戦後日本の政軍関係の形成過程 ― 五五年体制の成 立にいたるまで
著者 小出 輝章
雑誌名 同志社法學
巻 58
号 4
ページ 209‑227
発行年 2006‑09‑30
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000010965
戦後日本の政軍関係の形成過程 二〇九同志社法学 五八巻四号
戦後日本の政軍関係の形成過程
―
五五年体制の成立にいたるまで小 出 輝 章
1
.はじめに 従来の日本の政軍関係に関する研究では︑戦後の日本の政軍関係の際立った特徴の一つは︑防衛庁内部における背広 組︵防衛官僚︶の制服組に対する統制すなわち文官統制にあるということが指摘されている ︵︒本稿もこうした見解に立 1︶
脚するものであるが︑なぜ文官統制が成立しえたのか︑従来の研究では明確に示されたとはいいがたい︒そこで本稿は文官統制の起源について考察する︒
分析するに際して以下の点に着眼をおく︒ 第一に︑再軍備政策を検討するに際して︑軍事︵防衛︶政策を軍備と作戦との関係を重視する︒作戦とは軍備の使用
を指す ︵
作︑=行動の自衛隊して際に再軍備にあることはいうまでもないから︒関係の密接不可分は軍備と行動の自衛隊 2︶
︵一五一五︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二一〇同志社法学 五八巻四号
戦計画がどのように検討されていたのかに注目することは重要であろう︒ハンティントン︵Samuel P. Huntington︶は︑ 軍の主役である将校の専門性︵ミリタリー・プロフェッショナリズム︶を軍の指揮︵作戦の指揮︶であると指摘している ︵
︑程たがって再軍備政策過に︒おける作戦の位置づけはしる密あ戦は将校の専門性と接︒につながっているので作 3︶
軍の影響力を測る尺度となり得る︒
第二に︑日本の政軍関係の起源となる再軍備は︑アメリカとの関係を抜きにして語ることはできないので︑アメリカ
の対日政策について検討を要する︒対日政策決定過程において︑強い発言権を保持していた軍部もアクターであったことから副次的にアメリカの政軍関係についても検討することになろう︒さらにアメリカの政軍関係との比較によって日
本の政軍関係を把握することが容易になると考える︒
2
.警察予備隊発足まで 日本占領を統括していたGHQ︵連合軍最高司令部︶は︑占領初期日本を再び軍事大国化させないことを目的に︑日本の非武装化を推進していた︒陸軍省・参謀本部︑海軍省・軍令部は解体され︑第一復員省︑第二復員省が陸海軍将兵の復員を執務していた︒軍事力のみならず︑政治的にも旧軍の発言力は失われ︑また日本の世論も軍に対する強烈な反感を持っていた︒軍は国内における政治的基盤を喪失し︑ここに日本の政軍関係は消滅したのである︒そして一九四六
年︑軍の保有をしないと謳った新たな憲法が公布された︒憲法制定過程で将来の軍備保有に可能性を残すべく衆議院憲法改正小委員会委員長芦田均は︑国権の発動としての交戦権は認めないと謳った第九条一項に対して二項に﹁前項の目
的を達するため﹂という条文を盛り込み︑自衛のための軍備保有の可能性を残すことに成功した ︵
︒とはいえ実際に軍備 4︶ ︵一五一六︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二一一同志社法学 五八巻四号 を保有することは単に法解釈上の問題だけでなく︑政治状況にかかっていた︒政治状況とは第一にGHQ・アメリカの意向を無視することはできなかったことが挙げられる︒芦田はマッカーサー︵Douglas MacArthur︶の側近中の側近で あるホイットニー民政局長︵Courtney Whitney︶に︑独立後の日本の安全をアメリカ軍の駐留に保障させようと訴えたが︑日本の発言は認められないと峻拒されてしまう︒その後芦田は︑第八軍司令官アイケルバーガー中将︵Robert
L. Eichelberger︶に同様の提案を行い︑それをワシントンに伝達するよう要請したが︑梨の礫となった ︵
し吉田茂首相否定をも戦争のための自衛で論戦との野坂参三の共産党は︑一九四六年六月二八日︒である政治状況の内 ︒国本日は二第 5︶
て見せた︒後の再軍備の過程で︑吉田のみならず日本政府は軍備の法的正当性を立論するのに苦労を強いられることになるため︑この発言を吉田の失敗であるとする見解がある︒一方で︑吉田が当時の情勢の中でやむを得ず下した判断で
あると解釈する見方があるが︑重要なのはこうした吉田の見解を広く支持する土壌が日本に存在していたことである︒自衛のための軍備の保有は可能とする芦田修正の意味に気づかない世論を説得すべく︑政府は防衛政策を憲法との整合
性を慎重に絶えず検討しなければならなくなった︒防衛政策過程において内閣法制局が主要なアクターとなる環境が設定された ︵
︒ 6︶
インフォーマルな形であるにせよ日本側の提案に対して︑アメリカ側が不得要領な対応に終始したのは︑アメリカ側 の政策に原因があった︒もちろんアメリカ側は︑日本の安全保障問題を検討していなかったわけではない︒陸軍省では一九四六年頃から日本の再軍備問題を検討していた ︵
︒しかし︑検討と政策の実施は別であった︒トルーマン大統領以下︑ 7︶
シヴィリアン達がこの問題を検討していた形跡はないし︑陸軍も日本再軍備を研究していたに過ぎなかった︒その理由として︑アメリカ側は日本の安全保障問題を対ソ政策の観点からアプローチしていたことが挙げられる︒その際重要に
なるのはアメリカ軍の対ソ軍事力であった︒対ソ軍事バランスで見た場合︑アメリカの軍事力は不十分なものであった︒
︵一五一七︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二一二同志社法学 五八巻四号
少なくともアメリカ軍部の計画ではそのように見積もられていた︒対ソ政策と軍部の対ソ作戦計画との間には財政的関
連性が乏しく︑軍部の計画は机上プランにすぎなかった ︵
Harry S. Truman経︑トルーマン︵︶は戦約争が終了した後まで︑莫大な家倹事しその軍︒費を削減ていたことがある ︑その背景には第二次世界大戦後︒アメリカは動員解除を進め︑ 8︶
費を要する膨大な軍事力を維持することを認めなかった ︵
によっはず︑アメリカが軍事力を増強しない理由︑経済的なものだけではない︒軍事的にも戦勝国とはいえ︑ドイツ軍 からわか︒ラ対ソ軍事力のアンバンもスが認識されているに 9︶
て国土を蹂躙され︑疲弊していたソ連がアメリカとの戦争を実行する可能性は低いと考えられていた︒またたとえ通常兵力がソ連対して劣勢であったとしても︑ソ連が未だ開発・保有にいたっていない原爆が対ソ抑止力となっていたと考
えられていた ︵
︒︑体となるヨーロッパであった︒こうした情勢判断では日本の安全保障問題を確定させることは困難であった が主陸軍せていた︒劣勢に連アメリカがソ︑はアジアではなく地域な寄を関心の最大しかもワシントンが 10︶
一方︑日本側で芦田が大胆な提案を行いえた理由のひとつは︑彼の外交官としての経験があったからである︒当時の日本の政治家の中で︑外交に関する識見で芦田に比肩できるのはおそらくごくわずかであっただろう ︵
︒芦田に限らず外 11︶
交に関する知識の豊富さは︑占領下日本の政治家にとってリソースとなった︒日本の政治はGHQを抜きにしては︑何も決定できず︑GHQとの交渉は国内における外交であった︒外交官としての経験が政治活動に役立ったのである︒し
かし彼らが如何に深く外交というものを理解していたとしても︑当時の国際情勢を豊富に入手できたとは考えられない︒それゆえ日々の膨大な情報の処理をルーティン化させていたアメリカとは大きく異なるのである︒確固とした組織
機構による運営と政治家個人の考え方が重要となった政策決定の速度に大きな違いがあるのも当然であり︑これがアメリカよりも先んじて安全保障政策を提案しえた背景である︒
一九四八年に入ると︑対ソ政策と対日政策が連動し始めていく︒すなわち国務省・軍部ともに従来型の対日政策に見 ︵一五一八︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二一三同志社法学 五八巻四号 直しが必要であると認識したのである︒国務省はケナン︵George F. Kennan︶を日本に派遣し︑マッカーサーらと意見交換を行った︒帰国後ケナンは対日政策を作成し︑ほぼ無修正のままでトルーマンの承認を得る︵NSC13/2 ︵
︶︒ケナン 12︶
は日本の﹁限定的再軍備﹂もありうると考えたが︑ソ連が弱体化していないとき︑もしくは日本が脆弱であるときという付帯条件を付けていた︒今後の情勢によって再軍備の判断を行うべきであるとされたのである︒
一九四九年に入るとアメリカ陸軍は日本の再軍備問題について検討を要請する文書を︑フォレスタル国防長官︵James V. Forrestal︶を通じて国家安全保障会議に提出するが︑沙汰闇となった︒国務省と軍部は占領期のような対日政策を
見直すことが必要であるという認識で一致していたが︑再軍政策を遂行する必要があるという認識までは共有できなかった︒対ソ封じ込め政策は︑拡張主義を行動規範とするソ連をアメリカ・自由主義世界の脅威であるとみなすことで成
り立っていたが︑ソ連の脅威の具体性︑言い換えれば︑ソ連の拡張主義の手段については同床異夢であった ︵
えはあいまいな捉であると軍事的脅威によっては手み読︒であった定義脅威の連ケナンによるソ︑するように後悔ンが にケナ後︒ 13︶
ることもできるし︑政治的脅威みなすことも可能であった︒逆説的ではあるが︑それゆえにワシントンの政策立案者たちは独自の脅威認識をもって︑あいまいな対ソ政策を形成できたのである︒しかし︑それは具体的な政策立案の段階に
なると︑認識ギャップを顕在化させ︑政府部内で対立を招来させる可能性があった︒異なる対ソ認識を収斂させること
が可能となる条件は︑ソ連の対外行動という事象が明白になることである︒一九四八年にはソ連の脅威というものが少なくとも軍事的な脅威が明白な形で現れることはなかった︒しかし一九四九年後半に入ると︑ワシントンを震撼させる
二つの事件が起きた︒ソ連の原爆実験の成功と中華人民共和国の成立である︒この二つの事件はソ連の軍事的脅威が深刻なものであるという認識をワシントンに広めた︒ソ連の脅威はアメリカの弱点をアメリカ人に照射した︒アメリカ人
の自国の政治体制に対する自信とその圧倒的な経済力は︑アメリカのソ連に対する優越性を保障するものであったが︑
︵一五一九︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二一四同志社法学 五八巻四号
政治や経済に比較してその軍事力は対ソ優位性を十分に保障できる水準にはなかった︒アメリカにはソ連の軍事力に敏
感に反応する神経が埋め込まれていたのである︒
日本の安全保障にかかわる問題には日本の独立すなわち講和条約についての問題と関連している︒当然のことながら
この問題についても国務省と軍部は対立した︒一九四九年早期講和に傾いた国務省に対して︑講和が在日アメリカ軍の消滅につながるとして軍部は反対する︒軍部は反対の論拠を日本列島の持つ戦略的価値から示した︒一言で言えば︑講
和によって軍備のない日本からアメリカ軍を撤退させることになれば︑日本に対するソ連の影響力が強まり対ソ戦略上アメリカ側に著しく不利になるので反対である︑となる︵NSC49 ︵
︶︒国務省もこうした軍部の見解を理解はしていたが︑ 14︶
占領とアメリカ軍の長期駐留が日本国民の反米感情を高めることになりかねないと考えた︵NSC49/1 ︵
G. AchesonDean 一九︑り出すが軍部にはアチソンをいなしてしまう︒こうした軍部の姿勢は乗の説得軍部は︶︵長官 務国ンソチア︶︒ 15︶
五〇年に入っても変わらず︑アチソンは怒りを爆発させることもあった ︵
有そのと日本駐留の軍アメリカ︑マッカーサーは︒なったたすことに果をマッカーサーが役割︒もある場合ほうがよい させる介在を第三者︑させるには緩和を対立︒ 16︶
事に際しての日本再軍備という案を提示し︑国務省と軍部の合意を図った ︵
︒ 17︶
しかし︑一九五〇年六月︑朝鮮戦争が勃発したことによって︑この調停は水泡に帰する︒アメリカはこの戦争に介入 したが︑その決意はともかく︑準備などなされていなかった︒北朝鮮軍に対抗する戦力は︑戦車が一台もない韓国軍と日本に駐留する準備未整のアメリカ軍であった ︵
破竹強力︑は北朝鮮軍つ持を装備なと準備な周到︒である明白は結果︒ 18︶
の勢いで南下した︒マッカーサーは日本政府に対して︑警察予備隊の発足を指示したが︑当面の戦況になんら好転をもたらすものではなく︑ついにアメリカ軍と韓国軍は釜山に橋頭堡を築くまでに追い込まれる︒中国に続いて朝鮮半島の
大半も真っ赤に染まったのである︒アメリカ人の目にはアジアが赤い激流に飲み込まれていくように映った︒後のドミ ︵一五二〇︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二一五同志社法学 五八巻四号 ノ理論を育む土壌が整備されたのである︒
日本側はマッカーサーの突然の指令に驚きを隠せなかった︒警察予備隊の発足過程については︑読売新聞社戦後史班 編の﹃再軍備の軌跡﹄に詳しく記されているが︑アメリカの指令にはあいまいな点も多く︑日本側関係者はアメリカの意図について訝しげに対応していたことが克明に述べられている ︵
︒ 19︶
アメリカ側では︑朝鮮戦争初期の戦況の悪化により︑軍部の発言を無視できるような状況でなく︑再軍備よりも優先されていた講和問題が再び暗礁に乗り上げかかる︒結局︑トルーマン大統領は講和推進を決断するが︑日本の再軍備は もはや既定の事実として扱われた ︵
であることがワシントンのコンセンサさらに必要不可欠が日本駐留の軍もアメリカ日本独立後︑は点な重要︒のである がなくなってしまった余地の交渉との日本側について再軍備問題は国務省かくして︒ 20︶
スとなったことである︒この結果︑講和問題について日本側の意向・希望が反映される余地がさらに狭められた︒国連軍は仁川上陸以降︑反撃に転じ︑戦線を中朝国境付近にまで押し上げたが︑中国軍の介入によって再び退勢に追い込ま
れた︒こうした状況で一二月︑アメリカは対ソ政策の基幹となるNSC68を採択する︒この文書の世界観はアメリカ=善︑ソ連=悪という善悪二元論であり︑さながら﹁黙示録﹂︵秦郁彦︶であった︒かくしてアメリカ外交からケナン型の一
九世紀教養主義の典雅さは失われ︑ニッツェに代表される二〇世紀実務主義の合理性がアメリカ外交の趨勢となった︒
文学が数学に敗れたともいえる︒時を同じくして日本では︑雑誌﹃世界﹄に﹁三たび平和について﹂︵平和問題談話会︶が掲載される ︵
NSC68らしただろうか漏を感想どのような︑ばめ読を︒たちが執筆者の論文めるこの求を中立・全面講和︒ 21︶
両者の世界観があまりにも離れすぎていることは明らかである︒現実主義者の吉田茂はこの二つの世界観に対処しなければならなかった︒吉田にとって重視しなければならないのは︑アメリカである︒アメリカとの交渉を前にして吉田は
日本側の構想を外務省にまとめさせるが︑旧知の旧軍人達もブレーンにした︒軍事機関が存在しないためインフォーマ
︵一五二一︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二一六同志社法学 五八巻四号
ルな形で代行させたのであろう ︵
DullesFoster John メの幾度か交田渉した結果︑アは︶吉と︵スレダの表代カリメア︒ 22︶
リカ軍の日本駐留と防衛力漸増を約束することになった︒これによって独立後の日本の安全が保障される︒しかし︑そのためには吉田は国内の反対勢力と対峙しなければならなかった︒アメリカですら再軍備のためには憲法改正が必要で
あると認識していた中で︑憲法を改正することなく再軍備を推進しなければならなかった日本政府は︑保有すべき軍備の使用を検討するゆとりはなかった︒軍備を保有する法的正当性を説明することに追われていたからである︒この結果︑
軍備の使用についての問題は二の次の扱いを受けることになる︒軍備の正当性が確立していない状況で軍の使用に関する法体系の整備を提案すれば︑紛糾することは避けられない︒また実際問題として軍備が整っていない状況で︑その使
用に関する法体系の整備は喫緊性も乏しかったといえる︒
アメリカは日本に再軍備を迫ったが︑どの程度の軍備を日本が保有すべきか︑という問題すなわちその最終戦力を算 定していなかった︒講和条約締結後︑軍部は日本が当面保有すべき陸軍の軍備の算定作業を漸く完成させるが︑海空軍にいたっては暫定兵力の算定を終えたに過ぎなかった ︵
NSC1252/以︑がたれさ映反に︶後︵書文策政日対は部一のそ︒ 23︶
の舵取りはアイゼンハワー政権に委ねられる︒
3
.アイゼンハワー政権と日本 アイゼンハワー政権下での最初の対日政策︵NSC125/6︶は︑基本的にトルーマン政権を踏襲するものであった︒とはいえ︑日本経済について配慮をしていた点で異なる︒アーゼンハワー︵Dwight D. Eisenhower︶は経済を犠牲にしてまで軍備を増強することに反対であった ︵
加にも基本的の吉田︒えられたのであるえ対日政策考︑が方え考そうした︒な 24︶ ︵一五二二︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二一七同志社法学 五八巻四号 方と波長の合うものでもあった ︵
︒でられる奏が を不協和音それまで︑し要時間まだ︑がシンフォニーとなるには主張の日米︑しかし︒ 25︶
先述したようにアメリカ側では陸軍はともかく海軍と空軍が日本の保有すべき戦力の算定を終わらせていなかった︒この作業は︑統合参謀本部と極東軍司令部の間で意見交換をしながら進められていたので︑時間がかかった︒ようやく その作業に目途がついた一〇月︑池田勇人を長とする一行が訪米した︒そのメンバーは︑元・現職の大蔵官僚で占められていた︒日米間で防衛問題について協議されたが︑話はかみ合わなかった ︵
︒防衛計画を財政的見地からアプローチす 26︶
る日本側と軍事的観点をより重視するアメリカ側とでは対話の基盤が異なっていたのである︒日本側は経済事情を説明し︑アメリカ側は戦略情勢を語り︑双方は相手方の主張を聞き流していたようなものであった︒結局︑この会談では防
衛問題に関する日米の食い違いは解消しなかった ︵
︒してくることになる関連に日米交渉の以後︑であり会談した顕示を していること有を影響力きな大が大蔵省して関に防衛問題︑しかし︒ 27︶
夏から冬にかけて日本では昭和二九年度予算の編成作業が進められていた︒日米は防衛分担金を含む防衛予算について協議を行っていたが︑防衛問題に関する日米のアプローチの相違はなかなか解消できなかった︒特に日本側は﹁一兆 円予算﹂という緊縮予算の編成をその方針として重視していたことは日米間の溝を大きくさせた ︵
︒また︑一連の日米協 28︶
議では当面の防衛力の目標を設定し︑そのための予算を求めるアメリカ側に対し︑いまだ防衛計画を策定できない日本側という構図も見られた︒結局︑当面の防衛予算について合意が成立したが︑最も基本的な問題である防衛問題に対す
る日米のアプローチの相違は先送りにされたのである︒
翌年に入ると吉田内閣の国内政治基盤は動揺し始める︒長年の吉田政権に対する国民の倦みが顕在化するとともに︑
公職追放されていた一連の保守政治家山脈が保守政党内部で活発に活動し始める︒吉田政権はその火山活動に影響を受
︵一五二三︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二一八同志社法学 五八巻四号
け始めた ︵
︒ 29︶
こうした日本の国内政治の動揺を察知していたアリソン駐日アメリカ大使︵John M. Allison︶は︑従来の圧力を加える対日政策の方針転換をダレス国務長官に提議する ︵
︒この方針転換案に極東軍司令部は反発をするが︑そうした中︑つ 30︶
いに吉田内閣は崩壊した︒そして鳩山一郎を首班とする新内閣が発足した︒しかしその内閣の基盤は少数内閣という脆弱なものであった︒翌年早々の選挙で︑与党民主党は勝利を収めたが国会で過半数を制するにいたらなかった︒こうし
た中で︑アメリカはついに対日政策の転換を決断する ︵
1/5516NSC歩予ぐめを算た衛防日いてる米糾ア譲は側カリメ︑交れさ揮発で渉し︶紛緩本はの圧力をへ和せる政策︵さ 日本側︒防衛問題に関する認の裁量をめようというのである︒日 31︶
する ︵
︒ 32︶
アメリカ側が対日政策を転換させた理由は︑日本国内の政治状況だけを考慮したからではない︒国際環境の変化を認
識していたからでもあった︒一九五三年に朝鮮戦争が終結し︑一九五四年の台湾海峡危機がひとまず終息した︒こうしたアジアの小康状態は︑日本側に時間を与えても良いと判断させたのである︒
日本側の裁量権の拡大は︑日本の防衛問題に対するアプローチをアメリカが容認したことにつながる︒日本側の防衛問題に対するアプローチは以下のような連立方程式から成り立っていた︒第一は有事に際してのアメリカ軍の来援を基
本計画としていたことである︒ソ連軍が日本侵攻した場合︑独力防衛が不可能であることを政治家・官僚のみならず制服組も共有していた︒事実︑一九五四年度防衛予算をめぐるに日米交渉でアメリカ側が求めた緊急時における﹁統一指
揮権﹂を日本側は承認した︵ただしこの承認事項を文書にすることと後継内閣への継承することについては拒否した ︵
一九五四をがあったにもかかわらず反対の制服組︑となり可能することが抑制見解の軍事上の制服組に第二︑結果この ︶︒ 33︶
年の保安庁・保安隊から防衛庁・自衛隊への改編以後も防衛庁内部での官僚優位体制すなわち﹁文官統制﹂が保持さ ︵一五二四︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二一九同志社法学 五八巻四号 れた ︵
にしたのである財政は︑対米配慮していた防衛予算の例外的扱制約を課いにも︒読仮大蔵省り限む︑をした作成が文書 ﹂兆円予算うとい緊縮︒﹁一た衛境てっよに定設環れたしうこ︑に三防問︒制さ視要重が約の題上政財るけおに第 34︶
アメリカへの配慮を必要としなければ大蔵省は防衛予算も削減していたであろう︒第四に︑有事におけるアメリカ軍の支援を前提とすることによって日本の作戦行動の整備に伴う国内政治上の紛糾を回避することができた︒自衛隊の行動
に関する規定を定めるためには︑法の制定が必要であったが︑そうした法案が国会に提出された場合国会が紛糾し廃案となる可能性が高かった︒労多くして報われない法案の成立を目指すことは生産的とはいえなかった︒作戦行動にかか
わる問題は憲法解釈の問題として扱われていた︒自衛権発動の三要件︵①わが国に対する急迫不正の侵害があること︑②これを排除するために他に適当な手段がないこと︑③必要最小限度の実力行使とどまるべきこと︶を一九六九年三月
一〇日の参議院予算委員会で答弁したのは高辻内閣法制局長官であったことはその象徴であろう ︵
︒ 35︶
4
.重光の訪米と五五年体制の成立 鳩山内閣の与党民主党は︑自由党と比べて日本の自主性を重視していた︒防衛問題も同様で自主防衛を確立すること を掲げていた︒しかし政党綱領と現実は別である︒たとえばかねてから鳩山は憲法改正を考えていたが︑就任後世論の反対の強さから自衛隊を憲法違反ではないと述べ︑その立場を後退させていった ︵︒一九五五年二月二七日の総選挙の結 36︶
果︑民主党は一二四議席から一八五議席へ増加したが︑自由党が一八〇から一一二へ議席を減らし︑保守政党の議席は改選前より減少した︒かわって右派社会党と左派社会党が議席を増加させ︵両派の議席は一三五から一五六議席へ増
加︶︑国会でその勢いふるい︑国防会議設置法案を廃案に追い込んだ︒日本の防衛体制整備が頓挫したにもかかわらず
︵一五二五︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二二〇同志社法学 五八巻四号
重光葵外相は︑自主防衛体制の整備が進捗していると判断し︑それを担保に在日アメリカ軍の撤退による日米の対等性
の実現をアメリカに求めた︒その担保となったものが防衛六ヵ年計画案である ︵
き︑されたにすぎなかった了承として案す示に側けを欠アメリカ ︵ づ裏な財政的は防衛計画案しかしこの︒ 37︶
︒つまり仮にこの計画案を担保にして安保改定が実現 38︶
したとしても︑その後の予算編成によって予算が割り当てられるとは限らなかったのである︒引き続き緊縮予算すなわち﹁一兆円予算﹂を編成する予定であった大蔵省は︑予算編成の前に防衛予算を予め定めることに難色を示していた︒
こうしたことから鳩山内閣が本気で安保改定に取り組もうしたとは言いがたい︒あるいは政府の大勢は安保改定など実現できるはずがないと考えていたのであろう︒
案の定というべきか︑安保改訂案となって結実した重光の構想はアメリカの拒絶によって挫折する︒重光との会談でダレスは︑日本の防衛の現実を容赦なく指摘し︑理想と現実との間の乖離を暴いて見せた ︵
︒単に防衛力の整備が不十分 39︶
だけではなく︑自衛隊がアメリカ軍を支援できる態勢にないことを具体的な事態を挙げて︑指摘した︒安保条約制定に深くかかわったダレスは︑アメリカの対日防衛の義務に関して一九五一年に﹁日本が憲法を改正した後︑われわれがヨ
ーロッパ諸国から得ようとしているような正確な約束︑いつまでにこれだけの数の師団を創って貢献する︑という約束ができるようになるならば︑われわれも具体的な約束をすることができるだろう﹂と︑日本側の努力如何にかかってい
ることを述べていた︒ダレスのこの発言はスタッフに語ったものであるから︑日本側に伝わっていたかは不明であるが︑ダレスにしてみれば重光に対するコメントはまさしく一九五一年のこの発言を再確認したにすぎなかった ︵
︒また軍部を 40︶
代表してラドフォード統合参謀本部議長︵Arthur W. Radford︶は︑重光が提示した日本の防衛計画とアメリカ軍の撤退スケジュールには関係がないことを明言した ︵
が否定軍部アメリカ︑は理由したを関係の計画の日米ラドフォードが︒ 41︶
日本の有事防衛計画の詳細を把握していたからである︒そしてその計画実行のためには法制度の整備が必要不可欠であ ︵一五二六︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二二一同志社法学 五八巻四号 ることも掌握していた︒こうした状況では日本との共同作戦計画が画餅に帰すことは明らかであった︒必然的に軍部は日本の計画と切り離して︑自らの計画を立案することになる︒
結局この会談の後の日米共同声明は安保改定に含みを持たせる内容となったが︑アメリカ側の納得できる防衛整備を図るという条件付でもあった︒本来︑安保改定など実現できるはずがないという指摘は︑制服組によってなされるべき
ものであった︒しかし制服組の日米安保に対する専門的見解の表明は制度的に困難であった︒防衛庁内部では背広組が制服組を統制していたことは先述した︒重光が構想を外務省の限られた人間と練っていたため︑背広組も安保に関する
発言を制度的に表明できるルートがなかった︒たしかに重光がアメリカに携えて行った防衛六ヵ年計画案を作成したのは防衛庁である︒しかし防衛庁側はこの計画案を安保改定の根拠にすることまでは考えていなかった︒事実︑非公式で
はあるが防衛官僚であった海原治は安保改定など不可能であることを外務省に伝えている ︵
しなさらにの実現を図ろうとしたのである︒言のえば︑軍事的側面を研究対等性日米重光︑することなく検討に十分は を︒関連の作戦と軍備つまり 42︶
かったからこそ︑重光は日米の対等性をアメリカ側に要求できたのである︒
その日本側の軍事上の不備を指摘し︑その不備を是正することが安保改定の条件としたことは︑ある種のガイドライ
ンをアメリカが提示したと解釈できる︒事実︑重光訪米の同行した岸信介は︑この失敗から後の改定のための教訓を得
ることになる︒政権基盤が脆弱であり︑防衛整備を進めることができない鳩山内閣をアメリカ側は評価していなかった︒この年の四月の防衛予算交渉が暗礁に乗り上げたとき︑重光は訪米することによって打開を図ろうとし︑交渉担当者で
あったアリソンを憤慨させたばかりか︑ダレスに会談を拒否されてしまった︒明らかに重光の失態であり︑国内で批判を浴びたばかりかアメリカ側に重光の外交能力に疑念を抱かせるものとなった ︵
︒事実︑昭和三一︵一九五五年︶年度防 43︶
衛予算をめぐる日米交渉でアリソンは︑重光の政治的力の限界を悟り︑河野一郎と交渉する機会を持った︒日本国内の
︵一五二七︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二二二同志社法学 五八巻四号
鳩山ブームは太平洋を越えることはなかったのである︒いうまでもなく日米間に信頼関係がなければ安保改定など実現
するはずがない︒一方︑反岸ブームを引き起こしてしまった岸はアメリカとの信頼関係を築くことに成功することによって安保改定を実現した ︵
︒をっていたといえる切え冷えるころには越太平洋は熱の反岸の日本国内︒ 44︶
一一月︑保守合同によって自由民主党が誕生したが︑アメリカ側の望んだ防衛整備は実現しなかった︒自主防衛路線と日米協調路線︑防衛重視と経済重視という二つの保守政党の政策対立は収斂することはなかった︒保守合同は二つの
保守政党に質的変化をもたらすものではなく︑量的膨張の側面が強かった︒
結局︑五六年度防衛予算をめぐる最後の日米交渉もアメリカ側の譲歩によって︑一九五六年一月に妥結した ︵
︒この交 45︶
渉の過程でアメリカ側は︑防衛整備に熱心とはいいがたい河野一郎の政治力に頼まざるを得なかったところに限界があったといえる︒
5
.結び 戦後日本の政軍関係の特徴は以下のように考えることが妥当であろう︒ 第一に軍備については予算の制約が課せられるのは当然であるが︑大蔵省の影響力が大きかった︒一九五三年の池田訪米に際して同行し︑ロバートソンらとの会談に同席したのは大蔵省関係者であったことは既に述べた︒警察予備隊発足以来︑発足間もない防衛機関に各省から人員が派遣されていたが大蔵省は予算部門に人員を派遣していた︒防衛計画案作成に当たって彼ら大蔵省からの派遣組が影響力を発揮していたことは知られている︒防衛庁・自衛隊発足後も経理
局長は大蔵省出向組の指定席であった︒防衛庁にとっても大蔵省に顔が利く出向組の存在は重要であった︒もちろん大 ︵一五二八︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二二三同志社法学 五八巻四号 蔵省が防衛予算額の決定をしていたわけではない︒しかし吉田は池田勇人・大蔵省を信頼していたこと︑また吉田の軍備に関する考えは国力に応じて進めていくというものであり︑大蔵省の方針と合致していた︒大蔵省と防衛庁の政治に
対する影響力の差は明らかである︒
第二は作戦面についてである︒作戦に必要な法制度の不備は︑自衛隊と憲法との整合性に起因する︒憲法の改正が不
可能である状況では︑憲法と自衛隊の行動規定を背馳させないことが最重要であった︒政府の法解釈を司る内閣法制局が︑防衛問題で国会答弁を行う所以である︒作戦に必要な防衛法整備が進まなかったことは︑内閣法制局が作戦に一定
の制約を課していたといえる︒
第三は日米安全保障条約における防衛庁・自衛隊の立場である︒重光・ダレス会談において︑アメリカ側から国防省
官僚のみならず制服組トップの統合参謀本部議長が出席していたのに対して︑日本側から防衛庁内局官僚・制服組は参加していない︒安保条約に関する防衛庁・自衛隊の発言権は︑外務省のそれと比較すれば抑えられていたといえる︒も
ともと講和に当たって吉田が外務省に日本側の見解を検討させる一方で︑安全保障問題を旧知の旧軍人たちに検討させていたことは既に指摘したが︑日本の独立後も安保条約の経緯を知悉している外務省が防衛庁よりも大きな発言権を有
していたとしても何ら不思議ではない︒また防衛計画すら策定されていない状況に象徴されるように防衛庁・自衛隊は
組織機構として完成していたとは言い難かった︒アメリカ側が国務省と国防省・制服組と常に意見交換を行っていたのとは対照的である︒
第四に︑防衛庁・自衛隊における内局官僚と制服組との関係は文官統制という言葉に示されるように内局官僚が制服組を統制していた︒保安隊から自衛隊への改編に際して︑文官統制を廃止しようとする動きがあったが︑結局残された︒
しかも制服組を代表するはずの統合幕僚会議議長は︑後に﹁高位高官・権限皆無﹂と揶揄されるように陸・海・空自衛
︵一五二九︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二二四同志社法学 五八巻四号
隊を統制することができなかった ︵
︒自衛隊を代表するはずの統合幕僚会議議長の権限も弱められたのである︒ 46︶
以上のことから︑制服組の発言権は軍備・作戦のいずれにおいても抑制させられていたといえる︒このような日本型政軍関係が成立した最大の要因は︑有事に際してのアメリカ軍の支援が前提とされていたことである︒日本の文民・文
官はアメリカ軍を日本の防衛計画に組み入れることで︑作戦に関する問題の解決を図ろうとしたといえる︒同時に軍備についてもアメリカ軍の支援を計算に入れることで︑軽減することが可能となった︒一九五五年以降︑アメリカの対日
圧力は緩和されたが︑アメリカ軍の存在はアメリカ側の意図とかかわりなく︑日本の政軍関係を規定する大きな要素となっていたのである︒
︵
︵ と︒また最近の研究として佐道明広﹃戦後日本の防衛政治﹄︵吉川弘文館二〇〇三年︶が挙げられる︒られる ―1て組げと究研たっ扱を係関のと服が制と僚官局内の部内庁衛防挙︶︑民廣瀬克哉﹃官僚と軍人し文︶年制の限界﹄︵岩波書店 一九八九統
︵ 2︶眞邉正行編著﹃防衛用語辞典﹄︵国書刊行会二〇〇〇年︶一五二頁︒ Cambridge, and Press, University (Harvard RelationsCivil-Military of Politics State:The Theory the and Soldier The Huntington, P. Samuel 3︶ Massachusetts, London 1957), p12. 邦訳は市川良一訳﹃軍人と国家﹄︵上・下巻 原書房 一九七八年︶一四頁︒︵
︵ ︒三一頁︶一九九七年 ―4制年明彦﹃安全保障法戦後五〇の田模索﹄︵読売新聞社 憲が田芦中︒定に過程において第二項の意味気いづいていたかは定か︶はなで
︵ ―5﹁同志社法学︒五三五頁︶三年〇〇二︵第五五巻第二号﹄﹂﹃警察予備隊原点︶関係ミリタリー・のシヴィル戦後日本拙稿発足のの
︵ ―6︶田中﹃安全保障﹄二八三三頁︒ 7でされるのは一九四九年のことあ提るが︑その骨子となったもの出に︶本陸軍内部で検討されていた日再議軍備計画案が国家安全保障会は JCS1380/55である︒この文書には日本再軍備計画案の経緯が記されている︒JCS1380/55 (October 25, 1948), Paul Kesaris ed., Records of the
Joint Chiefs of Staff, Part2, 194653, The Far East (University Publications of America, 1979), reel 6.︵
American T.Ross, Steeven 8献については以下の文しに詳計く記されている︒画争︶戦第二次世界大戦後から朝鮮戦争勃発までのアメリカの ︵一五三〇︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二二五同志社法学 五八巻四号 War Plans 19451950 (Frank Cass, London 1996).︵
︵ /9S・トルーマン・加瀬俊一監修︶堀江芳孝訳﹃トルーマン回顧録﹄︵恒文社ハリー一九九四年︶︒
10 NSCStates, of U.S.Department 30The of Relations Foreign United のめ原爆問題は﹁最︒たいてれら定政はに高度︑︶るあで﹂定決策と States:1948.Vol, VI (Government Printing Office, 1974), pp. 6248.︵以下FRUSと略す︶︵
︵ ︒したものである加筆を︶一九九五年央公論社 11 ―﹃の増田弘﹁芦田均インテリの文人政治家﹂中﹄︵たち宰相戦後日本戦後日本﹃は本書︶︒一年︶二渡邉昭夫編中公文庫﹄︵たち宰相の〇〇
︵ ―︒﹄︵絆安保条約と相互性の模索有斐閣げられる米同盟二〇〇〇年︶が挙の 12 /NSC213元一哉﹃日第﹄︵集料資問題て衛防本日後戦﹃編夫秀嶽大坂一し一三一書房 一九九一年︶二二頁と︒︶を詳しく分析した研巻 究
︵ 13 ―村田晃嗣したのか︶︒一九九九年中公新書﹄︵はなぜ自殺﹃︶の冷戦フォレスタル米国初代国防長官闘士
︵ 14 , Vol. VII, pp. 121321.FRUS:1949︶
︵ 15 Ibid., pp. 8703.︶
︵ 16 Ibid., pp. 9246.︶
︵ 17 ――﹄︵︒七七頁七六︶一九九五年東京大学出版会細谷千博・︶日米関係資料集一九四五﹃佐々木卓也編・石井修・有賀貞一九九七
︵ 18 ―︶拙稿﹁警察予備隊の発足﹂五二七五三一頁︒
︵ 19 ︶読売新聞社戦後史班編﹃昭和戦後史﹁再軍備﹂軌跡﹄︵読売新聞社一九八一年︶
︵ 20 ︶拙稿﹁警察予備隊の発足﹂五三三頁︒
︵ 21 平和問題談話会﹁三たび平和︶﹂﹃世界﹄︵一九五〇年一二月号︶︒について
︵ 一号︶︒年六月〇〇〇二︵ 22 ――後法ループによる形成﹂﹃神戸雑学ン誌﹄第五〇巻第戦﹁子綾楠グレー九本の安全保障政策︑一九四一日九五一年吉田茂︑外︶省︑ブ務
︵ 23 ―植村秀樹﹃再軍備と五五年体制﹄︵︶一九九五年︶五三七七頁︒木鐸社
︵ 24 ドワイト回顧録︒頁〇〇四︶一九六五年書房みすず﹄︵ンハワー・︶﹃佐々木謙一訳・仲晃/ンハワーアイゼ・Dアイゼ
︵ 25 ︶植村﹃再軍備と五五年体制﹄一四六頁︒ 26 ―絆五頁〇一〇八﹄日米同盟の︶﹃坂元︑については会談ロバートソン・池田︒
︵一五三一︶
戦後日本の政軍関係の形成過程 二二六同志社法学 五八巻四号
︵
︵ ︵坂元一哉一定の役割があったとみなす③ ①②の中間評価︶︒と つながっていないと会談が対日圧力緩和に直接を①の評価否定する︒植村秀樹この② の︒する評価につながったと対日圧力がアメリカの会談この見解大蔵省関係者ら宮沢喜一① 27の池田・ロバートソン会談︶歴史的意義については︑三つの見解がある︒
︵ 28 ―︵︒七七一頁七六七︶四年一一月〇〇二第五六巻第四号拙稿︶同志社法学﹂﹃日本再軍備るまでの到へ五五年体制﹁﹄
︵ ︒びた浴を批判いっそう まるは吉田しかも︒への強が批判〇吉田これによって八月一で日の自由党全国支部長会議させた︑造船疑獄が﹁流言蜚語﹂であると放言し︑︒ 29 藤い︑でん絡に獄疑船造るゆわには由日〇二月四年四五九一たま自党栄犬作の逮捕を阻止すべく吉︶が養幹健法相に指揮権を発動佐長事田
︵ 30 FRUS:19521954, Vol. XIV, pp. 181822.︶
︵ での︒七四五頁﹂日本再軍備 31 消﹁の見直しを勧告した︒拙稿五五政年体制へ到るまに和緩力圧策日極る的だった陸軍は方針転換をす︒対リッジウェイ陸軍参謀︶長は総
︵ 七巻二号︒した参照も︶年〇一九九︵ 32 .NSCFRUS:19551957, Vol. XXIII, pp. 526215516/会家法学論叢﹄第安国会国米﹁元坂びよ﹃学議つ文書障保︶全にい学てお三重大学社会﹂
︵ 二︒頁〇〇 33 中﹄︵本外交におけるアジア主義岩報 波書店 一九九八年︶ばえ例日年村政起一郎﹁防衛問題と﹂政党治会日本政治学会編﹃日本政︶学治
︵ 34 ―佐道明広﹃戦後日本の防衛︶政治﹄七五八四頁︒と
︵ 35 ︶眞邉正行編﹃防衛用語辞典﹄一六〇頁︒
︵ 36 ―︶田中明彦﹃安全保障﹄一四一一四三頁︒
︵ 正︒えたものである加を 37 第一えて行った防衛計画案は第〇て次案の四に若干修画計衛防携し一四〇次案の四︵昭和三〇年三月日際︶﹃堂場肇文書﹄︒重光が︶米に訪
︵ 38 ︶毎日新聞一九五五年八月九日︵夕刊︶︒
︵ 39 ―重光日米関係資料集︒されている所収に﹄一九九七一九四五﹃・細谷千博他編︶は︶側アメリカ︵会談記録レスダ︑
40 , Vol. VI, pp. 8578.FRUS:1951︶ ︵一五三二︶