく、いままさに「老いの入口にたつ」人 びとに焦点を当てた。「戦無派」の人びとに、沖縄戦を経験した現世代、「戦中派」のような体験は ない。だが、それは決して都市部の「戦無派」の「生きているものばかりの景色」[鶴見1991(1976): 173]、「死がみえない世界」のなかで生きる人びとと同じ体験になっているということを意味する のではない。「伝統的な」墓のズラリと立ち並び、いまでも時折洗骨儀礼も行われているといった島 の景観と文化的文脈のなかでつちかわれた、<カミサマ>との関わりや死への独特の身体感覚など の文化的素地は、以前のそれとは少しずつ変容しながらも、「戦無派」の人びとに継承されている。

親密なる他者の経験、とくに老親の経験を通して他者、現世代の老いる経験を経験することによっ て、自らの「これから」を構築しつつある。

結論部である9章では、4章以下で見てきた個別具体的事例を、「縁」や「運」というキーワード を用いて総合的に考察した。本研究を通してみえてきた人びとの老いる経験は、まさにさまざまな 縁によって支えられながらも、時に情緒的な感情に左右されるものであり、そして人知を超えた運 によって突然の変更を余儀なくされるものであった。それぞれの経験は、昭和という激動の時代を 沖縄離島で生きてきた人びとの「世代としての経験」、「群れとしての経験」でもある。そこには「老 いる思想」というべき、老いる人びとの老いる身体との付き合い方や人生の選択のあり様、死者と の向き合い方といった知識や技法に通底する思潮が存在する。老いる人びとの経験を考えるという ことは、継ぎ目なく繰り返される日常をどう考えるのか、ということであった。高齢社会における

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新しい親密圏の議論においては、地縁血縁に代わる新たな縁の創出の必要性が議論されている。ケ アを担う家族に代わる新たな縁の創出は、確かにたくさんの可能性に満ちている。けれども、それ とは別に、今ある縁とそれに支えられた人びとの気概と情緒的なつながりから老いる人びとの経験 を再考するような方向もあってもいい。そこには閉塞しがちな高齢社会の議論とは異なる可能性が あるのではないか。本研究にみた人びとの身体との付き合い方や人生の語り方、死(者)との向き 合い方を学ぶことによって得られたものは、これからを生きる知恵であったといえる。

最後に補論では北部九州の2つのフィールドにおいて得られた知見を取り上げることによって、

沖縄とは異なる文化的背景や文脈をもった他地域の事例を検討し、地域的な境界を越えた議論の方 向性を模索した。

参考文献 井上 俊

1973 「『死にがい』の喪失―戦無世代の死生観―」『死にがいの喪失』、pp.5-24、筑摩書房。

片多 順

1981 『老人と文化―老年人類学入門』垣内出版。

ジェイムズ、ウィリアム

1969a 『宗教的経験の諸相』(上)枡田 啓三郎(訳)、岩波書店。

1969b 『宗教的経験の諸相』(下)枡田 啓三郎(訳)、岩波書店。

(James, William The Varieties of Religious Experience a Study in Human Nature.

Being Gifford Lectures on Natural Religion Delivered at Edinburgh. ) 鶴見 俊輔

1967 「体験論」日高 六郎・上山 春平・作田 啓一・多田 道太郎・鶴見 俊輔・橋川 文

三・安田 武・山田 宗睦(編)『シンポジウム 現代日本の思想:戦争と日本人』、pp.2-12、

三省堂(シンポジウムの対談集)。

1991(1976) 「グアダルーペの聖母―メキシコ・ノート」『鶴見俊輔集11 外からのまなざし』、

pp.3-212、筑摩書房。

宮本 常一

2002(1960) 『忘れられた日本人』岩波書店。

Klass, Dennis & Phyllis R. Silverman, and Steven L. Nickman

1996 Continuing BONDS: New Understandings of Grief. Taylor & Francis.

Simmons, L.W.

1945 The Role of the Aged in Primitive Society. Yale University Press.

Turner and Bruner (eds.)

1986 The Anthropology of Experience. University of Illinois.

参照

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