出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 50
ページ 227‑241
発行年 1998‑03‑24
URL http://hdl.handle.net/10114/10581
倉持俊一先生は、東京教育大学文学部の移転に際し、筑波大学を批判、忌避して、昭和五一年四月、本学史学科の教授に就任されました。ご専門はロシア近代史・西洋近代史、以来、二二年間にわたって史学科の西洋史を担当されました。学内にあっては昭和五九年四月から二年間、文学部長として活躍され、平成七年四月から同九年三月までは大学院委員会議長(学部長職)の重責を担われています。史学科にあっては、学部・大学院の講義・演習に力を注がれる一方、学生達と気軽に酒を酌み交わし、平成八年六月から一年間、法政大学史学会の会長として史学科・史学会の発展に尽力されました。しかし、本年三月一一一一日をもって定年退任されることになりました。今後は、なお、お元気で研究を進めてまいられます。次に先生の御経歴・御業績を紹介すると共に、お人柄の一端を紹介し、これまでの学恩に感謝の意を表したいと思います。
倉持俊一先生を送る
倉持俊一先生を送る
【学歴】’九二七年六月一五日東京都に生まれる一九三四年四月東京市誠之尋常小学校入学一九四○年三月卒業一九四○年四月東京府立第五中学校(旧制)入学一九四五年三月同卒業一九四五年二月都立高等学校文科(旧制)編入学一九四八年三月同卒業一九四八年四月東京大学文学部西洋史学科(旧制)入学一九五一年三月同卒業一九五一年四月東京大学文学部大学院(旧制)入学一九五六年三月同修了【職歴】一九五一年四月一日都立小石川高等学校教諭(定時制課程)一九六○年一月一日信州大学文理学部専任講師
七
一九六一一年二月一日同助教授一九六六年四月一日学部改組により信州大学人文学部助教授一九七○年四月一日東京教育大学文学部助教授一九七六年四月一日法政大学文学部教授一九八四年四月一日法政大学文学部長一九八六年三月まで一九九五年四月一日法政大学大学院委員会議長一九九七年三月まで非常勤講師この間、お茶の水女子大学・桐朋学園大学・上智大学・東京大学・東京都立大学で講師をつとめ、また静岡大学・信州大学・九州大学・茨城大学で集中講義を行った。【学会活動】専攻分野西洋近代史・ロシア近代史歴史学研究会・歴史学会・史学会・日本西洋史学会・ロシア史研究会などの会員一九七三年一○年日ソ歴史学シンポジウム組織委員会事務局長一九九○年一○年同委員長【編著書】著書『レーーーン』人類の知的遺産閃(講談社)一九八○著書(編)『ロシア・ソ連』有斐閣新書(有斐閣)’九八○共訳監修『ソビエト連邦I、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ』世界の歴史教科書シリーズ(帝国書院)’九八一著書(編)『等身大のソ連』(有斐閣)一九八三共編『世界歴史大系・ロシア史2旧~田世紀』(山川出版社)’九九四 法政史学第五十号
共編『世界歴史大系・ロシア史19~Ⅳ世紀』(山川出版社)’九九五著書『ソ連現代史I(増補第三版)』(山川出版社)’九九六共編『世界歴史大系・ロシア史3別世紀』(山川出版社)一九九七翻訳T・H・フォン・ウラエ『ロシア革命論』(紀伊国屋書店)’九六九【共著・共訳】上原専禄・江口朴郎他編『世界史講座V帝国主義』(東洋経済新報社)’九五四岩間徹編『ロシア史』(山川出版社)’九五五村瀬興雄編『世界史大系旧巻帝国主義と第一次世界大戦』(誠文堂新光社)一九五八江口朴郎編『世界史大系旧巻ロシア革命とベルサイユ体制』(誠文堂新光社)一九五九岩間徹編『世界文化史大系⑫巻東欧ロシア』(角川書店)’九五九ソビエト科学アカデミー『世界史』近代l、近代2(東京図書)’九六○林健太郎編『世界の戦史9巻第一次世界大戦』(人物往来社)一九六七江口朴郎編『日本と世界の歴史別巻別世紀(1)』(学習研究社)’九七一木村尚三郎編『概説西洋史』(有斐閣)’九七七
八
岩間徹編『ロシア史(新版)』(山川出版社)一九七九コンスタンチン・タルノフスキー『図説ソ連の歴史』加藤一郎と共訳(山川出版社)一九八二
今井宏編『人物西洋史2(西洋)出~卯世紀』(山川出版社)’
九九五【論文】ストルィピン改革に関する一考察(『歴史学研究』’六○号)’九五二近代ツァーリズムの理解によせてs歴史学研究・別冊特集』二
九六一「近代化理論」について(『ロシア史研究』九号)一九六三
口シァ近代史における「近代化論」的視角について(『ロシア史研究』一二号)’九六五ロシア革命の「必然性」について(『ロシア史研究一一一一号)’九
六五近代ロシアの工業化についての一考察(『歴史教育』’五巻一二
号)’九六七ロシア革命の原因論をめぐってl西側における一傾向についてI(江口朴郎編『ロシア革命の研究』中央公論社)’九六八 一九世紀前半のロシア(岩波講座『世界歴史』四巻)’九七一 パイプスの若きレーニン諭(『ロシア史研究』四号)’九七ニ レーニン、生涯と著作(『歴史学研究』三九一号)一九七ニ ロシァ十月革命の叙述について(『歴史と人物』中央公論社)一
九七四倉持俊一先生を送る
九
最終講義風景
ロシアにおける資本主義の発達と国家の役割(『ロシア史研究』二五号)’九七六
ロシアの農民共同体について(『史潮』新二号弘文堂)’九七
七日本におけるロシア革命観(『思想』六四二号岩波書店)’九七七ロシア革命の認識とその評価(講座『歴史教育』三巻弘文堂)
’九八ニソ連の「ソ連邦史」教科書における記述の問題点白史潮』新二七号)’九九○ロシア革命試論(『ピュレティン』二○号ソビエト研究所)一九九二*学会活動・学界動向紹介・書評・評論など省略倉持俊一教授の最終講義
本学文学部史学科教授倉持俊一先生は、平成一○年三月一一一一日
をもって定年退任されることになった。ついては、これまでの先生の学恩にむくいるため、平成九年一二月一三日(土)、法政大学文学部史学科と同史学会の共催で、記念講演と退職記念のパーティーがおこなわれた。講演は、午後四時一一一○分から六二年館一一五二番教室で開始された。学科主任の後藤篤子助教授の司会で進められ、まず、文学部 長で法政大学史学会会長の伊藤玄三教授の開会の辞、次いで先生
の「ロシア史上のモンゴル」と題する講演がおこなわれた。 法政史学第五十号講演は、巻頭の講演の内容を要約した文章に示されるように、
ロシア史を中心としながらも、それのみではない該博な学殖と知
見を披瀝されるものであった。かって先生の薫陶をうけ、各地か○
講義中の倉持先生
最後に、先生から謝辞に代えた「雪山讃歌」の返礼があった。参加者一同しばしの間、先生の旧制高校時代のロマンと情熱を感じさせる独唱に聞き入っていた。この余韻さめやらぬまま閉会の運びとなった。出席者は約二○○名を数えた。 まず、本学加来彰俊名誉教授から先生のプロフィールと再出発を祝う詞が述べられ、濱田義文名誉教授の乾杯の音頭をもって開始された。加藤一郎文京大学教授、および、先生の講筵に連なった山田朋子(本学兼任講師)さんからも昔の想い出や御祝いの詞が述べられたが、先生のお人柄が随所にうかがわれるものであっ 講義を終えて、現役の西洋史のゼミナールを代表して三年生の小川りさ子さんから花束贈呈がおこなわれ、熱気冷めやらぬ中、山名弘史教授の閉会の辞をもって締めくくった。次いで午後六時から家の光会館七階のコンベンションホールにおいて記念パーティーが催された。先生と共に定年退任される安岡昭男教授と合同で「安岡昭男・倉持俊一先生を囲む会」と銘打った退職記念パーティーは、中野栄夫教授の司会で進められ江さんによる花束贈呈がおこなわれた。 パーティーは、参加者の久方ぶりの出会いをさそう場ともなり、和やかな雰囲気のなかで進められた。閉会に近くなるとまず、後藤篤子助教授からの記念品(旅行券)贈呈、次に、北澤富 た。
た
○
ら集まった多くの元学生は、久方澪い感銘をうけたひとときであった。
倉持俊一先生を送る 久方ぶりに受ける先生の講義に、深
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’九九七年一二月一一一一日、法政大学六一一年館で倉持先生の最終講義を聴講し、家の光会館で記念パーティーに出席した私は、やはり淋しさのようなものを感じた。私はすでに二年前に定年を迎え専任教員を退いたのであるが、専任を退くということは一つの区切りで別れのようなものを感じるからかも知れない。倉持さんに初めてお会いしたのは、確か一九七六年(昭和五一)二月八日に竹内先生の退職に当っての記念講演と懇親会が、日本出版クラブ会館で行われたときであったと思う。当時、東京教育大学の教員であった倉持さんは筑波移転とは別に東京に止まることになり、竹内先生の後任として法政大学文学部への転任が決まっていたからである。会場でごく短い挨拶をされたが、正直にいって聾の大きい、明るい感じの倉持さんに好印象をもったことは確かであった。 法政史学第五十号
倉持先生との二○年間 倉持先生を送る言葉
村上直 当時、法政大学は学園紛争が続いており、必ずしも学園としての環境はよくはなかった。まして、史学科は専任の教員も少なく、これから豊田武先生を中心にどのように乗り切っていくかが重要な課題でもあった。この年の四月一日から正式に史学科の専任教員になられた倉持さんとは、私が定年退職する一九九六年三月まで二○年間にわたって同僚の教員として、ちょっとオーバーな言い方かも知れないが苦楽を共にすることになったのである。倉持さんは西洋史の教員であり、専門はロシア史であることから、研究について、一緒に学問的なことを話し合うということはなかったが、それでも「日ソ歴史学シンポジウム」についてのことやペレストロイカを通して歴史学界が大きく変わりつつあることなど興味深くお聴きしたこともあった。史学科教員として一緒に過ごした二○年間の思い出は多くあるが、特に大学が総長交代のあとをうけて揺れ動いていたとき、共に大学の評議員として委員会に出席しており、お互いに危機感の
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ような認識をもって話し合ったことなど忘れることはできない。倉持さんは一見すると豪放嘉落のような性格にみえるが、実は細心の注意をはらい相手の気持をよく汲みとって発言するので、一種の安心感や信頼感をもつことができた。そのため教授会やその他で御自分の主張とは別に調停役を引き受けてしまうことがよくあったと記憶している。つまり、辞退するのに仕方なく引っぱり出されてしまうのである。そのような信頼される人柄から学部長や大学院委員会議長にも選ばれることになったと思っている。私は倉持さんに敬意を表していることがいろいろあるが、その一つに学界でよく知られているということである。それは西洋史だけではなく日本史関係の教員からも好感をもたれているのである。そのお蔭で法政大学史学会の総会や大会の記念講演者に倉持さんを通して著名な方々をお願いすることがしばしばできた。これも倉持さんが広く学界で活躍され、知人も多かったからである。ところで大学には史学会とは別に学生学会というのがある。かつては史学会のメンバーとはしっくりいかない時期もあった。しかし、倉持さんの努力でこの学会は立派な自主的な研究会として成長したのである。これなど倉持さんへの信頼感によるものと思われてならない。目には見えない大きな足跡であると感じているのである。倉持さんには意外な側面がある。大学では第一部体育会のヨット部の部長を務めていたが、よく海での練習の場などにも出かけられたようである。その話をときどき伺ったが、何故か楽しそうであった。これは部長としての責任感とは別に、大いに大学のス
倉持俊一先生を送る 倉持先生が法政大学に赴任されたのは一九七六年とのことであるので、私より二年後ということになる。先生が東京教育大学より移ってこられる事情については『法政史学』第四十号に御自身が書かれていることで知ることができるし、私も先生方の会話の中でうかがっていた。先生は、以来しばらく西洋史の学生をお-人で指導されていた。先生はとても活発であり、学生とも良く酒をくみかわしていた。高級ブランディなども西洋史研究室には極く普通に見られるものであり、考古学研究室の安酒とは大分違うと思ったし、何とはなくあれが西洋史なのかとうらやましくも思った。酒の話といえば、倉持先生には忘れえぬ思い出がある。いつだったか忘れたが、考古学研究室でも酒宴、西洋史研究室でも酒宴が開かれていたが、我々のところを先生がのぞきにこられた。丁度、ウォッカがあったので先生におすすめしたところ、先生はイッキに二杯飲み干された。既に大分飲まれていた様子ではあっ ポーッに関心があったからと思うのであるが、いかがであろうか。敬愛する倉持さんが専任教員を退かれるのは元史学科教員としても淋しい気がするが、これからもお元気で幅広い活躍をなさっていかれることを心からお祈りする次第である。
倉持俊一先生のこと
一 一 一 一
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伊藤玄三
たが、さすがはウォッカの飲み方も違うものと思わされた。ところが後日談があった。あのウォッカを飲まれた後、大変な泥酔状態になられ、腰が立たなくなり、遂にタクシーで御帰宅されたとのことを学生から聞いた。その後、先生の話では、「あれは水ではなかったのか」との言であったが、水をさしあげるような場ではなかった。先生は、|時期日ソ歴史学シンポジウムのお世話でお忙しそうにしておられたが、あの頃「ペレストロイカ」のお話をされているのは印象的であった。ロシア史研究者としての先生から、ソ連からロシアへの変化がうかがえるとは幸いなことであったと思う。先生は、時折、研究者は専門業績で問われるものであり、余業は別だとの意味のことをいわれた。一貫してロシア史を研究してこられた先生ならではのお言葉なのであろう。先生は、以前によく「皆さんがそれで宜しければ、私は宜しいです」といわれた。いまだにあの言葉は耳に残っている。それは、本当は異論があるけれども……という表現であったのであろうか。たまたま何かの折に似たような言葉を耳にする時、奇妙に倉持先生を思い浮かべてしまう次第である。
先生と初めてお会いしたのは今から一六年前、’九八二年の前半のことであったと思う。当時私が助手をしていた研究室に先生 法政史学第五十号倉持先生を送る山名弘史 がおいでになって、私は一時間ほど外の喫茶店でインタビューを受けた。私は不明にして先生がロシア近代史の大家でおられることをよく存じ上げなかったが、先生を人当たりの柔らかい慎重な方とお見受けした。翌年の四月から法政に奉職し、当時二人だけであった外国史の教員同士ということもあって、同じ研究室(今の西洋史研究室)に同居させていただくことになったが、たまたま初年度は先生が国内研究の年に当たっていて、ほとんど出校される機会がなかったので、|人で気ままに使わせていただいた。翌年度とその翌年は一転して先生が学部長になられ、多忙になって研究室にあまり長くおられない状態になったので、初年度とは別の事情ながら、引き続き研究室を事実上独占した。少しずつわかってきたことだが、私の倉持先生に対する初印象は半分当っていて、半分外れていた(というよりも見落していた)。先生は直言の人である。それは学生に対しても、また、同僚の教員に対してもである。おそらく学界活動においてもそうなのであろう。しかしその直言をされる際に相手の立場に対する思いやりが伴っているところがただの一言居士とは違うところであって、よい意味で実に都会人的センスの持ち主でおられるのである。先生はまた剛毅果断の人である。少し見当違いになるかもしれないが、こんなことを経験した。私が法政に着任する直前に、史学科新旧教員の歓送迎ということで旅行にお招きいただいた。あるところでバスの乗り換えの際、|人の先生の姿が見えず、もしやこれまで乗ってきたバスにまだおられるのではないかという話になった。そのときそのバスは動きだそうとしていると
二
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四
シャイで豪快倉持先生ll1倉持俊一先生の思い出
中野栄夫法政大学に着任してしばらくの間、私の研究室は旧大学院棟にあって、倉持先生と同室であった。ただし、なるべくぶつからないように調整していたように思うが、ともかく西陽のあたる暑い部屋であった。そしてしばらくして大いに安堵したことがある。それは倉持俊一先生がときとして大いに脱線されるからである。まずお酒が入ると、たいへんご機嫌になるのである。 ころであった。その瞬間、脱兎のごとく飛び出してその先生の所在を確かめにいかれたのが倉持先生であった。およそ五○メートルもあったであろうか。|気に駆けていかれた。実際は不明の先生は別のところから現れたので、事なきを得たが、私は当時五十代半ばの倉持先生の俊敏さに目を瞳ったものである。先生は日ソ歴史学者会議の主要メンバーの一人として会議の継続的開催に世話役としても尽力されてきた。まだ日ソ間が政治的に緊張状態にあった時期からである。並の力量ではできないことである。これもその資質のなせるわざといえるであろう。おもえば長いような短いようなおつきあいであった。まだ引退などという言葉がふさわしくないほど心身共にお元気でおられる。今後も私ども後輩を見守ってくださるものと信じるとともに、これからもお元気でご活躍されることをお祈りしたい。
倉持俊一先生を送る 私が法政大学に来たころ先任者は、東洋史の故河原正博先生、日本史では村上直・安岡昭男・伊藤玄三先生、それと西洋史の倉持俊一先生であった。このメンバーでお分かりのように、たいへん生真面目な先生方ばかりであった。その中にあって唯一、酒に溺れる(酒に身をゆだねる?)先生がおられた。それが倉持先生である。それが顕著に現れたのは史学科研究室が今の第一校舎に移ってからのことである。倉持先生も私も木曜日夕方にゼミ学生とコンパを開くため、研究室(通称ゼミ室)の取り合いが始まった。何となくお互いに譲り合ったりしたが、両ゼミ入り合いでのコンパも何度かあったように記憶している。そして、倉持先生の歌を聞かせていただくこともしばしばであった。最近では、倉持先生は大学院議長を二年間お務めになったが、その二年間、私は日本史学専攻主任として、また最初の一年は「副議長」として、会議に同席させていただいた。その間、大学では新学部設置の構想が進んでいたので、大学院の改革はなおざりにされていたといってよいであろう。そのため、倉持先生のリーダーシップを発揮する場がなかったように思われ、私はたいへん残念に思っている。定年後も大学院へのご出講をお願いしたが、倉持先生はご辞退された。ただ、法政大学史学会には、ご協力いただけるものと、期待している。倉持俊一先生、長い間ご苦労さまでした。
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倉持先生が定年で法政大学をおやめになる。頭の片隅では承知していたことだが、いざ現実にその日が目前に迫ってくると、市ヶ谷のキャンパスから先生のお姿が消えるなんて信じられないという思いが募るばかりだ。私にとって、法政大学における倉持先生の存在はそれほど大きなものだった。私と倉持先生とのおつきあいは学生と教員という関係から始まった。’九七一年、私が入学した東京教育大学の史学科西洋史学専攻課程に七名いらした教員のお一人が、倉持先生だったのである。|年の時は授業は一般教育中心だったが、西洋史恒例の新歓コンパ・新歓合宿で目の当たりにした先生の飾らないお人柄とご自慢の歌唱力に魅せられ、二年になると先生のロシア史の特講を受講させていただいた。ただし、学年末の試験は未受験で単位はいただいていないが。これは何も先生のご講義がつまらなかったとか難しすぎたとかいうのではない。当時の教育大のカリキュラムは超豪華版で、私は生来の好奇心の強さもあって特講はあれもこれもと受講しては単位は取らないということを随分やった。単位を取ったのは専任では弓削達先生の「ローマ史」、兼任の先生では木村尚――一郎「フランス法社会史」、柴田三千雄「一九世紀フランス社会史」、板垣雄一一一「アラブ現代史」だけで、倉持先生のご講義や遅塚忠躬・太田秀通両先生の集中講義は、欠かさず受講したものの単位は取らなかった。当時はそうとわかる力もな 法政史学第五十号わが師、倉持俊一先生を送る後藤篤子 かつたが、学生としては賛沢三昧をしていたわけだ。一一|年になって倉持先生の演習に出て、こちらはしっかり単位もいただいた。教育大の西洋史は演習と外国書講読(三ヵ国語必修)の必修単位が多く、二年から四年まで諸先生にみっちり鍛えていただいた。特に演習三コマに外書講読二コマを履修した一一一年次には、|週間が外国語の予習だけで明け暮れた観がある。盲蛇におじずと言うか、今から思うと顔から火が出る思いだが、当時は先生に対して「わかりません」と言うのが何とも悔しくて、倉持先生の演習の予習でも、どうしてもわからない箇所を何とか解釈すべく図書館に飛び込んでレーニン全集をひっくり返したりした。演習や外書講読には院生や上級生も出ていて、先生と論を戦わす人もいる。倉持演習は火曜の夕方だったので、そのまま酒席に移行することが多く、そうなると喧嘩寸前というくらいに議論が白熱化することもあった。それも、倉持先生がどんな時でも真剣に真っ正面から学生と向き合って下さったからであり、法政で先生のご薫陶を受けた学生の皆さんもその思いは同じだろう。私はローマ史を専攻するようになって教育大卒業後は倉持先生にお会いする機会も減っていたが、弓削先生のご紹介で一九八三年度、倉持先生の国内研修期間中に法政の西洋史ゼミを担当させていただくことになった。|年限りの非常勤のはずだったが、先生が国内研修中にもかかわらず次年度学部長に選出された結果、引き続き出講させていただくことになり、結局一九八九年に専任となるまでずっと、兼任として三年生のゼミを持たせていただいた。兼任として六年、専任になってから九年。この間、倉持先生 ’一一二一ハ
からは学生時代をはるかに上回るご指導.ご配慮をいただいた。形の上では「同僚」になっても、倉持先生は私にとってはいつまでも「師」である。いつの間にか私も年齢だけは教育大時代の倉持先生に追いついてしまったが、教育者・研究者としてはまだ当時の先生の足元にも及ばない。少しでも先生に近づけるよう、地道に努力を重ねていくしかない。倉持先生、どうかいつまでもお元気で、たまには西洋史研究室にもお顔を出されて、頼り無い「弟子」を叱ってやって下さい。
昭和五六年四月、法政大学大学院の修士課程に入学した私は、先生から西洋史学特殊研究の講義を受けることになった。この科目は大学院では必修の語学の単位と置き換えることができる講義であった。日本史学を専攻する大学院生は概して語学があまり得意でない場合が多いが、私も、ご多聞に洩れず、というところであり、先生の講義ならばなんとかなる、との噂に胸をなでおろしながら受講させていただいた。ところで、当時から先生はすでに近代ロシア史研究のトレーガーであったようで、私にとってはある意味で「あこがれのまと」であった。というのは、こうである。昭和四四年(’九六九)の四月から十二月は、ベトナム戦争や日米安保条約の自動延長についての反対運動、また、沖縄の施政
倉持俊一先生を送る
倉持俊一先生と大学院時代
澤登寛聡 権の返還を求める運動が国民的な盛り上がりを見せていた。学園紛争も華やかなりし時代である。当時、高校生であった私も、また、こうした雰囲気のなかで、たびたび街頭のデモンストレーションに参加し、難解なマルクスやエンゲルス、レーニンの著書を読んではわけもわからず感動したものである。この青春時代の体験は、その後の私の思考様式の形成に少なからぬ影響をあたえた。大学院へ入学して先生と出会ったのは、それから一○年位すぎてからであったが、近代ロシア史を専門とされる先生から講義を受けることは、私にとってひとつのショッキングな出来事であった。講義は近代ロシアの発展に関する英語版の文献を勉強したが、ある時、私は先生にボリシェビキのレーニンの評価をめぐって質問をしたことがあった。どんな質問だったのか、今はもう覚えていないが、先生が近代ロシア史の研究者だというだけで、研究者というよりも、革命の指導者であるかのような、素朴な勘違いと幻想と憧れから発した質問だったような気がする。先生は、大変、お困りのようであったが、いつものように歯をみせてニコニコしながら「君ね-、それはね-」と例の口調で質問に何か答えてくださった。このことは私が歴史を学ぶことの意義を改めて考える契機にもなったような気がする。思想や信条を止揚すべき歴史家の客観的で冷静な眼、多くの人の立場に立って人類史的な視点から史実(史料)に光をあてる歴史学の役割と魅力、そうした点が、いま考える私なりの理念型としての歴史学という学問だと感じている。二 七
”みなさんおそろいで研究室の方におでかけ下さい。“倉持先生のお手紙やお葉書は、必ずこの言葉で結ばれていました。この言葉に甘えて私達はどれ程、学生時代(いや今日に至っても尚)有意義な時間を過ごさせて頂いたか測り知れません。大学教育の形骸化が問われていた中、また、当時の若者達に蔓延していた三無主義(無気力・無感動・無関心)などという雰囲気の中で、教授と学生の関係と言えば、せいぜい大教室での講義の彼此くらいにしか期待していなかった私達が西洋史ゼミに在籍できた幸せは、いくら紙幅があっても到底語り尽くすことは出来ません。 この意味で英語はあまり得意ではなかったl学生たちへの平等のサーヴィスであろうAをもらったのが大変うれしかったlが、しかし、先生の講義は、これから本格的に研究の途に入ろうとする私にとって大変、楽しいものであった。未熟な学生の「たわごと」にも、何か考える契機をあたえてくださる魅力に満ちたものであったような気がする。あの時の出来事は、私にとって、いまはなつかしい、青年時代のひとこまである。ともあれ、再出発される先生に、少し寂しいのではあるが、ますますの御健康・御活躍を祈って、心からのエールを送りたいとおもう。 法政史学第五十号朝に残雪輝くアルプスの峻峰を望み……田沼穂積 世の中のことなど未だ何も分かってはいもしないのに、したり顔に噴く青二才共に、また、ジャーナリスト気取りの社会批判にも、真剣に相手をして下さいました。|個の人格として尊重して頂いていたことに、今更乍らに感動を覚え、また、感謝に堪えません。倉持先生の日ソ歴史学シンポジウム日本側事務局長としてのご尽力や、ロシア史における学術的な功績については、名門ゼミの末席をけがすに過ぎぬ私ごときの任では到底ないので、諸賢兄にお任せ致しますが、私がここで何としても申し上げたいのは、倉持先生ほど大学のあり方や学生時代の尊さを深く認識され、その過ごし方に積極的に関わってこられた先生は、他にはそういらっしゃらないのではないでしょうか、ということです。それは例えば、信州大学教官時代に、当時学生だった猪瀬直樹と唾をかけ合ったことや、法政での学部長・大学院議長等々の要職を歴任されたこと、また、音楽系学生団体の幹事をしていた私の体験から申し上げますが、総長秘書や殊に学生部等大学当局から厚い信頼を寄せられていた一方で、かなり鋭角的であった史学科学生学会や自治会の連中ともよく付き合ってあげていたこと、ヨット部にも名前だけの部長でなかったこと等々、衆目の一致するところでしょう。多摩移転や市ヶ谷再開発に代表される様々な問題を抱えていたあの法政で。倉持先生が東京大学在学中に、専門外であるのに、その名講義に魅せられ、最も敬愛していたという渡辺一夫先生から受け継がれたものでしょうか、いや、倉持先生の生来の気質であると思い
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尚、冒頭の詞は、西洋史ゼミの卒業生には決して忘れることの出来ない、教授と学生との距離を縮めてくれた倉持先生の人間性を肌で感じさせてくれた一幕のプロローグです。 ます。その面倒見の良さと飾らないお人柄、毎正月にご夫婦でご覧になっていた”寅さん〃のような情の深さ、古典落語に聞き入り旧制高等学校寮歌をこよなく愛し、卒業生の結婚式では法政の校歌を歌って下さり、ゼミの後や合宿、卒業旅行等々数々の酒と語らいの場では、自ら杯をお待ちになり、学生ひとりひとりに親しくお声をかけて下さいました。そして、決して忘れてならないのは、誰かが持ってくるだろうと他人に期待している私達と違い、先生自らカメラをお持ちになり、その写真を後日必ず、心温まるお手紙と共に封書にてお送り下さるという労を厭わない、そのお人柄です。それはまた、他大学も羨む鐸々たる教授陣を誇る、西洋史講座の充実振りを実現させたのです。中には、いわば手弁当のような形で講座を持たれていた先生もいらっしゃったとか、これこそまさに倉持先生のお人柄のなせる業です。これほどに恵まれていた学生であった私達はしかし、何の恩返しも出来ぬままに、とうとう退官の日が訪れてしまいました。これからは、私達が信州のいで湯にでも一席設けて倉持先生をお迎えする番です。”・・・…ご夫婦おそろいでお出かけ下さい。〃
倉持俊一先生を送る 倉持先生のお名前を耳にする様になったのは、入学して三~四ヶ月後のことでした。「倉持先生とは、いったいどのような方なのだろう?」と好奇心で一杯になっていた私が初めて先生にお会いしたのは、二年生になっての西洋史概説の授業でした。歯切れの良い口調で、「伝統的世界史像」や「第一次世界大戦の戦責問題」などを論じられている先生を拝見し、噂以上に素晴らしい先生であると実感致しました。そして、倉持先生と西洋史双方の魅力に取り付かれた私は、「三年からのゼミは絶対に西洋史。それ以外は考えられない」と思うようになりました。その気持ちは、ゼミ紹介で倉持ゼミがいかに大変か、という説明を聞いても変ることはありませんでした。|||年のゼミでは「ポルシェヴイズムの起源・・・…若きレーニンの知的変化」という英語の論文を読んでいきましたが、英語力も知識もまだまだの私などを相手に、先生はどれほど御苦労なさったことかと、今さらながら頭の下がる思いです。しかし残念なことに、四年生になると、先生は一年間御研究に専念されることとなりましたが、お忙しい時間を割いて卒論指導をしてくださいました。こういった事情で、私には教室での先生よりも、ゼミ合宿やコンパの席での先生の印象の方が強く残っています。 親愛なる倉持先生
九 藤田智美
このように先生は、卒業生にまで気を配って声をかけてくださったり、逆に私たちがお誘いしても可能な限りお付き合いくださいました。法政に入学して先生の御指導を仰げたことも、今だにお付き合いいただけることも本当に幸せなことだと感じています。実は、私は就職する際にも先生に大変御迷惑をおかけしてしまいました。地方出身の私は東京に知り合いはおらず、その為ずうずうしくも先生に身元保証人をお願いしたのです。当時は伊藤素子事件があった後で、先生は「あなたねえ、人の保証人になどそう簡単になるものではないんですよ」とおつしやりながらも引き受けてくださいました。しかし内心では、本当に大丈夫かとハラハラなさっていたことでしょう。 普段は真面目で研究熱心な先生なのですが、コンパの席では大変気さくにお酌をしてくださったり、研究の話や思い出話など、様々な話題で学生一人一人に気を配ってくださいました。また、時折拝聴させていただいた先生の歌は、「どちらで習われたのですか?」と言われたことがあるというほどの素晴らしいものでした。そしてコンパの終わりのエールと校歌は、今だに私の耳に残っています。コンパには、先生のお人柄を慕って卒業生も時々顔を出し、学生時代の話、知られざる先生の思い出などを話してくださいました。かくいう私も、卒業後何回かコンパやゼミ合宿に参加させていただき、学生時代に戻って楽しい一時を過ごさせていただきました。 法政史学第五十号
研究室に訪ねて行くと、いつでも笑顔で迎えて下さる。それがあたり前のように思っていた私にとって、先生が大学をお辞めになることは大きなショックだった。もう一度先生の講義を受けたいと思い、’九九七年十一一月十三日に行われた先生の記念講演と、翌九八年一月十三日の学生への最後の講義を拝聴した。張りのある声で話される先生の講義は緊張感の中に時折笑いもあり、私の学生時代同様知的好奇心をくすぐられる講義だった。私が先生を身近に感じる様になったのは大学入学早々だった。講義を受ける以前から先生は豪放な教授として学生の間で噂されていたのだ。いつしか早く先生の講義を受けてみたいと思うようになっていた。そして二年時の西洋史概説という講義で初めて先生にお会いできた。 無事就職でき、何事もなく仕事を続けられた事も、全て先生のおかげであると感謝しております。退官後は、大学における重責や学生から解放され、今まで以上に研究に没頭なさることでしょう。今後の御活躍を心からお祈り申し上げますと共に、いつまでも、私たちゼミ生の愛した気さくで素敵な先生でいらしてくださる様願っております。本当に長い間お疲れ様でした。今後も人生の師として御指導をお願い致します。
倉持先生のこと 二四○
泉谷大介
講義は毎回興味深く、多数の学生を釘付けにした。私が特に印象深かったことは、高校世界史の教科書内容を例にして、それとは別の視点から話をされた時である。史料の扱い方が一つではないことを示唆された訳だが、それは今にして思えばであって、当時は「へえ1」と思って聞いていただけだった。その程度の学生が不遜にも倉持ゼミの門戸をたたいたのである。ところが先生は、私の三年時に国内研究員、四年時に文学部長就任と多忙を極めた。そのような時期にもかかわらず、先生は私達の面倒をよく見て下さった。なかでも卒論指導やゼミ合宿は今では懐かしい思い出となっている。三年時の六月には小石川後楽園酒徳亭で、史料・文献の収集法と頁合宿までの各自の課題を指導された。にもかかわらず私は、史学雑誌をコピーしただけで十二分に学問した気になっていた。その甘さはゼミ合宿で痛感させられることになる。先生の一つ一つの御指摘に、準備不足を曝け出されたのである。しかし、救いは倉持ゼミに付き物のお酒である。コンパが始まるや深い反省はどこかに消えて、合宿の夜は華やかな宴へと変貌 それ以来、先生の研究室での夜の会合がが増えた気がする。学生を可愛がる愛飲家の先生を慕って卒業生や学生が研究室を賑わした。特に女子学生には大人気で、いつも取り囲まれていた。そして会合の締は恒例となった校門での校歌大合唱と先生自らのエール。先生の声が夜のキャンパスにこだました。このような学生生活の中で私も先生のお世話になった者の一人 した。
倉持俊一先生を送る だが、卒業後まで私的なことで御面倒をおかけすることになった。結婚の御媒酌人を倉持先生御夫妻にお願いしたのである。妻は倉持ゼミ出身者である。学問・お酒はもとより、人生設計まで面倒を見てもらった者はそうはいないと思う。しかも夫婦揃って先生の御殿場の別荘へ押しかけたこともある。奥様の御料理が美味しくて遠慮なく頂いたことを恥ずかしく思い出す。実はそのような感傷に浸りながら記念講演会場に向かったのだが、先生の講演は改めて教わることの多いものだった。研究者の実名を出し、相手を尊重しながらも疑問点を指摘し、御自分の意見をはっきり述べる。単なる思いつきや思い込みを排し、事実を積み上げて論証していく研究者の在り方を実践しておられた。現役学生全員に聞いてもらいたい講演だった。その先生がもう講義をなさらないのは、やはり寂しい。西洋史ゼミの一時代が終わった感がある。もちろん先生はやっと自由な立場で研究に没頭できるのでしょうが、私達はまだまだ教わることばかりです。お酒の飲み方を含めて、今後とも末長く御指導いただければ光栄です。
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