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湾岸戦争と遺跡

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(1)

湾岸戦争と遺跡

著者 佐々木 達夫

雑誌名 金沢大学考古学紀要

20

ページ 124‑135

発行年 1993‑02‑28

URL http://hdl.handle.net/2297/2754

(2)

金沢大学考古学紀要 20号1993  

湾 岸 戦  

藍 遠 路  

佐を審 達 尭  

1990年8月、イラクはクウェートに侵攻し、翌1991年1月17日、アメリカ軍の空爆によ   って湾岸戦争がおこった。2月27日、クウェートが開放されイラクは敗北した。この短   期間に起こった湾岸戦争は多くの政治的、経済的、社会的な問題を残した。もちろん、こ   の地域の歴史研究に与えた影響も大きい。イラクやクウェートでの考古学調査が難しくな  

ったのも確かである。   

メソポタミアの大平原を領土とするイラクには、文明の発祥以来、さまざまな帝国が興   亡し、重要な遺跡が各地に残っている。平原には、どこからでも見えるそびえたっ巨大な   遺跡が点在している。そこは青から交通の要所であり、今も軍事的に重要な地であり、多   くの施設が周辺に隠されているといわれていた。世界中の考古学者が心配したことば、戦   争による遺跡の破壊であった。欧米の考古学者はアピールを出し、各国の大新聞は戦前お   よび戦中に遺跡の危機を特集していた。  

1990年末、アラビア半島のアラビア(ペルシア)湾に面するアラブ首長国連邦で調査す  

る予定だったから、湾岸危機につよい関心を待った。当時、日本の外務省は危険地帯に近   付かないようにという書類を送ってきた。大学は、予定どおり旅行を続けるのか、それと   も止めるのか、返答を求めてきた。そのころロンドン大学にいたので、イギリスの中東の   専門家から情報を得ることができた。しかし、戦争が起こるか起こらないかという問題に   関しては、すべてが推定であり、確かな情報は得られなかった。それは当たり前であり、  

戦争が起こるかどうか、先のことはだれにもわからなかった。   

イギリス人は、戦争がいつ起こるかわからないアラビア湾に行くのは危険だという。だ   れもが止めろという。調査予定のアラブ首長国連邦に問い合わせると、いっものように生   活しており、なんの変化もないという。それはそうだ。戦争が始まるまでは、平和である   のは当然だ。だから、例年通り発掘に行った。   

アラブ首長国連邦はたいへん、のんびりした国である。海辺の遺跡でいつものように調   査を続けた。少し違うのは、遺跡事務所の前に、軍隊の車が停まり、アラビア湾を見張っ   ていたことくらいだった。実際には∴彼らは音楽を聞き、お喋りし、昼寝をしていた。あ   るいは釣りをしていた。軍隊の長官が遺跡の見学に乗たとき、軍人が音楽を聞いて釣りを   していますね、と話をした。翌日、軍隊の牽から騒々しい音楽が聞こえなくなり、車を停  

−124−   

(3)

める位置も変わるようになった。   

いっも遺跡に手伝いに来た博物館員がいた。彼の兄は将校だった。戦争が始まれば、、攻   撃に加わることを拒否できないといった。博物館員の友達もよく遺跡に釆た。ある人は、  

サウジアラビアの軍隊に入っていた。一週間の休暇を取り、故郷に戻ったところだった。  

さあ、思いきり遊んでいこう。軍隊に帰り、もし、戦争が起これば、死ぬかもしれない。  

なにしろイラク軍は強いから、と語っていた。彼は本当は戦いたくないという。   

調査中に遺跡の上を飛ぶ軍用飛行機が多くなった。先端に機関銃をっけているのが見え   た。しかし、もともとアラブ諸国では、軍隊が身近なものだ。戦車や軍用飛行機とはどこ  

でも、いつでも会えるのが普通だ。そして、だれもが平和であること、すなわち、戦争が   起きないことを望んでいた。   

調査を終え、アラビア半島を1991年1月13日に飛び立った。ドバイ空港はかなりの外国   人で混雑していた。国連が11月29日に決めた撤退勧告最終日の16日を前にして、すでにい  

くつかの航空会社はフライトをキャンセルしていた。例えば、スイス航空は1月10日まで   で、その後は飛行機は飛ばない。フジェイラ国に調査に来ていたスイス隊は、調査を打ち   切って10日の最終便で帰国した。シンガポール航空も11日で飛ぶのをやめた。私達の乗っ   たオランダ航空は13日の午後から、飛行機便がなくなった。最後の飛行機だった。間一髪   というところだった。帰国前の一週間は、毎日、航空会社に電話して、飛行機が飛ぶかど   うかを尋ねるのが日課となった。   

2月初めにドバイから受け取った手紙には、Emirates航空だけが飛んでいるという。エ   ミレィツ航空は、ドバイを含むアラブ首長国連邦が経営している航空会社である。日本か   らペルシア湾に面する国々への手紙は、受付が禁止されており、ファクスも届かないこと   が多いという。連絡も難しい状態になっている。  

*   

日本に戻って驚いたのは、テレビや新聞の報道が、アラビア半島の情報と違うことだっ   た。アメリカの新聞を見ると、イラク軍がクエートで暴行のかぎりを尽くしているという。  

日本の新聞も戦争は避けられないと危機感をあおりたてている。欧米軍のイラク攻撃開始   が17日に、アメリカ国民の世論の強い支持を得て実行できたのも当然のような気がする。  

アラブの新聞が戦争を避けようという論調であるのとは大きな違いが見られた。アラブの   新聞の見出しは常に、平和という文字であった。   

いくつもの事実を並べたところで、それが真実であるとは限らない。新聞やテレビの報   道から、本当の歴史を知るのは発しいことである。イラク国営テレビで、イラク軍に捕虜  

になったアメリカ兵士が、イラク攻撃は悪いことだと言っていたが、それは強要されてい   るのが明らかだ。いくら事実が報道されても、本当のことを知るのは難しいこともあるの   である。   

以前、イギリスの新聞に、東京の道路工事の写真が載った。工事でアスファルト道路に  

ー125一   

(4)

究があき、夜ば危ないから板で蓋をしていた。その板の写真を撮り、日本の道路ば板が敷   いてあるという記事を作ったのである。道路に板が敷いてあるのは事実である。しかし、  

日本の道路が複数であるというのは真実でない。いくら事実を並べても、一つの真実も描   き出していない場合があることを知らぬばならない。とくに戦争中であれば、どちらの陣   営に属していようとも、ウソの報道、あるいは報道されないことがあることに注意すべき   であろう。   

アラブ首長国連邦の博物館で働いていたドイツ人が、クリスマス休暇で帰国した。ドバ   イ空港で、きよなら、また正月に会いましょうと別れた。しかし、ドイツに帰った翌日、  

電話があったという。ドイツのテレビや新聞を見て驚嘆したこと、とてもアラブには戻れ   ないといったという。恐怖に満ちた声だったらしい。そして、アラブには戻って釆なかっ  

た。今まで安全だと思っていた自分の職場や地域が、いかに危険かを外国で知らされたの   だ。あるいは、安全な地域を危険にしようとする情報に驚いたというべきだろうか。  

*   

そもそも、湾岸戦争と呼ばれた、アメリカ軍が主力の軍隊によるイラク攻撃ほ、イラク  

のクウェート侵攻が始まりだといわれた。そのため、アメリカほ国連の多数決による決定   を背景に、アラブで一番の軍事力を持つイラクを叩き潰す正当性を持っていたといわれる。  

もちろん正確には、クウェートからイラク軍を追い出すことを決めたのであり、アメリカ   がイラク国を潰すことを決めたのではない。   

アラビア半島に住む人々の多くは、次のように話していた。イラク申イラン戦争で、イ   ラクは多くの軍隊をだした。イラクは人口が多く、単一民族に近いので、自国を護る意識   があり軍隊が強い。その他のアラブ諸国は、人口が少なく、軍人も外国人ばかりであてに   ならない。ただ、石油マネーがある。そこで、イラクに多額の金を与え、イランのホメイ   ニ政権を潰すことに協力した。イランの王政を廃止した動きは、アラブの王族にとって、  

たいへいに危険なものと映っていたからだ。しかし、イラクは戦争に勝てなかった。戦後、  

アラブ諸国はイラクに貸した金をめぐって話し合った。ある会議の席で、サダム。フセイ   ン大統領はこういった。イラクは人を出した。多くの人が死に、帰ってこなかった。イラ   クは因っている。国を建て直さなければならない。他の国はイラクに金を出した。その返   済を半額にして欲しい。多くのアラブ諸国は、イラクの要求を当然だと思った。しかし、  

クウェートの王ほ書類をたたきつけ、お前は乞食かと吐きすてるように言い、室外に出た。  

翌日、サダム。フセインはクウェートに侵攻した。   

イラク軍が入ったとき、クウェート政府はすでにサウジアラビアに移動していた0  ドンであった若いクウェート博物館員はこう言う。イラク軍が釆たとき、館長や政府高官   は国外に脱出していた。知らずに国内にいたのは、一般の人や下っぱの人ばかりだった。  

手提げ荷物一つ持って一方月かかり、やっとの思いでサウジアラビアに脱出し、そこから   ロンドンに釆たところだった。その館員はイスラム陶器の専門家であり、ロンドンでの重  

ー126−   

(5)

要な仕事の一つは、クウェート国立博物館の所蔵品が、古美術市場に出るのを見張ること   だった。   

クウェートの国王は石油で金持ちだから、世界中から優れた美術骨董品を買い集めた。  

それを収蔵するための国立博物館を作った。イスラム莫術を研究するうえでも、世界有数   の恵まれた場になった。収蔵品は今、莫大な価値がある。イラクはそれを運びだした。大  

型トラックに替み込んだところを目撃した人が話してくれた。今どこにあるか不明だが、  

バグダッドだろうと言われている。その後、クウェート国立博物館の建物は爆破された。  

イラクは金に因っている。ロンドンには世界的に有名なサザビィとクリスティという二つ   の言責備品を扱う店がある。イラクが売れば、どういう経路をたどったとしても、最後に  

ここの競売にでることばほぼ繹実である。それを見張るのが、1990年末にロンドンで会っ   た元クウェート国立博物館員の仕事であった。   

さて、イラク軍ばいとも簡単にクウェサトを征服し支配した。クウェートの軍人は金で   雇われた外国人だから、本当に自分の命をかける戦いには参加しない。イラク軍が侵攻し   て釆たとき、武器を捨て私服に着替え、軍人ではないふりをして、さっさと逃げてしまっ  

た。だから戦闘はなかった。どこの国にもいる、血の気の多い数人から数十人の若者が道   路でイラク軍に楯突き、何人かが殺されたらしいという。しかし、その程度だったらしい。  

だから、戦争とはいえなかった。これを、だれもが湾岸危機とよび、湾岸戦争とはいわな  

かった。本当の戦闘と殺致は、アメリカ軍がバグダッドを攻撃したときに始まったのであ   る。   

アラブ人たちほいっていた。この戦いは、サダム◎フセインとクウェート王の個人的な   喧嘩だ。クウェートは金の力で倣慢きわまりない限りを尽くしていた。たとえば、ある王  

族の家族は、インドのマドラスにある最高級ホテル、タージマハールを全館借りきった。  

現地人の感情はどうであったか。東京の帝国ホテルやホテル¢オオクラ、あるいはヒルト   ン◎ホテル、金沢のニューグランドやホテルを全館、一つの家族で使うことを考えてみれ   ばいい。子供達は廊下を走りまわり、壁にべンキを塗り、ソファをナイフで切り裂き、家  

具を倒した。さすがにインド人も、チェックアウトするクウェート人に言った。ここは、  

インドで最も格の高いホテルです。このままでは済ますわ捌こいきません。クウェート人   は言った。金を払おう。   

アラビアには最近まで奴隷がいた。今はいないことになっている。しかし、自国民より  

も多い出稼ぎ労働者がアジア各地からきている。かれらは奴隷と同じ扱いを受けている。  

いや、馬や牛と同じであり、人間扱いばされていないといったほうが適切である。クウェ  

ートもそうだった。クウェート国内には、イスラエル占債地から逃げてきたパレスチナ発   民も多かった。かれらはアラブ人だが、クウェート国籍も取れず、クウェート人に差別を  

うけていた。アラブは非常に複雑な国である。欧米や日本でクウェートの国を守るという   場合、そればばんのひと握りのクウェート国王とその一族を護ることをさすようであった。  

ー127−   

(6)

すでに、イラクが侵攻する前、クウェート国内では、王政廃止の動きがでていた。だから、  

軍事的に圧倒的な力を持つアメリカがイラクを撃退した後、数カ月はクウェート王を政府   に付けるが、その後は一級市民の中から、政府を作る人を選ぶということになっていると   いう情報も流れた。しかし、ヒビの入った王政を維持するためにアメリカなどが動いてい   るのが現状である。なんのためのクウェート回復だろうと疑問が残る。   

石油マネーで潤う他のアラブ人も、クウェートの王族の金満ぶりにはかなりの反感を持   っていた。サダム◎フセインが軍隊を送り、王にパンチを食らわせたことを歓迎する気持   ちを皆が持ったそうだ。しかし、イラク軍はクウェート内に留まった。あまり長く居ると   困るなと、アラブ人が思い出した晩アメリカが軌、姿勢を打ち出した。1月17日に軍事   力でクウェートを解放するという話である。これには、アラブ人たちは困った。強力な軍   事力を持ち、世界の各地で他国を徹底的に潰すことに抵抗が少ないアメリカがくれば、本   当に人々を殺す戦争になる。アメリカ人が、アラブ世界の内部の問題に入れば、アラブの   意見は無視されると、アラブ人は囁いていた。   

アラブにはアラブの考えがある。クウェートは金持ちだから、因っているイラクに石油   の出る島を与える解決策を採ろうと皆が考えていた。イラクは大きな国だが、海に出る口   は僅かしかない。クウェート領海を通らねばアラビア湾に出られないのだ。イラクば石油   と島の両方を欲しがっている。解決は簡単だった。しかし、世界の正義を建前に、実際は   自国の経済と政治力を強めることを実行できるアメリカの戦いへの意欲は、アラブの考え  

を入れなかった。強大な軍事力の前には、心の中はいぎ知らず、だれもが屈する。   

平和を望むのは、誰もおなじだ。しかし、その平和をどのように作りあげるか、どのよ   うに平和を推持するかは、人によって考え方がだいぶ違う。一般に欧米人は、戦争を悪い   ものと考えていない。戦争によって正義が達成できると考えている。日本人の女性がよく   言うように、戦争はいやだ、子供や夫を戦場に送って死なせたくない等と言わない。戦争  

によって平和が得られるなら、戦争ば必要であり、戦うべきだと考えている。  

*   

いまは、アメリカが世界の平和を維持する力をもつと言われている。力とは、他国を軍   事的に脅かし、支配する攻撃能力である。アラブは大きな力を持っていた。日本の平安時   代の頃、サラセン帝国というイスラームの巨大な世界があった。その範囲は今の国名でい   うと、西はスペイン、東はパキスタンまでを支配していた。今のヨーロッパはその北にあ   った文化の低い小国であった。それ以後も、イスラームはヨーロッパよりも文化が発展し   た大きな勢力であった。そして、ヨーロッパを中心に見ると、16世紀はイスパニア(スペ  

イン)とポルトガルが世界を分けた。17世紀はオランダが海上の覇権を握る。18世紀末に   イギリスで産業革命が起こり、19世紀の世界はイギリス帝国が力をもつようになった。し   かし、西アジア、東ヨーロッパではトルコ帝国が強かった。20世紀の世界では、ソ連とア  

メリカの二国が力を持ち、今はアメリカが優勢である。しかし、ドイツと日本の資金がな  

−128−   

(7)

ければ、アメリカの軍事費だけでは足りないことも明らかになった。   

世界は常に動いている。同じ状態にとどまっていない。国境線だって流動的だと言わぎ   るをえない。現状経持を望むのは、それによって利益を得ている立場の国民である。いま  

は、欧栄が利益を得る立場であり、発展途上国と呼ばれる国々は視をしている。アラブ世   界は石油の金でのしあがってきた。それを欧米は好ましく思わない。身勝手である。しか   し、現状を経持するには、強くなってきた勢力を軍事力で叩かねばならない。それが正義   であり、平和と呼ばれる現状経持をする方法である。ただ、こうした方法は人類が文明を   築き始めたときから採ってきており、今のアメリカだけを責めるのは的外れである。   

マケドニアのアレクサンドロス大王が、ギリシアを征服し、広大なササン朝ペルシア帝   国を滅ぼし、巨大な帝国を築いたのは有名なことである。軍事力による征服によって、世  

界は統一きれ、平和が訪れた。ローマ帝国も広大な地域を征服し、人類始まって以来とい   われる繁栄と平和を築きあげた。しかし、これも軍事力によって、多くの民族を支配しも   そこから得た財産や労働力で平和を推持していたのである。ヨーロッパを見ると、10−11  

世紀にバイキングが活躍し、軍事力で各地を支配し繁栄した。今のデンマークの地が中心   であった。ポルトガルとスペインも軍事力で新大陸を支配し、広大な地域から富を収奪し   た。その繁栄は未曾有のものだった。しかし、今は、これらの国々は世界のトップクラス  

にはいない。19世紀はイギリスがアジア各地を植民地にして、繁栄した。イギリスの軍事   力によって、世界ば平和になった。しかし、その平和はイギリスのためにあり、支配され   る人々のための平和ではなかった。20世紀後半はアメリカが世界最強の軍事力を持って、  

世界の平和を捧持しようとした。しかし、アラブ人にとって、それが本当に望んでいる平   和であるのかどうかは、問題がある。アラブ人の反欧、反米の感情は強いものがある。長   い間、ヨーロッパよりも高い文明を築いていたイスラームが、19世紀後半から20世紀前半  

にイギリスやフランスの植民地になったからである。最大の問題の一つ、バレチスナ問題   もイラスエル建国を欧米が強引に支持したから発生したのは明らかである。イラクを軍事   大国にしたのも、イラン革命を防止するために欧米が軍事的にイラクを支援したからであ  

る。アラブの問題のどこを取っても、欧米がいかに悪いことをしたかが見えてくるのは残   念である。  

*   

メソポタミアの大平原を慣土とするイラクは文明の発祥地の一つで、重要な遺跡が各地   に残されている。平原の中に、そびえたっ巨大な遺跡が点在する。それは、軍事的にも重  

要なポイントであり、多くの施設が周辺に隠されていると言われていた。世界の考古学者   が心配したことは、湾岸戦争が引き起こす可能性がある、復元が不可能な遺跡の破壊であ  

った。   

バスラは戦略的な拠点であるが、考古学的にも重要である。数十年前、イラクの考古学   者はここで陶磁器の窯跡を発見したという。ただし、研究の報告書はない。私がアラビア  

−129−   

(8)

半島で発布を続ける目的は、東西世界の貿易を海の道で探ることであった。その西の世界   の出発地がバスラであり、主要な貿易品の一つである陶磁器の産地がバスラなのだ。そこ   が、激しい戦場になった。バグダッドやバスラなどの大都市はアメリカ軍航空機により、  

絨毯爆撃を受けた。アメリカ軍が文化、文明、歴史に配慮した攻撃巷加えているとは思え   ないのが、残念である。  

車   

日本は欧米の賑でアラブを見ていた。欧米という色付きガラスを通してアラブを見てい  

たのだ。それは、最近までアラブと付き合いが少なかったからだった。日本人の限で、本   当のアラブを見ることが必要である。   

アラブÅと握手をしたら、指が五本残っているかどうか調べろと言われる。買い物で値   切るのはアラブでは当然である。市場で買い物をして、十本の品を買ったとする。手渡き   れたら、もう一度、十本あるかどうか数えろと言われる。手品のように一本が抜かれてい   るからだ。このような話は、じつは欧米人が作り出したものだった。   

コラーンにほ、額に汗しないで金を儲けることが禁止きれている。だから、銀行に金を   預けて利子を取ることば、本当はいけないことだ。その習慣もなかった。ヨーロッパ申の   銀行は口裏を合わせ、アラブ人には銀行利子を払わなかった。アラブÅはそれに長いこと   気が好かなかった。あるとき、銀行に利子があることを知ったが、いかにアラブ人がヨー   ロッパÅのずるさを感じたか、これだけでも想像できよう。それを隠すためであろうか、  

欧米人が行ってきた悪きを、欧米ノ人はアラブ人に置き換えて、自分腰手な話を作っている   らしい。   

アラブ人は欧米人を心の底から信じていない。植民地という苦い経験が最近まであった   からだ。多くの韓国Åが日本人を心の底から憎んでいるのと同じだ。日本は責了ジア世界   で植民地をもったが−アラブには何も恨まれることをしていない。だからこそ、欧楽人と   違った接し方、対応の仕方をとることが望まれている。アラブとの付き合いで、アメリカ   追随ほ考えものだと思う。どのような世界を作るか。日本の繁栄と、世界の他の人々との   繁栄が共存できる方法はあるのか。それを探ることが、今回の戦争を乗り切る手段となる   だろう。アメリカの戦争に協力するだけが正義ではない。問われている問題を取り違えて   は困る。   

だれもが戦争を望んでいないという。それなのに戦争が興る。小さな誤解が大きな亀裂   を生むのは誰もが知っている。アラブの考えは、欧米の論理とは違う。相手のことを知り、  

相手が自分と同じように繁栄することを望むのを、当然のことと受け入れるべきであろう。  

相手の犠牲の上に、自分の国だけを繁栄させようとしても、相手の国は反感をもっだけで   ある。戦争の解決の一つの方法はここに見いだせる。共に繁栄する世界を作ることが必要   であり、相手を力で叩き潰し、自分の繁栄を護ることではない。  

滋  

一130−   

(9)

アラブ側が望まなかった戦いは、大方の予想に反して勃発した。戦前、戦中にアメリカ   はクウェート解激のためイラクの軍事施設だけを攻撃したといった。テレビ報道を見る限   り、アメリカ軍の空爆の精度は、針の究を通すようなものだった。だから、遺跡は破壊き   れなかったはずだった。   

だが、果してそうだろうか。戦争が終わって一年以上が過ぎたころ、やっと遺跡破壊の   状況が実体をもった内容で話題になってきた。全体の損害を知るには精密な調査と長い年   月を要するが、クウェートもイラクも共に戦争の被害者だったことは明白である。   

遺跡や遺物が戦争によって翻弄きれたのは今に始まったことではない。バクダッドの北   百㌔にあるサマラは、アッバス朝の九世紀の首都として有名である。アッバス朝は爪世紀  

中頃に興ったイスラームの大帝国であり、中国の唐との密接な交流でも知られている。  

1911年、世界で始めてのイスラーム都市の学術党据が、ここサマラでドイツÅ考古学者に  

よって始められた。重要な出土品は、ドイツに運んで研究するため、イラク最太の港町バ   スラの倉庫に荷造りした状態で運びこまれた。1914年、第一次世界大戦が始まると同時に、  

イギリス軍はバスラを占領し、ドイツから出土品を奪い、海路でロンドンに運び、太英博   物館に入わてしまった。イギリスに残る資料は現在、太英博物館の倉庫とビクトリア¢ア   ルバート博物館の展示室に保管されている。その後、一部は他の博物館に売却きれた。そ   の一部を私もアメリカやカナダの博物館の倉庫で偶然に見つけたことがある。今は、ドイ   ツ調査隊の出土品は大部分が東西ベルリンの二つの博物館に置かれている。  

1918年のドイツ放戦後、ドイツ国内の経済状態の悪化のため、1920〜30年代に文化財が   国外流失したようである。こうした状況で、1925年、イスラーム陶器の研究の基本書とな  

った『サマラ出土の陶器』が刊行されたことは、学術の世界で画期的であった。ベルリン   の博物館も、1990年のドイツ統一によって、大きな変化をしっっある。旧東ベルリンの博  

物館の継続は饗しいらしい。戦争や分裂によって引き起こきれた学術資料の流転はいっま   で続くのだろうか。  

淀   

今回の湾岸戦争では、イラク国内の遺跡や博物館の被害もかなりの程度だったらしい。  

戦後すぐイラク考古局長の談話がフランスやイギリスの新聞にのった。バグダッドのイラ   ク博物館の重要品は地方の主要な博物館に疎開きれたが、それらの博物館は破壊され、盗   まれ、遺跡も破壊きれたと述べ、被害リストも出している。ただ、被害を多く見せようと   する意識が働いたのではないかという気がしないわけでもない。ウル王墓出土の宝石類の   ような世界的重要品は中央銀行の金庫に保管したというが、どうなったことか。   

こうした状況の推測は、爆撃一年後に、イラク国外の考古学者が遺跡を訪ねることでよ   り確実なものになりっっある。ニューヨーク大学の考古学者は、細ericanJournalof   鹿ehaeolo野のなかで次のようにいう。湾岸戦争中の爆撃によって、記念物と遺跡がかな  

り破壊された。連合軍は避けるべき遺跡のリストを与えられていたが、軍事行動は文化財  

−131−   

(10)

保存よりも強かった。多くの記念物が軍事施設の近くにあったため、かなりの被害を受け   ているという。例えば、原子力施設への攻撃の影響で、近くにあったテシフォンの有名な   ササン朝のアーチにいくつもの新しい割れ目が入った。ウルのジグラット(神殿)やニム  

ルッドの宮殿跡などはも ミサイルが直接あたった。モースルの古い教会なども爆撃された。  

ただし、パルティアの隊商都市ハトラのように、近くのミサイル基地が爆撃で爆発しても   奇蹟的に残った遺跡もある。それでも遺跡を取り囲む壁の外側には残骸が雨のように降り   注いでいたという。バグダッドのイラク博物館などは、近くの電話交換局と橋の爆撃によ  

って損傷を受けたが、すでに修復されているらしい。   

ここで取り上げた巨大な遺跡は、観光案内書にも必ず載っており、イラクに行ったこと   のある人なら誰でもいくつかば訪れているに違いない。世界Å頚の共通の古文化財である   ことに疑いをはさむ余地はない。  

1992年1月にウルを訪ねたニューヨーク州立大学ストーン教授とボストン大学ジマンス   キー教授は、ジグラットの表面に無数の機銃掃射の跡をみつけたが、幸運にも建物全体の   保存状態はよいという。ただ、近くに爆弾の炸裂した大きな穴が四つ残り、戦いのすさま  

じきが知られるという。イギリスの考古学雑誌蝕ti糾ityに発表された写真を見ると、ま   るで考古学で試据をした跡のように思えるのもわびしい。   

日本からも国士舘大学イラク古代文化研究所の藤井教授が1992年2月にイラクを訪れ、  

そのときの見聞が新聞に報道された。イラク考古総局の説明では、アメリカ兵が遺跡を掘   り返した跡まであるという。たしかに戦争による破壊もあったが、同時に、イラクの復興   の早さにも目を見張ったという。日本で想像しているよりも、修復のスピードは早いよう   であった。   

遺跡の損害の程度は、今後の調査によってはっきりするだろう。だが、アメリカ軍の爆   撃だけが文化財破壊の原因ではない。イラクの北部や南部では戦争後に起こった内乱のた   め、銃撃戦が続き、多くの文化財や記念物が破壊されている。バスラでは古いモスクを含   む居住区が全滅し、カルバラやナジァフでも多くの被害をだしたという。テレビ報道でも   はげしい市街戦が映し出されていたのを思い出す。地方都市の博物館は焼かれ壊され、収   蔵品は盗まれた。歴史的文化財というものは、破壌されれば修復不可能なことが多いのが   悔やまれてならない。  

*   

しかし、これで遺跡の破壊が終わったわけではない。イラクの遺跡は平原にあることを   再び思い出してほしい。食料不足を補うには、平原を濯漑し、畑を増やすしかない。遺跡   の破壊も起こるだろうし、遺跡を保護するゆとりが生まれるわけもない。貴重な資料は高   価な菓術品でもある。簡単に金をもうける方法は、換金できる美術品を遺跡や博物館から   盗むことである。ただ、世界の骨董市場にまだ出てないので、打つ手はあるだろう。古い   文明を誇った国々のなかで、レバノンやエジプトは遺跡の盗掘品が主要な輸出品といわれ  

一132−   

(11)

たほどだった。その当然の帰結として、ユネスコは1970年に文化財の国外持ち出し禁止を  

宣言している。そのため、西アジアでの正式発掘による出土品を研究のために持ちかえる   ことが難しくなった。しかし、現在、中国の遺跡出土品も世界の骨董市場にあふれている。  

中国の法律でば古文化財の国外持ち出しが禁止きれているはずなのに、それを破り巨万の  

富を築く中国人があとを絶たない。法を守るのは一部の考古学者だけであり、一般の人々   の意識は金になるなら、珍しいものだから、という程度なのだろうか。   

戦争は私の研究にも影響を与えるだろう。西と東の世界は九世紀から海の道をとおして   交流を深め、中国の陶磁器はイスラーム世界でも大量に使われた。唐白磁の模倣品がメソ   ポタミアで流行するが、九世紀には、良質の白軸陶器がイラク南部のバスラで作られたと   私は考えている。これを証明するには、バスラで陶器を焼いた窯跡を探さねばならない。  

だが、バスラほ激しい戦場となり、瓦礫の山となったらしい。研究資料のÅ手はもう無理   なのだろうか。   

さて、私が言っていることは、アメリカの爆撃が悪いとか、イラクも被害者だとか、イ  

ラクの巨大な遺跡が重要だも ということではない。戦争が起これば、最近のカンポジヤの   アンコール、インドネシアのポロブドール、ミャンマーのパガンなどをみるまでもなく、  

当然のこととして重要といわれている遺跡や文化財の破壊がすすむ。現在の建物や人命、  

文化が簡単に失われるのが戦争なのだ。壊れかけた遺跡などひとたまりもなく破壊される。  

こうしたことは、第一次世界大戦でも、第二次世界大戦でも、何度も味わったし、すでに   明白なことだった。そのため、ユネスコは1954年に戦争で遺跡を利吊しないように宣言し   ている。だが、イラクもアメリカも、どちらの国もその約束を守らなかった。戦争ばかり  

でなく、開発や日常的進歩も遺跡巷破壊することば、日本国内で破壊を前提とする発掘が   一年間で数万件に及ぶことでも明らかである。もちろん、破壊という現象は結果的に同じ   であっても、破壊前に調査されるかきれないかは決定的な違いである。  

*   

湾岸戦争直後、他の国々の報道に影響されてか、日本でも遺跡破壊を取り上げた記事が   見られた。もちろん、当時は何も証拠がなかったから、誰も新聞社の問いに答えることば  

できなかった。そこでは、イラクが文明発祥の地だから、都市文明の起源だから、という   理由で遺跡が重要だといわれた。だが、私はこれにも問題があるように感じる。そこに働   いている価値の基準が問題になるように思う。大きければ、珍しければ、重要だという感  

覚で判断されているといわねばならない。大きいことば政治的権力、珍しいものは経済的   財力の反映ともいえる。そこに文化や生活が存在しにくいことを感じる人はどれくらいい   るだろうか。千年彼の日本で考古学者がもっとも興味をもつ遺跡が、国会議事堂と昭和天   皇陵墓であれば、なんと悲しむべきことだろう。だが、現在はこれと似たことも存在する  

ようだ。権力者の住んだ大きな村跡、都市跡、あるいは権力者の巨大な墓が考古学で重要   だと考えている人もいるだろう。  

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南栄の遺跡で、墓から黄金が出たという。黄金を発見することが考古学であるかのよう   な報道である。日本でも瓦に金箔が貼ってあれば、黄金文化が存在したと報道される。こ   れらは超済力を取り上げているといえる。エジプトの遺跡で、王の名が刻まれたレンガが   出土したという報道もあった。権力者の名前を知ること、つまり政治力を証明する建物が   ここで取り上げられている。これも大事なことと思う人がいていい。しかし、それが全て  

ではないという感覚を忘れては困る。ロマンの名に隠れて、本来の人頭の歴史で大切なも   のが見失われては困るのである。それ軋例えば千年後に、スターリンやヒットラー、あ   るいはサダム。フセインの残した、彼らの功績を着えるために造られた巨大建造物の遺跡   だけを重要視するようなものなのだから。   

実際、サダム⑳フセインは自分の権威を誇示するため、イラン。イラク戦争の最中に、  

「勝利のアーチ」をバグダッドに建てた。全長70mの巨大な剣の形遷した建造物である。  

彼は古代の権力者と同じように、大きな建造物を作ることが権威のあることを示すと考え   ている。1989年に完成し、湾岸戦争でも破壊きれずに残ったといわれる。剣の部分は、イ  

ラン◎イラク戦争で倒れたイラク人兵士の武器を戦場から集め、溶かして作られた。剣を   持つ手は、サダムさフセイン自身の手を型にとって作られた。手の回りには海戦場で死ん   だイラン人兵士のヘルメットが墳み重ねられている。古代の言い伝えどおり、かれは白馬   に乗ってアーチの下を記念行進したという。教育年後に、このアーチを発掘して古代のロ   マンに浸り、自分の発掘した遺構の権力の大きさに嬉しがる考古学者もいるだろうが、私   はアホらしいと思う。   

こうした巨大遺跡を讃えることば、多くの人の生活と歴史を刻み込んだ、各地の名もな   い遺跡を破壊されるにまかせることと同じことなのである。考古学の研究目的や歴史学の   方法が、さらには一人一人の歴史意識が問われていると私は感じるのである。ユネスコは   有名で巨大な遺跡の保護に手を貸すことが多い。無理もない面もある。研究者も、各地に   残る無名の遺跡群を対象に基礎研究を続けることに困難を感じることが多い。それでも、  

地味な地域研究として文化財の研究と保存に情熱を傾ける人々を私も知っている。   

確かに、湾岸戦争は最近にない空爆中心の大きな戦争だった。その場所が文明発祥の地   メソポタミアであったし、遺跡や文化財、博物館に与えた影響も大きかった。その破壊の   程度も問題にしなければならないが、もっと大事なことも別にある。謹も見向きもしない、  

自然に朽ち果てていくような、金にならないと思われているような文化財にも目を向けよ  

う。歴史資料の価値は、なにを基準に考えるべきなのか。今回の戦争でも、さまぎまなこ   とを考えさせられたことを忘れてはならない。  

1992年6月、「世界文化、自然遺産条約」に日本も批准した。この条約は1972年、ユネ   スコ森会で採択されたもので、現在は125カ国が締約している。地球の環境、自然、文化を  

保護することの重要性は誰でも知っている。世界遺産一覧表には、日本の加盟した時点で   358カ所が挙げられていた。こうした遺産に、ピラミッドのようなものばかりでなく、普通  

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の人が歩んだ、人類にとってもっとも大事な歴史を刻み込んだ遺跡も加えたいものだと思   う。どこにでもある、そして軽視され破壊され続けている遺跡の保護、活用も、人類史復   元にとって基本になると思うからである。  

*  

1993年1月、昨年の暮れから続けたジュルファル遺跡の第五次発確から帰国した。16日   夕方帰宅するとすぐ新聞社から電話があった。アメリカがイラクの軍事基地を空爆したが、  

その影響はあったかという。発掘中にイラク空軍機がアメリカ軍に打ち落とされたことは   アラブの新聞で読んでいたが、その影響はまったく感じられなかった。17日夕方、別便で  

2人がドバイから帰国した。なにか変わったことがあったかと尋ねたが、なにも無かった   という。   

イラクの南部と北部は、イラク政府による国内の民族弾圧を止めさせるため、国連が飛   行禁止区域に指定している。その禁止区域にイラクはミサイルを設置した。そのため、私   たちが帰国する間際に、アメリカがバグダッドを再び空爆していたのである。   

日本の皇太子は湾岸諸国を1993年1月末に訪問する予定であったが、出発の一週間ほど  

前に中止が発表された。アラブ首長国連邦も訪問されるはずだったので、私も日本太使頗   の依頼でアラブの遺跡と考古学に関する概説を書き、ファックスで原稿を送っていた。皇   太子が湾岸を訪問するかぎり、日本政府の態度も変化するだろうと期待していたが、その   意味でも訪問中止は残念なことだった。1月1∂日、こんどは米英仏三国によるイラクへの  

ウb▲擬J、ヾ古見旨J′41ん  鮪− ‰漆ビュ馳_践)一IJ望立∈王l ヰpl、l_田.ニJ、J ヰ_Lノゝhム、P、白き感謹l_,.・,、サl ロコ  

コニ煉′J、T Tm⊂▲勺レ/」0 男了一肌寸J弓ノ干刊∃1−」むふプ仁成し一ふ∨■こJ山ノ/J、ヽ 乍⊥云〟、ヤフ艦汚医し ししlぺ∋⊂.Jでふ  

われている考古学と、現代の矛盾が凝集したような戦争が、どんなに深い関係にあるかを   また味わった。  

1月末に3人が、そして2月中旬に最後の調査隊員がアラブから帰国した。なにも変わ   りはなかったという。幸いなことに、戦争も興らず、しばらくは平和であるようだ。しか   し、ロシアや西側諸国は、アラブ首長国連邦にミサイルや戦車を大量に売りつけている。  

今、イランの潜水艦購入に対応して、世界で武器をもっとも多く購入する国はアラブ首長   国連邦である。きな臭い地域であるのは確かだ。遺跡や遺物から実際にあった過去の出来   事をやっと推測しているに過ぎないわれわれは、まだ確定していない未来のことはわから  

ない。  

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参照

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