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広瀬宰平の企業者史的研究 : 引退前後の意識と行 動を中心にして

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(1)

広瀬宰平の企業者史的研究 : 引退前後の意識と行 動を中心にして

著者 瀬岡 誠, 瀬岡 和子

雑誌名 同志社商学

巻 63

号 5

ページ 448‑499

発行年 2012‑03‑15

権利 同志社大学商学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012859

(2)

広瀬宰平の企業者史的研究

──引退前後の意識と行動を中心にして──

瀬 岡 誠

瀬 岡 和 子

はじめに

Ⅰ 広瀬宰平の引退過程

Ⅱ 住友時代の広瀬の企業者活動

Ⅲ 自伝『半世物語』の分析

Ⅳ 引退後の広瀬の意識と行動−製錬所の四阪島移転をめぐって−

むすびにかえて−伊庭の引退観−

は じ め に

住友家初代総理事(総理人)広瀬宰平は,明治

27

11

月,67歳で引退した。別子 銅山に勤め始めたのは天保

9

年,

11

歳の時であるから,広瀬と住友家との関係は実に

57

年もの長きにわたっている。彼は,自分の「人生の前半」のほとんどすべてをかけて同 家の事業の存続と発展に尽力したわけである。

とくに,幕末・維新の激動期に別子銅山存亡の危機を救ったのは広瀬であり,その功 績は高く評価されねばならないであろう。彼はその後も,カリスマ的なリーダーシップ を発揮して別子の近代化を推進する一方,五代友厚らと協力して,大阪財界の発展にも 積極的にコミットした。また,引退の

2

年前には,渋沢栄一,古河市兵衛らとともに民 間人としてはじめて勲四等瑞宝章も受章している。

このことからわかるように,引退当時の広瀬は,単に「住友の広瀬」にとどまらず,

明治国家からプラスのサンクションを付与された,まさに当時の日本を代表する経営者 のひとりといいうる存在になっていたのである。

言い換えれば,広瀬の半世紀以上にわたる実業家人生は,住友家の最高経営者の地位 とそれに伴う名声を,主家への忠誠心に裏打ちされたカリスマ的な指導力によって勝ち 取っていく,まさに英雄的といいうるものであったのだ。

ところが,あたかも昇る太陽のように光り輝いていた広瀬の「人生の前半」は,明治

25

年頃から陰りを見せ始める。彼の独断専行を弾劾する大島供清ら住友内部からの非 難の高まりと別子煙害問題の拡大・深刻化が重なって,ついにその

2

年後,日清戦争の 最中に総理人の地位を去ることを余儀なくされたのである。

84(448

(3)

本稿は,この引退前後の広瀬の意識と行動を,15代家長住友友純と,広瀬の後継者 伊庭貞剛との相互作用を重視しつつ,企業者史的に分析したものである。

すなわち,広瀬の引退の仕方と引退直後の彼の意識と行動が家長友純の内的世界なら びに後継者伊庭の企業者活動にどのような影響を与えたのか,また逆に,製錬所の四阪 島移転の決断など,後継者となった伊庭が下したいくつかの重要な意思決定が,「人生 の後半」の入り口に立った引退直後の広瀬の意識と行動にどのような影響を与えたの か,さらには,両者の間に立つ,公家出身の若き家長友純は,トップ経営者の交代過程 をどのように見ていたのか,そうした点を企業者史のパースペクティブから考察したも のである。

本稿の主たる考察対象は,明治

25

年頃から

30

年頃までの数年間である。広瀬の引退 を含むこの数年間は,2代総理事となる伊庭が住友家の組織や事業の近代化と多角化に 本格的に取り組み始める時期に当たり,その意味で経営史的にみて重要な時期であるこ とはもちろんであるが,企業者史的にみてもきわめて重要かつ興味深い時期なのであ る。

というのも,この時期は,広瀬自身にとっては人生の前半から後半への移行期にあた り,それまでの地位と役割の大きな変化に直面する時期であるからである。また,彼の 後継者伊庭自身にとっては住友の最高経営者として人生の前半のまさに絶頂期にあたる からである。さらに,住友家

15

代を相続(明治

26

4

月)したばかりの,公家出身の 若き家長友純にとっては,別子煙害問題,広瀬の引退,製錬所の四阪島移転問題など,

矢継ぎ早の難問襲来に家長として対処していかなければならない苦しい時期であったか らである。

つまり,この数年間は,異なるライフステージにある,住友のふたりの経営者(広瀬 と伊庭)と所有者(家長友純)のそれぞれの意識と行動を,同一の時代背景のもとで企 業者史のパースペクティブから比較・考察することを可能にしている,特異な時期とい えるのである。

このことを踏まえた上で,筆者が本稿でとくに焦点を当てたのは,広瀬が「引退」と いう試練とどのように向き合いながら,住友家の最高経営者にまで上りつめた「人生の 前半」に別れを告げ,「人生の後半」のスタートラインに立つにいたったのか,また,

引退前後の彼の内面はいかなる状態であったのかということである。

引退後の広瀬は,住友の「革新的経営者(初代総理人)」から「ひとりの老人(元総 理人)」となったわけであるが,引退に伴うそうした地位と役割のドラスティックな変 化を,広瀬はどのように考え,どのように受け止め,どのように乗り越えていこうとし たのか,こうした点を,家長友純や後継者伊庭との相互作用のなかで,引退後の広瀬の いくつかの行動の社会心理学的な分析を通して,可能な限りあきらかにしてみたい,こ

広瀬宰平の企業者史的研究(瀬岡誠・瀬岡和子) 449)85

(4)

れが本稿の目的である。

革新的経営者の引退後の意識と行動に注目することは,人!!広瀬宰平の企業者史的研 究への第一歩にほかならない。というのも,一般に「引退」(退職)とはある個人のラ イフ・ヒストリーにおける重要な通過点のひとつであり,R. C. アチュリーがいうよう に,「退職について知ることは,社会的人間を総合的に理解するうえで,ちょうど青年 期や中年期,職務歴その他ライフ・サイクル(人生周期)における各段階について知る ことと同じくらい,重

1

要」であるからである。

引退をひとつの「行事」と見るならば,それまでの地位からの分離を象徴する通過儀 礼(退職送別会など)ということになるわけだが,本稿では,それよりもむしろ,引退 がある個人の「人生の前半」から「人生の後半」へと向かう転換点となっているという 側面を重視している。出生や進学,就職,結婚などは,一般に上りの過程における重要 なライフ・イベント(人生の節目となる出来事)であるのに対して,引退は,「死」へ と向かう「下りの過程」の始まりを象徴するライフ・イベントであるといえるのであ る。しかも,「下ることによって自己を実現する」という「個性化の過程」(ユング)の 始まりでもあると考えられるのであ

2

る。

以下,第Ⅰ章では,広瀬が,大島供清の宰平弾劾追放運動の激化に追い詰められるよ うにして引退を決意する過程を,家長友純や伊庭を中心とする重役らの緊密な相互作用 過程として,やや詳しく検討し,あわせて,広瀬の引退の原因について考える。第Ⅱ章 では,広瀬の住友時代の企業者活動(人生の前半)を振り返り,彼にもカリスマの日常 化が進行していたことを指摘する。第Ⅲ章では,広瀬が引退直後に自伝『半世物語』を 執筆したことの意味とその内容を分析し,広瀬の限界にも言及する。第Ⅳ章では,引退 後の広瀬が家長友純に提出した,製錬所の四阪島移転反対の「具陳書」と「副書」,そ して,それに対する伊庭の反論「四阪島移転之義ニ付上申書」を取り上げ,広瀬が引退 後にこうした行動にでた理由(動機)と意味について検討する。さらに,両者の間に立 って苦悩するマージナルマン家長友純の内面にも言及する。最後に,伊庭の引退論につ いて考える。

Ⅰ 広瀬宰平の引退過程

広瀬宰平は,57年にわたる経営者としての人生の前半のまさに最後の一歩ともいう べき段階まできて,おそらく彼自身も予期していなかったであろうようなプロセスを経 て,住友家を辞していくことになった。

────────────

1 アチュリー,R. C.[1]3ページ。

2 個性化の過程と人生の後半の重要性については,瀬岡[22]98ページ以下を参照。

同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)

86(450

(5)

以下では,まず広瀬が引退を決意するまでのプロセスに焦点を当ててそれを具体的に 考察する。そして,彼が引退をどのように考えていたかを,広瀬のみならず,15代家 長住友吉左衛門友純や本店支配人伊庭貞剛,本店理事豊島住作などの動きにも注目しな がら跡づけてみたい。

1

伊庭の単独別子行(明治

27

2

月)

住友家では,明治

26

9

月に新居浜煙害問題が顕在化し,村民数百人による騒擾が 起こる一方,別子銅山では広瀬宰平追放運動が急速に展開しつつあった。広瀬の独断専 行や「公私混同」を痛烈に批判し弾劾追放運動の中心となっていたのは元別子銅山理事 の大島供

3

清であった。大島は自由な立場で広瀬退身を迫るため,明治

27

1

月に住友 家を辞職して二等末家となった。

本店支配人伊庭は,「別子の人心を鎮めるため」,供清が辞職した翌月(明治

27

2

月),禅の師であり心友であった天龍寺の峨山から手渡された臨済録を持って単身別子 に赴いた。彼は,もうひとりの心友品川弥二郎に宛てた書状(明治

29

1

5

日付)

のなかでその時の強い覚悟を次のように述べてい

4

る。「一歩をあやまり候はゝ弐百余年 の鉱業は虫の為に喰敗らるゝ乎と思へは,中々片時も静座する事もならず。嗚呼まゝよ かし,此天地正大の元気を借り来て一身を投して疎通に尽力せは,如何なり行やらん と,一身密に覚悟を定め,妻を捨,子を捨,家を捨,家財を捨,一身を捨,初て自由の 働き活溌なる妙境にも達し候はゝ虫し位は少しも頓着不致」と考えてのことであった と。

伊庭のいう「虫」とは何か。別子銅山で広瀬追放運動を展開している職員たちのこと ではない。伊庭によれば,「其虫と申は何より生し候かと存候に,全く精神の腐敗に原 き候ものにて,其精神之腐敗は則天地正大の気なる元気之流暢を妨け候より起り候もの に有之,広瀬老人始吾々が十分其元気の流通に意を用ひざりし怠りの罪なりと存

5

候」と あるように,広瀬や伊庭ら重役たちが別子鉱山の従業員との意思疎通(コミュニケーシ ョン)に努力してこなかったことが原因で生じた「精神の腐敗」のことであった。

明治

12

2

月に司法界から住友入りした伊庭の,住友での最初の大きな仕事のひと つは,家憲・家法の近代化であった。とくに住友入り後

2

週間余りで制定された「大阪 住友本店職制並規則」は,重任局による合議制の制度化や上下間のコミュニケーション

────────────

3 大島供清は,明治初年から生野鉱山において仏人技師コワニーのもとで研究していた技師である。明治 4年,同鉱山に鉱山司として出仕した広瀬は大島の才能を認め,明治11年,家長友親に推挙して住友 家に入らせた。供清は,明治20年に別子銅山理事,21年には山根惣開両出張所所長となった。明治27 1月,新居浜運輸課長を最後に住友を退身した。『住友春翠』244−245ページ。

4 別子支配人在任中の伊庭と心友品川弥二郎の往復書簡については,瀬岡[25]を参照。

5 伊庭の品川宛書状(明治2915日付),瀬岡[26]92−93ページ。

広瀬宰平の企業者史的研究(瀬岡誠・瀬岡和子) 451)87

(6)

の必要性と重要性を強調する,画期的なものであっ

6

た。しかし,明治

15

年の家法及び 同

24

年の改正家法の制定内容は,総理人広瀬の権限強化の方へと向かい,とりわけ,

改正家法は,「広瀬の独裁力が家憲上に反映されたも

7

の」と指摘されるほどである。

別子における広瀬弾劾追放運動の原因は,上下間の意思疎通をはかってこなかった自 分たち重役の怠慢の罪であるというのが,伊庭の考えであった。

2

大島供清の広瀬宰平弾劾追放運動

さて,住友家を辞職して尾道に帰郷していた大島供清は,明治

27

6

16

日,上阪 して伊庭と豊島住作(本店理事)の立ち会いのもとに広瀬に会い,退身勧告をおこなっ

8

た。しかし,広瀬はこれを拒絶したため,その

2

日後の

6

18

日,供清は家長友純に

「広瀬宰平弾劾上申書」を提出した。

供清のこの行動に呼応して,同年(明治

27)6

月,別子理事の谷勘治と小池鶴三も,

別子支配人久保盛明を弾劾する上申書を本店重任局に提出した。7月

4

日,広瀬は久保 支配人を解任,この時,ただひとり久保の後任(別子支配人)を志願したのが伊庭であ っ

9

た。

2

月に単身別子に赴いて数ヶ月,別子銅山における人心の離反と煙害問題の深刻さを 直接見聞し,別子の重任局の中でも意見の対立があることを観察してきた伊庭は,これ 以後,別子支配人としてこの難局に立ち向かうことになったのである。副支配人に就い たのは小池鶴三であっ

10

た。

伊庭が別子支配人となった直後の明治

27

7

20

日,本店理事の「豊島住作は供清 に書を発して,三箇月以内に広瀬総理の辞職を見るであらうから穏便にすべきことを告 げ

11

た」といわれる。

このことは注目してよい。豊島は当時本店理事であり,重任局のメンバー(家長,総 理人,支配人,副支配人,理事から成る)であった。したがって,広瀬の

3

か月以内の 辞職というシナリオは,豊島の独断であるはずはなく,住友家の最高意思決定機関であ る重任局の提示したシナリオであり,広瀬自身も了解していたと理解することができる

────────────

6 瀬岡[28]44−46ページ。

7 畠山[8]136ページ。

8 『住友春翠』249ページ。

9 末岡[37]200−201ページ。なお,久保盛明(明治9年住友入社)は,「広瀬宰平の叔父北脇治右衛門 の長女の子」(同,165ページ)で,伊庭の下で本店副支配人を務めていたが,明治252月,広瀬坦 に代わって別子支配人となっていた。

10 『幽翁』161ページ。

11 『住友春翠』252ページ。なお,明治24年の改正家法によれば,「理事」というのは家長,総理人,支 配人,副支配人とともに重任局を構成するメンバーであり,その職務は,「正副支配人ノ職掌ヲ輔ケ諸 般ノ事務ニ参与ス」ということであった。畠山[8]153−157ページ。広瀬の3か月以内の辞任を示唆 した理事豊島の大島宛書面は,この時すでに久保盛明に代わって別子銅山支配人に就任(同年74 日)していた伊庭の了解を得た上でのものであったと推察される。

同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)

88(452

(7)

からである。

ところが,供清はその

3

箇月を待てないとして,第二次の上申書をもって上阪した。

7

30

日,ついに家長友純は供清を須磨別邸に引見,どのように説諭したかは不明だ が,とにかく,供清は最初の上申書を取り下げ,第二次のそれも提出しなかった。そし て翌

7

31

日付の家長宛の手紙において,「一時ノ短慮ヨリ尊厳ヲ冒涜セシ段奉恐縮 候」と広瀬批判の態度を軟化させ

12

た。

3

家長友純の準拠集団行動−社会関係資本の活用

事態の収拾をはからねばならない住友家では,これからの

3

か月が非常に重要であっ た。家長友純と広瀬本人,そして明治

27

7

4

日に別子銅山支配人(兼本店支配人)

となっていた伊庭を中心に,広瀬勇退への道が懸命に模索され,固められていったので ある。

ここでとくに注目すべきは,家長友純の行動である。友純は,住友家の内情について 次兄西園寺公望や長兄で当時内大臣侍従長をつとめていた徳大寺実則にも相談してい る。すなわち,明治

27

8

22

日,友純は広瀬を伴って,京城へ特派使節として派遣 されることになった公

13

望と神戸で会談した。この時の様子と自分の気持ちを広瀬は伊庭 に手紙(明治

27

8

25

日付)でこう述べている。「(上略)弊老退職云々御内話に至 り候に付,侯爵より懇話切々,住友家将来の悪例を不遺様深く誡訓,何れ帰途再語する との事にて御別れ申候。老生も忍んで生を養ひ候得共,今に憤懣之気夜夢不忘(下

14

略)」

「帰途再語する」とあるように,友純と広瀬は,9月

17

日,渡韓を終えた公望と神戸 で再び会談,翌

9

18

日には,公望・友純兄弟はともに神戸を発って大阪の住友邸に 向かっている。『住友春翠』には,この間,家務の問題について友純と公望は「懇に語 るところがあり,又公望の忠告して切々たるものがあったのであら

15

う」とある。

続いて,10月

1

日には,友純は大阪を発って広島(当時明治天皇は広島大本営にい た)に行き,長兄徳大寺実則を訪問した。『住友春翠』には「家情を訴へ意を承けるた めであったのであらう」とある。

さらに,10月

3

日には,伊庭のいる別子に向かい,鉱山を視察して数日滞在,この 間,伊庭とも相談して,広瀬の辞職の方針が決定されたといわれる。なお,10月

3

日 には,公望が文部大臣拝命のため広島に赴いているので,友純,公望,実則の

3

兄弟が ともに会談した可能性も考えられ

16

る。

────────────

12 『住友春翠』253ページ。

13 西園寺の朝鮮行きの目的は「日清開戦にあたって国王・閔妃・大院君(国王の実父)を慰撫し,かたが た情勢を視察する」ことであった。岩井忠熊[13]74ページ。

14 『幽翁』153ページ。

15 『住友春翠』255ページ。

16 『住友春翠』256ページ。

広瀬宰平の企業者史的研究(瀬岡誠・瀬岡和子) 453)89

(8)

このように,住友家では家長友純や伊庭が,友純の「社会関係資本」(social capit

17

al)

のひとつである親族ネットワークを活用し,その中の有力人物である西園寺公望,徳大 寺実則と緊密に連携しながら,広瀬勇退に向けて活発に動いていたのである。

4

住友家内紛の拡大と広瀬の引退決意

ところが,7月末には広瀬宰平弾劾上申書を取り下げ,いったんは態度を軟化させて いた大島が,それから

3

か月になろうとする直前,突然,更に激しさを増して宰平追放 運動を再開したのである。すなわち,広瀬の辞任を待ちかねた大島供清は,10月

17

日,『愛媛新聞』に「大阪ノ富豪住友家ノ大怪聞」と題する暴露記事を載せたのである。

その記事には,別子鉱山支配人久保盛明が広瀬の権力を笠に着て評判が悪く,周囲の人 民ともたびたび騒擾を引き起こしていること,さらに,住友家の忠隈炭鉱買収の際に前 鉱山局長和田維四郎とともに自己の利益を謀ったなどということが書かれていた。これ らの記事は,同月

21

日には東京の開化新聞にも転載されるにいたり,住友家の内紛は ついに外部に漏れ,拡大してしまったのである。しかも,住友家の依頼で忠隈炭鉱を仲 介・斡旋した和田維四郎からは,「余の名誉のために事実を公示せよ」との書状が広瀬 に送られてき

18

た。

供清は,愛媛新報に内紛暴露記事が掲載された翌日(明治

27

10

18

日),宰平を 突然訪問して再び辞職を要求した。しかし,宰平は,家長友純と重任局に相談せよと拒 絶し,会談の途中で「席を蹴って起っ

19

た」といわれる。その後も供清は,広瀬を糾弾す る手紙(10月

19

日,同

28

日)を送り続けた。名誉を傷つけられたとする和田維四郎 からも,「住友家の態度」を非難する手紙が再度,広瀬に送られてきた。

8

月から

10

月初めにかけて家長友純の準拠集団行動に基づき,広瀬勇退に向けてな されてきた努力であったが,事態は解決に向かうどころか,ますます悪化の一途を辿り つつあったのである。深刻化していく住友家の危機のそのただ中にあって,公家出身の 若き家長友純の心的葛藤や苦悩は,まさに「想像を絶したも

20

の」であったであろう。

明治

27

11

2

日,ついに広瀬は,本店理事豊島住作宛の書状の中で,辞表提出の 時が来たことを告げたのである。さらに,11月

6

日付の同じく豊島宛書状において,

伊庭と相談するため彼を別子銅山から呼び寄せてほしいと頼んでい

21

る。

────────────

17 「見えざる資源」としての社会関係資本については,マルソー.J.[3]第7章及び同書の「訳者解説」

を参照。

18 『住友春翠』257ページ。

19 『住友春翠』258ページ 20 『住友春翠』259ページ。

21 末岡[37]203ページ。

同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)

90(454

(9)

5

別子支配人伊庭の心境

では,この頃,伊庭は,別子山上において広瀬の辞任問題をどのようにみていたので あろうか。

明治

27

11

5

日付の伊庭の豊島住作・田辺貞吉両理事宛の書状は,当時の彼の心 境を率直に述べていて,興味深い。

伊庭は,両理事に対して「大島一件」への対処についての苦労をねぎらった後,

「兼ゝ愚見申述候通り,秋風之期を失する時は,如何なる事変も不被計事と,深く心痛 之處,今日となっては,其時期已に失過し,此上は方案見込も更に無く,只ゝ成行を待 之外なく,嘆慨此事に御座候。両君之御迷惑は如何計と想察に不堪,小生も独り心痛,

意中を明し談ずべき友も不得,寒燈之下に古今治亂の因果を想起し,人生之果敢なき有 様を嘆じ,独り自ら慎むの外なき事と諦らめ申候(以下

22

略)」,と。

そして,手紙の最後に自作の和歌二首「秋寒したどる山邊の道暮れて行衛はいづこし ら雲の空」「思ひいる深山の奥の道絶えて心にかかる峯の白雲」を添えた。広瀬引退の タイミングを失し,今や万策尽きて,後はただ成行を静かに見守る以外に方法がないと いう,諦めと苦悩の入り交じった複雑な気持ちを表現したのである。なお,この手紙を 見る限り,11月

2

日の広瀬の辞職決意の情報は,別子にいる伊庭には

11

5

日時点に おいて届いていなかったようである。

6

広瀬の「辞職解雇請願書」

明治

27

11

11

日,大島供清は大阪本店滞在中の伊庭を訪ね,広瀬の引退を勧告 した。そして,引退しなければ政府要人にも住友家の内紛を暴露する手紙を郵送すると 迫った。同月同日,ついに広瀬は家長友純宛に次のような「辞職解雇請願

23

書」をしたた めたのである。

「辞職解雇請願書」

一 曩ニ宰平老衰之情ヲ縷々陳述シ,総理ノ重職と共ニ解放ヲ誓願セシト雖モ,

意ノ如ク許可ノ恩恵ヲ蒙ムルノ期ニ至ラズ,蓋シ故アリ,然ルニ先月来宰平老軀腸 胃病ニ罹リ,今猶腹薬加養中,依之一層自由ニ保養ノ念ヲ勃興シテ不止,何卒速ニ 此情願ノ御採用ヲ得テ,残余ノ骸骨ヲ能ク養ヒ,能ク天寿ヲ保タント欲ス,実ニ宰 平幼時勤仕セシヲ思ヒ起セバ,殆ント五十五年間,其長年月,恍然一夢ノ如ク,其 恩沢海岳ニ異ナラズ,時正ニ秋冬ノ交,哀鳫

!

(喨)唳ト啼クニ似タリ,右情願伏 而御許可アラ(ン脱)コトヲ,恐懼奉慇願候,頓首敬白

────────────

22 『幽翁』151ページ。

23 広瀬のこの「辞職解雇請願書」全文については,末岡[37]203−204ページを参照。

広瀬宰平の企業者史的研究(瀬岡誠・瀬岡和子) 455)91

(10)

明治廿七年十一月 広瀬宰平 印 家長 住友吉左衛門友純殿

ここで広瀬は先月から病気で加療中であるが,もっと自由に「保養」に努め「天寿ヲ 保」ちたいので,辞職することを許可してほしいと書いている。家長への提出はこれを すべて伊庭に一任した。友純は,4日後の

11

15

日にこれを受理し,「依願解雇」の 辞令を出した。

こうして,広瀬の

57

年間(別子銅山勘場に勤務した

11

歳から数えると

55

年間)の 住友人としての生活−人生の前半−にピリオドが打たれたのである。一方,大島供清 は,宰平辞職の

1

か月後の

12

15

日,住友家の名誉を汚したとして末家より除名され

24

た。

7

広瀬自身の想定していた「引退」

以上見てきたように,広瀬の引退は,自主的な引退というよりもむしろ,実際には,

大島供清を中心とする宰平弾劾追放運動の高まりを背景に,それを憂慮した伊庭,家長 友純ならびにその実兄(西園寺公望と徳大寺実則)と広瀬本人との話し合いのなかから ようやく導き出された,住友家としての決断という要素が大きかったといえる。

表面上は「勇退」の形を取りながら,実質的には,住友の事業経営に対する彼の影響 力の制限−大島供清に言わせれば,追放−という側面をもっていたのである。したがっ て,引退に伴う広瀬の内面的葛藤は相当大きかったであろうと推測される。少なくとも 伊庭の引退の経緯と比較した場合,広瀬のそれは「人生の後半」への決して穏やかな船 出とはいえなかったのである。

たしかに家長友純は,広瀬が

57

年の長きにわたって住友家に仕え,家業の存続と発 展に努めた,その大きな功績を高く評価していた。そして,それに報いるために,辞令 には「功労ニ依リ特ニ終身分家ノ上席ニ列シ前職(総理人)ノ資格ヲ以テ礼遇候事」と 附記することを忘れなかった。

しかしながら,広瀬の主観的な内的世界においては,辞令にそのように書かれていた とはいえ,幕末以来住友家のトップの経営者として同家の危機を救ってきた自分が,住 友内部から起こった追放運動に屈服するかたちで辞任を余儀なくされた−総理人の地位 を奪われ,その座から引き摺りおろされた−という状況認識に変わりはなく,そのこと に起因する不満や怒りや憤り,あるいは挫折感や屈辱感は決して小さいものではなかっ たと考えられる。既述のように,辞表提出を決断するおよそ

2

か月前に伊庭に宛てた手 紙(明治

27

8

25

日付)の中で自らの心理状態を「憤懣之気,夜夢不忘」と表現し

────────────

24 『住友春翠』260ページ

同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)

92(456

(11)

たのは,その証左であ

25

る。

さらにいえば,広瀬が「憤懣之気,夜夢不忘」と書かざるをえなかったのには,もう ひとつ事情があった。実は,広瀬は,引退するおよそ

1

年半前の明治

26

4

月,住友 隆麿が

15

代家長住友吉左衛門を襲名したのを機に,伊庭貞剛,久保盛明,田辺貞吉の

3

名宛に「協議書」なるものをしたため,自らの勇退の意向ならびに後任人事について の自分の希望を表明していたのであ

26

る。少し長いが全文を引用しておく。

協議書

宰平ノ住友家ニ出仕スル昔時ヲ思ひ起セハ,天保九戌年正月廿日,即チ拾壱歳ノ幼 稚ニ而,今ヲ距ル殆ント五十五年ノ星霜也,嗚呼此長年月間多々ノ辛苦ヲ経過シ,

今日此栄誉ト富貴ヲ得ル,誰ノ賜リヤ他無シ,唯住友家ノ恩沢ニ外ナラズ,蓋シ宰 平ノ齢六十六老而耄スル者ト云フベシ,況哉無限ノ世務ニ有限ノ人命ヲ以,相尽ス 能ハス,畢竟鹿ヲ漁シ,山ヲ見サルノ嫌ヒ無ニ非ス,宰平窃ニ思ウ功成身遂ケ,骸 骨ヲ乞ウノ時,早キニ非ス遅シト云ウベシ,古語ニ曰く「先憂後楽」「安心是薬病 更無法」「身安知病少」,又俗諺曰ク,「老而子ニ随」「屓タ子ニ教ラレ浅瀬ヲ渉ル」

アル人ノ俳句ニ「日の暮ぬ内にたゝまん花むしろ」,皆是老耄者ヲ誡メ,其覚悟ヲ 促スノ金言,而老去テ世務ヲ避ケ,安穏ニ老ヲ養ヒ,其寿域ヲ永ク保セシムルノ金 言,則良薬也,幸ヒナル哉,今般住友隆麿君家長ノ任ヲ継キ,既ニ相続ノ吉例ヲ挙 タリ,実ニ住友家万歳ヲ唱ヒ拍手祝賀ス,此ニ至テ宰平ノ義務責任モ全ク尽シ了ル 者,此時期ニ際シ,宰平潔ク惣理ノ重任ヲ辞シ,所謂勇退シ以テ先憂後楽ノ楽土ニ 徜佯,余年ヲ保セントス,然ルニ現家長君入婿後,纔ニ一ヶ年余ニシテ日猶浅シ,

聡明慧智ノ君ト雖モ,諸般ノ家業ヲ挙テ統御スル最モ難シト云ウベシ,因テ家法ニ 拠リ惣理ノ候補者ヲ選挙スルハ,我言ヲ俟タス,請ウ各三名ノ内熟議互選シ,宰平 ノ後任者ヲ定メラレンコトヲ,突然辞表ヲ提書スルニ於テハ円滑ヲ失シ,宰平積年 忍耐ノ情ニモ悖リ,且家長君ノ配慮ヲ恐縮シ,穏当平和ニ宰平ノ心事ヲ筆ニシ,

各々ノ熟議ヲ希望ス,請ウ万々諒察アランコトヲ,頓首敬白

明治廿六年 広瀬宰平

満忠(花押)

伊庭貞剛殿 久保盛明殿 田辺貞吉殿

────────────

25 『幽翁』153−154ページ。引用は154ページ。

26 「協議書」の全文については,末岡[37]201−202ページを参照。

広瀬宰平の企業者史的研究(瀬岡誠・瀬岡和子) 457)93

(12)

66

歳の老齢に達した当時の広瀬の考えでは,住友家に仕えて「栄誉ト富貴ヲ得」た 上は,家長に辞職を願い出ることは「早キニ非ス遅シト云」わねばならないというもの であった。

実際,友純の家督相続を機に,「潔ク惣理ノ重任ヲ辞シ,所謂勇退シ」たいと考えて いたのである。自分の「義務責任」はすべて果たし終えたし,古語や俳句や諺にあると おり,老齢の自分は引退していくべき身である。しかし,家長となってまだ日の浅い友 純が住友家の家業全般を統御することの困難さを思ったとき,「穏当平和ニ」退身して いくためにも,伊庭貞剛,久保盛明,田辺貞吉の三人で「熟議互選」し,自分の後任者 を決めてほしい,というのである。

つまり,広瀬は明治

26

4

月の時点では住友を退く時期や後任人事について自ら考 え,「勇退」の時期を模索し始めていたのである。にもかかわらず,彼自身もおそらく は予想しなかったであろうようなかたちで引退のプロセスが始まってしまったのであ る。彼の内的葛藤はそれだけ一層強くなったといえよう。

8

広瀬の引退から伊庭が学んだこと

他方,伊庭は叔父広瀬の引退過程をどのように見ていたのであろうか。

広瀬の憤懣や苦悩を身近に感じ,観察していた伊庭は,叔父のためにも,また,住友 家(とくに別子銅山の経営)の存続発展のためにも,大島供清を中心とする広瀬追放運 動をできるだけ速やかに収束させる必要性を誰よりも強く感じていたであろう。

と同時に他方では,広瀬の引退問題と相前後して顕在化した深刻な環境問題=新居浜 煙害問題(明治

26

9

月発生)にも対処しなければならなかった。つまり,伊庭は,

広瀬の甥として,また住友本店支配人として,こうした

2

つの大きな試練−住友家にと っての危機的状況−をいかに受け止め,解決していくか,その方法を早急に模索し提示 していかねばならない立場にもあったのである。明治

27

2

月の,臨済録一冊を携え ての単身別子行は,そのことを示唆してい

27

る。

やまとごころ

青年時代の準拠人西川吉輔から学んだ「 国忠のこころざし」(日本国のために尽くす のは日本人の義務であるという精神)を住友において実現しようと考えていた伊

28

庭は,

上述したように,家長友純のみならず,友純の親族ネットワークのなかの中心的人物

────────────

27 伊庭は,大正151023日,80歳で死去するが,その数ヶ月前に江州石山に子女を集めて寿莚を開 き,生前の遺言を述べた。そのとき,この別子行きに言及し「別子へ行かねばならなかったとき,わし と,亡くなったおかあさん(夫人のことを翁は常からかう呼んでをられた)とふたり,こどもたちがづ らりと枕をならべてねてゐるさまをみて,これはまあ,どうなることやらと,深い吐息をついたことも あった」と述懐した。『幽翁』312ページ。それほど,別子行きは伊庭の80年の人生の中でも特筆すべ き,忘れがたい出来事であったのだ。瀬岡[26]とくに100ページ以下。

28 伊庭が,青年時代の準拠人であり,国学の師でもあった西川吉輔から受けた思想的,人格的影響につい ては,瀬岡[25]を参照。

同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)

94(458

(13)

(西園寺公望と徳大寺実則)とも,住友家内部の危機的状況について情報を共有しつつ,

やまとごころ

住友家にとっても,最高経営者広瀬にとっても,さらには「 国忠のこころざし」の実 現をめざす伊庭自身にとっても,最もよい解決策とは何かをそれぞれの立場(地位と役 割)から模索し,それを実行していったのである。その過程において西園寺公望が果た した役割(広瀬に対して「住友家将来の悪例を不遺様深く誡訓」した)はとくに大きか ったといえよう。

広瀬の引退過程に直接コミットした伊庭は,そこでの経験を通じて,トップ・リーダ ーは引退のタイミングを逸しないことが大切であるこ

29

と,そして,後述するように,リ ーダーの交代過程如何が事業経営の方針に少なからぬ影響を及ぼす可能性があることを 身をもって実感したのではないだろうか。明治

37

年の伊庭自身の引退の見事さ,潔さ は,このときの経験とまったく無関係とは言えないように思われる。

Ⅱ 住友時代の広瀬の企業者活動

以上,広瀬の引退過程がどのようなものであったかを概観してきた。ここでしばら く,幕末維新期から引退するまでの総理人広瀬の企業者活動に目を向けてみよう。そし て,彼が人生の前半の終盤において思いもかけないプロセスを経て引退せざるをえなく なった要因を考えてみたい。

1

革新的企業者から独断専行型の経営者へ

明治

27

年における広瀬の引退は,大島供清からみれば,住友家からの独裁的経営者 の追放ということを意味していた。

しかし,当然ながら,住友家(15代家長友純)からすれば,彼が別子銅山支配人と して幕末維新から明治のはじめにかけて展開した革新的企業者活動を過小評価すること はできない。なぜなら,維新の激動期に住友家存亡の危機を救ったのは,他ならぬ広瀬 であり,当時の彼はたしかに「真正の革新者」であったからだ。

新政府による突然の「別子銅山差押」事件や買請米の支給継続願などにおいて,広瀬 は,土佐藩の川田小一郎らに接近し政商的役割を果敢に遂行して解決に導いた。また,

住友家本店店員らによる別子銅山売却説の「不可なること」を論破し,それを阻止した ことなどは,広瀬が卓越した状況判断力と行動力,リーダーシップの能力を備えた人物 であったことを示唆している。それと同時に,こうした政商的活動の展開は,その潜在 的機能として,広瀬自身のコスモポライトネスを高め,社会的基盤を拡充したのであ

────────────

29 別子の伊庭から大阪本店の理事田辺貞吉と豊島住作に宛てた書簡(明治27115日付)において,

伊庭は広瀬引退の時期を逸してしまったことを嘆いている。『幽翁』151−152ページ。

広瀬宰平の企業者史的研究(瀬岡誠・瀬岡和子) 459)95

(14)

30

る。

さらにまた,別子銅山支配人として明治

3

1

月におこなった例の逸脱的な新年の挨 拶「相変りて御目出度候」が象徴しているように,広瀬は「逆命利君謂之忠」という彼 に固有の強い信念に基づき,住友家の存続と発展のために,重役たちに対してのみなら ず当時の家長住友友親に対しても,時代と社会の急速な変化をはっきりと認識したうえ での意識変革の必要性を強く訴えることのできる人物でもあっ

31

た。

幕末維新当時の広瀬のこうした社会的行為は,主家住友家(とくに別子銅山の経営)

の存続と発展のためになされたという意味において「目的合理的行為」(M. ウェーバ ー)であり,また彼に固有の強い信念(「逆命利君謂之忠」)にもとづいてなされたとい う意味において「価値合理的行為」(M. ウェーバー)であったといえよ

32

う。そして,彼 の行為が彼の予想通り,首尾よくその目的を達成したがゆえに,つまり,彼の行為によ って,現実に住友家が難局を打開することができたが故に,維新の激動期における広瀬 は革新者としてポジティブに評価されるのである。広瀬は,幕末維新という,時代と社 会が大きく転換しつつあるそのただ中にあって,突然存亡の危機に見舞われた住友家が 彼に期待した役割を見事に遂行した人物という意味において,まさに革新的企業家と評 価されるのである。

しかしながら,「逆命利君謂之忠」という強い信念に支えられて現出した広瀬のこう した革新性は,明治

10

年代後半に入ると徐々に背景に後退していき,それに代わって 独裁性(事業経営における独断専行)が前面に出てくるようになった。

独裁性(独断専行)が最もはっきりと現れたのは,広瀬が,明治

22

年の欧米巡遊か ら帰国後,その「土産」のひとつとして,異常なまでのエネルギーと多額の資金を投入 してまさに情熱的に取り組んだ新規事業(硫酸製造・製鉄事業)においてであっ

33

た。

硫酸製造・製鉄事業という新規事業は,別子鉱山の産銅事業が住友一家を利するのみ ならず,広く国家社会に貢献するものでもなければならないという,広瀬の強い国益志 向的理念(事業精神)に基づき,鉄の輸入防遏に貢献するためになされた「目的合理的 行為」であった。そして,それを通底していたのは,幕末維新期の彼の例の革新的企業

────────────

30 瀬岡[22]第2章「広瀬宰平−テイク・オフ期のカリスマ」,『住友別子鉱山史』上巻,288−298ペー ジ,『半世物語』7−8ページ,17−18ページ。

31 『半世物語』40−44ページ。なお,広瀬は,9歳(天保7年)の時から別子銅山に勤務し,維新後は生 野鉱山出仕を通じて御雇い外国人F. コワニェから西洋技術を実地に習得した鉱山技術者でもあった。

しかも,火薬と「盛山棒」(火薬装填のために案出された穿石棒で広瀬の命名による)を用いる新しい 鉱石粉砕方法を実行に移すなど,「新しい生産方法の導入」(J. A. シュンペーターのいう5つの「新結 合」=革新のひとつ)に積極的に取り組む,革新的技術者でもあった。

32 目的合理的行為,価値合理的行為については,M. ウェーバー『社会学の根本概念』清水幾太郎訳,岩 波書店,1972年,39ページ以下を参照。

33 もう一つの「土産」は,鉱山鉄道の必要性の認識であった。帰国後の明治26年,広瀬は別子銅山にわ が国初の鉱山専用鉄道を開通させた。

同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)

96(460

(15)

者活動を支えた,彼に固有の忠誠心(「逆命利君謂之忠」)であった。その意味におい て,硫酸・製鉄事業への情熱的ともいえる取り組みとその展開は,広瀬にとっては,住 友家ならびに国家への深い忠誠心に基づく「価値合理的行為」でもあったのである。製 鉄事業が成功すれば,それは別子鉱山に「永遠の生命を保証するも

34

の」として,広瀬 は,幕末維新期におけると同様,革新的企業家としての名声を勝ち得たことであろう。

ところが,広瀬のこの事業計画は,彼の期待と予想に反して,すべて失敗に終わるの である。明治

23

年恐慌後も,これらの事業に採算を度外視した多額の投資を続けた結 果,明治

25

年にはついに,別子鉱山純益が欠損計上となるにいたった。さらに,明治

27

年には,別子鉱石を利用しての銑鋼一貫製鉄事業の展開という,広瀬の目的が,大 阪砲兵工廠での性能試験結果(別子鉱石からの銑鉄が製鋼品に適さない)によって全く 見通しの立たないものになったのであ

35

る。

こうした客観的現実を前にしても,さらにまた,大島供清を中心とする広瀬追放運動 の拡大と新居浜煙害問題の深刻化という,住友家にとっての危機的状況を前にしても,

広瀬はこれら不採算の新規事業から状況適合的に撤退するという道を選ぶことができな かった,あるいは選ぼうとしなかったのである。

2

「カリスマの日常化」

企業者史のパースペクティブからその原因を考察する場合には,広瀬にも「カリスマ の日常化」(M. ウェーバー)が進行しつつあったということを指摘しておく必要があろ う。

明治初期の広瀬は,カリスマ的資質(=「特殊非日常的な」,「誰でもがもちうるとは いえないような力や性質」)を恵まれている人物と評価され,住友家存亡の危機を救う などの「証し」によって,明治

10

年には家長友親から総理代人を委嘱されるほど「信 頼」されていたが,その後の彼の事業経営方針における独断専行的側面は,別子銅山に おける人心の離反に象徴されるように,自らの「カリスマ的権威」を消滅させつつあっ たのであ

36

る。

────────────

34 竹原[42]97ページ。

35 住友全体の純利益も,明治23年の30万円から,24年の26万円,25年の12万円と,急激に減少して いる。末岡[37]192−193ページ,200ページ。

36 M. ウェーバーによれば,「カリスマ」とは,「非日常的なものと見なされた(元来は,予言者にあって も,医術師にあっても,法の賢者にあっても,狩猟の指導者にあっても,軍事英雄にあっても,呪術的 条件にもとづくものとみなされた)・ある人物の資質」のことである。そして,この資質の故に,彼は

「誰でもがもちうるとはいえないような力や性質を恵まれていると評価され」,それ故に「指導者として 評価されることになる」という。そして,「カリスマの妥当を決定するものは,証しによって−始原的 には,常に奇跡によって−保証された,啓示への帰依・英雄崇拝・指導者への信頼から生まれるところ の,被支配者による自由な承認である」。ところが,証しが長期間現出しなかったり,カリスマ的資質 を持つ者が長期間成功を納めることができないとき,とくに「彼の指導が被支配者たちに対して何らの 幸をももたらさないときは,彼のカリスマ的権威は消滅のチャンスをもつことになる」のである。 ! 広瀬宰平の企業者史的研究(瀬岡誠・瀬岡和子) 461)97

(16)

とりわけ,カリスマ的権威の失墜を決定的にしたのは,広瀬が明治

25

2

月,別子 鉱山に勤務する者たちに,総理人広瀬に対する服従を約束させる,次のような「盟約

37

書」を求めたことであろう。

盟約書

今般総理御下予相成,当別子鉱山支配人更迭ニ付,種々懇篤ナル御諭示ヲ蒙リ,

一同感佩屹度遵守仕リ,将来尊慮ヲ不奉煩,為其左ニ条項ヲ掲ケ断行ヲ期シ,茲ニ 一同盟約署名シテ閣下ニ呈ス,自今万一之ニ背クモノハ此署名ヲ除クト共ニ,住友 家雇人ノ資格ヲ除カレ度,各自任意甘諾シテ異議無御座候

第一御家法ヲ遵守スルハ勿論,忠実徳義ヲ旨トシ,苟モ心事ヲ他岐ニ馳セズ,

専心一意業務ニ従事シ,一身ハ別子鉱山ノ盛衰ト共ニ弛張可仕候事 第二当山事業ノ進否ハ詰合合意力ノ親疎如何ニ因リ,其関スル処最大ナレハ主

家ノ方針,支配人ノ指示ニ従ヒ,一同合意一致ヲ堅クシ,益当山ノ隆盛ヲ 期シ,熱心尽力可仕候事

第三濫リニ世ノ風潮悪流ニ感染セズ,貴賤尊卑ノ序を守リ礼譲ヲ敦クシ,各分 限ヲ確守シテ質素ヲ旨トシ,誓テ花(華)驕浪費ヲ省キ,余財ヲ蓄積シテ 主家恩遇ノ厚キヲ表明可仕候事

第四賭博類似ノ遊技ハ,一切不可仕候事 右之条々盟約仕候処,相違無御座候,以上

明治廿五年三月廿日

住友氏(家)雇人別子鉱山 詰員一同

住友家総理 広瀬宰平殿

この盟約書は,新居浜製鉄所(明治

25

1

月完成)での製鉄事業推進のため,本店 副支配人久保盛明を別子支配人に任命(同年

2

月)したさい,広瀬自身が別子に赴き,

別子の職員たちからとったものであり,彼らに対して,「主家ノ方針,支配人ノ指示ニ 従ヒ,一同合意一致」して,「世ノ風潮悪流」に感染しないよう,また,身分の序列を 守って,もっぱら鉱山の隆盛のために業務に励むことを強く求めたものである。そし て,上の

4

つの条項を遵守しない場合には,住友家の雇人の地位を剥奪されても異議は

────────────

! ウェーバー,M.[5]70ページ以下。カリスマとは,単にある個人の並外れた人格的資質を指すのでは ないのである。この点については,ウィルソン,B. R.[6]を参照。

37 末岡[37]166−167ページ。

同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)

98(462

(17)

ないものとされ,罰則規定を含んでいたのである。

広瀬が被支配者(別子鉱山従業員)に対して,久保支配人や総理人広瀬へのほとんど 無条件の服従を要求したことの意味は重要である。なぜなら,広瀬は,カリスマ的権威 というものが,指導者(広瀬)への「信頼」から生まれる,被支配者(別子従業員)に よる「自由な承認」にもとづくものであるにもかかわらず,盟約書をとることによっ て,そうしたカリスマ的権威が今や消滅してしまったということを自らはっきり宣言し たに等しいからである。M.ウェーバーによれば,「カリスマ的支配は,個人的カリスマ が証しによって「妥当している」−すなわち承認を見いだしている−範囲内で,またそ の間だけ,正当なのであ」

38

る。

問題は,幕末維新から明治初期にかけて住友家の危機を救い,同家の発展に多大の貢 献をなしたカリスマ的「企業者」であった広瀬が,さらに言えば,当時まさにシュンペ ーター的な意味での創造的で逸脱的な「革新者」であった広瀬が,明治

20

年代半ばに はなぜ「カリスマの日常化」のプロセスの進行するままに,最終的には総理人の地位剥 奪=住友家からの追放というかたちで人生の前半の最後を締めくくらざるをえなくなっ たのかということである。

その理由を考察する際には,そもそも企業者=革新の遂行者であるということは職業 ではなく,通常は,ある人の一生を通じて永続する状態ではないという,革新者につい てのシュンペーターの指

39

摘を考慮に入れねばならないであろう。

加えて,日本の社会全体が「富国強兵」「殖産興業」のスローガンのもと,経済の近 代化を推進しながら強力な中央集権国家樹立に向けて急速に進歩しつつあった明治前半 期において,その中に生きる人間が,自分を取り巻くそうした歴史的・社会的・経済的 諸状況の変化の速さと方向を常に先見的に予測しながら,しかも,その変化に対応すべ く,迅速かつ適合的に自己変革していくことは,きわめて難しいことであったと思われ る。

しかし,これらの点を考慮に入れた上で,なおかつ明治初期の,カリスマ的リーダー シップの能力を備えた,革新的企業者であった広瀬が,自らの意識と行動を状況適合的 に自己変革していくことができなくなり,別子職員らからの自由な承認=人格的な信頼 関係を得ることができなくなったのはなぜか,すなわち,広瀬自身の住友家や国家への 忠誠心は依然高かったにもかかわらず,カリスマの日常化のプロセスの進行を阻止でき なかったのはなぜかについて考えてみたい。

そのさい,その理由を,広瀬に忍び寄る「老

40

い」という言葉で簡単に説明してしまう

────────────

38 ウェーバー,M.[5]142ページ。

39 シュンペーターの企業者概念と革新理論については,瀬岡[21]9−18ページを参照。

40 住友グループ広報委員会のホームページ[36](http : //www.sumitomo.gr.jp/history/person/index12.html)

には,硫酸製造・製鉄事業の「失敗が明らかとなっても容易に撤退できなくなった宰平には老いが忍! 広瀬宰平の企業者史的研究(瀬岡誠・瀬岡和子) 463)99

(18)

のではなく,本稿ではとくに,住友のトップリーダーとしての広瀬に固有の経験とそこ

セ ル フ

から彼自身が,おそらく無意識的に作りあげていった「自己イメージ」というものに焦 点を当てて論じてみた

41

い。

その手がかりとして取り上げるのが,引退直後に執筆した自伝『半世物語』である。

同書は,広瀬の「人生の前半」における企業者活動の華々しい事績を述べたものである が,その行間を読むことによって,「人生の後半」のスタート地点に立ったばかりの元 総理人広瀬の内的世界がどのようなものであったのか,またそこから浮かび上がってく る広瀬の自己イメージとはどのようなものであったのか(=住友時代の広瀬は自分自身 をどのようなイメージで見ていたのか)を検討する。

Ⅲ 自伝『半世物語』の分析

既述のように,広瀬は,明治

27

11

15

日に家長友純から「依願解雇」の辞令を 受け取った。最高経営者にまで上りつめた

57

年間の住友時代に幕を引き,人生の前半 から後半への転換点にたった瞬間である。

住友家総理人という地位を失った広瀬は,その直後どのような行動をとったのか。彼 は,辞令を受けた翌月(明治

27

12

月)には紀州湯崎温泉に赴いて自伝『半世物語』

(二巻)の執筆にとりかかっている。そして,同書二巻を一か月あまりという驚異的な 速さで,一気に書き上げたのである。

同書には,家長友純の序文(「明治二十七年十二月 春翠 住友友純撰」)のみなら ず,友純の実兄で当時文部大臣をつとめていた西園寺公

42

望の序(「明治二十八年春壬正

────────────

" び寄っていた」と述べられている。

41 ソネンフェルド,J. は,トップ・リーダーの引退の仕方に影響を及ぼす要因として,リーダーたちの

「自我像(セルフ・イメージ)」に注目している。そして,次のような4つの典型的な引退の仕方を剔出 した。ソネンフェルド,J.[4]。

①君主型引退(自発的に引退したがらない。トップリーダーの地位に付随する「英雄の名声」に強く 固着し,「英雄としての使命」を熱心に果たそうとする)

②将軍型引退(自分を英雄だと認めたい欲望が強い。不承不承引退するが,「権利を主張するチャン スと見るや,たちまち失った指揮権を奪還するために攻め返してくる」(同書221ページ),「強力なリ ーダーを育てておいて,結局そのリーダーに敵対するようになることがしばしばある」(同419ページ)

③大使型引退(「仕事にこのうえない満足が得られたという意を表明し,誇りと喜びを持って引退を むかえる」421ページ。

引退後も取締役として,好調な会社との関係を喜んで続ける。しかし,「将軍型とは違い,後継の経 営者を出し抜いたり,はっきりと頼まれもしないのに助言を押しつけたり,要らぬ口出しをしたりする ことは慎重に避ける。オブザーバーとしてわきからそっと手を貸すことで満足する。」(117ページ)。)

④知事型引退(いさぎよく引退して,これまでと全く別の新天地を開拓する。きれいに引退し,その 後は会社との形式的な関係をほぼすべて絶つ(119ページ))

広瀬の引退は,君主型ないし将軍型に近く,伊庭のそれは,大使型ないし知事型に近いように思われ る。

42 西園寺は,明治2611月に貴族院副議長,翌275月には枢密顧問官兼賞勲局総裁に任ぜられた。

同年7月に日清戦争が始まると,820日には朝鮮に特派大使として派遣され,帰国後の103! 同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)

100(464

(19)

月 陶庵主人公望識竝書」)も付されてい

43

る。同書の発行は,明治

28

3

25

日(奥 付による)であるから,執筆開始から発行までわずか

4

か月しか掛かっていないことに なる。自伝執筆に賭けた広瀬の心的エネルギーの大きさを想像することができよう。

1

アイデンティティの再確認

さて,広瀬はその「緒言」のなかで,執筆の主観的動機を次のように述べている。す なわち,「宰平か三十六歳以後の事蹟は,其の十の半は,多少識者の考察を値するもの あるへきは宰平か敢て自ら信認する所」なので,同書を「我か住友家の家人に頒ちて参 考に供し,其の子孫の戒と為さんとの微意に出てたるもの」というのがそれであ

44

る。

『半世物語』を一読すれば分かるように,同書は,広瀬の「人生の前半」のほぼ全面 的な肯定で満ちあふれている。すなわち,広瀬の華々しい企業者的業績と体験を縦糸 に,それを支えた理念としての主家への忠誠心(「逆命利君謂之忠」)あるいは国益志向 的理念を横糸にして綴られているのである。

大島供清による弾劾追放運動の激化の果てに引退を迎え,人生の後半のスタート地点 に立つことを余儀なくされた広瀬にとって,このような自伝を執筆することは,広瀬自 身のポジティブな自己評価(self-evaluation)と,他者(大島供清ら)によるネガティブ な評価(独断専行型の経営者)の大きな乖離に起因する「認知的不協

45

和」(L. フェステ ィンガー)状態を,広瀬の華々しい企業者的業績を自ら強調することで,多少なりとも 低減するという効果をもったであろう。

つまり,自伝執筆は,総理人時代の広瀬の企業者的能力に対して大島らが下した否定 的評価(「他者評価」)を部分的にではあれ,訂正ないし無効化するという機能を果たし たと考えられる。

あるいはまた,住友家の総理人としてすぐれた業績を上げてきたという広瀬自身のき わめてポジティブな「自己評価」を,自伝の中で具体的な企業者活動に言及しながら強 調し再確認することによって,引退によって傷ついた「自尊感情」(self-esteem)をあ る程度修復するという効果ももっていたであろう。

いずれにしても,広瀬は,自伝執筆によって,自らのアイデンティティの核ともいえ る部分を再確認しようとしたのである。大島らによる「独断専行」型の経営者という否

────────────

! に第2次伊藤内閣の文部大臣に就任した。岩井忠熊[14]70ページおよび巻末「西園寺公望略年譜」

による。

43 草稿を書き上げた広瀬は,家長友純にそれを示して序文を乞い,友純は同年12月に「序」を完成した。

広瀬の草稿と友純の序は,ただちに公望のもとに送られた。同年1223日付の公望から友純への手紙 には,「(上略)広瀬翁草稿は二三日中返璧可仕候。序文も腹稿は既にいたし置候間年内には相認差出可 申候(下略)」(『住友春翠』264ページ)とある。公望の「序」は,この手紙にあるとおり,翌明治28 1月(正月)に識された。『半世物語』viページ。

44 『半世物語』xvii〜xixページ。引用はxixページ。

45 フェスティンガー,L.[2]。

広瀬宰平の企業者史的研究(瀬岡誠・瀬岡和子) 465)101

(20)

定的評価をそのまま受け入れれば,それはすなわち,広瀬がその前半生をかけて築いて きたもの(=自己のアイデンティティ)を喪失することに外ならない。それ故,彼は,

自分が,住友時代を通じて国家や主家への深い忠誠心を経営理念の中核に据えつつ,長 年にわたる実地の経験に基づき,卓越した指導力を発揮し住友家の存続と発展,ひいて は国家の発展に尽くしてきたということを,情熱的に語り,繰り返し強調することで,

自らのアイデンティティを再確認するとともに,しっかりと保持しようとしたのであ る。

換言すれば,自伝『半世物語』の執筆は彼の「存在証明」にほかならなかったのであ る。これを社会心理学のパースペクティブから言い換えれば,広瀬は,自らの企業者的 能力の高さを印象づける方略としての「自己宣伝」(self-promotion)と,住友家の存続

・発展のために献身的努力を傾注し続けてきた経営者であることを印象づける方略とし ての「示範」(exemplification)によって,自己呈示(self-presentation)を行ったのであ

46

る。

2

「英雄的・救世主的自己イメージ」

広瀬が自伝のなかでとくに強調しているのは,自らの行為の主観的動機としての国家 や主家への強い忠誠心である。たしかに,誰もそのことを否定することはできないであ ろう。しかし,それは,彼の住友における企業者活動の主観的動機が,忠誠心のみであ ったということを必ずしも意味しない。

広瀬の内面には,国家や主家への忠誠心とは別の,なんらかの潜在意識があって,そ れが,彼自身は自覚していなくとも,彼の企業者的意思決定に影響を及ぼすことはなか ったのか,こういう視点から彼の自伝を今一度捉え直してみたい。

幕末・維新期から明治

10

年までの広瀬の事績を述べた「半世物語巻之上」では,い くつかの印象的な成功体験が情熱的に語られるばかりか,そのあとに自讃の言葉が続く のである。

たとえば,本店重役らの別子銅山売却案に断固反対し,それを阻止した事件(慶応

4

年)について,広瀬は,「嗚呼宰平か此の時の議にして容れられざりしならば,他の旧 豪商諸家の多数と等しく,我が住友家も亦或は破産絶家となりしやもしるべからず」と 言い,維新後破産した旧家,勢力をなくした旧家の名前を具体的に挙げている。そし て,維新後も歴然たる力をもつものとして,鴻池などともに住友家を挙げ

47

る。

また,明治元年

2

月の,新政府による別子銅山差押え事件を政商的役割遂行によって 見事に解決したことについても,「嗚呼別子の鉱山の今日の盛大を見るを得たるは,宰

────────────

46 「自己宣伝」や「示範」などの主張的な自己呈示行動については,安藤清志[7]を参照。

47 『半世物語』18−22ページ。

同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)

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参照

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