─作成年代の考察と名請人─
開 沼 正
はじめに
本論で使用する史料は,近世の村木沢村で作成されたものである。近世の村木沢 村は,初期には山形藩領であったが,中期以降は幕府領,棚倉藩領を経て,宝暦 13 (1763) 年からは下総国佐倉藩堀田氏の飛び地領 (およそ4万石) の一部となり,
明治に至っている。
村高は,寛永 16 年の保科氏の検地では 3576 石1斗4升,『旧高旧領取調帳』
1)では 4400 石余りと開きはあるが,いずれにせよ,かなり大きな村といえる。その ためか,村は中村木沢 (中組) と下村木沢 (下組) に分かれ,それぞれに名主がい た。明治 22 年に北隣の若木村と合併 (村名は村木沢村) し,さらに昭和 31 年には 山形市と合併して同市西部の大字となった。
名寄帳については,1冊を除いて全て村木沢公民館の保管文書で,33 冊が現存し ている。しかし表紙が欠落しているなど,作成年代や内容を把握しにくいという点 があるためか,今までこれらを史料として研究されてきたことはない。本論では,
これら名寄帳を研究史料として使えるように名寄帳自体の基礎研究を行いたい。
1.名寄帳全体の総括
2)名寄帳はいくつかのタイプに分類できる。まずは村の耕地全体を網羅する目的で 名請人ごとに名請地をまとめて作成したもので,これが全部で 10 冊ある。これら 10 冊はサイズも縦 16.5 ~ 18.5 センチ×横 45 ~ 49.5 センチの横帳である。
内訳は,享保 17 (1732) 年のもの1冊,表紙欠落のため年未詳のもの3冊 (以下,
未1,未2,未3と呼ぶ) ,宝暦9 (1759) 年の年号をもつもの6冊 (以下,1759 ─ 1~
6と番号をつけた)
3)である。
次に,表紙に「田畑名寄帳」の他に個人名が書かれ,その個人の名請地を1冊に まとめた名寄帳が5冊 (4人分) ある。元禄5 (1692) 年の次右衛門分,寛延2
(1749) 年の平四郎分,同3年の平右衛門分 (太郎兵衛前) ,同じく平右衛門分 (次右 衛門前) ,および天明7 (1787) 年の平次分 (甚平高内) である。個人の名寄帳には 他に断簡になっているものも何点かあるが,ここでは冊数にカウントしない。
サイズは元禄5年のものが,縦 16 センチ×横 22 センチ (横帳の半分) で,それ
以外の4冊は標準的な横帳と同じサイズである。個人の名請地や取米などについ て,「右之通相違無御座候以上」として,庄屋が証明している。いずれも近世中期 に名主を勤めたことがある渡辺甚平家に伝来した史料と思われる。
サイズの小さい名寄帳が7冊ある。その7冊が紙縒りでひとまとまりにされてい る。サイズが縦 11 センチ×横 17.5 センチと横帳の4分の1の大きさなので,「ミ ニ版」と名づけ,保管されていた状態で上から順に M‐01 から M‐07 までのナンバ ーを振った。
最後に明治9年 12 月作成の「小前名寄帳」がある。サイズは標準的な横帳と同 じである。「拾弐冊之内第壱号」から「拾弐冊之内第拾弐号」まであるが,第 10 号 を紛失しているので残っているのは 11 冊である (以下,1876 ─ 01 ~ 12 とする) 。 残っている名寄帳のタイプをまとめると,以下のようになる。
1.全村的な土地を把握するために,名請人の名請地ごとに記載した名寄帳。
「村の名寄帳」といえば,通常,こうしたタイプを指す。年未詳の3冊を含 め,全 10 冊。
2.1の名寄帳から,ある個人の部分を抜き出して作成したような名寄帳で,庄 屋が個人宛に発行する形式のもの。これは5冊ある。
3.標準的なサイズの横帳と比較すると4分の1のサイズの名寄帳。「ミニ版」
と名づけて7冊ある。
4.地租改正の実施に向けて明治9年に作成された近代の名寄帳。12 冊作成さ れたうち,残っているものが 11 冊である。
本論では上記の名寄帳のうち,主に1について考察を加える。
2.名寄帳を整理する
享保 17 年の名寄帳 (写真1) は,現存するなかで最も古い (個人の名寄帳を除く) 。 しかし記載されている名請人の数や取米の高から見て,この名寄帳は中組分の一部 分だけであることが分かる。
享保 17 年の名寄帳に記載された名請人および土地群
4)は,ほぼ未1に引き継が れている。したがって未1も中組分の名寄帳ということになる。また未1は,記載 内容から見て寛延期
5)に作成したと考えられる。享保 17 年の名寄帳から未1にか けては,土地が 1800 筆余りから 2000 筆余りに増えているが,主に相続時の土地の 分割によるものである。
宝暦9年の年号をもつ6冊の名寄帳のうち,享保 17 年,および未1の名寄帳の 土地群が記載されているのは主に 1759 ─1と 1759 ─5である。この2冊に集中して いる。実際に 1759 ─1と 1759 ─5の表紙には「中村」 (以下破損) とか「中村木沢」
(以下破損) と記されている。
ここで 1759 ─1とか 1759 ─5という数字は,史料調査の便宜上で割り振った番号
であるので,結果として1と5という離れた数字になってしまった。しかしこの名
寄帳が作成された時には,享保 17 年の名寄帳や未1に記載された土地を引き継ぐ
中組分の帳面としてひと続きだったであろう。もし名寄帳の作成者が番号をつけた とすれば,「中組分」として連続した数字になっていたはずである。
ただし下組の名請人で 1759 ─1や 1759 ─5に記載されている者 (平右衛門など)
もいるし,元は中組の名請人の土地が 1759 ─1や 1759 ─5以外に記載されている場 合
6)もある。後者は中組の名請人から下組の名請人に土地の名義が移ったケース であろう。
1759 ─1と 1759 ─5では,どちらが先にくるのだろうか。1759 ─1の最後の部分 に中組と下組の「惣寄」 (田畑の内訳や年貢高) が出ている (各組ごとの惣寄は,その都 度でている。この点は 1759 ─ 1と 1759 ─ 5で共通である) 。取米としては中組が 595 石5 斗 5 升6合2勺8才,下組が 795 石2斗9升1合2勺1才で,両組合計で 1390 石 8斗4升7合4勺9才が年貢に出す分である。こうした全村的なデータは総括とし て通常は帳簿の最後に載せるだろうから,1759 ─1と 1759 ─5では 1759 ─1が後半 部分の帳面であろう
7)。
残りの4冊が下組分
8)と推定される。ただしこの4冊を合計した名請人が 70 人 で持高が 1000 石余りしかない。下組の取米を年貢率 0.393 で割れば 2023 石余りが 下組の持高ということなので,この4冊だけでは下組全体のおよそ半分しか網羅で きていないことが分かる。
3.未2・未3の名寄帳を宝暦9年と推定
どこかに欠落した帳面があると思われるが,それらが未2・未3ではないかと推 定した。その理由を以下に述べる。
第1に「ミニ版」との比較においてである。ミニ版は,宝暦9年の年号をもつ名 寄帳を写したとみられる (ミニ版については稿を改めて考察する) 。比較して見ると M ─ 05 と M ─ 07 が未2と未3と同じである。また M ─ 03,M ─ 04,M ─ 06 がそれ ぞれ 1759 ─6,1759 ─3,1759 ─2と同じ内容である (1759 ─ 4に対応するミニ版は未 発見) 。
写真1 享保 17 年名寄帳
ミニ版の方は (中組分を含めて M ─ 01 から M ─ 07 まで) 7冊がひと括りになって保 管されているのであるから,未2と未3が (1759 ─ 2,3,4,6と同様に) 宝暦9 年の年号をもつ名寄帳の一部と考えるのもごく自然である。
第2に,未2・未3に記載された土地群を継承する名請人が宝暦9年の年号をも つ名寄帳の中に見出せないということである。仮に未2・3が,宝暦9年より前に 作成されたとすれば,宝暦9年の名寄帳の中に未2・3の土地群を継承している名 請人がいなければならない。しかし未2・3に記載された土地群と,宝暦9年の名 寄帳の土地群の間には,同じ土地群が全く見られない。これは未2・未3と宝暦9 年の名寄帳が,同年代に作成された一連の史料であることを意味している
9)。 第3に,未1と未2・未3の間には,名請人の変遷が反映されているということ である。たとえば未1の三郎兵衛が名請けする土地 (下田7斗 7 升代,25 歩,字「沢 田」) には「宝暦十二午ゟ下茂兵衛分ニ成ル」
10)とコメントされている。この名請人 変更の記事は,未2の茂兵衛が名請けする土地群 (75 筆) の中に見出される (下田 7斗 7 升代,25 歩,字「さわ田」) 。これにより,未1と未2との間に土地移動の経過
(時間的には未1が先,未2が後という連続性) を見出すことができた。
これはほんの一例にすぎないので,もう少し連続性の事例をさがしてみよう。未 1が中組の名寄帳であり,未2・3は下組分と推定されるので,未1から未2・3 への土地の連続性を証明する事例はあまり期待できない。未1に記載された名請人 から土地を譲り受けた下組の名請人がいれば,未2・3に名請人変更の記載を見つ けることができるかもしれない。そこで名寄帳に記載された個別の記事に注目し,
未1の土地の中で下組の名請人に変更が生じた事例をさがした。
名寄帳の記事には上記・茂兵衛のように「下誰々」という記載パターンの他にも
「下組誰々」「下村木沢誰々」などと記載されている場合もあり,これだと明確に下 組に属していることが分かる。未1 (中組分) の名寄帳の記事で,下組に名請人の 変更があった事例を拾ってみると4人いる。表1の茂兵衛をはじめ,喜右衛門,長 助,喜三右衛門である。
喜右衛門には,未1の万吉から上田 (12 歩,辻田) 1筆が渡っており,それが未 3に記載されている。表2の九兵衛に続き,ここでも未1から未3への連続性が見 出された。九兵衛の所属は中か下か判明しないが,「無高」の耕地7筆を所有する 名請人として未3に記載されている。いずれも未1の平次郎が名請していた土地で ある。
未1の源蔵から長助に対しては,上田 (3反5畝歩,ゆや免) と上畑 (24 歩,とよ 田) の2筆が渡っている。また源蔵からは下々畑 (1畝 12 歩,はさま) 1筆が喜三 右衛門に渡っているが,これらの土地は未3ではなく 1759 ─3と 1759 ─4 (いずれ も下組の帳面) に記載されている。したがってこれらのケースは,未1から未2・
3にかけて連続性があることの証明にはならないが,長助や喜三右衛門が下組であ ることから,1759 ─3と 1759 ─4が下組分の名寄帳であることの傍証となるので一 応挙げておく。
第4に,未2・3で見られる「相役」の存在がある。たとえば「仁三郎相役 八
右衛門」のように,名請人の右上に肩書きのように書かれている。続く仁三郎の名 寄せ部分には「八右衛門相役 仁三郎」のように書かれている。2人の名請人を1 つのペアにしていることは分かる。年貢なども2人で負担していたようだ。たとえ ば喜助と三助の場合,「三助喜助〆三拾五俵壱升五勺五才」
11)とある。
相役については,具体的にどのような機能をもっていたのかなど不明な点も多 く,これからの研究に譲りたい。
ともあれ,この相役の記述が見られるのは,未2・3の他には 1759 ─2,3,4,
表1 名寄帳未1から未2(下組・茂兵衛)への土地移動の例
旧名請人 田 畑 茂兵衛部分の記述
三郎兵衛
下田 10 歩,屋敷下 → 下田 10 歩,屋敷下 下田 25 歩,沢田 → 下田 25 歩,さわ田 下畑 24 歩,十弐 → 下畑 24 歩,十弐
与一右衛門
下々畑4歩,川原
→ 下々畑1畝歩,たての 下々畑 13 歩,川原
下々畑 13 歩,川原
平次郎
上畑1畝歩,館野 → 上畑1畝歩,たての 上畑4畝 24 歩,館野 → 上畑4畝 24 歩,たての 上畑2畝歩,館野 → 上畑2畝歩,たての
光円寺
下々田3畝 10 歩,沢田
(1畝 1 歩永引) → 下々田2畝9歩,さわ た
下畑4畝 10 歩,まめ田
(下々田成) → 下畑4畝 10 歩,大豆田
(下々田ニ成ル)
表2 名寄帳未1から未3への土地移動の例
旧名請人 田 畑 新名請人 田 畑
平次郎
下々畑 29 歩,前坂 →
九兵衛
下々畑 29 歩,前坂 下々畑 12 歩,前坂 → 下々畑 12 歩,前坂 下々畑 22 歩,前坂 → 下々畑 22 歩
下々畑1畝2歩,滝沢 → 下々畑1畝2歩
下々畑1畝歩,前坂 → 下々畑1畝歩
下々畑 11 歩,前坂 → 下々畑 11 歩 下々畑2畝 11 歩,前坂 → 下々畑2畝 11 歩
※下々畑1畝2歩(滝沢)のみ,斗代が2斗8升代,他の下々畑は1斗8升代
6である。つまり下組分と思われる宝暦9年の年号をもつ名寄帳だけである。享保 17 年,および未1と同年代の寛延期の下組分の名寄帳が残っていないので,相役 が享保期からあるのか,宝暦期から始まったのかは不明だが,未2・3の名寄帳が 宝暦9年の年号をもつ下組分の名寄帳と共通の特色があることが分かった。
最後に,未2・3が宝暦9年の年号をもつ名寄帳より後に作成された可能性につ いてはどうだろうか。名請人の変更があった場合,その度に名寄帳に訂正事項を記 入する。訂正された時の年号が書かれている場合も多い。記された年号で最も新し いものを見れば,その名寄帳が「現役」で使用された下限の時代がわかる。未1で は「宝暦」が下限の年代である。宝暦9年に新しい名寄帳が作成されたとされるの だから当然であろう。
一方,未2・未3,および宝暦9年の年号をもつ名寄帳には明和 (宝暦の次) か ら明治 (下限は3年) にいたるまでの年号が見られる。つまり宝暦9年の名寄帳は 明治になって新たな土地台帳
12)が作成されるまで使われ続けたわけで,この宝暦 9年の年号をもつ名寄帳が近世で作成された中では最も新しいことになる。
こうしたことから年未詳の2冊はいずれも宝暦9年の年号をもつ6冊の名寄帳と 同時代に作成されたことが明らかになる。
4.宝暦9年の年号をもつ名寄帳の作成年代
宝暦9年の年号をもつ名寄帳には「宝暦九年」と書いてあるのだから,作成は宝 暦9年かと考えていたら,そうではなかった。本文でもわざわざ「宝暦9年の年号 をもつ名寄帳」としてきたのは,そうした意味を込めている。ここで8冊ある宝暦 9年の年号をもつ名寄帳が作成された時期について考察したい。
まずは作成年代の下限が分かる 1759 ─2と 1759 ─6についてである。1759 ─2に は利八という名請人がいる。利八が名請けする土地のひとつに2畝 12 歩の下々畑
表3 名寄帳に見られる相役の例
記載の名寄帳 相 役 例
未2(7) 八右衛門 ‐ 仁三郎,金三郎 ‐ 専太郎,五兵衛 ‐ 与助,伝四郎 ‐ 源兵 衛,久助 ‐ 佐助,伊右衛門 ‐ 与一郎,市三郎 ‐ 喜平次
未3(3) 庄兵衛 ‐ 惣吉,清五郎 ‐ 孫左衛門,伊兵衛 ‐ 孫左衛門 1759 ─2(2) 清助 ‐ 小七,甚兵衛 ‐ 利八
1759 ─3(3) 治兵衛 ‐ 弥次右衛門,源次郎 ‐ 五郎左衛門,長右衛門 ‐ 清吉 1759 ─4(4) 長兵衛 ‐ 清右衛門,八兵衛 ‐ 清右衛門,広福寺 ‐ 喜三右衛門,文
助 ‐ 久左衛門
1759 ─6(4) 喜助 ‐ 三助,久四郎 ‐ 彦作,左助 ‐ 嘉七,久太郎 ‐ 重四郎
( )
内の数字は事例数。全部で 23 例ある。がある。この土地は元々,半三郎が名請けする土地で,その場合には 1759 ─6に記 載されるはずだった。ところが 1759 ─2と 1759 ─6が作成されているときに,ちょ うどこの土地の名請人変更の最中だったようである。
両名寄帳を見ても,この土地が本来書き込まれる場所に記載がない。通常,この 土地は写真2のどこかに他の下々畑と並んで記載されるはずである。しかしこの土 地は利八分の記載が全て終わった後の余白に書き込まれている (写真3) 。これは明 らかに 1759 ─2の完成後に書き加えられたことを示している。
さらに写真3には,この土地が宝暦 14 年に再び半三郎に戻っていることも記さ れている。これを裏付けるのが写真4である。
写真4の貼紙は,下部が破損しているが「但利八方へ入候ニ付名[破損]相返シ 候ニ付如此此分[破損]」という記述は読める。破損部分に推測を加えながら解釈 すれば,「この土地が半三郎から利八に移動したので名寄帳から除いたが,土地が 返還されたのでこの分をこうして貼紙で補った」となるであろう。
つまりこの2畝 12 歩の土地は,1759 ─6が作成されたときには半三郎の名請け から離れることが決まっていた。それゆえ 1759 ─6には記載されなかった。最終的 には利八が名請人となった。しかし名請人の変更は 1759 ─2に反映されなかった。
これは 1759 ─2の完成には間に合わなかったことを意味する。たまたま 1759 ─2の 利八部分には余白があったので,2畝 12 歩の土地を書き入れた。それが写真3で ある。
しかし再び半三郎に土地が戻ったために,写真3のように 1759 ─2に×をつけ,
写真4のように,1759 ─6の半三郎部分に貼紙で補ったわけである。
整理のため事実を順番に述べると,以下の通りである。
1759 ─2 (利八の名請地が記載された帳面) の完成 1759 ─6 (半三郎の名請地が記載された帳面) の完成 ※上記の2事項はどちらが先か不明
↓
半三郎から利八へ土地名義の移動 ↓
1759 ─2にその旨の書き込み (写真3)
↓
利八から半三郎に土地が戻る ↓
1759 ─6に貼紙で訂正 (写真4)
↓ 結果として
1759 ─2に×印をつける (写真3) ,および 1759 ─6に訂正の貼紙をする (写真4)
1759 ─2に×をつけたのが宝暦 14 年とある。宝暦は 14 年の6月2日に明和と改
元されている。情報伝達のタイムラグを考えても,6月中には改元情報が伝わるで
写真2 1759 ─2に記載された利八の下々畑の部分
写真3 1759 ─2に記載された利八分としての2畝 12 歩(字川原)の土地
写真4 1759 ─6半三郎の下々畑
あろう。これらのことから 1759 ─6と 1759 ─2の完成は,宝暦 14 年の前半より前 であることが分かる。
以下では,1759 ─2と 1759 ─6を除く宝暦の名寄帳6冊について,その作成年代 を考察していく。考察方法は今までと同様に,未1に記載された名請人の訂正記事 やそれに付された年号を手がかりにして,変更内容が新しい名寄帳に反映されてい るかどうかで判断した。古い帳面の変更内容が,新しい帳面には既成の事実として 記載されていれば,その変更以前の作成である可能性はないからである。
ただし逆は必ずしも真ではない。つまり「変更内容が新帳面に反映されていなけ れば,その帳面は変更より前の作成」ということにはならない。反映されていない 場合でも,たとえば訂正を忘れてしまい,何年か過ぎてから記入するような場合
13)もあり得るからである。ここでこれから述べる作成年代の上限と下限についても,
上限は「確実にこれより後の作成」と言えるが,下限については,推定となる。
未1には,宝暦9年以降の変更が記入された箇所が 21 箇所ある
14)。下限は宝暦 13 年である。つまり未1は少なくとも宝暦 13 年までは名寄帳として使用されてい たことになる。これは宝暦9年の名寄帳の成立事情を反映するものであると考え る。膨大なデータを収録する名寄帳が,表紙にあるように「宝暦九年卯三月」だけ で完成するとは考えられない。宝暦9年という年号は,新たな名寄帳が作成され始 めた年月かもしれない。名寄帳の全冊を完成させるには何年かかかり,その間は
(未1と同年代の) 旧名寄帳に変更事項を書き込んだのであろう。未1に記載された 年号の下限からみて,宝暦9年の名寄帳が完成したのは,宝暦 13 年頃と考えられ る。これは先ほどの宝暦 14 年以前という推定とも矛盾しない。
次に宝暦9年の年号をもつ名寄帳が,いつから使用され始めたのかを調べた。ま ず各名寄帳に記載された最も古い年号を探すことから始めた。それが新帳面が使わ れ始めた (文献で確認できる) 最古の年である。今までの成果から言えば宝暦の末年 から明和の初年にかけての可能性が最も高い。
まず 1759 ─1についてである。未1にある嘉右衛門の名請地3筆
15)には「宝暦 十三未ゟ利左衛門江入ル」とある。1759 ─1では,これら3筆の土地は最初から利 左衛門の名請地として記載
16)されており,後から加筆した痕跡はない。したがっ て 1759 ─1は宝暦 13 年以降に作成されたと見られる。
1759 ─1に記載されている宝暦 13 年以降の年号で最も古いものは明和2年であ る。この年には3組の名請人の変更が記録されている。まずは三右衛門から長右衛 門に譲渡された下田2反 2 畝 20 歩 (字「むかふ」) 。次に杢兵衛から伊兵衛に譲渡さ れた下々田2畝 26 歩 (字はなし,8畝 20 歩の内) 。最後に忠次郎から文右衛門に譲 渡された下々田2畝 20 歩 (字「関下」) である。
このうち月が書いてあるのが三右衛門の「極月」と忠次郎の「十一月」なので,
月まで含めてさかのぼれば,最古は明和2年 11 月になる。つまり 1759 ─1は宝暦 13 年から明和2年 11 月の間に作成されたと言える。
未1から 1759 ─3に名請人が変更された記事は非常に少ない。上記 21 箇所の中
でも,該当するのはわずか1件である。市右衛門が名請けしていた中田2反8畝歩
写真5 未1源蔵の下々畑
写真6 1759 ─4喜三右衛門の下々畑
写真7 未1甚次郎の下田 15 歩(左から2番目)
(字「北沢」) は,「宝暦十一巳ゟ弥兵衛分ニ成ル」とある。この土地は分割されたと いう記載もないので,「中田」で「2反8畝歩」という条件の土地をさがすと,
1759 ─3に記された弥五平の1件
17)しか該当しない (ただし字は「ふたい」) 。この土 地の記載には加筆のあとは認められず,1759 ─3の作成も宝暦 11 年以降になる。
1759 ─3の中に明和の年号を探すと5件あった。その中で最も古いものは明和3 年 12 月の記事である。このとき仁左衛門から茂兵衛に上畑1畝 10 歩 (字「明屋敷 古川尻」) が入った旨の記述がある。こうしたことから 1759 ─3の作成は宝暦 11 年 から明和3年 12 月の間である。
先に紹介した未1の源蔵の下々畑 (1畝 12 歩,字「はさま」,この土地は「足沢免」と いって斗代が低く設定されており,下々畑の斗代は1斗8升代である) は「宝暦十二午年 ゟ下喜三右衛門ニ入ル」 (写真5) とある。この土地は 1759 ─4に記載されている。
この土地について 1759 ─4の記述を見ると,記載の間隔も規則正しく,後に加筆 したのではないことが分かる (写真6) 。つまりこの土地は名寄帳の作成段階ですで に喜三右衛門の土地だった
18)。したがって少なくとも 1759 ─4については宝暦 12 年以降に作成されたものだといえる。
一方 1759 ─4に記された明和の年号は9件見つかった。それらは全て清右衛門か ら喜三右衛門に名請人が同時に変わった9筆の土地である。「明和三戌二月喜三右 衛門方へ入」とある。つまり 1759 ─4の作成時期は,宝暦 12 年から明和3年2月 の間ということである。
1759 ─5の作成年代については,未1に記載されている甚次郎 (後に与右衛門に変 更) の下田 15 歩 (字「辻田」) が参考になる (写真7) 。
この土地は,未1では宝暦 13 年に与右衛門の名請けとなっている。1759 ─5で 変更を確認すると,記載の間隔が規則正しく空いており,この土地の記載が後筆で はないことが分かる。つまりこの土地が与右衛門の名請けになったときには,未1 はまだ現役の名寄帳であり,1759 ─5が作成されたのは宝暦 13 年以降ということ になる。
1759 ─5で明和の年号を探していたら,宝暦の年号が見つかった (写真8) 。甚太 郎の下田2畝 15 歩 (字「関下」) は,宝暦 13 年に嘉左衛門から入った旨の記載があ る。この記載は左右との間隔が詰まっており,後筆である。
一方 1759 ─5の嘉左衛門の部分に書かれている同じ土地 (甚太郎に移った土地) は,
甚太郎の該当部分とは異なり作成当初の記載である (写真9) 。
甚次郎から与右衛門に入った下田 15 歩 (写真7) について,1759 ─5と未1を比 較するによって,1759 ─5は宝暦 13 年以降の作成と分かった。そして写真8と写 真9の比較 (嘉左衛門から甚太郎分になった下田2畝 15 歩の比較) によって,1759 ─5 は宝暦 13 年には既に使用が開始されていた (つまり宝暦 13 年より前の作成) ことが 分かった。これらのことを総合すれば,1759 ─5の作成年代は宝暦 13 年というこ とになる。
次に未2の作成年代についてである。名寄帳の未1から未2に記載が引き継がれ
た事例は少なく,3例しかない。三郎兵衛から茂兵衛に名請人が変わった下田 (25
歩,字「沢田」) と光円寺から同じく茂兵衛に変わった2筆 (下々田3畝 10 歩
19),字
「沢田」と下畑4畝 10 歩,字「まめ田」) である。この3例ともに宝暦 12 年である。い ずれの場合も未1で訂正された事柄が未2では既成のものとして記載されているの で,未2の作成は宝暦 12 年以降である。
未2には,明和の年号が4箇所しか記載されていない。その中で茂兵衛と伊右衛 門との土地の受け渡し (中田1畝 10 歩,字「大性寺」) が明和2年 12 月で最も古い。
この土地が記載されていた伊右衛門の部分には紙が貼られて抹消されている。一 方,茂兵衛の部分にはこの土地が新たに書き加えられて間隔が詰まっている。明和 2年 12 月の訂正が後筆になっているのだから未2の作成は明和2年 12 月より前で ある。つまり未2の作成時期は宝暦 12 年から明和2年 12 月の間である。
最後に未3の作成年代についてである。未1に記載されている彦兵衛から久都
20)への土地移動は,宝暦 12 年のことである。この未1での下畑5歩 (字「新田」) が,
未3では既に久都分として記載されており,後筆ではない。したがって未3の作成
写真8 1759 ─5甚太郎の下田2畝 15 歩(左から3番目)写真9 1759 ─5嘉左衛門の下田2畝 15 歩(左から2番目)
は宝暦 12 年以降である。
未3の喜左衛門
21)の土地 (下畑3畝歩,字「川前」) には「宝暦十三未十二月良向 寺へ入」という記載がある
22)。つまり宝暦 13 年 12 月の訂正は,未3の作成には間 に合わなかったわけだ。したがって未3は宝暦 13 年 12 月よりも前に作成されたこ とになる。これらを総合すると未3の作成時期は宝暦 12 年から宝暦 13 年 12 月の 間である。
今まで判明したことを表にすると表4のようになる。史料の多少によりデータが 乏しく,明和年間まで作成の可能性を否定できない名寄帳もあるが,未1に記載さ れた年号の下限および 1759 ─5の作成年代を考慮すれば,8冊ともに完成したのは 宝暦 13 年中と推定してもいいのではないか。
宝暦 13 年 (7月) は,村木沢村が棚倉藩 (小笠原氏) から佐倉藩 (堀田氏) に支配 替えした年である。領主の交代を機に新しい名寄帳を作成したとも考えられるが,
そうなると何故「宝暦九年」の年号がつけられているのかが説明できない。
5.宝暦9年の年号をもつ名寄帳の順番を推定
宝暦9年の年号をもつ名寄帳は,1759 ─1から6,および未2・3を合わせて8 冊あることはたびたび言及している。それではこれらの名寄帳の順番はどのように なっているのだろうか。「第何冊」とか「第何号」などと表紙に記載されていれば 明白なのだが,そうした記載はおろか,表紙が欠落しているものもある。
まず中組分については,前述のとおり,1759 ─5と 1759 ─1では 1759 ─1の方が 後の部分であろう。それと同様に下組分の4冊について見ると,1759 ─2・1759 ─ 3・1759 ─6・未2・未3には奥書や惣寄の記載がなく,名請人の個別の「寄」で 帳面が終わっている。それに対して 1759 ─4には 1759 ─1と同様に中・下両組の
「惣寄」があるので,下組分6冊の中では 1759 ─4が最後に来る帳面であろう。
表4 宝暦名寄帳の推定作成年代 宝暦9年名寄帳 作成年代
1759 ─1 宝暦 13 年~明和2年 11 月 1759 ─2 ? ~宝暦 14 年前半 1759 ─3 宝暦 11 年~明和3年 12 月 1759 ─4 宝暦 12 年~明和3年2月 1759 ─5 宝暦 13 年
1759 ─6 ? ~宝暦 14 年前半 未2 宝暦 12 年~明和2年 12 月 未3 宝暦 12 年~宝暦 13 年 12 月
残りの5冊については,明治9年の名寄帳の順番を参照にした。明治9年の名寄 帳を作成する際に,従来の順番が尊重されたのではないかと考えたからである。
まず明治9年の名寄帳の冒頭には「茂兵衛」がくる。宝暦9年分では未2の最初 に茂兵衛がきている。一人だけでは心許ないので,さらに比較を続けた。分家など もあってのことと思うが,明治9年のほうが宝暦9年より家数が増えている。茂兵 衛の次に茂四郎がくるが,これはおそらく茂兵衛家の分家で,宝暦のころにはなか った家であろう。
未2では茂兵衛の次が八右衛門だ。明治期の 1876 ─ 01 を見ていくと,茂四郎の 次に七右衛門がくる。八から七に数字を変えただけで,同じ家かもしれない。さら に見ていくと,未2では仁三郎,忠兵衛と続く。1876 ─ 01 でも同じ名前が続いて いた。分家をしたり,家名 (襲名) を変えたらしい名請人の名前が時々割り込む。
あるいは宝暦期の名前が明治期には見られなくなることもある。しかし両者に共通 の名請け人は同じ順序で記載されていた。このことから,宝暦期の簿冊と対応する 明治期の簿冊を特定することができる。宝暦9年の年号をもつ名寄帳では未2が第 1冊であることは間違いないであろう。同様の作業を行なった結果,第2冊は 1759 ─3,第3冊は 1759 ─2,第4冊は 1759 ─6,第5冊は未3,そして最後の第 6冊が 1759 ─4であることが判明した。
以下,「同様の作業」の内容を検証できるように「名請人の順序」 (第1冊~第3 冊,第4冊~第6冊) という表を提示して本稿を終わる。
[表の見方]
たとえば 1876 ─ 01 の名寄帳には,茂兵衛・茂四郎・七右衛門・仁三郎・忠兵衛・
与六…という順で記載されており,未2の名寄帳には,茂兵衛・八右衛門・仁三 郎・忠兵衛・六兵衛…という順で記載されているということを意味している。
表5 名請人の順序(下組分:明治9年・宝暦9年の名寄帳比較:第1冊~第3冊)
1876 ─ 01 未2 1876 ─ 02 1759 ─3 1876 ─ 04 1759 ─2
茂兵衛 蔭山安秀
(愛宕社神職)
宝性院
(愛宕社別当)
深四郎
茂四郎 ※久蔵
七右衛門 長三郎 久助
八右衛門 庄三郎 作次郎
仁三郎 栄七 源太郎
忠兵衛 藤七 太郎兵衛
六兵衛 作十郎 林七
金三郎 弥五平 万七
治郎兵衛 左太郎 喜兵衛
与六 仁左衛門 徳助
兵七 庄左衛門 市左衛門
庄右衛門 久米十郎 太治兵衛
伝左衛門 喜右衛門 左治兵衛
善助 治郎左衛門 弥右衛門
伊之助 治四郎 七兵衛
金蔵 権七 吉五郎
伝十郎 九右衛門 源作
太兵衛 長助 清助
五兵衛 弥次右衛門 忠三郎
与助 次兵衛 小七
久作 長兵衛 与四郎
長兵衛 市右衛門 又兵衛
小兵衛 弥五平 与一右衛門
伝四郎 五郎左衛門 仁左衛門
源兵衛 治左衛門 久吉
文蔵 治郎右衛門 六左衛門
長五郎 源次郎 忠右衛門
忠助 清吉 久四郎
平右衛門 長右衛門 金右衛門
勘右衛門 惣治 留兵衛
八右衛門 友吉
久助 勘兵衛
作助 三九郎
市蔵 利八
太四郎 甚兵衛
長六 勘四郎
伊右衛門 作兵衛
与市郎 彦太郎
彦兵衛 伝五郎
喜平次 ※久蔵
市三郎 喜三兵衛
仁兵衛 源次郎
藤治 加藤治 市郎左衛門
五郎兵衛
※印は記載の順番が異なるが,同じ帳面に記載されている名請人
表6 名請人の順序(下組分:明治9年・宝暦9年の名寄帳比較:第4冊~第6冊)
1876 ─ 06 1759 ─6 1876 ─ 09,10 未3 1876 ─ 11,12 1759 ─4
彦市 清兵衛 喜助
茂左衛門 市兵衛 喜兵衛
武助 藤治郎 文右衛門
彦次郎 新十郎 儀蔵
半三郎 清助 庄次郎
喜惣兵衛 庄吉 塩右衛門
吉兵衛 久都 忠次郎
※嘉七 金十郎 市左衛門
左助 清四郎 孫市
伝吉 喜之助 長兵衛
三助 清左衛門 清次郎
喜助 権右衛門 惣左衛門
彦作 ※半次郎 文三郎
長次郎 惣右衛門 伊左衛門
三九郎 留蔵 重兵衛
権三郎 円四郎 市太郎
定助 惣太郎 喜重郎
※嘉七 惣左衛門 喜作
久次郎 惣兵衛 隆栄
久四郎 善七 喜惣右衛門
庄五郎 栄助 文作
重四郎 与七 文四郎
久太郎 藤吉 新八
作右衛門 忠兵衛 長助
久七 秀治 長七
太次松 祐右衛門 長右衛門
権次郎 伝九郎 与蔵
三七 嘉藤治 重兵衛
善十郎 弥蔵 長蔵
善兵衛 三五右衛門 庄蔵
孫右衛門 儀兵衛 文蔵
市郎左衛門 津右衛門 茂兵衛
権兵衛 太兵衛 小七郎
利右衛門 弥兵衛 仁助
正光院 ※与兵衛 伝八
※彦右衛門 喜右衛門 利兵衛
才兵衛 ※広福寺 藤十郎
和助 弥五右衛門 彦助
※彦右衛門 久兵衛 彦市
伝三郎 仁右衛門 伊兵衛
利兵衛 嘉四郎
以下 甚助 弥左衛門
1876 ─ 10 喜右衛門 平右衛門
与兵衛 庄右衛門 本治
伊兵衛 四郎右衛門 与四郎 広福寺 ※庄兵衛 杢兵衛
半次郎 ※嘉兵衛 祐蔵
喜左衛門 六兵衛 市兵衛
嘉兵衛 藤兵衛 小重郎
惣吉 ※喜左衛門 太郎左衛門
庄兵衛 清五郎 源治郎
久都 長三良
※惣吉 長六
孫左衛門 与助
九兵衛 源蔵
※伊兵衛 源七 留右衛門 長次郎
※喜左衛門 次郎三郎
清右衛門 八兵衛 喜三右衛門
広福寺 喜八 久左衛門
房吉 文助
※印は記載の順番が異なるが,同じ帳面に記載されている名請人
○未3は 1876 ─ 09 と 1876 ─ 10 を合わせた内容と思われるが,1876 ─ 10 は散逸の ために名請人の記載順序は不明。復元した 1876 ─ 10 と未3で一致する名請人は 以下の通りである。
半次郎 与兵衛 広福寺 庄兵衛 嘉兵衛 喜左衛門 惣吉 伊兵衛
1876 ─ 10 の中でも, (新たに分家した名請人の名前が混じるにしても) 未3に見ら れる名請人は上記の順番で登場するはずである。
○ 1759 ─4は名請人の変更が多く,その場合は帳面における記載順も変わってく る。したがって上記の表では記載順を無視し,最初に両名寄帳に共通する名請人 名 (11 人) ,次に共通していない名請人名を記載した。
表7 明治9年の名寄帳に対応する宝暦9年の名寄帳 明治9年 対応する名寄帳 所属組 1876 ─ 01 未2
(M
─05)
下 1876 ─ 02 1759 ─3(M
─04)
下 1876 ─ 03 1759 ─5 1759 ─1 中 1876 ─ 04 1759 ─2(M
─06)
下 1876 ─ 05 1759 ─5 1759 ─1 中 1876 ─ 06 1759 ─6(M
─03)
下 1876 ─ 07 1759 ─5 1759 ─1 中 1876 ─ 08 1759 ─5 1759 ─1 中 1876 ─ 09 未3(M
─07)
下 1876 ─ 10 未3(M
─07)
下 1876 ─ 11 1759 ─4 1759 ─1 下・中 1876 ─ 12 1759 ─1 中※ 1876 ─ 10 は「取調帳」により復元したもの。
※対応する名寄帳で
( )
内はミニ版の薄冊注
1)木村礎校訂『旧高旧領取調帳 東北編』(近藤出版社,1979 年,153 ページ)。「明細村 鑑書上帳」(明治4年3月)という史料には,「無地高」766 石6斗9升8合と「新田」
15 石8斗7升 7 合2勺8才とを加えた村高を 4461 石2斗9升5合1勺(加えなければ 3678 石7斗2升4合8勺2才)とした数値も出ている。
2)村木沢村の名寄帳の現状については既に「近世の名寄帳にみる家の継承」(拙稿,『家 系研究 第 50 号』,家系研究協議会,2010 年 10 月)で述べたとおりだが,便宜上,本 稿でも触れておく。
3)1759 ─6は遠藤家文書,他はすべて村木沢公民館保管文書である。
4)本論文では,ある名請人の「全体としての名請地」を「土地群」と呼ぶことにする。
時間の経過とともに,1筆や2筆の土地に関して名請人が変更することは頻繁にみら れるし,分割して相続することもある。したがってある名請人の名請地を作成年代の 異なる名寄帳で比較した場合に,1筆も欠けずに全く同じということは少ない。しか
し名請地全体としてみれば,ほぼ継承されている例は多い。このような場合に「土地 群が継承された」という表現を使う。
5)土地の譲渡があった場合に,当然ながら記載事項が修正される。最も古い修正は寛延 2年のものである。未1はそれ以前に作成されたことになる。土地の売買は,年に何 件かはあったであろうから,未1の作成年代は寛延元~2年と思われる。ただし自然 災害による永引などの記載は,永引が認められた年代を記載している。したがって帳 面を新しくしても,それ以前の年号が記載されることもある。古いものでは万治,明 暦,元禄の川欠があり,件数の多いものでは寛保の川欠がある。
6)享保 17 年の名寄帳に記載された土地が,1759 ─1と 1759 ─5以外の帳面に記載された 例としては,4冊合計で6件ある。内訳は 1759 ─2に①清助分 18 筆と②小七分 22 筆
(享保 17 年には等栄寺分 29 筆),1759 ─3に③宝性院分の9筆(同茂右衛門分 16 筆),
1759 ─4には④久左衛門分 16 筆(同久兵衛分 24 筆の内)と⑤文助分 12 筆(同久兵衛 分 24 筆の内),⑥喜三右衛門分 20 筆(同良向寺分 23 筆)となっている。1759 ─6には,
享保 17 年の名寄帳に記載された土地群を継承している名請人は見当たらなかった。
7)これは M ─ 01 からも確認できる。M ─ 01 は中田を書き出した帳面なので,記載されて いる百姓も中田を名請けしている者だけである。1759 ─5で中田を名請けする最後の百 姓は安兵衛である。そして 1759 ─1で最初に中田を名請けしているのは留兵衛である。
下の写真(M ─ 01 該当部分)では,右から2人目の安兵衛(3筆)の後に留兵衛(1 筆)が続いている。
8)1759 ─4の表紙には「出塩」とある。出塩は村木沢村の枝郷で,住人は全員が下組所属 であるので,1759 ─4は下組分と分かる。
9)異なる時代に作成された享保 17 年の名寄帳と未1の名寄帳では,ほとんどの土地が重 複している。つまり未1は,享保 17 年の名寄帳の「後継史料」である。未1と 1759 ─ 1,1759 ─5の関係についても同様である。
10)茂兵衛は下組に属するにもかかわらず,享保 17 年の名寄帳でも名請人として見られる。
この中では,件の土地 25 歩は同じく「三郎兵衛」という名請人が所有しているので,
茂兵衛が所有する土地群の中には当然のことながら記載されていない。享保 17 年の茂 兵衛の土地群は,未1では「茂左衛門」という名請人に継承されている。宝暦9年の 年号をもつ名寄帳(1759 ─1)でも,「茂左衛門」が名請人となっている。
11)実際に年貢に出す分は川欠などを引いて 29 俵余りである。
12)おそらく本論でも取り上げている明治9年の年号をもつ「小前名寄帳」(山形県下羽前 国村山郡第一大区十小区村木沢村)の第1号から第 12 号(第 10 号欠)であろう。『村 木沢史料目録(第1号)』の5ページ参照。なお同目録では,第 11 号が欠となってい るが,第 10 号の誤りである。
13)たとえば藤右衛門の下田2反3畝 10 歩(字「段下」)は,未1によれば宝暦 12 年から 門伝村の金兵衛の名請けに入っているが,1759 ─5では依然として藤右衛門の名請地と して出てくる。後に述べるように,1759 ─5が作成されたのは宝暦 13 年であることが 分かっている。したがって宝暦 12 年の変更が新帳面(1759 ─5)に反映されていない からといって,それより前の作成とは言えないのである。ひとつ疑問点を付け加える と,旧帳面である未1には(たとえ後から気づいて記入したとしても)訂正事項が記 入されているのに,新帳面である 1759 ─5には名請人の変わったことすら全く記され ていないのは何故かということである。宝暦 12 年に金兵衛の名請けとなったこの土地 は,新帳が作成される宝暦 13 年までには藤右衛門に戻っていたのであろうか。前述の 半三郎と利八との間でやりとりがあった下々畑2畝 12 歩のように,短期間で元の名請 人に戻る事例もあるので,その可能性も考えられる。
14)「宝暦」の年号が記されている訂正記事は未1に 59 件ある。「明和」の年号はひとつも ない。名請人の変更記事については,大部分が 1759 ─1か 1759 ─5への記載である。
15)上田 21 歩,上田6畝9歩,下田7畝 28 歩,字はいずれも「反町」。
16)「嘉右衛門ゟ入」というコメントはつけられている。
17)この土地は名請人の変遷が激しい。未1に記載されている分では,名請人としての市 右衛門の名があり,「左次兵衛ゟ入」と「弥兵衛分ニ成ル」という記載があり,1759 ─ 3には原名請人として弥五平の名があるが,弥五平の名前の上に「源左衛門」と「藤 七」という2枚の貼紙がある。つまりこの土地は,左次兵衛→市右衛門→弥兵衛→弥 五平→源左衛門→藤七と名請人が変わったことになる。
18)写真6では,この土地がすでに勘平の名請けになっている旨の貼紙がある。
19)1畝 1 歩が川欠永引となっているので,未2には2畝9歩(字「さわた」)の土地とし て見出される。
20)未3には久都は名請人として3箇所に出てくる。それぞれ番号をつけたが,この久都 は3箇所目に記載されているので「久都3」とした。
21)喜左衛門も名請人として2箇所に出てくるので,久都と同様に番号をつけた。ここで の喜左衛門は「喜左衛門2」である。
22)さらに安永6年 12 月には「久野都」(久都ヵ)に移っている旨,貼紙で訂正がある。
またこの土地の2筆前の中畑1反 21 歩(字「河前」)にも貼紙があり,安永6年 12 月 に「久野都」に移っている旨の記載がある。この貼紙はめくれないが,貼紙の下は「宝 暦十三未十二月良向寺へ入」と読める。