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目次

吉野ヶ里遺跡とは ... 3

吉野ケ里の歴史 ... 8

発掘について ... 13

弥生 Q&A ... 18

環壕入口 ... 26

南内郭

~王や支配者層が住んでいた場所~ ... 28

北内郭

~まつりごとの場所~ ... 34

北墳丘墓

~歴代の王の墓~ ... 45

甕棺墓列

~一般の人々の墓地~ ... 52

中のムラ

~祭り・政治・儀礼などの道具を作る場所~ ... 55

倉と市

~倉庫群、市も開かれていた~ ... 62

南のムラ

~一般の人々の居住地~ ... 69

古代の森 ... 79

第 1 章 吉野ケ里遺跡の紹介

第 2 章 古代の森

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吉野ヶ里遺跡の紹介

吉野ヶ里遺跡とは

昭和 10 年以前の吉野ヶ里遺跡の研究

紀元前 3 世紀から紀元後 3 世紀までの弥生時代は、日本で稲作の文化が始まり、定住文化が根付いた日本の文化の原点ともいえる 時代です。 弥生時代の遺跡の中でも吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡の旧神埼(かんざき)町・旧三田川(みたがわ)町・旧東脊振(ひがしせ ふり)村の 3 つの町村にまたがった我が国最大の遺跡で、弥生時代における「クニ」の中心的な集落の全貌や、弥生時代 600 年間 の移り変わりを知ることができ、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集まっています。 これらは日本の様子を記した最古の記録である魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」の時代を彷彿とさせるもので国の特別史跡にも 指定されています。 また、有柄銅剣やガラス製管玉等の出土品は国の重要文化財に指定されるなど、高い学術的価値を有するものです。 吉野ヶ里遺跡は、脊振山地南麓から平野部へ伸びた帯状の段丘に位置しています。 佐賀平野東部にはこのような段丘が多く発達し、そのいずれにも遺跡が多く立地していることが、古くから知られていました。 どのように吉野ヶ里遺跡の全貌が明らかになってきたのか、その経緯を紹介します。 北部九州の考古学研究は大正時代から活発化しますが、おびただしい数の青銅器を有する福岡地方が研究の中心となり、九州弥生 文化の中心は福岡平野などの玄海灘沿岸地方であると認識されていました。 佐賀県では、大正時代後半から研究が始まり、甕棺や一般の弥生土器の存在が多い佐賀平野東部地域がその中心となり、昭和 9 年 になると、吉野ヶ里遺跡を取り上げた報告が相次いで発表されました。 まず、七田忠志(※1)は、周辺の弥生時代遺跡や、そこから出土した人骨、貝製腕輪、銅鏡、銅戈鋳型の出土を報じ、佐賀平野にも 注目するよう訴えました。甕棺を中心とした弥生時代~奈良時代遺跡の分布地図を掲載し、「脊振南麓一帯におびただしく散在す る弥生式甕棺遺跡及び有明海周辺貝塚群と共に是非究明を要するものであり、併せて今後研究不十分なる肥前地方古代遺跡遺物の 解明を諸先生に懇願する次第である」と述べています。 三友国五郎(※2)は佐賀平野東部の甕棺墓地や貝塚を紹介する中で、「佐賀平野は南方に肥沃する沖積平野があり、更に古代人にと って非常に食料を供給する海(有明海)を控え、しかも北方は脊振山塊が自然の防御線となり生命線となっているから、この脊振山 麓は絶好の古代聚落地をなしたであろうと推定させられる」と延べ、吉野ヶ里遺跡について一項目を設け、特に甕棺の数量の多さ などについて詳しく報じ、埋置状況の図面を付して特徴について詳しく報告しました。 ※1:神埼郡仁比山村出身、神埼高校教師の傍ら吉野ヶ里遺跡の存在とその重要性を指摘。大正 1~昭和 56 没。 ※2:埼玉県出身、元埼玉大学教授。専門は人文地理学で、先史時代~古代の集落立地に関する研究者として知られる。 明治 37~昭和 58 没。

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昭和 20 年代以降の状況

神埼工業団地の開発計画

戦後、佐賀県が考古学上大きく注目されるようになったのは、現在の公園の東口から約 3km 北側に位置する「三津永田遺跡」(図 中吉野ケ里地区)の調査でした。昭和 27 年末、段丘がみかん園として開墾されてことで、多くの甕棺が出土し、そのひとつから人 骨とともに前漢時代の銅鏡連弧文昭明鏡が出土しました。翌 28 年に水害が発生し、護岸工事のために丘陵地から土が採られた際に、 多数の甕棺とともに、管内から人骨と共に鉄器や貝製腕輪・ガラス製の玉などの貴重な遺物が出土しました。 このため、日本考古学協会が主体となって、翌 29 年 7 月までの間、緊急発掘調査を実施し、弥生時代前期から後期にかけて、この 地方でも大陸との交流があったことが認識されました。 昭和 40 年代後半からは、大規模開発の増加に伴い、調査体制も次第に増強され、本格的な発掘調査が実施されるようになりました。 吉野ヶ里遺跡の北東に位置する「二塚山遺跡」(図中横田地区)の発掘調査もその一つで、昭和 50~51 年、甕棺墓を主体とする弥 生時代墓地が完掘され、多数の銅鏡や鉄製武器その他の副葬品・装身品など、三津永田遺跡と非常に類似した遺物が出土しました。 昭和 55 年には、現在公園の「倉と市」周辺部でも調査が実施されました。 弥生時代後期の高床倉庫と考えられる堀立柱建物遺跡数棟や、さらに西方 では、南北方向の自然の河川跡とも考えられるものが検出されています。 段丘頂部では、弥生時代の甕棺墓群や竪穴建物跡とともに、18 基の甕棺墓 が整然と二列に並んでいることが確認されました。また、甕棺内から出土 した人骨 6 体は、「三津永田遺跡」の人骨と同様に、北部九州・山口型の 人骨であることが判明しました。 昭和 56 年から 57 年にかけて、佐賀県教育委員会により、圃場整備に伴う 段丘裾部の水田部の調査が実施され、弥生時代中期の高床倉庫と考えられ る掘立柱建物跡群や壕跡などが検出され、炭化米多数やたて竪杵などが出 土しています。 昭和 60・61 年になると、筑後川から佐賀平野の東部を横断して、嘉瀬川に 水を運ぶ佐賀東部導水路の建設に伴って、県教育委員会により段丘南部の 調査が実施され、弥生時代~中世にかけての竪穴建物跡や建物柱穴、甕棺 群と後期の壕跡などが検出されています。 佐賀県は、『80 年代佐賀県総合計画』を策定し、食料供給基地としての役割を果たしつつ、工業の進展をはかり、地域の活性化を 目指すことを目標としました。 昭和 56 年 6 月に、「佐賀東部地区工業開発適地調査協議会」が設置され、工業団地の適地の検討がなされ、昭和 57 年 2 月に吉野 ヶ里段丘一帯が最優先・有力候補地として内定しました。多くの埋蔵文化財が包蔵されていることが知られていましたが、その内 容については不明な点が多く、文化財確認調査を行うこととし、調査結果を基に重要な文化財包蔵地は文化財保存緑地として計画 に取り組むこととしました。

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埋蔵文化財確認調査

旧石器時代 ナイフ形石器、台形石器、尖頭器が出土。包含層・遺構はほとんどのこっていない。 縄文時代 土器片が発見されていることより、遺構・遺物が存在する可能性がある。 弥生時代 前期から後期にかけての遺構・遺物が全地区で確認された。 前期では数軒の竪穴建物跡、甕棺墓を主体とする墓地、中期では竪穴建物群と甕棺墓群、 後期では竪穴建物が確認された。 さらに、環壕を伴った大集落と甕棺墓を中心とする墓地群が予想される。 古墳時代 日吉神社付近に 3 基ほどの古墳状の高まりを確認。 6 世紀の竪穴建物跡と、全地区より須恵器、土師器などの遺物が出土しており段丘部や水 田部の遺構が存在するものと考えられる。 古代 奈良時代の道路跡が確認され、周辺には当時の官衛的な性格をもった遺構・遺物が存在す る可能性が高い。 中世 妙法寺跡推定地区で、溝・柱穴などの遺構や陶磁器などの遺物が確認された。 近世 志波屋四の坪地区北側で、墓地が確認された。

確認調査結果に基づく調整

昭和 57 年度に丘陵部、昭和 61 年度に水田部の調査をおこなった結果、埋蔵文化財が包蔵されていると確認された面積は約 58.3ha 判明しました。時期別の遺構の状況を簡単にまとめると以下の状況が判明しました。 発掘調査前(S61(1986))の吉野ヶ里遺跡 (『弥生時代の吉野ケ里‐集落の誕生から終焉まで‐』佐賀県教育委員会編 2008 より) 文化財の確認調査の結果、工業団地計画と文化財保護との調整が進められ、工業団地の規模は、当初計画では約 80ha でしたが、区 域内の文化財保護について協議が重ねられたが、県として工業団地の必要性から、文化財包蔵地を最大限に緑地に取り組むことで、 後に 67.7ha として、レイアウトの変更がなされました。

埋蔵文化財包蔵地は 36ha となり、うち 6ha を文化財保存緑地とし、30ha については記録保存ための発掘調査を実施して保護を図 ることとしました。

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発掘調査の準備

調査区域の設定と調査の方法

出典:『吉野ケ里』佐賀県教育委員会,1994 発掘調査面積が 30ha と確定した後、取り急いで本格調査の準備が進められました。調査期間は S61 年度~63 年度の 3 年間とし、 その後の 2 年間で資料整理を行うとしました。実際に調整を開始できる状況になったのは、S61 年 5 月下旬からとなりました。 約30haに及ぶ調査区を3 年間で調査するにあたり、調査方法としては遺跡を覆っている表土等の堆積土を調査委員立ち会いの下で、 バックフォーやブルドーザー・ダンプトラックを用いて除去・運搬を行いました。調査の過程や完全に発掘された遺構は写真に記 録するとともに実測され、出土した遺物は水洗、注記、選別、接合復元を行い、実施図の作成などとともに整理・記録されました。

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吉野ヶ里遺跡の紹介

吉野ケ里の歴史

弥生時代前期(紀元前 3~前 2 世 紀 )

弥生時代中期(紀元前 2~紀元 1 世紀)

弥生時代後期(紀元 1~3 世紀)

吉野ヶ里集落の変遷

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弥生時代前 期の集落

弥生時代は約 600 年間も続いた長い時代です。吉野ヶ里遺跡では、この長い弥生時代の全ての時期の遺構・遺物が発見されていま す。しかもそれぞれの時期の特徴をよく表しているものが見つかっており、この時代にどのように社会が変化していったかが分か る極めて学術的価値の高い遺跡です。 吉野ヶ里歴史公園では「弥生時代後期後半(紀元 3 世紀頃)」を復元整備対象時期として、これまでの発掘調査成果や民族学など さまざまな専門分野の研究をもとに復元整備を行っています。 吉野ヶ里の丘陵一帯に分散的に「ムラ」が誕生しました。 やがて南側の一面には環壕をもった集落が出現し、「ムラ」から「クニ」へと発展する兆し が見えてきます。 南の丘陵を一周する大きな外環壕が掘られます。首長を葬る「墳丘墓」やたくさんの「甕棺 墓地」も見られます。 集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから「争い」が激しくなってき たことがうかがえます。 国内最大級の環壕集落へと発展し、大規模な V 字形の外環壕によって囲まれ、さらに特別な 空間である 2 つの内郭(北内郭・南内郭)をもつようになります。特に北内郭では大型の建 物が登場し、吉野ヶ里の最盛期にあたります。 環壕内出土状況 墳丘墓 北内郭の大型建物 吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の前期~後期までを通じて、ムラからクニの中心集落-みやこ-へと発展していく過程が明らかになった 遺跡です。 H11 年(1999)の発掘で、遺跡南端の丘陵上において吉野ヶ里遺跡最古の環壕らしい跡の一部が発見さ れ、縄文時代晩期の水田農耕の伝来からまもなく、周辺の小規模農村の上に立つ環壕(※2)を巡ら せた吉野ヶ里の草分け的な集落が形成された可能性が出てきました。 この集落は、弥生時代前期に 2.5ha 規模の環壕集落へと発展し、環壕跡内部からは、大量の土器や 石器、有明海産のカキ・アカニシ・テングニシ・サルボウなど多数の貝殻や、イヌ・シカ・イノシ シ類等の獣骨とともに、青銅器鋳造に用いた鞴(ふいご)の羽口や取り瓶などが出土しました。弥 生時代前期のうちに、青銅器鋳造が始まったと考えられます。

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弥生時代中期の集落

弥生時代後期の集落

青銅器造具 土器片 ブタ?の骨 獣骨 木製の容器類 木製の農具 木製の祭祀具 弥生時代中期には南部の丘陵をすっぽり囲む推定 20ha 規模以上の環壕集落へと発展したと考えられ ています。 内部では、多くの竪穴建物跡や穴倉(貯蔵穴)跡が発掘されており、居住域と倉庫域が区別されてい たとも判明しました。 また、環壕跡内部からは、大量の土器や石器が出土し、低地からは外洋航行船を模したと思われる 船形木製品等が出土しています。 また、竪穴建物跡等からは青銅製の耳飾り(もしくは指輪)2 点(一対)や、数点の朝鮮系無文土器(片) も出土しました。 弥生時代後期になると、集落は北方へと規模を拡大して、ついには 40ha を超す国内最大規模の環壕 集落へと発展します。内部には物見櫓を備え、大型の祭殿をもつ首長の居住や祭祀の場と考えられ る北内郭や、高い階層の人々の居住区と考えられる南内郭等、内環壕によって囲まれた空間が設け られ、西方には、吉野ヶ里のクニの物資を集積し、市の可能性もある高床倉庫群が設けられました。 環壕、城柵、物見櫓等の防御施設で堅固に守られた内部に多くの人々が集まり住み、その祭政の中 枢である南内郭・北内郭が存在し、祭壇など祭祀の場を備え、青銅器や鉄器、木器、絹布や大麻布 などの手工業生産や、各地の手工業産品や人々が集う交易の市が推定され、まさに弥生都市とも呼 べるようなクニの中心集落へと発展した姿を見ることが出来ます。 吉野ヶ里歴史公園は、「弥生時代後期後半(紀元 3 世紀頃)」を復元整備対象時期としています。 大切な遺構を壊さず土で保護した上に、弥生時代後期後半に同時期に建てられていたと考えられる 建物を、当時あった場所の真上に復元整備しており、この地が最も栄えたクニの姿を体感すること ができます。

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墓地

1.『弥生時代の吉野ヶ里-集落の誕生から終焉まで-』出典:佐賀県教育委員会編 2008 転載 2.吉野ヶ里遺跡では「環壕」の「壕」はさんずいの「濠」と区別して標記される。 これまでの調査から水が張られていた痕跡が認められないためである。 南内郭 北内郭 北墳丘墓 北墳丘墓 列状墓地の空撮写真 有柄銅剣 ガラス製管玉 吉野ヶ里遺跡の最も古い墓は、弥生時代前期後半の土壙墓や木棺墓、甕棺墓などがありますが、中期になるとそれまで分散してい た甕棺墓地が、600m に及ぶ長大な甕棺の列状埋葬墓として、大規模な墓地にまとまります。 それらは、主に中期の環壕集落の外側北方につくられ、現在の公園の古代の森ゾーンとなります。墓群のなかには、周囲より高い 階層の人を葬ったと考えられる甕棺墓が存在します。 また、それらの墓地群とは別に、北内郭の北側に、細形銅剣やガラス管玉を副葬した甕棺墓群が埋められた大規模な北墳丘墓が営 まれ、社会規制の強化や階層分化のありさまが伺えます。また、弥生時代後期以降の墳墓は、極端に減少し、特別な墳墓も確認さ れていません。 北墳丘墓は、温度と湿度を一定に管理しており、遺構を直接見ることが出来ます。

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吉野ヶ里遺跡の終焉

弥生時代以外の様子

旧石器時代

縄文 時 代

古墳 時 代

前方後方墳 発掘中写真 3 世紀後半頃、吉野ヶ里遺跡全体を取り囲む環壕は、ほぼ埋没し、北内郭、南内郭とともにその機能が失われてしまったと考えられ ています。それと前後して、南内郭付近の丘陵部には 4 基の前方後方墳が築かれます。吉野ヶ里丘陵の南部一帯は、人々の生活す る集落から、人が葬られる埋葬の地へと変化したようです。 吉野ヶ里に集まって住んでいた人々は、どこに行ったのでしょうか? 弥生時代の終焉と共に、どこかへと移り住んでしまったのでしょうか? これまでの発掘調査から、弥生時代の前や、その後の時代の概要、出土遺物についてご紹介します。 旧石器時代に関しては、出土した遺物は、ナイフ型石器類 20 数点と、点数は決して多くはあり ません。 弥生時代以降の土地利用による破壊があったことと、弥生時代の遺構を保存するため、発掘調査 がその下の層までおよんでいないためと、考えられます。 縄文時代の口緑直下に刺突文が一列廻っている土器片が 1 点と、石鏃等が出土しています。 古墳時代に関しては、続口縁部や口頸部に波状文が施されていたり、内面に黒色塗料が付着していたり、外面に刷毛目調整が されている土器と、鞍橋の前輪と後輪部分であると考えられる木製馬鞍の大小2個体が出土しています。そのほか鉄器、石製 玉類、その他石製品、土製品、木製品等があります。

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奈良、平安時代

中世

木簡が 9 点と、疑宝珠様つまみをもつ土器、人名・建物の名前・吉祥句と考えられる文字が記されている墨書・篦書土器、硯、 水滴用の土器、絵画土器が出土しています。そのほか陶磁器、鉄製品、その他石製品、土製品、木製品等があります。 また、奈良時代には、駅路跡と、群衙などの官衙関係の諸施設と考えられる道路跡(官道)や多数の掘立柱建物群が検出され ています。 土壙墓群、道路状遺構、空堀、溝跡、輸入陶磁器、銅銭などが見つかっています。

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吉野ヶ里遺跡の紹介

発掘について

遺跡の保存

復元について

【建物等復元について】

発掘 現 場

吉野ヶ里歴史公園では大切な遺跡を守るため、遺構面の上に 30cm 以上の保存盛土をし、さらに整備に必要な盛土をその上に行って います。こうして大切な遺構を壊さずに、当時あった場所の真上に復元することができるのです。 吉野ヶ里歴史公園は、我が国の文化を象徴する国の特別史跡「吉野ヶ里遺跡」の保存と活用を図る ために整備された公園です。復元整備にあたっては、考古学の分野だけではなく、関連する様々な 学問や研究の成果が集められています。 遺跡の復元は、発掘調査から見つかった建物跡からだけではできません。集落が保存する時代が日本の歴史の中でどのような時代 だったのか、その時代の中で、集落は、どのような様子だったのか、こうした意味を考えた上で、建物一つ一つの存在価値や理由、 目的を考え、最後にそれぞれの形や構造などを考えていくことが必要です。そのため、吉野ヶ里では必要と思われる各種の調査を 行い、調査結果を踏まえた基礎設計をとりまとめ復元しています。 現在も吉野ヶ里歴史公園区域内の北側では、佐賀県教育庁社会教育・文化財課によって発掘が行われています。 発掘調査は、吉野ヶ里遺跡の集落の変遷や墓城の形成などの解明を目的として、遺跡北部に当たる志波屋四の坪地区で進められて います。 調査の終了したところは、遺構などの保護のため埋め戻したり、シートで覆ったりしているので、ご覧いただけませんが、調査中 のエリアは、雨天の日を除く平日に発掘の状況をご覧いただけます。運がよければ甕棺や土器などが発掘される歴史的な瞬間に立 ち会えるかもしれません。

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遺跡の保存方法

保存 盛 土

盛土以外の遺構保存

【1.遺構の発掘】 遺構は専門家によって詳しく調査されます。 【2.弥生時代の吉野ケ里の集落の検討】 集められた情報を古代建築や考古学等の専門家 が検討して弥生時代の吉野ケ里の集落、建物、 人々の様子を推測します。 【遺跡の保存】 調査の済んだ遺構は、再び土で埋め戻され、保存さ れます。 【3.具体的な復元案】 現代の技術を駆使したり、当時使われたと考え られる手法を用いる具体的な復元案を作成しま す。 【4.弥生時代の吉野ケ里の復元】 盛土で保護された遺跡の上に弥生時代の集落が蘇 ります。 遺構面 解説をしている様子 当公園における、遺構面の保護と復元整備の概要は次のとおりです。 ・遺構面が傷つかないよう、確認された遺構面より 30 ㎝以上の保存盛土をおこなう。 ・竪穴建物や堀立建物は、遺構面より 30 ㎝以上盛土した上に柱を建てて復元する。 ・環壕は、環壕遺構の底部より 50 ㎝以上盛土した上に往時の深さ、幅で復元する。 ・地下埋没物については、遺構面より 30 ㎝以上盛土した上に設置する。 発掘再現地区では、遺構面を型どりした後、保存のために埋め戻し、その上に型どりレプリカを設置します。

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1.基礎調査の実施

1-1 集落 調査

1.主要集落遺跡アンケート調査

2.海外事例調査

3. 日本列島における集落の流れ

4. 吉野ヶ里集落のあり方の検討

2.復元建物等の基本設計、実施設計の検討

国営吉野ケ里歴史公園の「環壕集落ゾーン」は、弥生時代の大規模な環壕集落の様子を体験・体感できる環境づくりを行うことと して計画されました。 このため、環壕集落ゾーン内の建物等(竪穴建物、高床倉庫、物見櫓、環壕、柵、工房等)を、綿密に検討された学術的考証に基づ いて復元し、往時の雰囲気を醸し出せるものとしていくため、復元設計の基礎となるべき資料の収集・整理と設計の前提となるべ き条件分析を行うことを目的として、2 箇年にわたって、学識経験者等からなる委員会を設置し、建物等復元にかかる基礎調査を行 いました。 この調査報告書は以下項目の構成によりまとめられ、その後の復元建物の基本設計・実施設計を行うための基礎資料となっていま す。 吉野ヶ里の集落が存在した時代(弥生時代)がどのような社会だったのかを調べるための調査です。 全国の主要な縄文・弥生・古墳時代の遺跡について、遺跡の時期や立地、集落の全体の様子などの調査を行いました。 弥生時代の吉野ヶ里に影響を与えたと考えられる中国や韓国の集落遺跡、途上遺跡についての調査を行いました。また、当時の人々 の社会観や世界観と集落のつくりの関係など、遺跡に残りにくい情報を得るため、現在の民族事例についても調査しました。 上記の調査から得られた資料を基に、日本全国における集落形成の流れをまとめ、各時代の特色を明らかにしました。 全国の集落調査を基に吉野ヶ里遺跡の発掘調査資料を加え、吉野ヶ里集落の様子を導きました。 基礎調査を踏まえ、「建物等復元基本設計委員会」を立ち上げ、基本設計をとりまとめました。 さらに、学術的な調査研究に基づく復元と、実際に来園者に体験・体感してもらうための建物の利用想定、雰囲気を盛り上げるた めの展示も含め、実施設計として取りまとめました。建築にかかる設計にあたっては、現行の建築関連法規等の制約、さらに、建 築資材の調達等といった課題があり、制約条件等を明確に示し、制約条件のもとに、実施設計の検討が進められました。 また、復元整備にあたって課題となる材料の調達面については、建築材料の市場性について調査を行っています。

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建物復元に関する考え方 (概略 )

2-1 建物等調査

1.大型掘立柱建物遺構出土調査

大阪府和泉市池上曽根遺跡 出土の大型建物の柱材 個々の建物を復元するために、全国の縄文~古墳時代の遺跡で見つかった建物遺構や当時の人々が残した絵などの資料の調査、当 時の建築技術に関する調査や建築のための道具の調査、さらに建築以外の関連する施設などの調査を行いました。 弥生時代に本当に大型の建物があったのか、それを確かめるための調査を行いました。全国から、 床面積 100 平方メートルを超える大型の建物跡がたくさん見つかっていることが分かり、この調 査のまとめは、弥生時代にも大きな建物があったことを裏付けるとても貴重な資料となっていま す。

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2. 絵画、家形埴輪、家屋文鏡等調査

3. 民族事例調査

4. 建築部材調査

5. 工具調査

6. 関 連 施 設

当時の建物は一つも残っていないため、建物の形を調べることはとても難しいことです。 ただ、当時の人々が使っていた土器に建物の形が描かれているもの(絵画土器)や、粘土で作った建物の模型(家形埴輪)、青銅の 鏡の模様に表現されているもの(家屋文鏡)などがたくさん残っており、これらは建物の形を考える上でとても貴重な資料となっ ています。 鳥取県米子市の稲吉角田遺跡出土の建物が描かれた土器 唐古・鍵遺跡(奈良県)の建物が描かれている土器 世界各地には、今でも昔とほぼ変わらない生活をしている「少数民族」と呼ばれる人たちがたくさん住んでいます。こうした人々 の建物を調べることによって、昔の建物の考え方を推測していくことができます。時代を超えて大きなヒントを与えてくれるとて も貴重な資料です。 日本各地の遺跡から、建物等に使った柱や板などの木製品がたくさん見つかっています。 こうした木製品を調べることにより、当時どんな道具を使って、どんな方法で作っていたか、とい うことが分かってきます。また、材料に使われている木の種類を調べることにより、当時どのよう な植物が生えていたか、という調査にも大変役に立つ資料です。 建物を作るためには、道具が必要です。日本全国から、斧(切りたおす)、ヤリガンナ(削り取るなど)、刀子(小刀)など建築に 必要な道具がたくさん見つかっており、当時の技術を調べるためのとても貴重な資料です。 北区飛鳥山博物館所蔵の 丸木舟 建物だけでなく、環壕、土塁や柵列、水田などを作る技術も、建物を作る技術と大きく関係してい ます。こうした様々な施設を調べることにより、道具や材料、作り方などを推測していくことがで きます。建物と直接には関係なくても、たくさんヒントを与えてくれる貴重な資料です。 福岡県板付遺跡出土の井堰

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吉野ヶ里遺跡の紹介

弥生 Q&A

くらし・食べ物編

どんなものを食べていたの?

飲み水はどうしていたの?

くらし・生活編

お風呂やトイレはあったの?

吉野ヶ里遺跡からは、トイレの跡は見つかっていません。他の遺跡では、環壕の中から人だけ にしか見られない寄生虫が見つかった例もありますので、まとめて環壕に捨てていたのかも知れま せんね。風呂については、まだこの時代にはありませんでしたので、かわりに川で水浴びをしてい たと考えられます。 吉野ヶ里からは、湧き水が豊富に出るところがたくさん見つかっています。この場所を簡単な 柵で囲って、飲み水を確保していたようです。また、弥生時代終わり頃~古墳時代始め頃にかけて つくられた井戸も 1 カ所見つかっています。日本の他の遺跡では井戸跡が見つかっているところも あり、吉野ヶ里からも見つかるかもしれません。 食事 弥生時代になると、中国大陸や朝鮮半島から米作りが伝わりました。また、米の他にも、 さまざまな海の幸、山の幸を食べていました。 ・小麦、アワ、キビ、豆、瓜、ドングリ、クルミ ・イノシシ、鶏、シカ、クマ、タヌキ、イヌ ・フナ、コイ、サメ、スズキ、アジ、オオタニシ、カワニナ、ヤマトシジミ これらのものを煮たり焼いたりして食べていたのでしょう。当時は箸を使わず、手づかみで食べていたようです。 魏志倭人伝には倭人の食生活について「倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる」「飲食には高杯を用い、手づかみで食べる」 「人々は生来酒が好きである」とかかれています。 各地の遺跡から出土する炭化穀物などにより、弥生時代には米の他に、小麦、アワ、ヒエ、小豆などの雑穀が栽培されていたこと が明らかになっています。

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水汲み 水浴び

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服はどんなものを着ていたの?

文字や言葉は使っていたの?

石包丁はどうやって使うの?

寿命はどれくらいだったの?

魏志倭人伝には、男は布を身体に巻き付けただけ(横幅衣[よ こはばい])、女は布の真ん中に穴をあけ、すっぽりと首からかぶ ったもの(貫頭衣[かんとうい])を着ていると書かれています。 吉野ヶ里遺跡では、甕棺の中から麻や絹の布片が見つかっていま す。当時は、身分によって服の素材や形が違っていたようです。

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上層の衣装 一般の衣装 文字については、現在まではっきりとしたものは確認されていません。また言葉についてもほとんど分かっていません。ただ 魏志倭人伝には、魏の国との交渉・交流において、「文章を交わした」「通訳がいる」などの記述があることから、文字や言葉も 存在していたということだけは間違いないようです。なお、当時は同じ日本の中でも言葉が通じない地域があり、現在の日本語の ように全国共通のものではなかったようです。

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各地の遺跡から出土している織機から弥生時代の織布の幅は 30 ㎝前後であることから、一幅で身幅を覆うことが出来る布幅を持ち その中央に穴をあけて頭を通じて着用するという貫頭衣は製作することが難しかったと考えられます。これらのことから、2 枚の 布を頭と腕の出る部分を残して脇で綴り合わせた形態の服ではなかったかと想像できます。 また、倭人伝には人々ははだしであると記述されていましたが、吉野ヶ里遺跡や福岡県の那珂久平遺跡で板を浅くえぐった木製の 履物と考えられる遺物が出土しており、沓が存在していたことも明らかになっています。 石包丁は、稲の穂先だけを摘み取る専用の道具と考えられています。魚や肉は切ったりはしな かった証拠として、刃の部分を調べてみると、稲に含まれる脂肪分だけしか確認されないことがあ げられます。石包丁は、手のひらで包み込むようにして持ち、稲穂を 1 本ずつ摘み取っていきます。 当時の稲はまだ野生に近い状況で、実る時期が現在の米のように一定ではなかったため、実ったも のから順々に刈り取っていたようです。そのため、根元から刈り取る鎌ではなく、実った穂を 1 本 ずつ摘み取る道具が必要だったのでしょう。

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弥生時代の生業の中心は稲作を中心とした農業です。各地の遺跡から様々な農具が出土しています。 弥生時代の農具は「土を耕す道具(鋤・鍬等)」、「収穫する道具(石包丁、鎌等)」、「脱穀する道具(臼・竪杵等)」に大きく分け られ、既に現在にまでつながる基本的な農具がほぼ全て揃っていたことが知られています。 弥生時代の前期には鋤や鍬も刃先まで木製でしたが、中期以降、先端に鉄の刃先を装着するものが出現します。収穫具も中期後半 から後期になると石包丁など穂先を摘み取って収穫するものから、根元を刈る鎌に変化していったことが明らかになっています。 石包丁 現在と比べると、ずいぶん短かったようです。平均すると、40 歳まで生きられなかったと考えられています。当時は、栄養状 態も良くなく、病院などもありませんので、子供の死亡率が特に高かったようです。吉野ヶ里の甕棺の 4 割が子供用であることか らも、こうしたことが推測されます。

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吉野ヶ里の人口はどれくらいだったの?

環境 編

当時の植物にはどんなものがあったの?

平均気温はどれくらいだったの?

海(有明海)まではどれくらいの距離があったのか?

当時の人口を調べることはとても難しいことです。基本的には、お墓の数や住居の数などから推察していきますが、当時の燃 料が薪だったことを考えると、周辺の森林の伐採等による環境のことも考えなくてはいけません。また、当時の人々が 1 日どれく らいの食物を食べていたのか、それを満たす食糧の確保が可能だったのか、など、考えなくてはならないことはたくさんあります。 吉野ヶ里では、こうした様々なことについても調査研究を行い、現時点で最盛期には、外環壕の内部におよそ 1,200 人、吉野ヶ里 を中心とするクニ全体では、5,400 人くらいの人々が住んでいたのではないかと考えられています。

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現在のような色とりどりの花は少なかったようです。シイやカシ、クヌギやクスノキの深い森や、ススキやチガヤの草原風景 が広がっていたのでしょう。 遺跡から見つかったたくさんの植物の種や化石、当時の木の道具や建物に使われている木製品などを基に、北部九州における植物 の分布状況の変化などをあわせて調べることにより、当時の植物の大まかな状況が分かっています。こうした調査研究の成果に基 づいて、弥生時代にあったとされる植物を可能な限り植えています。

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クワウリ どんぐり チガヤ 気温については、研究者によっていろいろな意見がありますが、当時の植物の生息状況や、世界の地形など、気温に影響する 環境的な問題まで含めて研究する必要があると言われています。現時点では、こうした研究を踏まえて、現在よりも平均でおよそ 1 度くらい低かったのではないか、という考え方が主流のようです。

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現在は約 20km ですが、弥生時代の中頃には、地質調査や有明海沿岸の遺跡分布から、4km くらいだと言われています。 ただし湾の奥では約 2km まで迫っていたと考えられます。また、弥生時代の終わり頃は約 10km くらいまで後退したという説があり ます。

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遺物 編

勾玉は何の意味があるの?

火をおこす方法はどうしていたの?

土笛は何に使うの?

甕棺は日本で考えられたの?

吉野ヶ里では甕棺はいくつぐらい見つかっているの?

青銅や鉄をつくる技術はあったの?

魔除けやお守りとして使われていたようです。吉野ヶ里遺跡からは、「玉」と呼ばれる遺物が 多数出土しています。勾玉 も「玉」と呼ばれている遺物の一つです。

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手で棒をこする『もみきり』、弓の弦を棒に巻きつけてこする『弓きり』があったといわれて います。吉野ヶ里遺跡では 発見されていませんが、同じ時代、他の遺跡では黒こげた『火きりう す』『舞いきり』と思われる遺物が発見されています。

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儀式など神に祈りを捧げる際の楽器として使われ、他には『琴』などが他の遺跡から発掘されています。 日本海側の地域で出土していることが多く、吉野ヶ里からは出土していません。

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佐賀、福岡(長崎、熊本、大分の一部)に観られる特殊な埋葬方法で、この地域独特に発展した ものと考えられています。なお、吉野ヶ里の墓には、他にも土壙墓、木棺墓、石棺墓、壺棺墓など があり全てが甕棺墓ではありません。同時代の世界の例として韓国、イタリアのシシリー島、イン ド、中国の一部などがあります。

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甕棺は 3,000 基以上(その他の墓は 350 基以上)が見つかっています。まだ未調査のところも多く、脊振山麓までの約 4km 間に 15,000 基から 20,000 基程度が存在していたものと考えられています。

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吉野ヶ里遺跡からは鋳造した跡や鋳型・坩堝・鎌・鍬などの農具や、斧・やりがんな・刀子等の工具が見つかっています。ま た高純度の錫片が出土したことから青銅を調合する技術もあった可能性は高く、吉野ヶ里出土の鉄製品は、朝鮮半島や中国からの 鉄板を加熱加工したものであることが分かっています。

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建物 編

建物の跡はどうして分かるの?

高床倉庫は何を保管していたの?

ねずみ返しってなあに?

銅鐸 銅戈 鉄製品 弥生時代になると、鉄や青銅といった金属器も伝わり、人々の作業能力は飛躍的に向上しました。ある研究の成果では、鉄の斧と 石の斧とでは、その能力に 4 倍の差があるといわれています。鉄の斧を使い始めたことによって人々はさらに農業やその他の生産 を発展させていったのでしょう。鉄の製品は農具や工具、武器などの実用品として、また青銅の製品は、初めのころは実用品とし て、その後は主に祭りの道具や権威を表すシンボル的なものとして使われるようになったと考えられています。 建物の跡 発掘調査で、遺跡の上に積った土を取り除いていくと、墓や柱の跡などの遺構が現れてきます。 墓や柱穴の跡は、他の部分と比べて黒っぽい土だったり、土の質が違っていたりするので、見分け ることができるのです。

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南の倉庫は、国の倉として吉野ヶ里で作られた米などの穀類、周辺の村々から集められた米などの穀類、国を守る武器類、交 易に使われる絹などの貴重品が保管されていたと考えられます。 北の倉庫は、神聖は空間である北内郭に付随することから、まつりに使われる祭器や歴代の王の宝物などが納められていたと考え られます。

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ねずみ返し 高床倉庫の柱と床が接する部分に付けられている、円形や角の丸い長方形をした板のことです。 倉庫の中に保管してある食料や絹製品などはねずみから襲われることが多かったため、柱を登って くるねずみが倉庫の中に侵入できないように取り付けられたものと考えられています。吉野ヶ里か らは、1 枚の大きな円形の板を 2 つに割ってはめ込んでいたと思われるねずみ返しが見つかってお り、大切な食糧を守るための当時の人たちの努力の跡がうかがえます。

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鳥の模型は何を意味しているの?

竪穴住居は横から入るのに、どうして竪穴というの?

竪穴住居に水は入ってこないの?

地形 編

外環壕と内環壕が違うのはどうして?

鳥の模型 屋根や門の上に、木で作られた鳥がとまっています。弥生時代、鳥は稲などの穀物の霊を運ん できたり、悪霊から守ってくれるシンボル(神の使い)とされていたようです。公園の中で、何羽 の鳥を見つけられましたか?

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洞窟のように横に掘って作る住居に対して、直角方向(竪)に掘っていることから竪穴住居と言われて います。

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竪穴住居も地域によって地面に土壁を作ったりいろいろな形があります。吉野ヶ里は小高い丘陵地にあ り、水はけは非常によ いのですが、地面に染み込んだ水が、中からしみ出してくることもあります。当時 の人々は、家を作るときに出た土を家の周りに 積み、水止めとしていたようです。また、家の内側の周囲に溝を切って(壁溝)、しみ出てきた水や外から入ってきた水を溜め(入り 口付近)、そこから水を汲み出したりしたと考えられています。

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外壕 内壕 環壕には外敵からの防御機能と場所ごとの役割を分ける機能(区画)があります。外環壕は前者に重きを置いた構造で、内環壕 は後者に重きを置いた構造と考えられています。

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吉野ヶ里は集落全体が大きな壕で囲まれています。弥生時代 600 年の間に、集落が発展すると共に外壕も次第に規模を大きくして いったと見られ、最盛期には総延長 2.5km にも及ぶ大環壕として整備されます。また、最盛期には北と南の2カ所に特別な区域が 設けられ、特に北にある特別な区域(北内郭)は内壕が 2 重になっておりこの区域の重要性をより表しているようです。

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環壕の一番深い所は何メートルあるの?

掘るのに何人で何日かかったの?

環壕には水は入っていたの?

歴史 編

遺跡が見つかったきっかけは?

吉野ヶ里は邪馬台国だったの?

確認している一番深い所は、深さ 3.5m、幅 6.3m ほどありますが、上部か削られており、当時は深さ 4.5m 、幅 7m くらいあっ たとおもわれます。

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長い時間かけ、何度も掘り直されて今の環壕の形ができあがっています。仮に環壕の長さを 2.5km、幅 7m 、深さ 3m とすると 土量は 24.750 立方メートル、これを当時の道具などを考慮に入れて計算すると、毎日 100 人が作業して、およそ 495 日かかると いう研究結果があります。これは掘り上げるだけの計算で、土塁として盛り上げ、城柵を作る日数は入っていません。

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空壕です。吉野ヶ里は丘陵のうえに立地していますので、雨水が一時的にたまってもすぐに流れ出した と考えられています。 環壕の高いところと低いところの高低差は、大きいところで 10m 以上もあり、雨水は すべて低い所に溜まった後、地面にしみこん だり蒸発したりしたものと考えています。

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研究者の中では、古くからこの地に貴重な遺跡が眠っていることは知られていました。昭和 61 年から始まった工業団地開発に ともなう発掘調査で、吉野ヶ里が学術的価値の高い遺跡であることが確認されたのです。 工業団地開発に伴う発掘調査により、約 40ha 以上という国内有数の大規模な環壕集落跡であることがわかりました。また、弥生時 代(紀元前 3 世紀から紀元 3 世紀頃)の約 600 年間にわたり、小さな「ムラ」が大陸の文化を取り入れ、やがて「クニ」の中心集落 へと発展していく過程が分かる極めて学術的価値の高い遺跡であることが確認されました。

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吉野ヶ里が邪馬台国だったという証拠は見つかっていません。ただ、魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子とそっくりな建物 跡などが見つかっており、復元された建物等を通して、邪馬台国の様子を感じることはできる、という意味では、邪馬台国のイメ ージに近い遺跡だということは言えるでしょう。 物見やぐら跡や高床倉庫と考えられる建物跡、幾重にも巡らされた大小の環壕跡など、魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子を彷 彿とさせる遺跡が見つかっていますが、邪馬台国であるかは不明です。

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弥生時代以降の吉野ヶ里はどうなるの?

マスコットキャラクター

マスコットキャラクター兄妹の愛称はなあに?

3 世紀の終わりから 4 世紀の始め頃、吉野ヶ里の集落は突然途絶えてしまいます。理由については様々な意見がありますが、 ・吉野ヶ里集落の周りにある小さな集落は、その後も残っている ・環壕の中に、生活土器などを捨てて出ていっている などから自分たちの意思でこの地を後にしたのかも知れません。古墳時代は、個人が大きな権力と富を持つ時代になりますが、こ うした社会の流れの中で、吉野ヶ里の人々も住む場所を変えていったのかも知れません。 弥生時代の後の古墳時代には、個人が絶大な権力と富を持つ時代になりますが、こうした社会の流れの中で、吉野ヶ里の人々も住 む場所を変えていった、と考える方いいようです。 古墳時代には、南内郭及びその南方に「前方後方墳」が作られ、集落としての拠点がなくなることだけは、はっきりしています。 その後奈良時代になると、墳丘墓の北側に、太宰府から肥前国庁(国府)へとつながる官道(当時の国道)が整備され、その道筋に駅 家(うまや=馬を乗り継ぐ場所)や当時の役所なども整備されます。 さらに平安時代には、神埼周辺が「神埼荘」として整備され、日宋貿易の拠点としての港も整備されます。そこには、歴史上有名 な平清盛の父親である平忠盛が役人として赴任し、日宋貿易を私物化して多額の利益を得ていたことなどが、文献資料にはっきり と書かれています。 弥生時代に限らず、こうした古代から中世にかけて、日本の歴史の中で重要な役割を果たしてきた土地であるいうことができます。

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ひみか(兄)とやよい(妹)です。

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平成 10 年に全国よりマスコットキャラクターを募集し、応募の中から公園の基本テーマである「弥生人の声が聞こえる」にふさわ しい作品を選定しました。最終決定したマスコットキャラクターを公表し、平成 11 年に名称の募集を開始し、応募の中から関係機 関の意見をふまえ「ひみか」と決定しマスコットキャラクター(兄)が誕生しました。 平成 18 年の 5 周年記念イベントの一環として、継続して実施されている発掘調査で発見され、現代に蘇った」とうい設定のもと、 妹である「やよい」が誕生しました。 応募者による説明では、「ひみか」とは吉野ヶ里遺跡が 3 町村にまたがっていると言うことで、東脊振村、三田川町、神埼町の頭 文字をとって命名。また、邪馬台国の卑弥呼もイメージしているそうです。

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吉野ヶ里遺跡の紹介

環壕入口

守りの様子

逆茂木・乱杭

吉野ヶ里集落の、当時の東の正門と考えられてい る場所です。外壕を埋め立てて土橋を造り、その 内側には大きな門を備えていたようです。また門 の両側一帯には敵の侵入を防ぐための特別な仕 掛け(逆茂木)があったと考えられており、この 場所の重要性がよく分かります。 東の正門を始め吉野ヶ里は外壕に 7 カ所、南北内郭に 3 ヶ所の入口が確認され ています。 こうした入口では、兵士たちが厳重に警備をしていたと考えられます。 手には敵の攻撃から身を守る盾と敵を攻撃 する矛や弓を持ち、また体には木で作った 鎧を着ていたと考えられています。 逆茂木 先を尖らせた杭や鋭い枝の付いた木を斜めにたくさん立てて、敵の侵入を防ぐバリケードの役割を はたしていたと考えられています。吉野ヶ里では東の正門の他にも、一番重要な区域に近い門の左 右などにこうした設備が見つかっています。 吉野ヶ里遺跡では環壕集落東方の丘陵縁辺部の壕の内側に多くの柱穴が検出されました。のり面に 存在する柱穴は外に向かって斜めに穿たれたものが多く、敵の侵入を防ぐための乱杭や逆茂木の遺 構と考えられ、復元整備がなされています。

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外壕

門と鳥形

穀霊信仰と鳥に対する崇拝

発掘時の規模は幅 2.5~3.0m、深さ 2m が一般的で、最大の部分は幅 6.5m、深さ 3m です。 堆積土層は地上ローム土が地形的に低い壕の外から堆積しているため、壕の外に土塁が存在したものと考えられます。 環壕集落の外縁を画する外壕は北内郭、南内郭に比べて規模が大きく、深く中世の城郭に見る「空堀」のような状態であり、防御 的性格の強い施設と想定し、土塁上に柵列を設けました。 また壕との位置関係から、櫓であったと想定される建物跡に櫓を設置しました。 南内郭 入口(東側)門に 設置した鳥形 穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり、精霊信仰の一種です。稲作が開始された弥生時代に、縄文時代以来の精霊信仰の上に穀 霊に対する信仰、観念が独自に発達していったことは当然推定されます。 それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生 時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。 鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり、ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が 存在したことを推定することができます。 鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時 代に遡ると言えます。 天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、 弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる背 景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が存在したことが窺われ ます。 吉野ヶ里丘陵の袖部を巡るように外壕が掘削されており、外壕で囲まれた範囲は南北 1km 以上、東 西は最大で 0.5km 以上、面積は約 40ha と考えられています。 基本的には丘陵袖部の傾斜が緩くなった部分に掘られていますが、北部では北墳丘墓を取り囲むよ うに、丘陵部に上がっています。 断面の形態は南西部低地で逆台形となっている以外は V 字形です。なお北墳丘墓周辺の外壕につい ては未発達のため遺構保存の観点から平面逆台形に復元しました。 弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれて いることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボ ルであったと考えられます。 鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に広くみられることから、弥生時代 に穀霊信仰が存在したと推察されます。 当公園においては佐賀県神埼市の「託田西分貝塚遺跡」の出土例に基づいて復元した鳥形を環壕入 口の門や主要な建築物の軒飾りとして設置しています。

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吉野ヶ里遺跡の紹介

南内郭 ~王や支配者層が住んでいた場所~

南内郭の居住者達の性格

支配者層の住まい

物見櫓

吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考え られています。周囲を環壕と城柵で囲まれ、敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的役割を持っていた物見櫓と 考えられる建物跡が見つかっていること、人々が住む竪穴住居が中心であること、当時としては極めて貴重な一部の有力者しか持 つことができなかったと言われている鉄製品が数多く見つかっていることなどから、このように考えられます。 南内郭の居住者達は祭司者的性格を持ち、かつ 政治・行政を司った者たちであったと想定されま す。南内郭の近辺からは青銅器鋳型が発見され ており、青銅器や玉などの祭具の制作や調達を 担っていた可能性が考えられます。また、最高政 治権者(王)は祭司者の統括者としての役割も担 っていたと考えられます。 南内郭には中央の広場を取り囲むようにたくさんの竪穴住居が建てられており、これらは様々な役 割を担う支配者層の住まいであったと考えられています。 南内郭には 4 棟の大きな高床建物があります。 これらは環壕の張り出した部分に対応するように建てられており、兵士が南内 郭への侵入者を厳重に見張っていたと考えられています。

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王の住まい

兵士の詰所

煮炊屋

集会の館

南内郭の北西部には柵などによって囲まれた特別な空間があります。ここにある竪穴住居は王の家 をはじめ、その娘夫婦の家や妻の家であったと考えられています。 南内郭北西の環壕の外にも 1 棟だけ竪穴建物があります。 環壕の中にある他の竪穴建物と構造が異なるこの建物は倉と市へと通じる門付近を警固する兵士た ちの詰所であったと考えられています。 吉野ヶ里遺跡では竪穴住居内の炉から煮炊きをした痕跡が見つかっていません。 南内郭では竪穴住居の脇に小型の掘立柱建物が数棟見つかっており、これが共同で煮炊きを行うた めの建物であったと考えられています。 王の住まいの向かいにある吹き抜けの大きな建物は集会の館です。 ここでは、南内郭に住む王をはじめ、支配者層(「大人(たいじん)」)が集まり、様々な協議や会合 がおこなわれていたと考えられています。

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櫓門

大人と下戸

発掘

吉野ケ里歴史公園での遺跡の復元にあたっては、建物の復元だけでなく往時の生活や社会状況を想定した「生活復元」を目指しま した。 このため、生活復元のための検討委員会において弥生時代の祭祀や集落居住者の身分、役割等について検討しました。 『魏志』倭人伝の記述等から、弥生時代の階層・職能・身分については、国の支配者として行政的な運営を担っていたと考えられ る。「大人(たいじん)」、一般的な身分である「下戸(げこ)」、最も下位の階層である「生口(せいこう)」と分類されました。 この南内郭は、物見櫓が配置されるなど、祭事の中枢である北南郭と同じ構造をもちながら複数の竪穴建物や土器・鉄器などの生 活用具が豊富に出土していることから、吉野ヶ里の「クニ」の「大人(たいじん)」層の居住区であり、世俗的な政治支配を担う最 高政治権者である「王」と、統治機構を分担して担う「クニ」の支配者層が暮らしていたと考えられます。 大人層は、一般的な農業労働には従事せず、その監督や生活的・行政的活動を主たる仕事としていたと想定され、こうした大人層 の人々が暮らす南内郭では広場に男性達が集まり、集会を行う様子や女性達が料理などの一環として労働奉仕を行う一般身分(下戸 層)の人々の姿もあったと考えられます。 南内郭一帯は S62、S63 年度にかけてと H14 年度末に実施された再発掘調査より、その概要が明らかになりました。 この地区は発掘前までは畑地としての土地利用が盛んにおこなわれていたために削平が著しく、特に南部については遺構確認に困 難を極めました。 南内郭の南部は後世の著しい削平のため、遺構の確認が出来ませんでしたが、多数の土器群が出土していることから、現在復元整 備されている建物よりもさらに多くの竪穴建物などの施設が存在していた可能性が高いと考えられます。 南内郭発掘調査中写真(版権:佐賀県) 弥生時代後期後半から終末には内壕の範囲が拡大して、平面角丸長方形に 近い区域を囲むように掘り替えられ、西と北にそれぞれ 1 箇所の計 4 箇所 の物見櫓を配した空間が形成されました。 弥生時代後半には外環壕と内壕の間の空間にも存在していた竪穴建物の大 半はなくなり、一部を除き、内壕内に集中して存在するようになりました。 弥生時代の終末期になると、内壕、外環壕とも埋没し、一帯の竪穴建物や 高床倉庫群は存在しなくなり、古墳時代初頭になると、内壕の南東部に重 複し、さらに南方には前方後円墳や方形周溝墓群が築造され、弥生時代末 まで高床倉庫群が存在していた外環壕西側に竪穴建物を主体とする集落が 営まれました。 南内郭の南には「南の守り」と呼ばれる環壕や土塁、柵があり、そこにある 2 箇所の出入口のうち の一方には大きな櫓があります。 この櫓門の上には兵士が立ち、下の門を通る人々を見張っていたと考えられています。

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吉野ヶ里の竪穴住居の概要

平面形態・規模

付属 施 設

長方形で中央の炉を挟み主柱穴が左右に 1 本ずつ、計 2 本のものが一般的です。 規模は長軸が 6 メートルから 7 メートル程度、短軸が 3 メートルから 4 メートル程度のものが最も多いです。 壁に沿って溝(壁周溝)があるタイプとないタイプがあります。 床面より一段高い、いわゆる「ベッド状遺構」が存在する住居跡が多いです。 ベッド状遺構は、片側のみにあるタイプと両側にあるタイプがあります。 規模は幅がおよそ1メートル前後、高さが 10~15 センチ程度である。梯子を固定したと思われる穴を有するものがあり、その位置 から、これはおそらく出入り口部にあった上り下りのための梯子と考えられます。 これから入り口部はおおむね広場に面していたことが確認できます。 炉は、煮炊きした痕跡が乏しく、煮炊きに使用する際に、土器を支えるために使用したと考えられる支脚が住居跡内より、むしろ 環壕内から多く発見されることから、調理は屋外で行い、炉は屋内の灯りおよび暖をとるために使用されていた可能性が高いです。 したがって、竪穴住居に隣接して調理を行うための「釜屋」のような施設が存在したと推定されます。 吉野ケ里歴史公園は弥生時代後期後半を復元対象としていることから、この南内郭についても遺構の分布状況や重複関係、近接度、 出土遺物などから、弥生時代後期後半~終末に同時に存在したと推定される遺構を抽出して復元されています。 しかし弥生時代前期から中期、後期へと徐々に次のように集落がつくり変えられてきたことが明らかとなっています。 弥生時代前期末~中期初頭には北部と南東部で竪穴建物と穴倉からなる集落が営まれますが、その間の段丘尾根部は削平がひどく、 両者が同一集落であったかどうかは不明です。また、この時期に、東部方向尾根上の南部で甕棺墓や土壙・木棺墓による埋葬が開 始されました。 弥生時代中期前半には墓域を北へ拡大し、中期後半まで列状に埋葬が継続されました。 弥生時代中期前半から後期初頭にかけての竪穴建物も、ほぼ同じ区域を中心に幾つか存在し集落は継続していたと考えられます。 弥生時代後期初頭になると、外環壕が掘削され、その内部の段丘上に竪穴建物はその内外に営まれました。 物見櫓を伴う内壕が掘削され、弥生時代後期後半まで、竪穴建物はその内外に営まれました。 弥生時代後期後半から終末には内壕の範囲が拡大して、平面角丸長方形に近い区域を囲むように掘り替えられ、西と北にそれぞれ 1 箇所の計 4 箇所の物見櫓を配した空間が形成されました。 弥生時代後半には外環壕と内壕の間の空間にも存在していた竪穴建物の大半はなくなり、一部を除き、内壕内に集中して存在する ようになりました。 弥生時代の終末期になると、内壕、外環壕とも埋没し、一帯の竪穴建物や高床倉庫群は存在しなくなり、古墳時代初頭になると、 内壕の南東部に重複し、さらに南方には前方後円墳や方形周溝墓群が築造され、弥生時代末まで高床倉庫群が存在していた外環壕 西側に竪穴建物を主体とする集落が営まれました。

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空間の利用形態

家族の居住形態

民族事例では定住を行う民族の多くが住居内の空間を一定のルールに従って利用しています。 例えば北海道アイヌのチセは中央に炉があり、入り口から見てこの炉の左手は主人夫婦の座、右手は子供達などその他の家族の座 であることが一般的です。 また入り口手前が女の席であり、奥が男の席です。奥には祭儀の際に神が出入りするとされる神窓が存在します。 こうした状況から、アイヌのチセでは入り口から見て左上位、右上位、奥上位、手前下位の概念で住居の利用形態が規定されてい ることを窺うことができます。 こうした住居内の空間を上位、下位に分ける概念に加えて、公的な空間と私的な空間が区別されている場合も多く、食事や接客の 空間が公的な空間、就寝する空間が私的な空間となっている例が最も一般的です。 古代日本の家族制度については様々な研究が成されていますが、未だ不明な点が多いです。 戸籍・計帳が家族の実体を反映しているとする説(夫婦と子供を基本とする核家族的家族)、社会人類学的な親族名称体系から双系 制であるとする説、歴史民俗学的立場から父系制であるとする説、反対に母系制であるとする説、また、文化人類学的に単婚的家 族が世界的に家族の基本であるとする説などです。 また考古学の立場から、弥生時代後期の近畿地方では同じ文様、制作手法の土器が広範囲にわたり分布しており、ここから土器の 製作者である女性の移動すなわち嫁入りが推定でき、父系的外婚制の社会であったとする説もあります。 『万葉集』や『古事記』『日本書紀』の記述から、古代日本の婚姻は夫婦別居の妻問婚であったとする説が通説化しています。ただ、 「ツマ」は本来一対の男女の片方を指す言葉であり、『万葉集』には、女性の妻問婚も少数ながら書かれています。 『魏志』倭人伝には「父母兄弟臥息異処」という記述があります。これには様々な解釈が可能ですが、「父母」とおそらくは結婚し ている兄弟が別々に住んでいるという解釈が最も一般的です。 また、「大人皆四五婦 下戸或二三婦」という記述があり、一夫多妻制であったことが描かれています。しかし多くの民族・民俗事 例で二人以上の妻を持っているのは経済的に余裕のある階層の男性に限られていることから、倭人伝の下戸に対する記述は「下戸 も二、三人の妻を持つ」ではなく「下戸のなかにも二、三人の妻を持つ者がいる」と解釈するのが妥当であるとされています。『記 紀』などによると、姉妹で同じ夫に稼ぐ「姉妹連婚」も存在したようです。 これに対して民俗学と古代文献の解釈から古代日本は多夫多妻の社会で夫婦関係が固定していなかったとする説もあります。 こうした民族事例を参考に、吉野ヶ里の住居では入り口より見て左側を上位空間、右側を下位空間と想定しました。 これは日本では左大臣、右大臣の例を見るように、左上位、右下位の概念が古く存在可能性が高いこと、アイヌや東南アジア稲作 民など日本列島に近い民族事例にこの例が多いことを一つの拠りどころとしました。 また住居の奥を上位、手前を下位と想定しました。これも、現在まで儀式の席での席次がこうした概念に規定されており、古くか ら一般的な概念であったと推定したことによります。 またベッド状遺構を就寝空間、すなわちプライベートな空間とし、炉を囲む空間を公的空間と考えました。現在までのところ、ベ ッド状遺構を就寝空間とする確たる証拠は発見されていませんが、その規模、形態は就寝空間を思わせるものです。 また弥生時代後期末の生活状況、特に吉野ヶ里環壕集落のような「クニ」の中心的集落の生活状況は既に、住居の内部に私的空間 と公的空間が存在するものであったと想定でき、この観点からベッド状遺構は就寝空間であると想定しました。

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弥生時代の竪穴住居は基本的に構造やサイズが同時期のものはほぼ同一です。これは吉野ヶ里遺跡でも同様です。これは各竪穴住 居にそれぞれ類似した家族構成の人々が住んでいたことの反映と捉えられます。

祖霊祭祀の出現という背景には父系ないし母系の血縁をある程度たどることが支配者層では行なわれていたと想定され、非単系出 自集団を基礎としていたことが想像できます。

参照

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