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アラビア湾の港湾都市遺跡

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アラビア湾の港湾都市遺跡

著者 佐々木 達夫

雑誌名 金沢大学考古学紀要

巻 20

ページ 1‑44

発行年 1993‑02‑28

URL http://hdl.handle.net/2297/2748

(2)

金沢大学考古学紀要 20号1993  

し㌣●・㌣‡±∴芋一童り_一上背溝‥罫審二蓬渾  

佐を奉 遼 東  

1 海のお経昏田一陣解明のために   

貿易とアラビア半島   

古代◎中世の酉と東の世界も、現代と同じように、貿易をとおして深く結び付いていた   ようである。内陸アジアを通る東西交易路は、シルクロト−ドと呼ばれているが、より太い   道は海の上にあった。いわゆる海のシルクロードである。   

大量の物資を、一度に低廉な価格で運んだ海の道は、交易や文化的交流のうえで重要な   役割を果たした。しかし、陸上と違って、海の上には具体的で目に見える道の痕跡が残ら   ない。そのルートは多くの国々を通り、熱帯から乾燥地帯までが含まれている。気候風土、  

習慣、民族など、まるで異なった地域を通過しなければならない。そこほ、ロマンの香り   が漂う夢多い地ばかりではない。今も戦乱が続く国もある。そのうえ、東西世界の交流の   歴史は、世界史でも重要な問題である。交易によって運ばれた考古学の遺物からも、多く   の民族がいかに文化的交流を進めたかを知ることができる。   

さまぎまな物資は、当時の科学技術の先端をいき、最大の運搬量を誇っていた帆船によ   って運ばれることが多かった。動力源として自然の季節風を使った帆船は、いかに遠くま   でいこうと経費はかからない。しかも、海の上には国境がなく、遮るもののない開かれた   世界ともいえる。珍奇な物ばかりでなく、生活必需品を求める人々の購入意欲は、商人を  

はるかな国への旅に駆り立てたに違いない。   

さて、ここで取り上げる遺跡はアラビア半島にある。アラビア半島は、今も秘密のベー   ルにおおわれた地域の一つといわれる。それは最近まで、さまぎまな理由により、実態調   査が難しかったからである。しかし、現在は欧米人による調査研究が盛んになりっっある。  

考古学の研究も同様で、遺跡の発掘調査もしだいに盛んになりっっある。アラビアは今、  

未知のベールを剥ぐ楽しみが大きい地域になってきたといえる。   

アラビア(ペルシア)湾の海岸沿いには、中継貿易で栄えた港湾部市があった。中世と  

いう時代に生きた都市はすでに老いて廃墟となったところが多く、そのような遺跡を調査   し、運ばれ、捨てられた物資の破片から、当時の東西世界の文化的な交流を探りたいと思   う。遠くで作られ運ばれた物が、それを使った現地の人々の生活にどのように取りÅゎら  

・一1−   

(3)

れていたか、現地の生活物資にどのような影響を与えたか、すなわち輸入品が生活向上に   果たした役割、技術の変革に及ぼした影響、そのようなことを具体的な物のかけらから考   えたいと思う。   

考古学資料として助陶磁器   

イスラーム世界が広がった中世という時代は、アラビア海をイスラームやインドの商人   を乗せた帆船が縦横に行き来しており、多くの物資が運ばれ、巨万の富を築く人々がいた  

といわれている。物の移動は世界の文すとの交流を促したに違いない。それぞれの地域に、  

新たな文化が築かれる一つの切っ掛けを貿易が果たしていたともいえる。   

アラビア湾に面する遺跡にも、帆船で運ばれたに違いない貿易品が散乱している。シル   クロードに代表される東西貿易の象徴的な品ば縮といわれている。しかし、遺跡から発掘   される量は少なく、その場所も限られている。このことは、他の多くの貿易品にも当てほ  

まることである。   

では、なにを研究の主要な資料としたらよいのだろうか。壊れて破片となり、捨てられ   て土中に埋もれても、変色も腐食もせず、火災にあっても消えず、捨てられたままの状態   で遺跡に残るものがある。それは陶磁器である。   

どこからでも、いっでも、もっとも多く出土し、破片からでも年代や種類、器種、量を   明らかにでき、当時の人々がながめていた色っやさえ消えていない。しかも、日常生活用   品であり、人々の身近な暮らしを知るうえでも重要な資料となっている。むろん、インド  

洋やアラビア湾を運ばれたのは陶磁器ばかりではない。むしろ、陶磁器などは貿易品の中   で占める役割は小さかったに違いない。しかし、遺跡出土品の中で占める割合には大きな  

ものがある。   

こうして、陶磁器を主とする出土品から東西貿易の歴史を考えるため、アラビア湾に面   する遺跡で発掘をはじめることになった。  

望 ジュ施習ア婚遺跡の概要   

地理的自薦侯的環境   

東西世界の交流の歴史を考えるうえで、大きな手がかりを与えるであろう、アラビア湾   のÅり口、ホルムズ海峡に近いラッセルカイマ首長国のジェルファル遺跡で発据喜ばじめ  

た(FiguTe17もeSiteofJulfar,marking thelocation of theexcavated point)。  

ラッセルカイマ首長国はアラブ首長国連邦の一番北にある首長国である。オマーンからホ   ルムズ海峡に延びる山並みが海にせまっており≠ 山裾と海岸部に狭い平野がある。乾燥し   たアラビア半島の中では、農業ができる国としても知られている。   

遺跡からはオマーンとの国境となる岩山がよく見える。切り立っ岩山と海岸の間には荒  

ー2−   

(4)

『甘G乳児匠且 甘旺SI甘E膵才琶皿『Å配,匝胞配監瓦圏G耶旺LOCÅ甘IO因膵丁旺EX6ÅVA甘芭D PO互因T  

−3−   

(5)

れた砂漠状の土地が広がる。一部の土地にはナツメ椰子が植えられ、その周辺は耕作地あ   るいは住宅地となる。大部分の平地は、華や山羊の放牧に使用されるか、そのまま放置さ   れている。遺跡と山岳地帯の間の平原には、滑河ワジの水を集める長さ8加におよぷと推定   される土手が築かれていたようで、その一部が今も残る。いっの時代のものかば不明であ   るが、過去にこの地域の都市人口を支える農業生産力の存在が推定できる。   

遺跡のある場所は、一般の人にはたんなる砂丘にしか見えない。海岸に広がる低い砂の   上に、粘土や日乾レンガ、あるいは石で作られた建物が港町を形成していた。しかし、そ   れらは今、砂の中に埋もれている。しかも、平坦な砂丘をていねいに発布しても、砂地の   上に壁の痕跡や多くの穴が発見されるに過ぎない。それらは、一見して巨大都市とわかる   ようなものでばない。石作りの建物が並ぶ都市、あるいはそびえ立っピラミッドのような   目に見える遺跡ではない。しかし、どこにでもあるようなごくありふれたものであること、  

そこに私はより大きな歴史的魅力を感じている。   

西アジア世界は、乾燥した気候の地域として知られている。しかし、アラビア湾沿岸は   地中海気候の特徴も少し持っている。地中海気候は、夏ほ晴天。高温で乾燥し、冬に雨や   雪が降る  。アラビア湾まで来ると、このような気候の特徴はだいぶ変化している。夏は晴   天で高温であるが、湿度も異常に高くなる。冬はわずかだが雨が降る。一年のほとんどが   砂漠である地域で、2月にはわずかな地面の湿りによって、黄色の土地が一面の緑に変わ  

ることがある。遠くからみると、うっすらと色づく砂漠の線の絨毯はいかにも美しい。5   月を過ぎると高温と乾燥のため、一切の縁が再び荒野になり、砂浜にもどる。   

遺跡のあった地域もこうした砂漠が広がり、その一部にオアシスや町がある。厳しい環   境の中で人々は暮らしていたに違いない。そのような人々の生活を通して、遠く離れた世   界との文すと的な交流を考えたいと思う。   

ジュ施習ア纏遺跡と隠   

ジェルファル遺跡は10世紀から17世紀にかけて栄えた港町と推定されていた。しかし、  

文献に記載きれているジェルファル遺跡がどこにあるのか、正確にはまだわからない。現   在、ジュルファル遺跡と呼んでいる地域は、クリークによって二つの地区に分けられてい   る。私達の発掘した地域より西側のヌドッド地区にジェルファル遺跡があると推定する人   もいる。1966年、イギリス人ドゥ◎カルディによって遺跡が再発見きれ、1970年代に学界  

に報告された【de臨rdi1970,1971ぅ1975】。1973年にはイラク人クーハによってヌドッ   ド地区の部分的な発掘が行われた【1もha1975]。1977年にはイギリス人ハンスマンにより  

東側のマターフ地区の調査も行われ ここからも多くの出土品が得られることがわかった   抽ns眼n1985]。ヌドッド地区とマターフ地区では二同じような種類の陶磁器片が出土   することもわかった。そして、遺跡は広い範囲にあり、長さ射加ほどにおよぷ巨大な都市   遺跡であったことが徐々に判明してきた。  

ー4一   

(6)

ただし、発掘しても遺跡の名称はまだわからず、この遺跡が文献に出てくるジェルファ   ルであることを示す資料は出土していない。また、9世紀から14世紀中ころまで、都市が   存在した証拠が発掘によって見つからなかった。遺跡の名称の問題は残されている。しか  

し、多、くの蓑採品からみると、ここは14世紀後半から17世紀初にかけて、海上貿易で栄え   た港湾都市の遺跡であると推定できる。東は中国、タイ、インドとの交易、対岸のイラン、  

西はメソポタミアとの交易で栄えていたことも、出土品から推定できる。柔らかい砂の表   面には、中国の染付や青磁、タイの青磁、イランの染付と緑軸陶器などが多く落ちていた。  

東西交易の研究には最適の地である。   

また、この地域が富裕な商人の居住地であり、多くの船団を持ち、きらに真珠の採取地、  

同時に漁港であったこともじゅうぷんに推定可能である。現在の気候と地理的な条件から   みても、都市の後背地に農業が可能な土地が存在しており、アラビア湾内にÅった船が切  

り立っ岩山を過ぎてすぐに広がる平野部に近いことも、ジェルファル遺跡の重要性を高め   るものであろう。  

3 文献によるジュ施プア脂遺跡め足跡   

文字資料によると、ジェルファルは7世紀にQIS酬へイスラーム軍が出発した地域とし   て、その名がでてくるという。三つの政治的勢力がホルムズ海峡付近で対時する時代であ  

った。ウマイアッド朝、アッバス朝の時代、ジェルファルは港町として重要な位置を占め   たらしく、オマーンヘの遠征隊の寄港地として知られている。ホルムズ海峡を形成するム   サンダム半島を船で廻るのは航海上の危険が多かったらしく、ジェルファルから上陸して   内陸交通路を通ったことも多いらしい。内陸部の山際のオアシスの町al一助attからは9   世紀のイラク産の青緑紬陶器壷、白軸陶器碗などの破片も採集されているが、こうした内   陸部の交通路の存在を示しているのだろう。  

10世紀には、パレスタインの地理学者アル。ムカグッシーal−Maqdisiによって、ジュ   ルファルは東南アラビア沿岸の重要な港として記録きれている。12世紀にも、地理学者ア  

ル。イドリーシーaトIdrisiがジェルファルを港町として記載している。パスコダガマの   1朋8年の記述によっても、ジェルファルが港町としていかに繁栄していたかがわかる。   

地元ラッセルハイマの15世紀の詩人は、ジェルファルから(10呈伽離れた)ラムスまで、  

家々の屋根の上を辛が飛びはねながら歩いていったと歌っている。その言い方はいかにも   太げさであるが、かなり密集した市街が形成されていたことは推定できる。ただし、後に   みるように、ジェルファルがラムスに隣接する島であれば、太げさとはいえない。  

15世紀の終わり頃、インド洋に進出したポルトガルにより、アラビア湾の主要な港が征   服きれていった。1515年にイラン側の拠点港湾都市のホルムズが服従し、ついで湾内の貿   易港のバハレンが支配下に入る。ジュルファルも16世紀の初頭にはポルトガルによって征  

服され、要塞が築かれ、税関が置かれたという。これより後はポルトガルの文献と地図に  

ー5−   

(7)

ジュルファルが描き出きれることになる。1563年の地図にば、ポルトガルのジュルファル   の砦が、・マスカットとバスラの間の海岸で最大の砦であったと記録されている。   

しかし、ポルトガルの支配に対するアラブ人の抵抗も続いたという。これに対して、  

1621年、ポルトガル人は海岸部の砂丘上のモスクに大砲を打ち込んだという。おそらく、  

その砂丘はジェルファル遺跡であろうが、これがきっかけで、ジェルファルは廃墟に近い   町になったらしい。この地域からは17世紀の中頃以降の製品は表面からの採集品にもはと  

んどないため、1633年のアラブ軍によるポルトガル攻撃の際に、ジェルファルは完全な廃  

墟になったと推定されている。これ以後はクリークを隔てた南側の海岸砂丘上のラッセル   カイマ旧市街に都市が移ることになり、ジェルファルは廃墟になったのだろう。   

こうしたアラブの文献、あるいは遅い時代のポルトガルの記録類から、ジェルファル遺   跡は裕福な港湾都市であったと推定できる。ただし、われわれの発掘区域の最下層ほもっ  

とも古い時代でも14世紀末ころであった。したがって、15世紀より古い文献に記載きれた   ジェルファルは、他の遺跡である可能性が大きい。   

今、発掘している遺跡は現在のジェルファル村の海岸部に位置している。ここから約   10細1ほど海岸に沿って北上すると、ラムスという町がある。その北側の海岸部に広大な遺  

跡が広がるが、そこはジェルファル遺跡と同じような低い砂丘であり、周りを海に囲まれ   た長い島である。遺跡の名はジャジラット。アル。フレイヤ姐−Ⅲ瓜mである。遺跡の   表面からは、9世紀から16世紀にかけての施紬陶磁器を採集できる。したがって、ジェル   ファルという中世都市は、14・世紀末から15世紀始めに移動、あるいぼ拡大したと推定でき   る。15世紀初めから16世紀にかけての文献記載だけが発掘地域に当てはまるのではないか   と推定できる。  

穏 遺跡踏査か鼻糞据開始鴨   

愛嬢に至る藍で  

1987年の暮れ、東西文化交流史研究という目的にあう遺跡を求めてアラビア湾に面する  

国々を訪れた。一月前に開館したばかりのラッセルカイマ国立博物館の倉庫に、ドバイか   らタクシーで数日間通い、ビニール袋に入った採集品の撮影と実測を始めた。それらほ十   年以上にわたってジェルファル遺跡から集められた、東アジアの陶磁器やイランの陶磁器   であった。どうやら、ここが探し求めていた遺跡のようだ。博物館のドイツ人考古学者の   案内でジェルファル遺跡に足を踏み入れた時、東西の文化交流を探るうえで、もっとも適   した遺跡であると思えた。青い海と空、砂丘に埋もれる遺跡、遠くにそびえる岩山、遺跡   内には摩擦を引き起こす人家が一軒もない、こうしたことは研究のうえでも条件に恵まれ   た環境であった。さっそく、ラッセルカイマ政府に発掘許可を求める申請書を提出した。  

翌年の19鮎年6月、ラッセルカイマ政府より発掘許可証が送られてきた。  

一6−   

(8)

しかし、その条件には考えさせられるものがあった。ジェルファル遺跡は広大で重要で  

あるから、日本隊の他に、イギリス、フランス、ドイツの調査隊もジェルファル遺跡調査  

に参加するというものであった。ラッセルカイマの発掘プロジェクトに、四カ国が参加し   て競いあうという状態になる。ラッセルカイマ政府を入れれば、五国の共同調査ともいえ   る。調査する目的や方法、研究発表の権利などは、それぞれの調査隊に属している。問題   は起こらないはずであるが、名目的であれ、共同という言葉には不安がともなった。許可   証を受け取った翌月の7月、ロンドンの学会でラッセルカイマ博物館員と会い、発掘調査  

を行うという結論をだした。   

調査開始めこる   

今回のプロジェクトで最初の発掘チームとなったわれわれ日本隊は、1988年11月、ドバ  

イ空港から車で100加離れたラッセルカイマに向かった。副首長で博物館長も兼ねるスル   タン殿下にお会いし、発掘許可の礼を述べる。すぐ、殿下の運転される車で、ジェルファ   ル遺跡を訪ねた。翌臥サクル◎アル払カシミ首長を宮殿に訪ね『挨拶する。そして、次   の日、朝6時、発掘調査を開始することができた。その日の夜、発掘の契約書にサインを   交わしたとき、始まりであるのにまるで終わりのように感じたことを思い出す。異なる文   化、習慣の世界で、発掘の準備や生活の条件を整えることば、発掘そのものよりも大変な   仕事であった。   

ジェルファル遺跡は現荏のラッセルカイマ市街の郊外にある。遺跡の前は海で、その海   は長く延びた砂州により外海と内海に分かれる。紺碧の空と海、黄土色の砂と稽曲がはっ   きりした岩山に囲まれた世界でもある。そして、遺跡全体がラッセルカイマ首長国によっ   て保護されている。青い海に映える砂丘内に、何層もの都市の跡が積み重なっている。で   は∴数加にもおよぷ長い遺跡の、どこから掘りはじめたらよいのか。発掘地点はどこにし   たらいいのか。発掘の目的は貿易の実態を知ることであり、陶磁器を主とする多くの貿易   品を入手したい。そのためには立派な建物の構造を明らかにするよりも、ごみ潜めの発掘   のはうがいい。しかし、まだ不明な港湾施設の場所も知りたい。そこで、砂州の先端部分   を発掘地点に選んだ(FiguTe2 ExcavatedSquares and ContouT Mapof southe門IPaTt  

Of al−Mataf apea)。   

われわれが今回のプロジェクトの最初だったから、発掘現場でも、当初はとまどいがあ   った。人夫の大部分はイスラーム教徒だが、仕事中の祈りを認めるかどうかなど、次々と   問題が降りかかってきた。昼食を遺跡で食べるとすれば、誰がいっ、どうやって運ぶかも   切実な問題だった。昨日まで土木工事をしていた人夫に発掘作業を教えたことも、日本人   の後に調査に来るヨーロッパ人のために教育している感じもした。調査事務所の設備を整   えることも、最初のチームの仕事だった。大きな木製机やベニヤ製画板などはうまく作れ  

た。二年目には、遺跡事務所までの道路に砂利を敷き、電話線を引いた。こうして、調査  

一7−   

(9)

「丁/−1T了1iこ.∴ざ−・−∴ドご−..√−.いこtぎご∴・.・仁一一:∴−し一二!:ミ‥・J.≡・・こ:!、、」ニ′し↑;、三三:二i−:.イさ.ト斗.‥−.∴■ニ・・■トー・‥・.;・.  

−8−   

(10)

の回数を重ねるに従って、しだいに調査の環境は快適になっていった。   

調査時の問題など   

英仏独というヨーロッパの主要国がからむ調査に参加することには心配もあった。しか   し、各国の調査隊は、場所と期間を違えて調査するので、遺跡で他の発掘隊と仕事が重な   ることはなかった。ただ、調査時期は快適な気候の冬だけの短期間に限られるので、微妙  

な日程の調整が必要だった。クリスマスや正月には仕事をしないヨーロッパ人と、冬休み   期間を利用して調査しなければならない日本隊の利害が一致したのは幸いだった。   

こうして、アラブ首長国連邦における、日本人による初めての発掘が、1988年から1993   年にかけて実施されることになった。今回のイギリス隊(Dr.G鳳麗ing)とフランス隊  

(Dr。C卓Haヂdy一触ilbert)は、アラブ首長国連邦での発掘ば始めてであり、日本隊(佐々   木)と経歴に関しては同じ条件であった。ドイツ隊(Pro㌫∴軋Jansen)はこの国で先史時  

代の墓の調査を行った経験があり、今回のプロジェクトに参加すること自体を目的にして  

いるようでもあった。しかも、発掘調査ではなく、日本、イギリス、フランスが発掘した   レンガ建物を保存することを目的として参加が許可きれた。しかし、その約束はまったく  

果たさず、都市内の各地で城壁を探すための試掘を行うなど、他の調査隊と摩擦を起こし   ながらの調査となった。ドイツ大使は毎年、遺跡を訪れドイツ政府もラッセルカイマ博   物館に出土品の保存処理施設を寄付するなど、政治的な動きもみられた。イギリス隊はジ  

ェルファル遺跡だけを調査するという調査契約を破り、ラッセルカイマ政府と取り引きを  

行い、他の重要な遺跡の分布調査や写真撮影などを行い、元植民地支配者の強みを十分に   生かしていた。こうした動きにフランス隊はつねに強い抗議を行った。こうした背景には、  

ラッセルカイマ政府の思惑も働いていた。日本からは強い政治的、経済的、文化的な働き   かけが少なかった。日本とアラブ首長国連邦との文化的交流を促進するためにも、大使館  

や商社員などアラブに滞在する多くの日本人が何らかの問わりを持っことが重要であると  

思った。発掘調査やその成果を展示する展覧会などは、二国間の交流を促進する文化的事   業の一つになるものであろう。   

調査費用を工面することは、もっとも心を傷める仕事であった。調査費の獲得に失敗し   たらしいドイツ隊は1989年の調査に参加せず、また湾岸戦争のときはフランス、ドイツと  

もアラブにほ乗なかった。計画通りにいかないことば多い。日本隊は当初の目的の五年間   ではなく、六年間の発掘期間に変更することを1993年1月段階でラッセルカイマ政府に申   請し、許可書を入手した。そして、1994年暮に現地で出土品の整理だけを行うことにして  

いる。1987年暮に現地を踏査し、1995年初めにやっと現地での調査研究が終わることにな   る。日本国内で行う商査なら、1年間で終わる程度の内容の調査であったかもしれない。  

アラビアでの調査は、性急な成果だけを追うことが許されない。1995年には出土品を含め   た研究をまとめなければならない。  

ー9岬   

(11)

5 遺跡の層位   

遺跡には、どのような建物や施設が残るのか。その保存状態はどうか。何校の層位が重   なっているのか。こうしたことを知らなければ、どの程度の範囲をどう掘ればよいのか、  

決めることができない。発掘地点を遺跡全体の中で位置づけるために、遺跡全体を覆う枠   組みを作る。一辺が100mの大枠で、その中をさらに10m四方に分ける。さらに、地形図   を作るには海抜が必要だが、19朗年には101剋先にしか標高のわかる地点がなかった。発掘   を開始したころ、現地の地図を入手することもできなかった。そこで、1988年、潮の干満   を測定し、海抜Omを設定した。そして、長さ50mほどで幅50cmのトレンチを掘りはじめ   る。その結果、建物が建っている面を含むと推定される11の層位を発見した。その下は海   水が湧き、土器などの人工物も出土しない。   

この基本層位を参考にして、30二く20mの範囲を上から一枚ずつ、層を剥いでいく作業を   続けた。目次を見ながら、本を一亘ずつめくるような作業であった。しかし、目次にない  

層位や建物がすぐに現れた。すべての層位は人工のものであり、場所によって建物の建て   替え回数が異なっていたからである。実際に発見きれた建物や生活用品は、本を読むより  

もずっと豊かなものであった。  

1989年の第二次発掘調査で、上下(新旧)関係にあるいくつかの建物グループの関係か   ら、この場所は6層に分けることが家屋の変遷を説明しやすいことがわかった。ただ、本  

当は同じ文化層にするべきであった最上層を、1988年に1層と2層の二つに分けてしまっ   た。上から順番に掘ったこと、出てくる山のような出土品を整理するため、すぐに層位名  

をっけなければならなかったこと、がその原因であった。発掘の途中で層位名を変更する   ことは、混乱を生むからできない。したがって、遺跡の層位は7層にわけて記述すること  

になった(FiguTeS3−4 SectionDTaWing of the闇est Face of SquaTe C12:61−63)。第   一次発掘調査では第1、2、3層の3面を、第二次発掘調査で第4、5、6層の3面を、  

第三次◎第四次発掘調査では最下層の第7層を、そして第五次発掘調査では第6層の残っ   た部分と第7層の一部を発掘した。こうして、各々の層で、遺構の状態と出土品がともに  

大きく変化していることも判明した。  

6 発掘凄絶た遺構   

建物と竃、流   

それぞれの層位から、家屋、電、貯蔵究とゴミ究等が発見された。その上下関係を模式  

的に示したのが、Figure5 Modelof Levels and ArchitectuTeS atJulfaTである。発   見された建物は、大部分が泥か泥レンガでできており、大小の石やすでに腐って今は見ら   れない華や木も使われていたと推定できる。焼いた燥瓦は、われわれの発掘地点にはまっ   たく見られない。泥壁は地面に近い部分しか残らないものが多い。風と砂で削られるため  

−10−   

(12)

t−む>む一   銅−心>む﹂   ト一心Aむ﹂  

M−む>むJ   建一聖石一   

∽ 疇ぎ忘一  

FIGⅥ檻3 SEC甘IO封D配鯛亙貼OFⅧ服STFACE¢野馳Ⅲ覗E C且望:6且−62  

−1トー−   

(13)

ト一む>む﹂  

岨 虚心Aむ﹂   

爪一む>む﹂  

寸一む>む﹂  

FIGURE4 SECT10N DRAWING OF TI正WEST FACE OF SQUARE C12:62−63  

一12一   

(14)

に、壁の根本は細くなり、壁全体が一気に崩れたこともあったようにみえる。泥のため、  

しだいに細くやせていく場合もあったろう。上層から多くの穴が掘られているので、その   究で壊された壁も多い。上層ほど風化がはげしいのか、家壁の保存状態は良くないけれど  

も、中庭に面して小部屋が並ぷ、あるいは家の外に塀が巡らきれた敷地の状態、さらにカ   マドが塀の内側に作られるというような、家の配置や生活形態がしだいに明らかになって  

きた。   

部屋内の壁際、あるいは建物のすぐ外側には、多くの竃が発見された。すぐに壊れたた   めに、何度も同じ場所で作り替えきれたようである。上層と下層で竃の形態はまったく違   っていた。上層の電は、少し大きめの究を掘り、その中に大きな土器の壷を逆きにして埋   める形態が多い。壷は底部が填きれて抜けており、壷の内部で火を燃し、肉や魚を焼き、  

パンを焼き、あるいは土器の鍋を置いて煮炊きをした電として使われたのだろう。いくつ   かの形態の竃があるから、それぞれの用途によって、魔の使い分けが行われていたことも   あったのだろう。土器を使った奄の大部分には、底部に焼土と白灰が交互に厚く堆墳して   いる。したがって、この形態の奄は多くの場合、煮炊きを主としながら、日常生活で常に   用いられたものと推定できる。   

竃として使われた大きな土器壷のいくつかは、掘り出した後に接合して復元することが   できた。竃として使われたときは、口嫁部を下にした状態の遭向きに埋められていたが、  

その底部に近い部分に孔が一つ開いた奄も数点あった。この孔は空気を入れる孔の可能性   があり、底部に残る焼土や灰の堆横が非常に薄く、常に内部をきれいにして使われていた   ことがわかる。こうしたことから、この形態の竃は、とくにパン焼き用のオーブンとして   使われたのではないだろうか。ただし、針金で吊るした鳥を丸焼きしたり、魚の燻製を作  

ることも可能であったかもしれない。   

こうした上層の竃のうち、第1、2層と第3層の竃を比較すると、土器壷の周りの状態   に少し違いが見られる。第3層の土器の周辺には、掘り込んだ地面の土と同じ土を回りに   詰めている。第1、2層の土器の周りは小さな貝や砂などを埋めて保温状態をよくしたり、  

土器片で補強したりしている。数十年も経たないと思われる程度のわずかな年代の違いで   も、しだいに改良が加えられたことがわかる。   

この他に、上層には土器壷を使わない、地面を滞り窪めただけの蔑もかなりある。また、  

下層の電は、土器壷を使わないもののほうが多くなる。第6層では数個の竃だけが土器壷   を使うだけであり、第7層になると土器壷を使う電は一点も見られない。電の形態は、世   代によって簡単に変化するようなものであったと推定できる。   

円形の究(ピット)も多数発見された。中くらいの大きさの究が多いが、径が大きく、  

疾い宋もいくっかあった。井戸では馴\かと雁疋できるものもいくつかあった。しかし、  

今は海水が湧くだけである。もし、水を汲み上げたとすれば、先の下部に水の表面でえぐ   られた部分が残ると思うが、それも見られない。何のために作られたのか、推定できるよ  

−13−   

(15)

Surface layer 

+3.68m above sealevel▼−・=・L・−一…−  

Wo Architecture 

TopofSurface,Aftercha喝ingB・M・(+0・90m一ウ生壁m)  

Lev¢旦 旦  

Lel′elコ  

Lel・e13  

Pit Dven Post deep circular pil 

協動甘ほ乳=血励 3)   L.3   

byer A    Layer B  

Storage   Jar stand   Street A  

B色Se Of Leve13   L.3,1ayer C   

(物触沼q=血融鼠  

Levelヰ  

Street   Pit Oven Large Pit A  

Base of Leve14  

justbelowH3 

1J−  

Leve15  

■  】 l  

Leve16  

1eve16is the destruction   debris of the building of 

L・6 (肋叡方砧〔げ1飢頑6)  

H.11(byer B)  

軋15(byer C)  

Base of Level 6 

Leve17   伽飢もf:os三竺ア  

Layer A 

brgePit  

−   ̄.二  

⊥・−… ̄ ̄__ l 

版画腑=げ反感7)  

Red S貌dlayer  

Layer B 

‥−1■−−−−−−− 

Base of■Leve17  

−  

+BOcⅢabwesealevel   She111ayer   Sandlayer  

SeaWater−10cm¢叩…MMm   Sandwith shelllayer  

Cle肌Sandandshelllayersarefoundumderleve17,Noartificialobject.   

・…−・・−・・−…・ Hi感Itide sealevelis+50cm   

・−・−−・・……・・ Waterlevel,−1O cm above sealevel  

溶Levelofwater,ÅfterchangingB.M.(・90cm→+80cmaboves哩1evel)   

『王統暇5 脚D乱0『LEⅧ監SA珊感C毘‡ⅧC硯限ESAT胡乱『媚  

−14−   

(16)

うな遺物や痕跡も残らないものが多い。内部に堆積した土層は、水平に近い状憩でしだい   に埋もれたようである。したがって句最終的には食料残渾を捨てるためのゴミ捨て先に使   われているように見える。なかには、後で一度にものを投げ込んだような観い層をなす状   態を示すものもある。多くの穴は、細かに見れば水平に近い層があるから、ゴミと自然の  

砂が短期間に堆積したという状態である。いずれにしても、究の壁が崩れたものは少ない   から、きわめて短い期間で埋もれたに違いない。砂地の究がなぜ崩れなかったのか、不思  

議である。   

この他に、柱跡の小さな冗がそれぞれの層でかなり多く発見きれた。粘土を壁に使った   家の他に、柱跡を残すような風通しのいい草木の家もあったことがわかる。季節によって   棲み分けたと思われ、同時に存在したと考えてよいだろう。柱跡を残す家は、寒い冬には  

向かないが、暑い季節が長いこの地域には欠かせないものであろう。ただし、発掘によっ  

て、季節によって使いわけたような証拠は未発見である。柱跡の冗は方形と円形のグルー   プになるものもあるが、多くは形状が不明瞭なものであった。家の形を復元することが難   しいような、もともと簡単な構造の家の柱跡であるように見えた。柱や壁、天井の多くは、  

材料にナツメ椰子の幹や葉を用いたのだろう。多くは腐食したため発見されないが旬6C層  

の火災を受けた部屋でば、炭化したナツメ椰子の幹が床から発見された。天井の梁が焼け   落ちたものであろう。  

層位ごとめ遺構   

第 7 層   

第7層は、湿っているときは紅色がかる砂の層であり、この地に多くの人が住み始めた   14世紀後半ころから凰によって運ばれ堆積した層と推定している。発据地点の周辺や少し  

離れた遺跡内でも同様の砂が見られるから、広い範囲に広がる砂層と思われる。この紅色   砂の上に築かれた第6層から第1層までの層は、すべて人為的で狭い部分だけに堆積した   層であり、少し離れた場所どうしで層位を対応させることばできない。第7層だけが、離  

れた地域でも層位の対比が可能である。   

この第7層内からは、泥やレンガ、あるいは石で作られた、構造のしっかりした家がま   ったく発見されない。多くの冗が砂地に掘られており、泥で作られた竃も発見される。穴  

は貯蔵穴らしい大きなものと、小さな丸い柱跡の穴の二種覇がある。夏の家のような簡単   な構造の家が海岸の砂地に建っており、竃や貯蔵宋のような究が繰り返して作られた状態   を示している(Figure6 Plan of Leve17)。この層の下には、自然の貝の堆寮層などが   あり、海水が湧き、人間が住んだ痕跡はない。C12:42では、貝の層、砂の層、そして砂と   貝の層と続いていくようであり、砂と貝の層で海水が湧きだす。  

ー15一   

(17)

FtGしⅦ三6 PLAN OF LEVEL7  

一16−   

(18)

第 $ 層   

第6層は、ジュルファルに都市計画がなされ、広範な地域に住居群が建てられた時期で   あったようである。ここから150mほど離れたところのトレンチでも、第6層と類似した   規格をもった泥レンガを使った建物が発見されている(Vogt1991)。この第6層の時期に、  

この地域に巨大な港湾都市が出現したと推定することが可能である。ただし、アラブの都   市がどれほどの都市計画で建物や道路が配置されたのかは、狭い範囲の発掘では不明瞭な  

ことが多い。人々は無計画に空いている場所に家を建てたかもしれない。   

また、第6層は上からA,臥 Cの三層に分けられることも判明した。最も下の6C層は   第7層の砂の上に建てられた泥レンガ作りの長方形の家である。それと重なるように、ほ  

ぼ同じ高さの地面に6B層があり、家の向きを直角方向に変えた長方形の泥レンガ作りの家  

がある。小さな柱跡も同時に発見されている。この上に、発掘地域の全面に広がる家が密   集して建てられるが、それが6A層である。道路ほ6A層の段階で作られている。   

6C層(Figure7 PlanofLayerCofLeve16)の家は南北方向に延びる長方形の泥   レンガ家肋use15である。火災に会い、5重から4室に縮小しているようである。また、  

建物内の仕切り壁の位置もずれているように見えるから、火災にあった後に内装を変えた   のであろう。火災にあったために、蝕)Omlaは他の窒よりも室内床面の遺物の残りかたが  

よかった。この部屋から出土する破片は大きいのだが、接合して完全な形になるものも少   ない。火災を被った後に室内の清掃が行われたこと、また、清掃が完全ではなく、新しい   床下に古い壊れた物が残ったことを示しているのだろう。家の東側外には、泥レンガを使   用したように推測できる長方形になるらしい竃があった。この形態の竃は、この6C層だけ  

にしか見られない珍しいものである。竃は南側の室内と、建物の東側外に添って作られて   いる。西側にほまったく奄がない。ゴミ究も少なかった。   

家の建てられた場所は、この付近ではもっとも高い部分であった。北側にむけて第7層   の表面、すなわち第6層の面が傾斜して下がっているのである。   

6B層(Figure8 PlanofLayeTBofLeve16)の家Housellも構造は6C層の家と   琴似している。壁に泥レンガー枚を番み重ねた、東西方向に延びる長方形の家であり、周  

りよりも高い部分に建てられている。6A層の建物に破壊されたらしく、壁や床の残りかた   は悪く、全体の構造は明瞭とはいえない。家の西側外にあたるC12:40区の東側半分には三  

枚の薄い粘土面が広がっていた。これは連続する生活面であり、多くの竃もその面の上に   並ぶようにして発見された。小型の独立した部屋内に作られたDatesPressBも家の北側   で発見された。家の周辺には多くのピットが発見され句柱跡群と貯蔵先の二つがあったよ  

うにみえる。この層からはゴミ捨て究も多く発見された。C12:40区の西南部の竃群は泥レ   ンガの家馳usellとは違う家で使われた寵であろう。C12:4机50区の南側に多い柱跡帯   は家の跡であろうから、この付近の電も柱跡群に伴うものだろう。DatePressBの北側に   は、柱跡群があったようである。わずかに、6C層の家の壁に残る柱跡群からその存在を推  

−17−   

(19)

FIGLTRE7 PLAN OF L^YER C OF L.EVEL6  

一18−   

(20)

FIGLTRE8 PL∧N OF L^YER B OF LEVEL6  

一19−   

(21)

定できる。その他の柱跡は、第7層の砂内に掘りこまれたに違いないが、発見することが   できなかった。この時期は、6C層よりも人口密度が高くなったか、居住期間が少し長かっ  

たのであろう。   

6A層(Figure9 Plan ofLayeTÅofLeve16)からは、この発掘地域でもっとも密   集した建物群が発見きれた。中庭や道路が作られたのも、この層からであった。ゴミが捨   てられた穴も、この層からは発見されない。ゴミ穴を撮れるような空き地がない状態であ  

ったからであろう。貯蔵究と推定できる究は数個だけ発見きれたが、いずれも6A層の最下  

層で作られていた。住居の敷地の区画が明瞭になったのはこの時期からと推測できる。   

道路の堆衛士は非常にわかりやすく、乾燥してくると、道路面が指先で簡単に剥がれる。  

自然に少しずつ細かな泥が道路面に堆積し続け、その上を人々が歩いたためにやや中央部   が窪むという状態になっている。第6暦では南側の道路Street Bは途中で南に折れ曲が   るが、第5層、第4層と上層になると、この道路は真っ直ぐ西に延びるように変化する。  

道路の幅は2m弱であり狭いので、都市内部のメインとなる道路ではなく、弘道に近いも   ののようである。発揮地域が都市の周辺部にあたり、住宅地であったためであろう。   

道路Str紀t Aの壁に沿って円形状に数段の石が繚み重ねられた石組施設が二つ並んで   いた。ただし、高さは少し違っていたから、同時に使われたともいえない。残っていたの   はそれだけだが、石組内部の堆衛士ほ柔らかいもので、層位もなかったから、もともとは   空洞であったのだろう。これは素焼きの大きな土器の蛮を置いた台ではないかと思う。こ   こで冷えた水を飲み、側で水タバコを吸い、おしゃべりに興じていたかもしれない。二つ   の石組が近くにあり、いずれも道路に土が堆韓していくにつれて石を上に重ねたように見   えるから、同じ場所に水飲み場が作り続けられたと推定できる。ただし、石の上部は第6   層の堆積土で覆われているから、最後まで使われたわけではない。   

南側の道路Street Bと北側の道路S加eetÅの二つの道路に挟まれた内側の家H肌Se   lO,14は、発掘範囲の中央にあたり、おおよその部屋の配置が推定できた。発見きれた   道路の両外側にも家House8,9,13があったが、House9は大部分が発掘範囲の外にな  

ったため、家の大きさなどは不明瞭である。二つの道路に挟まれた区画内の家は、泥レン   ガー枚分の壁で二軒に分かれるようにみえる。西側のC12:40,41区に残る家が持ouse14   であり、東側のC12;50タ51区に広がる家が随)SuelOである。   

HouselOの部屋には、発掘された道路からは入れない。この家に入るためにほ、東側に   あったと推定できる発掘区域外の道路から門をくぐって入ったに違いない。東側から西に   通路を入ってくると、そこは発掘区域内になり、中庭がある。狭い通路状の中庭部分には、  

石組施設があったが、鳥小屋などであったかもしれない。ここを通過すると方形の中庭に   なり、西側隅の壁際には竃が並んでいる。ただし、竃群の層位をみると、順番に横にずれ   るように作られたようであり、同時に存在した竃は一つか二つであったろう。いずれにし   ても、長く台所として使われた場所であったことがわかる。中庭の西北側部分の篭は、そ  

一20一   

(22)

Fl(;tTRE9 PL蛸OF LAYER^OF LEVEL6  

一21一   

(23)

の上に砂の層が載っている。DatePressAを部屋内に作った際に、電部分を埋めて通路部   分にしたようにみえる。Street A例の部屋の壁も、作り変えた部分がみられた。0ven166  

と仇℃n172の間の壁は、初めは北側の泥レンガ壁であった。後に、この壁に接して南側   に石積み壁が作られ、そこから南方向にも泥壁、あるいは敷居、階段が設置きれる。その   際に、仇憺n175から179が堅か敷居の下になっている。電はいくつかの部屋の中でも発見   されたが、その場所ば比較的限られているようである。   

StreetAに接する部屋にほ、ナツメ椰子の実から甘味料を作る施設DatePress Aが発見   された。床に張った漆喰にはナツメヤシの種の痕跡がいくつも見られた。室内には畝状と   潜伏が交互に並んでいる。漆喰を塗った面の上に棒状の畝部が泥と小石で作られ、全体が   厚く漆喰で塗られている。この部屋の南側の小さな部屋の北半分には、小さな泥レンガが   敷きつめられ、作業部屋としていたようである。この二部屋は壁の基礎部が修復されてい   た。それは、室内の間仕切り部のレンガや右列が上下にずれていることや、わずかにずれ   た東側外壁が上下関係で存在したことによってわかる。この二部屋が、肋uselOに属する  

のか、それともHouse14に属するのかは、入口部が不明瞭なため検討を要する。House   lOの中庭に竃が作られていた時点では、竃をまたぐことになるから、この二部屋に中庭か  

ら入ることば難しい。しかし、後に電を癒して壁、または敷居を作った時点では、作業部   屋に入ることば容易になる。作業部屋に入るために、電を埋めて階段状部分を作ったよう  

にみえる。   

肋uselOでは、寝室や居間などが中庭の両側に並んでいるようにみえるが、そのような   尉達彦具体的に示す遺構や遺物は発見されなかった。イスラーム建築では典型的といわれ   る、道路とその壁で囲まれ、内側に中庭があり、各部屋が中庭に面しているという家が発   掘されたようにみえる。ただし、中庭に面する部屋のすべてが同じ家族で使ったかどうか   は不明である。竃の位置や部屋の並びからは、二部屋か三部屋が一つの家族で使用した大   ききであったようにも思える。そうであれば、ここは過密な住宅地であったといえるだろ   う。HouselOの中庭の中央部分に大きな冗Pit47がある。底部からは海水が湧きだして   いた。井戸であるかもしれないが、断定する根拠はない。   

敗MSe14と馳uselOの間仕切りの壁の一部は、肋uselOの中庭の外壁でもある泥レン   ガー枚の壁である。肋use14に入るには、南側道路Str蛇t Bの曲がり角にあった門からで   ある。ここには厚く泥が棲まれ、その中には比較的大きな石が含まれている。とくに門柱   が建っと思われる両側部分に石積みがよく残る。門を入ってすぐの西側は中庭であり、他   に類例がない粘土で作った竃も残っている。門を入ってすぐに北側(右側)に入ると長方  

形の大きな部屋がある。この部屋は、西側壁の修復、南側壁の方向の修正をしているよう   にみえる。敷居部分は中庭に面する壁と方向がずれている。何度か作り直ししているよう   である。この部屋の酉鰍こは、さらに細長い窒がある。その部屋の酉壁に面して、室内床   の最下部にば、割石を並べた竃がいくつか見られる。さらにその西側の室には黒い灰が広  

−22−   

(24)

い範囲に堆積した部分が残る。   

Street Aの北側で発見されたHouse日,13はわずかに床面と最下部の壁の一部が残る程   度であり、第7層の砂地の上に載っている。したがって、6A層なのか、それそも6B層、6C   層に属するのかが問題になる。House8については、道路に面して建てられており、しか  

も壁の一部に砂レンガを使用しているので、6Å層で間違いないだろう。ただし、Ho11Se13   は、道路の壁と接しておらず、家の構造も6Bヲ6C層と類似しているので、6Å層と断定する   ことば難しい。道路の北側は第7層の砂の面が低いので、住居が密集してきた6A層の時期   になってから家が建てられた可能性は大きいだろう。House13の室内には竃がなく、また、  

東側壁外にはトイレかもしれない長方形の深い究があった。冗の底には偏平の石が乱雑に   敷いてあった。家壁に面して、すぐ外側に究が掘ってあり、冗の両側にほ石混じりの枯土   が厚い壁のように建っていた痕跡が残る。家壁の反対側は壁がなく開いていたようである。  

ただし、穴内堆積土には臭いもなく、貯蔵冗の可能性もある。この冗のある家の前は中庭   程度の空き地になり、小きな炉跡が残っている。そこでコーヒーを沸かし、おしゃべりし   ていた場所かもしれない。   

Street Bの南側の家はHol王Se9であり、壁際の室内の一部分だけが発掘区域に入った。  

部屋内に泥レンガによる低い仕切りがあり、台所と推定される狭い部分があった。その中   からは、棒状の擦り石も発見されている。   

第 5 層   

第5層(Fi誹relO Plan ofLeve15)からは、泥レンガの壁と部分的に石と泥を用い   た壁の建物、大きな究、寵が発見された。House5の壁の基礎部には一部に石を積んだ部   分もある。家壁の東側には竃が並んでいた。堆積した状況から、連続して一つの電が使わ   れたことが推定できる。家の東側の空き地には、比較的大きなビットが並んでいる。貯蔵  

究であろうか。6A層で作られた道路も続けて使われており、Street Aの道路際には台形の   小石が並ぷ部分もあった。道路の境界を示すものだろう。道路の北側のC12:42区では、泥  

レンガを使ったHouse7が建っている。残りは悪い。C12:52区では、方形に近いHouse6   があるが、小さな部屋であり、しかも壁が厚いことが特徴であった。住居かどうか不明瞭   であるが、西側外には電がある。   

Street Bの南側にもHouse12がある。第6層の葺ねuse9を発掘中に、その直上に同じ   プランの家があることがわかった。ただし、House12が第6層の上層に入る可能性も考え  

られる。   

第 昂 層   

第4層(FiguTellPlan of Leve14)も、泥レンガと部分的に石と泥を用いた壁の建   物、電、それに多くの柱跡群が発見された。House4の家壁の残りはよくないため、地面  

−23−   

(25)

しこJ、・  

FtGURElO PLAN OF LEVEL5  

−24−   

(26)

FIGURE11 PLAN OF LEVEL4  

一25−   

(27)

すれすれで眺めると、多くの壁の痕跡が見えたけれども、写真撮影することば難しかった。  

第5層の肋use5の石積壁一本は、第4層のHouse4の壁としても利用きれている。その   南側に勺古い家の壁に接して、恥en40の北側にあたる別の壁が作られている。家の柱跡  

と思われる小さな究は、House4の東側の全面で発見きれた。一部の柱跡は方形に並ぶも   のもあった。道路を隔てた北側の場所には、泥と泥レンガの壁で作られた肋use3がある。  

その壁のすぐ下にほ柱跡群がある。柱跡の直上に泥壁が載るから、作り替えは時間を置い   てないことがわかる。泥壁の家馳use3と南側の肋use4は同じ時期に建っていた家であ   ろうが、馳use3の直前には柱跡の家が建っていた。王iouse4の隣の家は少し時期がずれ   て建て直しされたこと、隣の敷地では一回多くの建て直しがあったことがわかる。それぞ   れの家の存続期間が違うのは当然のことであり、少し髄れた場所を同じ層位と認定するこ  

とが馨しいことを、ここでも示している。6A層で作られた道路Str暖t Aも続けて使われて  

おり、道路際には台形の小石が並ぷ部分もある。Str暖tBは南に曲がっていた部分が、第   5¢4層では酉に直線に延びるように変化したようである。   

第 冨 層   

第3層(Fi糾re12 PlanofLeve13)からは、粘土虚泥のレンガで作った壁の家で中   庭を持つ家、究や電、ナツメ椰子を利用したと思われる家の柱跡が、かなり多く発見され   た。方形や円形に並ぶ柱跡もいくっか復元できた。泥レンガの家は残りが非常に悪く、壁   の痕跡がわずかに残るという部分もあり、発見しにくいものであった。泥レンガの壁は、  

わずかな地面の乾燥の違いによって浮かびあがることがあった。毎朝、太陽を背にしてじ   っと地面をながめていると、壁の線が浮き出てくることもあった。見えるのは20分くらい  

の短い時間で、それより後はふたたび全体が同じように乾燥してしまい、白っぽくなって   何も見えなくなった。   

晩期Se2は内側に庭を持つ家のようにみえる。壁ば泥、泥に石混じりであり、泥レンガ   は使われていない。西側と北側には泥壁の敷地境の痕跡がわずかに残っている。竃は室内   からは発見されない。   

柱跡は、高温に耐えながら住む草葺きの夏の家の跡と推定できる。夏は50度近くまで上  

がる高温地帯であるため、日陰を生み風通しのよい家が夏の家に適している。同じ地面に   残る柱麟の数はかなり多く、何度も建て直しがあったことを示している。すぐに壊れる程   度の家だったのだろう。細い材木や椰子の葉の茎などを壁にしたような小きな柱跡も、周   囲の地面と色や硬きの違いがわずかにある穴として発見される。砂地に貝や砂が少し混じ  

った状態で穴の存在が見える場合もある。あるいは、微妙な硬きの違いによって判明する   こともある。竹串を地面に刺しながら歩き、手の感触で多くの究を探し出したこともあっ   た。こうして、方形や円形に並ぶ柱跡がしだいに明らかになってきた。   

主要な泥と泥レンガで作られた建物の東側に発見された柱跡群は、少し後で作られたこ  

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(28)

FIGLTRElユ PL九N OF LEVEL3  

ー27−   

(29)

とがわかった。泥作り建物の中庭に当たる部分はÅ,B,Cの三層に分かれ、柱跡欝はそのう   ちの下層の3C層で多く発見されている。   

北東側のC12:52区では、円形に並ぶ柱跡群の跡が内側に、そして、その外側に方形に並  

ぷ往路欝も発見された。これらの柱跡は同じ地面で同時に発見きれたため、すぐに建て直   しきれたこともわかる。北西側にも多くの柱跡群が方形になるように発見されており、そ   の内側では土器寵も9基が発見されている。   

また、これらの二つの在跡群の間に、方形の施設が発見きれた。残り・は悪く、南側と北   東隅の一部から、方形施設と推定できた。壁にあたる部分に、小きな方形の洗い究があり、  

究内には砂状の貝が敷きつめられていた。土器重などを立てておく究のようにみえる。あ   るいはも家畜の水や食料を置いた施設であろうか。そうであれば、方形の部分は高い壁で   はない。   

第望 8 瑠 層   

第2層、第1層(Fi糾陀13 PlanofLevels2andl)は、同じ住居が建っていた時期   でありも本来は同じ層の旭、1盈層と呼ぷべきものである。第2層で泥作り家Houselが建   てられ、周辺にある程度の土が堆啓してから、第1層の檻跡群が作られている。この時点   でも、第2層の馳uselは建っている。この家はも壁の下部に丸く偏平な石も使っている。  

家の西側外には敷地の境の壁と推定できる泥壁も発見されている。また、これに接続する   と思われる敷地囁の壁が、北東側C12:52区でも部分的に発見された。その南側の敷地内   にあたる部分に、4つの穴があり、さらにその南側に連続して作られた奄が発見きれた。  

家から少し離れた敷地堵壁の内側に、貯蔵究らしい施設と竃が並んでいる。   

奄は肋uselの南外側壁に接しても作られている。北と南のニカ所に、同じ場所で重な   るように作られているから、台所の場所が決まっていたこともわかる。また、北僻では、  

パン焼き用らしい土器利用竃と、地面を掘り窪めた煮炊き用らしい炉が並んで発見されて   いる。土器寵はすぐに壊れたようで、教が多い。   

層位の変遷   

発掘区域内の居住空間の変遷は、次のように推定できるようになった。第7層の段階で   この場所に人が移動してきて住むようになり、第6層で三時期にわたって泥レンガの家が   建てられ、しだいに人口増加が進み、発展した家並ができてきた。第5、第4層は少し敷   地内に空間ができるけれども、同じような位置に建物が建て替えられた。第3層になると   敷地囁の壁で囲まれた中庭付きの家もあるが、その周辺には据建柱の家が何度も建て替え  

られている。第2◎1層では、さらに空間的に余裕のある敷地を持つ家が建っている。そ   の後、この地域に人が住まなかったとはいえないが、家があったとしても一軒程度であろ  

う。遺跡の表面は風化が激しいために、一つの層くらいは数百年間に消えた可能性を否定  

−28−   

(30)

ー1   

(31)

できないからである。しかし、第1層が堆積した検すぐに、この地域は廃墟になったのだ   ろう。   

ただし、この段階でも、遺跡の他の地域では、まだ繁栄した家並が続いていたと思われ   る。それは、発据地域から離れた遺跡の表面で採集できる陶磁器の年代は、少し遅れる時  

代のものがみられるからである。また、泥レンガの壁で作った家がまだ建てられていない   第7層の段階でも、人々は中国から輸入した青磁を生活で使用していた。この時期に、す  

でに発掘区域の近くに港湾施設があり、都市機能が整っていた可能性が推測できる。  

嘗 各層位戯年代推定と主要な出立晶   

それぞれの層位の年代は出土品、とくに大量に出土する陶磁器から推定することが可能   である。   

第7層からは、中国の青磁と現地産らしい土器が多く出土する。中国の青磁は14世紀後   半の竜泉窯の盛や鉢、碗が主で、第6層から出土する青磁とも類似しており句 ほぼ同じ年   代と推定できる。数片に過ぎないけれども、中国の染付片も第7層から出土している。14   世紀後半から15世紀初頭の層であろう。   

第6層はイランの白軸陶器が特徴的な製品で、中国の元時代や明時代前半の青磁や白磁   も出土する。ただ、中国青磁の大部分は14世紀前半まで逆上るものではなく、14世紀中頃  

から後半のものである。この屈も14世紀後半から15世紀初頭と推定できる。   

第5層と第4層は類似した遺物が出土している。第6層に連続した年代であり、15世紀   前半ころであろう。中国の青磁とイランの白軸陶器や割線文土器、現地産の土器が主な出   土品である。   

第3層は、それまで発見されなかったタイの青磁盤とイランの緑軸陶器の数量が急激に   増え、出土品の組み合わせの様相が大きく変化している。層が堆賛した時期、すなわち人  

々が住んだ時期は15世紀中ころと思われる。この層の時期に貿易品の組み合わせに大きな  

変化があったことが明らかとなった。中国の染付やタイの青磁が主要な出土品であり、中   国の青磁もまだかなり出土している。   

第1層、第2層の主要な出土品は、中国の染付と青蔽、タイの青磁、イランの青緑軸陶   器と割線文土器、それに現地産の無文土器と彩文土器である。この層の年代は、15世紀後  

半から16世紀初頭ころであろう。  

畠  出土品   

どの層からも、最も多く出土するのは陶磁器片である。なかでも多いのは地元のアラビ   ア半島で作られたと直走できる彰文土着と無文土着である。大塾の磨から小塾の鉢まで、  

いくつかの種類がある。クッキング¢ポットと呼ばれる煮炊きや食器などに用いられた万   能の鉢(土鍋)がもっとも多く出土している。この鉢ば底が薄く丸底で煮沸用に向いてい  

一30−   

(32)

るが、土鍋として用いる他に、食料を入れる碗、あるいほ水を汲む容器、物を入れる容器   とさまぎまな用途に使われたのだろう。彰文土器はジェルファル遺跡から十数キ。離れた山   裾で作られ、ジェルプアルからアラビア湾一帯に輸出きれていたようである。現地の生活   用品であると同時に、貿易品でもあった土器である。土器で珍しい形のものでは、四本足   の台が付いた香炉がある。アラビアは香料貿易も有名だが、香料を中で燃した土器香炉の   出土は少ない。素地は現地産の土器と異なるため、エジプト、あるいはイエメンから輪Å   されたものかもしれない。刻線文と押印のある素焼きの土器は、瓶が多いようである。イ   ランのケルマン地方や海岸部に近い地域で作られたのではないかと思う。イランで作られ  

た陶器や土器は、もっとも多く運びこまれているようである。この他に、タイの赤褐色の   硬い素焼土器壷もみられる。   

施軸陶磁器のように産地の限られた製品は、遠い地域からも運搬されている。中国の青   嵐白磁、染付、窯褐軸陶器、タイの青蔽、果敢陶器、ベトナムの染付、銑絵陶器、イラ  

ンの白軸陶器、緑軸陶器、青軸陶器、自散票彩陶器などの製品が主要なものである。15世  

紀後半ころ、タイの青磁を主とする東南アジア産の陶磁器が、中国の染付とともに、イン   ド洋の各地へ運ばれていた。同様の組み合わせの陶磁器は、バハレン、オマ←ン、イエメ   ン、  エジプトの遺跡でも、かなりの数量が発見されている。アラビア半島で施鞄陶器が作   られたのは、ジェルファルが廃墟になってから彼のようである。   

イランの染付は、中国の染付と素地が違っている。イランの地質的条件が中国と違い、  

同じ粘土がないため、アルカリ質の柔らかい低火度焼成用の粘土を使っている。しかし、  

技法的には中国の染付をよく模倣している。写された文様も中国の限られた時期の染付と   比較できるので、年代を考えるうえでも重要である。   

小麦などを粉にしたと思われる石製のひき白も出土している。上面に模様が彫り込まれ   た石臼、または石製スタンドも出土している。一般の石白には模様が付いておらず、無文   である。珍しい文様の刻まれた石製品は、第2次発掘の際、第6層の中庭に面する小部屋   の堆積土から一片が出土したが、第3次発掘でも同じ場所で、さらに下方の第6層下部  

(6A層最下層)から別の破片が出土し接合した。   

鋼を溶かした小さな相場は、ヱ個体だけが発見された。家の中で簡単な精錬をし、鋼製   品を作るような仕事をしていたことが推定できる。錆びた緑色の鋼が相場の内部に付着し  

ていた。しかし、1個体しか発見されないことからは、簡単な精錬もしていなかったとい   う推定も成り立っ。多くの青鋼製品は腐食しており、原形を留めるものは少ない。西アジ   ア産の青銅製コインも大量に出土している。ほとんどが脆く錆びており、土から取り上げ   るときにボロボロの緑青が採集できた程度のものも多い。なかには硬い部分の残るものも   

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国の明初期の銅銭も一枚だけ発見された。割れた陶磁器に孔を開け、細い青銅経でつなぐ   ことも一般的である。しかし、相磯の少なさから、ここで青銅製品が多く作られたとも思  

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FIGURE 18   h.u=leSe green WとIl−ヒ   a.Finds(earthenware,bone,Shell)   d.Iraniam black painted ware   C.Olinese blue−and−White   e。Ⅰ『amiam blue paimted闇a㌘e   F■Iranian green+闇are   h.Iranianincised ware    g.Iranianmoulded waTe   一43一  

参照

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