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宗教改革とメディア

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キーワード

宗教改革、印刷術、メディア、コミュニケーション、神学

KEY WORDS

reformation, printing press, media, communication, theology

要旨

ヴィッテンベルクにおける宗教改革の始まりは、メディアの世界に大きな革新をも たらした。

J.

グーテンベルクによる活版印刷の発明はテキストの迅速な複写を可能と し、「書物の世界の革命」(B・メラー)を引き起こした。これは印刷物やその他のメ ディアが広範囲で用いられる結果をもたらし、このことが宗教改革を決定的に促進す ることになった。同時に、宗教改革が広く注目を集めたことにより、多くの人が社会 層の枠を越えて情報伝達のプロセスに携わることになった。この二つの現象を通じ て、改革の動きに反応した大衆が影響力をもつ存在となったのである。宗教改革が影 響力をもちえたのは、多分に時代の「新しいメディア」を巧みな仕方で徹底して用い たことによる。とは言え、宗教改革の成功は、新しいメディアの利用ということのみ によっては説明できない。メディアの革新的、戦略的な利用やその多大な効果を実質 的にもたらしたのは、自由や解放という強いメッセージをもつ神学の力であったので ある。

宗教改革とメディア 1

Reformation as a Media Event

ハリー・エルケ

Harry Oelke

村上 みか  訳

Translation: Mika Murakami

(2)

SUMMARY

The beginning of the reformation in Wittenberg also saw an epochal innovation in the realm of media. Johannes Gutenberg

ʼ

s invention of the movable-type printing system made possible the rapid duplication of texts, which brought about the “revolution of the book sector” (B. Moeller). The resulting widespread use of print and non-print media decisively assisted the growth of the reformation. Simultaneously, the “reformation”

increasingly commanded public attention, and the ensuing communicative processes began to involve more and more people, transcending the traditional boundaries of social rank. Both phenomena contributed to the emergence of an influential public that was sensitized to the concerns of this reform movement. To a large degree, the reformation owes its impact to its skilled and energetic use of the

ʻ

new media

ʼ

of the time. However, the success of the reformation cannot be explained solely by reference to the communicative strategies of the new media. Ultimately, it was the persuasive power of a theology characterized by strong convictions of freedom and liberation that provided the impetus for an innovative and strategic use of media, with its far-reaching results.

1.はじめに

ひと昔まえの宗教改革研究は、本質的にルターひとりが宗教改革をもたらしたとす る理解を前提としていました。たとえばイギリスの歴史学者アーサー・G・ディケン ズはそれを強調してこのように表現しました:宗教改革は「ただひとりの奏者によっ て演奏される交響曲」であった

2

。このような見方はあまりにも一面的すぎると理解 されるようになり、今では過去の見解と見なされています。宗教改革という世界史的 に重要な出来事の生成過程と歴史的影響力を説明しようとするのであれば、一人の人 間から、より包括的な成立要因の連関へと目を転じなければなりません。宗教改革研 究は、すでに長い間、このことを考慮にいれて進められてきました。その結果、情報 伝達の問題が提示されました。起こりつつある宗教改革に情報がいかに大きな影響を 与えたかが明らかにされたのです

3

こうして、宗教改革の成立に決定的な影響を与えたのはメディアであったと理解さ れるようになりました。メディアにより人々は情報を交換し、情報を評価し、何が問 題であるのかを知って、人々が相互に理解し合ったのです。宗教改革の層の厚さやそ こにおける情報の効果を考えるなら、宗教改革を「情報伝達のプロセス」あるいは

「メディアのできごと」と表現することができるでしょう

4

。メディアの利用は、とく

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に宗教改革の初期の段階、すなわち1517–1524年に決定的な意味を持ちました。その 後の宗教改革のさらなる展開の中でも、メディアは重要な役割を持ち続けました。

以下においては、「神聖ローマ帝国」のドイツ語圏におけるメディアの問題について お話します。

宗教改革における情報伝達の問題について、一体何が新しかったのでしょうか?新 しかったのは「新しいメディア」、とくに印刷された書物が利用されたことでした。

グーテンベルクの活版印刷の発明から60年後、ルターの世代の宗教改革者たちが初め て「大量に」印刷物を人々にもたらしたのです。このことについて、宗教改革研究者 ベルント・メラーは、書物の印刷が「書物の世界の革命」を引き起こした、と言って います。

書物の印刷は多くの資金を必要とする最先端の技術でした。経費と利益の関係を考 えると、この新しい産業は初めから財政的にひっ迫していました。資金を見込み、利 益を獲得するためには、特別な出来事が必要でした。この出来事をもたらしたのがル ターであったのです。始まりつつある宗教改革が印刷メディアを大量に使用したこと により、大きな資金を必要とする印刷術に初めて大きな収入源が与えられ、これによ り印刷業の経済的な発展が促進されたのです。

初期の出版界において最初に成功を収めたのは、

ルター自身でした(図1)。1518年に出された「贖宥 と恩恵についての説教」は3年間で26回発行されま した。1520年に出されたルターの小冊子「ドイツの キリスト者貴族に宛てて」は、初版で4,000部発行 され、2週間後には品切れとなりました

5

。反抗的な ヴィッテンベルクの修道士ルターに対してローマ教 会は1518年以降、異端審問を行いましたが、これに よりルターの改革の意思が広く知られるようになり ました。そうしてウルリヒ・フォン・フッテンなど 他の人々も宗教改革の考えを著し、出版し始めたの です。同時に、ルターの最初の手強い論敵トーマ ス・ムルナーが現れたのも文書においてでした。そ して1521年にルターがヴォルムスの帝国議会に登場 すると、小冊子が大量に印刷されたのです。小冊子の発行は1524年に最高期を迎えま した。約2,400種類の小冊子が発行され、その数は全部で240万部であったと推定され ています

6

図1: アウグスティノ会修道士、マル ティン・ルター(ルーカス・クラ ナハ(父)、1520年頃)

(4)

とりわけアウグスブルクにおける出版状 況は、このような急速な出版活動の成長を 明確に物語っています(図2)。アウグスブ ルクは近世における印刷活動の一つの拠点 で、その出版活動はこの時代のドイツの代 表的なものであったと理解されています。

特に目を引くのは、1521年から1524年にか けてその出版活動が抜きんでていたことで す。この時期、アウグスブルクでは毎年200をはるかに越える印刷物が発行されまし た。印刷物の増大は1521年のヴォルムスの帝国議会と1524年の農民戦争の始まりの間 の時期に、ピッタリと重なります。この時期は通常、「宗教改革運動」の時期と表現 される時代です。多様な社会集団が全く異なった様々な理由からルターの宗教改革に 結びつき、宗教改革を導入するのに貢献したのです。

このように1521年から1524年の間に、宗教改革が近世の社会に入り込んで影響を及 ぼすことができたのは、総合的に考えると、きわめて多くメディアを用いたこと、そ してそれにより情報伝達がなされたことによる、と言えます。これはメディアの出来 事と表現できるでしょう

7

。農民戦争以後は、歴史的に揺れ動いた時期に、出版活動 が再び盛んになりました。たとえば1530年のアウグスブルク帝国議会や、1542年から 43年にかけてのシュマルカルデン戦争の前の時期です。しかし宗教改革初期の高い水 準にはもはや達することはありませんでした。

メディアは神学的な知識を人々に伝え、あらゆる人がそれに接することを可能にし ただけではありませんでした。メディアはテキストや図像の形で情報、つまり考えを 運ぶことを初めて可能にしたのです。遠く離れたところにいる読者や図の鑑賞者たち が、印刷メディアにおいて、ともに憤り、ともに楽しみ、そして志向を同じくする人 たちがグループを作るようになったのです

8

遅くとも1521年のヴォルムスの帝国議会以後のドイツでは、その歴史上、初めて一 つのテーマが共有されました。それ以前は農民、貴族、人文主義者、職人、他の社会 層の集団が、それぞれ自分たちの社会の中だけで、相互に交流していました。それに 対し、ルターがヴォルムスの帝国議会に登場することにより、ルターの事件が新しい メディアを通じて、文字通りすべての人の口に上る評判となりました。こうしてル ターは地域を越えて公けに知られる存在となり、さらに社会層や身分を越えて広く知 られることになったのです。今日、サッカーが社会層の違いを越えて人々の話を弾ま せるように、ヴィッテンベルクの修道士ルターの問題は社会的な境界を越えて公の場 に 解 き 放 た れ た の で す。 こ れ は「 宗 教 改 革 の 公 的 出 現

(reformatorische

図2:アウグスブルクの印刷所おける発行刷数

(5)

Öffentlichkeit)」 9

と表現されます。

2.情報伝達の形態

情報伝達はどのような形態によって行われたのでしょうか。情報伝達の形態はさま ざまでした。まず口頭による伝達、口承です。顔と顔を突き合わせて情報を伝えるこ のやり方は、大部分の人にとってなじみのある、慣習的な情報伝達の方法でした。意 見交換や相互の理解も、まずは語られた言葉をもって行われました。道端での噂話、

居酒屋での歌、さらに教会での会話に至るまで、言葉を語ることにより、相互の理解 が行われました。公的な告知、あるいは説教は慣習的な伝達儀式で、これは言葉を

「聞きたい」という人々の要求に応えるものでした。このような対面的な情報伝達 は、常に同じ空間で同じ時間に行われるもので、各人は聞いたことに対してすぐに反 応することができました。たとえば礼拝、授業、道端での会話などです。

宗教改革の内容が拡大するために、説教は抜きん出て重要なメディアでした。さら に宗教改革期の讃美歌も、同じく口承の情報伝達形態と言えます。印刷されたメディ ア、例えば聖書、小冊子、ビラは個人の読み手に受け入れられただけでなく、語られ た言葉を通して、つまり人々の前で読まれる「読み聞かせ」を通して受け入れられま した。このようにして印刷メディアは広く人々に届くものとなったのです

10

第二の情報伝達形態は視覚的なもので、これは宗教改革の時代に重要な役割を与え られました。16世紀の社会では―中世の社会にすでにあったように―見ることに強い 関心が示されました

11

。これは民衆の信仰にとって重要な要素でした。とりわけこの 時代の版画は、人々の見ることへの志向を考慮して製作されました。

第三の情報伝達形態として「行為」が挙げられます。具体的には、16世紀に広がっ た世俗の演劇、行列、宗教的祭列、公的な告知などがそれに当たります。イースター や受難の聖劇、謝肉祭劇などの儀式の演出もまた、行為に基づく情報伝達形態でし た。その中には、大規模な芝居を提供するものもありました。

3.メディア

宗教改革という大きな出来事にある程度共鳴しながら、宗教改革を共に形成して いったメディアは何であったでしょうか。宗教改革の大部分のテキストは、宣伝のテ キストであれ、教化のテキストであれ、小冊子として制作されました

12

。四つ折り版 で12ページから18ページほどの小冊子を作るのは比較的容易で、経費が掛かるもので はありませんでした。この小冊子は主としてドイツ語で書かれ、全社会層に向けられ

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ました。挿絵はまれに取り入れられただけでした。小冊子のターゲットは、複雑な議 論の内容を理解できる読者でした(図3

a, b

)。ルターは小冊子出版の紛れもないス ターでしたが、他の宗教改革たちカールシュタット、メランヒトンがそれに続きま す。ほかにも教養ある市民、市参事会会員、職人、そしてこの後お話しすることにな る女性たちも、宗教改革の考えに基づいて文書を書きました。

「挿絵入りのビラ」は片面刷りでテキストの部分と挿絵の部分から成り、これによ り一つの情報体を構成しています

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。ビラは紙面の領域が限られているため、先鋭化 し、誇張された論争的な表現 形態とならざるをえませんで した。小冊子は宗教改革の神 学議論を公けにしましたが、

それに対してビラはローマ教 会とその聖職者に対して不安 と攻撃を放出するものでし た。

それは多くの場合、図で示 されました。プロテスタント の宣伝はここにおいて巧みで した。図像はここでは宗教的 な目的のために使用されてい

図3a: ルターの小冊子『キリスト者の 自由』表紙

図3b:同、テキスト

図4:「修道士とくそ坊主を狩る」1515年頃

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るのではない、つまりビラの図像は、図像の宗教的な利用の問題に抵触せず、問題な いとしたのです。図像は全く世俗的に、宗教改革の宣伝手段として用いられました。

論駁的な内容をもつ図像により、鑑賞者の感情的な反応、操作された感情が引き起こ されることも稀ではありませんでした。図4は「修道士とくそ坊主を狩る」というタ イトルの挿絵入りのビラです。この図は人気のある狩り出し猟のモティーフで描かれ ていて、狩人の悪魔がローマ教会の聖職者の代表者たちを追っています。彼らの中に は愛人と手を取り合っている者もいます。彼らは図の左にある開いた地獄の入り口―

巨大な豚の口―へと駆り立てられてい ます

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悪魔化された緻密な描写は、宗教改 革に対する不安をローマ教会側に引き 起こしました。宗教改革は肯定的に描 かれていて、自分たちとは対照的に表 現 さ れ て い た か ら で す。 図5は「 ル ターによる信仰者の導き」というビラ で、1524年のものです。図の下部の地 面には真のキリスト者の群れが描かれ ています。キリスト者たちはルターに よって暗い穴から光の中へ、キリスト の十字架に向かって導かれてゆきま す。それに対してローマ教会の代表者 たちは、図の上部で動物の姿で表わさ れ、攻撃的な調子で描かれています。

また怪しげな商売に関わっている様子 も描かれています。ここでは「善」と

「悪」が明確に分けられ、対照的に描 かれています。ルターはここで救済史 的に神話化され、解放者として描かれ ています。その一方でカトリックの聖 職者は神から離れたものと描かれてい ます。このような表現を通して、これ を見た情報の受け手は福音主義(プロ テスタント)の方へと導かれるので す

15

。時間的な制約のため、これらの

図5:「ルターによる信仰者の導き」

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図は版画として作られました。版画は短い時間で完成されるため、新しい出来事に対 応することができたのです。

「ドイツ語訳聖書」は、宗教改革の印刷メディアの 中で最も影響力のあったものでした

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。ルターがヴァ ルトブルクで完成させたドイツ語訳の新約聖書が1522 年9月に出版され(図6a, b)、1534年には全聖書のド イツ語訳が出版されました(図7)。この企画は経済的 にも大きな成功を収めました。『9月聖書』(『ドイツ語 訳新約聖書』)の初版5

,

000部は1

,

5グルデンという相当 な価格でしたが、3ヶ月の間に売り切れました。ル ターは聖書を神学の中心に据えました。今日これは

「聖書のみ」と表現されますが、それにより聖書は福 音主義的自由の真髄となったのです。図による表現は 文字の読めない人々にも聖書を理解する機会を開きま した(図8)。それに加えてルターのドイツ語訳は、言 語として極めて優れた質をもち、それによって人々に確信を与えた側面もあります。

ローマ教会の側でもルターのドイツ語訳に感銘を受けて、様々なドイツ語訳を命じま した

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「説教」は宗教改革の拡大にきわめて重要な役割を果たしました。説教は現場で直

図7: ルター『ドイツ語訳全聖書』

1534年

図6a: ルター『九月聖書』1522年、

ヨハネ黙示録の図

図6b:同、テキスト

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接人々に語りかけ、その場で各人に理 解されうる情報手段でした。宗教改革 は、語られた言葉を聞くことによって 決定的に促進されたのです。このこと は、とりわけ地方に当てはまります。

ここでは読み書きができない多くの人 たちが、説教を通じて教えられ、宗教 改革へと動員されたのです。宗教改革 の初期には、周辺地域からあまりにも 多くの人が教会に殺到したので、礼拝 の時間は市の門を閉めなけれ ばならないほどでした。宗教 改革は正しくも「説教運動」

と表現されました

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。挿絵入 りのビラ「二通りの説教の内 容」(図9)は、説教が宗教改 革の拡大に基本的な意義を もっていたことを、わかりや すく示しています。この図も また対照的な仕方で描かれて います。左の部分にはローマ 教会に対するもうひとつの教 会があり、そこでは熱心に福音主義の説教が行われ、信徒たちが集中して福音の告知 を聞いている様子が描かれています。右側にはカトリックの信者たちがロザリオの祈 りに打ち込みながら、修道士の情熱のない説教にそれぞれ我慢している様子が描かれ ています

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中世以来よく知られた慣用句「歌うことと語ること」は宗教改革において特別な意 味を与えられます。(ルターも「天の高みから私は歌い、語ろう…。」と表現していま す。)この慣用句は宗教改革において、説教し(つまり語り)、歌う形で福音を広め る、という意味を与えられました。ドイツ語の会衆讃美歌は、福音主義の教理を要約 したものでしたし、歌うことにより、記憶に残りやすくなりました。このことは例え ば、ルターの讃美歌「愛するキリスト者たちよ、さあ、ともに喜べ」に見て取れま す。この讃美歌の3節には、まだ宗教改革的認識に至る前のルターが、行為義認の行

図8:ルター『ドイツ語訳全聖書』、出エジプトの図

図9:「二通りの説教の内容」

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き詰まりから神学的に逃れる道を見出だせず、憂鬱な状況にある様子が印象的に表現 されています。「わたしの良き行いは通用しなかった。それは腐敗していた。不安は 私を絶望に追いやり、死のほか何も私には残らず、地獄に堕ちねばならなかった。」

神学的には難しい内容が、印象深い言葉で歌われ、内面化されることが可能になった のです。

讃美歌はまず片面刷りの印刷によって、会衆の多くのキリスト者たちに知られるも のとなりました(図10)。最初の讃美歌集は1524年以後に現われました。これは新し い讃美歌を小さな本の形で提供するものでした(図11)。印刷紙とは対照的に、讃美 歌集は長もちし、宗教改革の価値と基準を長きにわたって内面化するものとなりまし た

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文字の読めない人々や信徒たちが、讃美歌を歌いながら、社会層や身分を越えた歌 の共同体へ入れられていったのです。信徒たちによりおのずと歌い始められたプロテ スタントの会衆讃美を、カトリックの聖職者たちは教会から締め出すことはできませ んでした

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。プロテスタントの讃美歌は道端や広場でも歌われました。それにより宗 教改革が公に知られるようになったのです。

ここで中間総括をしましょう。宗教改革運動の拡大は、多くの様々なメディアが利 用されることにより可能となりました。このメディアは3つの情報伝達形態において 用いられました。ボブ・スクリプナーはスコア譜にたとえて、この多様なメディアを 説明しました

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。それぞれのメディアは各パートのように独立して存在するが、それ

図11:『讃美歌集』1524年 図10:ルター作讃美歌

「さあ、ともに喜べ」

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らが共演し、交響することによって変容し、歴史的な影響力をもつにいたったのだ、

と。

4.メディアの担い手としての宗教改革神学

新しいメディアの成功は、もちろんメディアそのものにその要因があったわけでは ありません。宗教改革の神学が、メディアが運びうる、そして多くの同時代人を魅了 する刺激的な使信を提供したことによるのです。

ルターは修道士時代に以下の問いに長く苦しみました:いかにして私は恵みの神を 得ることができるのか。正しさを重んじ、罰を与える神という理解が、ルターにおい て絶対的なものとしてあり、それにより彼は思考の行き詰まりを経験したのです。

ローマ書1章17節においてルターは神の義を受動的義と認識し、神は人間に、その信 仰において義を贈ると理解するようになります。この認識を経てルターは転換を経験 したのです。ルターはこの発見を、解放を与える転換、「天国への門」として体験し ました。後に彼はこのように述べています:全聖書が「向こう側から」突然、彼に現 われた、と。

ここからルターは、人間の義認は神の前においては、ただ信仰のみによるという思 考へ到達するのです。すなわち、キリストゆえに説教とサクラメントで与えられる和 解を信頼する、このことにおいてのみ人は神の前に受け入れられる、ということで す。これは福音の自由の使信でした。中世末期の行為義認により重く伸し掛かる負担 を考えると、信仰のみという新しい神学は多くのキリスト者に実存的な自由の獲得と 受け止められました。(それが当時何を意味したか、今日私たちもある程度理解する ことができるでしょう。)人が信仰のみにより神の前に義とされるという理解は、メ ディアの推進力となり、宗教改革の情報伝達の主要な基準となったのです。そして最 終的にここから、全教会を宗教改革的に変革しようという推進力が生まれてきたので す。

5.宗教改革のメディアの拠点

重要な印刷所は、多くの場合、人口の多い南部の自由帝国都市にありました。ニュ ルンベルク、シュトラスブルク、アウグスブルク、スイスのバーゼル、さらに北部で はヴィッテンベルクやマグデブルクが傑出した役割を担っていました。帝国自由都市 はたいてい豊かで、職人や商人が、興隆する印刷業に必要な投資を行う経済的環境が ありました。宗教改革のためのビラや小冊子は、多くの収入を得る見込みをもたらし

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ました。成長しつつある印刷業は、信仰的な観点からルターの宗教改革に共感しまし たが、しばしばこのような商業的な理由からもルターに結びついていったのです。

16世紀の文学活動に印刷業が果たした役割は、今日考えるよりもずっと大きなもの でした(図12

,

13)。印刷業者は印刷すべきテキストの選別を行い、印刷し、製品の配 送を行いました。カトリックの著者が、自分のテキストを印刷してくれる印刷屋を見 つけるのは容易なことではありませんでした。印刷屋は繰り返しテキストの文章に勝 手に手を入れ、著者たちを怒らせました。 ルターも印刷屋を大声で叱ったものでし た。

加えて別の要素もありました。帝国自由都市は帝国と皇帝の直接的な支配下にあ り、地方の領主たちの介入を免れていました。この環境が、宗教改革の文書を生産す るのみでなく、販売するにも必要な自由な空間を印刷業にもたらしたのです。

1521年のヴォルムスの帝国議会でルターは帝国追放令を受けましたが、ここで彼の 文書、また彼を肯定的に評価し、宗教改革的な関心を表したテキストは禁じられまし た。それ以来、帝国都市において「書籍政策」が―その成功の程度は一様ではありま せんでしたが―促進されました。都市参事会のために、検閲により印刷業を管理しな ければならなかったのは、読むことのできる、高い教養をもった市民で、多くの場合 は教師、また聖職者であることもありました。

ニュルンベルクの例をみると、印刷業に対して都市の側から非常に現実的な規制が なされたことが分かります。皇帝が大きな帝国内のどこか遠くに滞在している場合 は、宗教改革に好意的な市参事会は束縛されることなく印刷業や配送業に対処しまし た。宗教改革に好意的な文書を生産し、都市内の店や公共の広場で販売したのです。

皇帝がニュルンベルクを訪問するという知らせがあると―これは全ヨーロッパの政治 政策ということを考えると、めったにないことでしたが―、市参事会は素早く態度を 変えました。法令により、皇帝の滞在期間は印刷物の販売が大きく制限され、違反は 罰されました。こうして皇帝の行政との政治的対立が回避されましたが、宗教改革は それにもかかわらず、新しいメディアの助けによって都市の中に広がっていったので す。65の帝国都市のうち50の都市において、宗教改革が有効とされました。

図13:印刷バレン 図12:ヨハン・グーテンベルクの印刷機

(13)

6.ミュンヘンにおける反宗教改革的メディア政策

都市に宗教改革に好意的な印刷業がなければ、宗教改革の考えが公的に貫徹される のは難しいことでした。このことは特にミュンヘンの情報伝達のあり方に表れていま す。今日の私たちには想像できないかもしれませんが、宗教改革の初期、ミュンヘン は文化的に「活気のない第二級のドイツ都市」

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でした。このことは印刷業について もあてはまります。きわめて近くにある帝国自由都市、アウグスブルクとニュルンベ ルクは、すでに述べたように第一級の印刷の中心地でした。それに対してミュンヘン は、穏健に表現するなら、まだ多くのことが始まっていなかったのです。

宗教改革に決定的な影響を与えたミュンヘンの―新しい技術をもつ―印刷所は1500 年頃に、この町に居を定めました

24

。ハンス・ショプ サーは彼の経営する印刷所が6年間免税を受けるいう約 束を得て、アウグスブルクからミュンヘンへ移住してき ました。ここでは古いタイプの印刷所が二つ営業してい ただけでした。アウグスブルクから移住してきたのは、

印刷業界で厳しい競争があったからです。ここミュンヘ ンには大きな競争は見受けられませんでした

25

。ショプ サーは公爵の宮廷から委託を得ることができました。

ヴィッテルスバッハ家は他のどの貴族よりも早く、印刷 業が政治的統治に新しい可能性を与えることを見て取り ました。宮廷やその行政機関が出してきたもの、すなわ ち領邦議会の招集状や、税金の徴収書、軍事命令など が、ショプサーのところで印刷されました。

ショプサーは熱心に働き、ルターの「95箇条の提題」の出 版後に起こった宗教改革運動が、いくらかの利益をもたらす ことを見て取りました。彼はまたこの新しい運動にある程 度、共感し、慎重に関わってゆきました。1519年にミュンヘ ンの彼の印刷所で出版された最初のルターの文書は「キリス トの聖なる受難の考察についての説教」でした(図14)。こ れは害のない信仰書で、ルターの新しいキリスト論的な視点 が示されてはいますが、刺激的な改革の訴えはなされていま せん。

一年後にショプサーはさらに進み、すぐに有名になったル ターのアピール文書「ドイツキリスト者貴族に宛てて」

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図14: ルター「キリストの聖なる 受難の考察についての説 教」1519年

図15: バイエルン公爵ヴィ ルヘルム4世(1493–

1550)

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印刷しました。ヴィルヘルム公爵(図15)はルターの文書に全く共感せず、ショプ サーの仕事を喜びませんでした。ヨハン・エックの報告によると、公爵はショプサー の発行した書籍をすべて押収しました

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。ルターは全信徒祭司論を示して、世俗権力 を宗教改革の味方に付けようとたえず試みましたが、この出来事によりミュンヘンで はこのルター試みは長くは続きませんでした。

このことはショプサーが宗教改革に無関心ではなかったこ とを示しています。彼はさらに宗教改革に順応してゆきまし た。宗教改革の穏健な文書が時として彼の印刷所から出され ました。しかし全体において、ショプサーは次第に公爵のカ トリック的方向に沿って、印刷を行うことになります。1524 年以後は、ショプサーは福音主義の教理に反対する文書のみ を印刷し、福音主義と再洗礼派に対する両侯爵の防衛戦を支 えました(図16)。例えば彼は、ミュンヘンのフランシスコ 会のカスパー・シャッツガーが書いた多くのカトリック擁護 の文書を印刷しました

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。ショプサーのカトリック支持の態 度は、福音主義の側で気づかれずに終わったわけではありま せんでした。彼は一度、福音主義の側から出された嘲笑文書で、そのカトリック的活 動を恥ずべきことと非難されました

29

福音主義による反対活動は、ミュンヘンではめったに見られませんでした。ある 時、福音主義を支持する市民たちが、アウグスティヌス修道会のミサに静かに忍び入 り、突然大きな声でルターの抵抗の歌「主よ、われわれを支えたまえ、あなたの言葉 のもとに」を歌い始めました。この歌はとくにカトリックに対して向けられたルター の文章で、ビラによって広く知られていたものでした(図17)。この歌う集団は騒動 を引き起こし、ミサは中止されまし た。この事例が示すのは、さまざまな メディアが交錯し、相互にその影響力 を強め合ったということです。しかし この例は、ミュンヘンでは例外的なも のでした

30

ミュンヘンの事例が示すのは、バイ エルン公爵の強い反福音主義的な態度 が、宗教改革のメディアの拠点の存在 を不可能にした、ということです。こ れにより、ミュンヘンで宗教改革はメ

図17: 「主よ、われわれを支えたまえ、あなたの言葉の もとに」ビラ、1548–50年

図16: バイエルン公爵ルー ドヴィヒ10世(1495–

1545)

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ディアの力をもちえなかったのです。すでに1522年に、他のどのドイツの地方よりも 早く、両公爵はバイエルンの反宗教改革的な宗教規定を公布しました。これもショプ サーの印刷所で印刷されました。まだ宗教改革が帝国のどこにも確立されていない時 期に、ミュンヘンではすでに反宗教改革の時代が始められたのです。ここで特徴的な のは、印刷所が自己の目的に合わせて意識的に機能していったということです。宗教 改革を内容とする情報伝達が一般的であったのに対し、ミュンヘンではそれとは反対 の内容の情報伝達が促進されたのです。

7.アルギュラ・フォン・グルムバッハ:宗教改革初期の小冊子作者

バイエルン公爵の支配地では厳しい取り締まりがあったにもかかわらず、バイエル ンでは宗教改革を支持する情報伝達が個人のレベルで生じました。一つの事例を紹介 します。この事例は、宗教改革の問題に関して女性もまた小冊子作者として実質的な 貢献をなし得たことを示すものです。

1492年生まれのアルギュラ・フォン・グルムバッハは

(おそらく1554年に亡くなりましたが)、高位にある貴族の 妻でした。彼女は貴族の子女としてミュンヘンの宮廷で高 い教養を身に付けていました(図18)。小冊子作者として 彼女は宗教改革の情報伝達活動に積極的に関わりまし た

31

。フランケンの帝国騎士の妻としてバイエルンに住み ながら、アルギュラはルターの書物を熱心に読み、神学的 専門知識を身に付け、初期の宗教改革の指導者たちと交流 しました。インゴルシュタットの神学部が、福音主義を支 持する18歳のヴィッテンベルクの修士アルサキウス・ゼーホファーに対して考えの撤 回を要求し、山奥の修道院に追放した際、アルギュラは率先して彼を擁護しました。

インゴルシュタットの知識人の男性社会は、1523年のアルギュラの手紙で彼女の挑戦 を知り、しばらくの間、騒然となりました。その手紙にはこのように書かれていま す:「あなた方のところへ行き、あなた方の言うことを聞き、またあなた方と話すこ とをも、私は恐れません。そして私はドイツ語で尋ね、答えを聞き、神の恵みにより 読みます。

32

」大学町インゴルシュタットは、伝統的な男性知識人の拠点でしたが、

ここに一人の女性が聖書と福音主義の教理についての議論を挑んできたのです。この 手紙は小冊子として6か月の間に16回、版を重ねました。これが出されたのもミュン ヘンのショプサーの印刷所でした。この出版数に匹敵するのはルターとカールシュ タットだけでした。アルギュラ・フォン・グルムバッハは、宗教改革のメディアで重

図18: アルギュラ・フォン・

グ ル ム バ ッ ハ(1492年

–1554年頃)

(16)

要な働きを担った最初の女性です。カトリックの神学者たちにとって、これは大変な 挑戦でした。アルギュラは悪魔化され、「生まれながらのルターの愛人で、地獄のか んぬき

33

」と中傷を受けました。

その後さらに7つの小冊子が出されました。彼女の100を超える手紙は、彼女が熱心 に宗教改革の開拓者たちとやり取りしていたことを示しています。彼女の出版活動に ついて、大学や宮廷の側からは何の反応もありませんでしたが、彼女の例は、新しい メディアを通じて個人が政治権力の抑圧に対しても立ち向かう可能性が開かれたこと を示しています。

アルギュラ・フォン・グルムバッハの例は、ルターの全信徒祭司論が当時のメディ アの脚本としていかに重要であったかをきわめて明確に示しています。聖職者と信徒 の格差がそれによりなくされたばかりでなく、同時に男女の役割の問題も新しく定義 されました

34

。アルギュラ自身は主としてキリスト者として神学論争に加わり、性の 問題はその背後に退きました。これは彼女の自己理解に対応しています。彼女はイン ゴルシュタットの男性たちに知らせようとしました。「私は女性としてあなたたちに 無駄話を書いたのでなく、キリスト教会の一つの枝として神の言葉を書いたので す。

35

」アルギュラの理解によると、宗教改革によって新しい時代が始まったので す。すなわち、ただキリストの共同体に連なることにおいて、教会改革についての神 学論争に加わることが許されるのです。教会のヒエラルキーによる支配は、宗教改革 以後は過去のものとなりました。家父長的な男性社会の支配も同様です。

Dorothea von Klingenberg geb. von Otting, mittellose Witwe, die den Familiensitz Hohentwiel verlassen musste. Argula und Bernhardin II. setzen sich für sie ein. Sie lebt zeitweise in Argulas Haushalt.

Katharina Fürer geb. Imhof, Nürnberger Patrizierin, nimmt Argulas Sohn Georg 1525 bei sich auf.

Johann Eck Professor der Theologie in Ingolstadt, führender Gegner Luthers, bittet Argula um die Bezahlung einer Rechnung, erwähnt sie und Gottfried in einem Brief an Paolo Vergerio.

Hans und Wolfgang Steuerer Ratsherrn in Regensburg, rechtliche Auseinandersetzungen

Andre Scheckenbach Regensburger Patrizier, leiht ihr Geld.

Wolfgang Hunger Jurist und Humanist, Professor in Ingolstadt, leiht Argula Geld und berät sie in rechtlichen Angelegenheiten.

Martin Cronthal Würzburger Stadtschreiber, gehört zu ihrem Freundeskreis, sie ist Patin eines seiner Kinder.

Andreas Stahel Schweinfurter Stadtschreiber, Notar in Würzburg, heiratet, vermittelt durch Argula, eine Tochter Martin Cronthals Neidhard von Thüngen

Verwandter, Amtmann von Arnstein, nach dem Tod ihres zweiten Ehe- manns

Mose von Auerbach aus Stadtamhof/Regensburg und sein Schwiegersohn David beleihen Argulas Goldkette

Johann von Sandizell Freund ihres Bruders Marcellus, leiht Argula Geld.

Nicolaus von Klempzen am Hof des Herzogs Georg I.

von Pommern, Historiker, leiht Gottfried Geld für die Reise von Wolgast nach Lenting;

vertritt 1526 Bernhardin als Anwalt.

Philipp I. von PommernWolgast führte in seinem Herzogtum die Reformation ein, Gottfried ist Edel knabe am Hof in Wolgast.

Fuchs von Bimbach Dorfherrn von Zeilitzheim

Nicolas Geißler Kramer aus Leipzig, fordert Geld für Unterkunft und Arztkosten ihres Sohnes Georg 1532 Friedrich von Grumbach zu Harlingen Bruder des Würzburger Domherrn Oswald von Grumbach, Georg plant, zu ihm nach Friesland zu ziehen.

Philipp Poll Sohn des kaiserl. Hofarztes Nikolaus Poll aus Innsbruck, vermutl. Sekretär an der landes fürstl. Kanzlei in Innsbruck, bedankt sich 1536 für Argulas Unterstützung

Katharina Moller, Heitzenhofen bei Kallmünz klagt gegen die Schwestern Argula und Sekundilla wegen eines Waldverkaufs Herzog Wilhelm IV.

regiert gemeinsam mit seinem Bruder Ludwig Adressat ihrer 2. Flugschrift Landgericht Hirschberg

Herzog Ludwig X.

regiert gemeinsam mit seinem Bruder Wilhelm, Friedrich von Grumbach ist sein Landsasse, er entlässt ihn 1524 als Pfleger von Dietfurt.

Herzogin Kunigunde von Bayern Schwester Kaiser Maximilians, Argula war in ihrem Frauenzimmer Hofjungfrau

Johann von der Leiter herzogl. Statthalter in Ingolstadt, befasst mit verschiedenen rechtlichen Angelegenheiten der Familie, z.B. der Vormundschaft über die Kinder

Valentin von Münster Marschall von Würzburg

Jörg Zorn von Bulach kaiserl. Statthalter von PfalzNeuburg, setzt Argula und Secundilla, die die Reichsfreiheit der Herrschaft Ehrenfels aufgeben, als Herrinnen in die Herrschaft ein (15491550) Johann II. von PfalzSimmern

kaiserl. Statthalter im Reichs regiment, lädt sie im November 1523 während des Reichstags in Nürnberg zu einem Bankett ein.

Adressat ihrer 4. Flugschrift.

Florian von Seiboldsdorf Verwandter und Landrichter des Landgerichts Hirschberg, muss die Entscheidungen im Erbstreit um die Herrschaft Ehrenfels in den 1540er Jahren umsetzen.

Kurfürst Friedrich III. von Sachsen

„der Weise“, ihr Bruder Gramaflanz war vor 1515 in seinen Diensten, Adressat ihrer 5. Flugschrift

Leonhard von Eck herzogl. Rat, empfiehlt den Herzögen wegen Argulas Flugschriften ihren Mann zur Rechenschaft zu ziehen, beeinflusst 1548/49 die Entscheidungen des Landgerichts Hirschberg über die Herrschaft Ehrenfels zu Ungunsten der Schwestern Argula und Secundilla

Kolman Grasser aus Steyregg, + 1569 studierte in Wittenberg, 1531 Prediger in Beratzhausen

Oswald Ruland Pfarrer, studiert 1520 in Erfurt, gehört zum Freundeskreis Aventins; flieht 1545 wegen seiner reformatorischen Ansichten nach Nürnberg, Argula will ihm die Pfarrstelle in Zeilitzheim verschaffen.

Martin Luther widmet ihr 1522 sein Betbüchlein, sie besucht ihn 1530 auf der Veste Coburg, ihr Sohn Georg studiert in Wittenberg Philipp Melanchthon Reformator und enger Mitarbeiter Martin Luthers, Rektor der Universität Wittenberg, Argula vermittelt mit anderen 1530 ein Gespräch mit Bucer über den Abendmahlstreit. Ihr ältester Sohn Georg wohnt in Wittenberg bei ihm.

Gereon Sailer Stadtarzt von Augsburg, vermittelt 1530 mit Argula und Urbanus Rhegius ein Gespräch zwischen Melanchthon und Bucer wegen des Abendmahlstreits Urbanus Rhegius evangelischer Prediger in Augsburg, vermittelt mit Argula und Sailer 1530 ein Gespräch zwischen Melanchthon und Bucer über den Abendmahlstreit

Martin Bucer Straßburger Reformator, 1530 vermitteln Argula, Gereon Sailer und Urbanus Rhegius ein Gespräch zwischen ihm und Melanchthon über den Abendmahlstreit

Johann Puffel aus Nürnberg, Pfarrer in Beratzhausen, besorgt für ihren Sohn Georg ein Siegel Hans Denck

Lehrer ihres Sohnes Georg an der Schule bei St.Sebald, muss Nürnberg wegen seiner radikalreformatorischen Ansichten 1525 verlassen

Johann Ketzmann Evangelischer Rektor der Schule bei St. Lorenz in Nürnberg, Lehrer ihres Sohnes Georg ab 1525

Andreas Osiander Reformator Nürnbergs, Argulas wichtigster Ratgeber

Andreas Althamer Studium in Wittenberg, Diakon an St. Sebald, Nürnberg Stadtpfarrer in Ansbach, unterrichtete ihren zweiten Sohn Hans Jörg Georg Spalatin

Geheimsekretär und Geistli- cher am Hof Friedrichs des Weisen schickt ihr ein Verzeichnis der Schriften Martin Luthers

Arsacius Seehofer Studium in Ingolstadt und Wittenberg; dass er seinen reformatorischen Glauben widerrufen musste, war Anlass für Argulas erste Flugschrift.

Wolff Laythmayr Organist in Ingolstadt, er unterrichtet ihre Kinder Apollonia und Gottfried 1535

Wolfgang Jacob Kantor, Gottfrieds Lehrer in Nürnberg 1538 Jacob Pfeffer

Vikar in Zeilitzheim, erster evangelischer Pfarrer in Gerolzhofen Paul Speratus 1519 Domprediger in Würzburg, früher Anhänger Martin Luthers

Friedrich von Grumbach zu Burggrumbach und Lenting, ca. 14821530, Pfleger von Altmannstein und Dietfurt bis 1524, heiratet Argula 1510

Gottfried von Grumbach ca. 15281567 jüngster Sohn, am Hof in Wolgast bis 1543, verheiratet mit Scholastica von Thürheim Apollonia von Grumbach Tochter + 1539 Georg von Grumbach ältester Sohn, ca. 15141539 Studium in Wittenberg

HansJörg von Grumbach zweitältester Sohn, stirbt bei einer Rauferei mit Christoph Kretzer 1542

Gramaflanz von Stauff zu Köfering Bruder + 1541, vor 1515 im Dienst Kurfürst Friedrich III. von Sachsen, verheiratet mit Anna Schlick, Gräfin von Passan aus der Falkenauer Linie

Marcellus von Stauff jüngster Bruder + 1525 im Bauernkrieg bei Salzburg, studierte in Ingolstadt mit Johann von Sandizell Bernhardin II. von Stauff Freiherr zu Ehrenfels ca. 14881542 ältester Bruder, verheiratet mit Margarethe Schlick, Gräfin von Passan aus der Falkenauer Linie, führt in seiner Herrschaft Ehrenfels schon früh die Reformation ein, unterstützt die Einführung der Reformation in Regensburg. Mitglied des Schmalkaldischen Bundes

Sophia von Grumbach Äbtissin des Klosters Himmelspforten bei Würzburg

Wilhelm von Grumbach zu Rimpar Verwandter Friedrichs, 15031567, Fehde gegen den Würzburger Bischof Melchior Zobel von Giebelstadt, der von Wilhelms Diener Kretzer ermordet wird.

Burian Schlick Graf zu Passan + 1534 zweiter Ehemann aus der Linie Schlackenwerth, wird nach seiner Heirat mit Argula von seinen Brüdern inhaftiert

Bernhardin I. von Stauff Vater + 1509, 14861489 Viztum Herzog Albrecht IV. in Straubing, danach im Dienst Herzog Georg des Reichen in Landshut und Hauptmann in Ingolstadt, stiftet ein Fenster im Liebfrauenmünster, schenkt seiner zehnjährigen Tochter eine KobergerBibel Katharina von TörringJettenbach

Mutter + 1509

Hieronymus von Stauff Onkel und Vormund, verheiratet mit Elisabeth Pflug von Rabenstein, unterschreibt Argulas Heiratsvertrag.

Hofmeister der Herzöge Wilhelm und Ludwig, 1516 in Ingolstadt hingerichtet

Anna von Stauff zu Köfering geb. Schlick, Gräfin von Passan aus der Falkenauer Linie, Schwägerin, 150_1568 verheiratet mit Gramaflanz.

Erbauseinandersetzungen mit Argula und Sekundilla nach dem Tod Bernhardins II

Sekundilla von Stauff Schwester + 1564 verheiratet mit Victorin Schlick, Graf von Passan mit Argula übernimmt sie das Erbe Bernhardins II.

Hans Ruprecht von Stauff Sohn des Hieronymus, + 1550 Erbauseinandersetzungen mit Argula und Sekundilla um die Herrschaft Ehrenfels

Friedrich von Leonrod Domherr von Eichstätt, + 1539 verwandt mit Friedrich von Grumbach, Inhaber der Pfarrpfründe in Zeilitzheim Giso von Heßberg Domherr von Würzburg, beteiligt an den Einnahmen der Zeilitzheimer Pfarrpfründe

Niclas Schlick Graf von Passan, Neffe, Sohn der Schwester Sekundilla Adam von TörringStein

Statthalter von PfalzNeuburg siegelt als Zeuge 1486 den Heiratsvertrag ihrer Eltern, Adressat der 6. Flugschrift

Margarethe von Stauff geb. Schlick Gräfin von Passan, verwitw. von Schwamberg zur Haid, Schwester der Anna von Stauff, lebt zeitweise getrennt von ihrem Ehemann Bernhardin II. von Stauff, Erbauseinan dersetzungen mit ihren Schwägerinnen Argula und Sekundilla.

図19:アルギュラ・フォン・グルムバッハのネットワーク

(17)

さらにそれ以上に重要なのは、個人が宗教改革の公的始まりを決定したのではな く、同じ志をもつ人たちのネットワークがそれを決定したということです。このネッ トワークは印刷によって結びつけられたものでした(図19)。アルギュラは、戦略的 にネットワークを作りました。このネットワークは話し言葉で書かれた彼女の文書に よって、多様な社会層を結びつけました。このような仕方で、彼女のネットワークは 宗教改革を志す人々の集団を作り上げたのです。

8.メディアの効果

多様なメディアが共に作用することによって、宗教改革は効果ある宣伝を行うこと ができました。すなわち、カトリックの問題を公的な議論の場に押し出し、同時に新 しい宗教改革の内容を知らせることができたのです。メディアが相互に作用しあうこ とによって強い響きをもち、魅力的で効果的なものとなったのです。最後に、以上の 考察を総括します。

a)福音主義による新しいメディアの利用

宗教改革の核となる時期、つまり1517年の「95箇条の提題」と1555年のアウグスブ ルク宗教和議の間ですが、この時期、小冊子やビラの生産では福音主義の側が圧倒的 に勝っていました。ビラについては、ほぼ96

%

という圧倒的な数を占めていまし た

36

。カトリック側は小さな出版物に対して極めて消極的でした

37

。起こりつつある 宗教改革運動にとっては、宣伝のために新しいメディアを見出し、既存のメディアに ついては機能を変えて用いることが、必要であったのです。宗教改革の成立は、その 多くの部分を「新しいメディア」を用いたことに拠っています。カトリック側は、福 音主義の出版活動により挑戦を受けたほぼ半世紀の間、この新しいメディアに適応し なかったのです。

b)ドイツ語に関する成果

宗教改革におけるメディアのできごとは、大規模な現象としてはドイツ語圏に限定 されたものでした。ルターの書いた文書で彼の生前に出されたもののうち、わずか 4%だけがドイツ語以外の原語によるものでした

38

。宗教改革の出版活動において知 識人の言語であるラテン語が後退したことは、全信徒祭司論が宗教改革の拡大に大き な意味をもったことを示しています。それと共に現れた霊的平等の原理も、ドイツ語 の大変革を意味しました。社会層や身分を超えた情報伝達が可能となったのです。教 会の改革の計画が、排他的な聖職者のヒエラルキーからキリスト者の会衆へと広がっ

(18)

ていったのです。

c)統合と対立化

メディアの利用により、敵対する教会に対しては不安をもたらし、自己の信仰グ ループに対しては希望を訴えることが行われました。メディアの批判的論争的な傾向 が、まだ教派に分裂していないキリスト教会に対立を際立たせることになりました。

メディアは自分の支持者たちを統合する役割を果たし、敵対する教会に対しては対立 を際立たせたのです。大きな教派教会の成立がこれにより促進されたのです。

d)福音主義の教理の拡大

メディアの利用は、新しい福音主義の教理の拡大と内面化にも貢献しました。大規 模なメディアの利用は、これにより教派のアイデンティティの形成を支えたのです。

印刷メディアは早く、短い期間に効果をもたらし、それに対して讃美歌や絵画は新し い価値と規範を時間をかけて内面化する効果をもちました

39

e)メディアと神学

宗教改革全体においてメディアはどのような役割を果たしたと言えるでしょうか。

「メディアの出来事としての宗教改革」と表現すると、メディアに中心的な役割を認 めるように見えますが、やはりこのように言わねばなりません。新しいメディアは宗 教改革の「使信」そのものではなかった、と。宗教改革の神学なしにはメディアは持 続的な力をもちえませんでした。メディアとそれが伝える内容は、宗教改革の形成過 程において、きわめて強い力をもって共生したのです。そこにメディアの出来事とし ての宗教改革の特性があるのです。

1 本稿は2017年10月31日に開催された神学部主催・公開講演会の講演原稿をもとに作成されたものであ る。

2

Bernd Moeller, Die frühe Reformation als Kommunikationsprozeß, in: Ders., Luther-Rezeption.

Kirchenhistorische Aufsätze zur Reformationsgeschichte, hg. von Johannes Schilling, Göttingen 2001, S.

73–90, ここでは

S. 74.

以下をも参照

: Arthur G. Dickens, Intellectual and Social Forces in the German Reformation, in: Wolfgang J. Mommsen (Hg.). Stadtbürgertum und Adel in der Reformation. Studien zur Sozialgeschichte der Reformation in England und Deutschland, Stuttgart 1979, S. 11–24, S. 11.

3 とくに以下を参照:

Johannes Burkhardt, Das Reformationsjahrhundert. Deutsche Geschichte

zwischen Medien revolution und Institutionalisierung 1517–1617, Stuttgart 2002; Werner Faulstich,

Mediengeschichte von den Anfängen bis 1700, Göttingen 2006; Michael Giesecke, Der Buchdruck in

(19)

der Frühen Neuzeit. Eine historische Fallstudie über die Durchsetzung neuer Informations- und Kommunikationstechnologien, Frankfurt a.M. 1991; Marcel Nieden, Die Wittenberger Reformation als Medienereignis, in: Europäische Geschichte Online (EGO), hg. vom Leibniz-Institut für Europäische Geschichte (IEG), Mainz 23.04.2012. URL: http://www.ieg-ego.eu/niedenm-2012-de URN:

urn:nbn:de:0159–2012042305 [aufgerufen: 14.01.2017]; Andreas Würgler, Me dien in der Frühen Neuzeit, München 2009 (EDG 85).

4

Moeller, Reformation

(注2); Berndt Hamm, Die Reformation als Medienereignis, in: Jahrbuch für

biblische Theologie 11, 1996, S. 137–166; Nieden, Reformation

(注3を参照).

5

Nieden, Medienereignis

(注3)

, S. 1–17; Martin Brecht, Martin Luther, Bd. 1, Stuttgart 3

1990, S. 358; zu

den quantitativen Angaben zur frühen Schriftstellerei Luthers vgl. bes. Bernd Moeller, Das Berühmtwerden Luthers, in: Ders., Luther-Rezeption

(注2)

, S. 15–41.

6

Hans-Joachim Köhler, Erste Schritte zu einem Meinungsprofil der frühen Reformationszeit, in: Volker Press u.a. (Hg.), Martin Luther: Probleme seiner Zeit (Spätmittelalter und Frühe Neuzeit 16), Stuttgart

1986, S. 250; 概要については注5の文献を参照。

7 1500~30年の間にドイツでは計1万種のビラが平均して各1,000部出版された。以下を参照:Bernd

Moeller, Flugschriften der Reformationszeit, in: TRE 11 (1983), S. 240–246, S. 242.

8

Moeller, Reformation

(注2)

, S. 75.

9

Rainer Wohlfeil, Einführung in die Geschichte der deutschen Reformation, München 1982, S. 123–133;

Burkhardt, Reformationsjahrhundert

(注3)

, S. 48–64.

10 Robert W. Scribner, Flugblatt und Analphabetentum. Wie kam der gemeine Mann zu reformatorischen

Ideen? in: Hans-Joachim Köhler (Hg.), Flugschriften als Massenmedium der Reformationszeit. Beiträge zum Tübinger Symposion 1980, Stuttgart 1981, S. 65–76.

11 Robert W. Scribner, Religion und Kultur in Deutschland 1400–1800 (Religion and culture in Germany 1400–1800), hg. v. Lyndal Roper, übersetzt von Wolfgang Kaiser, Göttingen 2002, S. 101–176.

12 Moeller, Flugschriften (注7)

; Nieden, Reformation

(注3)

, S. 3f./17; Johannes Schwitalla, Deutsche Flugschriften, 1460–1525. Textsortengeschichtliche Studien, Tübingen 1983.

13 Harry Oelke, Die Konfessionsbildung des 16. Jahrhunderts im Spiegel illustrierter Flugblätter, Berlin/

New York 1992, S. 92–138.; Wolfgang Harms, Einleitung, in: ders. (Hg.), Deutsche Illustrierte Flugblätter des 16. und 17. Jahrhunderts. Bd. 1, Tübingen 1985, S. VII-XXX.

14 この小冊子については:Oelke, Konfessionsbildung (注13)

, S. 241–243.

15 この小冊子については:ebd., S. 234f.

16 これについては:Heinz Blanke, Bibelübersetzung, in: Albrecht Beutel (Hg.), Luther Handbuch,

Tübingen 2005 u.ö., S. 258–265.

17 Karl Stackmann/ Johannes Schillingによる説明を参照:Gerhard Bott (Hg.), Martin Luther und die

Reformation in Deutschland. Katalog zur Ausstellung zum 500. Geburtstag Martin Luthers im Germanischen Nationalmuseum Nürnberg, Frankfurt a.M. 1983, S. 275–292.

18 宗教改革のメディアとしての説教の意義については:Albrecht Beutel, Predigt, in: Volker Leppin /

Gury Schneider-Ludorff (Hg.), Das Luther-Lexikon, Regensburg 2014, S. 558–560; Christopher Spehr, Art. Predigten Luthers, in: Ebd., S. 560–569; Hellmut Zschoch, Predigten, in: Beutel, Luther

(注16)

, S.

315–321.

19 このビラについては:Hamm, Reformation (注4)

, S. 158f.; und Oelke, Konfessionsbildung

(注13)

, S.

(20)

260f.

20 Veit Patrice/ ÜSC, Gesangbuch, in: Leppin/ Schneider-Ludorff, Luther-Lexikon (注18)

, S. 259f.

Christiane und Kai Brodersen (Hg.), Ein Enchiridion oder Handbüchlein geistlicher Gesänge und Psalmen, [Erfurt] 1524, Faksimile Speyer 2008.

21 これについては:Inge Mager, Lied und Reformation. Beobachtungen zur reformatorischen

Singbewegung in norddeutschen Städten., in: Alfred Dürr/ Walther Killy (Hg.), Das protestantische Kirchenlied im 16. und 17. Jahrhundert. Text-, musik- und theologiegeschichtliche Probleme, Wiesbaden 1986, S. 25–38.

22 Scribner, Flugblatt (注10)

, S. 73f.

23 Karl Schottenloher, Der Münchner Buchdrucker Hans Schobser 1500–1530, Nieuwkoop 1967, S. 4.

24 Ebd. S. IXf., 3–10.

25 15、16世紀にアウグスブルクには58の印刷所があったのに対し、ミュンヘンには8つが存在するだけ で あ っ た。 以 下 を 参 照:

Christoph Reske, Art. Buchdruck 15./16. Jahrhundert, in: https://www.

historisches-lexikon-bayerns.de/Lexikon/Buchdruck_(15./16._Jahrhundert) (aufgerufen 14.1.2017)

26 An den christlichen Adel deutscher Nation von des christlichen Standes Besserung, in: Luther, Werke,

Bd. 6, Weimar 1888, S. 631f.

27 Schottenloher, Buchdrucker (注23)

, S. 8

28 Ebd.

29 Ebd.

30 Theodor Kolde, Erhalt uns Herr bei deinem Wort. Eine hymnologische Studie, in: Neue Kirchliche

Zeitschrift 19, 1908, S. 751–777, ここでは S. 776.

今日、議論となっている第一節は:„Erhalt uns, Herr,

bey deinem Wort / vnd steur des Bapsts vnd Türkenmort / die Jhesum Christum deinen Son / wollen stürzen von deinem Thron“, 図11; さらに以下を参照: Harry Oelke, „Erhalt uns, Herr, bei deinem Wort und steur des Papsts und Türken Mord ...“. Ein Kinderlied Luthers im Medienereignis Reformation, in:

Lutherjahrbuch 75, 2008, S. 141–168.

31 Peter Matheseon, Argula von Grumbach. Eine Biografie, Göttingen 2014; ders., Argula von Grumbach

und die Anfänge der Reformation, in: Susanne Greiter/ Christine Zengerle (Hg.), Ingolstadt in Bewegung. Grenzgänge am Beginn der Reformation, Göttingen 2015, S. 17–33.

32 Peter Matheson (Bearb.), Argula von Grumbach. Schriften, Gütersloh 2010 (QFRG 83), S. 74.

33 アルギュラ・フォン・グルムバッハが公爵ヴィルヘルム4世に届けさせた冊子に、誰かがこの言葉を 手書きで記している。以下を参照:

Matheson, Argula, 2014

(注31)

, S. 21 (Bayerische Staatsbibliothek München, Res/4 Bavar. 3000.IX. [43]).

34 Anne Conrad (Hg.), „In Christo ist weder man noch weyb“. Frauen in der Zeit der Reformation und der

katholischen Reform (Katholisches Leben und Kirchenreform im Zeitalter der Glaubensspaltung 59), Münster 1999.

35 Matheson, Argula , 2010 (注32)

, S. 75.

36 Oelke, Konfessionsbildung (注13)

, S. 159, 図3.

37 1517 年から 1555年の間に4%であった。以下を参照:Ebd.

38 EGO (注3)

, S. 6/17.

39 これについては:Oelke, Herr (注30)

, S. 168; Hamm, Reformation

(注4)

, S. 153.

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