神学における実践の問題――Helmut Gollwitzerの 神学概念――
著者 佐々木 勝彦
雑誌名 東北学院大学論集. 教会と神学
号 17
ページ 143‑166
発行年 1986‑03‑01
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024370/
神学における実践の問題
‑HelmutGollwitzerの神学概念一
佐々木勝彦
われわれは先に「信従の神学」')においてH.ゴルウィツァーの「山上 の説教と二王国説(二世界統治説)」塾)に言及したが,本論文では彼の論 文の背後にある「神学概念」とその内容をあきらかにしてみ、たい。そ の手がかりとしてわれわればB2ヵ忽i""gZi"So""""/. 1978.3)の内 容を検討することにする。 というのはこの書物は1975年の夏学期に行 われたHゴルウィツァーの最終講義をまとめたものであり, 彼自身 の「認識の道」4)をよく示しているからである。また彼は, 自分の神学 はK.バルトとMルターを師としていると語って鴬り51, その意味で バルト神学との比較も興味ある主題であるが, 本論では「連帯への解 放』の内容をあきらかにすることに限定して考察して詮たい・ この書 物ば次の12章と「あとがき」から構成されている。第1章「神学の自 由と束縛」,第2章「現代神学の問題としての理論と実践」,第3草「聖 書」,第4章「イエス・キリスト」, 第5章「神」,第6章「教会への問 いとしての教会の歴史」.第7章「キリスト教とユダヤ教」.第8章「神 の国」,第9章「恵みと感謝」, 第10章「この世の戦いの中で弟子であ ること」.第11章「弟子であることの課題一法と平和」,第12章「信 じることと祈ること」。
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I
第1章「神学の自由と束縛」は.神学は一方で自由で批判的な, 真 理を追い求める問いだけに義務を負う学問でありつつ, しかも同時に いかにして教会の信仰と宣教に仕える学問でありうるかを問題として いる。キリスト教神学は教会の実践的要求から生まれ, そして実践の 理論として再び教会に影響を及ぼす。 この教会ば一つの普遍的な使信 によって呼び出され, 召し集められた共同体である。教会はその使信 について共同の了解をもちながら.その使信にふさわしく共に生き,さ らにそれを他の人々に伝達しようとする。神学はこの教会の自己批判 であり,教会の機能である。神学は批判という仕方で教会に奉仕する。
神学は,それが教会とともに啓示に支えられ,啓示に自らを開くとき,
はじめて正しい奉仕と批判になる。神学は,証言者は被証言者を常に 新たに指し示す責任があるという意味で, どちらかと言えば問う学問 である。神学は自己自身とその方法, またこれまでの神学がもたらし た成果や定式などを常に新たに問いかえす。 このように神学は一般に 学問と言われるものの要求をすばらしい仕方でみたしている。K・バル トの『教会教義学j も正しい問いのための一つの独特で偉大な作品で あり,正しい,開かれた神学的問いの一つの方法論である6)bそれば,
神学を「仮説」の学問として理解するやり方の範例である。神学ば範 例的(exemplarisch)に問う学問であり, またそのようなものとして だけ教会に正しく仕えることができる。神学の従順さは, それゆえ口 まねしたり,テキストをただ朗読したりすることにあるのではなく,全 く自立的に問いかけることにある。 しかしこの問いかけは既に言われ
神学における実践の洲鼬 3
たこと.つまり想起させかつ約束する証言をめざしている。「いっさい の正しい神認識は服従からうまれる」(カルヴァン)7)。神学は聖書に束 縛されるとともに, あらかじめ自らのうちに何も持たないがゆえに自 由である。神学の独自性はこの束縛と自由の特別な弁証法にある。神 学は謙虚でなければならない。何人をも自己自身に縛りつけてはなら ない。神学ば人々が自ら使信を聞いて, 自ら問うようになることに奉 仕するのである。
教会は聖書の使信によって生きているのであって,神学に基づいて 生きているのではない。信仰の実践が理論を要請するのであり, その 理論ばさらに新たな実践へとむかう。 したがって神学は実践と実践の 間の理論である(第2章)。聖書をみて詮ると.原始キリスト教団にお いてもたしかにいくつかの機能の分化が認められる。 しかし神学Iまま だ分業以前のやり方でなされていた。 ところがヘレニストの知識人た ちが教会に入ってくるようになると, その後の教会史が示している遡 り, 事情は変わってくる。理論上の仕事一異端的グループを排除し たり.聖職者層のもつ権力を正当化したりする仕事 はⅢ 知識のあ る一部の人 々にまかせられるようになった。 このことはM.ルターの 批判にもかかわらず. プロテスタント教会においても本質的にば何一 つ変らなかった。牧師が説教を独占し、大学の神学部が神学を支配す るようになった結果神学ば各個教会の実践. 日常生活の実践から切 り離されてしまった。この近代的な専門化の道ば特権化の道でもある。
しかし, もしも教会が「ユダヤ人とギリシア人,主人と僕.男と女」 (ガ ラテヤ3:28)といった従属関係を止揚する場であると‑1‑るならば, そ こではすべての成員が共│可で物事を決定し,共に生きようとするばず
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である。神学が教会の機能であるとするならば,神学者たちの階級的 に性格づけられた思考,感情,仕事の仕方といったものも克服されな ければならない。神学もわれわれの特権社会の機構にあまりにも深く とりこまれてしまっている。だからこそ,第三世界の教会は「解放の 神学」や「黒人神学」を必要とするのである。それらは, ヨーロッハ 神学の方法論も「文化的」に局限されたものであることを暴露するば かりでなく、 その神学的思考が特権的な状況によって「社会的」に限 定されていることを問題としている。そこで出されている理論上の疑 問は, スラム, 人間の困窮,反植民地的解放運動といった現実から提 起されている。彼らは周囲の困窮に対する無感覚,宗教的彼岸への逃 避,既成の諸権力との妥協といった危険に対抗する力と理論を必要と
している。職業的神学者たちは, これらのことを共に考えながら生き ようとする人々であり, 彼らの担っている役割ば, もはや支配する役 割ではなく,むしろ相談役としての役割である。彼らが批判している ように, ヨーロッパの神学も相対的なものである。 したがって大学に 関係する神学者は,他のさまざまな形で生じている神学的問いや考察 にもっと興味をもたなければならない。浮浪者の収容施設とか,外国 人労働者とドイツ人の生活共同体とかの中で.あるいは障害者の間で,
あるいは組合の労働闘争の中で形づくられる神学とは, いったいどの ようなものになるのであろうか。また今日の学問的神学は学際的な方 法をとらざるをえない。歴史に関する諸学,哲学,人間に関する諸学 などとの対話をこれまで以上に必要としている。 さらに神学部内部の 問題としては,神学が「実践的学問」 (scientiapractica)であること を再確認しなければならない。つまり実践神学を神学的作業全体の中
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神学における実践の間蝿 5
心に置いて考えなければならない。「キリスト教神学は, 自らを正しく 理解するならば, その核心において実践神学である。それゆえ実践神 学は神学的専門機関の中核であって, 他の神学諸科は補助学としてこ
れに仕える仕事をするのである。」8)
キリスト教信仰が自らの根拠を聖書にもつことは, 当然のこととさ れてきた。 しかし今日の歴史学的・批評的研究のめざましい発展に目 をむけるとき, この前提はこれまで通り保持しうるのであろうか。H ゴルヴィツァーによれば, たしかにそれらの研究によって従来の考え 方に問題のあることが明らかにされた。だがその反面聖書のもつ自 由も明らかになった。逐語霊感説は,聖書が神の言として統一性をも つ書物であることを保証しようとするあまり,神への人格的な信頼を 説く前に,教会的職務や聖書の著者たちへの服従を要求してしまった。
ところがこれこそが,十戒の第一戒において禁止されていることであ る。 このような仕方で聖書を神の言と同一視することはできない。そ れゆえ近代の聖書研究が逐語霊感説を破壊してしまったことば,喜ぶ べきことである。歴史学的研究によってわれわれは,聖書があたかも
−−つの図君館のように種々雑多な内容を含んで、、ることを知った。 し かしわれわればこのことに驚L,てはならない。むしろここから新たな 問いが始まるのである。それは, この多様性を通じて語っている声,そ の多様性をまとめあげている力とは何かとの問いである。ユダヤ教とキ リスト教において,聖書が重要な位置をしめるにいたったその過程を とZAて鍬ると,誰かが「これば天から降ってきた本であるから, これに 従え」と命じたわけではない。むしろK.バルトが言っているように.
聖書自身がみずからの重みですべての人々の尺度となった。正典化の
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過程は,聖書におさめられた諸文書が信仰共同体にそれほどの強い印 象を与えたという事実を示している。だが証言されているお方は,最も 真正と思われたこれらの証言のどれとも同一でばない。その拓方ばす べての証言を凌駕している。証言されたお方の言は, これらの証言を
「通して」聞かれるのであって, この意味で神の言と人間の言葉は区別 されなければならない。しかしそれにもかかわらず聖書記者たちは,彼 らが証言しているお方の出来事と直接にむきあっているがゆえに,特 別な地位にあると言うことができる。彼らば「第一級の証人」として,
「第二級の証人」であるわれわれと区別される。 したがってその出来事 が問題となるときは, 「第一級の証人たち」が最初にしかもいつも新た に問いの対象となる。聖書に聞く者は, まず「第一級の証人たち」の 歴史性を知らなければならない。そしてこの歴史性を真剣に考えると き,われわれはその証言を現代に伝達することができるようになる。つ まり彼らがあの当時,彼らの時代と彼らの場所で,彼らの聴衆にむかっ て語らなければならなかったその内容を理解しはじめるとき,われわ れは聖書解釈の預言者的吹元,)に到達する。M.ルターが語ったよう に,聖書の中のすべての言葉がわれわれにとって同じように重要で,拘 束的なわけではない。われわれは「キリストを前面に押し出してくる 力とその秘密」を問いつつ,聖書を読まなければならない。 この時に なされる判断は, さしあたりわれわれ自身の責任である。 したがって 教会ばわれわれに, 否定的なことをも発言する自由を与えなければな らない。 しかも同時にわれわれは,教会に次のような自由を与えなけ ればならない。つまりそれは,われわれの結論をただちに取り入れて それを義務づけたりしないという自由,むしろその批判されたテキス
神学における実践の問馳 7
卜をそのまま残す自由である。われわれがテキストに付け加える疑問 符はすべて,それについての最終的な審判では決してないからである。
そのテキストは.他の人々に違った仕方で語りかけるかもしれないか らである。聖書と神の言が同一ではないことによって, かえって神の 自由と人間の自由が共に確保されるのである。バルメン宣言第一項に あるように.聖耆が神の言なのではなく , 「聖書においてわれわれに証
しされてL、るキリストが,…・神の唯一の言なのである。」'0)
このキリストは,仮現説の主張とは違って,人間的な運命をもった 現実の一人の人間である。彼は歴史学的研究の対象となるお方であり,
一人のユダヤ人である。 イエスがユダヤ人であることは単なる歴史的 偶然ではない。彼はユダヤ人の歴史がもつ特殊性一契約,選び,律 法,預言,国士, メシア的期待なと'一と本質的厳関連の中に立って L,る。 イエスが全人類に対して占めている中心的な位置は, 彼がイス ラエルに対して占めている中心的な位置から出てくる。 したがってユ ダヤ民族が全人類に対してもっている中心的機能に言及することなし に, イエスの中心的位置につL、て語ることばできない。 ところが, こ のイエスについて歴史学的に確実とされて↓、るわれわれの知識はわず かであり, ハルナックがすでに予想していたように「キリストの生涯 なるものは叙述しえない。j'')しかしこれはイエスの地上の生活ば無 意味であるということではなく, イエスはいかなる仕方でも自己を客 体化しないということである。たしかに彼ば地上に生きた人間として 歴史学的研究の正当な対象となりうるが,終末論的な語り手として,ま た神の言としてば客体化されえなし、のである。いかなる人間も彼と中 立的な仕方で出会うことはできない。彼がだれであり,彼の出現によっ
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て何が起こったのかを認識するのは,服従する信仰だけである。 この 服従に生きる人にのみ,真理は逆説を通して自らを表わすようになる。
新約聖書の著者たちはイエスの中に, 彼と自己を同‑化しながら苦し む神を見た。 この神、と無縁な苦しみといつたものば, もばや何一つ存 在しない。その苦し象の中に神を探し求める人ぱ. この地上の恐ろし い苦悩の場こそが神の働く場であることを知るようになる。原始キリ スト教はイエスの運命を「われわれのために」 と表現した。 この新し い見方は復活者の顕現から, そして聖霊が注がれたということから始 まった。それは殺されたイエスを.神がすべての人間や時代に対して 生きて働く者として用いようとされたことから始まった。神学の諸々 の理論一例えばカンタベリーのアンセルムスの満足説,M.ルター の義認論K.バルトの和解論一は, 「われわれのために」というこ とをさらに分りやすく1−るための補助理論である。 「われわれのため に」とは, イエスがわれわれすべてのものの味方になっていることを 葱味している。彼はそのことを欲しており, また彼にばそのことが可 能である。彼の死は神の死であり,われわれの味方となるイエスは.わ れわれの味方となる神である。 イエスの出来事は最終決定的なもので ある。それば, われわれがそれに対して何一つ付け加える必要のない 行為である。神は自己をイエスと同一化しつつ, この世の「身代りと なった。」神御自身が人間にむかって和解の道を切り開かれた。それば
「われわれの外で,われわれのために」起こった出来事である。この出来 事が「われわれのため」であることが分るのば.最初の証人たちの場 合と同様に, 聖霊の働きの結果である。 この意味で「われわれのため に」ということば,常になおわれわれの理解の可能性を越えている。そ
神学における実践の問題 9
れは思考の課題として告知されているのである。
第5章は「神」について論じている。聖詳の神は自ら語りかける神 であり、沈黙する神ではない。 クセノファーネス(BC.570‑475ca)に よれば,語ったり語りかけられたりすることは神にふさわしくない。と いうのは, そのようなことは時間の中で起こる事柄であり 神の無時 間的不変性にふさわしくないからである。神とは,われわれの声によっ ては到達しえない, また触れえない存在そのものであり, いつきいの 出来事の根源である。ところが聖書の詩人はこれに反対して. 「われら の神ば来て, もだされない」 (詩篇50:3) と言う。 イスラエルは人生 を.語りかけられて答えること, また語りかけて答えを受けとること として理解した。新約聖書はこの神を, イエスの生・死・復活のゆえ に三位一体的に語らざるをえなかった。すなわち.創造に先立つ創造 者について. また自らを被造物と同一化しつつ創造の中に入ってゆく 創造者について. さらに古い生にとどまってL、る人間に新しい認識と 新しい生命を与える創造者・について語らざるをえなかった。 これらす べての出来事においてわれわれが出会うのは, ひとりの同一の神であ る。三位一体論は, ユダヤ教の偏仰にとってきわめて噸要な神の単一 性を破壊するどころか, かえって確保しようとする。それは, と'んな ことがあってもわれわれの味方になろうとする神は, 彼と並んで, ま たその背後に, いかなる他の神をももたないようなひとりのお方であ ることを明示している。 この神は人間に御自身とのかかわりあいを保 証し, そして御自身の目的のために人間を用いる。神ば, 人間の意志 にむけられた意志,御自身を出来事として押し出して来る意志であり,
歴史の中で人間に遭遇する意志である。 この意志のゆえに歴史ば目的
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論的になり, 人間ぱこの目的に単にかかわりあうだけでなく, そのた めに共に働く者とされる。神は生けるお方であり, 「罪のゆるし」を与 えるお方である。赦すということば,世界のいか斑る力も取り除きえ ないものを売り払い,取り除くことである。それゆえにそれはただ神 にのみ属する可能性である。 しかも神と人間との間の交わりは,単に 赦しの中にでばなく ,共に働くように召すこと.つまり神の国のため に働くように召すことの中に,その目標をもっているのである。
三位一体論が示す通り, 聖書の神は孤独な存在ではなくⅢ愛のゆえ に人間とむきあっているお方である。神と人間の間にあるのは存在の 同一性でばなく,愛の同‑‑‑性であり, そこで止揚されるべきものば両 者の間にある分裂一人間の罪とそれに対する神の怒り−であ る。 したがって信仰は, 神秘主義といっしょになって神に合一するこ とに憧れたり, 神と人間がむきあっていることを廃棄しようとしたり はしなL,。人間の喜びは.神のようになることにではなく,神の子. ま た神の契約相手であることにある。被造物の栄光は創造者の下に立っ ていることにある。神と人間のこの向き合いは, 人間に対する永遠の 肯定と並外れた喫求を意味する。 イエス・キリストの名によるこの救 いの業は. 「使信」という手段を通してわれわれに伝えられる。 この使 信の本来の主体ば伝えられる対象それ自身であり. その主体が自らの 力と霊によって使信と使者たちをいわば道具として用L、るのである。
使信の媒体となるものは, その語りかけに対して中立的な姿勢を保ち 続けることができない。救いの使信はわれわれにとって「攻'嘘」であ る。それば,わたしの現実と同様に社会の現実を全体的にしかも根源 的に変革しようとする攻蠣である。救いの使信を聞くとき,わたしば
神'誰における実践の問題 11
一つの戦場となる。わたしはこの戦いをなんとか停戦状態にしようと 試みる。そしてこの妥協を正当化するために様々の理論を考え出す。そ れゆえわれわれは, 福音の攻螺性に含まれているこの革命的性格に仕 えているのか,それともその弱体化に仕えているのか, 「それがすべて のキリスト教神学のための試金石となる。」!z)個人が義人であると│司 時に罪人であるように,教会も聖なる教会であると同時に罪ある教会 である。バルメン宣言第三項にある通り,教会は福音の攻嬢性を宣教 におし、て担っているだけでなく、 その秩序においても担ってL、る。教 会は福音の使信から生じた。 したがって教会は, 自らの自己同一性を その起源つまり聖書によってのみ確保することができる。 この聖書が 証しするお方ば,われわれを前方へと呼び出すお方でもあり, 聖書を 承認することば, 「既に」と「いまだ。 ・ ・ ・ない」という二重の御業に自 らをあけわたすことである。 このことを念頭におくとき,教会史ぱま さに「教会への問い」 (第6章)となる。教会史ばまるで史的唯物論を 証明しているかのようである。 というのは神の国の使信は, 次のよう
な信念に上手にとりかこまれてしまっているからである。つまり,地 上の物質には限りがあり, それゆえ良い暮しはただ他者を撰牲にする ことによってのみ可能になる, との信念である。 しかしここで意気消 沈してはならなL、。教会史ば,それを通して起源が−どれほど薄め られてしまっているとしても−現に存在することを証ししている からである。失望以外の何ものをも与えない教会史にもかかわらず,ひ るまずに新たにまたやりなおす可能性は, ただ復活したお方に対する 信頼からだけ出てくる。教会ば,古い生を攻雌する救い主御自身によっ てひきおこされる出来事であり, われわれの組織活動は,教会がこの
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意味での本当の出来事となることに仕えているにすぎないのである。
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今日「キリスト教とユダヤ教」 (第7章)という問題を取り扱う際に 大切なのは, それをキリスト教とユダヤ教との対話の中で行うことで ある。ユダヤ教は自らを, 旧約聖書のイスラエルと同一で, それと連 続している民族であると理解している。ユダヤ教は,第一義的にはユ ダヤ民族(血縁共同体)である。 これに対して教会は, 第一義的にば 信仰告白共同体であって,血縁共同体ではない。 しかしだからと言っ て,今やユダヤ人は, 彼らの選びと約束, またそれとともに彼らの救 済史的意義を失ってしまった.との結論をひき出すことはできない。ユ ダヤ民族はイエス・キリストの福音によってその現存在を失うわけで もなければ,諸民族の中の民族として, その民族のやり方で神の証人 であるべきだとの使命を失うわけでもない。 しかしでは. この不思議 な並存関係は何を意味するのであろうか。H.ゴルヴィツァーは次のよ うに考えている。 イスラエルに対する神の啓示と, イエスにおいてイ スラエルとすべての民のために与えられた神の啓示は.共に必要不可 欠なものである。 イスラエルも教会も. 両者を独占したり, あるL、は どちらか一方を放棄したりすることはできない。イエスの出来事は.第 一義的にばユダヤ人にかかわっているからである。それは彼らがやが て新しい宗教に移るためではなく, イエスの呼びかけに対して「先生,
あなた{ま神の子です。あなたはイスラエルの王です」(ヨ′、ネl :49)と 答えるようになるためである。 イスラエルと教会はおの猫のその独自 性を保ちつつ,解きがたく結びつけられている。旧約聖番の諸々の約
神学における実践の問題 13
束も,共同体の生活を神の意志に従って実現すべしとの委託も,共に 教会のものでもある。 したがって旧約聖書を新約聖書の下に位置づけ たり, シユライエルマッ,、−やハルナックが行ったように, 旧約聖書 からの分離を主張したりしてばならない。 「選び」の問題も, それをも ち出してイスラエルと教会の対立の根拠とすることはできない。選び が本当に何を意味するのかは.人間イエスの選びにおいて示されてい る。すなわち彼は裁くためではなく,救うために選ばれたのであり,彼 は他の人々を解放するために自らをささげたのである。選びは決して 自己目的的なものではない。選びば選ばれた者を目的としてばいない。
それは選ばれなかった者たちを目的とし,彼らを助ける課題を負って いるのである。
第8章は. キリスト教信仰の核心とは何かを問題としている。アウ グスティヌスは, マタイによる福音書第5章8節の約束に従って「見 神」を, アウクスブルク信仰告白は「罪の赦し」を,敬度主義は「回 心と新生」をそれぞれあげている。 これらの見解はいずれもたしかに 聖書の中にみられる傾向に基づいている。 しかしこれらの見解は聖書 を包括的に理解しているとは言いがたい。聖書の主題は「神の国」で あり. これこそがキリスト教信仰の核心である。神の国はまず神の支 配行動を意味する。 この神の支配は常に将来的であると同時に現在的 であり,歴史はこの神の支配にむかって動いている。歴史は創造史で ある。世界は, 今は疎外され,非本来的なものとなって矛盾の中にあ るが. しかし創造者の真実のゆえに, その本来性を回復し,真の創造 としての同一性をもつようになる日にむかって進んでいる。神の支配 とは, 人間のためにその意志を貫徹する神の業を意味し, そればわれ
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われを真に生きる者にしようとして永遠からやってくる肯定である。
神はわれわれ時間的な存在に味方する永遠なるお方であって,われわ れに敵対するお方ではない。創造は恵とZAであり,この創造はさらにもっ
と大きな栄光へとむかっている。神の意志はわれわれの生の成就をめ ざしている。 しかしこの生の成就とは一体何であろうか。良い真実な 生とは何であろうか。われわれは社会の中に通用している価値観に規 定されて,他者に先んじて特権をせしめることを良い生活と思いこん でいるのではないだろうか。われわれの場合, 良い生活を盤得するに はどうしても他者を犠牲にしなければならない。聖言はこれを罪と呼 ぶ。罪ばわれわれ自身の過ちであると同時に.われわれ巻支配してい る過ちである。マルクス流に言うならば, 社会は人間の産巍出したも のであると同時に, 人間を支配する力である。 したがって社会の諸秩 序の変革だけでは不十分である。社会の全体意志の側にも,個人の意 志の側にも変革が起こらなければならなL、。永遠の肯定を聞き, それ を受け入れるとき. この解放が起こるのである。神の意志は人間に味 方する意志であり. この意志が目標とする良い生活は,神との交わり
と人間との交わりである。それば不安や自己配慮からの解放であり.さ らに自然との関係におけるし、やしでもある。良い生活I丈, 神が人類の ために御自身を放棄されたことに応ずる生活である(マタイ16:25, 7:
12, ローマ12:9‑21)。古い時代の真唯中で.神の国を既に先取りして 生きる生活である。 これは政治的責任を負うことを意味する。 もしも 人間の自由と平等と兄弟愛のために役立つ秩序をめざしてL、る人々な ら,彼らがたとえキリス者であろうとなかろうと, キリスト者ば彼ら と協力しようとするであろう。われわれは罪と死の下にありながら,聖
神学における実践の問題 15
書の解放する力によってより良い生活を追求する。われわれは,神の 国という絶対的ユートピアをわれわれの政治プログラムとすることは できない。 しかしより正しくより自由な社会, したがって階級のない 社会という 「具体的なユートヒ・ア」13)を政治的プログラムとすること はできる。これに近づくことがキリスト者の政治的行動の規準である。
神の国は終末論的信仰の対象であり,われわれの運動ばそれにむかう たえざる接近である。 イエス・キリストの死と復活を通して,すでに 和解の歴史が始まっており. 人類ばその救いの完成にむかって進んで いるのである。
「悔い改めよ。天国は近づいた」 (マタイ4 : 17) とのイエスの言葉 は. H.ゴルヴィツァーによれば「恵みと感謝」 (第9章)に要約するこ とができる。マルクスば恵みに関する教会の教理を厳しく批判して.労 働による人間の自己創造を主張したが, この自立的自由と他律的恩恵 の対立という命題ば,教会の恩寵論そのものの中にすでにあったもの である。エラスムスとMルター,ペラギウスとアウグスティヌスばこ の問題をめぐって対立,論争した。両者の間に{ま互いに和解の余地が ないのであろうか。H・ゴルウィツアーは, この対立という袋小路から の出口を指し示した人物が.他ならぬK.バルトであると考えてL,る。
「彼の神学は,神の恵盈の神学と人間の自由の神学が一つになったもの である。」141K.バルトは宗教改革的な恩寵論に立脚しつつ,人間の自由 を, 正しく理解された「恵みの影響様式」'5)と考えている。恵皐のな い地平つまり罪は,恵象のない地平から患 攻のある地平へと全面的に 移行する中ではじめて明らかになる。奴隷生活の恐しさは自由を体験 する中であらわになる。 イエスにおける神の自己犠牲が根源的に認識
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されればされるほど,人間の罪の実態が暴露されてくる。恵みとは,遠 い神が近い神になることである。恵巍は神と人間の相互連帯を保証す る。惠象はまさに「逆らうことのできなL、恵み」であるがゆえに,感 謝の応答をひきおこす。感謝は,生に備わっている受動性と能動性の
「弁証法的」統一と類比的な関係にある出来事である。つまり生は一方 においてわれわれによって受動的に受けとめられる贈り物であり, そ の根拠ばわれわれの外にある。他方において生はわれわれ自身が能動 的に生きることそのものである。一息呼吸するたびごとに.われわれ は自らの生の遂行者である。われわれはこのように各瞬間ごとに.全 く受容しながら同時に全く能動的に生きている。 しかも後者ばただ前 者を前提としてのゑ可能となる。神御自身が感謝の生を呼び塒こす。わ れわれは以前から神に感謝できるほどに自由なわけではない。そうで はなく, 神の働きの中でわれわれば感謝することができるぼどに, 自 由になるのである。われわれの自由は選択の自由ではなく,逆らうこ とができないような仕方で自発的に湧きおこってくる応答である。そ れは神によって与えられた.感謝への自由である。ハイデルベルク信仰 問答において行われているように,感謝の後に十戒が続くのが正しい 順序である。律法は.契約に基づいて与えられる生の指針である。キ リスト教倫理は「神の惠 承の絶大な富」 (エペソ2:7)に対する感謝,
つまりわれわれの生が具体的にどのようなかたちをとるのかを問う学 問である。その感謝は感情や志向の魂ならず行為となってあらわれる。
この行為ば,感謝を呼びさます主体をめざすがゆえに 愛の業となる。
恵みへの感謝ば,神の救いの業にまきこまれながらその業に協力する ところに成立する。
神学における実践の問題 17
「恵魏は生きられることを欲している。もしそうでないとしたら,そ れは恵Z入でばない」16)とKバルトは言った。無罪判決は同時に任命で ある。それは神によっての鍬実行に移されている事柄に参加すること である。 このように直接法と命令法が互いに分ちがたく結びつけられ ている事態を,新約聖書は「霊」 という言葉で表現している。戒めと は, インマヌエルの出来事によって開かれた新た江可能性を描き出し たものである。 この可能性もまた信仰の対象である。キリスト者に厳 ることば,彼岸的世界に移しかえられることではない。 「キリスト者」
は,交わり.恵翠,赦し,そして派遣を意味する称号である。したがっ てキリスト者になることは,此岸的生の変革にまきこまれることであ る。古い生から呼び出されて.新たにその占い生へと送りこまれるこ とである。そこに新しい生と古い生の戦いが起こる。 この戦いをひき 起こす「矛盾は根源的(radikal)であるが, 全面的(total)で朧ない。」17}
古い生はその創造者に対する反抗にもかかわらず,すべてが誤ってL、
るわけではない。われわれのまわりの世界は神に見捨てられていると か, 全面的に神にさからっているとか単純に言うことはできない。古 い生といえども. 今なお神によって肯定され,保持されている。 この 世はたしかに力インの世であるが, そればなお救いと変革を目ざして 保持されており.新しい生はこの神の業に参加すべ<招かれている。古 い世の根本原則は自己保持である。そこでば人間自身が人間の最大の 敵である。キリスト者の課題ば, この力インの世が全Ini的に破滅して しまわないように,共に生きることを促進することにある。 この枇の 知恵がうぷ出した法や習慣, 国際法などを発展させることにある。 し かしながら法は, この世が自己を保持しようとして用いるその暴)Jを
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自らの手段とせざるをえない。 しかもこの法は,暴力によって保持さ れる不平等を温存する機能をもっている。 また現実に暴力を行使する ことができるようになるには,人は権力を必要とする。政治闘争によっ てばじめて獲得されるはずの権力を必要とする。 ここにキリスト者の 大きなジレンマがある。 この世の保持のために協力することは,権力 をめく・る政治闘争にかかわることに他ならないからである。 したがっ て次のような見解が出てくるのも当然である。つまりキリスト者の行 う政治的参加はどこまでも間接的なものであるべきだ, との主張であ る。それは影響力のある人格的な生活とか,職業活動,教育,医療,芸 術などを通しての証しであるべきだ, というのである。だがこのよう な考えは,H.ゴルヴィヅァーによれば,神の保持の業に対する協力を 拒否することである。間接的な参加の形をとることがあるとすれば,そ れば個人的な召命とか才能,あるいは何か外的条件によるのであって,
直接的な参加は原則的に否定されるべきだからではない。われわれは 常に,既に政治の中にいるのである。われわれはキリスト者として,政 治に参与するかどうかを慎重に考えるなどという選択の余地をもって いない。問題となるのは, どのような動機から. またどのような目標 と方向をもって, そしてどちらの側に立って参与するのかということ だけである。キリスト者の傾向,理論,行動連帯といった事柄を測 る尺度は「共に生きること」にある。 この尺度は動的なものであって,
互いに敵対する生を解体しようとする。 「共に生きる生」とば 他者の 犠牲において生きることがますます少なくなる生, そしていよいよ共 同的になる生である。それは神の国と出会っている生である。神の国 に無ける生は, 互いに敵対することのない, 愛に錐づく完全な共同生
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神学における実践の問離 19
活なのである(ローマ14: 17. ミカ4 :3以下Ⅲセガリヤ3: 10を参照)。
「共に生きる生」は常により良い法を求める(第11章)。 より良い 法とは, より多くの自由.つまり共同体にとって害とならず, また他 者の生を損なわずに可能となる限りで, できるだけ多くの個人の自由 を保証する法である。法は「各人に各人のものを」配分するだけでな く,各人が自由に動くことができる領域の境界を設定する。 この意味 で命令と服従しかないところには, 法も自由も存在しない。 もちろん 法が与えることができるのは常に外的自由であって, 内的自由でばな い。外的自由の限界は「共に生きること」である。他の人々の自由が わたしの自由の限界である。資本主義社会においてこの自由の承認は.
一見「各人に各人のものを」という法のもう一つの課題と結びついて いるように思われる。 しかしマルクスば, それが見せかけにすぎない ことを暴露した。例えば法は各人に,生産手段を取得して,それによっ て生産する権利を与えているが. 人は必ずしもそのために必要な資本 をもっていないからである。労働条件および生産に関する決定からも 閉め出されているからである。キリスト者の政治的課題が「等しい権 利をもって共に生きること」にあるとすれば,彼は全生産が全社会の ために行われるシステムを作ろうとするはずである。国民主権の思想 もキリスト教が肯定すべきものである。 しかし国民主権つまり真の民 主制は,すでに手もとにあるようなものではない。われわれの世紀で は, まだどこの国にも真の民主制は存在しない。すべての人による共 同決定と共同行動は終末論的課題なのである。
信じるとは, このわたしを選んで派遣するお方に信頼することであ る。 したがって信仰は. 人が自分のためにもつような. あるいはその
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他のイデオロギーに対して防衛するためにもつような世界観ではな い。 また信仰は内省によって自分の中に確認しうるようなものでもな い。そればむしろ自分から目をそむけ,約束をもって派遣する他者へ と目をむけることである。信仰ば, パウル・アルト′、ウスが言ったよ うに, 「わたしは自分が信じているかどうかを知らない。だが,だれを 信じているかを知っている」と告白する。信仰は人格と人格の間の出 来事, 信頼であり, ある状態やいわゆる信心ではない。人ば信仰を持 つのではなく. 日ごとに新たに約束へと手をのばすのである。 このよ うに信仰はそれ自体行為であり, つかむことである。その中に他のす べての良い業が根拠をもつような−つの良い業である。 この第一の業 ば決して内面性の業でばない。他の行為ば,時間的にまた心理学的に この業の次に悶題となるのではない。むしろこの第一の業は.われわ れの外的な行為の中で行われる。われわれはイエスの委託に常に新た に着手する中で, イエスの約束の方へと手をのばすのである〔ルカ5:
111, ヨハネ5: 1‑9)。そして信仰が一つの行為,すなわち遣わされた 者が遣わすお方の約束へと手をのばすことであるとすれば, それはま さに祈ることに他ならない。なぜなら祈りは言葉によってなす応答だ からである。 ヨブの問いさえも信仰の問いである。 というのは, 彼の 問いはその訴えるような激しさにもかかわらず. ただ彼の神にのゑむ けられているからである。彼は彼の神以外の何者にも答えてもらいた
いとは願ってL、ないからである。同じことは, イエスのケッセマネの
問いと十字架上の絶望の叫びにもあてはまる。神を問いつめたり, 神 と争ったりすることそれ自体が不信仰なのではない。自らの問L、を,自 らを遣わすお方にむけ, その約束を聞こうとしているかと.うかが問題
神学におlナる実践の問題 21
なのである。神は意志をもつお方であることを知るとき, このお方と むきあうとき. そこに祈願,感謝の祈り, 崇拝がうまれる。 これらは 解きがたく一体をなしており, ただ共になされるときにの 承意味をも つ。われわれは契約の中にあって新しい生を約束されており,期待さ れている。神に愛されてい為この世の救いのために戦うことを期待さ れている。どうしたらわれわれは, この世の力に巻き込まれながらも,
それに抗して立ち上りうるのか。そのための一般的な処方笈といつた ものば何一つ与えられていない。 日ごとの実践の中で, イエスの弟子 たちや見る目をもった同時代人たちとの対話の中で. そのための様々 の道を探さなければならない。われわれに残されている一瞬一瞬の時 ば, 「心をつくし,精神をつくしⅢ力をつくし,思いをつくして」川いら れることを求めている。それ城恵みの時である。われわれを待ってい るのは復活の神であり,「あなたがたはどうして死んでよかろうか」(エ ゼキエル18:31, 33:18, エレミヤ27:13)と語りかけ‑るお方である。
このお方によっての<象,絶滅に瀕した世界ぱなおも希望をもつことが できるのである。
IⅡ
われわれの課題はH.ゴルヴィツァーの神学概念をあきらかにする ことにある。われわれはこの課題を遂行するために『連帯への解放」の 内容を検討してきたが.今や,彼は基本的にはK. /<ルトの立場を継承 してL,ると言うことができる。例えば,彼はW.バネンベルクのK.バ ルト批判'81を次のように逆に批判している。W.パネンベルク砿K. ,<
ルトの否だけを聞きⅢKバルl、はまるで論理や分りやすさ, また証明
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といったルールを全く無視しているかのように考えている。彼は『教 会教義学」の競初の一ページですっかりおじ気づいてしまっている。だ がKバルトはその書物の多くの巻で. H・ショルツ(HeinrichSholz) の主張する学問的要請を大部分完全に満たしている。K.バルトは.正 常な思惟の求める要請を真剣に受けとめている。ただ彼は,啓示をも 人間理性の枠内に閉じこめなければならないとの要請を拒否している だけなのである'9)。
H...ルヴィツァーは神学を教会の自己批半│」と機能としてとらえて いる。彼はそれを実践と実践の間の理論として考えている。 しかしこ のようなものであるはずの神学が, 歴史的には専門家の業となり,特 権的な思考の枠組の中で行われる作業となってしまった。今や神学は この束縛から解放されなければならない。神学は実践的学問であるこ とを再確認しなければならない。 したがって彼によれば,実践神学こ そが神学の中核であり.他の諸学科ば補助学である。 この主張は一一見 K.バルトと対立するようであるが,その内容はすでに検討してきたよ
うに極めてバルト的である。H.ゴルヴィツァーの聖書論,キリスト論,
神論のいずれをとってぶても.W.パネンベルクの神学などと比較し て遮るならば, 内容的にはK.バルトと変らない。ただ彼の場合にぱ,
救いの使信のもつ「攻'曜性」が大いに強調されている。われわればこ の福音の要求に仕えようとしているのかと'うかを.厳しく問いかけて いる。しかしこの点もK.バルトと対立すると言うよりは,むしろバル ト神学をより実践的に展開してL、ると言うべきであろう。H.ゴルヴィ ツァーはK.バルトの神学を,神の恵 承の神学と人間の自由の神学が 一つになったものと言っているが, これはHゴルヴィツァー自身の
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神学における実践の問題 23
関心がどこにあるのかを示している。神の恵患ば感謝の応答をひきお こす。恵み、は生きられることを欲している。 もしそうでなければ, そ れは恵みではない。直接法ば命令法と分ちがたく結びついている。H.
.'ルヴィツァーにおいて両者は, 「政治的神学」「政治的説教」「政治的 倫理」をうZ農出す(│壬と.に緊密に結びつけられている。キリスト者はす でに政治的状況の中にいるのであり, 彼ばそこで「共に生きること」を 課題として与えられている。われわれば人間の自由, しかも「共にあ ることへの自由」へと召されている。H・ゴルヴィツァーの強調点はこ こにある。われわれは恵 承のゆえに「連帯性へと解放」されなければ ならないのである20}o (1985.1.23.記)
三t
ロム,.
拙論「付従の神'γ鷹」 I教会と神学』第16号 東北学院大学文経法' 磯会,
1985. 25 74嵐。
I{elmut G()llwitzer. ,,Bergpredigt und ZweiReiche‑Lehre! │ , A「"(・ノリi'""Ⅳ"(/B(リ却蝿digr.hrsg・vDnjurgenM()ltmann.M1]nchen:
Chr,KaiserVerlag, 1981、
H Gollwitzer. &/)'?""lgZI"SD//"万〃/,EinfuhrungindieEvan‑
gelisCheTheDlogie. MUnChel1 :Chr,KaiSerVerlag, 1978.−uド
B踏S、と略 池。
BzS"9、
BzS‑、 9f‑
後述参照。
カルウアン『キリスト敷網要(1)」新数出版社1964年, 84H( I : 6: 2ノ
を参昭H、 h 、C
BzS、 , 48、
Cf.,BzS. , 62.
Cf.*BzS,63. 附富栄・Iバルパン宣言研究1日本基督教団出版崎, 1975 年, 17頁以1、 を参照。
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2)
3)
I J J
︲ 1 1 I I J I I J
4 芦 ひ 6 二 1
8)
9)
10ノ
165‑
なお.'ルヴ部ツァーはSolaScripturaについて次のように考えてい る。つまりそれは人間のなす絶対的要求からの解放であり.,それはもと もと支配牌に対する批判的な自由を保証するという恵義をもってい た。 したがって「侭仰の桑」ば, 「万人祭司制」と結びっL、て,教会を 民主化する愈義をもってし、たのである。
BzS., 7L BzS., 1O6‑
BzS, 153.
BzS., 159、
BzS., 159、
K‑Barth. D"/rノノr""c/肥DDgノ"α"片. II/2 Zurich:Evz‑Verlag, 1959, 776
BzS., 182.
拙論「宗教史の神学」「教会と神学j第12号,東北学院大学文経法学会,
1981,1‑59頁を参照。
Cf.、BzS.、33f.
なおH・ゴルヴィッァーが学際的な方法を用いて社会分析を行ってL,
ることはⅢ BzS.においても明らかである。
︑ I ノ
︑ I ノ
︑ I ノ
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︑ I 〆
︑ I ノ
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