『
大
日
経 』 所 説
の
菩 提
心
に
つい
て
山
本 匠
一郎
は じ め に『
大
日経』
に おい て菩提
心が 中心 的なテ ーマ の 一つ と なっ てい るこ と は、衆
目の 一致 す
る とこ ろ で ある1) 。『
大
日経』の教え
のエ ッ セ ン ス は、 い わ ゆ る「
三句
の法
門」(菩提 心爲 因。 悲爲根本。 方便 爲 究竟。) に集 約 さ れ る という観
念は、 イン ドで成
立 ・流布
した時代か ら通念 と して あっ た 。 よ く知られて い る よう
に、KamalaSlla
(740
・? −797
)は 『修習
次第』
(Bhdvandikrama
)中で、『
大
日 経』
の 三 句の 法 門 を核 と し て 、仏 教思想
を体系
的に 理解
し よう
と して い る2)。近 現
代
の 『大
日経 』 研 究におい ては、 シナや チ ベ ッ トにおけ
る 『大
日経』
の注釈書
の 比 較研 究や、 唯識 系 論書 な どの 周 辺 文献
のな か に 『大
日経』
の菩
提 心 思想の 淵 源 を探る試み を中心と して、す
でに多 く
のす ぐ
れ た研究蓄積
が ある。 だ が先 行研究の多
くは第
1
章 厂住心 品」に おける菩提心解釈 につ い て 述べ た もの であ り 、 『大
日経』 全 体に わ たっ て菩 提心 を 理解し ようとする試 み はま だ充分 に は な されて い ない ように思 わ れる。Buddhaguhya
(8
世 紀)に関 して言 え ば、 従 来の研 究で は、 し ば しばBud
−dhaguhya
の菩提
心説
は、Santideva
(685
−763
)の
〈
願 pra
ロidhi
>
とく
入prastha
−na
>
の 二種菩
提心説と比較 さ れる3>。Buddhaguhya
は確か に二 種 菩 提 心 説に つ い て言 及 するけれ ども、 後 述 する よ うに、 彼の 菩 提 心 説は 二 種 ・三種 ・四 種 と多
様であるか ら、 そ れ らの 位相 と意味
内容
を注 意深
く見極
め なけれ ば な らない 。善 無
畏
(637
−735
)の 場 合、 その菩提心 に関する理解は、 一 行の 中国 仏教 的理解
に加
えて、『
般若
経 』(ル 軅 砂 伽 珈 燃 跏 α)や 『華 厳 経』
(Garpdavyahasatra
)、『
大 乗 荘 厳 経 論』
(Mahdydinasatrdilamhara
)な どの大乗経 典
や論書
を引
用 しつ つ智 山学報 第六十 輯 解 釈 を施 して い る。
Buddhaguhya
も、 イ ン ド仏 教 思想の展 開状 況 をふ ま え、 そ れ らの 思想
群 をソ ース と して適 宜援用
しなが ら、菩提
心 を解釈す
る姿勢
が見受
けられ る。『
大
日経
』所説
の菩提
心が い か なる思想
源に基盤
を持
つ か、 これ か ら考
察を進
め てい くことに したい 。 菩 提心 とい う語 につ い て菩 提
心という
語は、 世 出世 部所 伝の 『大 事』
(Mahdivastu
)中で使わ れて 以 降、大乗
仏教 に おい て盛
ん に使
用さ れ る よう
に なっ た とさ れ る4)。大乗
仏教
の な かで発 展 してい っ た菩 提心 という
語は、 仏教 思想の それぞれの展 開面に おい て、 鍵 語と して の役 割
を果 た してい く。多
くの大
乗論 書 には、 「発 心 」 また は「
菩提
心」
の 語 を冠す
る章
節が置
か れ、菩提
心が 中心 的なテ ーマ と して論 じ られる 5)。すで に
『
般若
経 』におい て 、菩
提心は空性
の観
念の も とに把 握さ れてい る が 6)、 その空 性の 理解を め ぐっ て、 論 師た ち は解 釈 を重 ねて い っ た。論
理 学 の分
野、 さ らに中観、 唯識、 如 来 蔵の 思 想 分 野におい て、 そ れぞ れの 教 理 部 門は相
互 に影響
しあい なが ら空 性の 定義 を発展 させ てい く。 空や無 我 という
概 念は、 声 聞 ・縁 覚 ・菩 薩 ・仏の種姓 (gotra)の 問題と リンク して論
じ られ る 。菩
薩は、 声 聞や縁覚
の 二つ の教 え(二 乗)の 立場に陥っ て は ならない とされ、 大 乗の 立場 を鮮 明にするため に、 空や無 我 とい っ た伝 統 的な真理概 念に、大乗
に とっ て特別
で本質
的 な意 味 内容が付 与 され 、 種 姓 を判 定 する指標と なる。す
な わち、 人無我
は声
聞の境 地であ り、 法 無 我は菩 薩の境地で ある とする見方
が 生 まれ る。 た とえ ば『
摂 大乗論』
(Mahdydinasamgraha
)な どに そう
したこ とが説か れる7)。6
世紀
半か ら7
世 紀 前 半には成 立した とされる『
大日経』は、 こ う した大 乗の教義
学を踏 まえてい る8) 。 すで に先
行研究で 『大
日経』
の菩提
心説
に影響
を与 えた とされ る経 論 書9)が 指 摘 され 、 「住心 品」の 「三劫 段」
「六無
畏 段 」 「如 実 知 自心 」 「三句 」 「三 心 」 「初 心 」 「自心 加 持 」 とい っ た術 語 を中 心 に、 その思想源
泉 を探
る試み がなされて い る 10)。 そ れ らの 試みを要約 す れば、50
『大日経』所説の菩提心につ い て (山本 )
『
般若
経』
、『
華厳経』
、 『十 地経』
(1
)誌α肋 腕 醜 α プo 雁 〃za 〃zahdyanasUtra )、『
菩薩
地』(Bodhisatvabhzami
)、『
大 乗荘 厳 経 論』 な どの経論
に おい て次第
に整 備 さ れ てい っ た修
道体系
が、 『大
日経亅
の 心 品転 昇 説 (菩 提心 展開論)へ と継承
さ れて い っ た と さ れ る。『
大
日経』所説
の菩提
心説
は、 さ らに後
期 密 教の『
秘 密 集会
タ ン トラ』
(Guhyasamdy
’atantra )に も継承
さ れ 、い わゆ る「
菩提
心修習論
書 」 の 思想 基 盤の 形 成に寄与 し た とされ る 11)。 『大 日経』 所 説の菩 提心 『大 日経』 にお ける菩提 心の語の使 用 例につ い て、一瞥 してお き たい 。 菩提
心の語
は大乗経 典
で は さ か ん に使
用 さ れ る が、 諸経 典
に比 して も 『大
日 経』は菩 提 心の語 を多
用 してい る12) 。まず
『
大 日経』 第1
章
「住心 品」
で は、 菩 提心は悟 りの基 体 として論 じ ら れ、 悲や方 便 と ともに、 一切智 智 を獲 得 する起因 と し ての 菩 提 心が説か れ る (三 句の法 門)。 三句の 法門 に 関 して は先 駆 的な経 典と して 『金 剛手 灌 頂タ ン トラ』(・歌yσ一吻 劉妙 砌ガーσ6
傭 召々α一〃励 励 mtra )な ど が挙 げ ら れ る13)。 「住 心 品」所説
の菩提
心 説が もっ と も有名
であり
、後
世に与
えた影響
に おい て多大
である こと は言 を俟たない が、 経 典にお けるその 叙 述は短 く、 い たっ て シン プル で ある。第
2
章 厂
具縁 品」にお ける菩
提 心 説は、 阿 闍梨の 資格 要 件 と して求め られる徳 目の一つ と して説か れ る。 ま た灌
頂儀礼
に おい て弟
子 がマ ン ダラに 入るた めの前 提 的 な条
件として 、 菩 提 心の修
習が 必須
と され る 14) 。 マ ン ダラ に 入 る 前 に 菩 提 心 を 修 習 す る こ と を 説 くの は、 『グ ヒ ヤ タ ン トラ』(
Sarvama
”dalasdimdinyavidhi
−guhyatantra )15)、 また『
金剛手 灌頂 タン トラ』で も同
様
で 16) 、 この 一種の資
格( qualification)と しての菩
提 心は、 後 述 する よう
にBuddhaguhya
が灌頂儀礼
に おい て だ けで な く、 さま ざ まな場
面で くり
か え し主 張する こ とで ある。第
4
章 「
普
通真 言蔵 品」
で は、菩
提 心が行法
や儀礼
中の 一要
素と して採用 され る。 菩 提 心は阿字四転の 起 点と して表 徴 され、 釈尊
の生涯 をふ まえた 「発心 ・修
行 ・菩提 ・涅槃」
(阿字四転 )という
4
つ の コ ン パ ー トメ ン トの第1
段 階と して位 置づ けられる。 菩 提 心が 、真
言 と して象
徴51
智山学報第六 十輯 的に表現 される。 さ らに第
7
章 「説 本尊
三昧
品」
(漢訳は説本 尊三 昧品 第二十八) では、本尊
瑜 伽 を理解
する際に重要な教 理 基 盤 として菩提 心 が 説か れ る17)。 い わ ゆ る「
大乗
思想の儀 軌 化 」(松長有慶)である。 教 理 と実践
との綜合
として、第
17
章 「
持
明禁 戒 品 」(漢訳は持 明 禁 戒 品第十 五)、第
20
章 「
受方
便 学処 品」(漢 訳は受方便学処品第十八)で は、菩提
心が戒
その もの とな っ て い く。 こ の〈
戒と して の菩提
心〉
は、第
2
章 「
具 縁 品」
と密接に関わ り、 灌頂儀礼
の場面
に お い て弟 子が 三昧 耶 戒 を誓 う際に、 「決 して菩提
心 を捨て ない」
という誓
戒 を 第一 に挙 げる。 これは 『金 剛手 灌頂
タン トラ』 もほ ぼ同様であ り、灌頂をテ ーマ とする密教 経 典 に お け るス タ ン ダ ー ド と 言 える18)。 こ の ように『
大 日経』
の各章
にわ た っ て菩提心 が説か れるが 、 その 内容 規 定は おの おの 異 なっ て い る こ とがわか る。菩提
心には種
々 の アス ペ ク トが あると考 え られるが、 とす
れば、それ らの諸様
相に おい て菩 提 心 とい う一つ の 語が採用 さ れ る には、 そ れ ら菩 提 心の ス ペ ク トル を統合 する任 意の視 点、 あるい は 一個の根元 的 連 合が想定
されてい ると考
えら れ るで あろう
。 その視 点 と基盤は何か、 これ か らBuddhaguhya
の注釈を中心 に して探 っ て み る ことにす
るが、 その前
に先
行 研 究にお けるBuddhaguhya
の 菩 提 心 説の 問題 点につ い て触れ て お きたい 。先
行
研究に お け る問
題点先
行
研 究で は、 田 上 太秀[1990
]がBuddhaguhya
の菩提心説を取 り上 げて、次
の よう
に指
摘 し批判を加
えてい る。 そ れ は要 約 すれ ば 以下の とお りで ある。Buddhaguhya
は本 来清 浄 心と して の菩 提 心 を考 えて い ない 。 菩 提 心 を客 塵 染 汚された もの と
考
えてい る。Santideva
の菩提
心説
をBuddhaguhya
は充 分に理解 してい な かっ た。Buddhaguhya
の 菩提 心 説 にはSantideva
の よ うな積 極 的に実 習へ と向 か う菩提 心の 在 り方が示さ れてい ない 。Buddhaguhya
の 菩 提 心 説につ い て、 上 記 の 如 き批 判 を田上氏は加
える。 氏はSantideva
をス タン ダー ドな立脚点 として捉 えてい るの で 、氏の視 点か らすればBuddhaguhya
は そう
し た標準
か ら逸 脱 し た もの とみ な さ れるか も (52
)『大日経』 所説の菩提心 につ い て (山 本) しれ ない 。
しか し
につ い て言 えば、 如 来 蔵 説 はすで に
『
勝 鬘 経』(Srimditisim
.hanada
− sabtrα)、 『華 厳 経 如 来生 起 品』(TathagatotPatti
’ sambhavanirdeSa )、 『智 光 明 荘 厳 経』(擁8
滋 ♂o 刷 雌 肋 α)な どの如 来 蔵 系経 典が 成 立 した後 に、 『大日経』
自体が その 影響を受 けて成立 し て い る19> 。 また如来 蔵の理論におい て は「
客
塵 煩悩
な る が ゆえに自性清浄
心」
とされ るの で あ り、 もちろ ん注 釈 者で あるBud
−dhaguhya
もそう
し た如 来 蔵 説 を踏 ま えて い る20) 。 と りわ け自
性清
浄 説 は『
大
日経』
の菩提
心説
の中
心テ ー ゼで あり
、Buddhaguhya
におい てそ れは清 浄 ・空性 ・真如
と して論
じ ら れ る。 また如来蔵説
で よ く用い られ る真
金の 喩21)など 、Buddhaguhya
は主 と して『
涅 槃 経』(漁 励 α漉 蜘 砌αs露’7α)や『
十
地経』
や 『華厳経』
という
ス タン ダー ドな大 乗 経 典 を念 頭に置 きなが ら述べ て い る喩例 が見受
けら れ る。Buddhaguhya
は 必ず しも文 脈に沿っ た論 述で は なく、 出典をい ちい ち明示 する よう
な ことは しない の で、 はっ きり
と見受
けに くい の で ある が、大
乗 経 典に か な り精
通 してい た よう
で、 他 にも 『三昧
王経 』(
SamddhiMl
’asdrtra)や『
迦葉 品』(Kas
’yaPaParivarta)な ど か ら達 意的 な喩
例を引 く。 い まこ こ で 『大 日経 広釈 』(
Bhasya
.以 下r
大 日経広釈』の 引用は とくに こ と わ らないか ぎ りすべ て 劭 衂 α)か ら一例 を示 して み よう。 文 脈は 『大 日経亅第
2
章 「
具
縁 品 」 中、 三昧 耶 戒を た もっ て加 行 ・正行
・後行
を修
してマ ン ダ ラ を見
ること により
、修行
者の 罪障 が 浄化 されるこ と を 、灯 火の比喩 によっ て解釈
して い る 22)。後
(行 )とは、 マ ン ダラに入 り終わ っ た後に、 正法と菩提 心 を捨
て ない等
の三昧 耶を想
い 出すことである。 そ れ ら (加 行 ・正行 ・後行)の 三相 を具えてマ ン ダラを見れ ば、
多劫
に積集
した 罪障 も浄 まる で あろ うこ とは、た とえば
多
年に わ たっ て あっ た暗黒が一度灯 火が 生 じれ ば無
くな るの と同じで
あ
る23> 。 一 これ は 『迦 葉 品』
の 次の 文言に依 拠 してい る と思わ れ る。 文脈
は 、空性
の知
恵 (= 灯 火)に よっ て 業 ・煩 悩(三 暗黒)を浄 化 す る こ と を説 く箇 処
であ
る。智山学報第六 十輯
カー シ ャ パ よ 、 た とえば、 つ ぎの よ
う
で ある。 どこ かの 家に せ よ建 物にせ よ、 あるい は部屋 に せ よ、 千
年
もの な がいあ
い だ 、い ま だか つ て 油の灯 火が ともさ れ た こ とが ない とする。 だれか が そ こへ 油の 灯 火を とも
した な ら ば、 カ ー シ ャ パ よ、 どう思 うか。 その 暗 黒が 「私 は千
年
もの あい だ、 こ こ に積み重ね られ て きたの だ。 私は こ こか ら出てい か ない 」 な
ど と思
う
であろう
か 24) 。tadyathapi
namakaSyapa
grhe
valayane
vaavavarake va
var
$
asa
−hasrasyatyayena
natat
kadacit
tailapradyotah
k
;to
bhavet
atha catatra
kaScid
evapuru
$abtailapradlpa
甲kuryat
tat
kiM
manyasekaSyapa
maiva エ
p
tasya
tamondhakarasya
bhUd
varSasahasram samcito ’ha
即naham
ito
vigami 串yamiti
/(Kdis
’ yapaparivarta ,
71
.〉こ の ほか
Buddhaguhya
は ま た 『三昧
王経』に依 拠 し な が ら、菩提
心 を 母 胎 中の胎 児
に譬
えた り もしてい る25)。 こ う した喩 例 に意 を 向け
れ ば、Buddhaguhya
が 諸 大 乗 経 典にお ける教説
を念 頭に おきなが ら、菩提
心 を本
来清 浄 なる もの と して捉 えてい るの は 明 らかで あろう
。また
につ い て 言 えば、
Satitideva
(685
−763
)の願 (bodhipranidhicitta
)と 入 (bQdhiprasthanacitta
)の〈
二 種菩
提心説〉
は イン ド仏教 論 師の なか で 人口 に膾 炙し た もの で あ り、
Aryavimuktisena
(6c
)、Jfiatiagarbha
(700
−760
)、KamalaSi
−la
(740
?−797
)26)、
Haribhadra
(800
年 頃)、Pra
頂akaramati
(950
−
1000
年 頃)、DharmaldrtiSri
(10
−11c
)、Smrtijfianaklrti
(1000
年 頃)、AtiSa
(982
−1054
)、Abha
−yakaragupta
(1064
−1125
)な ど多 く
の論師
が言 及 して い る27)。Buddhaguhya
は〈
二種菩提
心説〉
に関 して は今 さ ら言 及する まで もない こ ととして、 あえて く わ し く論述 し ない 態 度 を とる。 後 世AtiSa
が 「(願 と入の 二 種 菩 提心に つ い て は)偉大
な賢 者 らや 、 今の 賢者 らが、多
くの 説を説い てい る」28>と言 うように、Buddhaguhya
がSantideva
の 〈二 種菩
提 心 説〉
を理解
して い ない という
の で はな く、〈
二種 菩提 心 説〉
に言 及 しな が ら、 そ れ をあ くまで も『
大 日経 』 自体 の 文 脈に沿
っ て解
釈 してい る もの と考
えたほう
が よい 。 そ もそ も 『大 日経』
「
住
心品」
の教
理は『
菩 薩
地』
29) 、『
十 地経』
30 ) 、 『大
乗 荘 厳 経 論』31)、 『摂 大 乗54
『大 日経』 所説の菩提心 につ い て (山本) 論 』32)な どの
大 乗
の ス タ ン ダー ドな修 道 論 を踏襲
し た もの であ
っ て、Bud
−dhaguhya
は当時
の 仏教 学 説 を充分 にふ まえた 上で自
らの思想
を展
開 して い る と言える。 ま たBuddhaguhya
は二 種の 菩 提 心(〈願の菩 提 心〉と〈入の 菩提心〉、 また はく菩提を目的とした 心〉と〈菩提を自性 と す る 心〉の二 種)、 三種の菩 提心 (入 ・ 住 ・起)、 四種の菩 提心 (願 ・入 ・住 ・起 )な ど多様
な菩提 心 説 を提示 してい る。さらに
につ い ては、 積 極 的 な実 習へ と
向
かう菩提心
のあ り方
こそが、真
言門におい て修 行す
る菩 薩たちの 本 領 とする とこ ろ であ
っ て、 そ れはす
で に 『大 日経 』 自体の文脈
に おい て看 取さ れ る。 灌頂 儀礼、 阿字
の 四転
、月輪観
、 字 輪 観、 また は修 法における本尊
瑜伽の教理基盤 として菩
提 心が説か れる箇 所 などは、 その実 習 的側 面を扱 うもの とすべ きであ っ て、Buddhaguhya
の プラ クシス はまさ しくそこ に基 盤を置い て い る。以上
見
た よう
に、 『大
日経』
は大 乗の諸テ キス トか ら影響
を受
けて成 立 し てお り、 また『
大
日経』 自体
に おけ
る菩提
心の 用例 が さ まざ ま な場 面で説か れて 一様
で ない 。 さ らに注釈
におい て もBuddhaguhya
は種
々 の菩提
心説
を 提示 する の で、 非 常に理 解 しに くい 面が あるが 、 以 下 に 『大
日経 広 釈』
を中 心 に して 、 その 菩 提 心 説 を把 捉 してみ るこ とに したい 。 『大 日経 広 釈 』所 説の菩 提心の諸 相『大 日経 広 釈 』 第
1
章 「住心 品」
だけで菩提
心の 全 引用例の 約三分の 一 を 占め、 第2
章 「具縁 品」 を含め る と全 引用 箇 所の半数
を占
め る(後 出の 出典 表 を参 照)。第
2
章
以後
もほ ぼ全 体 に わ たっ て菩提 心の語が見出
され る。 こ れ は そ もそ も『
大 日経 』 本 文の 各 章におい て この 語 が見 出され る こ とによる。Buddhaguhya
は基 本 的に 『大
日経』
の文
脈に沿っ て注 釈 を施 し、 その 文脈
に従
っ て菩提
心の内容規定
は多
岐に及
び、 こ の語を核
と して大乗
思想お よび 真言 門菩 薩の基 本 的立場
が形成
されて い る と言っ て よい 。 菩提 心に教 理が集
約さ れ る 理 由は、 後 述 する よ うに、 師 弟の修
学規定
、 入壇
の条件
、種姓
(got− ra )、行法
とい っ た実 践上の 諸 問 題が、 菩 提 心 を核 と して リン ク し あい な が ら、 同一面 に おい て さま ざまな動 態 を現 出させ る か らで ある。智山学報 第六十輯
こ こ で は ま
ず先
に見た〈
願 と入の菩提
心〉
をBuddhaguhya
が どの よう
に 規定
して い るか を見て みたい 。〈願の 菩 提 心
〉
(smonlam
gyibyang
chubkyi
sems33 ).Skt
,bodhipra4idhicitta
)と は、
Santideva
と同様
、悟 りに対 して心 を志向
するこ とである。 そ れは「
有情
利 益を 目的と して私は成 仏 します」
という誓
願を表わすとされる34) 。Buddha
−guhya
におい て、 こ のく
願の菩提
心〉
は 、 灌 頂 儀i
礼の 際に 阿 闍梨が弟
子に要 請 する菩提 心である と され る 35)。 弟 子がマ ン ダラ に入 る際に〈
願 の菩 提 心〉
を生ず
るこ と に よ り、弟
子 は 浄化さ れ36)、 「勝 者の 族 」(jinakUla
)37)すな わ ち仏 子 と して生じ、 仏種姓
と なる こ とを保証 さ れた者 とな る。〈
入 の菩 提心〉(’jug
pa’i
byang
chubkyi
sems38 ).Skt
.bodhiprasthanacitta
)とは、Santideva
に よれ ば、悟 り
を願う
心か らさら に歩み を進めて律儀
(sarpvara )・地 (
bhami
)・波 羅蜜
(paramita )な どの 菩 薩 道 を実践 す
る こ とであ
る39)。Bud
−dhaguhya
におけるく
入の 菩提 心〉
は、 一切法
を空性 と して修 習する こ とで あ る 40)。 その空性
の内
容は 「蘊 ・界 ・処、 所取 ・能取を捨て て、 自心は本不生 であ り、 空性の 自性 である」 という
、 い わゆ る 「菩 提 心 句 」と して 規定
さ れ る。Buddhaguhya
はく
願 ・入 ・住 ・起〉
の四種の 菩 提 心 説を提 示 す るが、 こ のう
ちく
願〉
とく
入〉
の菩 提心 を捨て て はな らない という
41)。〈
入の菩提
心〉
は、 蘊 ・界 ・処 等の 諸 法 (有為法)を滅 する性 格 を もつ 42)。菩提
心 の作
用は、 内的 に は煩 悩 などの 障碍 を 除 き、外
的には 土 地 や事
物を浄 化 する な どの 除 障 効 果 ・浄化 作用 が あ るが、 そ れ は こ の 諸法を滅 する は た ら きに基づ く43)。〈
住
の菩提
心〉
(gnas pa’i
byang
chubkyi
sems44 ).Skt
.bodhisthiticitta
?)。ま、 諸法 を滅 した
後
に空性 ・無 相 ・無 自性た る無 分別の 三昧
に住 するこ とである45) 。菩
提心 を空性とする規 定 こそ が、 『大
日経広釈
』における菩提 心 説の 中心 的 な プ リンシ プル と言 える46) 。〈
起の菩提
心〉
(ldang
ba
’i
byang
chubkyi
sems47 >.Skt
.bodhivytitthanacitta
?)と は 、空性か ら再び起 っ て 、
有
情 利益のために 四支 念誦等の儀 軌 を修 習 して 自身を本尊 身
として変 化 させ る こ とをい う48)。『大日経』 所説の菩提心につ いて (山本)
れ る 49>。
Buddhaguhya
は こ れ らの4
種の 菩 提 心 に加 えて〈
初 地の 菩 提 心〉
(sadang
po・i
byang
chubkyi
semsso ).Skt
. prathamabhUmibedhicitta ?)51)を説 く。『
大 日経 』におい てそ れ は
単
に「
最初
の菩提 心」
(Tib
.byang
chubkyi
semsdang
po
,Chin
,初心 .
Skt
.prathamabOdhicitta
?)52)、 また は「
初 発 心」
(prathamagcittotpadah
)と表
現 されるが53) 、Buddhaguhya
は それ を〈
初 地の菩提
心〉
または〈
初 地の心〉
と解
釈
するM ) 。Buddhaguhya
は、 初 地におい て菩提
心の典
型的
な活動態
を見
出 そう
とする。 修 行 者はまずく
住
の菩
提心〉
を修
習 するこ とに よっ て 「真理 を見 る」
55)(見 道)に到 る 。 こ れ がく
初 地の 菩 提 心 〉に相 当 する。 そ れは 「無上菩提
と同一 の 自性 をもつ 」とされ56) 、 「 一切 法の 平 等 性に入る 自性 」であり
57)、 「清 浄」であ り58) 、 「極 無 自性
の 相」
であ
る59)。こ の よ
う
にBuddhaguhya
は『
大
日経広釈』
中で、〈
願の 菩 提 心〉
〈入の 菩 提 心〉〈
住の 菩提 心〉〈
起の菩提
心〉〈
初地の菩提
心〉
とい っ た さ まざ まな菩 提 心 を説 くが、 こう
した菩提
心の諸相
が生 じる所
以 と、 それ らの菩提 心の 活動 領 域につ い て、次
に見てい くこ とに したい 。菩提
心の活動領
域十
地 と十 波 羅蜜一〈
願 ・入 ・住 ・起 〉
の 四種
菩 提 心 と〈
初 地の 菩 提 心 〉、 『大 日経 広釈』
所説
の これ らの菩提
心の諸相は、 初 地か ら十 地にい たる まで の信解行
地の転
昇の過程
を前
提 と して、 そ れ らの一個の 連 続 的系 列 を移 行 してい く心 的 基体
の動 態 に応 じて名づ け られ た もの と定 義さ れ る。 『大
日経』 中に厂
信解行
地 におい て 三心 を観 察 する」60)と言 わ れ る よう
に、〈
入 ・住 ・起の 三 心〉
は信 解 行 地に おける菩
提 心の動 態 を表現
した もの で ある。 そこ での信解行
地とは、初
地か ら十 地にい た る までの 出世 間道
を自他
とも
に信 じて修行
する段 階 をいう
61)。『
大
日経
広釈』
は三心 を端 的
に「
信解行
地に住す
る功徳
(Tib
, yon tanSkt
騨 a,
「特 質」の 意)
」
と表
現 する62)。 信解 行
地と は、十
地におい て菩 提 心が活 動 する起
点
で あ り、 かつ 全 体で ある。智山学報 第六 十輯 れ、 『
菩薩
地』
な どの唯識 文 献で は その よう
に説か れ るの で あるが63)、 『大 日経
広釈』
で は 、初
発心 が初 地の 心と解 釈 され るの で、 従 来の 信解 行 地の解 釈 と は異 なっ た理解が生ず
るの であ る。 つ ま り信 解 行 地の修 行 階梯が、 従来の 大 乗教 学で は初 発 心か ら初地 まで の ス パ ンで あっ たの が、 『大
日経広釈
』で は初 地か ら第
十 地 まで と さ れ、 上 位ヘ ス ラ イ ド してい る。 こう
した理 解は『
大
日経疏』
でも
同様
で ある64)。「心 品転 昇 」と言 われ る、 こ の
菩提
心の展 開 過程は大 乗 菩 薩の修行体系
に 沿っ て説か れ る。 その修 行 体系が 『十 地 経』 等に説か れ る菩
薩の 十地説であ り、 こ れ が『
大 日経 』お よ び 『大 日経 広 釈』所
説の菩
提心 の基 盤 となる。 『十 地 経』に よれ ば 、 十 地 と十波 羅 蜜 と四摂 事 は、 以 下の よう
に対応 して説 か れ る。 十 地 波 羅 蜜 四 摂 事 出 典(Sktノ和 訳) 第一歓 喜地 布 施波 羅蜜 布 施 p.26/p61 第二 無 垢 地 戒 波 羅 蜜 愛語 p,46/p92 第三発 光地 忍 波 羅 蜜 利行 p.61/pユ16−117 第四焔 慧地 精 進 波 羅蜜 同事 p73 /pユ40 第五難 勝 地 禅 定 波 羅 蜜 p.87/p.165 第六現前地 般 若波 羅蜜 Pユ05/P.199 第 七 遠行地 方便 波 羅蜜 p.125/p.232
第入 不 動 地 願波 羅蜜 pユ46/p.269 第九善慧地 力 波 羅 蜜 p.166
/p.305
第 十 法雲 地 智 波 羅 蜜 p199 /p.346Buddhaguhya
は 『大 日経広釈』で十地 と十 波 羅蜜 と 四摂 事 の 対 応 を説 くが、 そ こ で ま さ しく 「詳細 は『
十地経』
等を見るべ きで ある」
65)と典拠 を 明示 する。 すで に北 村 太 道 氏 と頼 富 本宏
氏が指摘
してい る よう
に、『
大
日経略釈
』(P
勿4
’7焼α)で は、 三 心と信 解行
地 を解説す
る際に、Buddhaguhya
所 伝 の 『大 日経』
に付属
してい た「
外 篇」
(uttaratantra )の 「秘 密品」所説の 十 地説
を引用する66) 。 こ の 引用は現 行の 「大 日経』
に見
出さ れ ない が、『
十 地経』 を下敷 きと した十 波 羅蜜 と 四摂事との対 応 を説 く十地説は、 そ もそ も『
大
日58
『大日経亅 所説の菩 提心につ い て (山 本) 経 』 「住 心 品 」の次の文 言を敷衍した もの で ある と言 える。
信 解 行地 は、 三心 を
観察す
ることであ
る。 諸波羅
蜜 を行ず
ること と、四
摂
に よっ て、信解
地は無
等であ り、 無 量であ り不 思 議で ある。無
量の智を 生ずる のは、
十
心 に よっ て得
るであろう
67) 。す
なわ ち、信
解 行 地 一 三 心一 十波 羅 蜜一 四摂事
一十地 という
、大
乗菩
薩 の一大 修 行体 系 がこの 短い 文 章の なかに集約 されてい る。 こ の修行体系
が、 可 能態 として の 初発 心 か ら現 等 覚 とい う完成 態へ と到る まで におい て 、菩提
心 が活 動す る基 盤領 域で ある。信 解 と菩 提心
ゴ ー トラ を視 点 と して一
信 解 (adhimUkti .「宗教 的 傾 倒心」)には優 劣が あ り、 信 解の勝劣 に従 っ て、
修
行
の 進度
と ラン クも異
なる。す
なわち信解
の問
題は、種
姓 (gotra
)の問 題と関 連 する。 こう
した観
念はす
で に 『般 若経』
に見
られ る68)。 十 地の 階梯に進 む菩 薩
は深
心信解
の菩 薩
であ
る。 こ れ に対
して信 解
の劣
っ た者
を「
劣信
解 」(
hlnadhimuktika
.・Tib
.dman
pala
mos pa )という
。 劣信 解 者と は、 具体
的 に は声
聞 ・独 覚 乗、 我 見 ・プ ドガラ見者 、 大乗 経を信 じない 者をい う。 大 乗に傾 倒 心 (信解 )を起こすこ とに よっ て、 菩 薩 候補生 とな り、 さとり(菩 提)へ
向
けて発
心す
ること に よっ て、菩薩
道に入 る。信解
と菩提
心とは ほ とん ど同 じよう
な意 味である69) 。 信解
の度合
い に より種姓
の 差異
が生じる。 如 来蔵 説や後期 仏教 時代 以後の大 乗 仏教の究極 的立場で は、種
姓や機根
の区別 を論
じるこ と は一つ の 仮設で あ り、 一切 衆生 は一つ の種姓
で ある とみ なす
が 、『
大
日経』
は そう
した 立 場 を積 極的 には 説 か ない 。 仏教 徒 と なっ た 者に 関 して は種 姓 を 問わない とい うの が『
大 日経』の基 本 的立場で ある。 『大
日経』
に説か れる劣信解者
は「
劣
慧」
(Tib
.blo
zhan ,Skt
. mandabuddhika )と表 現 さ れる 70)。『
大
日経
』
第3
章 「息 障 品」で は、 劣 慧の 者 が 『大 日経』
の 経 説 を外 道の 教え
と見な し、 仏
説
で は ない として退け
るこ とが説
か れ る。 『大 日経 広 釈』
で はその外 道の教 えを 「世 間の タン トラ
」
、仏 説を「
出世 間の タン トラ である所 作 タ智山学報第六十輯 であっ た り、 経 説を非仏 説と して誹 謗 し た
りす
る者
の こ とで あ り、 大乗 経 典 には しば しばそう
した批 判者が描か れ る (た と え ば 搬 若経』 「魔事 品」7D )。 大 乗経 典に お い て、劣
慧の周
辺 にい る存在
者は声
聞 ・独 覚な どの二 乗 を指 すが 、 『大 日経』
におい て はそ れ が二 乗か ら外道へ とシ フ ト して い るこ とが確 認 さ れ る。 これ は仏教の 対論 者
が時代 的に変 質 して きた状 況 を反 映してい る もの と考 え
られるが、詳
細は今後
の研 究に またね ば な らない 。『
大
日経 広 釈』所 説
の劣 信解 者
に つ い て見
て み よう
。 以 下 に示 す 文 脈は 『大 日経 』 第29
章 「真 言 門行 菩 薩行 儀 軌 品」(漢 訳 は 「嘱累 品第三十一」)中 、 仏 弟子の相を説 く箇所である。 「その と き世 尊 はすべ て の 集会 者た ちに仰っ た。 私が保 持 し行 っ た もの を、 あ なた は こ の
法
の経説
に おい て行 う
べ きで ある」
という
の は 、 この
法
の経説
は器
で は ない (Tib
. snoddu
ma gyur pa .Skt
. abhajanlbhata )諸
の有
情
に は軽
はず
み に与
えるべ きで は ない の で あっ て 、 その ゆえに説い たのが
「
機 根
を分 別せず
にまた与 え
る こ とな く、 わ が 子 た ちは 分 別 せ ずに(与え る)」とい うの で ある。 まさ に その 子 た ちの
相
とは 、 以 下 の とおり
、お よそ 信解す る者た ち に対 して は機
根
を分別する必要な しに与え るが 、そ れ 以外の 者た ちに は 、 こ の 甚 深の 法の 経 説は 、般
若
(波羅 蜜)を具えてい る か否か、 機
根
が貪欲等
の境に流れてい る か否か を観 察 して判 断すべ きで あっ て、 そ れらの諸の 欠点 が ない 器であ れ ば、 は じめ て与 え なさい 、とい うの で ある。 「智 慧の 少ない 不信心者に
甚
深 広大
な る法 を説 くな ら ば菩 薩の あや まちで ある」とい われて い る か らで ある 72)。『大 日経 広 釈』(
Bhdsya
)は 、 こ の 箇 所を 厂智慧 の 少 ない 不 信心 者 」(blo
chung zhing ma
dad
pa )と訳 すが73)、gZhon
−nu −dpal
は『
大日経 広 釈』
(y
〜漉)でこ れ を ま さ しく 「劣 信 解 者 」(
dman
pa
la
mos pa )と校 訂
し てい る。Buddha
−guhya
はこの 文 言に関して どこかの経論書
か らの引 用を示 唆 してい る が 、 こ れ は『
大
日経』 本文
ではな く、 お そ ら く『
迦 葉 品』か らの 引用であっ て、 そ れ は次の ようで ある。その 器でない衆 生に広大な 仏法を説 くことは 、菩 薩の あ や まちで ある74) 。
60
『大 日経』 所説の菩提心につ い て (山本 )
abhajanlbhUte $u satve §
UdarabuddhadharmasamprakaSanata
bodhisat
−vasya skhalitarp/(
Kdis
’yapaparivarta,11
.)種 姓、 機 根、 器 ・非 器 とい っ た さまざ ま な
事
柄が 、 信 解 という
用 語 を核 と して密接に 関連 しあい な が ら、 通大 乗に共通する 問 題群を形 成 してい るこ とが わ か る。法
を継 承 す る た め に は 、 まず 師弟の修 学 規 定 (学処)を定め、 弟 子の入 信条件 を設 定 する こ とが求め られる 75) 。 大 乗真 言 門におい ては 、その 設定こそ が 信解で あ り菩
提 心 で あ る と言 える。弟
子の種姓
や機根
や器 ・非器 を判定す
る際の尺度
は信解
= 菩 提 心である 。真 言 密 教にお ける
法
の継承
は灌頂 儀礼
(abhi$eka )に おい て遂行
さ れ る。儀
礼 中の ク ライマ ック ス は入マ ン ダラ の場 面であるが、 その際に弟 子は菩提 心 の修 習の 有 無を問わ れる。 菩 提 心が法 を継承 するため の資
格(qualification)ま た は証 明 (certhication )の機 能 を担っ てい る と言 える。 密教 の灌 頂 儀 礼 とヒ ン ドゥー教の 入 門 式 (upanayana )との 決定
的な相
違は こ こ にあっ て、菩
提心 の 宣 言こ そ、 自らが 大 乗仏 教徒である こ との 宣言 に他な ら ない 。弟
子は菩
提心 の 修 習によっ て金 剛薩 捶 として灌頂
さ れ、大乗
に生 まれ る(再生 すると言っ て もよい )76) 。灌
頂 とは、 入 信者
に菩 提 心 を埋め込 むこ と に よっ て、 根 本 的に 大 乗 種 姓(mahayanagotra )に生 まれ変
わ らせ る作業
であ
る。 入信者
を大
乗種
姓と して設 定 する基準が菩提心で ある と言える。 ま と め『
大
日経』所
説の 菩提心 は各
章にわ た っ て広 範に説 かれ る。 そ れらの 菩提 心の 種々 の アス ペ ク トを 、Buddhaguhya
は諸 大 乗経 典の 教 説 を念 頭 に お き つ つ 、 菩 提 心= 空の 思想 を背
景に して説い てい る。 彼の菩提
心説に よ れ ば、〈
願 ・入 ・住 ・起〉
の4
種の 菩 提 心 説、 また〈
入 ・住
・起の 三心〉
、 お よびく
初 地の菩提
心〉
等
の概念
に よっ て、菩提
心が統合
的に把捉
さ れ る。 その 菩 提心 の活動領
域は十
地 と十 波羅 蜜であ り、 信解 行 地である。 信 解 と菩提 心 と はほ とん ど同義
で あっ て、信 解の勝 劣 に従っ て、 弟 子や対 論 者の 種 姓、 機 根、 器 ・非 器が判 断 される。 こうした事 例は とりわ け灌頂
儀礼に見
出さ れ る が、61
智山学報第六 十輯 さ ら に
Buddhaguhya
はその菩提
心の機 能
(除障効果 ・浄化作用、資格 ・証 明機 能)を真
言密
教の さ まざ
ま なプ ラ クシス に適 用 して解 釈 してい る。 大 乗菩
薩 と異 なる真 言 門菩 薩 不 共の 菩 提 心 思想は、 この 菩 提心の 儀 軌化
にある が、 こ れ につ い て は、 また稿 を改め て論じな け れ ば な ら ない 。 菩 提 心の 修行 方法は 『金 剛頂経』
へ と至 っ て、 五相 成身観
(通達 菩提 心→ 修 菩提 心→ 成 金剛心)と して 、 さ らに洗練 される こ とになる 77) 。 大乗 思 想の範疇 内におい て も菩
提 心につ い て語 り残 し た部 分は多
い が (た とえ ば 世俗 ・勝 義の菩 提心説な ど78)) 、 こ こ で は真言
門菩薩
がい かに大乗菩薩
の行体系
を踏襲
してい るかにつ い て 、初
地か ら 仏地 にい たるまで の修行
階梯
に焦点
をしぼっ て論
述した。 菩提心 に具わる資 格の 機 能 と して は、 阿闍梨や弟子の資格の 一つ と して菩提
心 が挙
げ られ た り79>、 造壇の ときに土 地の 浄化 を行 う
際に まず菩
提心 が伴
っ てい な け ればな らなかっ た り80)、 弟 子 がマ ンダラに入る際に菩提 心の修 習 が前提
となっ たり
81)、成就法
や本尊瑜伽
を修行す
る前
に菩提
心の修
習が求
め られた り82) 、 タ ン トラを学 習 する とき 83) 、 また弟 子に印 ・真 言 を授 け るとき に も菩提 心の修 習が必 須 と さ れ84) 、 月輪 観 ・字輪 観 など 、 諸 儀礼の 実 施前 に菩提
心 を修 習す
べ きことが説か れ る85) 。 菩提 心の 修習 とは 、 地 ・波 羅 蜜 ・四 摂事
という
十 地(一信解 行地)の 活動 領 域に おい て〈入 ・住 ・起の 三 心 〉を修 習 することで ある。信解
と菩提
心 と種
姓とが密 接に 関連す
る一つ の事
例 と して灌
頂儀礼
をあ げ たが、菩 提
心 が要請
される場
面におい て、Buddhaguhya
はそ れ を 一貫
と し て〈
三心〉
に よっ て解釈
し よう
とす
る。 た とえば灌頂儀礼
の場面
で は、弟
子に〈
願の菩提心〉
を お こ させてマ ン ダラ に入れ、〈
入の菩 提 心〉
に よっ て弟 子を浄 化 し、〈
住
の菩提
心〉
に よっ て弟
子 を空性
と して加 持 し、〈
起の 菩 提心〉
によっ て阿 闍梨は大 日如 来 と して変 化 し、弟 子は金 剛 薩睡 と して変
化 する。〈
入 ・ 住 ・起の三 心〉が適 用 さ れ る のは、 灌 頂儀 礼のみ な らず、 月 輪観、字 輪 観、 四種法
などの各種
の修行法
に おい て も同様
である。菩提
心は真 言密教
の教
理 と実
践の両面
を兼
ね備
えており
、Buddhaguhya
はそれ を「
真
言の総 相は菩提
心で ある」とい う命題 に集 約 して い る86)。 あら ゆ る真
言の 諸儀
礼に おい て 、62
『大 日経』所 説の菩提 心につ い て (山本 )
菩提
心の活動
が及
んで い るの である。仏
伝
に は、 釈 尊の 降魔 成 道の 際に大 地の女
神 が証 人となっ て釈尊
の過去
の あらゆる善
行 を証 明 する場
面がある87) 。 その菩
提 行 とは地と波羅 蜜に ほかな らない 。 その仏 伝をモ チ ーフと して、『
大 日経』 「具縁品」
で は、 マ ン ダ ラ制作
の場
面で厂
警
発 地神
の 偈 」88)を唱 える。 そこ で は修 行 者のプ ラ ク シス であ る 「地と波 羅蜜
」
を女神
が証 人と なっ て認
め、行者
が マ ン ダラ を制 作 する こ と を承 認 する。縷
々 説い た よう
に、菩提
心の 基 盤とは、 大 乗菩
薩が踏み 行 う べき十
地 (+波羅蜜)の階梯
にあ
っ たこ とが想
起 さ れ よう
。 『大 日経』 出 典 表 Tib .(D/P)Chi
凡 (章 〉 文 脈 ・ 意 味 内 容 1153a /117alc (1) 三句 (菩提心 ・悲 ・方 便)2154a
/116blc
(1
) 菩 提 心 を清 浄に して心 を知るため に法を説 く 3154b /118b2a (1) 菩提 心 をい かに して生ずる か。 金 剛手の発 問 4158b /122b3b (1) 眼 耳 鼻 舌 身意を離れ た極 無 自性心 が最 初の菩 提心で あ る。 如 来 の答説5160b
/124b4a
(2
) 阿闍梨の 資 格の 一つ と して の菩提 心 6162b /126b5b (2) 阿 閣 梨 は内 我 を清 浄に して菩 提 心 をおこす。 入 曼 荼 羅の場 面 7163a /127b5c (2) 大悲 を もっ て有 情 を救 う誓 願 を たて る→ 菩 提 心の因 と な る 8172b /136b11a 弟子 は発 菩 提心 し て仏家に生ずる。弟子 を曼荼 羅に引 入 し加 持 する場面 9174a /138a12b (2) 菩提心 を捨て ては な ら ない。 四 重 禁 戒の一 10176a /140a13b
(3
) 障碍 を除 くた めに菩 提 心 を憶 念 する 11179a /143a16a (4) 菩提 真言。発 心 ・修 行 ・成 仏 ・涅槃 12180b /144b17b
(5
) 字は菩 提 心であること。 真 言の字 ・声 ・旬 を説 く 13181b /146a18a (6) 阿闍梨の資格の一つ とし て の菩提 心 14183a /147a18c (6
) 菩提 心 を修習すべ きこと。 成 就 法の前 行 15185a /149b19c (6) 悉地 を成就して菩提心 を忘れ ない 三昧 を得る 16185b /150a20a (6) 無 上菩提 心 を 修 習 す る。 自心の 実相を観 ずる 17190a /154a44a (28) 宇は二種であ り声と菩 提心であ る18191b
/156a22b
(8
) 菩 提 心に帰命 する智 山学報 第六十輯
19192a
/156b22c (8) 菩 提 心 を求めんに は仏 心 (阿字 )に帰 命 すべ きである 20194a /158b23c (8) 自 身 を法界の 自性として加 持 して菩 提 心 を 発 す 21194b /159a23c (8
) 阿 闍梨は法 界の 自性た る菩 提心に住 する。 灌 頂の説段 22194b /159a23c (8
) 弟 子 に 三 帰 依 を さ せ菩 提心 を発させる。灌 頂の説段 23194b /159a24a (8
) 菩 提 心 を もっ て投華 する。 灌頂の説 段 24203a /168a30a (9
) 菩 提心 をもっ て如 来 地に住 し てマ ンダ ラを 描 くべ きである 25203b /168b30c (10 ) 諸 字 門を四転 (発心 ・修 行 ・菩 提 ・涅 槃 )する26206b
/171b32b
(11) 不 浄 なる心 地は菩提 心 を離れ ること に よ る 27207a /171b32b (11) 弟子 に対して菩提 心の 浄化 を行 う 28207a /172a32c (11
) 四種 供 養して各 尊に対して菩 提 心 を修習 する 29208a /172b33a (11> 五種三昧 耶と菩提心の差別 (Ch虹 欠 )30208b
/173a33b (II) 菩 提 心 を 得る悉 地 は 無 上である31216a
/180b37c
(15
) 菩 提 心 ・法 ・学 処 ・業 果の和 合一相=戒 32217a /182a38b (16) 菩提 心に依 り声を知る者は一切 法に無 執 着と なり一切相を知る33220b
/185b40a (18> 棄正法 ・捨 離 菩提 心 ・慳 吝 ・有 情 を害 する。 四種 根本 罪の一つ 34226a /191a42b (25) 菩 提 心 を生じて無相 菩提に衆 生 を導くこ とが 三 三 昧 耶であ る 35228b /193b44a (27> 菩 提 心 を もっ て内護 摩 をすべ きである 『大 日経広 釈 』 出典 表 劭 醜 砿 (D/P) 文 脈 ・ 意 味 内 容 酒井訳(血早,) 167a /79b 三句 (菩 提心 ・悲 ・方 便 )7
(1
)276a
−b/91a
菩 提心 は二種であ り菩 提を目的とする心と菩 提を自性とす る心である。菩 提を 目的とする心は、一般に は願と入の菩 提 心 と すべ き だ が、こ こで は 初 地の菩 提心 と さ れる。初地 の 菩提 心は現等 覚の 自性と結 びつ く か らであ る。菩 提を 自 性と する心は、その初地の菩 提心 が一切 法 平 等 性 に悟入 し たとこ ろの 自性であ り、そ れ は現 等 覚と自性が 同一である か らで あ る。 その よ う な 菩 提 心 は一切 智 者の智の因の主 と 理 解 すべ きである 22(1) 376b /91a−b 悲の 門か ら誓願等の菩 提 心 を 生ずる。 その故に大悲 は菩 提 心の根と なるか ら、 因の ま た 因と見 るべ き で あ る 22(1) 476b /91b
菩 提 心 は一切智 者の智の因である 22(1
) 576b −77a/92a 他の経 論 中に 四智の うち 平等 性智を菩 提 心 として 説 く。 大 円鏡 智と妙 観 察 智と成 所 作 智は一切 智 者の智と し て説く と 知 るべ きであ る 23 (1)64
『大日経』所 説の菩提心につ い て (山 本)
678b
−79a
/94b
清 浄な菩 提 心とは、菩 薩の初 地に おい て 菩提 心に悟入する、 そ れ が所 取と能 取か ら離れてい るか ら清浄 なの である 26(1) 779a −b/95a 清 浄な菩 提 心= 「初 地の菩 提 心 ・現等 覚 ・一切智 」の 三種 の 因 27 (1)88Qb
−81a
/97a
−b
菩提の 自性=初 地の 菩 提心≠ 願と 入の 菩 提 心 29(1
) 981a −b/97b 百六十心を越えて菩 提 心を生ずる 29(1) 1081b /97b−98a 菩提心 を 生ずる時につ い て 30 (1) 1181b /98a
菩提 心 を生 ずる福 徳 と行につ い て30
(1
) 1281b /98a 心とは 主として菩 提 心の こと であ り、心の 差 異 が あるの は 利根 (大乗 )と鈍 根 (声 聞 )と を区 別した もの である 30(1) 1382a /98b 無上 菩 提 を 得るた めには 菩 提 心 か ら発 心 する 31 (1) 1482a /99a
菩提 心の功 徳 は無量 ・無相なの で 虚 空 に等しい31
(1
) 1582a /99a 菩提 心は無 量の智から 生ずる32
(1
> 1682a −b
/99a
最初の菩 提 とは初地の菩提 心 で あ る32
(1> 1785a /102b 百 六 十 心 を 越 えて菩提心 を 生ずる 37(1) 1894a −b/114b 歓 喜 (= 初 歓 喜 地 )の 菩提 心 を生ずる次 第 を説 く54
(1
) 1995a /115b
菩 提 心 は 智 慧 と方 便の捨 円 満によって摂取さ れる 55(1)2095a
/115b 菩提心 は無色相でも その功 徳と神 変を示し諸 天が礼 拝 する 55(1)2195b
/115b 菩 提 心 は 所 執 ・能 執 な く等 虚 空であるか ら 空の 自性である 55(1) 2295b /115b−116a 無相とは菩 提 心であり、青 ・黄 等の相が ない こ と であ る 56(1) 2395b /116a 虚 空は無量 なの で菩 提心の功 徳も無量である 56(1) 2495b /116a 有 為 法 を 破せ ば空 性の 自性 とな り、菩提 心と一味 とな り、 一切 法の住 処 とな る 56(1> 2596a /116b 福 智の資 糧を集め る ことに よっ て、初地の功 徳を 円満し、 無上菩提のた めに発 心 する 56(1) 2699a /120b 諸真言の総 相は菩 提 心で ある 63(1) 2799b /120b−121a 菩 提 心句63
(1
) 2899b /121a 真 言の 自性は菩提心であ り、勝 義で は空である 64(1) 29100a /121b 真言の 自性は菩 提心であり空 性であ る が、修法 中 に 真 言の 悉地 を修して、果と して持 明 ・虚 空 遊歩 ・隠身 等の種々相 を受 ける64
(1
)30100b
/122b
菩提心 を修して 心性 清 浄と なっ た者に真 言の悉地 が 生ずる65
(1) 31101a /123a 初 地の菩 提心が平 等性に入っ た後に讃 嘆を説 く 67(1)智山学報 第六 十輯 32101a /123a−b 「大 乗句 」と は 菩 提 心 を如実に知るこ とであ り、大 乗 と は 果 を伴 う菩 薩 道である 67(1)
33101a
−b
/123b
「菩提 心句 」と は 世 間の八 心 か ら歓喜地の心に至 る まで の 諸 階 梯 を 知る こ とで ある67
(1)34101b
/123b 「正等 覚 句 」と は一切 法 平 等 性 に 入 る 初 地の菩 提 心は無 上 菩 提と異 な らない のである67
(1
)35101b
/123b 「漸 次 大 乗生句」と は初地の菩 提心 を内に摂 する際、 初地 か ら普賢 地 まで の心 は 異 な ら ない 68(1)36lOlb
/123b−124a 初 地の菩提 心は一切 智 者の智を 生ずる主である68
(1) 37104b /127b 阿 閣 梨の資格の一つ と しての 菩提 心 79(2) 38104b /127b 菩 提 心を具え る=蘊 ・界 ・処等の 諸 法を空として破 す79
(2)39105b
/128b−129a 菩 提 心に住 する=空 性た る無分 別の 三昧に住する 81(2) 40107b /131a−b 甚 深 広大の 阿 闍梨冨 菩提心 を修習 し て内外の 両者の 地を浄 化 有所 得の阿 闍 梨=菩 提心 を修 習せず外の地のみ を浄化 85(2) 41108b /132b 諸 真 言の 自性は勝義に お いて は菩 提心 で相を越 えてい る。 世 俗で はマ ンダ ラ と修 法と真 言 行の有 相の諸 支 分に よっ て 利益を行 う 87(2)42109b
/134a 入マ ンダラ の場 面 で、行者はマ ン ダ ラの西 に横た わ り菩 提 心と悲を伴い 夢を見る88
(2
) 43109b −110a/134a− b タン ト ラ等に巧み で菩 提心 を修習した者は阿闍 梨 ・成 就 者 と して灌 頂 する。タン トラ等に巧み で も菩 提心 を 修習して い ない者は菩 提 心 を学ばせ た後に灌頂 する。 タントラも菩 提 心 も修 習してい ない者は菩 提の種 子と なるか らマ ンダラ に入れ る 89(2)44110a
−b
/135a
菩提 心を生 じて、息 災 等の諸 事 業 をな し、最 後に成 仏せ し め る90
(2)45112a
/137b
マ ンダラ に引 入 して菩 提 心 を 生 ず れ ば、菩 提の因 た る 種 子 と な り、無 量の 有情 を摂取する93
(2
>46114a
/140a
−b
マ ンダラに 入 るとき、菩提へ と発 心 す れば大 乗に 生ずる97
(2
)47116a
/143a
金剛 薩 捶 とは 誤 り な く完成さ れ た 相 た る 菩 提 道 場 心であっ て 、マ ンダラ に入る弟于は金剛 薩 堙と して 加 持され る100
(2
)48131a
/162a
加行 :入マ ンダラ のた め に 罪障を 懺 悔 す ること 正行 :入マ ン ダ ラの ときに菩提 心 を 発 し、仏 菩薩の 形 像 ・ 印 ・マ ン ダラ を見て清浄 心を生起する 後 行 : マ ンダ ラ に入っ た後、 正 法と菩 提 心 を捨てない 等の 三昧耶 を 思い 出 すこと132
(2
)66
『大日経』所 説の 菩提心につ い て (山本) 49132b /164a 「住 心 品」の心の無 相 ・不可得につ い て の説 段=菩 提心 を 説 明した 箇 所 と する