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むすびにかえて−伊庭の引退観−

以上,広瀬宰平の引退過程とその後の彼の意識と行動に焦点を当てて,彼が人生の前 半から後半への移行過程をどのように通過していったのか,また広瀬の引退が家長友純 や後継者伊庭にどのような影響を与えたかについて考察してきた。そのさい,自伝『半 世物語』の内容や製錬所の四阪島移転反対の「具陳書」ならびに「副書」の内容を,広 瀬の「自己イメージ」をキーワードとして企業者史の視点から捉え直してきた。その結 果,人生の後半の入り口に立った広瀬が抱えていた,彼に固有の苦悩を,部分的にでは

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115 広瀬の品川宛書簡「就いては昨日一葉差上候天竜寺再建之ちらし書猶四,五枚差上置候間,伊藤(博 文),井上(馨)両大臣方え徐々御吹込願候」(『品川弥二郎関係文書6』134ページ)による。ただし,

〔カ〕

同書編者による推定では,この広瀬の品川宛書簡の日付は,明治19104日となっている。しか し,天龍寺再建に関わる依頼であるので,明治29年から同31年の間の書簡であると思われる。

116 広瀬[13]「偸間樂事以後之詩及文」(『宰平遺績』巻末所収)14−15ページ。

117 硯石碑の碑文の選者は291代東福寺管長敬冲文幢禅師(1824−1905)である。また,この碑は,峨山の 要請で二百畳の大天井に龍の絵を描いた日本画家鈴木正年を記念する為に建てられたものである。峨山 と鈴木正年との間の龍画をめぐるエピソードについては,黒田天外[19]43−44丁に詳しい。

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あれ,浮かび上がらせることができたように思う。

そこで最後に,彼の後継者伊庭貞剛の引退を取り上げ,彼の引退観がどのようのもの であったかについて考えておきたい。

伊庭は,日露戦争の最中の明治

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日,伊庭体制を支えた

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人の理事(河上 謹一と田辺貞吉)とともに住友家を退職した。同年

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日の送別会(中之島大阪ホ テルにて開催)の席上,15代家長住友吉左衛門友純は,事業経営のトップ

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名が同時 に引退することの住友家にとっての重大性を強調している。「総理事理事の三氏相携へ て同時に要職を去るといふことは,頗る重大の事でありまして,容易に実行すべからざ る事でござります。素より尋常一様の事ではござりません。」それは,友純にとって

「実に遺憾とする処」であったが,伊庭ら

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名の一斉引退行動が,なによりも住友家の

「将来を慮って,少壮有為者のために進路を開かう」という考えに基づいていること,

そのことにとくに「感銘」し,引退を了承したと述べてい

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る。

既述のように,明治

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年の広瀬の引退過程は住友家のおかれた困難な状況と相まっ て家長友純の心的葛藤と緊張をいやが上にも高めるものであった。『住友春翠』には

「友純の憂苦忍耐は想像を絶したものがあったであら

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う」と述べられている。

これに対して,それから

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年後の明治

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年の伊庭の引退は,河上・田辺という理事 を含む

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名同時の引退という,「尋常一様の事」ではなかったにもかかわらず,きわめ てスムーズに,友純の言葉を用いれば,「円満美麗能く理想と一致す

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る」ようなかたち で実行されたのである。

伊庭の引退の特徴は,川田順が「石山の高

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士」としてその見事さを讃えているよう に,彼自身が自らの主体的な意思として自発的に総理事辞任の時期と方法を決定し,実 行したことに求められよう。

では,なぜ伊庭はこのような見事な引退をすることができたのか,どのような引退観 をもっていたのか。

まず第一に,経営者としての伊庭は,「最高の位,最高の禄,之を受くれば久しく止 まるべきでな

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い」という考えをもっていたことを挙げねばならない。辞表提出後,側近 の者たちに住友家のために今しばらくの留任を求められた伊庭は,『史記』を引用して 微笑みながらこう答えたという。「この老人に最早要はない筈である。四時の序,功を 為すものは去る。この上まだわしに働けといふのは則『予に貪るもの』な

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り」。また,

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118『住友春翠』432−435ページ。

119『住友春翠』259ページ。

120『住友春翠』433ページ。

121 川田[18]41−43ページ。

122『幽翁』379ページ。

123『幽翁』195ページ。

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広瀬の引退(明治

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日)直後に新居浜から近江八幡の実家に宛てた書状

(明治

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日付)のなかで叔父広瀬の引退に言及したさい,『老子』を引用し て,「五十七年之寒苦之功は顕ハれ,功なり名遂ケテ,身退クハ天ノ道ナリト云フ 古 語ニ適中,安心喜楽,此上事と存候」と述べてい

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る。この言葉通り,伊庭自身も,明治

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年に総理事となり,同

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年に高等一等に昇進するや,「天ノ道」に従い,近江石山 への引退準備を始め,その

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年後には自らすすんで退身したのであ

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る。

ただし,伊庭にとって,引退とは,自らがトップの経営者の地位をただ潔く去ればよ い,ということではなかった。引退とは,とりもなおさず,後継者問題を首尾良く解決 するということであったのだ。つまり,伊庭の引退の見事さについて指摘すべき第二の 点は,彼が在任中から後継者問題を非常に重視していたということである。

「後継者を得ること」とその人物に「仕事を引継がしむる時期を選ぶこと」が「あら ゆる仕事中の大仕事であ

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る」というのが,経営者としての伊庭の引退観であった。

伊庭は鈴木馬左也(第

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代総理事)という後継者を見出したときの喜びの大きさを,

明治・大正期を代表する浄瑠璃の名人「竹本摂津大掾」(2世竹本越路太夫)が後継者 として越路(のち

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世越路太夫)を見出したときの喜びに重ね合わせて,のちにこう述 べたといわれる。「摂津大掾は越路を得たことによって,始めておのれの仕事が完成し たのだ。越路を見つけ出したとき,摂津がどんなにうれしくおもったことか。想像して もわしは涙ぐまれ

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る」。

それでは,経!!!!!!!!!ではなく,人!!!!!!!!は,引退という,人生に おけるもっとも重要な通過儀礼のひとつをどのように捉えていたのであろうか。

伊庭は,引退のポジティブな側面を強調している。いわく,「退くといふことは,働 かぬといふことではない。その齢に応じて,それぞれの働きがある。退くといふこと,

そのことすでに,老年の働きである」,また,「後継者が若いと云って,譲ることを躊躇 するのは,おのれが死ぬといふことを知らぬものだ」

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と。

こうした言葉は,彼が,引退を境に始まる「人生の後半」に「人生の前半」と同様 の,あるいはそれ以上の重要な意味を付与していたということを示している。つまり,

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124 住友グループ広報委員会のホームページ(http : //www.sumitomo.gr.jp/history/person/index12.html)によ る。

125 伊庭が子息簡一(在ニューヨーク)に宛てた手紙(明治371028日付)のなかで,3か月前の自 らの引退の理由をこう述べている。「(上略)日露戦争ト云ヒ今後経済界ノ波瀾ハイツ如何ナル変化ヲ顕 シ来ルベキ,実ニ日本ノ経済ハ最モ慎重堅固ナラザレバ世界ノ波瀾ヲ乗越難キ事ト確信候故(下略)」

と。『幽翁』191ページ。

126『幽翁』385ページ。

127『幽翁』385ページ。なお,竹本摂津大掾(1836−1917)は,義太夫節の太夫で大阪の人。初め南部太 夫,のち2世越路太夫を襲名,明治36年に受領して摂津大掾となった。美声と上品な芸風で明治期の 代表的名人といわれる。『広辞苑』による。

128『幽翁』383ページ,385ページ。伊庭は「隠居の妙味」を理解しない「米人気質が嫌ひだった」といわ れる。『幽翁』383ページ。

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上述したような伊庭の引退観は,「晩成」ではなく「晩晴」の境地をめざす彼自身の生 き方と不可分に結びついていたということである。『幽翁』によれば,「晩成」とは「事 業のために人生の存在する如く思惟する功利的見解」であるのに対して,「晩晴」とは,

「事業は畢竟人生の一部に過ぎずして,あくまで人生そのものを第一義とし,事業を以 て単に人生を成就するの一手段に過ぎずとする」思想であ

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る。

「晩晴」の境地をめざす人間伊庭にとって,いつ,どのように住友家を辞するかとい うことは,自らの「下りの人生」をどのように開始し,不可避の「老」や「死」に向か ってどのように「個性化の過程」を歩んでいくかということに直結する問題であったの だ。それは,住友を通じて国家社会に貢献するという,経営者伊庭に固有の理念=「国 忠のこころざし」を実現することに勝るとも劣らぬ重要な意味をもっていたのである。

在任中からそのことを明確に認識していた伊庭は,明治

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年,41歳で近江石山に隠棲 の地を購入,総理事就任

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年後の明治

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年,56歳の時には,同地への引退準備を開始 したのである。

要するに,いつ,どのように引退して後継者に道を譲るかということは,住友家の最 高経営者としてのみならず,「晩晴」をめざす人間伊庭貞剛にとっても,きわめて重要 な意味をもつことであったのだ。伊庭の引退の見事さを導いた第

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の要因としてこの点 を強調しておきたい。

伊庭に固有のこうした引退観は,彼の人生の前半過程において,いくつかの要因が絡 み合いながら歴史的に形成されていったと考えられる。とくにその形成過程を企業者史 的に分析する場合には,「人生の前半」において伊庭が人格的・思想的に強い影響を受 けた人物,すなわち彼の青年時代の準拠人であり国学の師であった西川吉輔や,臨済禅 の師であり心友であった橋本峨山の教えや影響を考慮に入れる必要があろう。

しかし,本稿では,より具体的な,ひとつの重要な事実,すなわち,伊庭が自らの引 退のちょうど

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年前に,叔父広瀬の引退過程に住友家のトップの経営者のひとりとし て深くコミットしたという事実に注目してきた。

総理人広瀬の引退過程は伊庭にしてみれば,批判的検討(引退の時期や引退の仕方に ついて)の対象となる格好の先例であったといえよう。叔父広瀬が初代総理事をどのよ うに辞任していくか,また,トップ経営者の引退の仕方が新経営陣による事業運営にい かなる影響を及ぼすのかなど,広瀬の引退の具体的なプロセス全体を,自らもその一部 として実体験したことは,伊庭に固有の引退観の形成に,決定的とはいわないまでも,

決して無視できない影響を及ぼしているように思われるのである。それは非常に貴重な

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129『幽翁』235−236ページ。晩晴とは,「事業を踏み台としては,何人も断じて達するをえぬ人世の最高 所」であり,「真に,「老」に透徹せる達人高士にあらずんば,到底これを極むるを許されざる心境」で ある。同書,236ページ。

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