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密教文化 Vol. 1987 No. 158 002武内 孝善「弘法大師をめぐる人々 (二)――田少貳―― P57-80」

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(二)-田

一 (1) 弘 法 大 師 空 海 ( 以 下、 大 師 と 略 称 す) の 漢 詩 文 を 集 め た﹃ 遍 照 発 揮 性 霊 集 ﹄ ( 以 下、﹃ 性 霊 集 ﹄ と 略 称 す) 十 巻 に は、 仏 事 (2) 法 会 に 際 し て 撰 述 さ れ た 願 文 が 四 十 一 篇 収 め ら れ て い る。 そ の う ち の 二 十 八 篇 は、 葬 儀・ 七 七 日 忌・ 一 周 忌・ 三 周 忌 な ど の 追 善 の 仏 事(3)に 関 す る も の で あ る。 し た が っ て、 こ れ ら の 願 文 は 大 師 が 人 の 死 と 死 後 の 追 善 仏 事 に 対 し て、 い か な る お 考 え を も ち、 ど の よ う に 対 処 な さ れ た か、 ま た 平 安 朝 初 期 に お け る 葬 儀・ 周 忌 法 要 な ど の 仏 事 が い か な る も の で あ っ た か を 知 る 上 で、 貴 重 な 史 料 で あ る と い え る。 (4) こ れ ら 大 師 の 願 文 に つ い て の 論 考 は、 数 篇 数 え あ げ る こ と が で き る が、 そ れ ら は 主 と し て 作 善 の 内 容 な ど を 文 章 に そ っ て 説 明 し た だ け の も の と い っ て よ く、 今 日 個 々 の 願 文 に つ い て の 検 討 が 十 分 に な さ れ て い る と は 思 わ れ な い。 そ れ は さ て お き、 四 十 一 篇 の 大 師 の 願 文 の な か、 も っ と も 注 目 す べ き も の の 一 つ に、 ﹁ 田 少 戴 が 先 批 の 忌 斎 を 設 く る が 為 の 願 文(5)﹂ (原 漢 文、 以 下﹁ 田 少 武 の 願 文﹂ と 称 す) が あ る。 こ れ は 大 同 二 年 ( 八 〇 七) 二 月 十 一 日、 大 宰 府 次 官 の 田 弘 法 大 師 を あ ぐ る 人 々 (二)

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-57-密 教 文 化 中 氏 が 亡 母 の 一 周 忌 法 要 を 営 な ま れ た 時 の 願 文 で あ り、 大 師 の 願 文 中 も っ と も 古 い も の で あ っ て、 そ の 後 作 成 さ れ た 願 文 類 の 雛 形 を な す も の で あ る か ら で あ る。 す な わ ち、 大 師 の 願 文 の 特 徴 は、 大 部 分 の も の が 四 つ の 段 落 か ら な っ て (6) い て、 ほ ぼ 定 型 化-四 段 形 式-さ れ て い る こ と で あ る。 こ の ﹁ 田 少 試 の 願 文 ﹂ は、 そ の 典 型 的 な も の と い っ て よ く、 つ ぎ の ご と き 四 段 か ら な っ て い る。 第 一 段 1ま ず 父 母 の 恩 は 広 大 で あ っ て、 そ の 恩 に 報 い る に は 仏 の 力 を か り な け れ ば 達 成 で き な い と 仏 の 恩 を 述 べ、 第 二 段-つ い で 亡 母 の 生 前 の 徳 を 讃 嘆 し、 他 界 の 悲 し み と 忽 ち に し て 一 周 忌 が 巡 っ て 来 た こ と を 述 べ る。 ニ ニ 第 三 段-﹁ 是 を 以 っ て 大 同 二 年 仲 春 十 一 日 ﹂ と 法 会 の 期 日 と、 菩 提 を 弔 わ ん が た め に 千 手 観 音 を 中 心 と す る 十 三 尊 図 を 図 絵 し、 ﹃ 法 華 経 ﹄ 八 巻 ・ ﹃ 般 若 心 経 ﹄ 二 巻 を 書 写 し て 斎 会 を 設 け、 供 養 し た 旨 を 述 べ、 第 四 段-最 後 に、 こ の 功 徳 に よ っ て 一 方 で は 亡 母 の 霊 が 速 や か に 成 仏 せ ん こ と を 願 い、 一 方 で は 現 世 に お け る 父 の 長 寿 と 聖 朝 の 安 穏 ・ 天 下 泰 平 を 祈 り、 一 切 の 有 情-生 き と し 生 け る も の す べ て-が 悉 く 菩 提 を 証 せ ん こ と を 念 じ て お ら れ る。 特 に、 こ の よ う な 願 文 が 入 唐 帰 朝 後 四 ケ 月 た ら ず に し て 作 成 さ れ て い る こ と、 千 手 千 眼 大 悲 菩 薩 と 四 摂 八 供 養 菩 薩 か ら な る 千 手 観 音 曼 茶 羅 が 作 成 さ れ て い る こ と、 ﹃ 法 華 経 ﹄ ﹃ 般 若 心 経 ﹄ と い っ た 大 乗 経 典 が 書 写 さ れ て い る こ と な ど (7) は、 大 師 の 信 仰 の 上 か ら、 ま た 教 学 ・ 密 教 美 術 を 考 え る 上 か ら も 注 目 し て よ い と 考 え る。 二

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-58-と こ ろ で、 こ の 願 文 の 施 主 で あ る 田 少 戴、 つ ま り 大 宰 府 次 官 で あ る 田 中 氏 に つ い て は、 そ の 名 前 を は じ め、 い か な る 人 物 で あ っ た か に つ い て も、 い ま だ 明 ら か に さ れ て い な い。 む し ろ ﹁ 伝 未 詳 ﹂ と 決 め つ け ら れ て、 精 査 さ れ な か っ (8) た 形 跡 さ え み ら れ る。 そ れ は と も あ れ、 こ こ で ﹁ 田 少 戴 し に つ い て の 先 学 の 見 解 を 二 ・ 三 み て お き た い。 ま ず、 ﹃ 文 化 史 上 よ り 見 た る 弘 法 大 師 伝 ﹄ は、 得 仁 撰 ﹃ 弘 法 大 師 年 譜 ﹄ 第 四 の 大 同 二 年 丁 亥 ﹁ 是 年 二 月 十 一 日。 師 在 二 鎮 西 一 為 二 田 中 氏 一 修 二 先 亡 周 忌 こ 条 の 頭 註 (9) 類 史 ( 三 十 五 イ) 云。 延 暦 二 十 五 年。 出 二 従 五 位 下 田 中 朝 臣 八 月 麻 呂 名。 恐 是 人 欺。 尚 侯 二 後 考。 を 引 用 し て、 つ ぎ の ご と く 疑 問 を 呈 し て い る。 す な わ ち、 こ の 類 史 云 云 と 云 ふ の は、 類 聚 国 史 第 計 五 の 桓 武 天 皇 崩 御 の 條 下 で あ っ て、 そ れ に は、 従 五 位 下 田 口 朝 臣 息 継、 田 中 朝 臣 八 月 麻 呂 六 位 以 下 六 人 為 二 養 役 夫 司 一 と あ る の が そ れ で あ る が、 単 に か う あ る か ら と 云 ふ て 大 師 入 唐 帰 朝 時 代 に 筑 紫 に 居 た 田 少 戴 と 解 す る の も 無 理 か (10) も 知 れ な い。 と 述 べ、 ま た (11) 恐 ら く は 太 宰 府 附 近 に 居 住 し て 居 た 土 豪 で あ ろ う。 と 記 し て い る。 確 か に、 大 同 二 年 に 近 い 時 期 の 資 料 で は あ る が、 田 中 朝 臣 八 月 麻 呂 が 大 宰 少 薫 で あ っ た と か、 大 宰 少 式 を 歴 任 し た と か、 大 宰 府 と の 関 係 が 明 記 さ れ て い な い 以 上、 こ の ﹃ 類 聚 国 史 ﹄ の 記 事 だ け を も っ て、 た だ ち に 八 月 麻 呂 を ﹁ 田 少 戴 ﹂ と 解 す る こ と は で き な い。 第 二 に、 松 崎 英 一 氏 は ﹁ 平 安 初 期 の 帥 弐 ﹂ の な か で、 弘 法 大 師 を め ぐ る 入 々 口

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-59-密 教 文 化 願 文 中 に﹁ 先 批 田 中 氏 (中 略) 大 同 二 年 仲 春 十 一 日﹂ と あ る の で 田 少 弐 が 先 批 田 中 氏 の た め 大 同 二 年 二 月 十 一 日 忌 斎 を 設 け た こ と、 田 少 弐 の 亡 母 が 田 中 氏 で あ っ た こ と が 知 ら れ る。 田 少 弐 が 即 田 中 姓 で あ る か は 一 応 疑 っ て か か る べ き で あ ろ う か ら、 可 能 性 と し て は 田 中 朝 臣 ・ 田 口 朝 臣 な ど が 考 え ら れ、 田 中 浄 人 ・ 田 口 息 継 な ど が 候 補 に (12) あ げ ら れ よ う が 決 め 手 に 欠 け る。 と 述 べ て お ら れ る。 松 崎 氏 の 云 わ れ る ご と く、 田 少 武 が 即 田 中 姓 で あ る か 否 か を 疑 っ て か か る べ き で あ る こ と に は 私 (13) も 同 感 で あ る が、 こ の 場 合、 願 文 中 に﹁ 先 批 田 中 氏﹂ と 明 記 さ れ て い る こ と、 後 に 詳 述 す る﹃ 千 手 儀 軌﹄の奥書に ﹃少 戴 田 中 朝 臣﹄ と 記 さ れ て い る こ と な ど か ら、 私 は﹁ 田 少 戴﹂ は 田 中 姓 で よ い と 考 え る。 し た が っ て、 松 崎 氏 が 決 め 手 に 欠 け る と し な が ら 田 少 戴 の 候 補 と し て あ げ ら れ た 田 中 浄 人 ・ 田 口 息 継 の う ち、 田 口 息 継 は 候 補 か ら は ず し て よ (14) い で あ ろ う。 一 方、 田 中 浄 人 に つ い て は 後 述 す ゐ よ う に、 そ の 経 歴 か ら 私 は. 田 少 式 L と は み な さ な い。 第 三 に、 高 木 諦 元 先 生 は ﹁ 兜 率 の 山 ・ 高 野 へ の 歩 み 弘 法 大 師 の 生 涯 ﹂ の な か で、 大 師 が 筑 紫 に 帰 り 着 い た と き、 大 宰 府 の 帥 ( 長 官) は 中 務 卿 を か ね た 伊 予 親 王 で あ っ た が (中 略) 次 官 補 と も い う べ き 小 弐 は 二 人 い て、 そ の 一 人 は 延 暦 二 十 三 年 正 月 に 赴 任 し た 藤 原 朝 臣 藤 嗣 で あ り、 他 の 一 人 が 田 中 朝 臣 弐 家 郎 (15) 君 で あ っ た。 と 記 し て お ら れ る。 後 文 か ら、 こ の 田 中 朝 臣 弐 家 郎 君 を ﹁ 田 少 戴 ﹂ と み な し て お ら れ る こ と が わ か る。 こ の 田 中 朝 臣 弐 家 郎 君 は、 お そ ら く ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ の 奥 書 (16) ⋮⋮付 傳 少 試 田 中 朝 臣 式 家 郎 君 就 図 書 頭 惟 良 貞 道 宿 禰 学 問 ⋮⋮ に 基 づ い て 記 さ れ た も の と 思 わ れ る が、 後 述 す る ご と く、 私 は 奥 書 全 体 の 文 意 か ら﹁ 少 武 田 中 朝 臣﹂ と﹁ 試 家 郎 君﹂

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-60-と を 切 り は な し て 解 し た 方 が よ い と 考 え て お り、 し た が っ て 田 中 朝 臣 弐 家 郎 君 な る 人 物 は 実 在 し な か っ た と 考 え る。 以 上 の よ う に、 ﹁ 田 少 武 ﹂ の 人 物 比 定 に つ い て、 田 中 朝 臣 八 月 麻 呂 ・ 田 中 朝 臣 浄 人 ・ 田 中 朝 臣 弐 家 郎 君 と い っ た 見 解 の 相 違 が み ら れ た。 私 も、 ﹁ 田 少 薫 ﹂ を 特 定 で き る だ け の 史 料 を 持 ち あ わ せ て い る わ け で は な い が、 今 日 見 ら れ る 史 料 を 検 討 し、 現 存 す る 史 料 か ら は こ の 人 が ﹁ 田 少 武 ﹂ に 一 番 近 い 人 物 で あ ろ う と 考 え た 一 端 を、 上 に 指 摘 し た 点 に 留 意 し つ つ、 論 じ る こ と に し た い。 三 (17) (18) は じ め に、 大 宰 府 の 構 成 員 と そ の 位 階 に つ い て み て お く こ と に す る。﹃ 令 義 解 ﹄ 巻一 職 員 令 第 二 ・ 官 位 令 第 一 に 基 づ い て、 大 宰 府 の 構 成 員、 お よ び そ の 官 職 に 相 当 す る 位 階 を 記 す と つ ぎ の ご と く な る。 主 神 一 人 正 七 位 下 帥 一 人 四 品 ・ 従 三 位 大 戴 一 人 正 五 位 上 少 武 二 人 従 五 位 下 大 監 二 人 正 六 位 下 少 監 二 人 従 六 位 上 大 典 二 人 正 七 位 上 少 典 二 人 正 八 位 上 大 判 事 一 人 従 六 位 下 少 判 事 一 人 正 七 位 上 大 令 史 一 人 大 初 位 上 少 令 史 一 人 大 初 位 下 大 工 一 人 正 七 位 上 少 工 二 人 正 八 位 上 博 士 一 人 従 七 位 下 陰 陽 師 一 人 正 八 位 上 弘 法 大 師 を め ぐ る 人 々 (二)

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-61-密 教 文 化 医 師 二 人 正 八 位 上 竿 師 一 人 正 八 位 上 防 人 正 一 人 正 七 位 上 防 人 佑 一 人 正 八 位 上 防 人 令 史 一 人 大 初 位 下 主 船 一 人 正 八 位 上 主 厨 一 人 正 八 位 上 史 生 廿 人 こ の な か、 特 に 留 意 す べ き こ と は 大 武 と 少 武 の 定 員 で、 大 武 は 一 人、 少 戴 は 二 人 で あ っ た こ と、 ま た そ の 位 階 は 大 戴 (19) (20) が 正 五 位 上、 少 武 が 従 五 位 下 相 当 で あ っ た こ と で あ る。 こ れ よ り、 従 五 位 下 に 相 当 す る 田 中 某 な る 人 物 を ﹁ 田 少 武 ﹂ と し て 捜 し 出 せ ば よ い こ と に な る。 つ ぎ に、 大 宰 府 官 人 の 任 官 記 録 を み て 行 き、 大 同 二 年 当 時、 確 か に 田 中 某 な る 大 宰 少 武 が 存 在 し た か 否 か を 確 認 し て (21) お く こ と に す る。 ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ ﹃ 日 本 紀 略 ﹄ ﹃ 類 聚 国 史 ﹄ な ど の 史 料 に よ っ て、 延 暦 十 六 年 (七 九 七) か ら 弘 仁 三 年 ( 八 一 二) (22) に か け て の 大 宰 府 官 人 ・ 官 職 に 関 す る 記 録 を 年 表 風 に 記 す と、 つ ぎ の ご と く な る。 延 暦 一 六 ( 七 九 七) 2・9 参 議 正 四 位 下 藤 原 雄 友 を 大 宰 帥 に 任 ず。 (後 五 ・ 10、 後 二 十 一 ・100) 〃 一 七 ( 七 九 八) 4・15 参 議 大 宰 大 武 石 川 真 守 致 仕 す。( 公 ・ 73) 〃 一 八 ( 七 九 九) 1・29 従 四 位 下 藤 原 葛 野 麻 呂 を 大 宰 大 武 に、 従 五 位 下 石 川 清 直 を 大 宰 少 凱 に 任 ず。 (後八・16) (23) 〃 一 九 ( 八〇〇) こ の 年 従 五 位 下 大 伴 彌 嗣 を 大 宰 少 武 に 任 ず。 ( 類 六 十 六 ・ 脚) 〃 二 〇 ( 八〇一)7・ 従 四 位 下 藤 原 仲 成 を 大 宰 大 武 に 任 ず。 ( 公 ・ 82) (24) 〃 二 三 ( 八 〇 四) 1・24従 五 位 下 藤 原 藤 継 を 大 宰 少 武 に 任 ず。 ( 後 十 二 ・ 30) 大 同 元 ( 八 〇 六) 1・28参 議 正 四 位 下 菅 野 真 道 を 大 宰 大 武 に 任 ず。 ( 後 十 三 ・ 51)

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-62-(25) 唐 朝、 日 本 国 使 大 宰 大 監 高 階 遠 成 を 中 大 夫 試 太 子 中 允 と す。 (朝 野 群 載 20) 2・1 3大 宰 大 武 の 相 当 位 を 改 め て 従 四 位 下 と す。 ( 後 十 三・5 2) 5・9三 品 伊 予 親 王 を 中 務 卿 兼 大 宰 帥 に 任 ず。 (後 十 三・5 9) 5・1 8正 四 位 下 藤 原 縄 主 を 従 三 位 に 叙 し、 大 宰 帥 に 任 ず。 ( 公・7 9) (26) 10・2 2空 海、 遣 唐 判 官 大 宰 大 監 高 階 遠 成 に 付 し て ﹃ 新 請 来 経 等 目 録 ﹄ を 進 献 す。 ( 同 目 録) (27) 〃 二 ( 八 〇 七) 2・11空 海、 田 少 武 の た め に 願 文 を 撰 す。 (性 霊 集 7) 〃 三 ( 八 ○ 八) 5・21従 五 位 下 紀 長 田 麻 呂 を 大 宰 少 武 に 任 ず。 (後 十 七・71) 11・27従 五 位 上 多 治 比 今 麻 呂 を 大 宰 少 武 に 任 ず。 (後 十 七・7 9) 弘 仁 元 (八 一 〇) 9・19四 品 阿 保 親 王 を 大 宰 権 帥 に 任 ず。 ( 後 二 十・ 90) 〃 三 (八 一 二) 1・12式 部 卿 三 品 葛 原 親 王 を 大 宰 帥 に、 参 議 従 四 位 上 藤 原 藤 継 を 大 宰 大 武 に、 従 五 位 下 藤 原 葛 成 を 大 宰 少 武 に 任 ず。 (後 二 十 二・111) こ の な か、 問 題 と な る の は、 延 暦 十 八 年 ( 七 九 九) 一 月 二 十 九 日 大 宰 少 武 に 任 官 さ れ た 石 川 朝 臣 清 直、 同 十 九 年 に 任 官 さ れ た 大 伴 宿 禰 彌 嗣、 同 二 十 三 年 一 月 二 十 四 日 に 任 官 さ れ た 藤 原 朝 臣 藤 継、 こ の 三 人 の 動 向 で あ る。 ま ず、 経 歴 の よ く わ か る 藤 原 朝 臣 藤 継 に つ い て み て お く。 藤 継 は 中 務 大 輔 鷹 取 の 二 男 で 左 大 臣 魚 名 の 孫 に あ た る。 延 暦 十 二 年 ( 八 九 三) 五 月 常 陸 豫 に 任 ぜ ら れ、 同 十 六 年 十 一 月 十 五 日 中 務 少 丞、 同 十 八 年 二 月 二 十 日 式 部 大 丞、 同 年 五 月 十 日 従 五 位 下 と な り、 同 二 十 年 五 月 十 日 因 幡 守、 同 二 十 二 年 十 月 十 五 日 権 右 少 弁 を 歴 任 し、 同 二 十 三 年 正 月 二 十 四 (28) (29) 日 大 宰 少 式 に 任 ぜ ら れ た。 こ の 少 試 任 官 の 記 録 は ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ に よ る も の で あ り、 ﹃ 公 卿 補 任 ﹄ に は ﹁ 大 宰 大 武 ﹂ と あ (30) り、 ﹃ 弘 法 大 師 行 化 記 ﹄ 所 収 の 大 同 二 年 ( 八 〇 七) 四 月 二 十 九 日 付 大 宰 府 牒 に は ﹁ 大 武 従 四 位 下 藤 原 朝 臣 藤 嗣 ﹂ と あ っ 弘 法 大 師 を め ぐ る 人 々 (二)

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-63-密 教 文 化 て、 少 武 は 大 武 の 誤 り で は な い か と も 考 え ら れ る。 し か し、(一)延 暦 二 十 四 年 正 月 の 藤 嗣 の 位 階 は、 少 式 の 位 階 に 相 当 す る﹁ 従 五 位 下﹂ で あ っ て 大 試 に 相 当 す る﹁ 正 五 位 上﹂ で は な い こ と、(二)大 試 に は 大 同 元 年 ( 八 〇 六) 一 月 二 十 八 日 参 (31) 議 で 正 四 位 下 の 菅 野 朝 臣 真 道 が 任 官 さ れ て お り、 こ れ 以 前 に 藤 継 が 大 試 を 辞 任 し た と か、 ま た 他 の 官 に 遷 任 さ れ た 記 録 が み あ た ら な い こ と か ら、 延 暦 二 十 三 年 正 月 の 藤 継 の 任 官 は 大 宰 少 試 で あ っ た と 考 え 魏。(32)そ の 後 ・ 藤 継 は 延 暦 二 十 五 年 ( 大 同 元 年・ 八 〇 六) 五 月 十 八 日 従 五 位 上、 同 年 六 月 二 十 九 日 に は 従 四 位 上 に 昇 り、 大 同 三 年 ( 八〇 八) 正 月 二 十 一 (33) 日 右 京 大 夫 を 兼 ね、 同 年 五 月 二 十 一 日 兵 部 大 輔 に 任 ぜ ら れ た。 同 じ 日 紀 長 田 麻 呂 が 藤 継 に 替 っ て 大 宰 少 武 に 任 ぜ ら れ (34) て い る。 こ れ よ り、 大 同 二 年 二 月 当 時、 藤 嗣 が 大 宰 少 武 で あ っ た こ と は、 ほ ぼ 間 違 い な い で あ ろ う。 つ ぎ に、 延 暦 十 八 年 (七 九 九) 一 月 に 任 官 さ れ た 石 川 朝 臣 清 直 で あ る が、 清 直 に 関 す る 記 録 は き わ め て 少 な い。 わ ず (35) (36) か に、 延 暦 十 八 年 一 月 二 十 九 日 従 五 位 下 で 大 宰 少 武 に 任 ぜ ら れ、 大 同 元 年 二 月 十 六 日 左 少 弁 に 転 じ、 弘 仁 元 年 ( 八 一 〇) (37) (38) 九 月 十 日 従 四 位 下 に 昇 り、 同 三 年 九 月 二 十 一 日 卒 去 し た こ と が、 知 ら れ る に す ぎ な い。 大 同 元 年 二 月 に 左 少 弁 に 任 ぜ ら れ て い る こ と か ら、 大 同 二 年 二 月 当 時、 清 直 が 大 宰 少 式 で な か っ た こ と は 確 か で あ る。 し か し、 こ こ で 考 え て お か ね ば な ら な い こ と は、 少 武 の 在 任 期 間 で あ る。 清 直 は 延 暦 十 八 年 一 月 に 少 武 に 任 ぜ ら れ、 大 同 元 年 に 左 少 弁 に 転 じ て い る こ と か ら、 こ の 間 ず っ と 少 式 で あ っ た と す る と 足 か け 八 年 に な り、 在 任 期 間 が こ の よ う に 長 期 に わ た っ た か 否 か が 問 題 で あ る。 周 知 の ご と く、 ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 九・十・十 一、 す な わ ち 延 暦 十 九 年 正 月 か ら 同 二 十 二 年 十 二 月 ま で は 散 侠 し て お り、 こ の 間 の こ と を 確 か め る こ と が で き な い の は 残 念 で あ る が、 先 に み た 藤 原 朝 臣 藤 継 の 経 歴 か ら 推 察 し (39) て、 三 な い し 四 年 の 任 期 で 交 替 し た の で は な い か と 考 え る。 と す る と、 延 暦 十 八 年 一 月 か ら 三 な い し 四 年 後 は 同 二 十 二・二 十 三 年 と な り、 ち ょ う ど 同 二 十 三 年 一 月 に 藤 原 朝 臣 藤 継 が 大 宰 少 試 に 任 ぜ ら れ て お り、 し た が っ て 清 直 に 替 っ

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-64-て 藤 継 が 任 ぜ ら れ た と み る こ と は で き な い で あ ろ う か。 も し こ の よ う な 見 方 が 許 さ れ る な ら ば、 大 宰 少 式 二 人 の う ち の 一 人 は、 石 川 朝 臣 清 直 延 暦 十 八 年 一 月 二 十 九 日 任→藤 原 朝 臣 藤 継 延 暦 二 士 二 年 一 月 二 十 四 日 任→ 紀 朝 臣 長 田 麻 呂 大 同 三 年 五 月 二 十 一 日 任 (40) と 次 第 し て 受 け 継 が れ て い っ た こ と が 考 え ら れ る。 最 後 に、 大 伴 宿 禰 彌 嗣 で あ る が、 彌 嗣 に 関 す る 記 録 も 必 ず し も 多 い と は い え な い。 彌 嗣 は 従 三 位 伯 麻 呂 の 男 で、 延 (41) (42) 暦 十 九 年 ( 八〇〇) 従 五 位 下 で 大 宰 少 武 と な り、 大 同 三 年 (八 ○ 八) 八 月 二 十 二 日 中 務 少 輔 に、 弘 仁 五 年 ( 八 一 四) 九 月 二 (43) 十 五 日 大 蔵 少 輔 に 任 ぜ ら れ た。 同 七 年 従 五 位 上、 同 十 三 年 正 五 位 下 に 昇 り、 同 十 四 年 従 四 位 下・越 後 守 と な り、 同 年 (44) 七 月 二 十 二 日 六 十 三 歳 で 卒 去 し て い る。 延 暦 十 九 年 に 大 宰 少 武 に 任 ぜ ら れ て か ら、 大 同 三 年 八 月 に 中 務 少 輔 に な る ま で、 足 か け 九 年 が 経 過 し て お り、 彌 嗣 が こ の 間 ず っ と 少 武 を 勤 め て い た と 考 え る こ と は、 清 直 の 場 合 と 同 じ く 少 し 無 理 が あ る と 思 わ れ る。 そ こ で、 清 直 と 同 じ よ う に 三 な い し 四 年 で 交 替 し た と 考 え る と、 大 同 三 年 ( 八〇 八) 十 一 月 二 十 (45) 七 日 に 多 治 比 真 人 今 麻 呂 が 大 宰 少 武 に 任 ぜ ら れ て い る こ と か ら、 二 人 の 少 武 の う ち、 も う 一 人 の 少 武 は、 大 伴 宿 禰 彌 嗣 延 暦 十 九 年 任→□□□□□□□□-→多 治 比 真 人 今 麻 呂 大 同 三 年 十 一 月 二 十 七 日 任 と 次 第 し て 受 け 継 が れ て い っ た の で は な い か と 考 え る。 こ の よ う な 理 解 が 正 し け れ ば、 こ の 空 欄 に 入 る の は、 と り も な お さ ず、 大 同 二 年 二 月 に 亡 母 の 一 周 忌 法 要 を 行 な っ た ﹁ 田 少 武 ﹂ と い わ れ る 田 中 某 し か 考 え ら れ な い。 以 上 の 考 察 に、 後 述 す る ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ 奥 書 の 記 述 を 考 え 合 せ る と、 大 同 二 年 二 月 当 時、 田 少 式 す な わ ち 田 中 朝 臣 某 な る 大 宰 少 式 が 実 在 し て い た こ と は、 ほ ぼ 間 違 い な い と 考 え る。 弘 法 大 師 を め ぐ る 人 々 (二)

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-65-密 教 文 化 四 田 中 朝 臣 某 な る 大 宰 少 武 が 実 在 し て い た こ と が 確 か め ら れ た の で、 で は 田 中 朝 臣 某 と は い っ た い 誰 で あ っ た の か を、 以 下 に 検 討 し て 行 き た い。 延 暦 年 間 ( 七 八 二-八 〇 六) か ら 承 和 年 間 ( 八 三 四-四 八) に か け て の 田 中 朝 臣 の 姓 を も つ 人 物 を、 ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ ﹃ 続 日 本 後 紀 ﹄ な ど か ら 抽 出 す る と、 田 中 朝 臣 吉 備 田 中 朝 臣 浄 人 田 中 朝 臣 大 魚 田 中 朝 臣 清 人 田 中 朝 臣 八 月 麻 呂 田 中 朝 臣 千 尋 田 中 朝 臣 真 氏 田 中 朝 臣 許 侶 継 田 中 朝 臣 真 成 (46) (47) (48) (49) (50) の 九 名 を み い だ す こ と が で き た。 こ の な か、 千 尋 ・ 真 氏 ・ 許 侶 継 ・ 真 成 の 四 名 は、 天 長 二 年 ( 八 二 五) 以 降 に 記 録 が 見 ら れ る 人 物 で あ る か ら 一 応 は ぶ き、 残 り 五 名 の 事 跡 を、 延 暦 元 年 ( 七 八 二) か ら 弘 仁 年 間 ( 八 一 〇-八 二 三) に 限 っ て 年 (51) 表 風 に 列 挙 す る と、 つ ぎ の ご と く な る。 延 暦 四 ( 七 八 五) 1・9従 五 位 上 田 中 朝 臣 吉 備 を 正 五 位 下 と す。 ( 続 三 八・504) 〃 七 ( 七 八 八) 11・25正 六 位 上 田 中 朝 臣 浄 人 を 従 五 位 下 と す。 ( 続 三 九・532) 〃 八 ( 七 八 九) 1・6正 六 位 上 田 中 朝 臣 大 魚 を 従 五 位 下 と す。 ( 続 四 〇・533) 4・14従 五 位 下 田 中 朝 臣 浄 人 を 伊 勢 介 と す。 ( 続 四 〇・535) 〃 九 ( 七 九 〇) 3・26従 五 位 下 田 中 朝 臣 清 人 を 下 総 介 と す。( 続 四 〇・544) 〃 一 六 ( 七 九 七) 2・9従 五 位 下 田 中 朝 臣 浄 人 を 造 酒 正 と す。 ( 後 五・10)

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-66-2・15従 五 位 下 田 中 朝 臣 清 人 を 宮 内 少 輔 と し、 従 五 位 下 田 中 朝 臣 大 魚 を 造 酒 正 と す。 ( 後 五・11-12) 〃 二 三 ( 八 〇 四) 4・5従 五 位 下 田 中 朝 臣 八 月 麻 呂 を 右 衛 士 佐 と す。 (後 十 二・31-32) 大 同 元 ( 八 〇 六) 1・28右 衛 士 佐 従 五 位 下 田 中 朝 臣 八 月 麻 呂、 上 総 権 介 を 兼 ね る。 ( 後 十 三・50-51) 3・18従 五 位 下 田 中 朝 臣 八 月 麻 呂 ・ 田 口 朝 臣 息 継、 六 位 以 下 六 人 を 養 役 夫 司 と す。 ( 後 十 三・54) 4・12右 衛 士 佐 従 五 位 下 田 中 朝 臣 八 月 麻 呂、 越 後 守 を 兼 ね る。 (後 十 三・56) 弘 仁 元 ( 八一〇) 9・27従 五 位 下 田 中 朝 臣 清 人 を 造 西 寺 長 官 と す。 (後 二 十・90) 10・2従 五 位 下 田 中 朝 臣 清 人 を 左 京 亮 と す。 ( 後 二 十・92) 11・22従 五 位 下 田 中 朝 臣 清 人 を 従 五 位 上 と す。 (後 二 十・92) 〃 二 ( 八 一 一) 7・23従 五 位 上 田 中 朝 臣 浄 人 を 大 蔵 少 輔 と す。 ( 後 二 十 一・103) 右 の な か、 延 暦 十 六 年 二 月 九 日 条 に み ら れ る 田 中 朝 臣 浄 人 と、 同 年 二 月 十 五 日 条 に み ら れ る 田 中 朝 臣 清 人 は、 こ の (52) 時 代 ﹁ 浄 ﹂ と ﹁ 清 ﹂ と は 史 料 に 混 同 さ れ て 使 わ れ る 例 が 多 い こ と、 同 一 人 物 と み て 位 階 に 矛 盾 が 生 じ な い こ と、 同 じ (53) 日 付 に 二 人 の 名 前 が 見 ら れ な い こ と な ど か ら、 同 一 人 物 で あ る と 考 え る。 す る と、 田 中 朝 臣 の 候 補 は 五 名 で な く、 吉 備 ・ 清 ( 浄) 人 ・ 大 魚 ・ 八 月 麻 呂 の 四 人 に し ぼ ら れ て く る。 こ の 四 名 の な か、 田 中 朝 臣 吉 備 は 延 暦 四 年 一 月 九 日 に一 度 だ け、 従 五 位 下 に 叙 せ ら れ た 記 事 し か 見 ら れ な い。 ま た 田 中 朝 臣 大 魚 に し て も、 延 暦 八 年 一 月 六 日 従 五 位 下 と な り、 同 十 六 年 二 月 十 五 日 造 酒 正 に 任 ぜ ら れ た 記 録 だ け で、 し か も 大 同 二 年 か ら 十 年 も 前 の こ と で あ る か ら、 ﹁ 田 少 武 ﹂ に 結 び つ く 確 率 は き わ め て 薄 い と 思 わ れ る。 と す る と、 残 る の は 田 中 朝 臣 清 ( 浄) 人 と 田 中 朝 臣 八 月 麻 呂 の 二 人 で あ る。 こ の 二 人 の 経 歴 か ら、 い ず れ が 大 宰 少 武 に 任 ぜ ら れ た 人 物 と し て ふ さ わ し い か を 検 討 し た 結 果、 私 は 八 月 麻 呂 が よ り ふ さ わ し い 人 物 で あ る と 考 え る。 そ れ は 弘 法 大 師 を め ぐ る 人 々 (二)

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-67-密 教 文 化 つ ぎ の 三 つ の 理 由 に よ る。 第 一 は、 八 月 麻 呂 の 記 録 は 延 暦 二 十 三 年 ・ 大 同 元 年 と 大 同 二 年 に 近 い 年 代 に 集 中 し て 出 て き、 そ の 位 階 は 従 五 位 下 で 大 宰 少 武 の そ れ に 相 当 し、 ま た 右 衛 士 佐 ・ 兼 上 総 権 介 ・ 兼 越 後 守 な ど の 経 歴 か ら み て、 大 宰 少 武 に 任 ぜ ら れ て も 不 思 議 で な い と 考 え る こ と で あ る。 第 二 は、 八 月 麻 呂 の 最 後 の 記 録 は 大 同 元 年 四 月 十 二 日 兼 越 後 守 に 任 ぜ ら れ た も の で あ る が、 ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 三 大 同 元 年 五 月 一 日 の 条 に、 (54) 従 五 位 上 百 済 王 聰 哲 為 二 越 後 守 一 と あ り、 こ の 日 百 済 王 聰 哲 が 正 式 に 越 後 守 に 任 ぜ ら れ て い る こ と か ら、 五 月 一 日 以 降 に 八 月 麻 呂 が 大 宰 少 武 に 任 ぜ ら れ た こ と は 十 分 考 え ら れ る こ と で あ る。 第 三 は、 清 (浄) 人 に つ い て で あ る が、 延 暦 十 六 年 二 月 十 五 日 か ら 弘 仁 元 年 ま で の 十 四 年 間、 清 人 に 関 す る 記 録 が 全 く み ら れ な い こ と か ら こ の 間 の 動 静 が 不 明 で あ る。 そ の 官 位 を み る に、 位 階 は 延 暦 七 年 に 従 五 位 下 と な り、 弘 仁 元 年 十 一 月 に 従 五 位 上 に の ぼ っ て い る の で、 大 同 年 間 は 少 武 の そ れ に 相 当 す る。 し か し、 官 職 は 延 暦 の 前 半 に は 伊 勢 介 ・ 下 総 介 と 地 方 官 を つ と め た が、 延 暦 十 六 年 以 降 は 造 酒 正 ・ 宮 内 少 輔 ・ 造 西 寺 長 官 ・ 左 京 亮 ・ 大 蔵 少 輔 と、 も っ ぱ ら (55) 都 に お け る 官 職、 つ ま り 京 官 に だ け 任 ぜ ら れ て い る こ と か ら、 遠 隔 の 地 の 大 宰 少 式 に 任 ぜ ら れ た と は 考 え が た い こ と で あ る。 以 上 の こ と か ら、 私 は 今 日 残 さ れ た 史 料 に み ら れ る 田 中 朝 臣 の な か で は、 田 中 朝 臣 八 月 麻 呂 が ﹁ 田 少 武 ﹂ に 一 番 近 い 人 物 で あ る と 考 え る。

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-68-五 最 後 に、 最 近 知 り え た ﹁ 田 少 武 ﹂、 お よ び 入 唐 帰 朝 後 の 九 州 に お け る 大 師 を 知 る 手 懸 り と も な る 史 料 を 紹 介 す る こ と に し た い。 そ の 史 料 と は、 宝 菩 提 院 所 蔵 の ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ 奥 書 で あ る。 こ の ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ は、 昭 和 二 年 十 一 月 六 日 か ら 十 二 日 ま (56) で、 恩 賜 京 都 博 物 館 を 会 場 に 行 な わ れ た 第 十 三 回 大 蔵 会 の 陳 列 目 録 に 収 め ら れ て い る も の で、 そ の 奥 書 と は つ ぎ の ご と き も の で あ る。 す な わ ち、 蔵 本 批 云、 見 説 此 唐 梵 封 書 大 悲 喩 伽 本 末 爾 巻、 並 是 高 雄 空 漿 和 上、 以 二 大 同 初 -従 レ 唐 蹄 二 大 宰 一自 書 レ 之 付 二 傳 少 武 田 中 朝 臣 一、 武 家 郎 君 就 二 図 書 頭 惟 良 貞 道 宿 禰 一学 問、 伍 言 次 將 レ 奉 二 宿 禰 一、 く く 命 二 詮 暉 法 王 子 一□収 二 山 坊 一、 圓 珍 面 承 二 宿 禰 一、 海 要 覧 者 任 意、 以 二 今 暉 子 没 一無 レ 人 収 レ 之、 故 以□納 二珍 所 一、 ( マ・) 元 慶 五 年 十 七 目 沙 門 圓 珍 記 (朱 書) ﹃ 延 久 四 年 九 月 十 一 目 奉 受 了 遅 轡 同 受 宰 生 君 ﹄ (57) 保 延 六 年 閏 五 月 十 一 日 奉 随 円 阿 闊 梨 受 了 俊 咬 ( 句 切 点 ・ 返 り 点。 圏 点 は 筆 者) と あ り、 こ の 奥 書 は 元 慶 五 年 ( 八 八 一) 円 珍 に よ っ て 書 か れ た こ と が わ か る。 文 中 に は 明 確 に 意 味 の と れ な い 個 所 も あ る が、 理 解 し え た と こ ろ を 記 す と、 お よ そ つ ぎ の よ う な 内 容 で あ る と 思 わ れ る。 こ の 漢 字 と 梵 字 を 対 書 し た 大 悲 喩 伽 の 本 末 両 巻 は、 高 雄 の 空 海 和 上 が 大 同 の は じ め、 唐 か ら 大 宰 府 に 帰 っ て こ ら れ、 み ず か ら こ れ を 書 写 さ れ、 少 武 田 中 朝 臣 に 与 え ら れ て 伝 え ら れ た も の で あ る。 少 武 田 中 朝 臣 の 若 君 は、 図 書 弘 法 大 師 を め ぐ る 人 々 (二)

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-69-密 教 文 化 頭 で あ る 惟 良 宿 禰 貞 道 に つ い て 学 問 を な さ れ て い た 時、 ふ と し た こ と か ら こ の ﹃ 唐 梵 封 書 大 悲 楡 伽 ﹄ を 惟 良 宿 禰 に 差 し あ げ て し ま わ れ た。 惟 良 宿 禰 は 詮 暉 に 命 じ て、 こ れ を 山 坊 (比 叡 山 ヵ) に 収 め ら れ た。 上 に 記 し た こ と の (58) 次 第 は、 圓 珍 が 親 し く 惟 良 宿 禰 か ら う け た ま わ っ た と こ ろ で あ る。 し か る に い ま 詮 暉 が 亡 く な り、 だ れ も こ れ を 所 持 す る も の が い な く な っ た。 こ の よ う な わ け で、 わ た く し 圓 珍 の と こ ろ で お 預 り す る こ と に な っ た。 元 慶 五 年 十 七 日 沙 門 圓 珍 記 す こ の 奥 書 の 内 容 か ら、 つ ぎ の 二 つ の こ と が 指 摘 で き よ う。 第 一 は、 大 同 の は じ め に 唐 か ら 帰 朝 し た 大 師 が み ず か ら 書 写 し、 少 試 田 中 朝 臣 に 付 与 し た ﹁ 唐 梵 封 書 大 悲 喩 伽 本 末 ﹂ す な わ ち ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ は、 大 同 二 年 二 月 十 一 日 に ﹁ 田 少 武 ﹂ が 修 し た 亡 母 の 周 忌 法 要 と 密 接 な 関 係 を も つ も の で あ る と 考 え る。 な ぜ な ら ば、 大 師 が 撰 し た 願 文 に、 是 を 以 て 大 同 二 年 仲 春 十 一 日、 恭 ん で 千 手 千 眼 大 悲 菩 薩、 並 び に 四 摂 八 供 養 摩 河 薩 垣 等 の 一 十 三 尊 を 図 絵 し、 井 (59) び に 妙 法 蓮 華 経 王 一 部 八 軸 ・ 般 若 心 経 二 軸 を 写 し 奉 る。 ( 以 下 略、 原 漢 文) と あ り、 こ の 時 図 絵 さ れ た の は、 千 手 千 眼 大 悲 菩 薩 と 四 摂 八 供 養 菩 薩 の 十 三 尊 か ら な る 千 手 観 音 曼 茶 羅 で あ っ た。 私 は こ の ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ を ま だ 被 見 し て い な い の で、 儀 軌 の 内 容 に つ い て 論 じ る こ と は は ば か ら れ る が、 ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ の 題 名 か ら、 こ の 時 図 絵 さ れ た 千 手 観 音 曼 茶 羅 は こ の ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ に 基 づ い て 作 成 さ れ た の で は な か っ た か と 考 え ら れ る (60) か ら で あ る。 た と え、 図 絵 に 直 接 的 な 関 係 が な か っ た と し て も、 千 手 観 音 曼 茶 羅 と ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ と の 間 に、 少 な か ら ぬ 関 連 を 認 め る こ と は 許 さ れ る で あ ろ う。 第 二 は、 ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ の 伝 領 関 係 を 明 ら か に 知 る こ と が で き る こ と で あ る。 す な わ ち、 大 師 が 書 写 し て 少 武 田 中 朝 臣

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-70-に 付 与 さ れ た あ と、 少 武 の 若 君 が 学 問 の 師 で あ っ た 図 書 頭 惟 良 宿 禰 貞 道 に ゆ ず り、 貞 道 は 詮 暉 に 命 じ て 山 坊 に 収 め、 詮 暉 が 亡 く な っ た あ と 所 持 す る も の が な く な っ た の で、 詮 暉 の 師 で も あ っ た 円 珍 が 預 か る と こ ろ と な っ た。 し た が っ て、 こ の ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ は、 空 海-少 武 田 中 朝 臣→試 家 郎 君-図 書 頭 惟 良 宿 禰 貞 道-詮 暉-円 珍 と 伝 領 さ れ た こ と が わ か る。 こ こ に 名 前 の あ が っ た 六 名 の な か、 真 言 宗 の 開 祖 で あ る 空 海、 第 五 代 天 台 座 主 と な っ た 円 珍 の 事 跡 に つ い て は、 今 さ ら 記 す ま で も な い で あ ろ う。 図 書 頭 惟 良 宿 禰 貞 道 は、 ﹃ 続 日 本 後 紀 ﹄ に ょ る と、 つ ぎ の よ う な 経 歴 が 知 ら れ る。 天 長 (61) (62) 十 年 (八 三 三) 十 一 月 十 八 日 正 六 位 上 か ら 従 五 位 下 と な り、 承 和 三 年 ( 八 三 六) 七 月 六 日 文 章 博 士 か ら 図 書 頭 に 転 じ、 同 (63) (64) (65) 六 年 一 月 十 一 日 伊 勢 介 を 兼 ね た。 同 八 年 三 月 二 十 日 再 び 兼 伊 勢 介 に 任 ぜ ら れ、 同 年 閏 九 月 二 十 八 日 播 磨 権 介 を 兼 ね、 (66) (67) 同 十 二 年 一 月 七 日 従 五 位 上 に 進 み、 同 年 七 月 三 日 武 蔵 介 を 兼 ね、 同 十 三 年 一 月 十 三 日 に は み た び 伊 勢 介 を 兼 ね て い (68) る。 そ の の ち、 貞 道 が い つ ま で 存 命 で あ っ た か は 知 る こ と が で き な い が、 承 和 三 年 七 月 に 図 書 頭 に 任 ぜ ら れ て か ら 最 後 の 記 録 で あ る 同 十 三 年 一 月 ま で の 間、 ず っ と 図 書 頭 を 勤 め て い た。 こ の 期 間 は、 円 珍 の 二 十 三 歳 か ら 三 十 三 歳 に か け て の 時 代 で あ っ て、 こ れ ら を 考 え 合 せ る と、 奥 書 の 記 述 は 信 頼 し て よ い で あ ろ う。 詮 暉 は、 ﹃ 行 歴 抄 ﹄ 天 安 三 年 ( 八 五 九) 正 月 十 九 日 条 に 飯 の 後、 詮 暉 法 師 と 共 に 滋 賀 の 粟 園 に 到 る。 梵 釈 寺 の 洪 大 徳 ・ 幽 都 師 ら に 相 見 え、 こ こ よ り 更 に 行 き て 弘 法 寺 に 到 り て、 慈 叡 阿 闊 梨 に 相 見 え た り。 す な わ ち 大 比 叡 大 神 宮 に 参 詣 し て 幣 畠 を た て ま つ り、 す べ て 入 唐 初 後 の こ と (69) を 謝 す。 弘 法 寺 に 廻 り て 宿 り ぬ。 弘 法 大 師 を め ぐ る 人 々 口

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-71-密 教 文 化 と あ り、 こ の 日 詮 暉 は 前 年 の 六 月 に 帰 朝 し 十 二 月 末 に 京 に 入 っ て い た 円 珍 の お 伴 を し て、 京 か ら 滋 賀 の 粟 園 を 経 て 坂 本 の 弘 法 寺 に い た り、 比 叡 神 社 に 参 詣 し、 弘 法 寺 に 帰 っ て 宿 泊 し て い る。 貞 観 四 年 ( 八 六 二) 四 月 六 日、 伝 灯 満 位 の 詮 (70) 暉 は 伝 灯 法 師 湛 海 と と も に 内 供 奉 十 禅 師 に 任 ぜ ら れ、 同 十 六 年 十 一 月 七 日 に は 円 敏 と と も に 円 珍 か ら 金 剛 界 法 を 授 け (71) ら れ て い る。 こ の よ う に、 円 珍 と 詮 暉 と の 間 に は、 師 弟 関 係 が 認 め ら れ る。 こ の こ と か ら、 奥 書 の 二 人 に 関 す る 記 述 は、 事 実 を 伝 え て い る も の と 考 え て 大 過 な い で あ ろ う。 上 に み た ご と く、 六 名 の 登 場 人 物 の な か、 四 名 ま で が 実 在 し た 僧 ・ 官 人 で あ っ た こ と が 確 認 で き、 こ れ ら 四 名 は 年 代 的 に み て も 矛 盾 し な い と 考 え ら れ る こ と か ら、 こ の 奥 書 に 見 ら れ る 残 り 二 人 の 人 物、 す な わ ち 少 武 田 中 朝 臣 ・ 武 家 郎 君 に 関 す る 記 述 に つ い て も、 信 を お い て よ い と 考 え る。 以 上 の ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ 奥 書 の 考 察 か ら、 大 同 二 年 二 月 十 一 日、 千 手 観 音 曼 茶 羅 を 図 絵 し て 亡 母 の 周 忌 法 要 を 修 し た ﹁ 田 少 武 ﹂ と は、 こ の 奥 書 に み え る 少 武 田 中 朝 臣 某 そ の 人 で あ り、 あ ら た に 少 武 に は 図 書 頭 惟 良 宿 禰 貞 道 に つ い て 学 (72) 問 を 修 め た 子 息 の い た こ と が、 あ き ら か と な っ た。 註 ( 1) 周 知 の ご と く、 ﹃ 性 霊 集 ﹄ は 弟 子 の 真 済 ( 八〇〇 -八 六 〇) が 編 集 し た も の で、 編 纂 当 初 十 巻 で あ っ た が、 十 一 世 紀 中 ご ろ ま で に 巻 八 ・ 九 ・ 十 の 三 巻 は 散 秩 し た。 承 暦 三 年 ( 一 〇 七 九) 仲 冬 上 旬、 仁 和 寺 の 済 逞 は 侠 文 を 集 め て ﹃ 続 遍 照 発 揮 性 霊 集 補 閾 紗 ﹄ 三 巻 を 編 ん で 巻 八 ・ 九 ・ 十 と し、 も と の 七 巻 と 併 せ て 十 巻 と し た。 い ま い う と こ ろ の 十 巻 と は こ れ を さ す。 ( 2) 大 師 の 願 文 は、 大 部 分 の も の が 四 つ の 段 落 か ら な っ て い て、 ほ ぼ 定 型 化 さ れ て い る と こ ろ に 特 徴 が あ る ( 各 段 落 の 内 容 に つ い て は 註 ( 6) 参 照)。 ﹃ 性 霊 集 ﹄ の 目 次、 お よ び 各 文 章 の は じ め に 付 さ れ た 表 題 に ﹁達 嘲 ﹂ ﹁ 表 白 ﹂ と あ る も の も、 ﹁ 願 文 ﹂ と あ る も の と、 形 式 ・ 内 容 構 成 の 上 か ら 同 一 範 疇 に 入 る と 考 え ら れ る の で、 本 稿 で は 一 括 し て 願 文 と 称 す る こ と に す る。

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-72-( 3) 葬 儀 を 追 善 仏 事 と す る こ と に は 問 題 が あ ろ う が、 本 稿 で は 残 り の 十 三 篇 と 区 別 す る 意 味 か ら、 追 善 仏 事 の な か で と り あ つ か う。 四 十 一 篇 の 願 文 の 題 名 ・ 内 容 に つ い て は、 ﹁ 性 霊 集 願 文 表 ﹂ と し て 拙 稿 ﹁ 弘 法 大 師 と 法 華 講 会 L ( ﹃ 中 川 善 教 先 生 頒 徳 記 念 論 集 仏 教 と 文 化 ﹄ 同 朋 舎 出 版 昭 和 58 年 4 月 刊) の 巻 末 に 付 し て お い た の で、 こ れ を 参 照 し て い た だ き た い。 ま た、 願 文 の 法 会 別 分 類 に つ い て は、 同 拙 稿 註 ( 3) 参 照。 ( 4) 大 師 の 願 文 を 取 り 扱 っ た 主 な 論 考 に、 つ ぎ の ご と き も の が あ る。 6 若 木 快 信 ﹁ 弘 法 大 師 の 法 華 経 観 -法 華 経 開 題 を 中 心 と し て-﹂ ( ﹃ 智 山 学 報 ﹄ 新 五 一 〇 七-一二 八 頁、 昭 和 九 年) (二) 中 野 義 照 ﹁ 弘 法 大 師 の 生 涯 と 思 想 -特 に 遍 照 発 揮 性 霊 集 を 中 心 と し て I ﹂ ( ﹃ 密 教 文 化 ﹄ 四 五 ・ 四 六 合 一-一 六 頁、 昭 和 三 四 年)。 の ち に 日 本 名 僧 論 集 第 三 巻 ﹃ 空 海 ﹄ に 収 載 ( 吉 川 弘 文 館 昭 和 五 七 年 一-二 〇 頁) 日 勝 又 俊 教 ﹁ 弘 法 大 師 と 仏 事 法 会 ﹂ (﹃ 芙 蓉 博 士 古 稀 記 念 密 教 文 化 論 集 ﹄ 一 一-四 七 頁、 昭 和 四 六 年)。 の ち に 同 著 ﹃ 弘 法 大 師 の 思 想 と そ の 源 流 ﹄ に 収 載 ( 山 喜 房 仏 書 林 昭 和 五 六 年 二 四 一-九 〇 頁) 四 大 沢 聖 寛 ﹁ 弘 法 大 師 空 海 と 祈 願 法 会 ﹂ ( ﹃ 豊 山 教 学 大 会 紀 要 ﹄ 三 九 五-一三 頁、 昭 和 五 〇 年) 田 布 施 浄 慧 ﹁ 大 師 の 追 善 思 想 -性 霊 集 の 願 文 を 中 心 と し て-﹂ (﹃ 仏 教 文 化 論 集 ﹄ 四 一 七 九-二 一二 九 頁、 昭 和 五 九 年) 因 福 田 亮 成 ﹁ 空 海 の 宗 教 的 実 践 -特 に 追 善 仏 事 を 中 心 と し て-﹂ ( ﹃密 教 文 化 ﹄ 一 四 九 八-二 〇 頁、 昭 和 六 〇 年) (七) 拙 稿 ﹁ 弘 法 大 師 と 法 華 講 会-﹁ 天 長 皇 帝 為 故 中 務 卿 親 王 講 法 華 経 願 文﹂ 考-﹄ ( ﹃ 中 川 善 教 先 生 頚 徳 記 念 論 集 仏 教 と 文 化 ﹄ 一 四 三-一 七 三 頁 昭 和 五 八 年)。 ( 5) ﹃性 霊 集 ﹄ 巻 第 七 ( ﹃ 弘 法 大 師 全 集 ﹄ 第 三 輯 四 八 九-九 〇 頁)。 こ の 題 名 は 本 文 に 付 さ れ た も の で あ っ て、 巻 首 の 目 次 は ﹁ 田 少 武 が 孝 子 と し て 斎 を 設 く る 願 文 ﹂ ( 原 漢 文) で あ る。 ( 6) 四 段 か ら な る 各 段 落 は、 つ ぎ の ご と き 内 容 を も つ。 第 一 段-仏 の 教 え、 特 に 密 教 の 勝 れ て い る こ と、 お よ び 大 日 如 来 な ど の 諸 仏 ・ 諸 尊 の 境 界 と そ の 徳 を 述 べ、 そ れ へ の 帰 依 が 説 か れ る。 第 二 段-故 人 の 生 前 の 徳 を 称 讃 し、 他 界 し た 悲 し み と 忽 ち に し て 忌 日 が 巡 っ て き た 事 が 記 さ れ る。 第 三 段-法 会 の 年 月 日 と 故 人 の 菩 提 を 弔 わ ん が た め に な さ れ た 経 典 の 書 写、 仏 像 の 造 立、 曼 茶 羅 お よ び 諸 尊 像 の 図 絵、 経 典 の 講 演 ・ 読 請、 法 会 の 模 様 な ど が 記 さ れ る。 第 四 段-願 意 が 述 べ ら れ、 追 善 供 養 の 功 徳 に よ っ て、 一 方 で は 故 人 の 霊 が す み や か に 成 仏 せ ん こ と を 願 い、 ま た 一 方 で は そ の 功 徳 が 現 世 に 残 っ た 人 達 に も お よ び、 親 族 の 福 寿 と 聖 朝 の 安 穏、 弘 法 大 師 を め ぐ る 人 々(二)

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-73-密 教 文 化 天 下 泰 平 を 祈 り、 最 後 に 諸 天 を は じ め 一 切 衆 生 が 悉 く 菩 提 を 証 せ ん こ と を 祈 念 す る。 ( 7) こ の 点 に つ い て は、 す で に 勝 又 俊 教 博 士 ( 前 掲 論 文、 二 七 〇-二 頁) 濱 田 隆 博 士 < ﹁ 弘 法 大 師 と 密 教 美 術 ﹂ ( ﹃ 弘 法 大 師 研 究 ﹄ 三 一 六-七 頁)> も 注 目 さ れ て い る。 ( 8) ﹃ 性 霊 集 ﹄ の 註 釈 書 に は つ ぎ の ご と く 記 さ れ て い る。 寛 文 十 一 年 ( 一 六 七 一) に 成 立 し た 運 敬 撰 ﹃ 性 霊 集 便 蒙 ﹄ は ハ ハ ニ 田 田 中 姓 也。 小 武 官 也。 職 原 日。 少 武 相 當 従 五 位 下。 ハ ニ ン テ ヲ ス ヲ 唐 名 都 督 少 卿。 殊 撰 二 其 人 一任 レ之。 と 記 す だ け で あ る (﹃ 真 言 宗 全 書 ﹄4 2二 四 四 頁)。 昭 和 に な っ て 出 版 さ れ た 坂 田 光 全 述 ﹃ 性 霊 集 講 義 ﹄ ( 一 七 年 刊) で は ﹁ 田 は 田 中 に し て 姓、 小 武 は 官 に し て 太 宰 府 の 次 官 な り ﹂( 二 七 四 頁) と、 日 本 古 典 文 学 大 系 本 ﹃ 三 教 指 帰 ・ 性 霊 集 ﹄( 四 〇 年 刊) で は ﹁ 田 中 姓。 伝 不 詳。 ﹁少 武 ﹂ は 太 宰 府 次 官。 従 五 位 下 相 当。﹂ ( 三 三 三 頁) と、 ﹃ 弘 法 大 師 著 作 全 集 ﹄ 第 三 巻 ( 四 八 年 刊) で は ﹁ 田 は 田 中 姓。 少 弐 は 太 宰 府 次 官。 伝 は 不 詳。 ﹂ ( 三 〇 九 頁) と、 ﹃ 弘 法 大 師 空 海 全 集 ﹄ ( 五 九 年 刊) で は ﹁ ﹁ 少 弐 ﹂ は 太 宰 府 の 次 官。 ﹁ 田 ﹂ は、 姓 田 中 氏。 伝 は 不 詳。﹂ ( 四 七 九 頁) と 記 し、 い ず れ も ほ ぼ 同 じ 内 容 で あ っ て ﹃ 性 霊 集 便 蒙 ﹄ を 出 て い な い。 そ の な か に あ っ て、 得 仁 は 天 保 四 年 ( 一 八 三 三) に 撰 し た ﹃ 弘 法 大 師 年 譜 ﹄ 巻 四 で ﹁ 田 小 武 未 レ 詳 二 何 人 ご と い い、 頭 註 に 後 に ふ れ る ﹃ 類 聚 国 史 ﹄ を 引 い て 田 中 朝 臣 八 月 麻 呂 を ﹁ 恐 是 人 歎。 尚 侯 二後 考 一。﹂ と い う (﹃ 真 言 宗 全 書 ﹄ 38八 四 頁)。 ( 9) ﹃ 弘 法 大 師 年 譜 ﹄ 巻 四 ( ﹃真 言 宗 全 書 ﹄ 38八 四 頁)。 ( 10) 守 山 聖 真 編 ﹃ 文 化 史 上 よ り 見 た る 弘 法 大 師 伝﹄ ( 昭 和 六 年 刊) 二 五 七 頁。 ( 11) 註 ( 10) に 同 じ。 ( 12) 松 崎 英 一 ﹁ 平 安 初 期 の 帥 弐 ﹂ 、 ﹃ 九 州 歴 史 資 料 館 開 館 十 周 年 記 念 大 宰 府 古 文 化 論 叢 ﹄ 上 巻 三 九 三 頁、 昭 和 五 十 八 年)。 ( 13) 合 本 ﹃ 大 蔵 会 展 観 目 録 ﹄ 所 収 第 十 三 回 大 蔵 会 陳 列 目 録 二 三 一 頁 ( 文 華 堂 書 店 昭 和 56 年 十 一 月 合 本 復 印)。 ( 14) ち な み に、 田 口 朝 臣 息 継 の 経 歴 を ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ に よ っ て み る と、 つ ぎ の ご と く あ る へ ﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ に よ り 巻 数 と 頁 数 を 漢 字 ・ ア ラ ビ ア 数 字 で カ ッ コ 内 に 併 記 す る)。 延 暦 十 六 年 ( 七 九 七) 正 月 七 日 正 六 位 上 か ら 従 五 位 下 に の ぼ り ( 五 ・ 8)、 同 年 二 月 十 五 日 雅 楽 助 に 任 ぜ ら れ ( 五 ・ 11)、 同 月 二 十 四 日 鋳 銭 次 官 に 転 じ た ( 五 ・ 12)。 大 同 元 年 ( 八 〇 六) 三 月 十 八 日 田 中 朝 臣 八 月 麻 呂、 六 位 以 下 の 六 人 と と も に 養 役 夫 司 と な り ( 十 三 ・ 54)、 同 三 年 五 月 九 日 右 少 弁 に つ き、 以 前 に 任 ぜ ら れ て い た 阿 波 守 を 兼 ね ( 十 七・70)、 同 年 六 月 二 十 八 日 左 少 弁 に 転 じ た (十 七・74)。 弘 仁 元 年 ( 八 一 〇) 九 月 十 日 権 右 中 弁 正 五 位 下 か ら 右 中 弁 に の ぼ り ( 二 十・86)、 同 三 年 二 月 十 日 民 部 大 輔 ( 二 二・111)、 同 年 八 月 朔 日 右 中 弁 を 歴 任 し た ( 二 二・116)。 い つ 阿 波 守 に 任 ぜ ら れ

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-74-た か は 不 明 で あ る が、 大 同 三 年 五 月 以 降、 記 録 の と ぎ れ る 弘 仁 三 年 八 月 ま で、 ず っ と 阿 波 守 を 兼 任 し て い た。 な お 延 暦 二 十 三 年 六 月 二 十 日 付 ﹁東 大 寺 家 地 相 換 券 文 ﹂ に は、 ﹁ 検 校 鋳 銭 長 官 従 五 位 下 田 口 朝 臣 ﹃ 息 継 ﹄ ﹂ と 自 署 し て お り、 こ の 当 時 従 五 位 下 に の ぼ り、 鋳 銭 長 官 と な っ て い た こ と が 知 ら れ る  ( ﹃ 平 安 遺 文 ﹄ 第 一 巻 一 九 頁)。 こ の よ う に、 大 同 二 年 当 時、 従 五 位 下 と 大 宰 少 武 に 相 当 す る 位 階 で あ り、 ま た 阿 波 守 を 兼 任 し て い た と は い え、 息 継 の 官 職 は 雅 楽 助 ・ 鋳 銭 次 官 ・ 鋳 銭 長 官 ・ 養 役 夫 司 ・ 右 少 弁 ・ 左 少 弁 ・ 権 右 中 弁 ・ 右 中 弁 ・ 民 部 大 輔 ・ 右 中 弁 と、 一 貫 し て 都 を 中 心 と す る も の で あ っ た こ と か ら、 大 宰 少 武 に 任 ぜ ら れ た 確 率 は う す い と 考 え る。 ( 15) 松 長 有 慶 ・ 高 木 訥 元 ・ 和 多 秀 乗 ・ 田 村 隆 照 共 著 ﹃ 高 野 山 そ の 歴 史 と 文 化 ﹄ ( 昭 和 五 九 年 刊) 一 二 四 頁。 こ こ に ﹁ 大 宰 府 の 帥 (長 官) は 中 務 卿 を か ね た 伊 予 親 王 で あ っ た ﹂ と 記 さ れ る が、 こ の 伊 予 親 王 は 藤 原 朝 臣 縄 主 に 訂 正 さ れ る べ き で あ ろ う。 な ぜ な ら、 大 同 元 年 五 月 九 日 伊 予 親 王 は 確 か に ﹁ 中 務 卿 兼 大 宰 帥 ﹂ に 任 ぜ ら れ た が <﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 三 ( ﹃ 噺 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 三 巻 五 九 頁) >、 九 日 後 の 同 月 十 八 日 藤 原 朝 臣 縄 主 が 正 式 に 大 宰 帥 に 任 ぜ ら れ た < ﹃ 公 卿 補 任 ﹄ 延 暦 二 十 五 年 条 (﹃ 同 上 ﹄ 第 五 十 三 巻 七 九 頁)>。 こ れ よ り、 大 師 が 帰 朝 さ れ た と 考 え ら れ て い る 大 同 元 年 十 月 に は、 ま さ し く 藤 原 朝 臣 縄 が 大 宰 帥 で あ っ た か ら で あ る。 ( 16) 註 ( 13) に 同 じ。 ( 17) ﹃ 令 義 解 ﹄ 第 一 (﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 二 十 二 巻 五 九-六 〇 頁)。 ( 18) ﹃ 令 義 解 ﹄ 第 一 (﹃ 同 右 ﹄ 第 二 十 二 巻 五-二 八 頁)。 ( 19) ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 三 大 同 元 年 ( 八 〇 六) 二 月 丁 未 ( 十 三 日) 条 に、 勅。 准 レ 令。 大 宰 大 武 是 正 五 位 上 官。 宜 三改 為 二従 四 位 下 官 一。 (﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 三 巻 五 二 頁) と あ っ て、 大 武 の 相 当 位 階 が 正 五 位 上 か ら 従 四 位 下 に 改 め ら れ た。 ( 20) 大 武 と 少 武 の 職 掌 は、 職 員 令 第 二 に ﹁ 大 武 一 人。 掌 ら む こ と 帥 に 同 じ。 少 武 二 人。 掌 ら む こ と 大 式 に 同 じ。 ﹂ と あ っ て、 大 宰 府 次 官 と し て 帥 と 同 じ で あ っ た こ と が 知 ら れ る (﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 二 十 二 巻 六 〇 頁)。 ち な み に、 帥 の 職 掌 は 職 員 令 第 二 に つ ぎ の ご と く あ る (﹃ 同 上 ﹄ 第 二 十 二 巻 五 九-六 〇 頁)。 帥 一 人。 掌 ら む こ と、 桐 社 の こ と、 戸 口 の 簿 帳 の こ と、 百 姓 を 字 養 せ む こ と、 農 桑 を 勧 め 課 せ む こ と、 所 部 を 糺 し 察 む こ と、 貢 挙、 孝 義、 田 宅、 良 騰、 訴 訟、 租 調、 倉 庫、 樒 役、 兵 士、 器 供、 鼓 吹、 郵 駅、 伝 馬、 峰 候、 城 牧、 過 所、 公 私 の 馬 牛、 閾 遺 の 雑 物 の こ と、 弘 法 大 師 を め ぐ る 人 々 (二)

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-75-密 教 文 化 及 び 寺、 僧 尼 の 名 籍 の こ と、 蕃 客、 帰 化、 饗 謙 の 事。 な お、 記 す に あ た っ て 日 本 思 想 大 系 3﹃ 律 令 ﹄ (岩 波 書 店、 昭 和 五 一 年) を 参 照 し た (同 書 一 九 一 頁)。 ( 21) 大 宰 府 官 人、 と く に 帥 ・大 武 ・少 武 の 補 任 ・ 在 任 期 間 に つ い て の 論 考 に、 つ ぎ の ご と き も の が あ る。 1 田 中 篤 子 ﹁ 大 宰 帥 ・ 大 宰 大 弐 補 任 表 ﹂ ( ﹃ 史 論 ﹄ 二 六 ・ 二 七 合 四 四-九 三 頁、 一 九 七 三 年)、 口 右 田 文 美 ﹁ 大 宰 少 弐 考-附 大 宰 少 弐 補 任 表-﹂ ( ﹃史 論 ﹄ 一三 二 〇-五 一 頁、 一 九 七 七 年)、 日 渡 辺 正 気 ﹁ 八 ・ 九 世 紀 の 大 宰 府 高 級 府 官 在 任 年 表 ﹂ ( ﹃ 九 州 歴 史 資 料 館 研 究 論 集 ﹄ 五 三 〇-三 九 頁、 一 九 七 九 年) 四 松 崎 英 一 ﹁ 平 安 初 期 の 帥 弐 ﹂ へ ﹃ 九 州 歴 史 資 料 館 開 館 十 周 年 記 念 大 宰 府 古 文 化 論 叢 ﹄ 上 巻 三 七 九-四 〇 一 頁、 昭 和 五 十 八 年)。 ( 22) 各 条 文 の 末 尾 の () 内 は、 出 典 名 と 頁 数 を 表 わ す。 書 名 は、 後 -﹃ 日 本 後 紀 ﹄、 類 1﹃ 類 聚 国 史 ﹄、 紀 1﹃ 日 本 紀 略 ﹄、 公 1﹃ 公 卿 補 任 ﹄ の 略 号 で 示 し、 巻 数 を 漢 数 字 で 記 し た。 頁 数 は ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ な ど が 収 載 さ れ て い る ﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 三、 五、 十、 五 十 三 巻 の 頁 数 を ア ラ ビ ア 数 字 で 記 し た。 ( 23) 大 伴 宿 禰 彌 嗣 は、 史 料 に よ っ て は 彌 継 と も 記 さ れ て い る。 ( 24) 藤 原 朝 臣 藤 継 も、 藤 継 と 藤 嗣 が 混 同 し て 用 い ら れ て い る。 ( 52) ﹃ 朝 野 群 載 ﹄ 巻 二 十 ( ﹃顯 国 史 大 系 ﹄ 第 二 十 九 巻 四 五 七-九 頁)。 ( 26) 御 請 来 目 録 ﹄ ( ﹃ 弘 法 大 師 全 集 ﹄ 第 一 輯 六 九-七 一 頁)。 ( 27) 註 ( 5) に 同 じ。 ( 28) 藤 原 朝 臣 藤 継 の 経 歴 は、 ﹃ 公 卿 補 任 ﹄ 弘 仁 三 年 条 ( ﹃ 噺 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 五 十 三 巻 八 六 頁) と、 ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 八 延 暦 十 八 年 五 月 十 日 条 ・ ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 二 同 二 十 三 年 一 月 二 十 四 日 条 (﹃ 同 書 ﹄ 第 三 巻 一 二 ・ 三 〇 頁) に よ っ て 記 し た。 ( 29) ﹃ 公 卿 補 任 ﹄ 弘 仁 三 年 条 (﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 五 十 三 巻 八 六 頁)。 ( 30) ﹃ 弘 法 大 師 行 化 記 ﹄所 収 大 同 二 年 四 月 二 十 九 日 付 大 宰 府 牒 (﹃ 弘 法 大 師 全 集 ﹄ 首 巻 一 九 八 頁、 ﹃ 弘 法 大 師 伝 全 集 ﹄ 第 二 六 二 ・ 九 七 ・ 一 四 四 ・ 一 八 四-五 頁、 ﹃ 平 安 遺 文 ﹄ 第 八 巻 三 二 五 一 頁)。 ( 31) ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 三 ( ﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 三 巻 五 一 頁)。 ( 32) こ の 延 暦 二 十 三 年 正 月 二 十 四 日、 藤 継 が 少 武 ・ 大 武 い ず れ に 任 官 さ れ た か の 問 題 に つ い て は、 櫛 田 良 洪 博 士 ・ 高 木 諒 元 先 生 も 大 宰 府 牒 の ﹁大 武 従 四 位 下 藤 原 朝 臣 藤 嗣 ﹂ を 引 い て 論 じ て お ら れ る。 高 木 諒 元 先 生 は ﹁ 当 時、 藤 嗣 は 少 弐 で あ っ た か ら、 こ の 牒 自 体、 多 少 疑 わ し い 点 も あ

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-76-る ﹂ と さ れ (高 木 先 生 前 掲 書 一二 四 頁)、 櫛 田 博 士 も つ ぎ の ご と く 大 宰 府 牒 そ の も の に 疑 問 を 呈 し て お ら れ る (﹃ 空 海 の 研 究 ﹄ 二 五 七 頁、 山 喜 房 仏 書 林 昭 和 五 六 年)。 こ れ は 観 世 音 寺 三 綱 に 太 宰 大 弐 従 四 位 下 藤 原 藤 嗣 の 府 牒 で あ る。 因 み に こ の 藤 原 朝 臣 藤 継 は 弘 仁 三 年 正 月 十 二 日 に ﹁ 参 議 従 四 位 上 藤 原 朝 臣 藤 継 為 二 太 宰 大 弐 一﹂ と ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 二 十 二 に 見 え る の で、 ﹁ 弘 法 大 師 行 化 記 ﹂ の 太 宰 府 牒 は 眉 唾 物 で あ る。 若 し 二 年 の 誤 と す る と 前 後 (イ) の 話 が つ じ つ ま が 合 わ な い し、 大 同 二 年 ( 八 〇 七) 五 月 に は 右 近 衛 中 将 従 四 位 上 で 右 京 大 夫 摂 津 守 で あ っ て ま (ロ) だ 太 宰 大 弐 に は な っ て い な い し、 藤 継 が 藤 嗣 に な っ て い る 点 な ど か ら ﹁ 弘 法 大 師 行 化 記 ﹂ の 府 牒 は 文 体 の 上 か ら も 正 し く な い も の で あ り、 信 頼 し 兼 ね る も の で あ る。 (棒 線 ( イ) ・ ( ロ) は 筆 者) こ の な か、(イ)の 部 分 の 大 同 二 年 は、 ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 二 十 一 弘 仁 二 年 ( 八一一) 五 月 十 四 日 条 に、 右 近 衛 中 将 従 四 位 上 藤 原 朝 臣 藤 嗣 為 二兼 右 京 大 夫 一。 摂 津 守 如 レ故。 ( ﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 三 巻 一 〇 一 頁) と あ る こ と か ら 弘 仁 二 年 の 誤 記 で あ り、 回 の 藤 継 と 藤 嗣 と の ち が い に つ い て は 註 ( 24) に 記 し た ご と く、 史 料 中 に も 混 同 し て 使 わ れ る の で 問 題 と は な り え な い。 大 宰 府 牒 の 全 体 の 信 葱 性 に つ い て は し ば ら く お く と し て、 ﹁ 大 武 従 四 位 下 藤 原 朝 臣 藤 嗣 ﹂ の 大 武 の 表 記 に つ い て は、 以 下 の ご と く 考 え る こ と は で き な い で あ ろ う か。 高 木 ・ 櫛 田 両 先 生 と も、 官 す な わ ち 大 武 ・ 少 武 の ち が い に は 言 及 さ れ て い る が、 位 階 に は ふ れ て い な い。 そ こ で、 ま ず 藤 継 の 位 階 で あ る が、 ﹃ 公 卿 補 任 ﹄ に よ る と、 藤 継 は 延 暦 二 十 五 年 ( 八 〇 六) 五 月 十 八 日 に 従 五 位 上 に、 同 年 六 月 二 十 九 日 従 四 位 下 に 昇 り、 大 同 四 年 ( 八 〇 九) 四 月 十 四 日 従 四 位 上 に 進 ん で い る ( ﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 五 十 三 巻 八 六 頁)。 こ の こ と は、 ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 七 大 同 三 年 五 月 二 十 一 日 条 に、 ﹁ 右 京 大 夫 従 四 位 下 藤 原 朝 臣 藤 嗣 為 二兼 兵 部 大 輔 一﹂ と あ る こ と か ら も 信 じ て よ く、 し た が っ て 府 牒 の ﹁ 従 四 位 下 ﹂ は 大 同 二 年 当 時 の 藤 継 の 位 階 と し て は 正 し い と い え る。 つ ぎ に、 官 の 大 武 で あ る が、 私 は つ ぎ の よ う な 事 情 を 反 映 し た も の と 解 し た い。 つ ま り、 延 暦 二 十 三 年 正 月 二 十 四 日 藤 継 は 大 宰 少 武 に 任 ぜ ら れ、 大 同 元 年 正 月 二 十 八 日 参 議 正 四 位 下 菅 野 朝 臣 真 道 が 大 宰 大 武 に 任 ぜ ら れ た。 ﹃ 公 卿 補 任 ﹄ 大 同 二 年 条 に よ る と ( ﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 五 十 三 巻 八〇-八 一 頁)、 こ の 年 四 月 十 六 日、 勅 に よ っ て 参 議 の 号 が 停 め ら れ、 か わ っ て 観 察 使 が 置 か れ た。 真 道 は 四 月 二 十 二 日、 延 暦 二 十 四 年 ( 八 〇 五) 正 月 十 四 日 に 任 ぜ ら れ た 参 議 を 停 め ら れ、 山 陰 道 観 察 使 に つ い た。 一 方、 大 宰 帥 の 藤 原 朝 臣 縄 主 も、 同 日 延 暦 十 弘 法 大 師 を め ぐ る 人 々 (二)

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-77-密 教 文 化 七 年 八 月 十 六 日 以 来 つ と め た 参 議 を と か れ、 西 海 道 観 察 使 に 任 ぜ ら れ た。 こ の よ う に、 大 同 二 年 四 月 大 宰 府 の 長 官 で あ る 帥 の 藤 原 縄 主、 次 官 の 筆 頭 で あ る 大 武 の 菅 原 真 道 は と も に 参 議 か ら 観 察 使 に 任 ぜ ら れ て い る こ と か ら、 こ の 二 人 は お そ ら く 遙 任 で あ っ た と 思 わ れ る, と す る と、 大 宰 府 で 実 際 に 実 務 に あ た っ て い た 最 高 責 任 者 は、 帥 ・ 大 武 に か わ っ て 少 武 が つ と め て い た こ と が 考 え ら れ る。 し た が っ て、 実 際 に は 少 武 で あ っ た に も か か わ ら ず、 帥 ・ 大 武 と 同 等 の 職 掌 を こ な し て い た 少 武 の 一 人 藤 継 に 対 し て、 府 牒 を 作 成 す る と き、 ﹁ 大 武 従 四 位 下 ⋮⋮﹂ と 記 し て し ま っ た の で は な か っ た か と 考 え る。 ( 33) ﹃ 公 卿 補 任 ﹄ 弘 仁 三 年 条 ( ﹃ 噺 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 五 十 三 巻 八 六 頁)。 ﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 七 (﹃ 同 上 ﹄ 第 三 巻 七 一 頁)。 ( 34)﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 七 (﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 七 一 頁)。 ( 35)﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 八 (﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 一 六 頁)。 ( 36)﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 三 (﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 五 二 頁)。 ( 37)﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 二 〇 (﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 八 六 頁)。 ( 38)﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 二 十 二 (﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 一 一 九 頁)。 ( 39) 少 武 の 任 期 を 明 記 し た も の を 知 ら な い が、 藤 継 に 替 っ て 少 武 と な っ た 紀 朝 臣 長 田 麻 呂 の 経 歴 か ら も、 ほ ぼ 三 な い し 四 年 で 交 替 し た で あ ろ う こ と が 推 察 で き る。 す な わ ち、 長 田 麻 呂 は 大 同 三 年 ( 八〇 八) 五 月 二 十 一 日 藤 継 の 後 任 と し て 少 武 に な り、 弘 仁 三 年 ( 八 一 二) 正 月 二 十 一 日 玄 蕃 頭 に 転 じ、 同 日 長 田 麻 呂 に 替 っ て 藤 原 朝 臣 葛 成 が 少 武 に 任 ぜ ら れ て お り、 長 田 麻 呂 は 三 年 八 ケ 月 弱 の あ い だ 少 武 で あ っ た。 ( 40) 渡 辺 正 気 氏 も 同 様 の 見 方 を さ れ て い る (前 掲 論 文 三 六 頁)。 ( 41)﹃ 類 聚 国 史 ﹄ 巻 六 十 六 弘 仁 十 四 年 七 月 甲 戌 ( 二 十 二 日) 条 (﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 五 巻 二 八 ○ 頁)。 ( 42)﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 七 ( ﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 七 六 頁)。 ( 43)﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 二 十 四 ( ﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 一 二 八 頁)。 ( 44) 註 ( 41) に 同 じ。 ( 45)﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 七 ( ﹃ 噺 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 三 巻 七 九 頁)。 ( 46) 田 中 朝 臣 の 姓 を も つ 人 物 と し て、 ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ に は 延 暦 以 前 に、 飯 麻 呂 ・ 稲 敷 ・ 浄 足 ・ 小 麻 呂 ・ 多 太 麻 呂 ・ 足 麻 呂 ・ 難 波 麻 呂 ・ 法 麻 呂 ・ 廣 根 ・ 三 上 の 十 名 を 数 え る こ と が で き る。 ま た、 ﹃ 日 本 三 代 実 録 ﹄ に は 貞 観 年 間 ( 八 五 九-八 七 七) に、 厚 子 ・ 保 子 の 二 名 を 見 い だ す こ と が で き る が、 い ず れ も 少 武 田 中 朝 臣 と の 直 接 的 な 関 係 は う す い と 考 え ら れ る の で、 こ こ に は 取 り あ げ な か っ た。 ( 47) 千 尋 の 記 録 は 天 長 二 年 ( 八 二 五) 一 月 七 日、 正 六 位 上 か ら 従 五 位 下 に な っ た 一 つ だ け で あ る < ﹃類 聚 国 史 ﹄ 巻 九 十 九 (﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 六 巻 一 六 頁) >。 ( 48) 真 氏 の 記 録 も、 天 長 六 年 ( 八 二 九) 一 月 七 日、 正 六 位 上 か ら 従 五 位 下 に な っ た 一 つ だ け で あ る < ﹃ 類 聚 国 史 ﹄

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-78-巻 九 十 九 ( ﹃ 右 同 ﹄ 第 六 巻 一 九 頁)>。 ( 49) 許 侶 継 は 天 長 十 年 ( 八 三 三) 五 月 八 日 左 衛 門 少 尉 で 正 六 位 上 か ら 従 五 位 下 に の ぼ り < ﹃ 続 日 本 後 紀 ﹄ 巻 一 (﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻一一 頁)>、 承 和 元 年 ( 八 三 四) 正 月 十 二 日 左 衛 門 権 佐 に 任 ぜ ら れ た < ﹃ 続 日 本 後 紀 ﹄ 巻 三 (﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 二 二 頁)>。 ( 50) 真 成 は 承 和 六 年 ( 八 三 九) 九 月 七 日 従 五 位 下 で 玄 蕃 頭 に 任 ぜ ら れ た 記 録 だ け で あ る < ﹃ 続 日 本 後 紀 ﹄ 巻 八 (﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 九 一 頁)>。 ( 51) 大 宰 府 官 人 の 任 官 記 録 と 同 様、 各 条 文 の 末 尾 に 出 典 名 と 頁 数 を あ げ た。 書 名 は 続-﹃ 続 日 本 紀 ﹄、 後-﹃ 日 本 後 紀 ﹄ の 略 号 で 示 し、 巻 数 を 漢 数 字 で 記 し た。 頁 数 は 両 書 が 収 載 さ れ て い る ﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 二 ・ 三 巻 の 頁 数 を ア ラ ビ ア 数 字 で 記 し た。 ( 52) つ ま り、 弘 仁 元 年 十 一 月 二 十 二 日 清 人 が 従 五 位 下 か ら 従 五 位 上 に 昇 進 し、 翌 二 年 七 月 二 十 三 日 従 五 位 上 の 浄 人 が 大 蔵 少 輔 に 任 ぜ ら れ て い る。 名 前 の 漢 字 が こ と な る の で 一 見 別 人 に み え る が、 弘 仁 二 年 の 位 階 が 前 年 昇 進 し た 従 五 位 上 に な っ て お り、 前 後 で 矛 盾 し な い こ と を い う。 ( 53)﹃ 六 国 史 索 引 ﹄ 二 ・ 三 で も、 清 人 と 浄 人 を 同 一 人 物 と み な し て い る ( 同 書 一 一 〇 ・ 六 八 頁)。 ( 54)﹃ 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 三 (﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 三 巻 五 八 頁)。 ( 55) 大 同 三 年 六 月 九 日 条 に も ﹁ 正 五 位 下 百 済 王 聰 哲 為 一刑 部 大 輔 一。 越 後 守 如 レ 故。 ﹂ と あ っ て、 大 同 元 年 五 月 に 百 済 王 聰 哲 が 越 後 守 に 任 ぜ ら れ た こ と は、 間 違 い な い。 ( 56) 合 本 ﹃ 大 蔵 会 展 観 目 録 ﹄ 二 二 九-二 四 七 頁 ( 文 華 堂 書 店 昭 和 56 年 十 一 月 合 本 復 印)。 ( 57) 註 ( 13) に 同 じ。 理 解 で き る 範 囲 で 句 切 点 ・ 返 り 点 を 付 し、 人 名 と 考 え ら れ る 個 所 の 右 に 圏 点 を 入 れ た。 ( 58)﹁ 海 要 覧 者 任 意 ﹂ と は ﹁ 空 海 が 必 要 に 応 じ て 御 覧 に な り た い 時 は 御 随 意 に な さ っ て 結 構 で す ﹂ と い っ た 意 味 か。 ( 59)﹃ 性 霊 集 ﹄ 巻 七 (﹃ 弘 法 大 師 全 集 ﹄ 第 三 輯 四 八 九 頁)。 ( 60) 大 師 の ﹃ 御 請 来 目 録 ﹄ ・ ﹃ 三 十 帖 策 子 目 録 ﹄ に は ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ に 相 当 す る 典 籍 は 見 あ た ら な い。 ま た、 千 手 観 音 関 係 の も の と し て は、 ﹃ 御 請 来 目 録 ﹄ に ﹁ 金 剛 頂 喩 伽 千 手 千 眼 観 自 在 念 請 法 一 巻 ﹂ が 見 い だ さ れ る に す ぎ な い (﹃ 弘 法 大 師 全 集 ﹄ 第 一 輯 七 五 頁)。 ( 61) ﹃ 続 日 本 後 紀 ﹄ 巻 二 (﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 三 巻 一 八 頁)。 ( 62)﹃ 続 日 本 後 紀 ﹄ 巻 五 ( ﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 五 六 頁)。 ( 63)﹃ 続 日 本 後 紀 ﹄ 巻 八 ( ﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 八 四 頁)。 ( 64)﹃ 続 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 (﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 一 一 八 頁)。 ( 65)﹃ 続 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 (﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 一 二 三 頁)。 ( 66)﹃ 続 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 五 ( ﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 一 七 三 頁)。 ( 67)﹃ 続 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 五 ( ﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 一 七 八 頁)。 弘 法 大 師 を め ぐ る 人 々 (二)

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-79-密 教 文 化 ( 68)﹃ 続 日 本 後 紀 ﹄ 巻 十 六 ( ﹃ 右 同 ﹄ 第 三 巻 一 八 四 頁)。 ( 69)﹃ 行 歴 抄 ﹄ ( ﹃ 大 日 本 仏 教 全 書 ﹄一一 三 二 九 三 頁)。 小 野 勝 年 ﹃ 入 唐 求 法 行 歴 の 研 究 ﹄ 下 ( 四 〇 三-五 頁) を 参 照 さ せ て い た だ い た。 ( 70)﹃ 日 本 三 代 実 録 ﹄ 巻 六 (﹃ 新 訂 増 補 国 史 大 系 ﹄ 第 四 巻 九 〇 頁)。 ( 71) 敬 光 編 ﹃ 智 証 大 師 年 譜 ﹄ 貞 観 十 六 年 甲 午 条 ( ﹃智 証 大 師 全 集 ﹄ 下 巻 一 三 九 一 頁)。 ( 72) 大 師 と 九 州 ・ 大 宰 府 関 係 者 と の 交 友 は、 大 宰 少 武 田 中 朝 臣 某 だ け で な く、 入 唐 帰 朝 の 際 の 遣 唐 判 官 で ﹃ 御 請 来 目 録 ﹄ の 進 献 を 託 し た 高 階 真 人 遠 成、 大 師 の 書 簡 が 残 る 筑 前 太 守 栄 井 王 ・ 大 宰 府 安 少 武 < ﹃ 高 野 雑 筆 集 ﹄ ( ﹃ 弘 法 大 師 全 集 ﹄ 第 三 輯 五 八 七 ・ 五 八 八 ・ 五 九 三 頁) > な ど と の 交 友 も あ げ る こ と が で き る。 し た が っ て、 こ れ ら の 人 々 と の 交 友 に つ い て も 検 討 す る つ も り で あ っ た が、 紙 数 の 関 係 も あ っ て 論 じ る こ と が で き な か っ た。 後 日 を 期 す る こ と に し た い。 ︹ 昭 和 六 十 二 年 二 月 一 日 成 稿 ︺ ︹ 付 記 ︺ 脱 稿 後、 本 稿 で 取 り あ げ た ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ が、 ﹃ 大 正 新 脩 大 蔵 経 ﹄ 第 二 十 巻 所 収 の 不 空 訳. 金 剛 頂 喩 伽 千 手 千 眼 観 自 在 菩 薩 修 行 儀 軌 経 ﹄ 二 巻 ( 一 〇 五 六 番、 七 二-八 三 頁) の 校 本 と し て 依 用 さ れ て い る こ と を 知 っ た。 ﹃ 大 正 蔵 経 ﹄ の 脚 註 に 記 さ れ て い る ﹃ 千 手 儀 軌 ﹄ の 奥 書 (同 経 ・ 八 一 頁) は、 つ ぎ の ご と く あ り、 ﹁ 大 蔵 会 陳 列 目 録 ﹂ の そ れ と 語 句 が 若 干 こ と な っ て い る (○ は 相 違 す る 語 句)。 蔵 本 批 云、 見 説 此 唐 梵 封 書 大 悲 喩 伽 本 末 両 巻、 並 是 高 雄 空 海 和 上、 以 大 同 初 従 唐 蹄 大 宰 自 書 之 付 傳 少 武 田 中 朝 臣、 武 家 良 君 就 図 書 頭 惟 良 貞 道 宿 禰 学 問、 循 言 次 將 奉 宿 禰、 宿 禰 令 詮 暉 法 王 子 収 山 坊、 圓 珍 面 承 宿 禰、 海 要 覧 者 任 意 云 云、 今 暉 子 没 無 人 収 之、 故 以 喚 納 珍 所、 元 慶 五 年 五 月 十 七 日 沙 門 圓 珍 記 延 久 四 年 九 月 十 一 日 奉 受 了 逞 響 保 延 六 年 潤 五 月 十 一 日 奉 随 圓 阿 闇 梨 受 了 俊 咬 こ の 奥 書 の 内 容 の 検 討、 お よ び ﹃ 千 手 儀 軌 経 ﹄ と 千 手 観 音 曼 奈 羅 と の 関 連 な ど に つ い て は、 稿 を 改 め て 論 じ る こ と に し た い。 同 じ く 脱 稿 後、 延 暦 二 十 四 年 ( 八 〇 五) 四 月 二 十 四 日 付 で 東 大 寺 に 宛 て た 太 政 官 牒 (﹃ 平 安 遺 文 ﹄ 第 一 巻 二 十 頁) に、 使 造 宮 少 屡 従 七 位 上 田 中 朝 臣 名 守 と あ り、 田 中 朝 臣 名 守 の 名 を み い だ す こ と が で き た。 し か し、 名 守 の 位 階 は 従 七 位 上 で あ っ て、 大 宰 少 武 に 相 当 す る 位 階 従 五 位 下 と は ず い ぶ ん か け は な れ て い る。 し た が っ て、 大 同 二 年 ( 八 〇 七) の 時 点 で、 名 守 が 大 宰 少 武 に 任 ぜ ら れ た 可 能 性 は き わ め て 低 く、 名 守 を も っ て 田 少 武 と み な す こ と は で き な い と 考 え る。

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