れる)は厳密には錯誤知であることに言及する. [独自相は別のもののあり方で]判断されたとおりにはないので,第二の理解(別のもの のあり方による理解)は錯誤知(bhrānti)と認められる.【反論】別のもののあり方によっ て理解するなら[錯誤知である].そして,錯誤知が正しい認識手段であるわけがない. 【答】期待を裏切らないから,錯誤知であっても正しい認識手段である.別様に理解して も[期待を裏切らないことが]実際に経験される.(PV III 55–56c)5) 実在を実在とは全く別のあり方である共通相で理解する認識6)は,まさしく「非 x を x と把握する認識」(atasmiṃs tadgrahaḥ)であり,錯誤知と言わざるをえない. しかし,認識者がそれに基づいて実在に対して行動を起こしても,それは期待を 裏切らないから正しい認識手段とされる.周知のようにダルマキールティは PV II 等において正しい認識手段を「欺かない認識」(avisaṃvādi jñānam)7)と規定するが, それがここでも確認される.たとえ錯誤知であっても,実用性・有用性の観点か ら正しい認識手段とみなされるのである. そして彼はこれに続けて「宝石の光に対する宝石の認識」の例に言及する. 宝石の光とランプの光に対して[それぞれ]宝石と把握して走り寄る二人の[その認識 はいずれも]錯誤知であることに違いはないが,[対象が]効果をもたらすことに関して は違いがある.それと同様に,推理とそれに似て非なるものとは[両方とも]対象物を 如実に理解するものではないが,[前者は後者とは異なり,対象が]効果をもたらすこと が後続することで正しい認識手段であることが確定される.(PV III 57–58) 宝石の光を宝石と誤認してそれに対して行動を起こした場合には宝石が獲得され るが,ランプの光を宝石と誤認して行動した場合には宝石は獲得されない.両方 とも錯誤知ではあるが,前者は欺かないのに対し,後者は欺く.これと同様に, 推理も擬似推理も両方錯誤知ではあるが,推理は欺かないので正しい認識手段で ある,というのがダルマキールティの意図であろう8). ここで問題となるのは,この「宝石の光に対する宝石の認識」は正しい認識手 段なのか,ということである.もし正しい認識手段なら,それは知覚なのか,そ れとも推理なのか.あるいは,正しい認識手段ではないものなのか.これらに対 してダルマキールティがどのように考えていたかははっきりしない9).
3.シャーキャブッディ説
シャーキャブッディは「宝石の光に対する宝石の 認識」の例を以下のように説明する. [敵者の論証式には,]宝石の光に対する宝石の認識によって不確定[の過失]がある. 宝石の光に対する宝石の認識(稲 見) (139)宝石の光に対する宝石の認識
稲 見 正 浩
1.はじめに
正しい認識の「正しい」とはどのようなことなのか.もし欺かな いことであるなら,欺かない認識はそれがたとえ錯誤知であっても全て正しい認 識なのか.ダルマキールティ(7 世紀頃)は,推理は実在を他のあり方で把握する 点で錯誤知であるが,それにもとづいて行動した際に欺かれないので正しい認識 手段であると述べている.このことについて,彼が「宝石の光に対する宝石の認 識」の例をあげることはよく知られている.宝石の光を宝石と認識するのは錯誤 知ではあるが,その認識にもとづいて行動した際に宝石が獲得される,と彼は説 明する.この例で彼は何を意図しているのか.この宝石の認識は正しい認識なの か.正しい認識なら知覚なのか,推理なのか.これらの問題に関しては,ダルマ キールティ自身が十分な説明を提示していないこともあり,後継者達の間で種々 の解釈がなされた.本稿では,ダルマキールティが説くこの例を彼の後継者であ る,シャーキャブッディ(7~8 世紀頃),ダルモーッタラ(8 世紀頃),プラジュ ニャーカラグプタ(8 世紀頃)がどのように理解するか検討する1).2.ダルマキールティが説く「宝石の光に対する宝石の認識」
ダルマキー ルティは PV III で二種の認識対象を説明する際に,存在して何かしらの効果をも たらしうるものは独自相(svalakṣaṇa)だけであり,それしか認識対象はないと述 べる.認識者にとって何も効果をもたらさない共通相(sāmānyalakṣaṇa)は吟味検 討しても意味がない2).ディグナーガが独自相と共通相の二種の認識対象を述べ たのは,独自相という唯一の認識対象に対して,それ自身のあり方(svarūpa)と 別のもののあり方(pararūpa)とで理解するという,二つの理解の仕方があるから である,と説明する3).この「別のもののあり方」とは推理知という概念知に顕 現している共通相が意図されていると思われる4). 興味深いことに,これに続けてダルマキールティは,この二つの認識の仕方の うち独自相を別のもののあり方を介して理解する認識(推理が意図されていると思わ (138) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月れる)は厳密には錯誤知であることに言及する. [独自相は別のもののあり方で]判断されたとおりにはないので,第二の理解(別のもの のあり方による理解)は錯誤知(bhrānti)と認められる.【反論】別のもののあり方によっ て理解するなら[錯誤知である].そして,錯誤知が正しい認識手段であるわけがない. 【答】期待を裏切らないから,錯誤知であっても正しい認識手段である.別様に理解して も[期待を裏切らないことが]実際に経験される.(PV III 55–56c)5) 実在を実在とは全く別のあり方である共通相で理解する認識6)は,まさしく「非 x を x と把握する認識」(atasmiṃs tadgrahaḥ)であり,錯誤知と言わざるをえない. しかし,認識者がそれに基づいて実在に対して行動を起こしても,それは期待を 裏切らないから正しい認識手段とされる.周知のようにダルマキールティは PV II 等において正しい認識手段を「欺かない認識」(avisaṃvādi jñānam)7)と規定するが, それがここでも確認される.たとえ錯誤知であっても,実用性・有用性の観点か ら正しい認識手段とみなされるのである. そして彼はこれに続けて「宝石の光に対する宝石の認識」の例に言及する. 宝石の光とランプの光に対して[それぞれ]宝石と把握して走り寄る二人の[その認識 はいずれも]錯誤知であることに違いはないが,[対象が]効果をもたらすことに関して は違いがある.それと同様に,推理とそれに似て非なるものとは[両方とも]対象物を 如実に理解するものではないが,[前者は後者とは異なり,対象が]効果をもたらすこと が後続することで正しい認識手段であることが確定される.(PV III 57–58) 宝石の光を宝石と誤認してそれに対して行動を起こした場合には宝石が獲得され るが,ランプの光を宝石と誤認して行動した場合には宝石は獲得されない.両方 とも錯誤知ではあるが,前者は欺かないのに対し,後者は欺く.これと同様に, 推理も擬似推理も両方錯誤知ではあるが,推理は欺かないので正しい認識手段で ある,というのがダルマキールティの意図であろう8). ここで問題となるのは,この「宝石の光に対する宝石の認識」は正しい認識手 段なのか,ということである.もし正しい認識手段なら,それは知覚なのか,そ れとも推理なのか.あるいは,正しい認識手段ではないものなのか.これらに対 してダルマキールティがどのように考えていたかははっきりしない9).
3.シャーキャブッディ説
シャーキャブッディは「宝石の光に対する宝石の 認識」の例を以下のように説明する. [敵者の論証式には,]宝石の光に対する宝石の認識によって不確定[の過失]がある.宝石の光に対する宝石の認識
稲 見 正 浩
1.はじめに
正しい認識の「正しい」とはどのようなことなのか.もし欺かな いことであるなら,欺かない認識はそれがたとえ錯誤知であっても全て正しい認 識なのか.ダルマキールティ(7 世紀頃)は,推理は実在を他のあり方で把握する 点で錯誤知であるが,それにもとづいて行動した際に欺かれないので正しい認識 手段であると述べている.このことについて,彼が「宝石の光に対する宝石の認 識」の例をあげることはよく知られている.宝石の光を宝石と認識するのは錯誤 知ではあるが,その認識にもとづいて行動した際に宝石が獲得される,と彼は説 明する.この例で彼は何を意図しているのか.この宝石の認識は正しい認識なの か.正しい認識なら知覚なのか,推理なのか.これらの問題に関しては,ダルマ キールティ自身が十分な説明を提示していないこともあり,後継者達の間で種々 の解釈がなされた.本稿では,ダルマキールティが説くこの例を彼の後継者であ る,シャーキャブッディ(7~8 世紀頃),ダルモーッタラ(8 世紀頃),プラジュ ニャーカラグプタ(8 世紀頃)がどのように理解するか検討する1).2.ダルマキールティが説く「宝石の光に対する宝石の認識」
ダルマキー ルティは PV III で二種の認識対象を説明する際に,存在して何かしらの効果をも たらしうるものは独自相(svalakṣaṇa)だけであり,それしか認識対象はないと述 べる.認識者にとって何も効果をもたらさない共通相(sāmānyalakṣaṇa)は吟味検 討しても意味がない2).ディグナーガが独自相と共通相の二種の認識対象を述べ たのは,独自相という唯一の認識対象に対して,それ自身のあり方(svarūpa)と 別のもののあり方(pararūpa)とで理解するという,二つの理解の仕方があるから である,と説明する3).この「別のもののあり方」とは推理知という概念知に顕 現している共通相が意図されていると思われる4). 興味深いことに,これに続けてダルマキールティは,この二つの認識の仕方の うち独自相を別のもののあり方を介して理解する認識(推理が意図されていると思わ4.ダルモーッタラ説
一方,ダルモーッタラは以下のように述べる. 宝石の光とランプの光という二つの対象に対して,[それぞれ]宝石と認識して走り寄る 二人の人の[認識はいずれも],錯誤知,すなわち,欺くもの,であることに違いはな い.宝石の光に対する宝石の認識とランプの光に対する宝石の認識,その二つは,錯誤 知,すなわち,欺くもの,であることに違いはない.両方とも判断された対象は獲得さ れないからである.すなわち,ランプの光を宝石と知る認識は,効果をもたらすことが できるものの獲得の原因では全くない.それと同様に,宝石の光を宝石と把握する[認 識]もちがう.しかし,この[後者の]場合,それ自身の対象を獲得させることはない けれども,間接的に宝石と結びついているから,他の獲得させる認識の原因であるので, [間接的に]宝石の獲得の原因にはなる.…それと同様に,推理と擬似推理は対象物のと おりのものではないが,すなわち,対象物をもたない所取の姿に関して錯誤しているが, 推理の方は効果をもたらすことが随伴するので正しい認識手段である.…17)(PVinṬDh, D173a5–b3, P202b8–203a7) ダルモーッタラは「宝石の光に対する宝石の認識」を「ランプの光に対する宝石 の認識」と同様に,欺く認識,すなわち,正しい認識手段ではないものとみなし ている.しかし,宝石の光の場合はランプの光の場合とは異なり,宝石の認識は 間接的に宝石という実在と結びついているので,間接的に対象獲得の原因にはな ると説明する.一方,推理は擬似推理と同様に錯誤知であるが,擬似推理とは異 なり,直接的に対象を獲得させるので,正しい認識手段とされる.宝石の光とラ ンプの光に対する宝石の認識は両方とも正しい認識手段ではないが対象獲得に関 しては違いがあるという点で,対象獲得に関して違いがある推理と擬似推理の例 として述べられる,というのである. そして興味深いことに,ダルモーッタラはこれを推理と解するシャーキャブッ ディ説とおぼしき異説に言及し,これを批判する18).まず,1)宝石の光に対す る宝石の認識が推理であるなら目下の主題である推理の例にはならないと,喩例 としての不適当性を指摘する.すべての推理が欺くものであることの論証に対し ても,欺かないことの論証に対しても,一部の推理が周知であり,他の推理が周 知でないということはない19).また,2)遍充関係の決定がない以上この宝石の 認識は推理でないとも指摘する.宝石の光は宝石の結果ではあるが,それを宝石 と誤認する場合は「宝石の光である」という決定がない.したがって,遍充関係 にあるものの決定がないので,推理ではありえない20).さらに,3)場所に関す る錯誤があるのでこれは正しい認識手段でないとも言及する.宝石の光に対する 宝石の認識によって認識された宝石はドアの鍵穴にあるものであって,獲得され 宝石の光に対する宝石の認識(稲 見) (141) 宝石の光に対する宝石の認識は錯誤知であるが,宝石という実在に関して欺くことはな いことで正しい認識手段であるからである.その場合,「欺かないから正しい認識手段で ある」という正しい認識手段の共通の特質が,宝石の光に対する宝石の認識には存在す る.したがって,それは正しい認識手段である.(PVṬŚ, D166b7–167a1, P205b6–7) ここでシャーキャブッディは明らかに「宝石の光に対する宝石の認識」を欺かな い正しい認識手段とみなしている10).ではいかなる認識手段なのか.彼はこれに 続けてこの宝石の認識に関連した議論を展開している11). [宝石の光に対する宝石の認識は知覚と推理とは]別の[第三の]正しい認識手段になっ てしまうことはない.他ならぬ推理に含まれるからである.すなわち,推理の共通の特 質は「直接知られないもの(parokṣa)に対する,他のものとの関係にもとづく理解が推 理である」というものである.この[宝石の光に対する宝石の認識の]場合も,宝石に 宝石の光が関係していること,すわなちそれの結果であること,にもとづいて,その宝 石の光に対する宝石の誤認が生じる.したがって,結果という証因(kāryaliṅga)から生 じるものであるから,推理に他ならない.(PVṬŚ, D167a3–5, P206a2–4)12) シャーキャブッディは宝石の光に対する宝石の認識を,結果という証因による推 理とみなしている.すなわち,宝石の光は宝石の結果であり,その因果関係にも とづいた推理に他ならない,と彼は理解する. しかしこれに対してはシャーキャブッディ自身によっても幾つか反論が想定さ れている.まず,1)宝石の光を宝石と誤認する場合,たとえ最終的に宝石が獲得 されるにしてもその宝石は宝石の光の場所にはないので場所に関する錯誤がある, という指摘である.これに対しては彼は「煙から火が推理される時,人は煙に対 してではなく,それとは別の場所の火に対して行動を起こす.すべての推理には 場所に関する錯誤がある」と答える13).また,2)遍充関係の想起がないので推 理ではない,という問題も指摘される.これに対しては「必然関係の想起がない としても,それで推理でないことにはならない.人によってはその想起なしにも 迅速に煙から火を理解することがあり,それも推理とみなしえる」と述べる14). さらに,3)この認識が推理だとすると,どうしてそれが推理が正しい認識である ことの例として提示されるのか,という問題も指摘される.これに関しては「推 理は錯誤知ではないと考える人がいるので,錯誤知として周知であるこの宝石の 認識が例示されたのである」と述べている15). 以上のようにシャーキャブッディは宝石の光に対する宝石の認識を正しい認識 手段とみなしている.彼の理解ではそれは結果にもとづく推理に他ならない16). (140) 宝石の光に対する宝石の認識(稲 見)4.ダルモーッタラ説
一方,ダルモーッタラは以下のように述べる. 宝石の光とランプの光という二つの対象に対して,[それぞれ]宝石と認識して走り寄る 二人の人の[認識はいずれも],錯誤知,すなわち,欺くもの,であることに違いはな い.宝石の光に対する宝石の認識とランプの光に対する宝石の認識,その二つは,錯誤 知,すなわち,欺くもの,であることに違いはない.両方とも判断された対象は獲得さ れないからである.すなわち,ランプの光を宝石と知る認識は,効果をもたらすことが できるものの獲得の原因では全くない.それと同様に,宝石の光を宝石と把握する[認 識]もちがう.しかし,この[後者の]場合,それ自身の対象を獲得させることはない けれども,間接的に宝石と結びついているから,他の獲得させる認識の原因であるので, [間接的に]宝石の獲得の原因にはなる.…それと同様に,推理と擬似推理は対象物のと おりのものではないが,すなわち,対象物をもたない所取の姿に関して錯誤しているが, 推理の方は効果をもたらすことが随伴するので正しい認識手段である.…17)(PVinṬDh, D173a5–b3, P202b8–203a7) ダルモーッタラは「宝石の光に対する宝石の認識」を「ランプの光に対する宝石 の認識」と同様に,欺く認識,すなわち,正しい認識手段ではないものとみなし ている.しかし,宝石の光の場合はランプの光の場合とは異なり,宝石の認識は 間接的に宝石という実在と結びついているので,間接的に対象獲得の原因にはな ると説明する.一方,推理は擬似推理と同様に錯誤知であるが,擬似推理とは異 なり,直接的に対象を獲得させるので,正しい認識手段とされる.宝石の光とラ ンプの光に対する宝石の認識は両方とも正しい認識手段ではないが対象獲得に関 しては違いがあるという点で,対象獲得に関して違いがある推理と擬似推理の例 として述べられる,というのである. そして興味深いことに,ダルモーッタラはこれを推理と解するシャーキャブッ ディ説とおぼしき異説に言及し,これを批判する18).まず,1)宝石の光に対す る宝石の認識が推理であるなら目下の主題である推理の例にはならないと,喩例 としての不適当性を指摘する.すべての推理が欺くものであることの論証に対し ても,欺かないことの論証に対しても,一部の推理が周知であり,他の推理が周 知でないということはない19).また,2)遍充関係の決定がない以上この宝石の 認識は推理でないとも指摘する.宝石の光は宝石の結果ではあるが,それを宝石 と誤認する場合は「宝石の光である」という決定がない.したがって,遍充関係 にあるものの決定がないので,推理ではありえない20).さらに,3)場所に関す る錯誤があるのでこれは正しい認識手段でないとも言及する.宝石の光に対する 宝石の認識によって認識された宝石はドアの鍵穴にあるものであって,獲得され 宝石の光に対する宝石の認識は錯誤知であるが,宝石という実在に関して欺くことはな いことで正しい認識手段であるからである.その場合,「欺かないから正しい認識手段で ある」という正しい認識手段の共通の特質が,宝石の光に対する宝石の認識には存在す る.したがって,それは正しい認識手段である.(PVṬŚ, D166b7–167a1, P205b6–7) ここでシャーキャブッディは明らかに「宝石の光に対する宝石の認識」を欺かな い正しい認識手段とみなしている10).ではいかなる認識手段なのか.彼はこれに 続けてこの宝石の認識に関連した議論を展開している11). [宝石の光に対する宝石の認識は知覚と推理とは]別の[第三の]正しい認識手段になっ てしまうことはない.他ならぬ推理に含まれるからである.すなわち,推理の共通の特 質は「直接知られないもの(parokṣa)に対する,他のものとの関係にもとづく理解が推 理である」というものである.この[宝石の光に対する宝石の認識の]場合も,宝石に 宝石の光が関係していること,すわなちそれの結果であること,にもとづいて,その宝 石の光に対する宝石の誤認が生じる.したがって,結果という証因(kāryaliṅga)から生 じるものであるから,推理に他ならない.(PVṬŚ, D167a3–5, P206a2–4)12) シャーキャブッディは宝石の光に対する宝石の認識を,結果という証因による推 理とみなしている.すなわち,宝石の光は宝石の結果であり,その因果関係にも とづいた推理に他ならない,と彼は理解する. しかしこれに対してはシャーキャブッディ自身によっても幾つか反論が想定さ れている.まず,1)宝石の光を宝石と誤認する場合,たとえ最終的に宝石が獲得 されるにしてもその宝石は宝石の光の場所にはないので場所に関する錯誤がある, という指摘である.これに対しては彼は「煙から火が推理される時,人は煙に対 してではなく,それとは別の場所の火に対して行動を起こす.すべての推理には 場所に関する錯誤がある」と答える13).また,2)遍充関係の想起がないので推 理ではない,という問題も指摘される.これに対しては「必然関係の想起がない としても,それで推理でないことにはならない.人によってはその想起なしにも 迅速に煙から火を理解することがあり,それも推理とみなしえる」と述べる14). さらに,3)この認識が推理だとすると,どうしてそれが推理が正しい認識である ことの例として提示されるのか,という問題も指摘される.これに関しては「推 理は錯誤知ではないと考える人がいるので,錯誤知として周知であるこの宝石の 認識が例示されたのである」と述べている15). 以上のようにシャーキャブッディは宝石の光に対する宝石の認識を正しい認識 手段とみなしている.彼の理解ではそれは結果にもとづく推理に他ならない16).周知であるこの宝石の認識によって例示されるのである29). 知覚や推理も錯誤知であるなら,では非錯誤知とはいかなる認識であろうか. それは自己認識に他ならない30).認識は認識自身に対しては概念知を必要とせ ず,認識手段となる.しかしこの自己認識の場合は世間的行動(vyavahāra)は起こ らない.外界対象物(artha)・差異(bheda)といったものは成立せず,ただ不二 (advaita)だけがのこる31).これは真の意味での非錯誤知である.人に行動を発動 させて欺かないという意味での正しい認識手段とは別次元のものである32). また,場所に関する錯誤についてもプラジュニャーカラグプタは言及する. [しかし,]それ(宝石の認識)には,あるものには場所に関する錯誤(deśabhrānti)があ り,あるものにはものそのものに関する錯誤(svarūpabhrānti)があり,あるものにはそ の両方があり,あるものにはその両方がない.[すなわち,]宝石の光に対する宝石の認 識には場所に関する錯誤が,宝石に対する[宝石の認識には]獲得対象そのものに関す る錯誤がある.[宝石]一般の推理にはその両方の錯誤がある.自己認識には錯誤はその 両方ともない.以上のような違いがある.(PVA 221, 1–3) たしかに宝石の光に対する宝石の認識には場所に関する錯誤がある.しかし,自 己認識以外の認識は知覚にせよ,推理にせよ全て何らかの錯誤があるのである. プラジュニャーカラグプタはこの宝石の認識を推理とするシャーキャブッディ 説を拒否してはいない33).彼は,この認識を正しい認識手段ではないものとみな し知覚や推理とは区別するような理解,すなわちダルモーッタラ説を一貫して排 撃しているようである.また,感官知等の知覚を非錯誤知として錯誤知である推 理と差別化するような理解を強く批判し,世間的行動を引き起こす知覚と推理は いずれも錯誤知であり,この宝石の認識と同じであると主張するのである34).
6.おわりに
以下のことが明らかになった.ダルマキールティは推理が本来, 錯誤知であっても欺かないものであることを説明するために,宝石の認識の例を 提示したと思われる.これに対し,シャーキャブッディはこの宝石の認識を推理 とみなした.一方,ダルモーッタラはあくまでもこの宝石の認識は欺く認識であ るとして,シャーキャブッディ説を強く批判した.プラジュニャーカラグプタは 感官知でさえも本来錯誤知であってただ欺かないことだけから世間では正しい認 識とされると主張し,この宝石の認識を知覚と理解した35). 1)この宝石の認識の例については,Dreyfus 1997: 316–319; McCrea 2011: 319–328 などに も取り上げられているが,インド仏教論理学派のテクストの原典解読による総合的な研 宝石の光に対する宝石の認識(稲 見) (143) る室内の宝石とは異なるから,正しい認識手段ではないと指摘する21). 以上のように,ダルモーッタラは宝石の光に対する宝石の認識を正しい認識手 段ではないものと理解する.同様の理解は他に,カマラシーラ(8 世紀),カルナ カゴーミン(8~9 世紀頃)などにも見られる22).5.プラジュニャーカラグプタ説
以上のようなシャーキャブッディやダル モーッタラなどの説を受けて,プラジュニャーカラグプタはさらに新たな説を提 示する.彼は宝石の光に対する宝石の認識を知覚(pratyakṣa)と理解する. 【反論】それ(宝石の光に対する宝石の知)はいかなる認識手段なのか.【答】それは知 覚という認識手段である.【反論】[知覚であるなら]それがどうして錯誤したものなの か.【答】それ(宝石の光に対する宝石の知)は全く[錯誤した]そのままで[知覚とい う認識手段である].欺かないことによって正しい認識手段となるのであって,錯誤知か そうでないかは無用である.(PVA 220, 4–5)23) 「このような錯誤知がどうして知覚なのか.知覚は非錯誤知ではないのか」という 問いに対しては,正しい認識手段としての非錯誤性とは欺かないことに他ならな いと答える.プラジュニャーカラグプタによれば,その妥当性は欺かないことに よって保証され,それ以外に「非錯誤」という別の基準は不要である24). ではこの宝石の認識が錯誤知とされるのはなぜなのか.錯誤知であるが正しい 認識手段であるというのはどのような意味なのか.ダルマキールティは先に見た ように「独自相を別のあり方で理解する第二の理解は錯誤知であるが,期待を裏 切らないから正しい認識手段である」と述べているが,まず,プラジュニャーカ ラグプタはこの「第二の理解」には推理だけではなく,知覚も含まれると理解す る25).ダルマキールティが「認識対象は独自相ただ一つである」と述べるとき, その独自相とは何らかの効用をもたらすもの,すなわち,その認識によって行動 して獲得される実在のことを意図している.しかし,知覚もこの未来時の獲得対 象である実在を直接知ることはできない.知覚は共通相を対象とする概念知を介 して,その未来の対象に対して行動を起こさせる26).これは推理の場合と全く同 じである.この点では知覚も錯誤知である.期待を裏切らないこと,すなわち欺 かないこと27)によって正しい認識手段(非錯誤知)となる.このような観点から, プラジュニャーカラグプタは知覚も推理と全く同等のものとみなしている28). そして彼によれば,この錯誤知であるが欺かない認識(知覚と推理)の例とし て,宝石の光に対する宝石の認識が例として述べられた,ということになる.す なわち,知覚と推理が錯誤知であるとは世間では周知でないので,錯誤知として (142) 宝石の光に対する宝石の認識(稲 見)周知であるこの宝石の認識によって例示されるのである29). 知覚や推理も錯誤知であるなら,では非錯誤知とはいかなる認識であろうか. それは自己認識に他ならない30).認識は認識自身に対しては概念知を必要とせ ず,認識手段となる.しかしこの自己認識の場合は世間的行動(vyavahāra)は起こ らない.外界対象物(artha)・差異(bheda)といったものは成立せず,ただ不二 (advaita)だけがのこる31).これは真の意味での非錯誤知である.人に行動を発動 させて欺かないという意味での正しい認識手段とは別次元のものである32). また,場所に関する錯誤についてもプラジュニャーカラグプタは言及する. [しかし,]それ(宝石の認識)には,あるものには場所に関する錯誤(deśabhrānti)があ り,あるものにはものそのものに関する錯誤(svarūpabhrānti)があり,あるものにはそ の両方があり,あるものにはその両方がない.[すなわち,]宝石の光に対する宝石の認 識には場所に関する錯誤が,宝石に対する[宝石の認識には]獲得対象そのものに関す る錯誤がある.[宝石]一般の推理にはその両方の錯誤がある.自己認識には錯誤はその 両方ともない.以上のような違いがある.(PVA 221, 1–3) たしかに宝石の光に対する宝石の認識には場所に関する錯誤がある.しかし,自 己認識以外の認識は知覚にせよ,推理にせよ全て何らかの錯誤があるのである. プラジュニャーカラグプタはこの宝石の認識を推理とするシャーキャブッディ 説を拒否してはいない33).彼は,この認識を正しい認識手段ではないものとみな し知覚や推理とは区別するような理解,すなわちダルモーッタラ説を一貫して排 撃しているようである.また,感官知等の知覚を非錯誤知として錯誤知である推 理と差別化するような理解を強く批判し,世間的行動を引き起こす知覚と推理は いずれも錯誤知であり,この宝石の認識と同じであると主張するのである34).
6.おわりに
以下のことが明らかになった.ダルマキールティは推理が本来, 錯誤知であっても欺かないものであることを説明するために,宝石の認識の例を 提示したと思われる.これに対し,シャーキャブッディはこの宝石の認識を推理 とみなした.一方,ダルモーッタラはあくまでもこの宝石の認識は欺く認識であ るとして,シャーキャブッディ説を強く批判した.プラジュニャーカラグプタは 感官知でさえも本来錯誤知であってただ欺かないことだけから世間では正しい認 識とされると主張し,この宝石の認識を知覚と理解した35). 1)この宝石の認識の例については,Dreyfus 1997: 316–319; McCrea 2011: 319–328 などに も取り上げられているが,インド仏教論理学派のテクストの原典解読による総合的な研 る室内の宝石とは異なるから,正しい認識手段ではないと指摘する21). 以上のように,ダルモーッタラは宝石の光に対する宝石の認識を正しい認識手 段ではないものと理解する.同様の理解は他に,カマラシーラ(8 世紀),カルナ カゴーミン(8~9 世紀頃)などにも見られる22).5.プラジュニャーカラグプタ説
以上のようなシャーキャブッディやダル モーッタラなどの説を受けて,プラジュニャーカラグプタはさらに新たな説を提 示する.彼は宝石の光に対する宝石の認識を知覚(pratyakṣa)と理解する. 【反論】それ(宝石の光に対する宝石の知)はいかなる認識手段なのか.【答】それは知 覚という認識手段である.【反論】[知覚であるなら]それがどうして錯誤したものなの か.【答】それ(宝石の光に対する宝石の知)は全く[錯誤した]そのままで[知覚とい う認識手段である].欺かないことによって正しい認識手段となるのであって,錯誤知か そうでないかは無用である.(PVA 220, 4–5)23) 「このような錯誤知がどうして知覚なのか.知覚は非錯誤知ではないのか」という 問いに対しては,正しい認識手段としての非錯誤性とは欺かないことに他ならな いと答える.プラジュニャーカラグプタによれば,その妥当性は欺かないことに よって保証され,それ以外に「非錯誤」という別の基準は不要である24). ではこの宝石の認識が錯誤知とされるのはなぜなのか.錯誤知であるが正しい 認識手段であるというのはどのような意味なのか.ダルマキールティは先に見た ように「独自相を別のあり方で理解する第二の理解は錯誤知であるが,期待を裏 切らないから正しい認識手段である」と述べているが,まず,プラジュニャーカ ラグプタはこの「第二の理解」には推理だけではなく,知覚も含まれると理解す る25).ダルマキールティが「認識対象は独自相ただ一つである」と述べるとき, その独自相とは何らかの効用をもたらすもの,すなわち,その認識によって行動 して獲得される実在のことを意図している.しかし,知覚もこの未来時の獲得対 象である実在を直接知ることはできない.知覚は共通相を対象とする概念知を介 して,その未来の対象に対して行動を起こさせる26).これは推理の場合と全く同 じである.この点では知覚も錯誤知である.期待を裏切らないこと,すなわち欺 かないこと27)によって正しい認識手段(非錯誤知)となる.このような観点から, プラジュニャーカラグプタは知覚も推理と全く同等のものとみなしている28). そして彼によれば,この錯誤知であるが欺かない認識(知覚と推理)の例とし て,宝石の光に対する宝石の認識が例として述べられた,ということになる.す なわち,知覚と推理が錯誤知であるとは世間では周知でないので,錯誤知として〈略号〉
JNĀ: Jñānaśrīmitranibandhāvalī. Ed. Anantalal Thakur. 2nd ed. Patna: Kashi Prasad Jayaswal
Research Institute (KPJRI), 1987. PSṬ I: Pramāṇasamuccayaṭīkā, Chapter I. Ed. Ernst Steinkellner, Helmut Krasser, and Horst Lasic. Beijing: China Tibetology Research Center (CTRC), 2005. PV I; PVSV: Pramāṇavārttika, Chapter I; Pramāṇavārttikasvopajñavṛtti. Ed. Raniero Gnoli. Roma: Istituto Italiano per il Medio ed Estremo Oriente, 1960. PV II: Pramāṇavārttika, Chapter II (= Pramāṇasiddhi). Sanskrit text in Yusho Miyasaka. “Pramāṇavārttika-kārikā (Sanskrit and Tibetan).” Acta Indologica II. Narita: Naritasan Shinshoji, 1972. PV III: Pramāṇavārttika, Chapter III. Sanskrit text in Tosaki 1979. PVA: Pramāṇavārttikālaṅkāra. Ed. Rāhula Sāṅkṛtyāyana. Patna: KPJRI, 1953. PVAṬJ:
Pramāṇavārttikālaṅkāraṭīkā (Jayanta). Tibetan trans. D4222, P5720. PVAṬY:
Pramāṇavārttikā-laṅkāraṭīkā (Yamāri). Tibetan trans. D4226, P5723. PVṬR: Pramāṇavārttikaṭīkā (Ravigupta) on
PV III. Tibetan trans. D4225, P5722. PVṬŚ: Pramāṇavārttikaṭīkā (Śākyabuddhi). Tibetan trans.
D4220, P5718. PVP: Pramāṇavārttikapañjikā (Devendrabuddhi). Tibetan trans. D4217, P5717.
PVSVṬ: Pramāṇavārttikasvopajñavṛttiṭīkā. Ed. Rāhula Sāṅkṛtyāyana. Allahabad, 1943. Repr.,
Kyoto: Rinsen Books, 1982. PVin I, II: Pramāṇaviniścaya, Chapters I, II. Ed. Ernst Steinkellner. Beijing: CTRC, 2007. PVinṬDh: Pramāṇaviniścayaṭīkā (Dharmottara). Tibetan trans. D4229,
P5727. TS; TSP: Tattvasaṃgraha; Tattvasaṃgrahapañjikā. Ed. Swami Dwarikadas Shastri. Varanasi: Bauddha Bharati, 1968. Vibh: Vibhūticandra’s Notes to Pramāṇavārttikavṛtti (Manorathanandin). Ed. Rāhula Sāṅkṛtyāyana. The Journal of the Bihar and Orissa Research
Society 24–26 (1938–1940).
〈参考文献〉
Dreyfus, George. 1997. Recognizing Reality: Dharmakīrti’s Philosophy and Its Tibetan
Interpretations. Albany: SUNY Press. Kobayashi, Hiasayasu. 2011. “Prajñākaragupta’s
Interpretation of svalakṣaṇa.” IBK 59 (3): 1256 – 1261. McCrea, Lawrence. 2011. “Prajñākaragupta on the pramāṇas and Their Objects.” In Religion and Logic in Buddhist
Philosophical Analysis, ed. Helmut Krasser et al., 319–328. Wien: Verlag der Österreichischen
Akademie der Wissenschaften. Steinkellner, Ernst. 1981. “Philological Remarks on Śākyamati’s Pramāṇavārttikaṭīkā.” In Studien zum Jainismus und Buddhismus, ed. Klaus Bruhn and Albrecht Wezler, 283–295. Alt- und Neu-Indische Studien 23. Wiesbaden: Herausgegeben vom Seminar für Kultur und Geschichte Indiens an der Universität Hamburg. 戸崎宏正 (Tosaki, Hiromasa) 1979『仏教認識論の研究』上巻,大東出版社.
〈キーワード〉 ダルマキールティ,シャーキャブッディ,ダルモーッタラ,宝石の光,宝 石の認識,プラジュニャーカラグプタ,錯誤知,欺かない認識
(東京学芸大学教授,博士(文学))
宝石の光に対する宝石の認識(稲 見) (145)
究はまだない. 2)See PV I 211; PV II 6d; PVin II 48, 1–8, etc. 3)PV III 53d– 54. 4)PVP, D144b5, P168b3; PSṬ I 27, 10–11. Cf. PVin II 46, 7. 5)See Kobayashi 2011: 1256–1261. 6)PVSV 42, 18–22; 107, 2–3. 7)PV II 1a–b1; PVin
I 1, 10; 6, 4, etc. 8)ラヴィグプタは「それに似て非なるもの」を知覚と解する別解 も提示する.PVṬR, D34b5–6, P42a7–b2. 9)この宝石の認識の例についてはダルマ キールティは PVSV 43, 2–8; PVin II 47, 3–13 などでも言及する. 10)デーヴェー ンドラブッディもこの宝石の認識を欺かない認識の一例と考えていたと思われる.PVP D145b4–5, P169b5–6. 11)この部分のシャーキャブッディ注(PVṬŚ, D167a1–168a1, P205b7–207a3)はヴィブーティチャンドラに「或る者」の説として引用されるもの (Vibh 528, 17–529, 14)とほぼ一致する.Steinkellner 1981: 291–292 参照.また,PVA に 対するヤマーリ注に「シャーキャブッディ説」(PVAṬY, D115a7, P153a1)として紹介さ
れるもの(PVAṬY, D115b1–116a1, P153a1–153b3)ともほぼ同じである. 12)Cf.
Vibh 528, 21–24; PVAṬY, D115b2–4, P153a3–6. 13)PVṬŚ, D167b2–4, P206b2–4. Cf.
Vibh 529, 2–7; PVAṬY, D115b4–6, P153a6–b1. 14)PVṬŚ, D167b4–6, P206b6–8. Cf.
Vibh 529, 7–10; PVAṬY, D115b6–116a1, P153b1–3. 15)PVṬŚ, D167b6–168a1, P206b8–
207a3. Cf. Vibh 529, 10–14. 16)アルチャタやシャーンタラクシタもこの宝石の認 識を欺かない認識の例として言及する.Hetubinduṭīkā (ed. Sukhlalji Sanghavi and Muni Shri Jinavijayaji [Baroda: Oriental Institute, 1949]) 24, 2–4; Vādanyāyaṭīkā Vipañcitārthā (ed. Swami Dwarikadas Shastri [Varanasi: Bauddha Bharati, 1972]) 35, 3–5. 17)PVinṬDh, D173a5–
b3, P202b8–203a7. Cf. PVinṬDh, D173b3–5, P203a7–b2; D174a2–3, P203b7–204a1; D176b4–6,
P207a4–8. 18)PVinṬDh, D174a3–6, P204a1–5. 19)PVinṬDh, D174a4–6, P204a2–
5. 20)PVinṬDh, D174a6–b1, P204a5–b1. 21)PVinṬDh, D175a5–a7, P205a8–b3.
Cf. Nyāyabinduṭīkā (ed. Dalsukhbhai Malvania [Patna: Kashi Prasad Jayaswal Research Institute, 1955]) 25, 3–7. なお,PVin 注では他にもいくつか問題が指摘されるが今回は取り上げな い. 22)TSP 946, 23–947, 7 (ad TS 2972); TSP 397, 20–21 (ad TS 1026); PVSVṬ 8, 8– 12. Cf. Vibh 529, 17–18. 23)Cf. PVṬR, D35b4, P43b1–2. 24)PVA 220, 7–9. Cf. PVṬR, D35b5–6, P43b3. 25)PVA 216, 4–7. McCrea 2011: 321–322 参照. 26)Kobayashi 2011: 1259 参照. 27)認識対象と獲得対象は厳密には異なるので, 真の意味で欺かないことがあるわけではない.See PVA 587, 23–25; 587, 31; 588, 1– 4. 28)PVA では他にも様々な観点から知覚と推理には違いがないことが詳細に説 明される.PV III 55–56 の注釈においては,両者に違いがないという趣旨の言明が実に 14 回もある. 29)PVA によれば,知覚や推理が錯誤知であるというのは哲学的分 析者(vyākhyātṛ)の理解であって,一般行為者(vyavahārin)の理解ではない.PVA 216, 2. Cf. PVAṬJ, D39b5–6, P46a7–8. 30)Cf. PVA 295, 31; 309, 1–4; 432, 17.
31)PVA 219, 11–16. Cf. PVṬR, D35a4–7, P42b8–43a4. 32)Cf. PV II 4d–5a; PVA 25, 4–
13; JNĀ 416, 18–20. 33)PVA 220, 25–26. Cf. PVAṬJ, D41b6, P483–4; PVAṬY, D115a7–
116a1, P152b8–153b3. 34)Cf. JNĀ 364, 15–16. 35)このインドの注釈家達の 理解の違いはチベットの注釈者達によっても着目され,ダルモーッタラ説が正しい説と して支持される.Dreyfus 1997: 317–318 参照.
〈略号〉
JNĀ: Jñānaśrīmitranibandhāvalī. Ed. Anantalal Thakur. 2nd ed. Patna: Kashi Prasad Jayaswal
Research Institute (KPJRI), 1987. PSṬ I: Pramāṇasamuccayaṭīkā, Chapter I. Ed. Ernst Steinkellner, Helmut Krasser, and Horst Lasic. Beijing: China Tibetology Research Center (CTRC), 2005. PV I; PVSV: Pramāṇavārttika, Chapter I; Pramāṇavārttikasvopajñavṛtti. Ed. Raniero Gnoli. Roma: Istituto Italiano per il Medio ed Estremo Oriente, 1960. PV II: Pramāṇavārttika, Chapter II (= Pramāṇasiddhi). Sanskrit text in Yusho Miyasaka. “Pramāṇavārttika-kārikā (Sanskrit and Tibetan).” Acta Indologica II. Narita: Naritasan Shinshoji, 1972. PV III: Pramāṇavārttika, Chapter III. Sanskrit text in Tosaki 1979. PVA: Pramāṇavārttikālaṅkāra. Ed. Rāhula Sāṅkṛtyāyana. Patna: KPJRI, 1953. PVAṬJ:
Pramāṇavārttikālaṅkāraṭīkā (Jayanta). Tibetan trans. D4222, P5720. PVAṬY:
Pramāṇavārttikā-laṅkāraṭīkā (Yamāri). Tibetan trans. D4226, P5723. PVṬR: Pramāṇavārttikaṭīkā (Ravigupta) on
PV III. Tibetan trans. D4225, P5722. PVṬŚ: Pramāṇavārttikaṭīkā (Śākyabuddhi). Tibetan trans.
D4220, P5718. PVP: Pramāṇavārttikapañjikā (Devendrabuddhi). Tibetan trans. D4217, P5717.
PVSVṬ: Pramāṇavārttikasvopajñavṛttiṭīkā. Ed. Rāhula Sāṅkṛtyāyana. Allahabad, 1943. Repr.,
Kyoto: Rinsen Books, 1982. PVin I, II: Pramāṇaviniścaya, Chapters I, II. Ed. Ernst Steinkellner. Beijing: CTRC, 2007. PVinṬDh: Pramāṇaviniścayaṭīkā (Dharmottara). Tibetan trans. D4229,
P5727. TS; TSP: Tattvasaṃgraha; Tattvasaṃgrahapañjikā. Ed. Swami Dwarikadas Shastri. Varanasi: Bauddha Bharati, 1968. Vibh: Vibhūticandra’s Notes to Pramāṇavārttikavṛtti (Manorathanandin). Ed. Rāhula Sāṅkṛtyāyana. The Journal of the Bihar and Orissa Research
Society 24–26 (1938–1940).
〈参考文献〉
Dreyfus, George. 1997. Recognizing Reality: Dharmakīrti’s Philosophy and Its Tibetan
Interpretations. Albany: SUNY Press. Kobayashi, Hiasayasu. 2011. “Prajñākaragupta’s
Interpretation of svalakṣaṇa.” IBK 59 (3): 1256 – 1261. McCrea, Lawrence. 2011. “Prajñākaragupta on the pramāṇas and Their Objects.” In Religion and Logic in Buddhist
Philosophical Analysis, ed. Helmut Krasser et al., 319–328. Wien: Verlag der Österreichischen
Akademie der Wissenschaften. Steinkellner, Ernst. 1981. “Philological Remarks on Śākyamati’s Pramāṇavārttikaṭīkā.” In Studien zum Jainismus und Buddhismus, ed. Klaus Bruhn and Albrecht Wezler, 283–295. Alt- und Neu-Indische Studien 23. Wiesbaden: Herausgegeben vom Seminar für Kultur und Geschichte Indiens an der Universität Hamburg. 戸崎宏正 (Tosaki, Hiromasa) 1979『仏教認識論の研究』上巻,大東出版社.
〈キーワード〉 ダルマキールティ,シャーキャブッディ,ダルモーッタラ,宝石の光,宝 石の認識,プラジュニャーカラグプタ,錯誤知,欺かない認識
(東京学芸大学教授,博士(文学)) 究はまだない. 2)See PV I 211; PV II 6d; PVin II 48, 1–8, etc. 3)PV III 53d–
54. 4)PVP, D144b5, P168b3; PSṬ I 27, 10–11. Cf. PVin II 46, 7. 5)See Kobayashi 2011: 1256–1261. 6)PVSV 42, 18–22; 107, 2–3. 7)PV II 1a–b1; PVin
I 1, 10; 6, 4, etc. 8)ラヴィグプタは「それに似て非なるもの」を知覚と解する別解 も提示する.PVṬR, D34b5–6, P42a7–b2. 9)この宝石の認識の例についてはダルマ キールティは PVSV 43, 2–8; PVin II 47, 3–13 などでも言及する. 10)デーヴェー ンドラブッディもこの宝石の認識を欺かない認識の一例と考えていたと思われる.PVP D145b4–5, P169b5–6. 11)この部分のシャーキャブッディ注(PVṬŚ, D167a1–168a1, P205b7–207a3)はヴィブーティチャンドラに「或る者」の説として引用されるもの (Vibh 528, 17–529, 14)とほぼ一致する.Steinkellner 1981: 291–292 参照.また,PVA に 対するヤマーリ注に「シャーキャブッディ説」(PVAṬY, D115a7, P153a1)として紹介さ
れるもの(PVAṬY, D115b1–116a1, P153a1–153b3)ともほぼ同じである. 12)Cf.
Vibh 528, 21–24; PVAṬY, D115b2–4, P153a3–6. 13)PVṬŚ, D167b2–4, P206b2–4. Cf.
Vibh 529, 2–7; PVAṬY, D115b4–6, P153a6–b1. 14)PVṬŚ, D167b4–6, P206b6–8. Cf.
Vibh 529, 7–10; PVAṬY, D115b6–116a1, P153b1–3. 15)PVṬŚ, D167b6–168a1, P206b8–
207a3. Cf. Vibh 529, 10–14. 16)アルチャタやシャーンタラクシタもこの宝石の認 識を欺かない認識の例として言及する.Hetubinduṭīkā (ed. Sukhlalji Sanghavi and Muni Shri Jinavijayaji [Baroda: Oriental Institute, 1949]) 24, 2–4; Vādanyāyaṭīkā Vipañcitārthā (ed. Swami Dwarikadas Shastri [Varanasi: Bauddha Bharati, 1972]) 35, 3–5. 17)PVinṬDh, D173a5–
b3, P202b8–203a7. Cf. PVinṬDh, D173b3–5, P203a7–b2; D174a2–3, P203b7–204a1; D176b4–6,
P207a4–8. 18)PVinṬDh, D174a3–6, P204a1–5. 19)PVinṬDh, D174a4–6, P204a2–
5. 20)PVinṬDh, D174a6–b1, P204a5–b1. 21)PVinṬDh, D175a5–a7, P205a8–b3.
Cf. Nyāyabinduṭīkā (ed. Dalsukhbhai Malvania [Patna: Kashi Prasad Jayaswal Research Institute, 1955]) 25, 3–7. なお,PVin 注では他にもいくつか問題が指摘されるが今回は取り上げな い. 22)TSP 946, 23–947, 7 (ad TS 2972); TSP 397, 20–21 (ad TS 1026); PVSVṬ 8, 8– 12. Cf. Vibh 529, 17–18. 23)Cf. PVṬR, D35b4, P43b1–2. 24)PVA 220, 7–9. Cf. PVṬR, D35b5–6, P43b3. 25)PVA 216, 4–7. McCrea 2011: 321–322 参照. 26)Kobayashi 2011: 1259 参照. 27)認識対象と獲得対象は厳密には異なるので, 真の意味で欺かないことがあるわけではない.See PVA 587, 23–25; 587, 31; 588, 1– 4. 28)PVA では他にも様々な観点から知覚と推理には違いがないことが詳細に説 明される.PV III 55–56 の注釈においては,両者に違いがないという趣旨の言明が実に 14 回もある. 29)PVA によれば,知覚や推理が錯誤知であるというのは哲学的分 析者(vyākhyātṛ)の理解であって,一般行為者(vyavahārin)の理解ではない.PVA 216, 2. Cf. PVAṬJ, D39b5–6, P46a7–8. 30)Cf. PVA 295, 31; 309, 1–4; 432, 17.
31)PVA 219, 11–16. Cf. PVṬR, D35a4–7, P42b8–43a4. 32)Cf. PV II 4d–5a; PVA 25, 4–
13; JNĀ 416, 18–20. 33)PVA 220, 25–26. Cf. PVAṬJ, D41b6, P483–4; PVAṬY, D115a7–
116a1, P152b8–153b3. 34)Cf. JNĀ 364, 15–16. 35)このインドの注釈家達の 理解の違いはチベットの注釈者達によっても着目され,ダルモーッタラ説が正しい説と して支持される.Dreyfus 1997: 317–318 参照.