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中央学術研究所紀要 第18号 021西 義雄「仏教の普遍的長所とその振興策」

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創立二十周年特別寄稿

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一一現代科学文明の欠陥と責任の所在

西義

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守一竜、 れる塵、農薬の化学肥料などの放出によって、海水や河川が著しく汚染されていること。其の三は、大 規模な川林伐採や焼き畑によI到る庭に大地の沙漠化が生ぜられている事此は現にアフリカや

印度等所謂文化人の指導開発地区に多く見られている等

但し斯の如き地上の全生命の存亡に関わる恐るべき事態を防ぎ、地上の生命を永遠に護るためには、 此等の当面の責任主体たる全人類が、其の責任を痛感して直ちに一致協力し、以て斯る危機を青らして いる原因の完全除去に努力しなければならない。最近は、国連環境計画︵UNEP︶などが、此の点に 関して、全人類が其の全責任を痛感すべき重大事なる事を指摘してはいる。然し各国人は、相変らず、 目先の科学文化の便利さに舷惑されていて、真剣になって共同一致し、此に当る具体的に有力な施設や 運動を起すに至っていないようである。のみならず相変らず全人類が一致協力すべき思想的な内面活動 を防げる左右両翼の反目などもあってか、目先きの利害の外に、重要な国連の実動なども聞くに至って 筆者は、終戦直後、時のNHKの摩尼氏の世話などで、当時大正大学の学長真野さん中心に四五の学 友と共に、﹁マルキシズムと悌教との相互研究会﹂が芝の真野さんの寺で開催されたのに参加した。終戦 真後は、日本でも共産主義も可なり盛んであったし、時の日本の共産主義の理論的責任者の一人に、甘 粕さん︵甘粕大尉の弟︶がいた。此の研究会は十回位やったと思、7が、最初の間こそ共産党員︵甘粕さ ん中心に五名位︶諸君は、肩をいからしての参加であったが、其の中に、成る程、悌教とはそんな趣旨 のものかと感心し、最后は皆で握手しあい、、何卒よろしくと言い合って別れた経験がある。此の外に筆 者は二三の大学の進歩主義の指導者と称せられる学生諸君とも談合し合った結果、戦端的過激行動の指 いな唯様である、 22

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導者たることを自発的にやめるに至った友人を得たこともある。以上の如き経験もあるので自由主義 と共産主義との離反思想を止揚し和合せしめる事は、悌教の根本的普遍の真如の物・心一如観や万法縁 起の現観からは、確責に可能であると確信している。従って今後は悌教々理の世界的普遍化こそ必要に して不可欠なことを痛感するに至っている。 此の上に、故トインビ博士が、著書﹁歴史の研究﹂︵シ陣巨身旦閉め8昼︶の中で、世界の諸宗教 の中、悌教のみが二千数百年間、其の流通園の間で、何等の戦争も起さなかった事を指摘するに至って おる。又、アイスタインが、世界の宗教中、悌教のみが将来科学が愈々盛んとなるに至った時も人々を 救う教であると、短評していること等も周知であらう。其の上、近時は北米や独・僻などで優秀な宣教 師などが、多くの学者と共に、曹洞禅や臨済禅を真剣に修習するに至り、日本の禅堂などにも来って参 禅している者が少くない。史的には排他性の強烈であったキリスト教の牧師さん等が斯の如く参禅した り悌教研究に熱意を持つに至った所以は、一体、如何なる理由に擦るのであらうか。此の思想的責践的 理由根擦を開明するに至らば、従来、相互敵視していた人間社会の異見や主義を堅持する団隊などが、 其の異見異説などを止揚しあって、前述の如き地上の全生命態の存亡にかかわる原因を除去し、全生命 態護持の責践に一致協力するに至るのではなからうか。紗くとも斯る状勢に世界思想界を導くことが、 現に悌教徒の主要な社会的使命ではないかと、斯く考えるに至っているのである。 比較宗教学上、悌道の特徴の第一は﹄この地上にて解脱し此を浄土化するを理想とし、目的ルテしてい鴎 二今日世界で重視すべき悌道の特質

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ることである。悌道以外の世界の宗教︵外道︶の大半は、理想的行先きを﹁天国﹂とする。例えば印度 に於てバラモン教の主流は、ウパニシャッドの中でも明かな如く、党天︵犀目白目鼠①ぐ巴を創造神又 は主神とし、人間の理想なる浄土は、死後、焚神の居ます徒天界に昇る事である。従って人類は被造物 ︵責は被流出物︶であり、恒に地上に在りて生死輪廻し、種々の苦難を経験せざるを得ない。其の所以 は、蛇からの流出であるから質は徳と同じであるが、量が頗る小なるに擦る。故に此の苦から脱出する には、地上で慈・悲・喜・捨の四党住などを修して死后昇天し、焚に成る即ち掩に還ることを、絶対必 要とするなどと説く。即ちその解脱は離身解脱で、且つ理想郷は掩界に外ならない。次に釈尊と同時代 に有名になったニガンタ、後の菩那︵冒冒巴教は、人類は凡て霊魂︵司ぐ四︶と非霊︵ど弓幽即ち物質即肉 体と法と非法と虚空︶とから成立している、人類が地上で生死等の苦難を受けるのは、物質たる肉体が ﹁霊﹂中に入りこみ、此を束縛しているからである。此の故に生前中に苦行︵国目の︶を行じ、肉体を弱 体化し、最后に此を霊から全除すれば、霊は本質が軽く昇天し解脱するものと説く。従って此の宗も亦 解脱し極楽に行くのは、離身し天に昇る以外にない。次にヘブライズム系のキリスト教や回教は種々の 解釈もあるが、やはり大すじでは浄土は創造神︵エホバ又はアッラ︶のいる天国である。即ち地上は 原罪を犯せる者の子孫の錬獄であるから、人類はバイブルやコランの教を確信して、死后昇天す︵又 は神に召され︶ることを多く理想とする。地上で十字架にかかって死んだイエスが三日の後に復活し、 昇天したと信ずる如きには、浄土を天とする善き例証が見られよう。回教でも周知の如く﹁コラン﹂ 中には、﹁天上の楽園﹂なる語が続出しされているのである。 以上の諸宗教の説に対して悌道の浄土︵極楽︶は正に地上に在る。史責の面でも、釈尊はわれ等と同 24

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じ人間として印度北辺の王族に生を受け、出家し苦行するが、苦行の無義をさとり此を捨てて修学し、 終にブッダガヤの菩提樹下で生死輪廻の一切の苦難から解脱して﹁不滅にして安穏寂静なる浬楽﹂を成 就し﹁悌陀﹂となった。而して此永遠不滅なる浬楽の喜びを、自分と苦行を共にしていた僑陣如等の五 比丘にも得させようとして、初韓法輸のため旅立ち、鹿野苑に行き、此等五比丘と共に、青年耶舎等五 十五人をも同様に悟らしめた。此の上、一人でも多く地上の人類に此の安穏寂静の浬楽を得させたいと 熱願し、此等弟子達を一人づつ、四方に派遣し、自らも亦独りで不断の布教伝導に旅立ち、クシナガラ で八十入滅するまで無休に努力し、無数の人々を救済するに至った。後には斯る釈尊の地上出生を降誕 会と称し、長期の修行場たるトシタ天から人類救済のため地上に降誕し、不滅の浬繁を覚証し、多くの 人類を自己同様に成悌せしめ、地上に悌国土を建設するに至ったと言う。以上の如く悌道の理想浄土は 当に此の地上なのである。後には法華経寿量品などで、不滅の悌陀は常に霊鷲山及び静の諸住鹿に在ま すと説き、無量寿経でも阿弥陀僻の名号を聞き得る地上に浄土ありとし、薬師如来の浄土も地上、東方 の浄瑠璃国なりとするに至っている。 第二に悌教の特質は徹底して平和を説いている事。 世界宗教史上、悌教のみが徹底して平和の世界建立宗であった史実を先述のトインビが指摘してい る。悌典の最古の一経典としての﹁経集﹂義品八九六偶に﹁評の無い国土︵助ぐ]乱89口目︶︵の建立︶ に、安穏裏に努力せよ、汝等は評論してはならない﹂と命ぜられている。責に小乗教ですら、悌道の指 導者たるべき阿羅漢果を護た者の重大なる資格として、衆生の一切の願を適格に知悉する願智百日四口 ﹄号言習巴と、総べての評を無くせしめる﹁無評智︵四国鼠蔵習巴の必得を説く︵婆沙巻一七八九参 25

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照︶。悌教は他の条文主義の宗教の如く悌陀個人の説として、﹁我はかく此を説くと言うことは我には 無い﹂︵一s目ぐ昌圏昌庁﹄目国のの煙言g﹁経集﹂糊偶︶と言い、三法印や縁起観の如く人類等の凡てに とり普遍妥当なる真如︵め四o8︶のみを明示し、個人の私説即ち我見等の︵五邪見︶に見られる一切は、 説かなかったからである。歴史はトインビの批判の如く、平和の宗教として実践されて来ておる。此 の点、キリスト教や回教の排他性の強烈な宗教として多くの戦争歴をもつ宗教とは、全く異る。 又、第三に、悌教では、一切衆生は凡て平等であり、その上に能化の悌陀と所化の衆生とすらも平等 で、此を併凡一如と説くに至っている。此の根本理由を一切衆生は悉有悌性なりとするにある︵但し、 小乗悌教ではこの点、背くに到った︶。悌性は悌心であり、その悌心とは、一切衆生の本性の心は、浄光 ︵己39脚のぐ閏煙︾目ず富のの自画︶であるに依る。しかも、凡夫が苦難するのは除き得べき﹁客塵なる随煩悩﹂ ︵凶隠昌目冨呂農]①綴︾倒鴨員巨富§農巨①3︶により雑染されている故であるとする。此の点から俳陀 と凡夫との関係を恰も純金の指環と山中の金鉱との如しと、古くから巴・漢両経に比礁で説述している。 又、一切の凡夫が悌陀の如く、煩悩を断じ大悟し得ることは、古経にヴッチャ性の一行者が明確に確認 している︵冨弼・胃.己無漢訳雑阿含経zo知︶如くである。従って怖教を信行する国々では、人種差別と か民族別とか、況して階級差別の如きは、全く皆除し得て来ていた筈である。 其の上、勿論、併教では悌・凡一如で能化の悌陀と所化の衆生とも差別がないから、他の宗教に於け るが如く、創造神︵天︶と被造物︵人︶との隔別の如きは、全く在しない。悟れば凡てが成悌するし、 今、成悌しなくても何時かは、凡て僻菩薩の大悲によって成悌することが出来るとする。 因みに、三乗各別説と、法相宗の五性各別説は、小乗悌教の所説又は其の影響下に在る宗の附加説で 26

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あった。悌凡一如の唯一乗説は、前説の如く、原始悌教の悌凡一如・悉有悌性説を悌滅以来、職伽行者 々○ぬ旨冒恩3国︶という焼教徒が、文字通り継承し、此を初期大乗経典が悉有悌性の一悌乗説として 宜揚するに至ったのである。︵拙著﹁大乗仏説・小乗方便説論﹂大倉小論集第九一輯所収、及び﹁中野義 照先生追悼集﹂四○五頁以下参照︶ 第四に、悌教の主説は、近代の人文科学と矛盾しないこと。西洋思想史上では、キリスト教や回教の 条文絶対宗義は屡、時々進化の哲学や物理科学や医学説などと背反し、悲惨な争斗をも繰返えしてきて いた事は周知の如くである。此に対し悌教は、哲学思想上では、既に井上円了が其の著﹁哲学要領﹂や ﹁哲学新案﹂などで明確にせしが如く、悌教に於ける物心一如一体説の如き、又、種々の真如縁起観の 如きは、西洋近代の最進の哲学と同義又は其れ以上の深義を有し、最も中正にして且つ妥当なる理想的 哲理を説くに到っており、何等其れ以上の異説を生ずるに至っていない。従って西洋哲学史上で唯心︵即 唯神︶論と唯物論との相反不一致説の如きはなく、物心一如一体説により凡て完全に止揚ずみである。 又、日進月歩の科学に関しても、悌教では万法縁起観を一切に関して説くので、近時の量子力学とその 基盤を同一とするが如き点があり、又、医学では、既に大日方大乗博士が﹁悌教医学の研究﹂中で、二 千数百年前から説述されている悌教の古律などの医学説は、近代医学と同一の趣旨を述べるに至ってい たと論ぜられている。其の上、正身端坐に基づく坐禅の如きは、決して苦行ではなくして、修行が熟せ ば、行も亦禅、坐も亦禅となし、正に健康維持法にも通ずとするに至るのである。 第五に、成悌道即ち三界生死輪廻の苦からの完全解脱を一切衆生が完成し得ること、即ち一切衆生が 悌と成り得るということ。キリスト教や回教では、神︵創造神︶に、人が成るとは原則として説かない。 27

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然るに、印度の宗教の中、バラモン教では﹁党に還る﹂即ち﹁擁と成る﹂ことを説き︾者那教では、肉 体を全除した霊言ぐ画︶は昇天者となると言う。但し両教とも此は死后で、解脱は離身解脱であるが、悌 教の成併道は、今生即身に成併し解脱すると言う事は、前に触れた如くである。 蓋し成併の道に就て、能化者︵悌菩薩︶の説かれる道には八万四千の法門があると言う如く、無数の 導引教化の方法があること三蔵経が示す如くであり、能化者は中国の各宗祖師の如く教相判釈し、応病 与薬的に慈悲心もて随機方便施設するものと説かれている。但し所化として教化され導引される者には、 古来は、先づ三宝を信じてから戒・定・慧の二一学を修せよと言われていたが、初期大乗悌教からは、聖 道門︵自力聖道門︶と易行門︵他力易行門︶とがあり、求道者自らの求めに雁じ得ると説かれるに至っ ている。後世は更に、前者に撮る者は﹁信解行証﹂すべしとされ、後者易行門に擦る者は、﹁教行信証﹂ すべしと説かれている﹄ 右、自力門と他力門との修行道も能く幸

序は多少異る点もあるが共に悌息

■●

行じて信じ、最後に証すべしとする点は、

有自力門と他力門との鳴道も能く善く掌れぱ解と教との桓暴ぁiに其の行証上の順

序は多蔓る点もあるが共に併鳶先覚の教義を或は解しその教を受けて信じて行じまは

●●●●●●

行じて信じ、最後に証すべしとする点は、同じであって特別に異ならない。﹁信行証﹂し﹁行信証﹂した 結果は、共に何人でも大乗悌道全体の覚証に通ずるに至るべきものとされている。又、併道は、本来、 自覚覚地覚行円満をモットとするが故に、教相を真俗二諦門に分け、真諦門が分別を絶する覚証体験 の世界なるが故に、民衆には敢えて此を世俗の言説に托し世俗諦として慈悲方便施設し、種々の民心を 導引する方法をとることとし、此は初期大乗から実践されている。その真諦観は、原始悌教に於ける﹁諸 悌最上勝妙法説﹂又は﹁諸悌標準的法説﹂a且号習四日の四目員丙四日田圃・富ヨョ且①のm品︶に基づくも ワム

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以上室悌道は一切衆生成悌の道であnね其の道には衆生の根機の異りに応じて或は自力門あり 或は他力の門を開くに至っていることを略説した。然るに自力聖道門は勿論、他力易行門にも、共に﹁信﹂ を必須とする上に、行証すべしと力説しているから、仏道は単に語による思惟の世界では決してない・ 十八九世の独乙哲学界に於けるカントやヘゲルの如き高度の﹁哲学﹂の学習に際してすらも、決して 此を﹁信﹂ぜよだの﹁行証﹂せよなどと要求してはいない。西洋で﹁信﹂を要すとするのは学問的には 独り、人間の思惟を絶した﹁神﹂と神説に対してのみでなかったか。仏道に於ける悟境即ち不滅寂静の 従って条文主義の宗教の如きは、其の条文教義に背反する者に対しては恐ろしい体罰を課する事も勘 くなかったが、斯る方法は仏教では一切取らない。此の背教者に教ゆるには、自ら墓穴を掘り鱈地獄業 を択ぶ者とし、即ち自業自得説を以し、飽くまでも、教化し救済せんとしている。 以上、五ケ条に亘って、屡説した如く、悌教は開宗以来、地上を極楽浄土化し、永遠平和の国土の建 立を熱願し、一切衆生を皆成併せしめんとして、或は一切衆生の悉有悌性を説き、或は諸仏の本願に依 り衆生を浄土に摂取不捨するものと説いて、衆生に自信自覚を得せしめ、即ち雁病与薬的に慈悲方便施 設して来ている。此の故に、今日此の教義を一層普遍的に現実に実施し得るが如くに解明すれば、広く 世界の民衆に大なる希望を輿え、且つ万人が万難を排して、一致協力して、地上の生命護持の活動をも 為すに到るであろう、と筆者は確信しているのである。 ので辛める・ 三悌道の主要用語の軽視を正すこと。 2号

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浬薬界を即身に成就し得る道も、ヘブライズムの﹁神﹂に対すると同様に、決して世俗の語による思惟 により到り得る境界ではない。一口に言語道断の境涯であるとする。古経なる﹁経集﹂中にも識分別を 滅除せる者にとり、﹁一切の諸法が根絶除去された︵法空︶時には、﹁一切の語道﹂︵乱呂冨讐巴も根絶 される︵の四g①の屋号図日日のの宮⑳四ョ目鼻①⑳厚の四日目四国ぐ圏呂胃冨亘の聾言のg経集一○七六偶と言って いるからである。前述の如く生死解脱の悟境は、定慧内具の禅観︵三昧観︶によるとされ、心経では、 、@ 五悪皆空観所成ともされている。 然るに近時、所謂進歩的学者の中には、この﹁空観﹂を敢えて﹁空思想﹂とし、又、﹁禅観﹂即ち正身 端坐によりて達すべき禅定観をも屡、﹁唄想﹂として、得々と紹介している人々が紗くないと聞くのであ 第三空観に就いては.大正末期の頃からヘゲルの二重否定の哲学海東大関係の学者間でも重視 されたことがあり、仏教の﹁空観﹂も﹁空も亦復空﹂とされるから、ヘゲルの二重否定論と同じ思想 ではないかと、一部の学者間で説かれたこともあった。若し仏教の空観が単なる思想上の思惟法であれ ば﹁空観﹂を﹁空思想﹂と見て、ヘゲルの二重否定論と同視することは、或いは当然かも知れぬ。然 し仏道の空観は単に﹁語路による論理的思惟上の否定では決してなく、一切の思惟や思想をも絶し、全 身全霊をあげての物心一如一体たるべき禅観である。即ち即空即仮即中と転ずる道行であって、単なる 思想上の否定思想ではない。 又、坐禅に基く﹁禅観﹂は、正身端坐︵結凱又は半伽鉄坐︶し、全心全霊を謄下丹田に集注し、正法 が自から現前する﹁箇の不思慮底を思慮する﹂道行であり、成仏道の要術なのである。従って西洋で古 る ○ 30

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来から熟知使用されている日①島国号口の訳語に通ずる一膜想﹂などでは決して無い。此の件は既に大 正末期頃、仏教学者問で問題になった。若し敢えて坐禅又は禅観を﹁唄想﹂と表現するならば、一般 人は禅観とか坐禅とかは、﹁眼をつぶって静かに考える﹂こと位にしか解しないのではなかろうか。漢語 字典による﹁唄想﹂の﹁膜﹂は﹁眼をつぶる﹂﹁安心して死ぬる﹂、﹁ねむる﹂、﹁眼をつぶって静かに考え る﹂などの義があるとされている。此の膜は、亦冥、漠、膜などと共通に﹁くらい﹂とか﹁かすかな﹂ とかの字義が連想され、更に冥途、冥府などとも連想され易い。禅観は逆に修証明智なので、此を﹁唄 想﹂とすれば大変な誤解を呼ぶ恐れがある。特に﹁膜想﹂には﹁眼をつぶる﹂義などがあるに対し、﹁百 丈清規﹂中の﹁坐禅﹂儀には特に﹁目は須らく微かに開き、昏睡に致ることを免るべし﹂と注意し、曹 洞宗禅用の﹁普観坐禅儀﹂には、特に﹁目は須く常に開くべし﹂と、殊更に注意している。若し正師に 従って直下に﹁坐禅﹂の修習を修得した者ならば、決して坐禅を誤解し易い﹁唄想﹂などと混用をしな い筈である。若し亦坐禅が、ギリシャ以来周知の日&詳胃さ目式の膜想ならば、欧米の勝れた宣教師など が、態々、異国異教の坐禅会などに、多くの困難を犯して、強いて参加する筈があるまい。 ﹁誤りを正すに樟る事勿れ﹂で、仏教では噺塊こそ善の始めとまで言うから、気付いた人々は、堂々 と訂正されることが望ましい。 尚ほ申し述べたいことは此に蓋きいが、最後に一つ強く現日本の仏教界に望みたいことがある。それ は、日本ばかりでなく全世界の仏教会の総力を集中し得る﹁仏教教理の総合研究会﹂を重要なる一大機 関として、至急に設立してもらいたい事である。立派な仏寺や仏塔等を建立したり、海外の友邦に種々 の名義で寄贈することも結構である。然し其等に増しても劣らない現仏教界の緊急事項は、本論の最初 31

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右の如き大問題のみでなく極く些細な事であっても前述の如く仏教は地上浄土の建立観に出発し種々 崇高な哲理即ち甚深なる真如観を有し、大悲行に徹すべき道行であるから、その仏教の正しき見解を聞 かせてほしいとの要望は、非常に多い。其の極く一例としては、﹁脳死﹂の是非に関する仏教会の明解な る見解の要望の如きがある。勿論、目下日本仏教界にも﹁財団法人全日本仏教会﹂があって、時々必要 な仏教の内部活動をされているのであるが、ここで敢えて希望するのは、前来所述の如く、世界の宗教 界中、独り此の地球の浄土化を唯一の目的とする仏教会の全面目を発揮し得べき理念を明す機関を、至 急に建ててほしいことである。 更に欲を言へば、仏教には前述の如く、一切の思想的矛盾対立を止揚し、平和裡に和合帰一せしめる 甚深中正な哲理︵即ち物心一如一体観の如き︶がある。斯る哲理を現代的に普遍化して海外にも普く伝 えたならば、同一民族が南北に分れて種々の内憂外患に悩む隣国朝鮮の民衆の如きは、大なる力を得て、 自から南北分離を解消する強力な思想活動を興すようになるのでないだろうか。勘くとも斯る活動力を 振起するように、日本仏教徒が援助することが、隣人に対する当然の有情であらうと思う。 此の点は、更に中国に対しても同様である。中国は表面上、統一ある共産主義国となっている。然し 古来よりの文化の蓄積もあり、内面的には、種々雑多な難問を懐く状態に在るとも聞く。前述来、所述 の如く仏道には唯物・唯心の相反対立思想を平和裏に止揚せしめる実践論がある、此を中国の友人達に の組織建立である。 呼びかけて雲全世酉呼びかけて、全世界の協同一致力をかきたてるに足る発言をなし得るが如き、強力なる研究の総合機関 に触れた如/、全人類が危機に臨んでいる際に此に対処するために仏教会のみでなく全人類に強く 3

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分かりやすく伝えられないだろ員フか。特に前述の如く、諸仏の本願の目標も、亦、地上に浄土楽土の建立 あらそい にあり、其の上に、﹁経集義品﹂︵八九六偶︶には、釈尊の教動として、世間に詳論が起り平和を結び得 ない点を能く善く透察して﹁汝等は﹁評の無い国土﹂︵豊さ且号目目︶のために、安穏裏に勉めるべく、 ﹁決して評論してはならない﹂言四ぐご且唇①昏巴と先述の如く、厳に命ぜられているのである。今こ そ仏教徒は此を実践すべき秋であらう。 以上の如き現実世界の仏教徒に対する強力な要請に何とか応える方向に進むことこそ、今後の中央学 術研究所の研究方針の一端ともなさるべきではないかと思って、敢えて一文を綴って見た次第である。 33

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