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対象 ( 諸法 ) の進化 仏教では 一切の諸法 ( すべての事物 ) とは 真実 ( 無相 ) 以外のすべてを虚妄 ( 有相 事実 ) として諦観し 慈悲心によって 虚妄に毒された衆上 ( 大衆 ) を救済するために 方便として説かれたもの ( 広義 ) である したがって 誰か ( 主体 ) が

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Academic year: 2021

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(1)

実相の研究

(3)

実相の世界は、揺らぐ(無常―虚妄)と揺らがない(常住―真実)との両界にまた がっている世界である。揺らぐが落ちる先は虚妄(生―縁起)であり、揺らがない が上る先には真実(不死―実体)がある。そして、その両極の中にあって、揺らぐ と揺らがないに揺らぎつづける世界でもある。 この研究の目的は、実相の世界を見定め、真実の世界にいたる道(揺らぎの超 克)を探求することであるが、ここではその俯瞰図にとどめる。 元旦や わが身に似たり 一片の雪 泥に融けこみ 天地を遊ぶ 南無実相我 成実相我

仏教上の実相

以下は、仏教上の実相にかかわる言葉を項目的に説明したものである。 真実・・・ 空寂 虚空 無有二法(一法) 諸法・・・ 虚妄 生住異滅(四相) 念念・新新・即時(生住異滅) 真実実相・ 一法 無有二法 無相 不相 諸法実相・ 如是相如是性如是体如是力如是作如是因如是縁如是果如是報 如是本末究竟等 以上のことから、 真実=実相(一法) 実相(本末究竟等)= 虚妄(諸法) 真実=無有二法(本末究竟等―存立的存在態)である。 実相とは一面真実(一法)であり、一面虚妄 (諸法)であるところの、存立的存在 態(真実実相―本末究竟等)である。 即ち、その内実は 諸法=法性如是(相性体―存在的) 生(住、異、滅―力作) 如是法(因縁果報―存 立的)

(2)

対象

(諸法)の進化

仏教では、一切の諸法(すべての事物)とは、真実(無相)以外のすべてを虚妄(有 相―事実)として諦観し、慈悲心によって、虚妄に毒された衆上(大衆)を救済す るために、方便として説かれたもの(広義)である。したがって、誰か(主体)が、 何か(事物―狭義)を、つくる(形成)という人間文化も、一括して諸法(虚妄)の中 に融合してある。 しかし、文化の進化とともにいっそうに深まる、この世における価値と価値 との対立、事実と事実との衝突などを考えると、真実と虚妄(事実)を総合する仏 教上の実相概念は、その深化を避けることができない趨勢にあるといわなけれ ばならない。 そこで、広義の諸法は、狭義の諸法(事物―諸法)、行為(形成―諸行)、主体(人 間―諸我)に深化させ、それぞれ、諸法実相、諸行実相、諸我実相を探求し、さ らにそれらの統合をはる究竟実相(広義の諸法)に至るべきではないか、特に、人 間の有様に直接に迫る諸我実相(実相我)の定立に努めるべきではないか、という のが私の提言である。

実相の構造

仏教上の実相に依拠しながらも、新たな実相概念を構築するため、仏教上の 諸法実相の用語は、仏教上の意味の場合はそのまま使用し、この研究上の新た な意味が加わる場合は実相諸法のごとくに用語を改めている。 諸法実相 如是相如是性如是体如是力如是作如是因如是縁如是果如是報(諸法― 虚妄面) 如是本末究竟等(無有二法―真実面) 真実=実相(一法) 実相(本末究竟等)=諸法(虚妄) 実相とは真実であり、虚妄である存立的存在態(真実実相)である。 諸法実相の構造内容 諸法=法性如是(相性体―存在的)⇔無・生 (住、異、滅―力作)⇔如是法(因縁果 報―存立的) 真実=無有二法(本末究竟等―存立的存在態) なお、力作は相性体・因縁果報の両方にまたがる作用(酸化→・還元←)である。

(3)

諸法実相の構造形式 諸法実相=相性体―力作―因縁果報―本末究竟等 実相一般の構造形式 実相○○=相性体(存在的・実体面) ―力作(作用・作用面) ―因縁果報(存立的・ 縁起面) =本末究竟(存立的存在態・真実実相面)

実相の展開

一、実相の態様 (対象)― (呼称)― (実相名) 真実― 真実― 実相真実 事物― 諸法― 実相諸法 形成― 諸行― 実相諸行 主体― 諸我― 実相諸我 統合― 究竟― 実相究竟 二、各実相の形式・内容 実相真実(真実) 実相真実=無(相性体)―無(力作)―無(因果)=無有二法(本末究竟) 依拠―無量義経 実相諸法(事物・狭義) 実相諸法=相性体―力作―因果=本末究竟態 依拠―法華経方便品 実相諸行(形成) 実相諸行=空(相性体)―霊(力作)―色(因果)=本末究竟空態 依拠―般若心経 実相諸我(主体) 実相諸我=性霊(相性体・空)―霊性(力作・霊)―五蘊(因果・色)=本末究竟性

(4)

霊態 依拠―法華経如来寿量品・般若理趣品 実相究竟(統合) 実相究竟=諸我―諸行―諸法=本末究竟皆悉態 依拠―観普賢菩薩行法経 各実相の形式・内容の各要素は、仏典に依拠し、実相一般の構造形式を踏ま えながら、この研究において独自に定めたものである。 なお、態とは体を包含する状態の意味である。

実相の効用と目的

一、仏典の解釈 観普賢菩薩行法経と実相 「一切の業障海は皆妄想より生ず もし懺悔せんと欲せば端座して実相を思 え 衆罪は霜露のごとし 慧日よく消除す この故に至心に六情根を懺悔すべ し」 六情根の各根が思念する実相は、第一義から菩薩の母まで説かれて、さらに 本末究竟し、六情根全体に及んでいる。このことからも、実相にはいくつかの 態様があることを示されているとみることができよう。 眼根――第一義 実相真実――無有二法(一法) 耳根――法の空無相 実相諸法――本末究竟態(広義・実相真実義) 鼻根――法の如実際 実相諸法――本末究竟態(狭義・実相真実義) 舌根――法の真寂義 実相諸行――本末究竟空態(実相真実義) 心根――仏の大覚身 実相諸我――本末究竟性霊態(仏・実相真実義) 身根――菩薩の母 実相諸我――本末究竟性霊態(菩薩・実相真実義) 六情根――端座実相 実相究竟――本末究竟皆悉態(実相真実義) 二、実相我(実相諸我)の定立 (参照 実相我の研究) 実相を研究する第一の目的は、実相諸我(我々)・実相唯我(実相我―我)の定立

(5)

である。 実相諸我は次のとおりである。 実相諸我(我々) 実相諸我=性霊―霊性―五蘊=本末究竟性霊態 実相諸我から実相唯我(実相我)が導き出される。 実相唯我(我―実相我) 実相唯我(実相我)=性霊(存在的―実体的)―霊性(力作―作用的)―五蘊(存立的 ―関係的) =本末究竟性霊態(実体的関係的存在態) 実相我とは、実体的、関係的(縁起的)な存在態である。 実相我の定立にあたって、次のように一般的な用語に改めて、実相我をみる ことにする。 実相我=生命(性霊)―エネルギー(霊性)―生活(五蘊) =本末究竟生命態(実体的関係的存在態) 以上のように、実相我は実相諸我から導き出されるが、それは標準的な実相 我に過ぎない。個々の実相我、即ち一人一人の具体的な実相我は、それぞれに 特色を持っている。その特色とは、階層の中に位置しているということである。 その階層の概略は下記のとおりである。

1、階層表

実相界 自他空位実相我(真実我)=自他空生命⇔自他空エネルギー⇔自他空生活 =本末究竟自他空生命態 ↑↓ 空位実相我=空生命⇔空エネルギー⇔空生活=本末究竟空生命態 ↑↓ 他位実相我=他生命⇔他エネルギー⇔他生活=本末究竟他生命態 ↑↓

(6)

自位実相我=自生命⇔自エネルギー⇔自生活=本末究竟自生命態 ↑↓ 仮相界 欲位実相我=欲生命⇔欲エネルギー⇔欲生活=本末究竟欲生命態 ↑↓ 垢位実相我=垢生命⇔垢エネルギー⇔垢生活=本末究竟垢生命態 ↑↓ 基位実相我=基生命⇔基エネルギー⇔基生活=本末究竟基生命態 *界とは実相我を認識している(実相界)・してない(仮相界)の区別。 *階位とは実相我の循環の位置(自他空・空・他・・・)。 *循環とは実相我の縦横移動のこと

2、階層図

実相我 || 実相界 (自他空) | 生命(性霊) (他) ━ エネルギー(霊性) ━ (空) 生活(五蘊) | (自) | 仮相界 生命(性霊) (垢) ━ エネルギー(霊性) ━ (欲)

(7)

生活(五蘊) | (基) *( )内は界位 *界位は階層表にしたがって動く 三、自我と無我の共存 自我とは自立した我であるがその支えに神(真実)があるとされる。無我とは虚 妄の我のことで究竟すると空(真実)といわれる。自我と無我は、それぞれ出自は 違っているが、目指すところは真実ということにおいて、実体的である。 自我の生活は正義感にあふれ、自由と平等のもとで積極的であるのに対し、 無我の生活は無常観に陥り、謙譲の美徳のもとで消極的である。積極、消極の 違いはあっても、いずれの生活も人間関係の中にあることに違いはなく、縁起 的である。 先に、実相我の構造形式をみてきたところであるが、これに、自我と無我を 当てはめると、下記に示すとおりである。 実相我(実相観)=生命(自我・実体的)―エネルギー(作用的)―生活(無我・縁起的) =本末究竟生命態(神・空―実体的関係的存在態) 以上のことは、実相我(実相観)において自我と無我とは併存され、共通の原理 のうちにある、とみることができよう。 四、実相我の信仰 (参照 修我道) 実相我は階層をなしていて、その最上層には完璧の実相我(真実我)がある。こ の真実我(実相我)が尊崇される対象である。 この信仰は、各人ごとの実相我についての信仰であって、既成の宗教と衝突 することはない。かえって、東洋宗教の相対性(縁起観)を補完(実体性)し、西洋 宗教の絶対性(実体観)を補正(縁起性)しながら、宗教の共存に貢献するものとい えよう。

参照

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