(1)
序
北陸地方は︑従って富山県も︑全国的にみて︑古くから仏教王国︑とくに
真宗王国であることは周知の通りである︒と同時に︑富山県はまた︑社会構 造の上からみて︑前近代的な封建追制の多い農村型︑あるいは村落型の社会 構造を強く保持していることも明白なところである︒こうした封建遺制の多
い農村型社会構造をもつ富山県における講社が現在どのような実態を示して
いるかという問題は確にいろいろの観点から関心をひかれてよいと思う︒こ
の小論は︑富山県における講社が︑その歴史的起源や変遷過程などは別とし
て︑現在どのような実態をもっているかという問題について私が若干調査し
た結果を一応簡単にまとめ︑なおそうした調査の結果に基づいて現在の富山
県における講社の宗教的社会的な意味や特徴という問題について簡単に分析
( l )
をしてみたものなのである︒
註①この実態調査は︑実は︑金沢大学法文学部社会学研究室の井森陸平教授を代表
者とし︑外八名の者が﹁北陸地方における講社の調壺研究﹂という綜合題目
のも
とに
︑昭
和一
二十
年度
の文
部省
科学
研究
費の
補助
を得
て行
った
調査
研究
のう
ち︑私が分担した実態調査なのである︒私がこの調査を計画した際には︑いわ
ゆる﹁立山講﹂についても調べるつもりで︑いくらかの資料を集めもしたのであったが︑いろいろの通合で完成することが出来なかった︒それで﹁立山講﹂
のことについてはこの小論では省略することにした︒なお私がこの実態調査を行うに際しよせられた県下の寺院関係や学校関係などの各位からの御協力や御
援助
にた
いし
ここ
で厚
く感
謝の
意を
記さ
せて
頂き
たい
と思
う︒
l
我々は先ずこの節では富山県における講社が現在どのような実態をもって
石瀬・富山県における講社の実態調査 いるかという問題について若干調査した結果を簡略にまとめてみることにしたいと思う︒それで︑先ず第一に富山県における講社の種類と起源などを概観することから始めよう︒
現在の富山県における主要なる宗教としては神道と仏教とキリスト教が挙
げられるが︑これ等のうち神道と仏教に関係する宗教集団が古くから圧倒的
に多いことは言うまでもないところであろう︒昭和三
0
年度における富山県下八市七郡における大字総数二九五八に対し︑宗教法人としての神社総数は
約二
000
︑仏教関係では総数一六九0
であり︑キリスト教では総数七となつている︒このように︑富山県における神社の総数は仏教関係の寺院よりも
多いにも拘わらず︑それが主催する講社は極めて少なく︑殆んどないといっ
てよいくらいである︒私が抽出法的調査によって調べてみて目にとまったも
のは僅かに高岡市射水神社所属の氏子会と新湊市六渡寺日枝神社所属の海陸
安全講と下新川郡境における秋葉講と中新川郡における天理教講のみであ
る︒このうち氏子会というのは朋治八年からあり︑高岡市二上の射水神社の
氏子︵現在約二
00
名︶が年五回同社務所にて儀式︑飲酒︑会食などを行う
ものであり︑海陸安全講は明治十年からあり︑新湊市六渡寺の日枝神社にて
同区域の個人や会社が毎年一月同社務所にて祈願や会食などを行うものであ
るが︑秋葉講は下新川郡境における僅か約五名位の同人が年に一︑二回慰楽
( 1 )
のために共同飲食をするだけの会合となっている︒富山県においては神道関
係の講社は殆んどないと推察して誤りがないであろう︒また富山県における
神社は︑大方にもれず︑大体殆んど年春秋二回の祭事に終始し︑氏子が特別
の形で会合し︑行事を行うということは余りないようである︒然し︑だから
と云って︑︑富山県における神社宗教の意義を軽視することは大変な誤りであ
富 山 県 に お け る 講 社 の 実 態 調 査
石
瀬
秀
治
‑ 37‑
C 2 )
富山大学紀要経済学部論集
ろう︒それは︑農耕儀礼や祖先崇拝やさらには呪術やシャマニズムなどと結
びついて︑更には宗教外的な諸勢力とも結びついて︑特に農村区域において
は矢張り依然として重要な社会的や個人的の機能や影響をもっているのであ
る︒然し︑それにしても︑講社としては殆んど見るべきものがないことは事
実と言わねばならないであろう︒
先にも述べたように︑富山県下八市七郡における大字総数二九五八に対し︑
宗教法人としての神社総数約二
000
︑仏教関係では寺院総数一六九
0
とな
つているが︑この仏教関係の寺院を宗派別にみると︑天台宗関係は︱︱‑︑真言
宗関係八七︑臨済宗関係二六︑曹洞宗関係ニ︱六︑浄土宗関係八二︑真宗本
願寺派関係六三九︑真宗大谷派関係五八一︱‑︑日蓮宗関係五一︑時宗関係一︑
金峰山修験本宗関係一︑本門仏立宗関係一となっている︒真宗関係が全体の
約七二%を示している実状である︒実際︑歴史的にみても︑周知のように︑
禅宗︑日蓮宗︑浄土宗などの旧仏教諸派が開宗以来その布教対象を主として
中央や地方の貴族層や武士層におき︑そうした貴族や武士の政治的経済的な
保護のもとに発展したのに対し︑真宗は︑親鸞以来︑所謂荘園制が崩れ︑地
縁的村落共同体としての郷村制が成立しつつあった当時の経済的社会的な
後進地区たる関東や東北などの地方よりも︑近畿︑北陸︑東海などの先巡地
区や中間地区に︑しかもその農民層︵とくに封建的自営擬層︶にその教線を
伸張させていったのである︒そのようなわけで︑北陸地方における真宗の巡
出も極めて早く︑例えば十三批紀初頭に既に親鸞(‑︱七一ニー︱二六二︶の法
弟善俊が飛弾白川郷鳩谷に教線をしいているが︑その後一世紀の間に昭蓮寺
ず
2)
を中心として飛弾全土にわたって五十に余る未寺が生じ︑それ等の周囲にはその数十倍や数百倍にのぼる門徒が講組織のもとに結集し︑そしてそうした
講組織が文朋十七年︵一四八五︶や天正十三年(‑五八五︶における飛弾の
一向一撓に際し極めて大きな役割を果したのであった︒このように︑真宗と
北陸地方︑従って富山県との関係は︑他の仏教諸派に比べてみて︑古くから
極めて広汎密接なのであるが︑このことは当然真宗関係の講が他宗派の講に
比して圧倒的に多いという事実を生ぜしめているのである︒ 先ず便宜上真宗以外の諸宗派の講についてみよう︒調査表による抽出法的
調査によれば︑先ず真言宗関係には金剛講一︑観音講二︑大師講一︑不動講
一である︒曹洞宗関係では日供講一︑万人講一︑観音講三︑吉祥講一︑地蔵
講一︒臨済宗関係では観音講二〇︑遺族講一︑単に禅宗系とあって︑宗派別
の不明のものでは仏事講一︒日運宗関係では尼講一︑法華講一︑如説講一︑
妙法講一︑立正講二︑御鏡講一︒浄土宗関係では尼講一︑念仏講一︑太子講
一︒修験本宗関係では大師講一︒これ等の講について目ぼしい事柄をあげれ
ば︑真耳宗関係の大師講は約︱︱
1 0 0
年程前からあり︑壇徒︱二0
名の成員が毎月一日寺院にて午前から午後にかけて寄り合い︵少い時には二
0
名位
︶︑
読経や説教を開き︑会食を行うものである︒又曹洞宗関係の観音講は約二百
年程前からあり︑同宗派の六カ寺が七部落にわたる講員二百名を有し︑毎月
一回寺院に寄り合い︵平均出席人数約五
0
名︶︑読経と説教を聞き︑会食を行うのであるが︑それでも﹁当寺にとって講は重要な行事であるとは考えられ
ません﹂という︒同じく曹洞宗の吉祥講と地蔵講というのは︑魚津市の常泉
寺にみられるものであり︑当寺にはこれ等のほか観音講もあるが︑それ等は
皆百年以上もの以前からあり︑吉祥講は毎月五日に︑地蔵講は毎月二四日に︑
観音講は毎月十八日に︑主として門徒を中心にして当寺に寄り合い︑読経や
説教を聞き︑会食を行うのである︒日蓮宗関係の講は大体起源が新しく︑一
カ寺で二講もつものが二つある︒又以上の講のうち御鏡講のみが大本山へ年
間御鏡一石余を上納しており︑さらに一般に講としての共有財産も極めて僅
少であり︑無いものが多いのである︒
次に真宗関係の講についてみよう︒先にも述べたように真宗は早くから北
陸地方にその教線を伸張し︑またその布教様式として本願寺未寺坊主や有力
門徒︵村落内の名主︑長︑年老︶を中心として大体郷村単位に月何回か同朋
や同行が講結合として相つどい︑寄合って信心を深め︑広めていくという形
をとったのであり︑真宗の普及はそうした講組織の拡大や普及によって行わ
れたのである︒だから講結合や講組織は真宗信仰を考える場合古くから不可
欠のものとなっている︒当然富山県においても真宗関係の講が古くから極め
‑ 38‑
( 3
うて多くなっているわけである︒ところで︑真宗は今日大まかには本願寺派と
大谷派とに分派しているのであるが︑われわれは今はそうした分派にこだわ
らず︑真宗関係の講を一応一括して取り扱うことにしよう︒
真宗関係における講には単に︵御︶講︑御寄講︑小寄講︑門徒講と呼ばれ
るものの外に︑いろいろの名称をもつものがある︒その種類を
( 1 )
講の寄
合日をとったもの︑
( 2 )
講の行われる月回数によるもの︑
( 3 )
地名及び
参加部落数をとったもの︑
( 4 )
性別及び年令別によるもの︑
( 5 )
寺院名
をとったもの︑
( 6 )
仏語や仏湛によるも幻
:7)
その他によるものによつて分類することにしよう︒
( 1 )
講の行われる日をとったもの
朔日講︑三日講︑五日講︑八日謡︑十日謡︑十二日講︑十三日講︑十
四日講︑十五日講︑十六日講︑十七日講︑二十日講︑ニ︱一日講︑二四
日講︑二五日講︑二八日講
( 2 )
講の行われる月回数によるもの
両度講︑月例講
( 3 )
地名及び参加部落数をとったもの
例えば牧屋波尼講︑郷内講︑両村講︑五ヵ村御講
( 4 )
性別及び年令別によるもの
︵イ︶男性関係の講
男︵御︶講︑男子講︑年寄講︑年寄報恩講ぐrソショリボンコと呼ぶところあり)、父(御)講(トートコウと呼ぶところあり)、若衆(御〗)
講︑︵仏教︶青年講︑若衆報恩講︵ワカイショボンコと呼ぶところあ
り︶︑青年報恩講︑仏教青年会︑青年︵仏教︶会︑青壮講
︵戸︶女性関係の講
女︵御︶講︵カーカコウと呼ぶところあり>︑尼講︑女房講︑女子講︑
︵仏教︶婦人会︑仏教主婦会︑大谷婦人会︑淑徳婦人会︑尊皇奉仏婦
人法話会
( 5 )
寺院名をとったもの
石瀬・富山県における謂社の実態調査 例えば報光寺講︑浄厳寺講など︒
( 6 )
仏語や仏事によるもの
内信講︑慶信講︑聞乗講︑︵信︶相続講︑特誓講︑専清講︑智恩講︑白
道講︑白道会︑変成講︑念仏講︑玉日講︑二門講︑常燈朋講︑最勝講︑
ヒワダ
報恩講︑桧皮︵六日︶講︑御助成講︑本山︵御︶助成会︵あるいは講︶︑法輪会︑柔軟講︑真実講︑同拳会︑性信講︑法名講︑興仁講︑合掌講︑
互親講︑仏教同志会︑太子講︑歓喜講︑唯信講︑三批講︑賽銭講︑得信
講︑正信講︑洗心講︑誠心講︑至誠講︑至徳講︑謝徳講︑報徳講︑法友
会講︑法話会
( 7 )
その他によるもの
研修講︑仏教会︑友之会︑百人講︑開拓講︑記念講︑餅御講︑一合講︑
御飯講︑手繰講︑縄ナイ講︑白魚講︑会講
以上が私が知り得た真宗関係の講の種類である︒尚こうした現存する講の
外に︑現存せなくなった講も若干見られるが︑それらのうちには町村の統合
分離の為に縮少拡大していったとみられる八カ村講や主食配給の時期より消
減したと.する助成講などもあるが︑その殆んど凡てのものは昭和十年から十
九年にかけて消減しており︑大正年間に消減したとするものは四︑明治年間
に消減したとするもの一︑戦後消減したとするもの二︑戦後復活しつつあり
とするもの一となっている︒
次に真宗関係における講の起源について調べてみよう︒先ず古いものでは
朋応年間(‑四九二
f
一五
0 1
)
に始まるとするもの一︑慶長二年(‑五九七︶のもの一︑一六
00
年代では寛永元年︵一六二四︶のもの一︑慶安一年︵一
六四八︶のもの一︑元禄初年︵一六八八>のもの一︑元禄年間︵一六八八ー一
七
0
四︶のもの三︑今から約二五0
年以前︵元禄未年︶からとするもの一︑約二
00
年以前︵寛延年間前後︶のもの二︑朋和年間︵一七六四ー一七七二︶
のもの一︑一八
00
年代では今から約一五
0
年前︵寛政か享和の年間︶とするもの一︑文政年間︵一八一八ー一八一︱
1 0 )
のもの二︑文政二年(‑八一九︶
のもの一︑文政︱二年︵一八二九年︶のもの一︑天保一年(‑八一︱
1 0 )
のもの
‑ 3 9 ‑
C
4 )
富山大学紀要経済学部論集
一︑
天保
一一
一年
(‑
八三
二︶
のも
の一
︑天
保四
年(
‑八
一︱
︱︱
︱‑
︶の
もの
一︑
嘉氷
六年(‑八五三︶のもの一︑約百年前からとすろもの一︑万延元年(‑八六
‑︶のもの二︑文久三年(‑八六三︶のもの一︑慶応初年(‑八六五︶のも
の一︑慶応年間(‑八六五ー一八六七︶のもの一︑慶応二年(‑八六六︶の
もの一︑明治以前のもの一三となっている︒之に対し明治年間(‑八六八ー︐
一九︱二︶に始まるとするものも決して少くなく︑叉大正年間(‑九︱ニー
一九二六︶や昭和年間において新設されているものも相当数になるようであ
る︒このように真宗関係の講の起源は極めて古いわけであるが︑このことは
消息奥書の宗主名や日づけを見ても明らかである︒例えば宗主名に運如︵一
四一五ー一四九九︶や准如(‑五七七ー一六一︱
1 0 )
や寂如︵一六五一ー一七
二五︶とあるものがあり︑叉その日付けに寛永元年︵一六二四>︑文政二年
︵一八一九︶︑天保四年(‑八一言一︶︑万延元年(‑八六一︶とあるといった
ぐあいである︒
次にこうした講のもつ目的や意義について調べてみよう︒先にも述べたよ
うに︑新宗は当初からその布教様式として本願寺の未寺坊主や有力門徒を中
心として大体郷村単位に同朋同行が月何回か寄り合い︑相つどって信心を深
め︑広めていくという形をとり︑そこに講結合や講組織が形成されていった
のである︒だから︑真宗関係の講は元より当初から信仰を目的としたもので
あり︑信仰団体として出発したものである︒富山県における真宗関係の講は︑
僅かの特別なものは別として︑殆んど凡て少くともこの点においては今も依
然として同様であると言ってよい︒このことは殆んど凡ての講が僧侶を招
き︑読経や説教を聞き︑また或るものは経典研究や信仰問答や更には御示談
を行っている事実によって朋瞭である︒然しながら現在の講にはそうした信
仰増進︑勧信伝道︑報恩回向などという目的の外に︑更に慰楽︑社交︑共同
欽食︑親和などという意味も決して少くないのである︒現在講がもっている
意義を信仰︑慰楽︑社交︑会食︑その他という項目にわけて調査したところ︑
殆んど凡てのものが信仰としながらも︑然しまた多くのものが同時にその意
義を慰楽や社交に認め︑更には会食にありとするものも決して少くはなかっ た︒極端なものには信仰の意義を無視して︑慰楽や社交︑さらには会食にあると答えたものもあるくらいである︒
尚こうした講の共同欽食についてはいろいろの形がみられるが︑多くは会
食を行うものである︒然し飲酒を伴うものも珍らしくなく︑更には茶菓子の
みのものもみられ︑又希望者や批話役のみ会食や共同飲食するものもある︒
講の共同飲食については後でまた触れることにしたいと思うが︑とにかくこ
うした共同飲食による慰楽や社交が講において︱つの大きな役割を果してい
るのである︒更に講には随時その講員物故者の追悼会︑法話会︑聖跡巡拝︑
遠足などを行っているものもいくらかみられ︑頼母子講を併せもっているも
のもある︒富山県における︑特に農村地域における講集団の意義はこうした
点をも考慮しなくては決して充分に理解され得ないであろう︒
叉真宗関係の講の意義を考える場合︑次の点も忘れられてならないであろ
う︒即ち元来親鸞以来︑真宗は︑特にのちの本願寺派は封建的自営農民層を
その社会的基盤とし︑講の中心者たる未寺坊主はそうした農民の零細な喜捨
によって寺院道場の経営維持を支援されていたのである︒だから︑本願寺の
勢力が次第に確立されるに従って︑講員は次第に本願寺とその未寺における
所謂本未関係という階統制度によって︑本願寺と未寺とに二重に結びつくこ
ととなり︑その結果一方本願寺の経営のために上納し︑地方また未寺の維持
のために喜捨せざるを得なくなっていったのである︒そして︑そうした点が
強調されていく場合︑そこに講の意義は﹁本山助成﹂や﹁寺院維持﹂にある
という答も出てこざるを得ないのである︒特に﹁本山︵御︶助成講︵あるい
は会>﹂とか︑﹁御助成講﹂とか︑﹁桧皮講﹂などと呼ばれるものは正しく本
願寺助成のためのものに外ならないが︑然しそれ等以外のものも矢張り本願
寺へ夫々上納しているのである︒そして︑そうした本願寺への各未寺からの
上納金には年間にして相当の金額にのぼるものもみられる︒例えば︑年二回
ニカ町村十一ヵ寺連合のある講の年間上納金額は十五万円︑一カ寺主催の一
市単位のある講においては十万円︑月一回五カ寺連合の一市単位のある講に
r 4 ‑
おいては八万円︑月一回四ヵ寺連合の一町単位のある講においては六万円︑
‑40‑
( 5 )
年二回十ニカ寺連合一市一町単位のある講においては五万円︑月三回一カ寺
主催の一市単位のある講においては五万円などというのから︑少いものでは
千円︑五百円︑百円︑随意や有ったり無かったりというものに至るまで各種
各様であるが︑なかには講の諸経費を差引いた残額全部︑あるいは収入額の
三分の二を上納するというのもみられる︒更には戦前には上納せしも︑戦後
はせずというのもある︒勿論講のうちにはそうした上納を全然行っていない
ものも可成りあることは忘れられてならないであろう︒兎に角︑富山県にお
ける講集団は単に信仰のみのためのものではなく︑上に述べたような慰楽︑
社交︑共同欽食︑本山への上納などをもその重要な機能や意義として併せも
っているのである︒
次に講の参加寺院数や参加部落数の事情を調べてみよう︒講は一カ寺にお
いて行われるものが圧倒的に多いが︑然しなかには多くの場合近隣のニカ寺
や数力寺が連合し︑更に十ニヵ寺や十五カ寺が連合して行うものも一っづつ
みられる︒これと同様に︑講の参加部落数においても︑部落や村や町を単位と
するものが圧倒的に多いのであるが︑然しなかには同一門徒や同一宗派の者 が近隣の数部落や数力町村を単位として行うものも少くなく︑僅かではあ
るが︑約十二︑二三︑さらには三四の部落を単位としているものもある︒極
端な場合は︑これも極めて僅かではあるが︑十二や十四の町村︑さらに一郡一
帯︑一市一帯︑二市四町︑叉極めて特殊なものには二市二郡に及ぶものさえみ
られる︒然し︑何れにしても︑講は一カ寺一部落単位が圧倒的に多いわけで︑
然しなかには一カ寺数部落単位︑一ヵ寺十数部落単位︑一カ寺二十数部落単
位︑数力寺数部落単位︑十数力寺十数部落単位︑十数力寺数十部落単位︑一
力寺一市単位等々というものも夫々僅かながらみられるのである︒然しなが
らここで注意すべきことは︱つの部落や村などが凡て必ずしも︱つの講に
属するものではないことである︒これと共に︑又一カ寺が何つかの異種類の
講をもっている場合や同一門徒を何つかの講に分属させている場合などのあ
( 6 )
ることは勿論である︒
それでは︑次にこうした講の月や年における講会の回数について調べてみ
石瀬・富山県における講社の実態調査 よう︒講会の月回数は矢張り月一回というのが圧倒的に多いが︑然し月二回というのも珍らしくない︒それ以下のものになると年回数二回︵春秋の彼岸時︶︑三回とするものが最も多く︑一回︑四回から八回︑十回に及ぶものも夫々極めて僅かではあるがみられる︒講会の回数は農村地域︑とくに山村地域になるにしたがって多く︑また参会者も多いようであるが︑然し一般には最繁期を除いて︑農閑期に行っており︑また部落の休日に行うとするものも可成りあり︑なかには日曜日の午後や当番の家の都合のよい日に行うとするものも一つつつみられる︒
講会の場所は寺院において行うものが多いのであるが︑何つもの寺が連
合してつくられている講においては各寺が輪番にて行うのが多いっ然し︑叉
一般の民家において行うものも可成り多いのであるが︑この場合何つかの部
落が連合してつくられている講においては各部落における民家が輪番にて行 うのであるが︑そうした民家も可成り輪番制によって決められるようであ
る︒然しなかには村の旧家において行われるとするものや家柄の高い数戸が
輪番で行うとするものや門徒総代の家で行うとするものや更ア﹄は有志宅で行
うとするものも若干あり︑部落集会所や青年会長宅︵青年講の場合︶で行う
とするものもみられるのである︒
それでは︑次にこうした講は夫々どの位の成員数によって構成されている
のであろうか︒講集団の大きさは︑先にも触れたように︑大体門徒数によっ
て決まり︑叉参加寺院数や参加部落数などによっても制約されているわけで
あるが︑標準単位講集団においては大体五十名内外が圧倒的に多い︒つま
り︑講集団は大体一カ寺一部落単位のものを標準としているとみてよいが︑そ
の成
員が
大体
二‑
︱
1 0
名位から六︑七
0
名位となるようである︒勿論極端に多いものになると約五百名におよぶ講︵年二回行われる講にして︑その平均
出席状況は約二百名︶もある︒然し大体多いものとしては百名から三百名位
のものであるが︑これ等は殆んど年数回のみ行われる種類の講であって︑毎
月一回行われる種類の講には余りみられない
C
大体月一回一カ寺一部落単位の標準講集団の成員は一
00
名内
外か
ら二
‑
︱
1 0
名位のもので︑矢張り六︑
‑41‑
( 6 )
富山大学紀要経済学部論集
七 0
名から二︑三
0
名位のものが圧倒的に多く︑その平均出席状況は各講に よって違うので一般的には正確に言えないが︑そうした成員数をやや下まわ ったものと言って間違いない︒尚この講集団の成員数調査に対し戸数単位で の返答を得たものが決して少くないことは注意されてよいであろう︒
更に次にこうした講集団構成員の性別や年令別や資格などについて述べる ことにしよう︒先ず性別関係についてみよう︒先に述べた講の名称によって も解るように︑真宗関係の講には男性のみの講と女性のみの講と更には男女 共同の講とがみられる︒私の調査は抽出法によったために︑ここで正確な比 較をすることは出来ないが︑ただ女性のみの講も決して少くないことは朋確
であり︑そしてこの事は注意されてよいであろう︒然しまた︑僅かではあるが︑
男講といってもいくらか女が参加し︑女講といってもいくらか男が参加する こともあるが︑それは主として老令者に限られるようである︒勿論男女共同 の講もあるが︑それには男性を主とするものや女性を主とするものやそうで ないものなどいろいろみられろようである︒次に年令関係についてみよう︒
( 8 )
年令関係においては年令の制限なしとか老若共とか更には老若玖共というの も多くみられるが︑然し一般に参加者は老令になるほど多くなる傾向を示し ている︒然しまた講は大体老中年層と青年層とのものに区別されているもの も少くないが︑その場合矢張り老中年層の講が青年厖の講に比して朋らかに 多いのである︒然し青年層のみの講も決して無祝することの出来ない数にの
ぼることは忘れられてならないであろう︒次に資格関係についてみると︑既婚
未婚を問わずというものも多いが︑然し前に述べた年令関係によって可成り のものが既婚層と未婚層の諧に分れ︑この場合矢張り既婚層の講が多いこと は言うまでもない︒特に女謡においては既婚婦人や更には主婦のみの構成す る講が男講の場合よりも比較的多く︑年令資格を特に問わない女講において も参加者は老中年層に朋らかに多いのである︒尚講成員の資格は原則的には 門信徒に限るのが多いが︑然しなかにはそれ以外の希望者をも含むものも僅 かながらみられる︒この事は個人が単に特定の一つの講集団に所属するのみ
ならず︑それ以上の講集団にも所属したり︑参加したりすることのある事実を
示している︒以上の外に講成員の資格として戸主や世帯主とするものが若干︑
世帯主とその家族とするもの二︑明瞭に家を構成単位とするもの一があった︒
更に次にこうした講の批話人の人数︑選び方︑任期︑分担事務などについ て簡単に述べよう︒先ず批話人の人数についてみると︑これは講の大きさに よっていろいろのものがみられる︒多いものになると百名内外のものも何つ かみられるが︑然し普通のものは大体二︑三名から十名内外になるようであ り︑しかも四︑五名程度のものが一番多いようである︒その決め方は大体寺 から依頼委嘱されるもの︑憔襲的になるもの︑講成員の談合推瓶によるもの︑
選挙によるもの︑輪番制によるもの︑簸引によるもの︑有志がなるものなど に分れる︒これ等のうち普通には談合︑輪番︑選挙などによるものが一番多 いが︑世襲によってきまるのが若干あることは注目すべきであろう︒その任 期については︑終身というのもあるが︑多くのものは一年から三年︑あるい は五年となっている︒一番多いのは一年のようであるが︑然し月別に交替す る輪番制をとっているものも少くない︒懺話人の分担事務については︑連合 組織のものになる程︑会長︑総務︑庶務︑会計などの明確な事務分担がみら れるが︑普通のものは講長のもとに数名の補佐役があり︑それが庶務や会計 の事務を分担しているようであり︑極端なものになると数名で事務分担なし に共同して蓮営に当っているのもある︒尚この場合寺院が総務というような
形などで参加しているのもみられる︒
次に講の会銭の掛け方や金額ウ︸ついて調べてみよう︒先ず一年に一回︑ある
いは数回行われる謡においてはその会銭は年一回に出すものとその都度出す ものがある︒その金額は講の種類や大ぎさによっていろいろあるが︑大体十 円から二百円に及び︑五十円から百円のものが普通のようである︒然しこれ の外に米や賽銭や寄附金を何程か出すものが少くないことは注意さるべ彦で あろう︒また大体毎月行われる謡においては︑その金額は大体十円から五十 円であるが︑二︑三十円程度のものが多い︒この場合にもその外に米︵二合 から二升に及ぶ︶を出すものが少くなく︑また寄附金などを出すものも少し ある︒又僅かながら志のみとするものや無しとするものもみられる︒こうし
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C
7 )
た掛銭は講の巡営にあてられるのは勿論︑さらに宿寺の維持や本山経営のた めの上納金にもあてられていくのである︒このようなわけで︑毎年毎月掛銭 を出している購ではあるが︑講自体として共有財産を持っているものは少
い︒多いのは三万円︑二万円︑一万円であるが︑これは極めて僅かであって︑
普通は数千円であり︑全然無いというものが圧倒的に多いのである︒
次に講会の時刻についてみよう︒之もいろいろまちまちである︒先ず午前 に行うものは極めて僅かで︑多くのものは午後以降となっている︒然し午前 から午後にかけて︑なかには夜にかけてまで行うものが少しみられることは 注意すべきであろう︒このなかには例えば午前十時から十二時まで僧侶を招 いて読経や説教を聞き︑それから夜にかけて﹁遊ぶ﹂というのがある︒多く のものは午後以降に行うが︑これには午後の一時から五時位までのものと午 後から夜二十時前後︶にかけて行うものと午後から夜を通して翌日の午後に まで及ぶものと夜の七時から十時位までのものと夜から翌日の午後にまで及 ぶものなどがみられる︒最も多いのは午後のみと夜のみのものであるが︑然 しそれ以外のものも夫々決して少くない︒叉極めて僅かではあるが︑二日に
かけて夜二回というのもみられる︒
講会がこのように多くの場合食事の時間をはさん・で行われるところから︑
そこに講における共同飲食ということがみられるわけである︒勿論講には共 同飲食を伴わないものもあるが︑然し一般に共同飲食を伴うものがいくらか 多いようである︒共同飲食が講の︱つの重要な要素となっていることについ ては前にふれたところである︒共同飲食の形式には講の種類によっていろい ろのものがみられる︒その回数については月一回行うものから年一回行うも のにいたるまでまちまちである︒共同飲食の様式についても︑前にも述べた ように︑食事のみのものと酒と食事のものと茶菓子のみのものとがある︒そ してこの場合食事のみのものが最も多くなっている︒こうした会食の費用は 酒や米と副食物の材料を各自持参するか米のみ各自持参しその他は実費︵大
体一二十円内外︶を支払ったり︑会費から支出するのが多い︒なかには副食物
が当番の負担になったり︑また寺が全部を用意するというのもある︒ところ
石瀬・富山県における講社
の 中 能 詞 脊
で︑こうした会食の準備は︑講の種類や大きさによって違うが︑大体部落連 合の講においては各部落から数名の批話人や当番が出て準備し︑寺院にて行 う場合には寺と椎話人や傭人にて準備し︑民家で行う楊合には宿の者と当番
や世話人︵婦人とするもの多し︶などが準備にあたるのである︒
それでは︑こうした富山県における真宗関係の謡は一般的にみて現在一体 どのような盛衰状態にあるのだろうか︒前に真宗関係の講の起源や種類につ いて述べた際にふれたように︑真宗関係の講は明治以後昭和年間にいたるも 尚相当数のものが作られているし︑僅かに若干のものが大体昭和十年から十 九年にかけて消減したのみであるから︑外形的にみて︑古い以前と殆んど変
つていないとみられ得るのである︒私が各方面に講は﹁以前に劣らず盛んか︑
衰えたか﹂と質間したに対し︑過半数のものが﹁以前と同じ﹂や﹁変らず﹂
とし︑残りのものがほぼ同数の割合で﹁以前より盛ん﹂と﹁以前よりやや衰 えた﹂と答えた実状である︒従って同様に圧倒的 i 爪多くのものが﹁無ければ困
る﹂︑﹁無ければ非常に困る﹂︑﹁有った方がよい﹂とし︑﹁無くてもよい﹂︑
﹁無い方がよい﹂と答えたのは極めて僅かである︒ただこの場合目立/たも
のとしては﹁無ければ非常に困る﹂理由として﹁宗教者の立場﹂からみてと するもの︑﹁無ければ困る﹂理由として﹁和合親睦﹂のためや﹁老人は慰安 がない﹂からとするもの︑﹁有った方がよい﹂理由として﹁女性の家庭から の解放﹂がみられるからとするもの︑﹁無くてもよい﹂理由として﹁本山か らの指示によるものであるから﹂や﹁形式的に流れている﹂や﹁その意義が
ない﹂とするものがあることは注意されてよいであろう︒
我々は今まで富山県における真宗関係の講の実態をいろいろの事項にわた
って簡略に述べてきたのであるが︑然し富山県における真宗関係の講といっ
ても地域的にはいろいろの差異があると思う︒今回はそうした地城的差暴に ついてまで詳しく調査し︑吟味することは出来なかったが︑然し極く一般的 に言って︑講は市部より郡部に︑あるいは商工業地幣より晨山漁業地帯に盛
んであることは明瞭である︒尚真宗においてはこうした謡の外に︑月々に︑
あるいは季節毎に僧侶が各地区を出張巡回して開いているいろいろの御座が
‑ 43‑
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C
s )
(8) (7)
あるが︑これもなかなかに盛んであることは注意されてよいであろう︒
富 山 県 に お け る 講 と し て は 以 上 の も の の 外 に 尚 金 融 を 目 的 と す る 各 種 の 頼 母 子 講 が あ る こ と は 勿 論 で あ る
︒ 更 に は 単 に 娯 楽 を 目 的 と す る も の も あ る よ うだが︑そのうち変ったものとしては城端別院で毎年旧正月に行われていて︑
四 十 年 も 続 い て い る 盤 持 講 な ど と い う の が あ る
︒ 然 し
︑ 何 と 言 っ て も
︑ 富 山 県 に お け る 講 と し て は 疑 い も な く 真 宗 講 が 断 然 多 い の で あ る
︒ 私 の こ の 調 査 報告も真宗講が主とならざるを得なかったわけである︒
註①下新川郡境地区にはこの秋葉講のほか神信仰に関係したものとして大神講︑金
比羅講があり︑また仏教信仰に関係したものとして五大力講があるが︑これ等
は︑過去の姿は別として︑凡て僅か四︑五名や︱︱‑︑四名の同人が年一︑二回慰
楽のために共同飲食するだけのものといわれる︒また神信仰に関係したものと
して恵比須講が高岡市と氷見市にみられ︑さらに伊申講が上新川郡富南村にみ
られるが︑この庚申講も大正
i年より一部落内の青老年男女あわせて僅か四名
位の者が年一回当番の宅にて僧侶を招いて会合する程度のものである︒
延応元年︵
□‑三九︶には︑白川郷に隣接する高原郷の天台宗華蔵寺が改宗せ
しめられて︑常運寺と号し︑昭蓮寺の未寺となったのであるが︑この常運寺と
はのちの八尾の聞名寺のことである︒
消息奥書の宗主名や日づけや宛名については詳細に調壺したり︑正確な報告を
得たりすることが出来なかった︒
尚この講の上納金は別院を通じて割当ててくるものという︒
然し富山県における第二次世界大戦後の市町村の統合分離は可成り乱雑なとこ
ろもあるので︑ここに挙げた市町村の数字は正確を期しがたく︑又そのまま形
式的外面的に理解しては妥当を欠くところもあると思う︒
例えば八尾の聞名寺には十一日購︑十三日講︑十八日謂︑二十日謂︑二十五日
講の五講があり︑それ等を構成する門徒は婦仇郡全体にわたっており︑又氷見
の西念寺には九日講︑十二日女房講︑十三日講︑二十八日講の四講があるとい
う ︒
(6) (5) (4) (3) (2)
経済学部論集
抽簸によって決めるというのもある︒
幼年層が講集団に参加するということは奇異に感ぜられるかも知れないが︑然
し富山県においては或る民家で講が行われる時には︑附近の数名から十数名の 富山大学紀要
(10) (9)
子供達が共に提燈を手にしながら次のような文句に節をつけて講のあることを
ふれ歩いたものであり︑又今もそうしているところがみられる︒
お講︑お講︑お謂に参らっしゃいや
今はや御わはん︵坊さんのこと︶がござらっしゃるぞ
はよらと︵早くのこと︶はよらと参らっしゃいや︵富山市内のもの[)
マ イ
・ /
00
町 の
00(
宿の姓︶︑御講やけれ参に来て下はれ
00町 の
00
︑ 御 坊 は ん い ら は っ た け れ 参 に 来 て 下 は れ
G
莉
湊 市
内 の
も の
︶
のみならず︑子供は両親につれられてそうした講に喜びを悠じながら出席する
こ と に も な る の で あ る ︒
このうちには更に餅つきをするのもみられる︒
これも別院で行われるところからみて︑以前には宗教的な意蛛や関係をもって
いたと思われるし︑今も持っているのかも知れない︒単に娯楽や社交を H
的 と
するものに講と称するものもあるようだが︵例えば茶講や将棋講︶︑そうした場
合の講とは単なる結合︑結社︑集会ぐらいの意味のものであることは言うまで
も な
い で
あ ろ
う ︒
二
わ れ わ れ は 前 の 節 で は 富 山 県 に お け る 講 社 が 現 在 ど の よ う な 実 態 を も っ て い る か と い う 問 題 に つ い て 若 干 調 査 し た と こ ろ を 簡 略 に ま と め て み た の で あ る が
︑ 次 に こ の 節 で は そ う し た 資 料 に 基 づ い て 現 在 の 富 山 県 に お け る 講 杜 の 宗教的社会的な意味や特徴を幾らか分析することにしたいと思う︒
先 ず 第 一 に 富 山 県 に お け る 宗 教 的 信 仰 内 容 の 特 徴 を 分 析 す る こ と か ら 始 め よう︒このことは講社の問題に直接関係した問題にみえぬかも知れぬが︑然し 信 仰 集 団 と し て の 講 社 の 信 仰 内 容 を 基 礎 的 に 規 定 し て い る も の で あ る し
︑ 又 講 社 が
︑ 特 に 真 宗 教 団 の 講 社 が 信 仰 集 団 と し て 如 何 な る 意 味 を も っ た 集 団 で あるかを間接的に明らかにすると思う︒それで︑我々は︑何といっても︑富山 県 一 般 に お け る 宗 教 生 活 に お け る 信 仰 内 容 の 混 合 性
︑ 混 滑 性
︑ 重 層 性 と い っ た よ う な 事 実 を 指 摘 し な け れ ば な ら な い の で あ る
c
こ の こ と は 勿 論 広 く 日 本
— 44
‑( 9 )
全体に妥当することと言えるでもあろうが︑然し農村型あるいは村落型社会
構造をなお強く保持し続けている富山県︑とくにその農山漁村地帯において
は顕著にみられる事実なのである︒即ち︑もし宗教を原始宗教と民族宗教と
世界宗教という類型に分つならば︑富山県においてはいろいろの形や種類の
原始宗教と民族宗教と批界宗教が混合し︑混滑し︑重層して現存しているの
である︒勿論︑地域や個人によって程度の差はあろうが︑一般的にいって個
人の宗教的心性はそうした多様複雑な信仰の混滑性や重層性を示していると
言わねばならない︒具体的に言えば︑呪術︑シャマニズム︑農耕儀礼︑祖先 崇拝︑神道︑仏教︑キリスト教などがいろいろの形で混滑し︑そしてそれら
の行事がいろいろの形で慣習や伝統となって日常化しているのである︒例え
ば殆んど凡ての家々には神棚があると同時に仏壇があり︵特に農村地帯に入
る程︑それらと並んで天皇や天皇一家の写真がかかげられている︶︑神道信者
であると同時に仏教信者であり︑神社信仰と仏教信仰とが混滑していて︑そ
うした混滑せる信仰が生活様式となっていることは改めて言うまでもない︒
それのみならず︑神社信仰は現在豊作祈願や豊作感謝のおこもりに始まって
加持祈祷︑神占︑禁厭︑雨乞い︑虫送り︑病気治療︑現泄利益︑氏神信仰︑
神国思想︑天皇崇拝などに至るまで極めて複雑多様な内容をもっていて︑明
らかに呪術︑シャマニズム︑農耕儀礼︑祖先崇拝などと密接に混滑し︑更に
は儒教倫理と結びつくことによって吉川神道︑垂加神道などを形成し︑極端
な国家主義思想にまで発展していることは周知の通りである︒また同様に仏
教信仰も早くから儒教倫理に結びつき︑祖先崇拝と複合し︑農耕儀礼と重層
していることも明白なところである︒仏教寺院のうち檀家をもたぬ祈祷寺で
病気治療を目的とする呪術信仰を専らとするものも少くないくらいである︒
それ等に結びついていろいろさまざまの呪術︑シャマニズム︑民間信仰︑迷
信︑禁忌が日常の生活を取りまいている︒更に戦後の富山県においてはキリ
スト教が少しづつ広まりつつあると共に︑いわゆる新興宗教が可成りの程度
に普及しつつある︒特にそうした新興宗教は呪符による無肥料栽培︑信仰に
よる豊作や病気治療ゃ商売繁昌などという実利的目的によって︑農村地方に
石瀬・富山県における講社の実態調査 おいては相当の信者を獲得している︒こうした新興宗教の多くのものが呪術︑シャマニズム︑神道︑儒教︑仏教︑憑霊現象︑営利事業などの混合形態であることは言うまでもない︒このようなわけで︑富山県における︑特に農村地方における宗教的信仰内容の大なる混滑性や重層性は疑うべくもないところ
:2)
である︒そしてそれは宗教的寛容とは全く異なった心性なのである︒それは異種類のものや矛盾せるものの結合に無頓済な︑レヴィ・プリュールの所謂
未開人的な﹁融即律﹂的心性である︒多様複雑な信仰の呪術的魔術的融即と
でもいうべきであろう︒マックス・ウェーバーの言葉で言えば︑まさしく﹁
魔術の園﹂に外ならないのである︒次に簡単にそうしたいろいろの信仰形態
の宗教的社会的な意味を分析してみることにしよう︒
先ず農村地方における祖先崇拝の問題からみていこう︒一般に農山漁村に
おいては︑その主要生産労働の場である耕地や山林ゃ漁場から自由に移動す
ることが不可能なことや交通通信運輸機関の未発達のため︑その生活は必然
に狭小な生活空間に閉ざされた定住的生活となり︑その社会は封鎮的社会と
ならざるを得ないのである︒ところで︑狭小な封鎖的社会において一生涯生
活を続ける場合︑人は自らその社会の伝統的行為様式に通暁するようになり︑
そこに封鎖的社会における老人の権威が生ずるようになるのであるが︑然し
又そうした権威をもった老人は永年狭小な封鎖的社会において幾多の銀難や
危険に耐えてその成員を指溝し︑その成員と日々直接的面接的な情緒豊かな
共同生活を送るところから︑その成員によって自ら敬愛されるにいたる︒だ
から︑そうした老人は死後においても守護者としてなおいますが如くに追憶
され︑また死のゆえに神格をおびて畏怖されるようになるのであって︑そこ
に祖先崇拝が生れてくることになるのである︒封鎖的農山漁村地帯に特に祖
先崇拝が盛んであるのはこうした理由による︒富山県における仏教信仰や神
社信仰には特にこうした祖先崇拝や氏神信仰や産土神信仰に結びつき︑これ
( 3 )
を主要な内容としていると思う︒次に呪術や農耕儀礼の問題について考えてみよう︒農山漁業が一般に自然
的諸条件に支配され︑天災地変に制約されることの多いのは言うまでもない︒
一伶一~
C
10)
富山大学紀要経済学部論集
これが技術や科学の採用のおくれている農山漁村地帯において特にいろいろ
の生産関係における卜占︑呪術︑儀礼︑民間信仰などを生ぜしめるのである︒
そしてこうした卜占︑呪術︑儀礼︑民間信仰などにはシャマニズムや神社信 仰や仏教︑とくに新興仏教などがいろいろの形で関係し︑混滑している事実
は忘れられてならないであろう︒のみならず︑近時農村地方にはいろいろの
技術が採用されつつあるが︑そうした技術も呪術を排斥することなく︑呪術
と技術とが並存混滑して用いられている事実も注意されねばならないであろ
( 4 )
ぅ
それではこうしたいろいろの伯仰形態の混滑はいかなる社会的条件によっ
て生ずるのであろうか︒次にその問題について考えよう︒元来狭小な生活
空間に定住して生活する封鎖的社会においては︑一般に諸他の社会との間に
接触交渉が少く︑従って諸他の社会から別暴な行為様式や生活様式の移入 される機会も少いために︑自己の行為様式や生活様式を諸他の行為様式や生 活様式と比較検討し︑そうすることによって自己の行為様式や生活様式の意
義や価値を反省批判する機会に恵まれず︑その生活は自ら過去からし含たっ
た伝来の慣習的様式に無自覚的無批判的盲目的非合理的に従うところの伝統
的生活とならざるを得ないのである︒人間の合理的な愚考判断
(U
rt
ei
le
n)
は本質的には或るものをそうでないものから明確に分別する
(t
ei
le
n)
ことに
よって成り立つのである︒つまり判断するとは分別することなのである︒伝 統的な行為様式に無自覚的に盲従し︑諸他の行為様式との比較によって意義
や価値のあるものとそうでないものとを分別する機会の少い封鎖的社会にお
いては当然合理的判断の発達が阻止されざるを得ない︒そして合理的判断の
欠如する社会における程︑矛盾に無頓着な︑例の未開人的﹁融即律﹂的思考
法が強く支配するようになる︒これが封鎖的な農山漁村社会において非合理
的な卜占︑呪術︑儀礼︑民間信仰︑さらには迷信などが多く︑而もそれ等が
分別批判されることなしに︑融即混滑している︱つの社会的理由といってよ
い︒特に女性は︑男性に比し︑家のなかで生活する面が多く︑従って一層封
鎖的となり︑そのため女性はその狭小な封鎖的生活空間において物事を個別
的具象的情緒的に捉えることが多く︑それだけ一層非合理的無反省的となり 易いのである︒非合理的な呪術や迷信や狂信が特に女性に多くならざるを得
ないのである︒
封鎖的社会においては︑今述べたように︑その生活は無自覚的無批判的非合
理的となり︑自ら古くからの慣習的様式に盲従する保守的伝統的生活が支配 的となるのである︒古くからの慣習的様式は反省批判されることなしに日常
の生活様式となっている︒このことは宗教においても妥当する︒農村におい
ては︑宗教はいろいろのものが融即混滑したままに慣習伝統として行事化さ れ ︑
H常化されているのである︒だから︑どの信仰においても︑宗教教義は一
般に殆んど問題にされず︑自己の信奉する信仰の教義について知っている者 も極めて少いと言ってよい︒また一般に慣習や伝統は社会の普遍的な行為様 式や生活様式として一種の強い社会的拘束力をもつにいたり︑社会成員をそ
うした慣習や伝統を分有するように誘適強制するものである︒だから︑宗教は
農村においては各自の自由なる選択決定によるのではなく︑信教の自由以前
なのであり︑家や更には村の信仰がそのまま無批判的批襲的に受けつがれ︑
叉受けつぐように拘束される︒社会的な主体性や自主性の少い女性において
は特にそうである︒そして︑このことは︑農村の封鎖的排他性とあいまって︑
異なれる宗派の信者を非難排斥するにさえいたらしめる︒例えば︑特定の宗 派によって占められている部落に他の宗派の信者が来住する時︑新入者は単 によそ者として蔑視されるだ叶ではなく︑通婚や交際までも拘束される事 実や部落のある者が他の宗派に改宗する時︑部落からいろいろの形で迫害を
うけたり︑村八分になったりした事実さえもあったのである︒このように︑
農村においては︑いろいろの宗教形態が融即混滑したままで慣習化され︑伝 統化されて日常生活に滲透しているのであるが︑そのようにして長年の間に
いろいろの信仰形態が融即混滑し︑更にそれ等が日常生活に密着滲透するに
いたると︑次第にそれらが有機的に連関し合い︑機能的に統合するにいたる︒
だから︑そうしたいろいろの信仰と生活との統合体から或るものを除去廃止 せんとしても︑農村の保守的伝統性のために非難をうけるのみならず︑叉そ
ー 46~