アレキサンダー・ホフマンの企業経済学
−−・ドイツ経営経済学における
技術論学派の一・考察−−
(1)
笠 原 俊 彦
Ⅰ序
ドイツ経営経済学における技術論学派を問題とするとき,われわれは,この
学派の代表者として,アレキサンダー・ホフマン(AlexanderHbffmann,187
(1)
9−1946)の名を忘れることができない。ホフマンほ,1929年の著書イ商事企業
(2)
利潤論」(β吻′G初肌朋dβr烏虎〝./■獅戌搾〝g5Cゐβ〝び肋廟ゐ椚〝〝g,Leip軸)払おい て,経営経済学の対象を資本主義企業(die kapitalistische Unternehmung)
に求めるとともに・,tIの企業が自発的個別的目閉(aut叩Omeindividuelle Zielsetzung)としての利潤(Gewinn)ないし利潤性(Rentabilit5t)を埠求する
こと,そして経営経済学がこの目的追求のた堕の特別の手段を研究する夷践 一経験科学(praktisch−empirische Disziplin)であることを主張した。次い
で,翌1930年,かれは,「国民経済学および統計学のための年鑑」(.ルゐγか戎cゐβ′
(1)政治学博士,法学博士アレキサンタ・−・ホフマンは,1879年10月7日に・㌣ユタイン プライスに生まれ,I946年4月11日にライプチヒに.て没した。かれは,フラン云およ ぴイタリアへの留学期間を含む長期にわたって法律学および経済学を研究し,銀行業 および鉱工業に.おける数年の実務生活を経て,1920年に・ライプチヒ大学にやい手国民 経済学の教授資格を痙得した。かれは,1921年から1922年までタノりヰシュタットエ科 大学で国民経済学の正教授を務め,1922年から1945年までは,、ライプチヒ大学で経営 経済学の正教授を務めた。かれ堪軽挙経済学粧閲す孝吉たる著作を刊行したの隼,ラ
イプチヒ大学在職中であった。
なお,ホフマンは,1928年以来, ββJriβ∂ 鉦〝d肋fぞr〝βカ沼〟兜g 椚′f∫Cゐα/■fS・
紗∠ざ5β〝,5CゐαノfJ cカβA∂カα〝dJ〟紹gg〝,Bandl−15.の編集者を務めた。
(Vgl.,,E.Sieber,,,Hoffmann Alexander化 Handu,∂rierbuch der Beiriebs・
Wirtschafi,Bd.2,Stuttgart,1957,SS.2690p2691.)
(2)以下,G朗山〝′2.と略記する。
第48巻 第1号
− 7β−
78
fur Naiionalbkonomie und Siaiisiik,133BandIIIFolge78.Band,1930
ⅠⅠ,herausgegebenvonDr.LudwigEIster・)把.「経営経済学の対象と方法」
(3\
(0ゐ.榊拍感劫捌扇=毎β励涼感抽血.〃ぶゐゐγβ)と題する論文を発表 し,経営経済学が技術論(Ⅹunstlehre)であることを明言するとともに.その方
(い 法的基礎づけを試み,1932年に.ほ,経営経済学に.関する主著「商事企業経済学
(経営経済学)」(耶rねcゐα.〃5ゐゐγβ dβγ 鳥α〟./沼∂形作£ぶCゐβ〝 ぴ〝ねr〝βゐ桝〝〝g,
−Betriebswirtschafislehre,Leipzig)紅おいて,上記2研究の成果を取り (
入れ,技術論の立場から,商科大学の設立以来急速な発展を遂げてきた経常経
(8) 済学的個別諸研究の体系化を試みたのである。
(3)以下,0∂ブ♂如.と略記する。
(4)Vgl.,E.Sieber・,a.a 0..,S..2690
(5)以下,耶γねcカα/才5Jgゐγβ.と略記する。
(6)「商事企業経済学(経営経済学)」の目次の概略は,次の通りである。
序論 企業の目的追求
§1け 経営経済学の対象と方法
§ 2.企業の利潤追求 第1部 企業の構成(資本投下)
第1章 序論
§ 3.経営立地
第2章 企業の資本および財産
§ 4.手段の秩序としての企業
§ 5.手段の均衡(経営分析)
第写革 企業の種類
§ 6.鉱工業企業および銀行
§◆7.保険業企業 第4章 企業の形態
§ 8.経済形態
§ 9.法形態 第5牽 企業の拡張形態
§10.企業連携
§11.企業合併
第2部 企業の諸職能(資本保全および資本運動)
第6牽 序論
§12.諸職能の分類 第1編 保全
策7章 序論
§13.企業の危険および危険政策 第8章 企業の市場適合政策
アレキサンダー・ホフマンの企業経済学 −7」クー
79
それでは,このよう紅ホフ・マ∴/が一・賞して:その形成に努めた技術論としての 経営経済学とはいかなるものだったのであろうか。本稿に・おいて,われわれ は,ホフマンの以上3づの著作に基づき,かれの技術論的経営経済学の特質を 明らかに.することとしたい。
§14.流動性政策
§15.企業の予算
§16..企業の景気政策 第9牽 制潤政策による資本保全
§17一.転換財の評価
§18.減価償却および減価償却政策
§19.積立金一串よび利潤分配政策 第2:J編 財務
第10章 序論
§20.資本調達(財務)の諸問題
第11章
§21.株式に.よる資本調達(自己資本)
第12章
§22.社債に.よる資本調達(他人資本)
第13章
§23.株式と社債の中間形態
第14章
§24.銀行信用に.よる短期資本調達 第3編 労務
第15章 序論
§25.労働力の調達(職業紹介機関)
第16章 労働条件
§26.経営における労働条件
§27.賃金支払い形態 第17章 労働の管理
§28.労働統制
§29.賃金の計算および支払い 第4
第18章 序論
§30.調達−,製造−,および販売政策のための市場調査
第19章
§31.販売組織
第20章
§32.顧客宣伝(広告)
第21章
§33.売買契約
第22章
−β0 − 第48巻 第1号
ⅠⅠ経営経済学の対象と方法
80
ホフマンに.よれは,すべての個別科学(Einzelwissenschaft)は,その取り 扱う対象(Objekt,Gegenstand)とこ.の対象に適用する方法(Methode)ない
し考察方法(Betrachtungsweise)とを有する。このことは,経営経済学の名 で−・般に・よほれている個別科学についても例外でほない。ホフマンほ,大著「商 事企業経済学(経営経済学)」に.おいて,まず,経営経済学とよほれる個別科 学がいかなる対象を有しまた・その対象をいかなる考察方法をもって研究するか を明らかにすることに・よって,自らの経営経済学観を呈示する。そこで,われ われも,まず,ホフマンに.おける経営経済学の対象と考察方法と1を尋ねること
(ア) 乾しよう。
経営経由学とよばれる個別科学の対象を問うとき,直ちに予想されうLる答は,
この科学の名称から判断して,その対象を経営(Betrieb)に.求めることであ ろう。事実,このような見解は,ホフマンに・よれば,当時のドイツ経写経済学 界に.おける支配的見解であった。しかし,ホフマンは,この支配的見解紅反し
て,経営経済学の対象を経営にでほなく企薬(Unternehmung)に求め,その 理由を説明するために.,ま・ず,かれ自身の経営概念を次のように.規定する。す なわち,経営は企業の物的一技術的基礎(die sachlich−teClmispheGrundlage
§34.対内組織(購売,販売,貯蔵)
第3部 利潤 第23章
§35.利潤概念 第24章 利潤計算
§36.貸借対照表と損益計罫書との機能的関係
§37.簿記による利潤計算
§38.収益および費用に関する個別的諸問題
「商事企業利潤論」は,その大部分がほとんどそのまま,上記の第2部第1編第9章
「利潤政策による資本保全」および第3部「利潤」に,「経営経済学の対象与方法」
は,その大部分が,序論§1.「経営経済学の対象と方法」に,それぞれ取り入れられ ている。
(7)本章に翠けるホフマンの論述は,主として,次による。
A.Hoffmann,Wirtschqfislehre.,SS.3−16.
A.Hoffmann,Objcki.,SS.801L812.
A.Hoffmann,Gの肌搾〝‖,SS.1−16.
アレキサンダー・卒フマンの企業経済学
−βユー 81
der
Unternehmung)隼偲ならないと。かれほL,こ中経営聯傘を,硬述する鱒嘗諸 概念から区別して:,生産技術的意味にやける嘩営(申S Betriebim produk−
tion学t?Chni学Ch甲声inn)とよぶ。
かれに・車重ば,こ・の経常ほ,
(Petriebs19hre)の対象ではあるが,しかし,経済学Q),したがって経常曙済学の
対象で笹ありえない0こ羊に・嘩常論キは,いわゆる経営科学.(Betr・i9b画聖n ̄
殖垂)を慈味すると解される0
・経常鱒済学の対象は,企業の物的一技術的基礎で卒る隼過ぎない経嘗て喀な く,この経営の単数または複数をそ・のうち準食むい2の重体として申企業であ る。らのような企業払おいてはじめて,生産技術的意味粧率ける経常匿繋いて 埠存在の余喝を有しない資本調嘩,販売組織などの諸問題が生じえ,さらに,
例えば減価償却問題のよラ紅隼産技術的意味に寮ける経寧日備に・おいて取り扱
わ準うる甲喝も,技術的観局とは異なる経済的観点から考察されうること咋・な 各。かれ紅・よれば,企業に・率いてほじめて■生じうるこのような諸問題お毒草問
題考察の仕方こそ,近代の経営経済学の特質をなすのである。
ところで,経嘗経済学鱒対象として経営が措定される場合,そこ紅いわゆる 嘩常は,均上のような年産技術的意味軽率け挙経営匹尽くされろわけで喀な い。むしろ,多く中学者は,経営鱒念を拡大してこれを企業概念と同七・準用 い,ま凍は営利経済(Ertr?g?Wirtschaft)七しでの企業のみ奉らずi学校,
図書館,私的家政などの非営利諸経済(Nicht−Ertrag$WirtsQhaft印)までを もちれ吟含め,このような経営を経常準済学の対象とする。だが,これらの見 解は,・いずれもホフマ㌢の取りうるところではない。
第1に,経営概念を拡木して企業概念と同一鞋用いる見解は,ホフマ㌢常・よ れば,企業とその単なる生産の場とをわざわざ同一の言菓でよぶという不合理 性を有する。
第2に.,経営概念に.営利経済としての企業のみならず,学校,図書館,私的 家政などの非営利諸経済をも含め,
ーー β2・W
第48巻 第1号82
て,ホフマンほ,こ・れら非営利詩経済が1つの特別の経済学的関心(einbeson−
deres wirtschaftwissenschaftlichesInteresse)を引き起こす程の問題を有 しないと主張する。かれに・よれば,経営経済学の関心を引くのは営利経済とし て:の企業の収益−ないし利潤性追求(Ertrags−OderRentabilitatsstreben)あ 問題であり,そしてまた,これこ.そが,経営経済学においてこれまで実際軋取 り扱われて:きている問題である。経営概念を拡大しこれに.企業のみならず非営 利諸経済をも含め,このような経営が経営経済学の対象であると主張する学者
でさえ,その実際の研究において:は,このような経営ではなく企業をそゐ中心 的問題としており,したがって,このような学者については,そ・の主張とその 実際の研究との間に帝離がみられるのである。
経営経済学の対象ほ,経営経済学に.おいて実際に取り扱われている諸問題の うちに求められなければならない。この見解に.立つとき,経営経済学の対象た りうるものは生産技術的意味における経営を含む企業のみであるこ
して,ホフマンほ,物的−・技術的基礎ないし生産の場としての経営を「含む」
企業(die Unternehmung mit deminihr,,eingebetteten Betrieb)を経営
(8) 経済学の対象とする。
このように,経営経済学とよなれる個別科学の対象を経営に.ではなく企業に 求めるとき,この個別科学を経営経済学とよぷことは,この個別科学の対象が 企業ではなく経営であるという誤解を与えるがゆえ紅不適切である。ホフマン によれば,企業経済学(Unternehmungswirtschaftslehre)という名称こそ;
この個別科学に.相応しい。
さて,ホフマンは,経営経済学の対象を企業に.求めこの個別科学を企業′経済 学として特質づける際,そこにいう企業を広義に解し,これに.私企業(pI・ト
vatkapitalistischeUnternehmung,Untemehmungderprivaten WirtschAft)
のみならず公企業(Unternehmen der6ffentlidlenHand)をも含める。それ
(8)中村常次郎教授は,ホフマンに.おける経営経済学の対象としての企業を経営を排除 した企業として理解する。教授が何故にこのような理解を示すかは明らかでない。次 を参風せよ。中村常次郎稿「独逸経営経済学に於ける『技術論』の地位」『 経済学論集J 八巻十号,東京帝国大学経済学会,昭和13年,35,37,51,58,59ぺ・一汐。
アレキサンダー・ホフマンの企業経済学
−・g3 −−
83
のみでない。かれほ,さらに.,企業経済学の対象としての企業に.,法形態,業 種,規模を異にするさまざまな企業のすべてを含める。なぜなら,このような 諸要因を異笹する諸企業も,−・定の問題関連からみるとき同一だからである0
この問題関連とほ,先紅述べた企業の収益一・ないし利潤性追求に.関する問題関 連に他ならない。かれに.よれば,収益−・ないし利潤性追求こそ,企業を財務単 位(Finanzeinheit)ないし個別経済(Einzelwirtschaft)として特質づけ,こ のことに.よって企業を経済学の対象とするのである。
企業経済学の対象としての企業をこのよう紅広義紅解するホフマンの見解に つヤ、て,われわれは,2つのことを注意しなければならない0
欝1ほ,企業経済学の対象とされる広義の企業が生産技術的意味にいおける経 営をそのうちに.有する企業のみから成るわけでほないこと,これである。ホフ マンのいわゆる企業の生産の場としての経営とほ.,いわば狭義の商品生産単位 を意味する。それは,例えば商品の販売,資本の調達など広義の商品生産単位 が担当する諸職能を担当せず,ただ,鉱工業企業(industrielle Unternehmu−
ngen)に.見られるような原材料の採取・加エという技術的職能(die technische
(9)
Funktion)を担当するに過ぎない。広義の企業はあらゆる業種に.属する諸企 業,したがってこ商業企業,銀行業企業,保険業企業などをも含むのであるが,
これら諸企業には,このような経営は明らかに存在しない。われわれほ,生産 技術的意味に.おける経営をそのうちに属する企業が企業経済学の対象としての 企要そのものではなくその一部をなす把.過ぎないことを銘記しておかなければ ならない。
第2に注意されるぺきは,ホフマンが広義の企業概念に.含まれる諸企業のす べてを同じ比重をもって研究するわけでは決してないことである。かれは,私 的大規模株式会社企業をその企業経済学における中心的対象とする。だが,こ
(9)Vgl.alユCh,A.Hoffmann,mrtS(ha.fislehre.,Sn187.
もっとも,ホフマンは,BetI・ieb▼という言葉をこの意味にのみ用いているわけでほ ない。このことについては,例えば次を参照せよ。
AJHoffmann,Wirischa.fislehre.,SS.24,29−42,47,51,109;145,285,294,
523,738,750,754,763,772.
−− 占拍 −
第48巻 第1号84
のことを明らかにするためにほ,われわれほ,ホフマンがその企業経済学にお いて企業をいかなる方法をもって考察するかを問わなければならなも1。
ホフマンによれほ,企業経済学の対象としての企業ほ,これをいかなる文 イヒ的関連(kultur1icher Beziehungszusammenhang)に.置くか匿よって,.さま
(10)
ざまの方法をもって考察されうる。ひ・とは,企業を,例え.ば国民の福祉の社会 的条件(die gesellschaftliche Bedingtheit des Volkswohlstande$)ないし 社会経済的諸現象およぴその関連(die sozialwirtschaftliche EぢSCheinungen
undihrerZusammenha咤)と見て:,一総合経済的立場から考察することができ
る。Vこ.のような立場を取るものは}国民経済学に㌧他ならない。プと.れ匿対Lン,企 業経済学は,企業を「企業に固有の,とりわけ私経済的目的追求の観点顔ら
(unter dem Gesichtspunkt seinesihm eigenen,Pinsbesondere privatwirt−
(11)
SChaftlichen Zielstrebens)考察する。」
ホフマンによれば,社会諸科学における考察方法ほ,「\文化両共同体とレての 人間共同体に.根ざしている価値観点(Wertgesichtspunkten,diein der men−
(12)
SChIichen GemeinschaftalsI(ulturgemeinschalft w山Zeln)を志向するb」
かれ紅よれば,資本主義経済社会性おいては企業者(UnteInehmeIケニの私的所 有に,基づく・私経済的利潤追求(das一画iva扁irtschaftliche Gewinnstr:bben)jbS 価値としで認められており,企業者は,その利潤追求のため紅企業を形成b;
これを運営する。そこで,企業ほ.,利潤追求ないし利潤性追求をぞの酒動の 規範なヤ、し目的とする。企業経済学は,この事実を考慮して利潤性原理;(das
Rentabilitatsprinzip)を所与の素材から本質的なものを選択する源疲サなミわち
選択原理(das Auswahlprinzip)とするのである。
「……・これに基づいて素材およびノ諸問題を方向づけ整序する.ことミに∵よこり,㌃わ
(10)ホフマン牒こよれば,「対象は,いまだ必ずしも方法を決定しない。」(A.HoffmaI】恥
∽麻姑,S.801.)
(11)A.Hoffmann,・mrischaJislehre.,S.6.
(12)A.Hoffmann,0∂ノβ如.,S.801.
アレキナンダー・ホフマンの企業経済学 −β5−
85
れわれは思惟的構造における統一−性および完結性(kinheittltldGeschlossen−
\131
鯨itimgedanklichenGef鹿e)を作り出す。」
とのよう紅して,経営経済学は,統一・的な知識の1体系としての1つの科学と なるととができる。
ところで,経営経済学この選択原理をこのように.利潤性に求める見解ほ,当時 の経営経済学界庭.おける支配的見解ではなかった。むしろ,当時においては,
経営経済学の選択原理を利潤性と別個のものに.求める見解が支配的であった。
経常経済学の選択慮恕を経済性(Wir・t墓chaftlichkeit) に求めるものが それで ある。糸ラマンほ,このような支配的見解として,とくにシュマエレンノミジ へ グルトマッへ・ル,ニックリッ.シュおよびシÅ′ミット:め見解を検討する。
シネマ⊥vシバヅハ(E・S6hmalenbath,187畠ニ1955)ほ企湊ないし痙常を
共同経済の機関(e晶OrganderGerrleihwirtschaft)ないし国家経済的機鴎
(6instaatswirtschaftliches Organ)と解し,経営経済学の意味(Sinn)を「『経常 かネの共同経済的生産性(gemeinwirtschaftlicheProduktivitat)
(14) をいか把,およびいかなる方法で示すかを研究すること』」に求めるら∴そしセ,
このような考えから,経営経済学の選択原理として共向経済的生産性を提唱す る。私経済的行為ほ,そ・れがこのような共同経済的生産性を有する限りに.おい せ∴経常寝癖学におい七取り上げられるのである。
ジユニマ⊥レンバタハほ,この共同経済的生産性を国民経済的価値(voliとs料ir・tニ schaftlither加irt)によって測定されるべきものと解する。だが,かれほ,そ
こに.いう国民経済的価値の意味を明らか瞑しない。ホフマンによれば,国民痙 済的価値概念をもって選択原理としての共同経済的生産性を測定しようとする 経営経済学は,神短主義的思弁(eine mystischeSpekulation)の虜になりi,
自らの実在的性格(realerCharakter)を放棄するこ ̄とに.ならざるをえないの である。
師Vユ々⊥レンバッハの考えを受け継ぐケルトマッベル(E.Geldmacher,
(13)A.HoffmaJm,椚′ねcカ ぴfざJβカタβ′ノ,S.6
(14)A.Hoffmann,G郎扇〝乃.,S.1.
第48巻 第1号 86 ー β6 −
1885−・)は,企業をその道常主体の態度に.したがって:2つに区別する。投機 企業(Spekulationsunternehmungen)と堅固な経済的給付生産を目指す企業
(Unternehmungen,die auf solide,wirtschaftliche Leistungserstellung ausgehen)とがそれである。前者は,「自己の投下資本を危険に曝し,できる
限り高い利潤を得ようとする経済所有者の私資本家的動機(dieprivatkapita−
1istische Motivation des Wirtschaftseigners mit Einste11ung auf das Wagnis seiner EinlageunddemBegehr・en naCh m6glichst hohemGewinn一
(15)
bezug)」によって指導される企業を,後者は,「事象を経営の生活の中心から 考察し,費用と収益との作用行程の経済性の監視を意図する経常主の態度(die
Einstellungdes Betriebswir・teS,der die Dinge aus dem Lebenszentrum desBetriebesherausbetrachtetundaufdieUberwachungderWirtschaft−
(18)
lichkeit des:Kr斬tespiels von Aufwand und Ertrag eingestelltist)」に よって導かれる企業をそ・れぞれ意味すると解される。ゲルトマッへ・ルは,この 2つの態度によって私資本家的(privatkapitalistisch)なものと経営経済的
(betriebswirtschaftlich)なものとを区別する。前者が経営経済学的観点から して斥けられるべきであるのに対し,後者はまさに経営経済学的観点に適うの である。
ホフマンは,このようなゲルトマッヘルの区別を,現実世界自体からの類型 学的抽象(typologischeAbstraktionenausder Wirklichkeitsweltselbst)
によって得られたもので卑く,ゲルトマッヘルの倫理的価値判断(ethisQhes Werturteil)に.よって生じたものと解する。そしてし、う。
「このような区別によってさまざまの企業者型(Untemehmertypen),ひと が個性的現実をそれに,基づいて解明するとき理念型的構成物(idealtypische
Xonstruktionen)として優れた発見的意義(einehervorr・agendeheuristische Bedeutung)を有しえまた現に有している企業者型が特質づけられるちとは,
なんびとも否定しようとしないであろう。だが,この理念型的構成物は,現実に
(15)A.Hoffmann,a.a.0.,S.7.
(16)A.Hoffmann,a.a.0.,SS.7−8.
アレキサンダー・・ホフマンの企業経済学 ■】−β7一・
87
対する理想に基づいてなされる価値判断から,企業の共同経済的職能の意識か ら,生み出されるのではなく,現実世界自体からの類型学的抽象として生まれ
(17)
るのである。.」
ニッタリッシュ(H.Nicklisch,1876−1946)は,経営ないし企業を,企業 者とそ・の協働者である労務者(Arbeiter)および職員(Angestellte)とから構 成される資本を与えられた生産的経済共同体(einemitKapitalausgestattete produzierende Wirtschaftsgemeinschaft)と解し,このような考えに,基づい て,労務者に対する賃金および職員紅対する給料を費用ではなく共同の労働に よって得られる収益(Ertrag)に関する前払いされた分け前と解する。これに 対して,企業者ほ,これらを差し引いた残りの収益すなわち事業利潤(Gesch良一 ftsgewinn)から自己の資本−および企業者給付(Kapital−undUntemehmer−
1eistungen)に対する対価を受け取るのである。これらの諸額および企業保全 のための諸額(Unternehmungs−Sicherngsbetrage)を差し引いてこさらに収益 が残る場合には,こ.の残りは,付加賃金(Zusatzlohn),付加給料(Zusatzge−
h?lt)および特別の企業者給付のための企業者利潤(Unternehmergewinn)と
㌧て,労務者,職員および企業者に分配されることに・なる0
このように.企業者およびその協働者に.対して与えられる収益部分ほ,ニック リッシュによれぼ,傘業者およびその協働著それぞれの給付の価値紅・一致しな ければならない。共同体構成員の給付に対する過大な支払いおよび過少な支払 いほ,いずれも不経済的(unwif・tSCbaftli血)である。
この不経済的という言葉は経営の給付に・対する消費者の過大な支払いおよび 過少な支払いに.対しても用いちれる。ニックリッシュほ「『まじめな』やり方で
(18)
得られる利潤(dieauf,,anSt畠ndigeuWeiseerzieltenGewinn)」ないし「生産 者から消費者へと至る経路における市場価値差額の利用によ.って隼じる『自
然な』利潤(die naturlichen Gewinne,die aus der.Ausnutzung von
Marktwertuntersdhieden auf dem Wege vom Produzentenzum Xonsume−
(17)A.Hoffmam,a.a.0.,S.8.
(18)A.Eoffm8nn,a.a.0.,S.9.
− gβ −
勢ヰ8巻 策1号88
(19)
ntenentst6hen)」とr市場情況への人為的外人およびこれに.類する,道徳的 にI非難を免れえない操作から生じる『人為的』利潤(die gemaChten Ge−
Winne,dieausmoralischnichteinwandfreienOperationen,Wiektinstlicher
(20)
Beeinflussungder Marktlage und dergleichen hervorgehen)」とを区別す
為。このうち,「人為的」利潤は,経営の給付に.対する消費者の過大な支払い を意味するがゆえに.不経済的であり,「ま七めな」やり方で得られる利潤ない
し「自然な」利潤のみが経済的である。
とゐように.,ニックリッシュ紅おける経済性は,経営における分配疫.づいで のみならず市場と経営との交渉にも適用きれる規範である。換言す
クリッレ。.においてれ経済性ほ収益ないし利潤の正当性をその生成および共 同体構成員へのその分配に.おいて測る尺度・そある。
ボブ々ンに.よれば,このようなニックリッシュの経済性概念ほ「■ニックリッ
(21)
Vユの倫理的公準(dasethischePostulAtNicklischs)」た由来するものであ り∴実証的紅把えうるものではない。給付がそ・の対価と一致していノ畠か否か,
したがって経済的セあるか否かを判断するため檻ほ,ひとは給付の価値を計算 しなければならないのであるが,この計算方法はニックリッシュの由らかにす るとらろでほないゐである。
i/ユ.ミット(F.岳chmidt,1882⊥1由0)はそLの「有機的」経営観( Or・ga
ni占che B占triebsauffassung)において企藩ないし経営と国民経済とめ機能的
関係(derfunktionaleZusa;mmenhang)を重視し,2つゐ企業職5i領域を呈
示する。かれによれば,企東は取引(Umsatz)と資本(Kapital)とを処理し,
このことに.よって外界と結びつき総合経済に凝み入れられるのセある示,こお 2:っの処理にI対応しで,取引活動(Umsatztati岳keit)ないし歯有め経営目的
(der eigentliche Betriebszweck)紅関連する職分嶺痍と鹿本管理(dieXa−
pitalbewirtschaftung)ないし資本処痙(Kapitdldisposition)に関連する職
(19)A.Hoffmanh,a.a.0.,S.9.
(20)A.Hoffmann,a.a.0.,S.9.
(21)A.Hoffmann,0あブgか.,S.凱1.
89 アレキサンダー・ホフマンの企業経済学 −β9−
分領域とが生じる。
このうち,取引活動からほ,純粋の経営成果(derreine Betriebserfolg)
力強じる。ここに・いう純粋の経営成果ほ売価から取引日の再調達価格(Wieder−
beschaffungspreis)を差し引くことに.よって計算されるのであるが,このよ うに経営経済的計算制度において取引日における再禍達価格を用いるととは,
㌢ユミットに・よれば,「企業の相対的価値維持,すなわち総需要およぴぬ生産 に比例した価値纏持の原則(derGrJndsatzderrelativenWerterhalt。n壷der
Udtemehmung,d・h・einer・Wer・terhaltungim VerhaltniszumGesamt−
(22) b6darfuhazui・G品amtproduktion)」の要請するところに他ならない。
示ケ毒シ紅よれ怯シュミットのこゐような考え方は,総合経済的立場から 企業の生活法則(dieLd)enSgeietze deiUhteinehmuhg)および企東を拘東
i・
るもの軋他ならない。企業の相対的価値維持の慮則ほ.,企業め内在的法則(das irhmanbhteGesetz畠derUntemehmuhg)ではない云
「自由競争経済体制のなかで,一胤いがなる企業がその思考および行動庭
ぉし、セ総合経済的な生産の減退軋応じて自らを制限しようとする・そあろうカ£ヨ
ホブ寺シたよれ軋シュミット牢.おける企業め相対的価値維持の鹿則は,国民 痙済に養ける全体としItゐ実体資本(RedlkapitよⅠ)ほ使い尽くされる ぺきゃ はなくその大きさを維持されるべきであるというカッセル(Cassel)の国民経 癖字的席題を規範的紅解釈し宅個別企業に適用す為ことによってのみ生じるの である。
宜フマンほ,経常経済学の選択原理た関するシュマ−・レシバッへゲルトマ ツヘル,ニックリッシュおよびシュミットゐ見解を以上のように.解するととも に,これら藷見解の特質を何よりも1.経営経済学べの国民経済学的考察方 法の導入と 2・琴営経済学への倫理的価値判断の導入とに射、だす。この頃 合,われわれは,まさにこれら2つの特質こそ・,ホフマンが以上の諸見解の妥
(22)A.Hムffmann,Ge紺∫ガ机,S.12.
(23)A.Hoffmann,a.a.0.,S.14.
弟48巻 簸1号
−− 9♂・p・川】 90
当性を否定する主要根拠であることに.注意しなけれぼならない。
欝1に・,経営経済学へ国民経済学的考察方法を導入しようとする試みは,経 営経済学と国民経済学とがそれぞれに層有の考察方法を有する別個独立の科学 であるがゆえに,妥当性をもちえ.ない。
「前者が個別経済(.Einzelwirtschaft)(=企業一笠原)およぴその個別的,実 践的成果志向的目的追求から出発するのに対し,国民経済学は,『国民福祉の社
(24) 全的条件』,社会経済的現象およぴその関連を超個別的立場から取り上げる0」
ホフマンほ,アモン(A.Amonn)にしたがって,「『1つの科学はその諸 問題によって成り立っており,そ・の統一性,すなわちその諸問題の論理的に轡
∵酌または周⊥的翠条件がその科学の理論的統一催(dietheoretischQEinh壷)
(2の
および体系的完結性@iesystematischeGeschlossenheit)を形成する』」と 解する。ホフマンに.よれは,経常経済学に固有の問題ほ企業の利潤性追求に関 する諸問題であり,この諸問題が経常経済学を形成す−る。
いま,この特殊経営経済学的諸問題が,かり紅国民経済学的考察方法によっ て導かれうるとするならば,経営経済学ほそれに..固有の問題を失うこととな
り,経営経済学を独立の科学として構成するこ.とほ不可能とな卑であろう。だ が,ホフマンに.よれば,「自由経済に.おける企業の特殊経営経済学的諸問題ほ
■ 国民経済学的考察方法または総合経済的原理から論理必然的に導かれ解決され
(2の
うるわけではない。」
この問題は,企業紅固有の原理に基づいてこれを考察する場合にのみ解決され うる。
このように.考える限り,経営経済学において例えばシュミットのように「国民 経済紅おける一全体としての実体資本特使い尽くされるぺきでほなく,その大き
さを維持されるべきセあるという国民経済学的命題を規範的紅解釈レて個別
(24)A.Hoffmann,Ob]ekt.,S.806,mrtSChaJisZehre.,S.7.Vgl.,A.Hoffmann,
Gβ甜∠醐.,S.13.
(25)A.Hoffmann,Gβ抄i−乃〝,SS.13−14り
(26)A.Hoffmanz),Objeki.,SS.8O6−・807,mTtSChaftsteh,e.,S.7・ygl・,A.Ho・
ffm8m,G紺 ガ〝.,SS.13−14.
アレキサンダー・・ホフマンの企業経済学 ・−9J一 91
(27)
企尭紅適用することは方法論的に誤っている。」
「−シュミットの演繹は1他のすべての国民経済学的原理からの演繹と同じく
(28)
邪道たらざるをえないのである。」
もっとも,以上に.述べたことは.,経営経済学が国民経済学と密接な絆で結ば れていることを否定するものでは.決してない。ホフマンに.よれば,「企業はそ れ自体まさに全体の疲体であり,また全体は企業を基提とする。企業の給付 は.,個別的な私益(Eigennutzen)にとってばかりでなく,公益(gemeiner Nutzen)にも役立つ。企業の利潤紅よる資本形成は,同時に最高の国民経済
(29)
的関心事なのである。」
そらで,企業は,国民経済政策の対象,企業に.とって外部からの規制(Re・
gelungVOn auJ3en)の対象となり,国展経済学の対象となる。
だが,企業と国民経済とのこのような関わりは,経営経済学への国民経済学 的考察方法の導入を正当化するものでは決してない。
「このようにすれば,特殊科学(Sonderdisziplin)としての経営経済学の 発展ほ,促進されないばかりか阻害されることに.なるであろう。国民経済学
も,長い間方法論的不.安定性を経験したのち紅,著しい絶イヒ過程に・おいて多種 多様のもの…両を捨て去ることに.より,自己を自覚せざるをえなくなっている
(30)
のである。」
第2に.,経営経済学へ倫理的価値判断を導入しようとする試みほ,ホフマンに よれば,「経営経済学を国民経済学のような実証主義的基礎を持つ倫理科学の
高位(dieW叫deeinerethischenWissenschaftaufpositivistischerGru云d−
1age)に引き上げなければならない,あるいは少くともこのことに着手しなけれ
(81) ばならない」という近年における幾人かの経営経済学者の信念に基づくもので ある。その際,経営経済学を国民経済学のような倫理科学にまで高めようとす
(27)A.Hoffmann,mrischaftslehre.,S。7.Vgl.,A.Hoffmann,Gczpinn.,S・14・
(28)A.Hoffmann,Gβ抑iガ玖,S..14.
(29)A.Hoffmann,耶rねCカ〃ノねJβかβ.,S.7.
(30)A.Hoffmann,ム.a.0.,SS.8−9
(31)A.Hoffmam,G膵癌叩.,S.6
一一・92 −
葦48巻 第1弓 92る意図から,こ.れらの経営経済学者は,経営凝済学に.,その選択原理として,
かの曖昧な凰民経済的価値を持ち込中こと紅よって,経営経済学の倫理化を企 て−ることとなった。経営経済学へ国民経済学的考察方法を導入しようとする試 鼻は,まさに.,経営経済学を倫理化しようとする試みと結びついていることが
(32) 注意されなければならない。
ホフマンほ,経営経済学を経験科学(Erfahrungswissもnscbaft)と解する立 場から経営経済学倫理化の試みを拒否する。かれによれば,経験科学としての 経営経済学ほ;経験的現実,(dieehlPirische Wirklithkeit)を分析しこ′れを諸 範疇に整序することないし実在する事実(die realen Gegebenheiten)Pを認識 閑際(Etkenntniszu由mmenhang)にまで高めるt,とによibでのみ,その翼当 性を主張できる。
イ誰もが自己に薗有の理想を持ちこれを主張することがセきるしまたそサす べきである。何びともある経営経済学者が自らを国民経済学者と『感℃る』こ とを痛みほしないであろう。ただ,このような経営経済学者は,自己の理想お よ
(83)
小 感情をもってほ;概念を形成することも科学を形成することもできない。」
ホフマンによれば,経験科学としての企業経済学ほすそ・の対象である企轟 を,これ紅内在的な利潤性追求という経験的観点から考察する。ところセ,わ れゎれは,とめような行き方が,かつてプレyタ」ノ(L.Br占ntano)に.よっノセ 非感され爽科学的と垂れた行き丸すなわち了企業ないし企業恕あよびそ・ゐ成
(34) 果を経済学的考察の出発点に層く行き方」をなすこ.′とに.注意すべきであろう。
だが,ホフマン虹よれば,企業をその利潤性追求の観点から研究すること軋
(3芦)このような倫理化の試みが,とりわけ国民経済学における倫理学派に与ってなされ
たいわゆる「金儲け論」の非難と関連をもつととはいうまでもなぃであろう。このこ とについては,次を参照のこと。
A.Hbffmann,0ろブβ彪f,S..801.
笠原俊彦稿「カ・イグン・ジ岬バ一− の経営饉済学一岬ドイノブ経営経済学払おける技術論 学派の一考察−−」『香川大学経済論菜』第45巻第2号,昭和47年,撃−94ぺ−ジ。
(33)A.Hoffmann,a.a.0.,S.810,Gewinn.,SS6−7
(34)笠原俊彦前掲稿,93ぺ−汐を参照。
一−−9β −
アレキサンダー・ホフマンの企業経済学
93
経営経済学の客観性を損いそのむとに.よつて経営経済学を非科学とするもので は.決しでない。
ホフマ署によれば,「資本主義経済社会ほ,私的所有に・基づく企業者の私経
(35)
済的利潤追求を価値としで認めでいる。」
企業経済学ほ,この事実を受け取り,企凝着の利潤追求を研究するd 迄の意 妻味払おいては,企業経済学は,価値判断から自由(wer.turteilsfrei)ノではな
い。だが,企業経済学は.,資本主義経済社会に・おける利潤追求どい如隠植をた だ受ゆ取るに.過ぜず,こ「の価捲眉体がを、も・そ滝正しいも中骨あるか否か,すな おち・その昔悪を問うわけでほない。経営経済学が価値判断から自由でない塵外、
うことは,経常経済学が価値関連づゆ(WeI・tbe鹿kuqgen)をなすことを意味 するに過ぎなも、のであっも価値判断をなすことを意味するものJでは凍して庭
(36)
いのである。
ホフマンに.よれば,経常経済学の領域にほ,世界観的先験性r撫in】・,,W頑t−
anschauliches Apri肝i )は存在しえ.ない。 てそして,価値に.対する経営経済学
;の以止の態度1は,科学のなかに世界観約先験牡を持海込むも■のではなく「汗この 意味に,おいて,固有の科学領域(eigene琴Wissenscbaftsgebie土)を逸脱する
もので膵.ないのである。
卒フマンkよれは,企業を為の利潤華過球という実囁的価値観点(騨ak−
tischer Wertgesichtspunkt)から研究する経営経済学蛛実践・−・経験科学
)(やinei)raktisch−empirische Diszipli【‡)としての性格を有するb経営経済学は,
企業の諸施策を‥その目的疫.照らして批判検討し,目的合理的施発な確認するも こ.の意味において,ホフマンほ,経営縫済挙が「個別経常ない㌧辱企業の一定の経
(35)A.Hoffmann,mrischaftslehre.,S.9
(36)もっとも,諸現象が関連づ断られ希ぺき価値ない七価値観点の選択は,価値判断に よ∴ってのみなされうる>のであり,研究者はその価値観点申選択に責任をも豊ムセのこ とは,−そこ紅選択された価値がその社会において倫理的反対を受亜宰−い呑ものであれ ばあるだけ,選択者の自らの価値選択を擁護し正当イヒせんことする欲望を引き足こす。
このことは,規範論的立場を敢然と痕香し,自らの企業経済学鱒金儲け論であ昂こと を主張するホフマツ紅ついて■・さえi・必ずしも例外ではないよう紅思われる。例えば,
本稿第5章第3節の注25(次号に.掲載)を参風せよ。
仙− 5リ ー
第48巻 第1号94
(37) 営−および企業政策的施弟に関する価値判断をな」し,存在当為(Seinsollen−
(38)
den)を確認するという。だが,われわれは,この意味に.おける価値判断およ び存在当為の確認が,いまなお「経験的現実を分析し諸範疇に.整序すること
(die empirische Wirklichkeit zu analysieren und nach Kategorien
Ordnen),実在的所与を認識関連に,持ち込むこと(die realen Gegebenheiten
(39)
in einer Erkenntniszusammenhang zu bringen)」を意味すること,経験科 学の課題領域を超えるものでほないこと,を注意しなければならない。
ところで,利潤性から区別される経済性に経営経済学の選択原理を求める見 解としてほ,以上に.おいで取り上げられた諸見解の他に,なお1つが問題と れなければならない。経営経済学の選択原理を技術的合理性(dietechni9Che
Rationalitat)ないし技術的効果性(der technische Wirkungsgrad)の意味匿 おける経済性に求める見解がそれである。この経済性概念に.おいては,企東の 個別諸活動のそれぞれ紅ついて,その個別的合理性が費消(Aufwand)と効 果(Effekt)ないし成果(Erfolg)との比較に.よっ′て問題とされ,企業の諸種 の個別活動に対応する諸種の経済性が生じることになる。生産技術的意味にお ける経営の技術的合理性ないし経営経済性(Betriebswirtschaftlichkeit),原 材料購入の経済性,商品版売の経済性などがそれである。技術的合理性の意味 における経済性とは.,これら諸種の経済性の総称に他ならない。
ホフマンによれば,このような経済性は,企業の利潤志向的合理性(die・am Gewinn orientierte RationalitatderUnternehmung)紅役立ち,利潤形成過 程払おける要素となりうる。だが,このことは,このような経済性の向上が笹 ち比企業の利潤性の向上に結びつくことを必ずしも意味しない。たしかに.技術
(37)A.Hoffmann,Gewinn.,S。6.
(38)このようなホフマンの表現が,中村常次郎教扱をして,ホフマンが実はクェ−バ−
の意味紅おける価値判断をなすことを意図している「■『見せかけの没価値性』・r似て 非なる投価値性』」論者であると誤解せしめた1因であろう。中村常次郎前掲稿39−
40,63−64ぺ−ジ,および笠原俊彦前掲稿114ぺ・−ジを参風せよ。教授における上記 誤解の他の1因としては,さらに,教授に.おいても政策と政策論との区別が理解され
ていない点が指摘されうる。中村常次郎前掲稿40−41ぺ・一汐を参風せよ。
く39)A.Hoffmamn,G♂紗′〝れ,S.6.
アレキサンづL−・ホフキンの企業経済学 −−95−
95
的合理性の意味に.おける経済性ほ,一・定の条件のもとでほ,利潤性に・直結す る。例えば,ある製品の単位当り原価の引き下げは.,もしも他の条件が等しけ れば,直ら檻.利潤性を向上.させるであろう。しかし,特定の個別活動の経済性 ほ企業の利潤形成過程における単なる1要素であるに.過ぎず,そのため,その 上昇が他の諸活動の経済性下降に.よって相殺され利潤性の向上に.結びつかない
斑0)
ととは,現実把.しばしば経験されるのである。それのみでほない。ホフマンに よれば,特定の技術的合理性の意味における経済性の観点から見て促進される べき施策が,利潤性の観点から見るとむしろ拒否されるぺき場合さえ存在す
る。
「経営的合理性の立場から見て必要でありうる個別施策が,他の諸要因の制 約を受けで,不経済的なものとして,利潤性の理由から拒否されるべきことが
(41) ありうる」のである。
ホフマン牒こよれば,このような経済性は,企業括動の全体を統一的紅研究す る経営経済学ないし企業経済学の選択原理としては妥当性を有しない。企業に おける個別活動の合理化ほ,そ・れが企業の全体的目的の追求のため把行われる
ものである以上,個別諸活動の孤立的合理性の見地すなわち技術的合理性の見 地からでほなく,企業の全体的目的ないしほ.最終目的(Endzweck)に.対する合 理性の見地からなされなければならない。技術的合理性の意味に.おける経済性 は,企業に.とってそれ自体として意味をもつのでほなく,企業の最終目的に貴
(42) 献するがゆえに,またその限りに.おいてのみ,意味をもつに.過ぎない。
(40)「高い経営経済性卵憫計算濫おける効果ほ,低い購買−・または販売経済性に・よら て相殺され,または凌鷲されることさえある。生産過程が技術的に.なお完全であって も,例えば企業経営者が原材料の購買ま■たは製品の販売に.おいて誤った処理をした,
または不況のため虔たは競争者が価格を下げたため紅売価が有利ではなかった,など のために,利潤性が低い,または負であることがありうるのである。」(A.Hofト mann,Wirtschqfislehre.,SS..13−14.)
(41)A.Hoffmann,mTItSChaftslehre.,S.15.
(42)このような考えから,ホフマンは,例えば広告におけ卑美的表現の追求について,
次のように述べている。
「しかし,芸術のための芸術(1,art pourl,art)ではなく,企業的成果のための 芸術が問題である。この実践的利益という目的は,芸術的形成紅一定の限界を与え
る。」(A.Hoffmann,mrtschaftslehre.,S.649.)
第48巻 第1号
96
ー 96 一
利潤性は,企業に眉有の最終目的である。それゆえに・,ひとほ,利潤性の観 点から考察するとき,企業の問題を最も良く把握することができる。ホフマン 軋よれば,選ばれた選択原理の正しさを試す試金石(derPriifstein)鱒「そ
れ(=選ばれた選択原理一笠原)によって企業世■界匿おける著ししく多様な
(43) 経験的諸現象がまことに良く把現されうる」か否か軋求め与れるのであ萄が,
この試金石は経営経済学の選択原理として・利潤性原理を選ぶことの正トさを証 明するのである。
へ以上に.おいて−,われわれほ,ホフマン紅おける企琴経済学の選択原嘩が利潤 性原理であると述べてきた。だが,これについて1われわれほ,次のことを指 摘レ菅おかなければならない。ホフマシが企業経済学の選択原理を咽益十ない
t/利潤性原理(Ert用gS−04erRentabilitatsprinzip)と∫も述っている迄と,ゝこ れである。ここで,われわれは,かれが企業経済学の対象としての企業な広義 ぬ解し,これ紅私企業モあると公企業であるとを問わず,ま虎法形態,業種,
規模の如何を問わず,すべての企業を含める理由として,これら詩企業部収益 ヤないし利潤性追求に.関する問題関連から見るとき同十であろヱとをあげてい
∴たことを想起すべきであろう。同じ箇所で,かれは,次のように・述べている。
「収益追求ほ.1・・∵…私的一商事企業(pr・ivatkapitalistischTkaufm畠nnisches Unternehmen)に.みられるような利潤追求を志向する必要はない0・『公益晩』
公企業(ein gemeinniitzigesりUnternehmender6ffentlichen王Iand)∵・
は,原価補償(Kostendeckung)紅必要な限りでの収益のみを達成しようあす ることがあるであろう。したがって,利潤追求でばなく単な芦原価補償の窄め
(44) の収益追求が存在する。」
ホフマンに.おいては,利潤追求は,利潤性追求と同義紅用いられる。この引用
文から,われわれは,ホフマンに.おける収益追求が私的一滴事企業粧見られる ような利潤追求ないし利潤性追求のみならず,公益的公企業に.おける原価補償 のための収益追求をも含むことを知るのである。
(43)A.H9ffmann,a.a.0.,S.6.
(44)A.Hoffmann,a.a.0.,S.5.
アレキサンダー・ホフマンの企業経済学
一・97・−
97
収益追求に食まれるこの2つのものの関係を,われわれは,次のよう紅理解 することができる。
利潤追求ほ私的一偏事企業において端的に∴その発現をみるのであるが,しか し,・それは,公企業に.もみられないわけではない。たしかに,公企業に・おいて は,利潤性ほ必ずしも十分に.自らを実現することができない。なぜなら,公企 業に.おいてほ,その経済管理(Wirtschaftsfuhrung)に・しばしば公共的配
(6ffentliche Rticksichten)またほ政治的諸動機(politische Motivationen)
といった非経済的性質の影響(Einfliissenichtwirtschaftlicher Art)が入り
(45)
込み,これが利潤追求を著しく制約するからセある0
だが,このことは.,公企業の経済管理に・おける利潤追求の存在を否定するもの でほ決してない。ホフマンに.よれほ,すべてこの企業ほ,その経済活動において 何らかの他律的制約を受けでいる。こ.のことは,私企業についても例外でほな い。ただ,こ.のような制約は「公益的」公企業に・おいて著しく,そのため,そ
こに.は,他律的制約を受けた利潤追求のいわ蝶限舞例がみられるのである。ホ フマンのいう原価補償のための収益追求とは,まさに,このような利潤追求の 限界例を意味すると解される。それは,利潤追求の最も不十分な発現形態をな すのである。
このように解するとき,われわ叫は.,企業の利潤追求について,その発現の 程度を異にする枚数の形態をみいだしうることになる。ホフマンは,このよう に.発現の程度を異にする利潤追求の全体を収益追求とよぴ,また,そ・のうら,
とりわけ私的一滴事企業紅見られる端的な利潤追求を私経済的利潤追求あるい は.簡単に.利潤追求とよぶのである。
ところで,発現の程度を異にする諸々の利潤追求は,・ホフマンに‥おいてほ,
そゐすべ七がそのまま同等の重要性を有するわけではない。 ホフマンれ とり わけ,端的な利潤性追求に関する諸問題,その全体が私経済的利潤追求を志 向する豊富な諸問題こそ,豊富な内密を持つ独立の科学(einegesonderte
(45)Ⅴgl。,A.Hoffmann,a.a.0.,S.120.
第48巻′第1号
−− 9β −
98Wissenschaft mit weitemInhalt)としての企業経済学の形成を可能に.する と解する。私経済的利潤追求こ・そ資本主義経済社会に.おける企業の利潤追求の 典型であり,このような利潤追求に.関する諸問題こそ企業経済学の成否を左右 する。そこで,かれは,私経済的利潤追求を重視し,とりわけこ.の意味に.おけ る利潤追求の観点から企業経済学の対象を考察するのである。企業経済学は企 業を「企業に固有の,とりわけ私経済的利潤追求の観点から考察する」(傍点
−・笠原)というかれの論述は,まさにこのことを述べたものにイ由ならない。
こ.のように.,資本主義経済社会紅おける企業の利潤追求の典型としての私経 済的利潤追求を重視し,この意味把.おける利潤性を企業経済学の選択原理とす
る考え方は,企業経済学の対象として,この意味に・おける利潤追求を行なう企 業を重視することとならざるをえない。このような企業は,いうまでもなく私
(4¢)
企業である。だが,それのみでは.ない。私経済的利潤追求に.関する諸問題は,
私企業のなかでも株式会社形態碇おいて営まれている大規模企業に.おいてとり
(47) わけ明確に.現われる。私的大規揆株式会社企業の領域紅おいてほじめて,「そ
の全体が私経済的利潤追求を志向し,豊富な内容を持つ独立の科学としての経
(48)
営経済学を生ぜしめる豊富な諸問題」がその姿を現わすのである。そこで,ホ
(46)ホフマンによれば,公企業に.おいては,私企業に・比べて,企業の経済管理紅しばし ば公共的配慮または党利党略的諸動機といった非経済的性質の影響が入り込むばかり でなく,定規的活動(dasSchablonenmABigederTatigkeit)を超える創意(Ini−
tiative)および迅速な決定(rasclle EntschlieBung)を必要とする活動■すなわち冒 険(Wagnis)の開始が問題となる場合に,その運営主体の易動性(Beweglichkeit)
に限界があり,この点に.おいても,公企業の沼動は,資本主義経済社会に・おける企業
の利潤追求活動の典型とはいわれえない。(Vgl.,A.Hoffmann,椚■7■ねcカq/ねJβカ㌢■玖.,
S.120.)
なお,ホフマンに.おける冒険め意味に.ついては,本稿第三章以下を参隠せよ。
、(47)ホフマンに.よれば,株式会社形態は,資本主義経済社会紅おける企業の代表的法形 態である。けだし,それは,出資者の危険を制限し,小資本所有者の参加を可能に し,持分を容易紅譲渡可能とすることにより,巨額の資本を集中せしめる機能をもつ がゆえに,大規模企業(GroBunternehmungen)とりわけ巨大企業(Riesenunterneh・
mungen)に.適した法形態をなすからである。
もっ、とも,株式会社形態は,大規模企業に∴おいでのみ採用されているわけではな い。それは,多くの小・中規模企業に.おいても採用されている。ホフマンによれば,
小規模株式会社の割合は,ひとが想像するよりも遥かに.大きいのである。(Vgl・.,A.
Hoffmann,Wirischqfislehre.,S..117,135.)
(48)A.Hoifmann,a.a.0.,S.5.