駒澤大學佛教學部論集 第四十三號 平成二十四年十月 三五 〔 〕 〈 原 文 〉 十 二 月 、 尚 書 右 丞 、 集 賢 院 学 士 馬 亮 言 、 天 下 僧 徒 数 十 万 、 多 游 墮 凶 頑 、 隠 跡 為 僧 、 結 為 盜 賊 、 汚 辱 教 門 。 欲 望 今 後 除 額 定 数 剃 度 外 、 非 時 更 不 放 度 、 及 常 年 聚 試 之 際 、 先 委 僧 司 看 験 保 識 。 如 行 止 不 明 、 身 有 雕 刺 、 及 曽 犯 刑 憲 者 、 並 不 得 試 経 。 仍 于 逐 年 試 帳 、 前 牓 此 条 貫 。 従 之 。 〈 訓 読 〉 ( 天 聖 二 年 ) 十 二 月 、 尚 書 右 丞 、 集 賢 院 学 士 馬 亮 言 く 、 天 下 の 僧 徒 、 数 十 万 、 多 く は 游 堕 し て 凶 頑 た り 、 隠 跡 し て 僧 と 為 り 、 結 び て 盗 賊 と 為 り 、 教 門 を 汚 辱 す 。 今 後 、 額 定 せ し 数 の 剃 度 を 除 き 、 非 時 に は 更 に 度 を 放 さ ず 、 常 年 の 聚 試 の 際 に 及 び て は 、 先 に 僧 司 に 委 ね て 看 験 保 識 す る こ と を 望 ま ん と 欲 す 。 行 止 の 不 明 な る も の 、 身 に 彫 刺 有 る も の 、 及 び 曽 て 刑 憲 を 犯 す 者 、 並 べ て 試 経 す る を 得 ず 。 仍 お 逐 年 の 試 帳 に 於 い て は 、 前 に 此 の 条 貫 を 牓 せ よ 。 之 に 従 う 。 〈 解 説 〉 尚 書 右 丞 ・ 集 賢 院 学 士 の 馬 亮 に よ る 進 言 を 受 け た 詔 。 普 度 な ど の 政 策 に よ り 僧 の 数 が 増 加 し 、 そ れ ら は 堕 落 し て い る だ け で な く 、 盗 賊 と な り 仏 門 を 汚 し て い る と し 、 出 家 得 度 の 条 件 お よ び 禁 止 事 項 に つ い て 改 め て 上 奏 し た も の で あ る 。 ま ず 、 本 条 文 に は 天 聖 二 年 ( 一 〇 二 四 ) 当 時 の 僧 尼 数 は 数 十 万 と あ る が 、『 宋 会 要 』〔 〕 に 列 記 さ れ た 年 代 ご と の 僧 尼 数 に よ れ ば 、 建 隆 元 年 ( 九 六 〇 ) で 六 万 人 あ ま り で あ っ た 僧 尼 数 は 、 天 禧 五 年 ( 一 〇 二 一 ) に は お よ そ 六 倍 の 四 五 万 人 あ ま り に 急 増 し て お り 、 本 詔 勅 が 出 さ れ た 天 聖 二 年 当 時 は 、 他 の 年 代 と 比 較 し て も 僧 尼 数 が も っ と も 多 い 時 期 で あ っ た と 言
『宋会要』道釈部訓注(七)
永
井
政
之
程
正
山
本
元
隆
吉
田
香
苗
五十嵐
嗣
郎
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 三六 え る 。 北 宋 代 に お け る 僧 尼 の 増 加 が 当 時 の 財 政 を 圧 迫 し た の は 周 知 の と お り で あ る が 、 本 条 は 僧 徒 数 の 多 寡 よ り も 、 む し ろ 出 家 僧 尼 が 仏 道 修 行 に 専 念 せ ず に 、 世 法 を も 犯 す 行 為 が 横 行 し て い る こ と を 問 題 視 し て い る 。 馬 亮 の 進 言 に よ れ ば 、「 游 堕 し て 凶 頑 た り 、 隠 跡 し て 僧 と 為 り 、 結 び て 盗 賊 と 為 り 、 教 門 を 汚 辱 す 」 と い う よ う に 、 修 行 に 専 念 す る こ と な く 游 逸 に し て 堕 落 し 、 徒 党 を 組 ん で 盗 賊 と な る も の も お り 、 崇 高 な 仏 門 を 汚 し 辱 し め て い る と い う 。 後 述 す る 〔 〕 の 張 知 白 の 進 言 を 見 て も 、 断 罪 し た 強 盗 す べ て が 僧 徒 で あ っ た と い う ほ ど 、 当 時 の 乱 れ た 僧 徒 の 様 子 が 窺 い 知 れ る 。 こ の よ う な 状 況 に 対 し て 馬 亮 は 二 つ の 方 策 を 挙 げ て い る 。 一 つ は 、 す で に 定 め ら れ て い る 剃 髪 得 度 の 数 の 外 に 、 特 例 に よ る 得 度 を 許 可 し な い こ と で あ る 。 文 中 の 「 非 時 」 と は 、 お そ ら く 〔 〕 に 見 ら れ る よ う な 特 定 の 師 僧 も し く は 寺 院 に 特 に 許 さ れ た 得 度 や 、 承 天 節 な ど の 帝 室 行 事 に ち な ん だ 恩 赦 得 度 の 特 例 を 指 す と 考 え ら れ る 。 こ れ ら は お お む ね 課 す べ き 試 経 が 免 除 さ れ 、 そ の 結 果 が 僧 徒 数 の 増 加 の み な ら ず 、 仏 門 の 名 を 貶 め る よ う な 僧 徒 を 輩 出 せ し め た 。 そ れ ゆ え 、 試 経 を 経 ず し て 許 可 さ れ 得 る 「 非 時 」 の 得 度 は 禁 止 す べ き と 馬 亮 は 述 べ て い る 。 次 に 、 二 点 目 の 「 非 時 」 以 外 の 通 常 お こ な わ れ る 試 経 に つ い て 、 馬 亮 は そ の 監 督 責 任 を 「 僧 司 」 と い う 役 僧 に 当 て る よ う に 進 言 し て い る 。「 僧 司 」 は 「 僧 録 司 」 の 略 称 (『 宋 代 官 制 辞 典 』 中 華 書 局 、 二 〇 〇 七 年 、 三 二 二 頁 )。 ち な み に 、 明 代 に 編 纂 さ れ た 『 釋 鑑 稽 古 略 続 集 』 巻 二 に も 、 ( 洪 武 二 十 二 年 〈 一 三 八 九 〉) 八 月 、 僧 司 を 増 設 す 。 通 仏 法 の 僧 を 挙 選 し 、 発 つか わ し 来 り て 考 試 せ し む 。 ( 大 正 蔵 四 九 ︲ 九 三 五 c ) と あ り 、『 宋 会 要 』 と 同 様 に 僧 司 に 試 経 監 視 の 責 務 を 課 し て い る こ と が 窺 え る 。 さ て 、 定 数 以 外 の 「 非 時 」 の 得 度 と 、「 僧 司 」 に よ る 試 経 の 監 督 強 化 を 提 言 し た 後 、 馬 亮 は 、 出 家 を 許 さ な い 条 件 を 三 つ 提 示 し て い る 。 こ れ ら は す で に 『 宋 会 要 』 の 各 所 に 規 定 が 設 け ら れ て い る が 、 あ え て 概 説 し て お こ う 。 ま ず 、「 行 止 の 不 明 」 な る 者 に つ い て は 、〔 〕 に 「 旧 の 童 行 帳 の 弊 と 作 る 所 は 、 楷 ただ し 改 め 通 注 せ よ 。 小 わず か に 差 誤 有 ら ば 、 即 ち 給 せ ざ れ 」 と あ る よ う に 、 童 行 帳 に 記 載 さ れ た 出 身 や 師 僧 な ど の 記 載 に 偽 り が あ れ ば 、 度 牒 は 発 給 さ れ な い よ う に 規 定 さ れ て い る 。 ま た 、「 身 に 彫 刺 」 あ る 者 に つ い て も 『 慶 元 条 法 事 類 』 に 「 或 い は 身 に 文 刺 有 り ( 中 略 ) 並 べ て 童 行 と 為 る を 得 ざ れ 」( 〔 〕 解 説 参 照 ) と あ り 、「 刑 憲 を 犯 す 者 」 に つ い て は 、〔 〕 で 「 刑 責 姦 細 の 悪 党 、 山 林 に 亡 命 せ る 賊 徒 、 負 罪 し て 潜 竄 」 す る 者 の 出 家 は 禁 じ ら れ て い る 。
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 三七 こ れ ら の 規 定 は す べ て 『 禅 苑 清 規 』「 訓 童 行 」 に 収 録 さ れ 、 「 投 院 の 童 行 、 姓 は 某 、 名 は 某 、 年 若 干 、 本 貫 は 某 州 、 某 県 、 某 郷 、 某 里 の 人 事 な り 。( 中 略 ) 身 に 在 り て 並 べ て 彫 青 、 刑 憲 、 諸 般 の 違 礙 な し 」 と 大 衆 に 告 白 す る こ と が 、 入 門 の 第 一 と 明 記 さ れ て い る 。 出 家 禁 止 の 条 件 が 『 宋 会 要 』 で 重 ね て 記 さ れ 、 さ ら に の ち の 『 禅 苑 清 規 』 に も 改 め て 規 定 さ れ る 背 景 に は 、 北 宋 代 全 般 に お い て 、 不 適 格 者 の 出 家 が 跡 を 絶 た な か っ た か ら で あ る こ と は い う ま で も な く 、 逆 の 見 方 を す れ ば 、 彼 ら が そ の 来 歴 を 隠 す 上 で 、 寺 院 が 好 処 と し て 位 置 づ け ら れ て い た こ と を 意 味 し よ う 。 こ の 二 つ の 提 言 に よ り 、 本 詔 勅 で は 、 前 例 に 準 じ て 試 経 を お こ な う よ う に 求 め て い る が 、 出 家 を 禁 ず る 詔 勅 は す で に 〔 〕 で 論 じ た と お り で あ り 、 ま た 、「 非 時 」 以 外 の 「 定 数 」 に つ い て も 、〔 〕( 約 六 〇 人 に 一 人 )〔 〕( 三 百 人 に 一 人 ) に は 出 家 僧 尼 の 定 数 を 規 定 し た 詔 勅 が 収 め ら れ 、 そ れ ら を 通 し て そ の 変 遷 を 窺 い 知 る こ と が で き る 。 の ち の 記 録 に な る が 、 『 宋 史 』 巻 二 九 九 「 張 洞 」 伝 に 収 録 さ れ た 、 至 和 元 年 ( 一 〇 五 四 年 ) の 上 奏 に は 、 歳 ご と の 度 僧 を 増 す 。 旧 勅 に は 、 諸 路 に は 三 百 人 に 一 人 を 度 す も 、 後 に は 率 おおむ ね 百 人 に 一 人 を 度 す 。( 中 略 ) 今 、 祠 部 帳 は 三 十 余 万 の 僧 に 至 る 、 先 に 裁 損 せ ざ れ ば 、 後 に 其 の 弊 に 勝 た え ざ る べ し 。 朝 廷 、 其 の 言 を 用 い て 、 始 め に 三 分 し て 一 を 減 ず 。 ( 中 華 書 局 本 、 第 二 八 冊 、 九 九 三 三 頁 ) と あ り 、 時 代 ご と に 緩 和 さ れ る 得 度 の 定 数 を 憂 慮 し て そ の 削 減 を 求 め て い る 。 馬 亮 に よ る 定 数 遵 守 の 進 言 は 、 増 加 し 続 け る 僧 尼 数 の 状 況 を 踏 ま え た も の で あ っ た と 容 易 に 推 測 さ れ る 。 最 後 に 上 奏 を 呈 し た 馬 亮 に つ い て 述 べ て お き た い 。 馬 亮 の 伝 は 『 宋 史 』 巻 二 九 八 、『 東 都 事 略 』 巻 四 五 、『 乾 道 臨 安 志 』 巻 三 に 見 ら れ る 。 字 は 「 叔 明 」、 諡 は 「 忠 肅 」、 「 合 淝 」 の 人 で 進 士 と な り 、 大 中 祥 符 九 年 ( 一 〇 一 六 ) に 知 杭 州 、 の ち に 集 賢 院 学 士 、 太 子 少 傅 と な る 。 本 詔 勅 と 同 類 の 記 述 は 『 続 資 治 通 鑑 長 編 』( 以 下 『 長 編 』) 巻 一 〇 二 と 『 資 治 通 鑑 後 編 』 巻 三 六 に 見 ら れ る が 、 両 書 で は 馬 亮 は 「 権 判 都 省 」 の 官 位 と な る 。 馬 亮 に 関 す る 記 述 は 先 の 伝 記 以 外 に も 仏 教 史 書 に も 見 ら れ る 。 た と え ば 、『 仏 祖 統 紀 』 巻 二 八 で は 「 往 生 公 卿 伝 」 の な か に そ の 名 が 見 え 、「 馬 亮 、 官 は 侍 郎 、 杭 に 守 た り 。 霊 山 に 詣 し 浄 土 の 業 を 学 す 。 慈 雲 は 為 に 浄 土 行 願 法 門 、 浄 土 往 生 略 伝 を 撰 す 。 臨 終 に 念 仏 し て 逝 く 」 と あ り 、 ま た 、『 天 聖 広 灯 録 』 巻 二 七 「 杭 州 興 教 寺 洪 寿 禅 師 」 章 に は 、「 復 た 故 里 の 大 慈 山 に 迴 もど り 、 草 を 結 し て 庵 と 為 す 。 大 中 祥 符 九 年 に 至 り 、 知 州 の 馬 亮 、 興 教 寺 に 住 し て 開 堂 せ ん こ と を 請 う 」 と あ る よ う に 、 時 の 天 台 学 僧 や 禅 僧 ら と 交 流 し て い た こ と が 窺 え る 。
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 三八 本 詔 勅 は 『 資 治 通 鑑 後 編 』 巻 三 六 、『 長 編 』 巻 一 〇 二 に も 見 え 、 そ の 内 容 に 大 差 は な い の だ が 、『 仏 祖 統 紀 』 巻 四 五 に 収 録 さ れ た 記 述 を 以 下 に 引 用 し て お き た い 。 ( 天 聖 三 年 ) 判 都 省 馬 亮 言 く 、「 仏 道 は 貴 重 に し て 、 人 天 の 師 と す る 所 な り 。 請 う 、 曽 て 真 刑 を 犯 し 、 及 び 身 を 文 す る 者 を 、 収 度 す る を 得 る こ と 無 か れ 」。 詔 し て 之 に 従 う 。 ( 大 正 蔵 四 九 ︲ 四 〇 九 a ) 〔 〕 の 記 述 だ け を 見 れ ば 、 数 ば か り 増 す 一 方 で 世 に 蔓 延 る 悪 僧 へ の 譏 言 と 受 け 取 れ る が 、 こ の 『 仏 祖 統 紀 』 の 記 述 を 踏 ま え れ ば 、 実 は 馬 亮 自 身 が 時 の 仏 教 僧 と 交 流 し 、 自 ら 浄 業 を お さ め る 者 と し て な さ れ た 、 護 法 を 願 う 進 言 で あ っ た と 見 て 取 る こ と も で き よ う 。 〈 山 本 〉 〔 〕 〈 原 文 〉 三 年 四 月 、 開 封 府 以 乾 元 節 、 請 放 寺 観 童 行 千 三 百 六 十 二 人 。 詔 僧 礼 念 経 四 巻 已 上 、 読 八 巻 已 上 、 尼 、 道 士 、 女 冠 礼 念 三 巻 已 上 、 読 七 巻 已 上 者 、 為 格 試 。 〈 訓 読 〉 ( 天 聖 ) 三 年 四 月 、 開 封 府 、 乾 元 節 を 以 て 寺 観 の 童 行 千 三 百 六 十 二 人 を 放 す を 請 う 。 詔 す 、 僧 、 経 を 礼 念 す る こ と 四 巻 已 上 、 読 む こ と 八 巻 已 上 、 尼 道 士 は 礼 念 す る こ と 三 巻 已 上 、 読 む こ と 七 巻 已 上 の 者 、 格 試 と 為 す 。 〈 解 説 〉 開 封 の 政 府 が 乾 元 節 に ち な み 、 仏 寺 道 観 の 童 行 一 三 〇 〇 人 あ ま り に 得 度 の 許 可 を 申 請 し 、 そ れ に と も な っ て 試 経 の 合 格 基 準 を 改 め て 規 定 し た 詔 。 試 経 得 度 の 合 格 基 準 は 、『 宋 会 要 』 の 各 所 に 見 ら れ る 。 た と え ば 、 五 代 の 試 経 得 度 の 合 格 基 準 を 述 べ た 〔 〕 で は 、 童 行 「 念 百 紙 」「 読 五 百 紙 」、 長 髪 「 念 七 十 紙 」「 読 三 百 紙 」 と な り 、 雍 熙 二 年 ( 九 八 五 ) 発 布 の 詔 を 記 し た 〔 〕 で は 僧 尼 「 読 三 百 紙 」 と あ る 。 本 詔 勅 で は 、 僧 「 礼 念 四 巻 以 上 」「 読 八 巻 以 上 」、 尼 道 士 「 礼 念 三 巻 以 上 」「 読 七 巻 以 上 」 と 定 め る 。 他 の 詔 勅 で は 「 念 」 と な る 部 分 が 、「 礼 念 」 と な っ て い る が 、 こ れ は 定 期 的 に お こ な わ れ た 通 常 の 試 経 と 異 な り 、 皇 帝 の 生 誕 節 に ち な ん で お こ な わ れ た 試 経 の た め 、「 礼 拝 」 し な が ら の 「 念 経 」 を 「 礼 念 」 と 記 し て い る と 考 え る 。 そ の 量 数 に つ い て 見 る に 、〔 〕 で は 「 巻 」 と な る が 、 既 出 の 規 定 で は 量 数 が 「 紙 」 と な っ て い る た め 、 合 格 基 準 が 緩 和 さ れ た の か 否 か を 比 較 し て 判 断 す る こ と は で き な い 。 「 乾 元 節 」 は 『 仏 祖 統 紀 』 巻 四 五 「 仁 宗 」 の 項 に 、「 四 月 十
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 三九 四 日 を 乾 元 節 と 為 す 」 と あ り 、 真 宗 の 第 六 子 で の ち の 四 代 皇 帝 ・ 仁 宗 の 生 誕 節 を い う 。〔 〕 で は 馬 亮 が 定 数 以 外 の い わ ゆ る 「 非 時 」 得 度 の 停 止 を 求 め て い た が 、 そ れ が 半 年 も 経 た な い 本 詔 勅 で は 「 乾 元 節 」 に ち な ん だ 「 非 時 」 得 度 が お こ な わ れ た こ と に な る 。 試 経 得 度 の 合 格 基 準 を 列 記 し た だ け に 見 え る 本 詔 勅 で は あ る が 、〔 〕 の 馬 亮 の 進 言 と 合 わ せ て 見 る こ と に よ り 、 得 度 を め ぐ る 帝 室 と 仏 教 教 団 の 関 係 が 、 極 め て 緊 密 で あ っ た こ と が 窺 い 知 れ よ う 。 〈 山 本 〉 〔 〕 〈 原 文 〉 四 年 正 月 、 開 封 府 以 長 寧 節 、 請 放 試 到 僧 、 尼 、 道 士 、 女 冠 、 童 行 。 及 諸 禅 院 撥 放 者 三 百 八 十 九 人 、 止 放 三 百 人 。 宰 臣 王 曽 等 言 、 剃 度 太 多 、 皆 堕 農 游 手 之 人 、 無 益 政 化 。 張 知 白 曰 、 臣 任 枢 密 日 、 嘗 断 劫 盜 、 有 一 火 之 中 全 是 僧 徒 者 。 仁 宗 曰 、 自 今 切 宜 、 漸 加 澄 革 、 勿 使 濫 也 。 〈 訓 読 〉 ( 天 聖 ) 四 年 正 月 、 開 封 府 、 長 寧 節 を 以 て 、 試 を 僧 、 尼 、 道 士 、 女 冠 、 童 行 に 放 す を 請 う 。 諸 の 禅 院 の 撥 放 せ る 者 三 百 八 十 九 人 に 及 び て は 、 止 だ 放 す 者 は 三 百 人 な り 。 宰 臣 ・ 王 曽 等 、 言 く 、 剃 度 す る も の 太 だ 多 し 。 皆 な 堕 農 游 手 の 人 に し て 、 政 化 を 益 す る こ と な し 。 張 知 白 、 曰 く 、 臣 、 枢 密 に 任 ぜ ら れ し 日 、 嘗 て 劫 盜 を 断 ず る に 、 一 火 の 中 に 有 る は 全 て 是 れ 僧 徒 な る 者 な り 。 仁 宗 、 曰 く 、 今 よ り 切 に 宜 し く 漸 く 澄 革 を 加 う べ し 。 濫 せ し む る こ と 勿 れ 。 〈 解 説 〉 開 封 の 政 府 が 「 長 寧 節 」 す な わ ち 仁 宗 の 皇 太 母 の 生 誕 節 に ち な み 、 僧 尼 、 道 士 、 女 冠 、 童 行 に 至 る ま で 試 経 の 機 会 を 与 え 、 諸 禅 院 の 恩 度 者 (「 撥 放 」 は 〔 〕 も 参 照 ) に つ い て は 、 三 百 人 を 度 す に と ど め た 。〔 〕 に よ れ ば 開 封 政 府 は 前 年 四 月 の 「 乾 元 節 」 に ち な み 、 一 三 〇 〇 人 あ ま り の 寺 観 の 童 行 に 対 す る 得 度 を 許 可 し て い る 。 こ う し た 得 度 政 策 に 対 し 、 宰 臣 の 王 曾 と 張 知 白 が 苦 言 を 呈 し 、 そ れ を 受 け て 仁 宗 が 仏 教 教 団 に 浄 化 を 促 す 趣 旨 の 詔 を 発 し て い る 。 同 様 の 記 述 は 『 群 書 考 索 後 集 』 巻 六 三 に も 見 え る 。 ま ず は 王 曽 の 進 言 で あ る が 、 文 中 に 「 剃 度 す る も の 太 だ 多 し 」 と い う よ う に 、〔 〕 に 列 記 さ れ た 年 代 ご と の 僧 尼 数 を 見 て も 、 直 近 の 天 禧 五 年 ( 一 〇 二 一 ) の 僧 尼 数 は 、 他 の 年 代 と 比 べ て 多 い 時 期 で あ っ た 。 問 題 は 多 寡 の 僧 徒 が 国 家 に と っ て 有 益 な 存 在 で は な か っ た こ と に あ る 。 文 中 の 「 堕 農 」 と は 『 禅 林 宝 訓 音 義 』 巻 一 に 「 野 に て 堕 農
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 四〇 す る こ と な く 、 市 に て 賭 博 す る こ と な し ( 野 無 堕 農 、 市 無 賭 博 )」 と あ り 、「 賭 博 」 と 対 に な っ て 使 わ れ て い る こ と か ら 分 か る よ う に 、「 農 つと め を 堕 おこた る 」 放 逸 な 様 子 を か く 表 現 し て い る 。 一 方 「 游 手 」 に つ い て は 、『 仏 祖 統 紀 』 巻 三 九 に 、 遊 逸 な れ ど も 衣 食 に あ り つ け る 僧 の 姿 を 「 遊 手 に て 食 を 竊 み 服 を 易 え て 以 て 租 賦 を 逃 る 」 と い う 表 現 が あ る 。 こ の よ う に 皇 帝 に 言 を 呈 せ ざ る を 得 な い ほ ど の 無 益 な 悪 僧 が 多 く 存 在 し た の で あ ろ う 。 ち な み に こ の よ う な 実 情 を 報 告 し た 王 曾 は 青 州 益 都 の 人 、 字 は 孝 先 、 伝 は 『 東 都 事 略 』 巻 五 一 『 宋 史 』 巻 三 一 〇 に あ る 。 進 士 と な り 、 大 中 祥 符 六 年 ( 一 〇 一 三 ) に 翰 林 学 士 、 同 九 年 ( 一 〇 一 六 ) に 右 諫 議 大 夫 礼 部 侍 郎 、 の ち に 知 応 天 府 、 仁 宗 が 即 位 し て か ら は 礼 部 尚 書 に 移 り 、 の ち に 中 書 侍 郎 ・ 同 中 書 門 下 平 章 事 な ど の 官 位 を 歴 任 し た 。 次 に 張 知 白 の 言 に つ い て 見 て い き た い 。 文 中 に は 彼 が 枢 密 院 で 盗 賊 を 断 罪 し た 際 の 懐 古 が 「 一 火 の 中 に 有 る は 全 て 是 れ 僧 徒 」 と 述 べ ら れ て い る 。「 一 火 」 の 「 火 」 は 、 唐 代 の 兵 法 で は 十 人 一 組 の 単 位 を 「 火 」( 「 伙 」 と も ) と 言 う が 、 た だ 単 に 「 火 ( 伙 )」 は 一 群 の 集 ま り を 意 味 し て い る の か も し れ な い 。 い ず れ に せ よ 、 張 知 白 が 断 罪 し た 盗 賊 す べ て が 僧 で あ っ た こ と に 変 わ り は な い 。 僧 が 徒 党 を 組 ん で 盗 賊 と な る 様 は 、 先 の 〔 〕 に お け る 馬 亮 の 言 に も 見 ら れ た が 、 張 知 白 の 言 葉 は そ れ に も 増 し て 具 体 的 で あ る 。 い う ま で も な く 仏 教 で は 在 家 出 家 を 問 わ ず 、 守 る べ き 戒 と し て 不 偸 盗 戒 が 制 さ れ て い る 。 そ れ を 自 ら 守 り 、 さ ら に 在 家 に 説 く べ き が 、 戒 牒 を 授 か っ た 僧 の 務 め で あ る 。 し か る に 、 張 知 白 の 言 を 見 る 限 り に お い て は 、 宋 代 の 仏 教 教 団 に は 不 偸 盗 戒 す ら 守 り 得 な い 悪 僧 が 多 く 存 在 し 、 教 団 が そ れ を 統 制 し き れ な い 危 機 的 な 状 況 に あ っ た と 言 わ ざ る を 得 な い 。 「 堕 農 」「 遊 手 」 で 無 益 な 存 在 で あ る な ら ま だ し も 、 盗 賊 と 化 し て 人 民 に 有 害 と な り 得 た 僧 の 得 度 が 、 何 ゆ え 積 極 的 に お こ な わ れ て い た の か 。 実 は 、 本 項 の 張 知 白 の 進 言 を 受 け 、 そ れ で も 仏 教 を 保 護 し よ う と す る 臣 下 の 提 言 が あ る の で 、 や や 長 文 で あ る が 以 下 に 引 用 し て お き た い 。『 宋 名 臣 奏 議 』 巻 八 四 に 収 録 さ れ た 、 殿 中 侍 御 史 ・ 岑 象 求 「 上 哲 宗 論 仏 老 」 の 一 節 、 元 祐 五 年 ( 一 〇 九 〇 ) に 記 さ れ た も の で あ る 。 国 家 、 太 平 興 国 ( 九 七 六 年 ~ ) よ り 天 聖 ( ~ 一 〇 三 一 年 ) に 至 る 間 、 屡 しばしば 天 下 に 僧 人 を 普 度 す る を 詔 す 。 無 図 の 流 、 皆 な 名 を 僧 籍 に 竄 かく す を 得 る も 、 而 る に 僧 の 盜 賊 と 為 し 、 刑 禁 を 冒 す 者 、 計 う る を 勝 う べ か ら ず 。 故 に 張 知 白 、 奏 し て 言 く 、「 臣 、 向 さき に 嘗 て 劫 盜 を 断 ず る に 、 有 る も の は 全 て 是 れ 僧 徒 な る 者 な り 」。 時 に 于 い て 、 仁 祖 、 宜 し き 有 り 、 漸 く 澄 革 の 言 を 加 う 。 惜 い か な 、 聖 旨 に 其 の 意 あ る も 、 而 る に 臣 下 は 推 明 し 、
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 四一 而 し て 之 を 奉 行 す る こ と 能 わ ず 。 国 家 は 仏 老 を 崇 奉 す る は 、 至 ら ず と 為 さ ざ る も 、 未 だ 甞 て 其 の 小 利 す ら 享 け ず 、 而 し て 天 下 に 陰 ひそ か に 其 の 大 害 を 受 く 。 而 る に 知 覚 せ ざ る は 、 可 かえ っ て 念 わ ざ る な り 。 『 四 庫 全 書 珍 本 』 二 集 『 宋 名 臣 奏 議 』 第 九 冊 ( 台 湾 商 務 印 書 館 、 一 九 七 一 年 ) 注 目 す べ き は 、 張 知 白 の 進 言 を 受 け た 岑 象 求 の 慨 嘆 で あ る 。 そ れ に よ れ ば 、 張 知 白 ら 仏 教 教 団 を 規 制 し よ う と す る 臣 下 は 、 聖 旨 ( 天 子 の 意 向 ) を 究 め 明 か し て 、 そ れ を 実 行 し 得 て い な い 。 尊 崇 す べ き 仏 老 に 規 制 を か け て 、 そ の 恩 恵 を 奪 う こ と に よ り 、 天 下 は し ら ず し ら ず に 利 益 を 損 ね て い る 、 と 岑 象 求 は 述 べ て い る 。 岑 象 求 も 当 時 の 僧 徒 が 盗 賊 と な し 世 法 を も 犯 し て い る こ と は 重 々 承 知 し て い た 。 張 知 白 や 王 曽 の 上 奏 を 受 け た 仁 宗 も 当 然 こ の 件 に 関 し て は 耳 に 入 っ て い た で あ ろ う 。 そ れ で も 仏 教 や 道 教 に 得 度 の 機 縁 を 与 え る こ と に よ り 、 国 家 へ の 利 益 を 希 求 し て い た の で あ る 。 張 知 白 の 言 に 対 す る 岑 象 求 の 慨 嘆 か ら も 、 当 時 の 人 々 が 仏 教 を 保 護 し 奉 行 す る こ と に よ り 得 ら れ る 功 徳 を 、 い か に 期 待 し て い た か が 窺 い 知 れ る の で あ る 。 『 宋 会 要 』 で は 張 知 白 の 上 奏 を 受 け た 仁 宗 の 詔 が 続 く が 、 「 漸 く 澄 革 を 加 う 」 と 言 う よ う に 、 そ れ ま で の 得 度 政 策 を す ぐ さ ま 改 革 し よ う と い う 積 極 的 な 意 は 、 仁 宗 の 言 か ら は 見 て 取 る こ と が で き な い 。 た だ 、〔 〕 に 収 録 さ れ た 僧 尼 数 の 増 減 を 見 れ ば 、 そ の 数 は 天 禧 五 年 ( 一 〇 二 一 ) の 四 五 万 人 あ ま り を ピ ー ク に 徐 々 に 減 少 し 、 五 〇 年 後 の 熙 寧 一 〇 年 ( 一 〇 七 七 ) に は 二 三 万 人 あ ま り と 半 減 す る こ と と な る 。 こ の 僧 尼 の 減 少 傾 向 が 仁 宗 の 言 ( 漸 加 澄 革 ) に よ る か は 分 か ら な い が 、 宋 代 の 仏 教 政 策 は ま さ に こ の 時 期 を 境 と し て 、 次 第 に 方 針 を 転 換 し て い っ た と 考 え ら れ る 。 ち な み に 、 張 知 白 は 滄 州 青 池 の 人 、 字 は 用 晦 、 諡 は 文 節 、 伝 は 『 東 都 事 略 』 巻 五 一 『 宋 史 』 巻 三 一 〇 に 見 え る 。 進 士 と な り 河 北 節 度 判 官 、 翰 林 侍 読 学 士 知 大 名 府 な ど を 経 て 、 仁 宗 が 即 位 し て か ら は 枢 密 副 使 、 工 部 尚 書 同 中 書 門 下 平 章 事 、 集 賢 殿 大 学 士 な ど を 歴 任 し た 。 〈 山 本 〉 〔 〕 〈 原 文 〉 五 年 九 月 、 枢 密 直 学 士 李 及 言 、 伏 覩 剃 度 僧 尼 、 崇 奉 法 教 、 其 中 修 行 者 少 、 違 犯 者 多 。 蓋 由 為 師 者 務 收 徒 弟 、 官 中 無 法 以 革 其 弊 也 。 乞 自 今 欲 出 家 者 、 須 父 母 骨 肉 捨 施 、 委 本 院 保 明 行 止 、 申 所 属 州 軍 長 吏 呈 験 、 仍 須 親 知 三 二 人 委 保 無 過 犯 、 委 是 尊 親 聴 許 、 即 官 給 公 憑 、 然 後 得 収 名 入 帳 。 試 經 日 、 更 勘 会 、 実 有 公 拠 、
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 四二 即 得 就 試 。 其 実 無 骨 肉 者 、 亦 召 三 二 人 保 明 、 出 給 公 憑 、 方 得 收 充 行 者 。 〈 訓 読 〉 ( 天 聖 ) 五 年 九 月 、 枢 密 直 学 士 李 及 言 く 、 伏 し て 覩 る に 、 剃 度 の 僧 尼 、 法 教 を 崇 奉 す べ き も 、 其 の 中 、 修 行 す る 者 は 少 な く 、 違 犯 す る 者 は 多 し 。 蓋 し 師 と 為 る 者 、 務 め て 徒 弟 を 収 あつ む る も 、 官 中 に 法 無 く 、 以 て 其 の 弊 を 革 め ん と す る に 由 る な り 。 乞 う ら く は 、 今 よ り 出 家 せ ん と 欲 す る 者 は 、 父 母 骨 肉 の 捨 施 を 須 もと め 、 本 院 に 委 せ て 行 止 を 保 明 し 、 所 属 せ る 州 軍 の 長 吏 に 申 の べ て 呈 験 し 、 仍 よ っ て 親 知 の 三 二 人 を 須 め て 、 過 犯 無 き を 委 保 せ し め 、 委 たし か に 是 れ 尊 親 の 聴 許 な れ ば 、 即 ち 官 は 公 憑 を 給 し 、 然 る 後 、 収 名 入 帳 す る を 得 る 。 試 経 の 日 、 更 に 勘 会 し 、 実 に 公 拠 有 ら ば 、 即 ち 試 に 就 く を 得 る 。 其 も し 実 に 骨 肉 無 き 者 な れ ば 、 亦 た 三 二 人 を 召 し て 保 明 せ し め 、 公 憑 を 出 給 し て 、 方 め て 収 め て 行 者 に 充 て し む る を 得 ん こ と を 。 〈 解 説 〉 天 聖 五 年 ( 一 〇 二 七 ) 九 月 に 枢 密 直 学 士 の 李 及 に よ る 一 連 の 出 家 手 続 き に 関 す る 進 言 を 収 め た 記 録 。 本 項 と ほ ぼ 同 じ 内 容 を 有 す る 記 述 は 、『 長 編 』 巻 一 〇 五 に も あ る 。 枢 密 直 学 士 李 及 言 く 、 比 この 歳 ごろ 、 天 下 に 濫 り に 僧 を 度 す 、 亡 命 せ る 不 逞 の 人 有 る に 至 り て は 、 名 を 其 の 間 に 竄 かく す 。 請 う 、 今 よ り 出 家 者 は 、 親 属 を 須 め 、 召 す 所 に 詣 いた り て 保 官 し 、 方 め て 寺 帳 に 係 す る を 聴 ゆる す 。 之 に 従 う 。 ( 中 華 書 局 本 、 第 八 冊 、 二 四 四 七 頁 ) 「 不 逞 の 人 」 と は 本 項 に あ る 「 修 行 す る 者 は 少 な く 、 違 犯 す る 者 は 多 し 」 と は 、 す な わ ち 目 的 を お ろ そ か に し 、 世 法 を も 犯 す 僧 徒 を 指 す 。「 名 を 其 の 間 に 竄 す 」 の 「 其 の 間 」 と は 「 僧 籍 」 の こ と 。『 元 叟 行 端 禅 師 語 録 』 巻 八 に 「 不 逞 の 曹 、 名 を 僧 籍 4 4 に 竄 す 。 身 は 出 家 す と 雖 も 、 心 、 道 に 入 ら ず 」 と あ る 。 正 式 な 手 順 を 経 ず し て 世 法 を 逃 れ る た め に 、 仏 門 に 身 を 隠 す 輩 が あ と を 断 た な い 当 時 の 様 子 を 、 こ の 一 段 か ら 読 み 取 る こ と が で き よ う 。 上 奏 者 で あ る 李 及 の 伝 は 『 東 都 事 略 』 巻 四 五 、『 乾 道 臨 安 志 』 巻 三 に 見 え る 。 そ れ ら に よ れ ば 、 李 及 は 鄭 州 の 人 、 字 は 幼 幾 、 諡 は 恭 恵 、 知 杭 州 、 知 応 天 府 兼 南 京 、 知 鄆 州 、 御 史 中 丞 な ど を 歴 任 、 枢 密 直 学 士 に は 乾 興 元 年 ( 一 〇 二 二 ) に 任 ぜ ら れ た 。 生 年 は 不 詳 で あ る が 、 没 年 に 関 し て は 『 乾 道 臨 安 志 』 に 天 聖 六 年 と あ り 、 本 項 の 進 言 は 李 及 の 逝 去 わ ず か 一 年 前 の も の で あ っ た こ と に な る 。 さ て 、 本 詔 勅 の 内 容 に 目 を む け る と 、「 師 と 為 る 者 、 務 め て 徒 弟 を 収 む 」 と い う よ う に 、 師 僧 た る 者 が 積 極 的 に 人 員 を 集 め て い た こ と が 問 題 と な っ て い た よ う で あ る 。 仏 教 史 書 な ど に は 師 僧 に 参 じ た 弟 子 の 数 が 処 々 に 記 録 さ れ て い る 。 こ れ
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 四三 ら は た だ 単 に 弟 子 の 数 を 集 計 し た と い う よ り は 、 む し ろ 、 そ の 師 僧 の 徳 の 高 さ を 弟 子 の 数 で 表 現 し た も の と 言 え よ う 。 邪 推 か も し れ ぬ が 、 自 ら の 徳 が 弟 子 の 数 で 高 ま る な ら ば 、 そ の 数 を 集 め る こ と に 勤 し む 「 高 僧 」 も い た の か も し れ な い 。 あ る い は 、 南 山 律 宗 の 僧 ・ 元 照 ( 一 〇 四 八 ― 一 一 一 六 )『 四 分 律 行 事 鈔 資 持 記 』 巻 上 に は 、「 即 今 の 禅 衆 、 戒 相 を 知 ら ず 。 普 く 僧 衆 を 集 め 、 菜 を 択 り て 食 を 造 る 」 と い う 記 述 が 見 ら れ る 。 当 時 の 禅 院 が 「 普 請 作 務 」 と 称 す る 「 仏 行 」 に 多 く の 僧 徒 を 駆 り 出 し て い た 様 子 を 批 判 的 に 伝 え た も の だ が 、 元 照 が 活 躍 し た 北 宋 は 、 王 侯 貴 族 に よ る 寺 院 へ の 土 地 の 寄 進 が 積 極 的 に お こ な わ れ 、 寺 領 が 飛 躍 的 に 増 加 し た 時 代 で も あ っ た 。 そ の 寺 領 を 有 効 的 に 活 用 す る に は 、 そ れ 相 応 の 人 員 が 必 要 だ っ た は ず で あ る 。 の ち の 記 録 と な る が 、『 密 蔵 開 禅 師 遺 稿 』 巻 二 「 楞 厳 寺 禅 堂 規 約 」 に は 、「 禅 堂 内 外 、 各 お の 私 か に 徒 弟 お よ び 披 薙 を 収 め る を 許 さ ず 。 違 え ば 師 徒 倶 に 擯 く 」 と あ る 。 本 項 の 記 述 は 、 あ く ま で も 「 普 請 作 務 」 す ら 行 じ な い 悪 僧 の 改 革 を 目 的 と し て い る の だ が 、 元 照 の 批 判 対 象 と な っ た 禅 院 の 過 剰 な 徒 弟 集 め も 、 そ の 一 つ の 理 由 と な っ て い た と 推 測 さ れ る 。 い ず れ に せ よ 、 弟 子 の 増 加 が 寺 院 な り 師 僧 に と っ て 利 益 と な っ た の は 事 実 で あ ろ う 。 弟 子 が 多 く 集 ま り 過 ぎ て 不 利 益 を 被 る な ら ば 、 あ え て 弟 子 な ど 集 め は し な い は ず で あ る 。 僧 徒 の 増 加 だ け で な く 、 放 逸 か つ 犯 罪 者 が は び こ る 当 時 の 改 革 す べ き 仏 教 教 団 の 悪 弊 に 対 し 、 李 及 は 改 め て 正 式 な 出 家 の 手 続 き を 提 言 し て い る 。 す な わ ち 、 親 族 に よ る 出 家 許 可 、 来 歴 に 関 す る 止 住 寺 院 の 保 証 、 そ し て 軍 州 の 長 官 へ の 上 申 と 確 認 で あ る 。 注 目 す べ き は 「 父 母 骨 肉 の 捨 施 」 と い う 一 節 で あ る 。 出 家 は あ く ま で も 本 人 の 発 心 に よ り な さ れ る も の で あ る 。 た だ 、 「 捨 施 」 と い う よ う に 、 李 及 に よ れ ば 、 出 家 と は 父 母 が そ の 骨 肉 た る 子 息 を 寺 院 に 喜 捨 す る こ と 、 つ ま り 、 出 家 が 本 人 の 意 思 よ り も 、 親 の 許 可 に よ り は じ め て 為 し 得 る と い う 。 こ こ で の 「 捨 施 」 と い う 表 現 は 、 明 ら か に 応 報 の 功 徳 が あ る と 見 な さ れ た こ と 、 す な わ ち 「 一 子 出 家 、 九 族 生 天 」 と パ ラ レ ル な 考 え 方 の あ っ た こ と を 意 味 し よ う 。 さ て 、 親 族 に よ る 許 可 と 師 僧 の 保 証 は 、 す で に 〔 〕 天 禧 二 年 ( 一 〇 一 八 ) の 詔 で 示 さ れ て お り 、 そ こ で は 「 私 剃 」 と 断 じ ら れ た 場 合 は 、 本 人 は 還 俗 、 師 主 は 二 年 の 徒 刑 、 三 綱 お よ び 知 事 は 杖 八 十 に 罰 せ ら れ る 。 本 項 に は 罰 則 規 定 は 明 記 さ れ て い な い が 、 お そ ら く 同 等 の 刑 罰 が 科 せ ら れ た こ と で あ ろ う 。 ま た 、 親 族 が 存 在 し な い 場 合 に 関 し て は 、 本 項 で は 「 三 二 人 を 召 し て 保 明 せ し め 」 と あ る が 、 ど の よ う な 者 が 出 家 者 を 送 り 出 し た か 、 明 記 さ れ て い な い 。 こ れ に つ い て も 〔 〕 に 「 已 に 孤 な る は 、 同 居 す る 尊 長 の 処 分 を 取 問 せ よ 」 と あ り 、
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 四四 こ れ を も っ て そ の 補 足 と な し え よ う 。 ち な み に 、 師 僧 の 保 証 お よ び 官 へ の 上 申 に つ い て は 〔 〕 の 記 述 に も 見 ら れ る 。 事 前 調 査 に よ り 出 家 希 望 者 が 「 委 か に 是 れ 正 身 」 た る こ と が 証 明 さ れ れ ば 、 係 帳 へ の 記 名 と 公 憑 の 発 布 が 許 可 さ れ る の だ が 、 本 項 で は 「 試 経 の 日 、 更 に 勘 会 し 」 と 記 す よ う に 、 そ の 照 合 が 再 度 お こ な わ れ た こ と に な る 。 そ の 点 検 を 統 括 し た の が 、〔 〕 で 馬 亮 に よ り 「 聚 試 」 の 際 に 「 看 験 保 識 」 の 任 に 当 て ら れ た 「 僧 司 」 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 〈 山 本 〉 〔 〕 〈 原 文 〉 七 年 八 月 、 知 道 州 陳 覃 言 、 臣 自 到 任 後 、 拠 降 僧 道 童 行 祠 部 、 內 道 童 二 十 五 人 。 按 本 州 四 県 所 管 道 士 計 七 百 六 十 九 人 、 放 二 十 五 人 。 又 按 先 降 敕 命 、 僧 道 毎 百 人 放 行 者 一 人 、 以 此 披 度 。 是 元 無 定 数 条 約 。 欲 乞 自 今 依 僧 尼 例 、 每 道 士 百 人 放 一 人 、 仍 添 続 (読カ) 経 紙 数 、 与 僧 童 条 同 等 。 庶 勤 経 業 、 兼 免 煩 費 。 下 荊 湖 南 転 運 使 詳 度 以 聞 。 転 運 言 、 潭 州 管 道 士 二 百 九 十 人 、 本 州 試 道 童 二 十 二 人 、 除 五 人 不 合 格 及 門 引 不 到 外 、 試 到 合 格 十 七 人 。 当 司 相 度 、 若 将 道 士 每 百 人 依 僧 尼 例 放 一 人 、 即 潭 州 每 歲 合 放 三 人 、 所 有 不 及 百 人 道 士 州 吳 (与カ) 放 一 人 、 如 此 、 又 放 人 全 少 、 宮 観 欠 人 焚 修 。 乞 下 祠 部 定 奪 、 拠 州 郡 大 小 道 士 数 目 、 酌 中 額 定 逐 年 合 放 人 数 降 下 、 経 久 遵 守 。 詔 令 荊 湖 南 、 北 路 、 今 後 道 士 每 百 人 放 童 行 二 人 、 不 及 百 人 放 一 人 。 〈 訓 読 〉 七 年 八 月 、 知 道 州 の 陳 覃 言 く 、 臣 、 任 に 到 り て 自 り 後 、 降 せ る 僧 道 の 童 行 祠 部 に 拠 ら ば 、 內 に 道 童 二 十 五 人 あ り 。 按 ず る に 本 州 四 県 の 所 管 す る 道 士 は 七 百 六 十 九 人 を 計 う る も 、 二 十 五 人 を 放 せ り 。 又 た 按 ず る に 先 に 降 せ る 敕 命 に て は 、 僧 道 百 人 毎 に 行 者 一 人 を 放 し 、 此 れ を 以 て 披 度 す 。 是 れ 元 よ り 定 数 の 條 約 な し 。 乞 欲 ねが わ く は 今 自 り 僧 尼 の 例 に 依 り 、 道 士 百 人 每 に 一 人 を 放 し 、 仍 お 読 経 の 紙 数 を 添 や し 、 僧 童 の 條 と 同 等 に せ ん こ と を 。 経 業 を 勤 め 、 兼 ね て 煩 費 を 免 ぜ ん こ と を 庶 う 。 荊 ・ 湖 南 の 転 運 使 に 下 し 詳 ら か に 度 り 以 て 聞 せ し む る に 、 転 運 言 く 、 潭 州 は 道 士 二 百 九 十 人 を 管 し 、 本 州 に て 道 童 二 十 二 人 を 試 す に 、 五 人 の 不 合 格 及 び 門 引 せ れ ど も 到 ら ざ る を 除 き し 外 、 到 り し を 試 し て 十 七 人 を 合 格 せ り 。 当 司 に 相 い 度 す べ し 、 若 し 道 士 を 将 っ て 百 人 每 に 僧 尼 の 例 に 依 り 一 人 を 放 せ ば 、 即 ち 潭 州 は 每 歲 、 合 に 三 人 を 放 し 、 所 有 百 人 の 道 士 に 及 ば ざ る 州 は 一 人 を 与 え 放 す べ し 。 此 の 如 く 、 又 た 人 を 放 す こ と 全 く 少 な く 、 宮 観 は 人 の 焚 修 を 欠 く べ し 。 乞 う ら く は 祠 部 に 下 し て 、 州 郡 の 大 小 に 拠 り 道 士 の 数 目 を 定 奪 せ ん こ と を 。 酌 中 し 額 定 し て 逐 年 合 に 放 す べ し 人 数 を 降 下 し 、 久 し く 経 る も 遵
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 四五 守 せ ん こ と を 。 荊 ・ 湖 南 に 詔 令 し て 、 北 路 は 今 後 道 士 百 人 每 に 童 行 二 人 を 放 し 、 百 人 に 及 ば ざ れ ば 一 人 を 放 せ 。 〈 解 説 〉 毎 年 僧 尼 と 道 士 で 、 出 家 が 許 さ れ る 人 数 の 割 合 が 大 き く 異 な る こ と を 問 題 に し た 上 奏 文 で あ る 。 仁 宗 ・ 天 聖 七 年 ( 一 〇 二 九 ) 八 月 、 知 道 州 で あ る 陳 覃 が 、 自 分 の 管 轄 す る 四 県 で は 道 士 が 七 六 九 人 な の に 対 し て 、 道 童 を 二 五 人 も 度 し て い る こ と を 問 題 点 と し て と り あ げ た 。 勅 命 に よ れ ば 僧 侶 ・ 道 士 と も 百 人 に 対 し て 行 者 一 人 を 度 す こ と が 許 さ れ て い る が 、 何 人 を 得 度 さ せ る の か 、 き ち ん と し た 規 定 が 定 め ら れ て い な い 。 僧 尼 は 百 人 毎 に 行 者 一 人 を 度 す こ と が 許 さ れ て い る の だ か ら 、 こ の 例 に な ら っ て こ れ か ら は 、 道 士 も 百 人 毎 に 一 人 度 す る よ う に 決 め て ほ し い と の 要 請 が 上 奏 な さ れ た も の で あ る 。 そ こ で 、 荊 湖 南 を 担 当 し て い る 転 運 使 に 調 べ さ せ た と こ ろ 、 潭 州 で は 確 か に 道 士 二 九 〇 人 に 対 し て 、 道 童 二 二 人 の 試 経 が 可 能 だ っ た が 、 こ の 内 五 人 が 試 験 の 結 果 が 不 合 格 で あ っ た り 、 試 験 の 通 知 を 出 し て も 受 け に 来 な か っ た り し た の で 、 一 七 人 が 合 格 し た と の 報 告 が あ っ た 。 も し 、 僧 も 道 も 同 じ 規 定 を 想 定 す る な ら ば 、 僧 尼 の 例 に よ う に 、 潭 州 で の 道 士 は 三 人 し か 度 す べ き で は な い 。 た だ 、 道 士 が 百 人 に 満 た な い 州 で も 一 人 を 度 す こ と が で き る こ と と す る 。 し か し 、 度 す る 人 数 が 全 く 少 な い 場 合 は 宮 観 の 修 行 に も 差 し 障 り が 生 じ る こ と に も な る 。 従 っ て 、 宮 観 の 道 士 の 定 員 を 州 郡 の 規 模 に よ り 規 定 す る よ う 祠 部 に 下 し 、 毎 年 の 度 す べ き 人 数 を 確 定 す る よ う 上 奏 し た 内 容 で あ る 。 そ の 結 果 荊 湖 南 に 対 し て 、 今 後 道 士 は 百 人 毎 に 童 行 二 人 を 、 百 人 に 満 た な い 場 合 は 一 人 を 度 す よ う 、 命 令 が 下 さ れ た 。 因 み に 、 知 道 州 の 陳 覃 は 『 嘉 泰 会 稽 志 』 巻 二 に よ れ ば 、 明 道 二 年 ( 一 〇 三 三 ) 二 月 に は 以 都 官 郎 中 知 ( 越 州 )、 景 祐 元 年 ( 一 〇 三 四 ) 十 月 に は 責 監 潤 州 税 に 任 ぜ ら れ て い る 。 ま た 、 転 運 使 と は 官 名 で 漕 そう 司 じ と も 呼 ば れ た 。 宋 代 以 降 は 路 ( = 地 方 行 政 区 画 ) の 財 政 を つ か さ ど り 、 監 査 権 を 有 し て い た 。 〈 五 十 嵐 〉 〔 〕 〈 原 文 〉 八 年 三 月 詔 、 応 男 子 願 出 家 為 僧 道 者 、 限 年 二 十 已 上 、 方 得 為 童 行 。 若 祖 父 母 、 父 母 在 、 須 別 有 親 兄 弟 侍 養 、 方 得 出 家 。 其 先 経 還 俗 、 或 曽 犯 刑 責 負 罪 逃 亡 、 及 景 跡 凶 悪 、 身 有 文 刺 者 、 並 不 得 出 家 。 若 係 帳 童 行 犯 刑 責 者 、 亦 勒 還 俗 。 寺 観 故 違 容 受 者 、 人 及 師 主 、 三 綱 、 知 事 、 隣 房 同 住 僧 道 並 行 勘 断 。 本 師 雖 会 赦 、 仍 勒 還 俗 。 官 司 常 行 覚 察 、 許 人 陳 告 、 以 犯 人 衣 鉢 、 資 財 給 賞 、 不 過 五 十 千 。 女 子 限 年 十 五 以 上 、 方 得 出 。 雖 年 幼 、
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 四六 其 尊 長 骨 肉 肯 捨 出 家 者 亦 聴 。 〈 訓 読 〉 八 年 三 月 、 詔 す 、 応 に 男 子 の 出 家 を 願 い 僧 道 と 為 ら ん と す る 者 は 、 年 二 十 已 上 に 限 り 、 方 め て 童 行 と 為 る を 得 べ し 。 若 し 祖 父 母 、 父 母 在 ら ば 、 須 ら く 別 に 親 し き 兄 弟 有 り て 侍 養 す れ ば 、 方 め て 出 家 す る を 得 べ し 。 其 の 先 還 俗 を 経 、 或 い は 曾 て 刑 責 を 犯 し 罪 を 負 う も 逃 亡 し 、 及 び 凶 悪 の 景 跡 、 身 に 文 いれ 刺 ずみ の 有 る 者 は 、 並 べ て 出 家 を 得 ず 。 若 し 係 帳 童 行 に し て 刑 責 を 犯 す 者 、 亦 た 勒 し い て 還 俗 せ し む べ し 。 寺 観 で 故 ことさら に 違 し い て 容 受 せ し 者 は 、 人 及 び 師 主 、 三 綱 、 知 事 、 隣 房 同 住 の 僧 道 、 並 べ て 勘 断 を 行 ず べ し 。 本 師 は 赦 し に 会 う と 雖 も 、 仍 な お 勒 い て 還 俗 せ し む べ し 。 官 司 は 常 に 覚 察 を 行 い 、 人 の 陳 告 を 許 し 、 犯 人 の 衣 鉢 を 以 て 、 給 賞 の 資 財 と す る も 、 五 十 千 を 過 ぎ ざ れ 。 女 子 は 年 十 五 以 上 に 限 り 、 方 て 出 家 を 得 べ し 。 年 、 幼 し と 雖 も 、 其 の 尊 長 の 骨 肉 の 肯 い て 出 家 を 捨 ゆる せ し 者 は 亦 た 聴 す べ し 。 〈 解 説 〉 天 聖 八 年 ( 一 〇 三 〇 ) 八 月 に 出 さ れ た 出 家 に 関 す る 詔 で あ る 。 男 子 が 出 家 し 僧 道 に な る 場 合 は 、 年 齢 が 二 〇 歳 以 上 で な け れ ば 童 行 に な れ な い 。 し か も 祖 父 母 や 父 母 が い る 場 合 は 、 祖 父 母 や 父 母 を 扶 養 す る 兄 弟 が い る こ と が 条 件 と な っ て い る 。 ま た 、 か つ て 僧 道 で あ っ た が 還 俗 し た 者 や 、 過 去 に 刑 罰 を 受 け る よ う な 罪 を 負 い な が ら も 逃 亡 し た 者 、 及 び 凶 悪 な 犯 罪 の 前 科 が あ る 者 、 入 れ 墨 の 刑 に 処 せ ら れ た 前 科 者 は 、 出 家 す る こ と が で き な い 。 さ ら に 出 家 し 係 帳 童 行 に な っ て も 、 も し 刑 罰 を 受 け る よ う な こ と が あ れ ば 、 還 俗 さ せ ら れ る 。 こ の よ う な 規 定 に 違 反 し た 者 を 寺 観 で 匿 う よ う な こ と が あ れ ば 、 師 主 、 三 綱 、 知 事 、 違 反 し た 者 の 同 じ 部 屋 や 隣 の 部 屋 に い た 僧 道 全 て が 裁 き を 受 け る こ と に な る 。 特 に 本 師 は も し 罪 が 許 さ れ て も 、 還 俗 し な け れ ば な ら な い 。 僧 侶 を 監 督 す る 官 吏 は 、 常 に 僧 道 を し っ か り 見 張 り 、 周 囲 の 人 か ら の 訴 え の 情 報 を 聞 き 入 れ る よ う に 指 示 し て い る 。 も た ら さ れ た 情 報 で 違 反 者 を 見 つ け た 場 合 は 、 恩 賞 の 資 金 と し て 、 違 反 者 の 所 持 品 を 当 て る こ と と し た 。 た だ し 恩 賞 は 五 万 以 下 と し た 。 女 子 が 出 家 す る 場 合 は 一 五 歳 以 上 と す る 。 た だ 、 年 齢 が 一 五 歳 以 下 の 場 合 で も 、 父 母 や 祖 父 母 な ど が 女 子 の 出 家 を 許 す よ う な こ と が あ れ ば 、 そ の 旨 を 聞 き 入 れ る よ う 指 示 さ れ て い る 。 〈 五 十 嵐 〉 〔 〕 〈 原 文 〉 四 月 詔 、 五 台 山 毎 年 特 敕 度 童 行 五 十 人 、 并 收 掌 御 書 、 放 度 行
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 四七 者 一 人 。 代 州 自 来 差 量 試 経 業 、 自 今 後 更 不 差 官 、 只 委 本 官 司 正 量 試 経 業 、 具 人 数 保 明 申 州 、 繳 連 聞 奏 。 下 尚 書 詞 ママ 部 依 旧 例 給 度 牒 。 〈 訓 読 〉 四 月 、 詔 す 、 五 台 山 は 毎 年 特 に 勅 し て 童 行 五 十 人 を 度 し 、 并 び に 御 書 を 收 掌 す る が た め に 、 行 者 一 人 を 度 す を 放 す 。 代 州 は 、 自 この 来 かた 差 わ し て 経 業 を 量 試 す れ ど も 、 今 よ り 後 は 、 更 に 官 を 差 わ さ ず 、 只 だ 本 官 司 に 委 ね 正 し く 経 業 を 量 試 し 、 人 数 を 具 さ に し 保 明 し て 州 に 申 し 、 繳 連 し て 聞 奏 せ よ 。 尚 書 祠 部 に 下 し 、 旧 例 に 依 り て 度 牒 を 給 す べ し 。 〈 解 説 〉 ( 天 聖 八 年 、 一 〇 三 〇 ) 四 月 の 勅 で あ る 。 毎 年 五 台 山 に は 特 別 に 五 〇 人 の 得 度 を 許 し 、 な ら び に 天 子 か ら の 書 物 を 管 理 す る 行 者 一 人 の 得 度 を 許 す と い う 。 代 州 は 現 在 の 山 西 省 北 部 の 州 で 、 五 台 ・ 崞 ・ 繁 峙 の 三 県 を 治 め て い た 。 そ こ で は 、 こ れ ま で 上 の 役 人 が 派 遣 さ れ て 試 経 を 行 な っ て い た が 、 今 後 は 地 元 の 役 所 に 一 任 し て 試 経 を 執 り 行 な い 、 得 度 の 人 数 を 明 ら か に し 、 そ の 者 達 の 身 元 を 保 証 し た 上 で 州 に 報 告 し 、 そ の 記 録 を 納 め 、 上 奏 し な け れ ば な ら な い 。 後 に 尚 書 省 の 祠 部 に 伝 え 、 旧 例 に 従 い 度 牒 を 与 え る 。 五 台 山 は 言 う ま で も な く 中 国 仏 教 に お け る 重 要 な 聖 地 の 一 つ で あ る が 、 こ こ で は 詳 述 し な い 。 関 係 す る 記 述 は 〔 〕 〔 〕 で も 言 及 さ れ て お り 、〔 〕 の 淳 化 二 年 ( 九 九 一 ) の 勅 で も 毎 年 の 承 天 節 に 五 〇 人 を 度 す と あ り 、 五 台 山 は 相 変 わ ら ず 特 別 視 さ れ て い る こ と が 窺 え る 。 〈 吉 田 〉 〔 〕 〈 原 文 〉 至 和 元 年 二 月 詔 、 乾 元 節 度 僧 尼 。 自 今 両 浙 、 江 南 、 福 建 、 淮 南 、 益 、 梓 、 利 、 夔 等 路 、 率 限 僧 百 人 度 一 人 、 尼 五 十 人 度 一 人 。 京 師 及 他 路 、 僧 尼 率 五 十 人 度 一 人 、 道 士 女 冠 不 以 路 分 、 率 二 十 人 度 一 人 。 〈 訓 読 〉 至 和 元 年 二 月 、 詔 す 、 乾 元 節 な れ ば 僧 尼 を 度 す べ し 。 今 よ り 両 浙 、 江 南 、 福 建 、 淮 南 、 益 、 梓 、 利 、 夔 等 の 路 は 、 率 おおよ そ 限 る に 僧 百 人 に 一 人 を 度 し 、 尼 五 十 人 に 一 人 を 度 す べ し 。 京 師 及 び 他 路 は 、 僧 尼 率 そ 五 十 人 に 一 人 を 度 し 、 道 士 女 冠 は 路 を 以 て 分 か た ず 、 率 そ 二 十 人 に 一 人 を 度 す べ し 。 〈 解 説 〉 至 和 元 年 ( 一 〇 五 四 ) 二 月 に 下 さ れ た 、 仁 宗 の 生 日 で あ る 四 月 一 四 日 の 乾 元 節 に 僧 尼 を 度 す べ し と い う 勅 で あ る が 、 至
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 四八 和 に 改 元 さ れ た の は 三 月 で あ り 、 二 月 と い う の は 誤 り で あ る 。 両 浙 、 江 南 、 福 建 、 淮 南 、 益 、 梓 、 利 、 夔 等 の 路 は 、 お お む ね 僧 百 人 に 対 し 一 人 を 、 尼 五 〇 人 に 一 人 を 得 度 さ せ る こ と と し 、 都 や そ の 他 の 路 で は 僧 尼 お お よ そ 五 〇 人 に 対 し 一 人 を 得 度 さ せ 、 道 士 女 冠 は 地 域 に 関 係 な く 二 〇 人 に 一 人 を 度 す べ し 、 と い う 。『 宋 史 』 巻 二 九 九 、「 張 洞 伝 」 に よ れ ば 、 次 の よ う に あ る 。 時 に 天 下 の 戸 口 、 日 に 蕃 ま し 、 民 は 去 き て 僧 と 為 る 者 衆 し 。 洞 、 奏 す る に 、 至 和 元 年 、 勅 し て 歳 ご と に 度 僧 を 増 す 。 旧 は 勅 し て 諸 路 三 百 人 に 一 人 を 度 し 、 後 に 率 そ 百 人 に 一 人 を 度 す 。 又 、 文 武 の 官 、 内 臣 の 墳 墓 は 、 寺 を 置 き 撥 放 す る を 得 る こ と 、 近 歳 滋 ますます 広 し 。 若 し 勳 労 を 以 て 宜 し く 之 を 仮 る な ら ば 、 当 に 古 に 依 り て 戸 を 給 い 塚 を 守 ら せ 、 禁 じ て 樵 采 せ し む る こ と な か れ 。 今 、 祠 部 帳 は 三 十 余 万 の 僧 に 至 り 、 失 (先カ) ず 裁 損 せ ざ れ ば 、 後 に 其 の 弊 に 勝 た え ず 。 朝 廷 其 の 言 を 用 い 、 始 め て 三 分 を し て 一 を 減 ず 。 ( 中 華 書 局 本 、 第 二 八 冊 、 九 九 三 三 頁 ) 張 洞 は 、 字 は 仲 通 、 開 封 祥 符 の 人 。 舎 人 院 主 簿 や 判 官 を 歴 任 し た 後 、 尚 書 省 の 校 理 、 判 祠 部 に 任 ぜ ら れ た 。 右 の 上 奏 は そ の 頃 の も の で あ る 。 前 述 の 張 洞 の 上 奏 文 を 見 る 限 り 、 墳 寺 の 僧 侶 に は 特 恩 が 与 え ら れ 、 本 来 度 牒 発 行 に 必 要 な 試 経 を す る 必 要 が な い 。 〈 吉 田 〉 〔 〕 〈 原 文 〉 英 宗 治 平 元 年 正 月 十 七 日 詔 、 寿 聖 節 所 賜 師 号 、 紫 衣 、 祠 部 以 二 百 道 為 限 。 旧 例 聖 節 所 賜 三 百 道 、 而 貴 妃 、 修 儀 、 公 主 別 有 陳 乞 、 不 在 其 数 、 至 是 、 帝 以 謂 聖 節 州 郡 已 度 僧 尼 、 道 士 、 而 別 賜 之 数 可 減 。 遂 減 為 二 百 道 、 而 貴 妃 、 修 儀 、 公 主 歳 例 所 得 者 、 皆 在 其 内 、 更 不 別 乞 。 以 上 、 宋 会 要 。 〈 訓 読 〉 英 宗 治 平 元 年 正 月 十 七 日 、 詔 す 、 寿 聖 節 に 賜 う 所 の 師 号 、 紫 衣 、 祠 部 は 二 百 道 を 以 て 限 と 為 せ 。 旧 例 の 聖 節 に 賜 わ る 所 は 三 百 道 な る も 、 貴 妃 、 修 儀 、 公 主 の 別 に 陳 べ 乞 う こ と 有 れ ば 其 の 数 に 在 ら ず 。 是 に 至 り て 、 帝 以 お 謂 も え ら く 、 聖 節 に 州 郡 は 已 に 僧 尼 、 道 士 を 度 す 。 而 も 別 賜 の 数 は 減 ず べ し 。 遂 に は 減 じ て 二 百 道 と な し 、 貴 妃 、 修 儀 、 公 主 は 歳 例 に 得 る 所 は 、 皆 其 の 内 に 在 り て 、 更 に 別 に 乞 わ ざ れ 。 以 上 、 宋 会 要 。 〈 解 説 〉 英 宗 の 治 平 元 年 ( 一 〇 六 四 ) 正 月 一 七 日 の 詔 。 英 宗 の 生 日 で あ る 一 月 二 日 の 寿 聖 節 に 際 し て 師 号 、 紫 衣 、 祠 部 牒 を 与 え る が 、 二 百 道 を 上 限 と す る 。 か つ て の 聖 節 に お い て は 三 百 道
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 四九 を 発 給 し て い た が 、 貴 妃 、 修 儀 、 公 主 ら に あ っ て は そ の 制 限 に は 含 ま れ て い な か っ た 。 聖 節 に 際 し て 、 す で に 各 州 郡 の 僧 尼 、 道 士 を 度 し て い る の で 、 皇 帝 は 別 に 賜 る 度 牒 の 数 を 減 ら す べ き だ と 思 わ れ た の で 、 二 百 道 ま で 減 ら す こ と と な っ た 。 貴 妃 、 修 儀 、 公 主 に 年 ご と に 与 え ら れ る 数 も 、 そ の 二 百 道 の 内 に 含 ま れ て い る も の と し 、 追 加 の 申 請 は 認 め な い と い う 詔 で あ る 。 『 長 編 』 巻 二 〇 〇 に も ほ ぼ 同 様 の 記 述 が 見 ら れ 、「 英 宗 治 平 元 年 癸 丑 十 七 日 、 詔 す 、 寿 聖 節 に 賜 う 所 の 師 号 、 紫 衣 、 祠 部 戒 牒 は 二 百 道 を 以 て 限 と 為 す べ し 」( 中 華 書 局 本 、 第 一 五 冊 、 四 八 四 五 頁 ) と あ る 。 こ こ で い う 「 旧 例 聖 節 所 賜 三 百 道 」 と い う の が 、 ど の 勅 文 に 相 当 す る か は 不 明 で あ る 。 ち な み に 、 貴 妃 、 修 儀 、 公 主 た ち に 与 え ら れ た 度 牒 の 数 に つ い て は 、 本 稿 〔 〕 を 参 照 さ れ た い 。 〈 吉 田 〉 〔 〕 〈 原 文 〉 神 宗 熙 寧 五 年 十 二 月 二 十 七 日 、 定 応 見 任 両 府 、 親 王 、 長 公 主 、 入 内 都 知 押 班 、 許 陳 乞 守 墳 等 寺 額 、 許 于 十 年 内 依 見 在 例 、 仍 両 経 聖 節 与 度 行 者 一 名 。 〈 訓 読 〉 神 宗 熙 寧 五 年 十 二 月 二 十 七 日 、 応 に 見 任 の 両 府 、 親 王 、 長 公 主 、 入 内 都 知 押 班 は 、 守 墳 等 の 寺 額 を 陳 べ 乞 う こ と を 許 す べ し と 定 む 。 十 年 内 に お い て 、 見 在 の 例 に 依 る を 許 す 。 仍 っ て 両 聖 節 を 経 て 行 者 一 名 を 度 す を 与 う 。 〈 解 説 〉 熙 寧 五 年 ( 一 〇 七 二 ) 一 二 月 二 七 日 の 勅 。 現 任 の 両 府 、 親 王 、 長 公 主 、 入 内 都 知 押 班 が 、 功 徳 墳 寺 の 寺 額 を 申 請 す る こ と を 許 可 し た と い う 内 容 で あ る 。 上 記 の 該 当 者 た ち は 、 退 官 し た 場 合 で も 一 〇 年 以 内 な ら ば 、 墳 寺 の 申 請 を 可 能 と し 、 ま た 二 年 に 一 度 聖 節 に 際 し て は 行 者 一 名 の 得 度 を 与 え る と い う 詔 で あ る 。 こ の よ う な 役 人 た ち か ら の 墳 寺 申 請 を 許 可 す る 詔 は 、 仁 宗 の 嘉 祐 四 年 ( 一 〇 五 九 ) に も 下 さ れ た 。『 長 編 』 巻 一 八 九 ( 中 華 書 局 本 、 第 一 四 冊 、 四 五 六 七 頁 ) に よ れ ば 、「 乙 丑 、 詔 応 乞 墳 寺 名 額 、 非 親 王 、 長 公 主 及 見 任 中 書 、 枢 密 院 並 入 内 内 侍 省 都 知 押 班 、 毋 得 施 行 。」 と あ り 、 親 王 、 長 公 主 、 現 任 の 中 書 令 、 枢 密 使 、 入 内 内 侍 省 都 知 押 班 以 外 の 身 分 の 者 は 、 墳 寺 の 申 請 を し て は な ら な い と い う 。 と こ ろ で 、「 両 府 」 と は 黄 敏 枝 『 宋 代 仏 教 社 会 経 済 史 論 集 』 第 七 章 に よ れ ば 、 中 書 令 と 枢 密 使 の こ と で あ る と い う 。 ま た 黄 氏 に よ れ ば 、 こ の 嘉 祐 四 年 の 勅 文 に つ い て 、 墳 寺 の 設
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 五〇 置 に 関 し て 、 こ れ 以 前 で は 官 吏 が 墳 寺 の 申 請 を す る こ と は 稀 な 例 で は あ る の で 、 制 限 が 曖 昧 で あ っ た と 指 摘 し て い る 。 こ れ に つ い て 筆 者 は 、 墳 寺 の 申 請 に 制 限 が な か っ た で あ ろ う こ と に は 賛 同 す る が 、 申 請 者 が 多 く 、 混 乱 の 元 に な り か ね な い 状 況 だ っ た か ら こ そ 、 本 項 の よ う な 成 文 化 が な さ れ た の で は な い か と 考 え る 。 一 方 、 本 項 の 入 内 都 知 押 班 と は 宦 官 の 役 職 で あ り 、 黄 氏 は 宋 代 の 宦 官 の 地 位 は 、 漢 、 唐 、 明 の よ う に 高 く は な か っ た も の の 、『 宋 史 』 が 四 巻 に も わ た っ て 「 宦 者 伝 」 を 立 て て お り 、 時 に は 兵 を 従 え 遠 征 を 行 な い 、 皇 位 の 決 定 に も 関 わ る ほ ど の 地 位 を 確 立 し て い る こ と に 着 目 し て い る 。 本 項 の よ う に 墳 寺 の 申 請 を 許 可 さ れ て い た こ と か ら も 、 宋 代 の 宦 官 に も 相 当 の 地 位 が あ っ た こ と が 窺 え る 。 〈 吉 田 〉 〔 〕 〈 原 文 〉 八 年 六 月 十 六 日 詔 、 増 河 南 府 超 化 寺 、 歳 増 (衍カ) 度 僧 二 人 、 賜 紫 衣 一 人 。 以 上 批 、 寺 乃 釈 迦 仏 舍 利 所 在 、 于 畿 内 最 為 霊 跡 。 祷 雨 、 随 獲 嘉 応 、 聞 歳 止 度 僧 一 人 、 頗 闕 人 修 奉 故 也 。 〈 訓 読 〉 八 年 六 月 十 六 日 詔 す 、 河 南 府 の 超 化 寺 、 歳 ご と に 増 す こ と 僧 二 人 を 度 し 、 紫 衣 を 一 人 に 賜 う 。 以 上 、 批 う る は 、 寺 は 釈 迦 仏 舍 利 の 在 る 所 に し て 、 畿 内 に 于 い て 最 た る 霊 跡 為 れ ば な り 。 雨 を 祷 ら ば 、 随 い て 嘉 応 を 獲 た り 。 歳 ご と に 止 だ 僧 一 人 を 度 す と 聞 き 、 頗 る 人 の 修 奉 を 闕 く が 故 な り 。 〈 解 説 〉 熙 寧 八 年 六 月 一 六 日 の 詔 。 河 南 府 の 超 化 寺 で は 毎 年 二 人 を 度 し 、 一 人 に 紫 衣 を 与 え る と い う も の で あ る 。 そ の 理 由 は 超 化 寺 が 寺 院 内 に 舎 利 塔 を 有 し 、 都 周 辺 地 域 の 中 で も 最 た る 霊 跡 だ か ら で あ る 。 雨 乞 い を す れ ば 霊 験 あ ら た か だ っ た 。 そ れ な の に 毎 年 得 度 が 許 さ れ る の が 一 名 だ け だ と い う こ と を 聞 き 、 そ れ で は あ ま り に も 修 行 者 の 人 数 が 少 な く 、 修 行 に 支 障 を き た し か ね な い と い う 上 奏 が な さ れ 、 そ れ に 対 し て の 詔 で あ っ た 。 な お 『 長 編 』 巻 二 六 五 に も 、 や や 字 句 の 異 同 は あ る も の の 同 様 の 記 述 が あ る 。 超 化 寺 は 、 超 化 阿 育 王 寺 と い い 、『 法 苑 珠 林 』( 大 正 蔵 五 三 ︲ 五 八 七 c ) に よ れ ば 、「 鄭 州 超 化 寺 塔 は 、 州 の 西 南 百 余 里 の 密 県 の 界 に あ り て 、 県 の 東 南 十 五 里 に あ り 」、 ま た 「 塔 は 寺 の 東 南 角 に あ る 」 と 記 さ れ て い る 。 〈 吉 田 〉
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 五一 〔 〕 〈 原 文 〉 九 年 十 月 十 七 日 詔 、 賜 開 宝 寺 福 聖 禅 院 師 号 、 賜 紫 衣 共 十 人 、 及 度 行 者 十 人 、 其 主 首 僧 智 満 特 授 右 街 守 闕 鑒 義 、 別 与 度 弟 子 一 名 、 賜 紫 衣 一 名 、 仍 令 自 今 本 院 、 逐 年 随 御 書 牌 、 撥 放 行 者 三 人 。 以 増 修 慶 寿 崇 因 閣 、 畢 功 、 車 駕 臨 幸 推 恩 也 。 〈 訓 読 〉 九 年 十 月 十 七 日 詔 す 、 開 宝 寺 福 聖 禅 院 に 師 号 を 賜 い 、 紫 衣 を 賜 る こ と 共 て で 十 人 、 及 び 行 者 十 人 を 度 し 、 其 に 主 首 の 僧 、 智 満 は 特 に 右 街 守 闕 鑒 義 を 授 け 、 別 に 弟 子 一 名 に 度 を 与 え 、 一 名 に 紫 衣 を 賜 い 、 仍 お 今 よ り 本 院 を し て 年 ご と に 御 書 の 牌 に 随 い 、 行 者 三 人 に 撥 放 す 。 以 て 慶 寿 崇 因 閣 を 増 修 せ し め 功 を 畢 え 、 車 駕 臨 幸 を し て 推 恩 す る な り 。 〈 解 説 〉 熙 寧 九 年 ( 一 〇 七 六 ) 一 〇 月 一 七 日 の 勅 。 開 宝 寺 福 聖 禅 院 に 師 号 を 与 え 、 一 〇 人 に 紫 衣 を 、 行 者 一 〇 人 を 度 し 、 そ の 主 首 で あ る 智 満 を 右 街 守 闕 鑒 義 に 任 じ 、 そ の 他 弟 子 一 人 を 度 し 、 ま た 別 の 一 人 に 紫 衣 を 与 え 、 当 該 寺 院 に 毎 年 御 書 の 牌 に 従 っ て 行 者 三 人 の 恩 度 を 与 え る 。 ま た 、 寺 院 内 に 新 た に 慶 寿 崇 因 閣 を 増 築 し た が 、 竣 工 し た の で 、 天 子 が 行 幸 し た と い う 内 容 で あ る 。 開 宝 寺 は 『 宋 東 京 考 』 巻 一 四 に よ れ ば 、 か つ て 独 居 寺 と 称 し 、 北 斉 天 保 一 〇 年 ( 五 五 九 ) に 創 建 さ れ た 。 唐 の 開 元 中 に は 封 禅 寺 と 改 め ら れ 、 太 祖 の 開 宝 三 年 ( 九 七 〇 ) に 開 宝 寺 と 改 め ら れ た 。 福 聖 禅 院 は 『 彭 城 集 』 巻 一 三 と 巻 一 六 に 、「 開 宝 寺 福 聖 禅 院 の 新 閣 に 晩 遊 す 」 や 「 開 宝 寺 福 聖 禅 院 の 新 閣 に 駕 幸 す 」 と あ る こ と か ら 、 開 宝 寺 内 に あ る 禅 院 で あ る と 思 わ れ る 。 智 満 に つ い て は 未 詳 で あ る が 、『 長 編 』 巻 二 二 八 、 熙 寧 四 年 ( 一 〇 七 一 ) の 項 に 、「 僧 志 満 、 福 聖 院 の 主 と 為 す べ き こ と を 定 奪 す 、 以 て 聞 せ よ 」( 中 華 書 局 本 、 第 一 六 冊 、 五 五 四 五 頁 ) と あ る 。 本 項 の 智 満 と 同 一 人 物 で あ ろ う 。 〈 吉 田 〉 〔 〕 〈 原 文 〉 自 熙 寧 八 年 至 十 年 、 祠 部 共 給 過 天 下 僧 尼 、 道 士 、 女 冠 度 牒 二 万 六 千 八 百 六 十 五 道 、 八 年 九 千 一 百 八 道 、 九 年 八 千 三 百 六 十 四 道 、 十 年 九 千 三 百 九 十 三 道 。 撥 放 計 九 百 五 十 九 道 、 同 天 節 一 百 五 十 五 道 、 太 皇 太 后 生 辰 一 百 道 、 皇 太 后 生 辰 五 十 道 、 皇 后 生 辰 二 十 五 道 、 韓 、 汾 (邠カ) 、 冀 三 大 長 公 主 、 陳 、 独 (蜀カ) 、 衛 三 長 公 主 生 日 各 十 五 道 。 及 遇 同 天 節 、 並 各 得 五 道 。
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 五二 係 御 前 奏 乞 随 同 天 節 例 差 降 出 徳 妃 、 賢 妃 生 日 各 三 道 、 魏 国 安 人 ・ 保 祐 夫 人 張 氏 生 日 三 道 、 婕 妤 生 日 二 道 、 淑 寿 、 延 禧 両 公 主 生 日 各 四 道 、 婉 儀 、 才 人 、 充 容 生 日 各 二 道 、 皇 子 永 国 公 生 日 各 四 道 。 同 天 節 在 京 并 外 州 軍 寺 院 ・ 宮 観 、 于 内 東 門 、 進 奉 功 徳 疏 、 迴 賜 計 二 百 七 十 八 道 。 〈 訓 読 〉 熙 寧 八 年 よ り 十 年 に 至 り 、 祠 部 は 共 あわ せ て 天 下 の 僧 尼 、 道 士 、 女 冠 に 度 牒 二 万 六 千 八 百 六 十 五 道 を 給 過 す 、 八 年 に 九 千 一 百 八 道 、 九 年 に 八 千 三 百 六 十 四 道 、 十 年 に 九 千 三 百 九 十 三 道 な り 。 撥 放 は 計 九 百 五 十 九 道 な り 、 同 天 節 に 一 百 五 十 五 道 、 太 皇 太 后 の 生 辰 に 一 百 道 、 皇 太 后 の 生 辰 に 五 十 道 、 皇 后 の 生 辰 に 二 十 五 道 、 韓 、 邠 、 冀 の 三 大 長 公 主 と 陳 、 蜀 、 衛 の 三 長 公 主 の 生 日 に 各 お の 十 五 道 な り 。 同 天 節 に 遇 う に 及 び て は 、 並 べ て 各 お の 五 道 を 得 た り 。 係 は 御 前 に 奏 し 同 天 節 の 例 に 随 い 差 降 し て 、 徳 妃 、 賢 妃 の 生 日 に は 各 お の 三 道 、 魏 国 安 あん 人 じん 、 保 祐 夫 人 張 氏 の 生 日 に は 三 道 、 婕 しよ 妤 うよ の 生 日 に は 二 道 、 淑 寿 、 延 禧 の 両 公 主 の 生 日 に は 各 お の 四 道 、 婉 儀 、 才 人 、 充 容 の 生 日 に は 各 お の 二 道 、 皇 子 、 永 国 公 の 生 日 に は 各 お の 四 道 を 出 だ さ ん こ と を 乞 う 。 同 天 節 に は 在 京 并 び に 外 州 軍 の 寺 院 ・ 宮 観 は 内 東 門 に お い て 功 徳 疏 を 進 奉 す る に 迴 賜 す る こ と 計 二 百 七 十 八 道 な り 。 〈 解 説 〉 本 項 は 、 煕 寧 八 年 ( 一 〇 七 五 ) よ り 一 〇 年 ( 一 〇 七 七 ) に い た り 、 朝 廷 が 僧 尼 、 道 士 、 女 冠 に 対 し て 出 し た 度 牒 の 総 数 と そ の 内 訳 を 克 明 に 記 し た も の で あ る 。 す な わ ち 、 八 年 に は 九 一 〇 八 道 を 、 九 年 に は 八 三 六 四 道 を 、 十 年 に は 九 三 九 三 道 を 、 そ れ ぞ れ 出 し た 結 果 、 ト ー タ ル で 二 六 八 六 五 道 に 上 っ た と い う 。 熙 寧 八 年 ( 一 〇 七 五 ) 九 一 〇 八 道 熙 寧 九 年 ( 一 〇 七 六 ) 八 三 六 四 道 熙 寧 一 〇 年 ( 一 〇 七 七 ) 九 三 九 三 道 計 二 六 八 六 五 道 さ ら に そ れ ら と 別 に 、「 撥 放 」 つ ま り 恩 度 で 、 計 九 五 九 道 の 度 牒 が 出 さ れ た こ と も 述 べ ら れ 、 内 訳 は 筆 者 の 想 定 が 大 過 な き も の と し て 計 算 す る と 、 三 年 間 で 九 三 二 道 と な っ て 、 数 字 に 違 い が 出 る 。 そ の 理 由 が 那 辺 に あ る の か 当 面 未 詳 で あ り 、 今 は こ れ 以 上 に は 論 じ な い 。 同 天 節 毎 に 付 加 同 天 節 ( 神 宗 誕 生 日 ) 一 五 五 道 太 皇 太 后 一 〇 〇 道 + 五 道 × 三 年 皇 太 后 五 〇 道 + 五 道 × 三 年
『宋会要』道釈部訓注(七) (永井) 五三 皇 后 二 五 道 + 五 道 × 三 年 韓 、 邠 ひん 、 冀 の 三 大 長 公 主 と 陳 、 蜀 、 衛 の 三 長 公 主 一 五 道 × 六 名 + 五 道 × 六 名 × 三 年 徳 妃 、 賢 妃 三 道 × 二 名 × 三 年 魏 国 安 人 ・ 保 祐 夫 人 張 氏 三 道 × 三 年 婕 妤 二 道 × 三 年 淑 寿 、 延 禧 の 両 公 主 四 道 × 二 名 × 三 年 婉 儀 、 才 人 、 充 容 二 道 × 三 名 × 三 年 皇 子 、 永 国 公 四 道 × 二 名 × 三 年 各 寺 観 の 功 徳 疏 に 対 す る 迴 賜 ( 三 年 で ) 二 七 八 道 合 計 九 三 二 道 と こ ろ で 本 項 で い う 太 皇 太 后 と は 、 仁 宗 皇 帝 趙 禎 の 妻 で 慈 聖 光 献 曹 皇 后 ( 一 〇 一 六 ― 一 〇 七 九 ) の こ と で あ る 。 曹 氏 は 、 真 定 霊 寿 の 人 で 、 北 宋 初 期 の 名 臣 で あ る 曹 彬 の 孫 娘 に あ た る 。 明 道 二 年 ( 一 〇 三 三 ) に 後 宮 に 入 り 、 景 祐 元 年 ( 一 〇 三 四 ) 九 月 、 皇 后 に 立 て ら れ た 。 治 平 四 年 ( 一 〇 六 七 ) に 神 宗 皇 帝 趙 頊 が 即 位 す る と 、 太 皇 太 后 と な っ た 。 ま た 、 本 項 で い う 皇 太 后 と は 、 英 宗 皇 帝 趙 曙 の 妻 で 宣 仁 聖 烈 高 皇 后 ( 一 〇 三 二 ― 一 〇 九 三 ) の こ と で あ る 。 高 氏 は 、 亳 州 蒙 城 の 人 で 、 神 宗 皇 帝 の 実 母 で あ る 。 神 宗 が 即 位 す る と 、 皇 太 后 と な っ た 。 さ ら に 皇 后 と は 、 神 宗 の 妻 で 欽 聖 憲 粛 向 皇 后 ( 一 〇 四 六 ― 一 一 一 一 ) の こ と で あ る 。 向 氏 は 、 懐 州 河 内 の 人 で 、 治 平 三 年 ( 一 〇 六 六 ) に 、 時 の 穎 王 趙 頊 に 嫁 い だ 。 や が て 夫 が 即 位 す る と 、 皇 后 に 立 て ら れ た 。 一 方 、 韓 、 邠 、 冀 の 三 大 長 公 主 と 陳 、 蜀 、 衛 の 三 長 公 主 の 六 人 に つ い て は 、 ま ず 三 大 長 公 主 と 呼 ば れ る 韓 、 邠 、 冀 の 三 人 は 、 い ず れ も 仁 宗 の 娘 で 、 神 宗 の 姨 に 当 た る 人 物 で あ る 。 こ の う ち 、 韓 は 仁 宗 の 一 〇 女 、 邠 ( 一 〇 六 七 封 ) は 仁 宗 の 一 一 女 、 冀 ( 一 〇 六 七 封 ) は 仁 宗 の 一 二 女 に そ れ ぞ れ 推 定 さ れ る 。 ま た 、 三 長 公 主 と 呼 ば れ る 陳 、 蜀 、 衛 の 三 人 は 、 い ず れ も 英 宗 の 娘 で 、 神 宗 の 姊 妹 に 当 た る 人 物 で あ る 。 こ の う ち 、 陳 ( 一 〇 六 七 封 、 ? ― 一 〇 八 五 ) は 英 宗 の 長 女 、 蜀 ( 一 〇 六 八 封 、 一 〇 五 一 ― 一 〇 八 〇 ) は そ の 次 女 、 衛 ( ? ― 一 一 二 三 ) は そ の 三 女 に そ れ ぞ れ 推 定 さ れ る 。 ま た 、 淑 寿 、 延 禧 の 両 公 主 の 二 人 に つ い て は 、 淑 寿 ( ? ― 一 一 一 一 ) は 神 宗 の 三 女 、 延 禧 は わ ず か 一 二 歳 で な く な っ た 神 宗 の 長 女 ( 母 、 向 皇 后 ) と 、 そ れ ぞ れ 推 定 さ れ る 。 な お 、 こ こ に 言 及 さ れ た 皇 帝 の 妃 嬪 を 検 討 す る に 当 た っ て は 、 神 宗 時 代 の 内 命 婦 制 度 を 『 天 聖 内 命 婦 品 職 令 』・ 『 宋 会 要 』「 后 妃 」 四 ― 一 や 『 宋 史 』「 職 官 志 」 3 に よ っ て 概 観 し て お く 必 要 が あ ろ う 。 こ れ を 表 記 す れ ば 次 の 如 く で あ る 。