歴史学派受容と明治経済改革ヘ
の視座
1 1東京大学文学部政治学及理財学科の一八八四年卒業生たち
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明治期において、経済を近世的なシステムから離脱させるこ とは国家的な課題であった。国力の増強が最優先課題であり、 それは国民各層の経済生活の附刷新を不可避的に要請した。しか し、それを実現させるためには、経済政策を立案する側に、強 靭な改革精神とはっきりした経祷思想が備わっていなくてはな らず、またそれを受ける側には、その改革の重圧に耐えうるだ けの国民経済力が必要であった。 こうした日本経済発展の根本課題に直面して、危機意識をつ よく抱いていた者たちは各層において存在した。とりわけ麗史 学派経済学の影響下にあった者たち、また国策推進の現場にい野
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た者たちは、経済システムの再構築の必要をつよく感じていた。 本稿では、そうした人々の典型として、東京大学文学部政治学 及理財学科の一八八四年卒業生たち(以下たんに﹁同期生た ち﹂と称するときには彼らをさす)を取りあげる。彼らは、 ロッシャーらの著作に親しみ、また在学中から、その学んだ経 涛理論に依拠しつつ、精力的に日本の現状分析をこころみてい た。彼らの著述のなかからは、当時の臼本人の経済生活のいく つかの相を窺い知ることができる。またそこには、日本が国際 資本主義の荒波のなかで泳ぎわたっていくための課題がしめさ れてもいる。そこで、この間期生たちの初期の活動を追いなが い彼らが歴史学派の経済理論のなかから何を学びとり、 ラ り 、 当時の日本経済をどうみていたのかを探っていくことにしよう。係数大学総合研究所紀婆 第八号 1884年10月東京大学文学部政治学及還財学科学位授与者一覧 ご八杉孔 ?A?原J
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( 春 ( 加藤 竺 藤山 ( 添 ( 土 ( 王沼手 ( 浜示
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県身出 ¥ワンf山¥ 九八)大阪府皇 九三二)束京府身出 )O九O府大阪身出 〕九四同山県身出 口 終 身出 表1 人名の排列は「東京大学第四年報」による。 f仮谷芳郎伝j はこのIJ渓序を「成綴綴Jと推定し ているc
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阪谷伝J:77)。主主没年は伝記・人名辞典等によるほか、中JlIの主主没年を山本四郎に、 杉江の生没年を佐藤能丸に依拠した(山本四虫111985: 147 148、佐藤能丸 1988: 59…60)。 なお、「坂谷芳虫flJr
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浜悶健二郎J等と記されている場合もあるが、本稿ではすべ てこの表の表記に統ーした。E
同期生たちの進路
東京大学において、一八八四年一O
月に学位を授与されたの は、法理院一文学部合わせて田三名であり、そのうち政治学及理 問学科の学位授与者は全体の四分の一強にあたる一二名に上っ ている。これは、当時政治家志望者や経済学志望者が多かった ことを反映している事態である。それを﹁東京大学第四年報﹂ (以下、﹁年報﹂の記事はすべて復刻版﹃年報﹄による)の掲載 順に列記したのが表ーである。 生年を明らかにしえなかった春日・原川も詞世代だとすると、 一 八 五 九i
六五年に生まれた彼らは、英学校から、ようやく高 級官僚養成体制が整いつつあった東京大学へとすすみ、穂積陳 霊・田尻稲次郎・ラ i トゲンらの講義を聴き、ドイツ歴史学派 経済学の洗礼を受けた最初の世代である。なお、添自によると、 (李家)・原川は中川・杉江とともに早世したらしい 一 一 六 六 九 、 六 七 回 ) 。 藤山 添 田寿一述 九 卒業後の彼らは、官省に勤務するかたわら、経済(および法 律)の研究・教育・著述に従事した。中川がロッシャ i 等を敷 街してまとめあげた才気あふれる﹃経済実学講義﹄一一巻は、 ﹁わが国においてはじめてドイツの歴史学派および社会政策学 ⑧派の学説を導入した経済学書の一つ﹂として重要視されている (堀経夫一九七五一四五八三著者は弱冠二三
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一 一 四 識 で あ っ た。土子の﹃経搭学大意﹄も二三哉の著作である。甑谷は、や はり二三歳の一八八六年一O
月から専修学校において経済学史 の講義を始め(小峰保栄一九七五一一七一一)、そのとき依拠し たコッサの翻訳を翌年七月に刊行している︿阪答芳郎一八八 七)。三人はいずれも大蔵省に勤務しながらの著述・講義活動 であった。こうした活動が可能だったのは、おそらく自尻稲次 郎の後押しがあってのことであろう。 添田もまた大蔵省入りしたが、霞後にケンブリッジ大学に留 学し、アルフレッド・マーシャルに師事した。その後ハイデル ベルク大学に転じ、ヵ l ル ・ ク ニ i スの講義を聴き、一八八七 年に帰国、大議省に擾帰する。加藤は当初文部省に入省したが、 大蔵省へ転じ、主税局に勤務する。原川も文部省から大蔵省へ 転じ、主計局に勤務する。 これら大蔵省組のその後をみると、中川は外務省へ転じ、各 国領事館の織紀粛正に鶏腕を振るう(山本四郎一九八五)。土 子は東京商業学校︿のち高等商業学校)で教えた後、実業界へ 転ずる。阪谷は大蔵官僚として出世コ i スを駆けあがり、大蔵 大註退任後は東京市長等を歴任する。添田は大蔵省内で諸改革 の立案にかかわった後、台湾銀行頭取・日本興業銀行総裁等を 歴史学派受容と明治経済改革への視廃 勤めるかたわら、啓蒙的著作を多数著し、また﹃エコノミツ ク・ジャーナル﹄誌に日本通信を送りつマつける。加藤は教育界 へ転じ、山口高等中学校から広島尋常中学校を経て、市立大阪 商業学校教一頭・校長を勤め、衆議院議員となり、松山高等酪業 学校長・松山市長を歴任する(鹿野通編一九三七)。原川は愛 知県へ転じ、病気療養後、教青に携わる(原川権平一八九 平沼は、卒業後、外務省からの勧誘を断り、みずから望んで ﹃明治臼報﹄の縞集者となった後、向山・宮城で教育に携わり、 市立大阪商業学校長に転任し、加藤を同校教頭に招き、大阪市 助役等を経て、平穏田大学に転じて商業史・経済史を講ずる。 問大学学長・荷学部長を嘱任されたほか、社会経済史学会の創 立に参加する。とくにその寺蹟門前町の研究は高く評錨されて いる。なお、弟の平沼額一郎は八八八年に帝大法科を卒業し て い る 。 加藤・一平初仰が大阪を去ったのにたいし、死ぬまで大阪を拠点 としつづけたのは浜田である。彼は、官報局翻訳課長・東京商 業学校教頭を経て、一八九三年以来大阪商業会議所書記長を長 く勤めるとともに、教育・研究活動を精力的に繰りひろげ、い くつかの経済雑誌の編集にも関与する(杉原四郎 第 一 一 部 第 二 章 刃 ) 。 九八O
係数大学総合研究所紀委 第八号 久米は内務省から逓信省を経て農商務省へと転じ、発明協会 副会長を(清浦套吾・板谷両会長のもとで)長く務め、また農 商務次官に任ぜられる。藤山(李家)も内務省に入省し、いく つかの府県で勤務した後、一一一重県知事・徳島県知事・内務省神 社局長を歴任する。春日は会計検査院に勤め、会計法・会計規 郎の逐条解説書を書く(春日秀朗一八九四)。杉江も会計検査 院に勤務したが、そこを去り、英語教師を勤めるとともに、政 教社の創立に参加し、雑誌の縞集にも携わる 八八一五九 l 六
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。 ( 佐 藤 能 丸 九 この同期生たちは、﹁兄弟の様に﹂﹁常に非常に親密にして﹂ いた。彼ら一二人は﹁水不入金﹂(﹁みずいらずかい﹂と読むの だろう)なる親睦会を結成し、﹁此会は現今でも引続き毎月一 因 づ L 各身の自宅で廼り番に開会﹂して﹁田交を温め田一患を談 一 六 七 回 ) 。 じ合って居る﹂という(添田寿一述九一 しかし、各国領事館に勤務した中川をはじめとして、 は掴内外に散らばっていく。もしも添田の言うとおり彼らが 人 ーーもちろん毎圏全員が集うことは無理だとしても│!毎月 親睦を深めあっていたとすると、 ﹁ 各 身 の 自 宅 ﹂ へ行くことが すでにたいへんな労力と時間とを要したはずで、この会の存続 自体が彼らのつよい団結力をしめしている。添田の思想記の時 点ですでに中川・杉江・藤山(李家)・原川が亡くなっており、 問 残り八名の会だったが、 のちに阪谷は、加藤が﹁しまひには田 舎の方に居られて、自然と会ふ機会がなかった﹂と言っている ( 星 野 通 編 一九三七一一九八)。加藤が松山に移ったのは一九 一六年三月であり、また一九一七年五月に土子が、 一 九 一 八 年 一月に浜田があいついで世を去っているので、 年頃には、この会は東京在住者五名だけの会に縮小されたよう だ 。 一 九 二 ハi
一 八 盟歴史学派への関心とその受容
同期生たちがドイツ歴史学派経済学を受容し、その理解を深 めていく経緯にはいくつかのル!トがある。筆者、か推断しうる かぎりでは、①田尻務次郎の講義受講、②ロッシャ i の﹃富 民経済学基礎論﹄の英訳本の読解、。和田沼一謙三の科外講義 聴講、④カ!ル- w
フ i トゲンの指導、⑤ロッシャ!の﹃国民 経済体系﹂の読解、⑥ルイジ・コッサの経済学史叙述の読解、 ⑦大蔵省における田尻の指導 z││ この七つがある。以下に検 討 し よ う 。 こ う し た ル i トを知るうえで有力な手がかりを与えてくれる のは平沼の閤想録である。彼は、歴史学派を知るようになる端 緒について次のように盟想している。﹁淑郎が東京大学文学部政治学理財学科第一年級に在った とき経済学担当の講師は前述の田尻先生であって、ミルの ﹃経済学原理﹄を講ぜらるると同時にまた歴史学派の泰斗た るヰルヘルム・ロスシェルの著書をも読ましめられた。 れ が歴史学派学説を学徒の脳裡に浸漬した端緒であると思ふ。 明治十七年和田垣謙一一一が欧州留学の期満ちて帰朝し、淑郎等 には科外講義として経済学説の諸流派を紹介された。その中 には無論歴史学派の学説が包含されてゐた。或る人が和田沼一 を以て歴史学派学説の最初の輸入者だとしたのは、その故で あらう。この際カ i ル・ラトゲンといふドイツの学者が国法 学及行政学を講じてゐたが、同教師はグスタフ・シュモラ! の義弟に当る人で、おのづからその学嵐を伝承してゐた事は 当然である。故に歴史学派の学説は間接ながらこの人によっ ても移入せられてゐたのであった﹂︿平沼淑部
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ム ハ ) 。
第一に、田尻の講義は、平沼ら同期生たちが聴講した経済学 (理財学)の講義のなかで、歴史学派に触れた唯一のものであ る。平招は、受講した経済学講義について次のように述べてい ブ Q。
歴史学派受容と明治経済改革への視座 ﹁睦史探の学説を混交して教導せられたのは田尻先生であ って、その他は英国経済学派の理論を祖述せられた。特に3
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先生は、演縛法の髄直を提唱して、暗に歴史派の 準拠するにたらざるゆゑんを韓説された﹂︹正誤表により一 部訂正︺(平沼淑郎 一 九 二 三 ( 其 一Y
二 ) 。 ﹁その他﹂とあるのは金子堅太郎・駒井章一格・フェノロサの 一 一 一 人 で あ る 。 金 子 堅 太 部 ( 八 五 一 一 一i
一九四一己が東京大学予 備門で理財学を講じていたのは一八八O
年四月から七月までで あり(﹃五十年史﹄上一九一九)、思疾のため、中途で駒井輩格 ( 一 八 五 三 ー 一 九O
一﹀に交代した(平沼淑郎一九三六一一)。 駒井は、その翌年額には専修学校においてロッシャ i に依拠し て講義をしはじめており、日本における最初のロッシャ!紹介 者とみなすことができるが、予備内においては金子のあとを引 きついでフォ i セット夫人の入門書を使った。なんといっても、 相手は東京大学入学前の少年たちである。平沼は、予備円に入 る以前に、箕作秋坪のもとでフランシス・ウェイランドの経済 学を輪講しており(平沼淑郎一九三六一二)、箕作元八と甑谷 もその輪講に加わっていたと思われるが(平招淑郎一九一一一O
│ 二 一 一 一 / 五 七 一 二 八 六 l 二八八)、それでもやはり彼らは初心 者であって、彼らにたいして駒井がロッシャーを持ちだすはず 五係教大学総合研究所紀婆 第八号 フェノロサは壁史学派にたいして批判的なスタ ンスをとっている。そしてそれにもかかわらず平沼らが歴史学 派に魅せられていったことには、もちろん彼らの主体的要臨も が な い 。 ま た 、 与っているにせよ、やはり田尻からの影響が大きい。 沼尻稲次郎(一八五
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一 九 ニ 一 一 一 ) は 、 滞 米 中 に ウ ィ リ ア ム -G ・ サ ム ナ i ( 八 四Ol
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の指導を受けていた。 サ ム ナ i はヴィルヘルム・ロッシャ i ( 八一七i
一 八 九 回 ) と親しく(森田右一 経済学基礎論﹄のジョン・ J ・レイラーによる英訳に協力して 一九八六一八)、またロッシャ i の吋国民 、 こ lv ふ / (閉山 C由 。
y m w H・ H m w 吋 斗 ¥ 斗 ∞ (同)一︿む。 のは田尻の帰国産前であった。 この英訳本が刊行された ﹁東京大学第二年報い掲載の田 尻の﹁申報﹂によると、彼はイントロダクションとしてへン リ i ・ フ ォ 1 セ ッ ト の 本 を 用 い 、 つづいてジョン・s
-ミ ル に 依拠して展開した後、﹁広ク理財学上現像ノ関係ヲ知ラシメ事 物ニ拘泥スルノ弊ナカラシメント欲シ﹂て﹁ロッセル氏理財原 論ニ拠リ其旨ヲ授ケ﹂たという。当時の﹁教科朝日﹂には ﹁ロッシェル氏著理期学(レ i ロル氏の訳書ありごと記載され ているから(森荘三郎 一 九 四 一 一 一 四 七 四 ) 、 こ の 授 業 で 田 尻 が レイラ!の英訳本を用いていたことが明らかである。 間期生たちのドイツ歴史学派経済学への着目は、このように、 まず、渡米時代の田尻がその師サムナーから学んだものを受け 」 ー ノ¥ ついだものだったと認められる(森田右 九 八 六 一 八 ) 。 サ ム ナ i の生涯とその学問との評価については議論が分かれるよ うだが、彼は﹁理論家であると同様に康史家であり﹂、アメリ カ通貨史研究・保護主義史研究において康史的方法をつねに駆 捜し、後年にいたると壁史重視がさらに強まって習俗研究にい た っ た と す る ﹁ 追 樟 録 ﹂ の 記 述 が も っ と も 妥 当 で あ ろ う( 2
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一色。)。経済効率からは説明しえない社会現象を 行動様式の文化的特賞から解明しようとして、後に膨大な フォークウエイズ研究に取りくむようになる彼の方向性は、国 民が彼に師事していた壌においてすでに歴史学派への親近性と して表れており、それが田尻に影響を与え、さらに田尻の門下 生たちに伝わっていったのであろう。 第二に、平沼は、先の引用中で、田尻がミルの書を﹁講ぜら るる﹂と表現しているのにたいして、 ロッシャ!の書を﹁読ま しめられた﹂としている。これは、授業中に学生にロッシャ! の書を読ませたということなのかもしれない。当時の授業はli
それが臼本人講師の担当であってもii
英語ですすめら れていたし、平沼ら同期生一二名は抜群の英語力を有していた から、彼らにたいしてはそうした教授方法が可能だったと思わ れる。彼らはまた、田尻から紹介されたこの英訳本を直接熱心 に研究したようだ。中川の﹃経済実学講義﹄をはじめとして、同期生たちの各著作中には、明白にロッシャiに依拠した記述 が認められる。そのいくつかはこの英訳本の学習の成果だとみ て よ か ろ う 。 第 三 に 、 和 田 詔 一 謙 一 二 ( 三月に帰国し、田尻に代わって第二学年を担当したが、間同期生 たちはその直後に卒業しているので、披らは和国閣の正規の講 義を受講していない。平沼が回想中で和田抱一の﹁科外講義﹂と っているのは、阪谷が在学中に聴いたという和田垣の﹁帰轄 八 六
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ー 九 九 ) は 、 八八四年 の土産話﹂と需じものであろう(阪谷芳郎 阪谷は、和国垣について、英仏独各国に留学したが、 経済学よりも独逸の経詩学を研究され、仏国の経済学はあまり 多く研究されなかったと思ひます﹂と述べ、和国指一の立場を次 一 九 二 一 一 六 一 一 一 九 ) 。 ﹁ 英 国 の の よ う に ま と め て い る 。 ﹁博士が欧州留学の当時の状況は自由貿易でもいけず、左 ればとて保護貿易に偏してもいかぬといふことも研究された のでありますから、英国でもミルやフォ 1 セットの学説を主 張して居らなかったらうが、独逸にあっては、恐らくワグネ ルの学説が最も勢力を占めて居たことで、博士も其辺の学説 を研究されたらうし、或はロッセルの学説が流行して居った ので、博士の主義も保護貿易、自由貿易の何れにも偏せず、 歴史学派受容と明治経済改革への視座 穂健なる折衷説即ち穏和な自由貿易主義ともいふべき学説を 信じて居られた様に思ひます﹂(前掲書一六四Ol
六 四 一 ) 。 平沼と板谷の回顧談からわかるのは、和田垣自身が歴史学派 への親近性をもっていた以上に、一平沼や阪谷が、歴史学派の考 えかたを吸収しようとするつよい意志をもって和田壇の土産話 に耳を額けていたことである。 第四に、ヵ i ル ・ ラ i ト ゲ ン /ー、 八五六l
一 九 二 一 ) は 、 八八ニ年から一八九O
年まで滞日して政治学・財政学・統計学 関連の教授活動をおこなっていた。彼の講義録を訳述した山崎 哲蔵のまとめによると、ラ!トゲンは、﹁神権派﹂や﹁君権派﹂ に抗して、﹁人民ノ権利ヲ保護シ及其揺利ヲ増進スル﹂ことを 自的とし、自由放任にも干渉抑圧にも偏することなく、﹁国法 ヲ以テ政府及人民ノ権利義務ヲ確定シ以テ立憲自治ノ制疫ヲ設 立スル﹂ことをめざす﹁民権派﹂に属する者である(ラ i ト ゲ ン 講 述 一 八 九 二 一 ( 小 引 ) 一 ) 。 こうした立憲国家体Oi
制のもとで展開されるべき政策は、国富良富を上から制制御するii
つまり勝れて麗史学派的な││社会政策になる。 時期生たちはこの講義(一八八ニ年秋i
一八八三年春の国法 学 、 一 八 八 一 一 一 年 秋i
一八八百年春の行政学)を受講しており、 仮谷はそれに感銘を受けて、ラ i トゲンに﹁最も私淑してゐ 七帥 帥 教 大 学 総 合 研 究 所 紀 要 第八号 ( ﹃ 阪 苓 伝 ﹄ 一 七 六 ) 、 中 川 は 、 が行政学の模範であり、経済学が行政学の資料となるというこ とを学び、﹁経済ノ理ニ通セサル者ハ能吏トナルコト能ハサル ナリ﹂と力説している(中川短次郎一八八六│八七一二九)。 平沼は、ラiトゲンによる歴史学派の学説伝授を﹁開接なが ら﹂のものだとみなしているが、阪谷や山中川は、むしろラ!ト し ラ!トゲンから、国法学 ゲンから誼接的な影響を受けている。 第五に、同期生たちは、歴史学派のなかでもとりわけロツ そのロッシャ!の﹃国民経 済体系いについてはラlトゲンから(彼は経済学の授業を担当 シャ!の影響をつよく受けており、 していなかったので課外で)紹介されたものと思われる。とい うのは、彼らの一学年下の金井廷が、ラ i トゲンの日本研究の ために資料翻訳のアルバイトをし、それを終えたとき、謝金と ともに﹁ロッシャiの経済学一一一巻﹂を謝礼としてもらっており ( 河 合 栄 治 郎 九三九一回六)、このことから、ラlトゲンが、 ﹃ 体 系 ﹄ の う ち の 二巻までを日本に携えてきていたことがわ ロッシャiの吋体系﹄は、ラiトゲン来日の 前年までに三巻(基礎論・農業経済論・商工経済論)が刊行さ れており、ラ!トゲンはこれを
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本に持参することができた。 これが金井の手に渡ったのは一八八六年六月のことであり、一 八八四年に卒業した同期生たちの在学中にはこの本はラiトゲ か る か ら で あ る 。 八 、 ンの手許にあったから、彼らにはこの三巻を読むチャンスが あった。現に、平沼は、在学中に、﹃体系いの第一巻である ﹃国民経済学基礎論﹄だけでなく﹃体系﹂を研修したと記して ( 平 沼 淑 郎 一 九 二 一 ニ ( 其 一Y
ニ ) 。 ま た 中 川 は 、 ﹁実ニ近時出版ノ理財著論中殊ニ完備セルモノ﹂ る こ の 三 巻 を 、 と し て 一 口 問 く 評 伍 し 、 ドイツ語の原書名とともに特記している(中川髄 一 八 八 二 年 以 次郎一八八四(続)二三五﹀。ここで中川は、 降に東京大学図書館に新たに加議された本を閲覧していたのか もしれないし(杉原田郎一九八O
一二七てあるいはラ i ト ゲ ンの議書を借用していたのかもしれない。さらに浜田は、卒業 ロッシャiの﹁有名ナル経済学全書﹂に の 十 年 後 の 共 著 中 で 、 言及している(浜田・伊勢本七
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一 八 九 四 ロ ッ シ ャ i の吋体系﹄が同期生たちにとってきわめて重要な著作だったこ と は 明 ら か で あ る 。 ロッシャ!の門下生であったルイジ・コッサ(一八 一 l 一八九六)の口出民経済学案内﹄は、明治期の経済学界 において長期にわたって広範な影響力を有したという点で、歴 史的に大きな価値をもっ文献である。彼の入門書(イタリア 語)の第二版は英訳され、多くの日本人がそれを利用した。英 訳本の経済史部門は、まず中川・平沼によって雑誌に翻訳連載 されたが完結せず、のち板谷の手で完訳された。コッサの経済 第 六 に 、学史叙述は、ドイツ歴史学派にとくに偏しているわけではない が、経済学の諸潮流にバランスのとれた概観を与えるという点 で秀でており、明治期の日本人たちの経済学史観形成に大きく 寄 与 し た 。 ﹁ドイツにおける重要な工業の 発展を促すために、またそれゆえ、消費者の被る一時的な損失 を犠牲として、閣員在教育するために、一時的に保護を必要と コ ッ サ は 、 リ ス ト に つ い て 、 すると主張した﹂とまとめている ︿ の
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O 一 話 回 ) 。 ま たロッシャ i について、次のように評している。 ﹁自分たちの抽象的な思弁の結果が誼に適用されうるとし、 時間空間の事清を顧麗していない純理家たちゃ理想家たちと ロ ッ シ ャ i は完全に勝利した。彼は壁史法 の 論 争 に お い て 、 学派が臨りがちなのと同様の誤りに陥り、一般的経済法則の 存在を否定し、あるいはすくなくともその重要性を過小評髄 し た ﹂(
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-一 凶 器 ) 。 リストとロッシャ i にたいするこの簡潔な特徴づけは、中 問・阪各をはじめとして、多くのB
本人の口から発せられるこ と に な る 。 第七に、大藤省における罰尻の指導については、 それをしめ 歴史学派受容と明治経済改葉への視座 す具体的な資料を欠いているが、田尻と省内吏僚との共罰歩調 は顕著に認められる。同期生たちの卒業の翌年の大蔵省職員録 ( 一 八 八 五 年 六 月 一 二O
臼付)をみると、議案局・謂査局に田尻、 書記局・調査局に阪谷、国債局に土子が在籍しており、中間は 入管の直前だったため記載がないが、調査局には駒井もいる。 そしてこのメンバーの著作を対照すると、駒井の専修学校講義 録(一八八一年以来と推定)でも、山中川の著書(一八八六i
八 七年刊行)でも、土子の教本(一八八七年初版刊行)でも、田 尻の専修学校講義録(一八八九年以来)でも、財の生産の定義 はすべてロッシャ i に依拠したまったく同一のものである(後 述 ) 。 このことに端的にしめされているように、 と吏僚との関係は﹁師弟の関係にして権力の関保にあらず﹂ の ち に 、E
尻 ( 鳥 谷 部 券 汀 学統の形成は、この時期にすでに着々とすすみつつあったよう 一 九O
二一一二一一)と評せられるようになる田尻 に 思 わ れ る 。 彼らの活躍の背後にはつねに田尻の後援があり、帰国後の添 田が大蔵次官まで登っていったのも﹁始終、大学時代の出師田 尻博士の引立を受けて居ったいおかげであり、添田を台湾銀行 頭取・日本興業銀行総裁に推薦したのも田尻であった(山路愛 山 一 九 一 回 二 一O
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六 、 一 一O
九 ) 。 九係数大学総合研究所紀委 第 八 回 す 町
金融政策への関心
時期生たちは、学生時代にさまざまな研究活動をおこなって 我々学徒の簡にも、織烈な研究熱を い る 。 ﹁ 歴 史 派 の 学 風 は 、 喚起して、史実の考査に心を寄するもの漸く多きを加ふるに至 った﹂(平沼淑郎一九三六一ニ)。浜田の古代通貨考はその一 例で、彼は在学中にその研究成果を﹃学芸志林いに連載しはじ めている(浜田鍵次郎一八八四万これは卒業論文だったのか もしれない。彼はのちにこの研究会単行本化している(一八八 八 年 ) 。 こうした研究に取りくむ動機について、平沼はつぎのように っ て い る 。 ﹁当時日本の経済的状態は非常に混乱してゐた。血気旺ん な青年であった小生どもも、そのため思想を動かされ、或ひ は実地に就いて研究し、または諸先議の論文とか雑誌掲載の 諸著述に就いて大いに論究したものである。我々の最先きに 着目したのは吋金融制度﹄に就いて Y あって、これを成すに 当つては、金融制度と密接な関係にあるところの﹁貨幣制 度いを研究しなければならぬと言ふ訳で、開僚学友と此の事 O に就いて盛んに討論もし、又産談会をも開いたものであった。 当時の学生には、小生もその一人であるが、今の男爵板谷芳 郎、添田寿一両氏等が花形役者であった。そしてその結果を 沼尻先生に提出して、その教を受け得るところは多大であっ ( 平 沼 淑 部 一 九 三 六 一 回 ) 。 当時の混乱した経済的状態と一言われているのは、彼らの大学 時代が松方デフレの渦中であることから理解できる。紙幣整 理・正貨蓄積・免換紙幣制度確立が着々とすすめられていく反 面、未曾有の不景気が到来し、国民各層の分解が深刻化した。 それをどのように理解し、今後の日本経済をどのような方向に 向かわせるのかが、彼らの大きな関心事だったのである。この くだり 研究結果を提出して田尻の意見を聴いたという件については、 ﹁ 東 京 大 学 第 三 年 報 ﹂ ( 一 八 八 二1
八 一 一 一 年 ) 中 の 田 尻 の ﹁ 申 報 ﹂ の記述と符合する。田尻は、第二年生向けの講義の概要を述べ た後、次のように書いている。 ﹁第一二年生ニハ課程書中ニ不明了ノ櫨ナカラシメン為ニ費 疑ヲ起サシメ余之一一答へテ百疑ヲ弁析シ力メテ謬妄ニ陥ラサ ル ノ 風 ヲ 奨 励 セ リ ﹂ 。田 尻 は 第 二 年 級 の み を 受 け も ち 、 第 一 一 一 年 級 ( つ ま り 同 期 生 た ち)には教えていないはずなので、筆者は、以前、﹁申報﹂中 のこの記述を読んで当惑したのだが、平沼の回想に出会って、 ある程度事情がわかってきた。詞期生たちは、講義のために来 学した田尻をつかまえて意見を聴いたか、あるいは、第二年級 の学生たちに混じって、すでに前年履修済みの田尻の講義に出 席して費問童めに遭わせたかのどちらかであろう。彼らは、こ うした一種の自主ゼミナール活動をも屡関して、日本の金融財 政の現状と将来とを研究していたのである。 もうひとつ重要なのは、彼らが受講した
B
本 財 政 論 で あ る 。 これは一八八二年にはじめて開講された科目で、財政の実務家 を招いてその知識を学生に与えることを自的としていた。一二人 の大議官僚と一人の実業家が招かれており、﹁東京大学第一二年 報﹂中の﹁申報﹂によってその内容をみると、日本租税史およ び地租改正の概要(市川正寧)、関税組織・関税徴収法・外関 翼易(石川有幸)、明治一五年度議出入予算・貨幣・造幣論 (佐伯維馨)、日本高業実況・銀行組織・金融論(渋沢栄一)と なっている。これは実験的なカリキュラムだったのだろうが、 渋沢にたいしては加藤弘之が麗接依頼したことが知られており 一 l 一 二 ) 、 大 学 側 が か な り 力 を 入 れ て い ( 平 沼 淑 郎 九 三 六 一 た と も 考 え ら れ る 。 援史学派受容と明治経済改革への校庭 ﹃ 甑 谷 芳 郎 伝 ﹄ 同 期 生 た ち は 第 三 年 級 に 市 川 ・ 佐 伯・渋沢の講義を受講し、第四年級に市川・住拍・石川・渋沢 の講義を受講している奇抜谷伝﹄一七五i
七六)。第三年級に 石川が抜けているのは、石川の講義がその年度中に完結できな かったものを次年度に屈したためである(﹁東京大学第四年報﹂ に よ る と 、 の 石 川 の ﹁ 申 報 ﹂ ) 。 平 沼 は 一 言 う 。 ﹁かくの如く実擦家が来講して実際の知識を与へられた事 は小生どもに取って非常に有益であって、従来理論理窟にの み一偏して来たものの思想が、これより以後漸次実際化し来つ たのである﹂︿平沼淑郎 九 市川川らが東京大学に出講していたのはわずか二年間であり、 とくに、石川の講義は、同期生たちが第三年級にあったときに 始まって第四年級のときに完結し、それ娘りであるから、これ を最初から最後まで聴講しえたのはこの同期生たちだけである。 つまり、このように集中的に財政・金融にかんする盛り沢山の 実擦知識をうるという傍倖を享受した学生は、後にも先にもこ の間期生たちだけなのである。そのときにえた糧は、卒業後の 実務におおいに役立ったのであろうし、研究・教青活動にもお おいに資するところがあったことであろう。傍教大学総合研究所紀要 第八号
V
経済政策論の基調
同期生たちが卒業して臼本経済の現場に立ったとき、日本の 経祷政策の基本方向を自由主義に置くのか保護主義に置くのか が大問題であった。そして彼らは、適宜保護策を講じながら国 富発展を最優先させる立場を表明する。それは彼らの師であっ た ラ i トゲンや田尻の立場でもあった。 ラ i トゲンは、自由貿易論を批判し、 不利不福ヲ一境ノ定界マテ補充シ得ルコトナルヘシ﹂とし、保 護漸減の主張にたいして、﹁時宜ニ依テハ尚議々保護策ヲ行フ ヲ以テ利便トスルコトアリ﹂と論じている(ラ i トゲン講述 ﹁保護策ハ其国天然ノ 一 八 八 六l
八 八 一 五 七 四 ! 五 七 六 ) 。 つ ま り 、 ﹁ 実 地 ノ 菌 政 ハ 国ノ生産力ヲ犠牲ニ供シテモ尚自由貿易ノ最終ノ結果ヲ収メン というのが彼のスタンスで トスルモノニアラス ︹ 潤 点 省 略 ) あ る ( 前 掲 書 一 五 一 八 二 ) 。 フ リ ー ド リ ヒ ・ したがって、彼は、 リストの﹁高見卓識﹂を高く評価する。ラ i ト ゲ ン に よ る と 、 リストは自由貿易論に反対して、各国の事情におうじた保護税 制の意義を強調し︿前掲書一六O
五 ) 、 工 農 関 係 に つ い て 、 ﹁ 工 業ノ経盛ナランコトヲ欲スレハ能ク外盟農藤物及未製品ノ輪入 ヲ盟止シテ専ラ自閤産ノ物ニ拠ラシムヘシ﹂と主張したのであ る ラ i ト ゲ ン は 、 リ ス ( 前 掲 書 一 六O
六 l 六O
七 ) 。 た だ し 、 トの立論の難点として、①交通運輸が発達したときの保護税 制の効力を研究していないこと、②工業偏重であること、③ 一圏内部における生産業関の不均衡を考慮していないこと、④ 工業奨励に一定の限界を設定していないことを挙げている(前 掲書一六O
七 ) 。 リストの﹃経済学の国民的体系﹄は、大島貞益によって英訳 から重訳されることになるが(一八八九年)、それ以前にも、 前掲のコッサの記述が知られていたほか、伴睦之助がリストを 紹介している。伴の要約によると、リストは、国民経済の発展 段階を①牧畜時代②耕作時代③農工時代④農工商一一一業の時 代に分け、それぞれの採るべき産業政策を次のようにしめす。 ﹁彼の国家幼稼にして猶ほ耕作を主とするの時代に在りで は自由賢易の主義を取りての進歩を謀るべしと錐ども農業日 に進み、工業漸く起るの時代に在りでは保護政策を行ふて自 国の生産力を養生すべきこと実に国家の要事にして其の際一 時物価の騰貴を致すか如きは国より一五ふに足らざるなり何と 其消費者は或は為めに物価騰貴の損失を蒙むるべし難も是れ 自国か由て以て産業に修練するの費用なればなり然れども若 し夫れ農工の二業発達して第一一一の時代に達するときは護た保護の策に出づるを要せず大に留を関て広く万民と通商し謹ち に第四の時代に入らんこと又何ぞ難きことか是あらん其蕊に 至るの道に於ては保護の策を用ひて以て内地の産業を起さ Y るべからず﹂︿伴直之助 八八七 ~、、
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) 。
これは﹃経済学の国民的体系﹄第十章・第十五章に対応して い る (円、目的門戸∞ k H H ¥ H C 問。ぃ目印一ケ]{叶吋 iM 吋 ∞ -日 ∞ ] { 噌 ) { ∞ ω l H ∞品﹀。 仁, の ︽自由│保護i
自 由 ︾ の 一 一 一 段 抽 出 論 は ロ ッ シ ャ i に継受され(
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、また当時の日本の経済政 策家たちの関心をつよく惹いた。 田尻は、自由貿易論者︿田尻の表現では 主張と保護主義者(沼尻の表現では ﹁ 自 由 貿 易 党 ﹂ ) の ﹁ 保 護 方 策 党 ﹂ ) の 主 張 と を双方とも退け、経詩学の目的は最小の労費をもって最大の結 果をうることだというロッシャ!の規定から、まず日本経済の 目的を定めることが肝要であって、そのための方便は﹁実地の 景況に依り自在の変通﹂をこころみるのが正しいとしている ( 田 尻 稲 次 郎 一八八九/一九 ニ ム ハi
一 一 一 二 八 ) 。 彼はいくつかのケ i ススタディから保護方策の得失を吟味し、 物品によって保護策の効果が異なることを強調する。また、さ まざまな業者が、自己利益のために、ある物品には保護を望み、 他のものには保護しないことを望むので、 その利害錯綜を解く 時 比 史 学 派 受 容 と 明 治 経 済 改 革 へ の 校 庭 ことは不可能であり、結問あらゆる事業を保護せざるをえなく ﹁ 其 保 護 な き と 同 様 な る 結 果 を 来 た し ﹂ 、 な り 、 そ れ は い た ず らに国民生計の費用を増加させ、国異に重税を諜すことにしか ならない。だから、保護をもって﹁万世に推さんと欲するも 種の謬見にして思より経国済畏の道に非ざる 五 一 ニ ) と 喝 被 す る 。 の h 如きは是れ な り ﹂ ( 前 掲 書 一 一 二 五O│
一 一方、国民が営利に熟達していない場合にはご曹の力を仮 し鼓舞誘導を試みるこが当然であって、これを怠るばかり ﹁外属品を保護して内 閣の生産者を苦むる﹂ことになってしまう。だから、国民経済 のバランスが崩れているならば、﹁少しく人為を加へ権衡を保 持せしむるは決して失当の業に非ざるなり﹂と論じて自由賀易 論者を批判する(前掲書一 か たとえば関説を廃止してしまえば、 一 七 五 l 一 一 七 七 ﹀ 。 ロ ッ シ ャ i に依拠して、田尻がこうしたスタンスを保ってい ることは、同期生たちのリスト理解とも符合する。浜田は、伊 勢本一郎との共著﹁経済学史﹄のなかで、リストにかなりの分 量を割いている。それによると、リストは、個々の営利追求は 社会の公益に麗結しないと論じてスミスを批判し、さらに、留 の寓は﹁生産力ノ発達ニ在リ﹂とした(浜田・伊勢本 国民生産力完備のためには農工商 民 の 一 八 九 四 一 一 六 七 ) 。 ま た 一一一業の併進が不可欠で、とくに﹁臨工業ハ島民ノ勃輿独立ニ最品 抑 教 大 学 総 合 研 究 所 紀 要 第八号 モ重要ナルモノニシテ純然タル農業ノミヲ以テ爵ヲ建テントス ルニ於テハ閤民ノ活動ヲ欠キ棟腐ニ陥ラシムルノ弊アリ﹂と論 (前掲書一一六八)。そして浜田らはリストの産業政策三 ドイツやアメリカのような屈は保護政策を採 じ た 段 階 論 を 提 示 し 、 らざるをえないのであり、﹁保護ノ時代ニ在リテハ人民ハ一時 ノ損失ヲ蒙ル可シト難モ他日其生産力ヲ増長スルニ及ヒ一層大 ナル利益ヲ博スルヲ得ヘキヲ以テ暫時ノ教育ハ忍ハサル珂カラ スト一五へリ﹂とまとめている(前掲書 六八ー一六九三 すでに中川も、リストの立論の趣旨は、ドイツの工業振興の ためには保護政策を採らざるをえず、それによって﹁消耗者ニ 於テ暫時損失ヲ被ルモ永ク器産ヲ養成スルニ如カスト一五フニア リ﹂としていた 一 八 八 四
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八 五 ( 酉 ) 一 八 七 ) 。 ( 中 間 恒 次 郎 同期生たちがリストの見解のこの部分を好んで抽出しているこ とは、彼らのリストにたいする関心の所在をよくしめしている。 彼らにとって、弊害が多々生じることは承知のうえで状況にお うじた保護策を講じていくことは日本の道でもあったのである。V
I
商工業の刷新をめざして
日本の産業化の進展のために商業が担うべき役割は小さくな かった。そしてリストやロッシャ i に導かれて、寵業の意義を 2!l 高く評価することに、同期生たちの力点が置かれていた。その 見地は、やはりラ i トゲンと共通するものである。 ラ!トゲンは、寝業の本旨は﹁私事経済上ノ営利ヲ標準トナ シ智カヲ以テ其運転及集散ヲ支配スルニアルナリ﹂︹関点省略︺ と規定し、調業が流通を円滑に成りたたせてこそ生産業の発達 が可能になると指摘し、そこで実現される省力化や資本調達は、 商業が国民経済に利益をもたらすことを証明するものだと論ず る。だから、高業は農工業に寄生してその利益を横奪するもの だという仲間説は誤っており、農工商三業は同等だとする(ラ i トゲン講述 一 八 八 六i
八八一回二五l
閤 三01
中山川は、この問題にたいして、生産の原義から間いなおす議 プ ロ ダ ク シ ョ ン 理財学における﹁生賠﹂ 論を展開している。彼によると、 新たに物を増殖することだけをさすのではなく、 生活ノ需要ヲ充タスタメニ今マデ知ラレサリシ功能ヲ備へル物 ヲ新ニ発見スルコト及ヒ既ニ用ヰ来レル物ヲ変化変形シテ以テ 更ニ新タナル功能アル物ヲ造リ出スコト﹂つまり﹁物ノ功能ヲ 増スコト﹂である︹圏点省略︺(山中川憶次郎一八八六i
八 七 一 一 一 一 九 l 田O
)
。この定義はロッシャ!の生産の定義そのもので lま ﹁ 人 間 ノ あ り( m
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斗 ¥ 斗 ∞ ( 日 ) 一 日 目 。 ) 、 土 子 も 田 尻 も 同 じ 定 義 を 採用している ( 土 子 金 四 郎 尻稲次郎 一八八九/一九 八八七/九八一一九l
二O
、 一四五)。中川はここからさらに 出展 開 し 、 スミスをも援用して、商業蔑視の風潮すなわち﹁農ヲ ノミ重スルノ嵐﹂を攻撃する。 ﹁余ハ徒三関エヲ重ンシ農ヲ軽ンスル者ニアラス然トモ時 ト処ヲ論セス古今ヲ問ハス各国ニ通シテ農ノミヲ以テ盟ノ経 済ヲ立テント欲スル者アルニ至リテハ之ヲ排譲セサルヲ得 ︿ 中 川 前 掲 書 一 呂 田 ) 。 分子も消滅あるいは創造することができない ことは物理学の初歩であって(前掲書二二九てその意味では、 農業が生産で商工業が変化変形だと思うのはまちがいだと中川 人力によって は 主 張 す る 。 ﹁農トテモ決シテ新ニ物ヲ生スルニアラスシテ商工ト詞シ ク在来ノ物ノ形費ヲ変スルニ過キス乃チ土地ヨリ生一スルトコ ロノ物ト雄トモ前ニ蒔キタル種子肥料水分大気中ノ炭素等ヨ リ成リタルモノト知ルへシコノ故ニ農工衛ハ共ニ国ノ経済ニ 益アルハ断シテ疑フヘカラス﹂(前掲書一四五)。 物理学を援用して農業を相対化し、農本主義を担底から覆そ いささか粗く強引なものと言えようが、 うとする中川の立論は、 歴史学派受容と明治経済改革への視康 ここには、彼の情熱がどのような方向に向けられていたのかが よ く 表 れ て い る 。 農 本 主 義 は 、 ① 教 学 農 本主義②老農農本主義③官僚農本主義④アカデミズム農本 主義⑤社会運動農本主義の五種に大別される(武田共治一九 九九二ハ八)。これらは、徳川封建制制動揺・崩壊期から原始蓄 積期・産業資本確立期においてーーさらにはそれ以後にも
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執勘に台頭し麗関された思想であり、とくに松方デフレ ││それは向期生たちが在学中に目の当たりにし、研究もし た事態である 111 のもとで時吟する中小農民を救済しようと するものであった(前掲書一第二一編第一i
第三章)。中川ら同 期生たちは、これらと対持し、むしろ国益のありかを高工業の 武田共治によると、 発展に求めていったのである。V
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地担軽減問題をめぐって
同期生たちが日本経済に自を向けるようになったのは、既述 のように松方デフレをきっかけとしており、したがって、臨工 重視とはいっても、農民窮乏問題もつねに彼らの視野に入って いる。興味深いことに、卒業後それぞれの歩みを始めていくな かで、この間題をめぐって見解の相違が生じている。 中小農救済・民力休養策として、地租を軽減するか否かが物 五帥抑教大学総合研究所紀妥第八号 議を醸していた。そのなかで、添田は地租軽減をつよく求める 意見を表明する。彼の議論は多岐にわたるが、本稿に関連する かぎりで抽出しよう。農民の負担は工商業にくらべて編章であ る。高間両税併用に努めるべきで、またいったん減租した後の 再増説もありうるから、減租の問題は代醤税源の問題と切りは なして考えるべきである。国力不相当の国家経費を節減して減 租するならば、農民の七割以上を占める地主自作人を利するの であり、かつ小作人も小作料引き下げを議求するのが当然だか ら、結局全農民を救済することになる。日本においては外国貿 易よりも器内高業の比重が大きく、農民の利益は一般に波及し て、ひいては全国人民が思沢に浴するであろう。減粧の利益は 個々の農民にとっては小さなものだが、彼らが肥料翼入・農具 改員・農業貸付をなす会社組合等を設立するならば大きな利益 を生む。減租実現のさいには、大地主は小作料を引き下げるべ きである。また軽減によって獲得された利益は農事改善に用い て、けっして浪費しないようにしなくてはならない。減租のた め土地価格が騰貴するけれども、けっして土地売却に走つては ならない。われわれは、関家の基礎たる中小農の疲弊断跡を挟 手傍観せず、農民を信頼して事に当たらなくてはならない(添 田寿一一八九一(正)一一一 l 一 七 ) 。 添田がこの論説を発表したわずか一週間後に浜田が反駁する。 ム ノ¥ この添田批判は結局六回にわたる長編連載になった。浜田は、 ﹁既往と将来との関係を考究し、細に之に繋連して活動する所 の諸般の勢力を観察せざるべからざる﹂ことを主張し、そのた めには、日本の地税の沿革にもとづく史学的観察をなし、また 現在なお未発達な蕗工業の位置とすでにかなりの発達を遂げた 農業の位置とを比較し、浮沈の激しい商工業と利益の安定した 農業とを勘案しなくてはならないと論ずる。そして農民の負担 が 偏 重 だ と は え な い と 推 断 す る ( 浜 田 健 次 郎 一 八 九 一 i o i -一 -一 八 一 一 一 ) 。 地租を負担する農民についてみると、噴習は久しく発達は漸 次でかつ勤勉であり、新税の負担者にくらべて租税負担によく 堪えうる。だから﹁国靖菌性非常に変遷せさる間は到震直税に 重きを霞かさるを得す、殊に地租を以て財政の基礎と為さ h る を得さるいことには焼間の余地がない(問(二)一回九九)。 浜田は、税掠問題等にも反論を加えた後、小農開題に移る。 大中小農についてみると、﹁小農及ひ中農の下に属する者は其 の数非常に多く、市して其の有する所の農地は甚た小なる﹂た め、減租による利益は小さすぎて効果がなく、大農のみが大き な利益をうることになる。これでは小農の休養策にならない。 /目、 ¥ーノ 統計をみると、農地面積は増加しているのに地租納税者が減少 している。これは﹁割合に多分の農地の割合に少数の農民の手
裡に帰して従来小地主の位地に在りし者漸く其位地を失ひて小 作人に墜論し去るか故にはあらさるか﹂。地租軽減を実施すれ ば、この傾向に拍車がかかることになるだろう。また、呉文総 によれば、自小作比率は、自作人五割半強、小作人四割半弱で あ る 。 添 田 の 一 一 一 一 口 う 比 率 は お か し い ( 同 ( 一 二 三 六
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六 ) 。 地租軽減を実施したとしても、農家はすでに掴懲疲弊してい るので、減租留得分をもって共同事業を展開するなどというこ とはありえず、それは生計維持のために消えていくにちがいな い。添田が希望するような﹁経済思想の実存応用﹂は、現在の 農民間には期待できないのである。むしろ罷家が国税をもって 治水等の諸事業を展開させたほうが広範な利益をもたらすこと がありうる(悶(四)一六七七 l 六七八)。添田は、地主に小作 料減免や共同事業展開を求め、また浪費や土地売却を戒めてい るが、浜田は、それを、﹁彼の郷保依侍の美俗の実力を地方経 済に有せし昔時に於て、若くは風教先全し経済道徳相踊応する を得るに歪れる後生に於てはいざ知らず、現今の如き人心概し て倍人的自己主義の利慾に奔逸し、義を軽んすること鴻毛の如 く、構の冷なること氷に似たる時代に在りでは﹂とうてい望み えないことだと突きはなしている。また日本の農民は﹁概して 智識狭く、先見足らす、前途の多望を期するの習に乏しく生計 の寵度を上伸するを図らす、漫に旧来の位地に甘し、日下の口 歴史学派受容と明治経済改革への授恋 織を維持するを以て満足する者実に其の大多数を占め罵る﹂の であって、減租留得分をもって、富裕層は審修に走り、貧国問題 は自下の口を糊するだけに終わるだろう。そして土地兼併は加 速し、笠寵の懸架はさらに大きくなるだろう(同(五)一部一一一 i 四六)。﹁農家の関弊は地租過重の結果にあらすして我か臨経 済組織の劇変し生産、分配、消費の相互関係非常に揺勤し社会 の嵐信習環亦甚しく旧態を変更せるに臨れるもの多く、為に生 計上失処するに至れる﹂のであると浜田は主張する。地租軽減 は小農を救済することにならないのであって、逆効果のみが予 想される。﹁我か財政の基礎を揺勤し、国家経済の組織に劇衝 を与え却て小中農のため永遠の利益を危からしむるの恐ある 政策を賛成するを得さるなり﹂(間(六)一八二 l 八回﹀。浜田 は、すでに別稿でB
本の農業の特質について考察をすすめてお り(浜田鍵次郎一八九O
、未完の論稿)、彼の添田批判は、日 本農業史と農村の実情と農民気質とに郎した施策でないと効果 はないとする点で、非常に優れた歴史主義的分析であると言え ょ う 。 浜田の連載が続いているころ、阪谷もまた添田批判をおこ なっている。仮谷が地担軽誠に反対するのは、﹁今日ニ於テハ ヲ軽減スルヨリモ他ニ之ニ勝ル所ノ利益ヲ生スヘキ 地 租 ノ 財政ノ方案アルへシト信スル﹂からである。最近二十年間にお 七係数大学総合研究所紀委 第 八 口 ぢ いて民力が発達してきたことは、人口の増加や貿易の増大から 明らかであり、農業をみても、反別・収穫高・蚕糸高・製茶高 はいずれも伸びている。農業生産力の向上は歴然としており、 民力疲弊を唱えるのは速断に過ぎる。地租は地租改正以後すで に軽減されているが、減租は地主の利益にしかならない。地租 改正当時にくらべると、今日では農地の評錨を高めるのが当然 そうした地錨修正に踏みきらない代わりに地租を低減し ないのである。さらに阪谷は、地租は収益にではなく土地に課 税するものだから、減租しでも農業の利益を増すことにはなら F -、 、 、 A
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み h ・ 4 U な い と 論 じ て 、 添田の議論を一蹴している ( 阪 谷 芳 郎 八 、 九 一 一 一 九l
一 一 二 ) 。 ﹁ 今 日 我 邦 ノ 地租は定着し、人民は納租に潰れてきており、 地租ハ小地主ヲ亡ス程ノ負担ヲナサぐルナリ﹂(前掲書一二五)。 地租軽減によって個々の地主に利益を供与するよりも、国家の 歳入を確保し、それによって有益な事業を展開させたほうが得 策である。﹁余ハ常ニ消極的ノ財政策ハ往々終ニ国勢ヲ萎縮セ シメ再ヒ振フ可カラサルニ立至ラシムルコトアルヲ恐ル、者ナ 八)。このように、阪谷は、地主本位の安定し リ﹂(前掲書二 た農業発展に依拠して国力増強を図るというはっきりした方向 を打ちだしている。 今日よく知られているように、デフレ政策の結果、米舗がい 八 ちじるしく下落し、その不利を小作人に転嫁しえない自作・自 小作農民は窮乏の度を深めていった。安孫子麟によると、宮城 県南郷村の地主・佐々木家が一八八一i
八五年に農地とともに 多くの宅地を購入していることから、この時期に宅地までも手 放さざるをえなかった農民の没落がきわめて深刻であったこと がわかる。しかし、農地・宅地を手放した者たちはかならずし も村を離れておらず、小作農として村にとどまるか、あるいは 親戚などを頼って他の村に農家として移住する例が多い。そし 一家を挙げて無産労働者となる例はすくなかったが、次一一 て 、 男子女が労働者として放出されることは広範な現象だったと安 孫子は指摘している(安孫子麟一九六五一回O
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三 ) 。 だから、統計上では農地は減っておらず農業を棄てる者も多く ないにせよ、内実はきびしいものがあったとみなくてはならな い。浜田がこの現実を直視しているのにたいして、政谷はここ から自を背けている。かかる事態が生じることを承知のうえで 政府はデフレ政策を強行したのであり、商工業の発腿あるいは 国富の増大のためにそれはやむをえないとするのが阪谷の立場 である。仮谷がそうしたスタンスを誰から学んだのかをさかの ぼってみれば、既述のように、 リストやロッシャ 1 やラ!トゲ ンや田院に辿りつくことになる。四
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歴 史 学 派 経 済 学 の 導 入 は 、 明 治 十 年 代 ( 六)にかなりの程度まですすんでいた。それはその当時に公表 された紹介文や翻訳や教本や研究論文をみてもわかるが、むし それを学んだ若者たちが、 八 七 七 i/
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ま たじつにあざやかに│!日本の社会経済に応用して、怜抑制な 現状分析を展開し、また冷酷なまでに決然たる政策提言をなし ろ 、 ていたことから明らかである。 ドイツ歴史学派経済学の導入は、和田指一謙 三を璃矢として、金井延が本格的におこなったとされている。 従来の研究では、 新歴史学派にかんしてはたしかにそうみなすのが妥当だが、本 稿で取りあげたその前段階をみると、金井社新歴史学派盟流に 先立って、田尻学統 H 旧歴史学派亜流は、かなりよく歴史学派 の発想を学び、またそれを日本にアレンジする術をえている。 本稿でその初期の歩みをみた間期生たち(田尻の門下生たち) マックス・ヴェ i パ!と同じ世代に属しており、ヴェ i lま パ i が新産史学派の門弟であったとするならば、彼らは出歴史 学派の門弟であった。明治後期経済政策の主役たちは、さしあ たり旧歴史学派による理論武装をもって出発したのである。彼 歴 史 学 派 受 容 と 明 治 経 済 改 革 へ の 授 盗 割とは、今日、 らがすすめた経済学研究深化と彼らが果たした政策決定上の役 日本経済思想史上に再評価されてしかるべきも の で あ ろ う 。 主 ( 1 ﹀学生たちのあいだの経済学人気は東京大学文学部における一 般的傾向であり、一八七九年九月の学科課程改正にあたって大 学から文部省に提出された上申書には、経済学(疎対学)重視 の方向を打ちだす理由のひとつに﹁此の学を専攻せんと欲する 学生の多いこと﹂が挙げられているという(森義一一一郎一九回 二 一 四 七O
)
。 ( 2 ) そもそも、彼らが大蔵省に入省したのは田氏の勧誘によるも の で あ っ た ︿ 広 渡 四 郎 一 九 一 回 一 八 、 ﹃ 阪 谷 伝 ﹄ 一 八 一 一 ) 。 また、専修学校が神保町今川小路辺に校地を選んだのは、銀 行・会社・諸窓省の勤務が退けてから講義を聴くことができる ようにとの配慮からであった。仮谷によると、諸官省の当時の 勤務時間は午前九時から午後一一一時までであった(﹃田尻伝﹄ 下一七一五) o
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尻 は 専 修 学 校 創 立 者 の 一 人 で あ る 。 ( 3 ) 閏尻の講義が﹁第一年級﹂のときになされたというのは平沼 の 記 憶 違 い で 、 正 し く は 第 ニ 年 級 で あ る 。 ( 4 ) 平 沼 は 、 一 九 二 一 一 一 年 の 回 想 に お い て 、 金 子 ・ 駒 井 が 用 い た 教 材がミワセント・ギャレット・フォiセット夫人の入門書だっ たと述べているが︿平沼淑郎一九二三(英一)一二、一九一一一 六年の回想においては、それはへンリ!・フォ i セットの教科 書ということになっている(平沼淑郎一九三六・﹀。また一 九傍 教 大 学 総 合 研 究 所 紀 要 第 八 回 守 九三三年の屈想ではどちらだか判別できない(平沼淑郎一九 一 一 一 一 一 一 一 五 三 こ れ は た ぶ ん 一 九 ニ コ 一 年 の 回 想 が 正 し い 。 平 沼 ら がへンり 1 ・フォ!セットを学んだのは、文学部に進学して田 尻の講義を受講したときであり(東京大学﹁第二年報﹂におけ る田尻の﹁申報﹂)、平沼は、一九三六年の回想において、予備 円の授業と文学部の出尻の授業のイントロダクシヨンとを混同 しているものと思われる。 ?とたとえば、平沼は、﹁少年時代から、なんの余響かはしらぬ が、時代と国土とによって理論の累向がありはせぬかといふ疑 惑を抱持してゐた﹂という︿平沼淑郎一九二三(其一ゴニ)。 彼が時代のなかで育んできた独特の気質は、歴史学派への共感 とその受容の積極性とを招いたのであろう。 ( 5 ) 沼尻の業績とその限界について、またその人物については、 閏尻晩年の講義を聴いた大内兵衛が行き届いた概括をしている ( 大 内 兵 衛 一 九 一 一 一 五 / 七 五 ) 。 なお、白尻の生年は一八五
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(
議、丞ニ)年というのが定説だ が、小峰保栄は一八五ニ(嘉永五)年説を採っている(小務保 栄一九七六 b 一 九 九 │ 一O
O
)
。 ( 7 ) 彼ら同期生たちは、東京大学の学生たちのなかでも、その優 秀なことでは際立った存在だったらしく、各教部の各年﹁由叩 報﹂をみると、回尻が彼らの英語力を特筆しているほか、クー パ l ( 史学・哲学)らも彼らの能力と勉励ぶりに驚嘆している。 添剖が最初の訳書を出版したのは一九歳の時であり、また後の 仮谷や中川の訳業は見事なものである。表 1 の順序が成績順だ とすると、成績最低者は杉江だが、彼が東京英語学校・早稲岡 大学高等予科等において英語を教え、また訳業に従事していた ことから、この一ニ人の英語力の高さがわかる。 O 東京大学入学以前の学修状況については平沼の例が参考にな る。彼は、津山時代にアルファベットを習得し、上京後、一八 七一一年冬(八歳)に、出稼山藩江戸藩邸の隣にあった箕作秋坪 の 一 一 一 叉 学 舎 に 入 門 し て 、 箕 作 元 八 ら と と も に 英 語 を 学 ん で い る 。 高級学生が初学の幼年生に教授するというシステムで、教授障 には大槻文彦・草野笈隆らを擁していたという。そこでは、発 音こそおぼつかないものだったが、﹁意義の解釈には姉弟共に 湾身のカを入れて、徴締の点も軽々看過しなかった﹂という (平沼淑郎一九三O
三二/五七二一八一│二八五三平沼は また、箕作元八・阪谷とともに一八七五年に入学した東京英語 学校(のち廃校、東京大学予備門に移管)における学修状況に ついても活写している(前掲書一二八八 i 二 九 四 ) 。 ( 8 ) 河湾還は、和田垣が﹁我国歴史学派経済学の奥短﹂であり、 歴史学派の学説をもって臼本の経済学の新特代を起こしたとし ている(河津退一九一九二三O
)
。これも、一九一九年の時 点でなされた和国壊の業績の意味づけであって、阪谷の和田沼一 評と掲様に、時代の制約のなかの評価である。これにたいして、 大内兵衛は、﹁和田信一先生があれだけの才能をもってして待代 を作らなかったのはなぜか。金井、松崎があれだけの才能でし かなかったのに時代を作ったのはなぜか。日本の経済学が英米 からドイツに変ったためであると言えよう。それがまた、経済 学が宮学化したこととも関係があったろう﹂と述べている(大 内兵衛一九六O
二 一 一 三 ) 。 大 内 の イ メ ー ジ の な か で は 、 和 剖 沼 一 はむしろ時代に乗りそこなった人物である。 ( 9 ) これは政治学者としての競定であり、間派に属する者として は、ロベルト・フォン・モール、ヨハン・カスパル・ブルン チュリ、ロiレンツ・フォン・シュタイン等が挙げられている( ラ i ト ゲ ン 講 述 一 八 九 一 一 一 ( 小 引 ) 一 一 ﹀ 。
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中川は、コッサの﹃財政学原論﹄を独訳から重訳(抄訳﹀し ており、ドイツ語の読解能力は確かである(中川恒次郎訳述 一八八五)。彼は、金井延と同様、ラ i トゲンの日本研究のた めのアシスタントを勤めており、ラ i トゲンは、その著警中で 中 川 に た い し て も 謝 辞 を 献 じ て い る ( 河 丘 町 長 白 ロ お 宏 一 民 ) 。 (孔)コッサの経歴については A-ロりアの追悼録を参照P
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呂志﹀。コッサと日本の経済学とのかかわりについては杉原四 郎がくわしく論じており︿杉原閤郎一九七二一第一部第二一章て また藤原昭夫と坂田太郎も言及している(藤原昭夫一九七一、 坂 田 太 郎 一 九 七 三 ) 。 ( ロ ) 中 川 ・ 一 平 沼 の 訳 は 司 学 術 経 済 雑 誌 ﹄ 一 一1
四号(一八八五)に 掲載されているそうである(杉原四郎一九八O
一 七 五 、 現 物 は筆者未見)。中川は同時期に別の雑誌にもう二種類の十九世 紀経済学史叙述を発表しており、いずれもコッサを下敷きにし ている(中川恒次郎一八八回、同一八八四│八五)。また注 (印﹀に記したように、中間はコッサの財政学にも関心をしめ しており、コッサ財政学の紹介としては和田窓謙三に先んじて い る ( 和 国 垣 謙 一 一 一 一 八 八 七 三 中川はコッサの経済学史をご冊子﹂としてまとめたがって い た よ う だ が ︿ 阪 谷 芳 郎 一 八 八 七 一 ( 経 済 学 史 講 義 倒 的 一 一 = 口 ) 九 ) 、 果たせなかった。それは、彼が外交官への道を歩むことになり、 一八八七年二月にシンガポールに着任したためであろう。 阪谷は、中川・平沼の訳業をかたわらでみていたのだから、 コッサの﹃国民経済学案内﹄をかなり早くから自にしていたは ずだが、仮谷が丸善でこの本を購入したのは一八八六年九月六 日であるらしい(小蜂保栄九七五一一七二。これは彼が和 歴 史 学 派 受 容 と 明 治 経 済 改 革 へ の 視 座 問 一 期 一 に 代 わ っ て 専 修 学 校 の 教 壇 に 立 つ 直 品 別 で あ る 。 コ ッ サ の 経 済学史を完訳した仮谷本には、m w
哲 学 世 一 回 続 板 可 経 済 学 史 講 義 ﹄ 、 ②専修学校講義録﹃経済学史 h 、③専修学校講義録﹃経済沿革 史﹄のコ一種類があり、それぞれ若手の巽時がある(ただし③ は筆者未見)。①のみ刊行年月︿一八八七年七月)がはっきり しており、②③がいつのものかは不明だが、関未代策は、③ は①よりも先に出版されたと推測している(関未代策一九三O
二)。日本において﹃経済学史﹄と銘打たれた審物は仮谷 講義を鴨矢としており、その意義については藤原昭夫が論じて いる(藤原紹夫一九七一一一六四 i 一 七 一 ) 。 ( お ) ﹃ 阪 谷 芳 郊 伝 ﹄ が 、a
本財政論はニ年間にわたって開講され たとしているのは、森義三郎が、それは﹁一一樹限りで中絶し た ﹂ と し て い る の と 矛 盾 す る が ( 森 荘 一 一 一 郎 一 九 四 一 一 一 四 七 八 ) 、 ひ と ま ず 前 者 に 従 っ て お く 。 (弘)ロッシャ!の﹃国民経済学基礎詳細﹄が最初に邦訳されたのは 駒井重一格によってであり(抄訳)、そこでは、﹁凡ソ天下ノ物質 ハ六十四元素ヨリ成立ツモノニシテ其元素タルヤ人カヲ以テ生 出スルコト能ハス﹂とされている(駒井重絡講述一八八一 一 一 一 五 ) 。 し か し ロ ッ シ ャ l ( レ イ ラ i 英訳)の原文には正確に こ れ に 対 応 す る 文 が な い ( 刻 。 ∞ 各 由 吋 ︼ ∞ 斗 斗 ¥ 斗 ∞ ( 日 ) 一 己 申 ﹀ 。 だ か ら﹁六十四元素い云々は駒井の数街であろう。この駒井の﹃経 済考徴﹄(専修学校講義筆記)は爽付を欠くので刊行年がはっ きりしないが、小峰保栄は一八八三年上期以前と推定しており (小峰保栄一九七六 a 一七六)、大阪府立中央図書館所蔵﹃経 済考徴﹄の所蔵情報にはl
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根拠は不明だがi
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一 八 八 一 年 刊行とある。中川は、駒井の抄訳を参照し、これをさらに敷街 して﹁物理学﹂云々と論じているものと思われる。係教大学総合研究所紀要 第八号 (お)地価修正については、浜田も、地価修正が社会経済関係に及 ぼす影響は単純でないと予想し、やはり地価修正慎重論を唱え て い る ( 浜 田 健 次 郎 一 八 九 ニ ) 。 文 献 印 ロ 。 ロ ・ 5 8 h O E E R M ﹃ -d ︿ 巳 S E C g g g ∞己窓口百円同︼官同 S き き た り ' N 2 3 b F E -M Q ( ∞ 告 円 ・ ) 。 。 印 印 ? ? ・ [ 円 ﹃ 出 口 己 主 叩 門 戸 ぴ 可 F C C -∞ り 可 四 円 ︺ 日 ∞ 斗 ∞ ¥ ∞ ∞ 一 C H 紅 色 町 円 C H E m h u E h H H O K 1 N U C﹄ 詮 Bhh830 司 H H -円 、 。 口 弘 O D -P両氏自己白ロ 円 、 山 田 F m , ・