• 検索結果がありません。

歴 史 に 学 び 新 世 紀 を 拓 く

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "歴 史 に 学 び 新 世 紀 を 拓 く"

Copied!
32
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

特 集 ◎ 二 十 一 世 紀 の 日 中 関 係

歴 史 に 学 び 新 世 紀 を 拓 く

二十一世紀を展望するには︑まず二十世紀の歴史に学ぶことから始めよう︒だが︑そこに止まっていては明るい展望は拓けない︒歴史認識の共有は可能か︒台湾問題にどう対応するか︒中国の政治体制は変動するか︒中国は超大国になるか︒これらの重要問題について︑広い視野から大胆に分析し︑日中関係の過去︑現在︑未来を解き明かす︒

加 々 美 光 行 ︿愛 知 大 学 現 代 中 国 学 部 教 授 ﹀ × 嶋 倉 民 生 ︿較 駿 騒 撚 ﹀ × 劉 傑 ︿輪 駅 灘 会 ﹀ × 古 森 利 貞 ︿較 駿 蕩 撚 ﹀

歴 史 に 学 ぶ

古森激動の二〇世紀が終ろうとし︑間

もなく二一世紀が始まろうとしていま

す︒二〇世紀はまた戦争と革命の世紀と

も呼ばれて︑前半は熱い戦争が続く中で

ロシア・中国などで革命が起きましたし︑

後半も冷戦の中でいくつか戦争がありま

した︒その中で日中関係も色々な経緯を

辿って︑今日に至りました︒

二一世紀に日中両国間の平和的な友好 協力関係を永続的に発展させていくため

には︑歴史を遡ってそこから何を学ぶべ

きかという点が︑本日のまず最初のポイ

ントになります︒

次に︑いま現在︑世紀の境目にあって︑

日中関係の現状をどう評価するかが二番

目のテーマになりましょう︒さらにそれ

を踏まえて︑二一世紀に日中関係はどう

なっていくか︑どうすればいいかという

問題︑つまりどのような見通しが立てら

れるかをただ分析するだけではなくて︑

どうすべきかについても御意見を頂きた いと思います︒

まず︑二〇世紀の総括として﹁歴史に

学ぶ﹂観点から入りたいと思いますが︑

最初に加々美先生から政治問題を中心に

御発言いただきたいと存じます︒

加々美最初に日本と中国︑二〇世紀初

頭は清国ですが︑日本と清国が遭遇する﹁ウエスタン・インパクト﹂(西欧の衝撃)

というものが起きた︒それが日本の場合

は開国に繋がり︑清国の場合にはアヘン

戦争に始まる半植民地侵略を被る歴史に

なったわけです︒

歴 史に学び新世紀 を拓 く

II

(2)

中国は一九世紀までは﹁パックス・シ

ニカ﹂とみなされていた︒それと比べれ

ば︑日本は極めて小さな小国に過ぎない︒

そのような国が一八九五年︑甲午戦争︑

即ち日清戦争で︑当時の清国に勝った︒

そのことが逆に当時の清国の若い世代

に︑むしろある意味では肯定的に受け入

れられた面があった︒当時︑日清戦争直

前・直後の日清間の国家間の関係は非常

に悪かったのですが︑民間のレベルでは

今日あるような不信の念を非常に高くす

るような側面はなく︑孫文をはじめとし

て多くの人々が日本を訪れ︑清国留学生

もかなりいました︒

しかし︑二〇世紀初頭︑日露戦争に日

本が戦勝すると︑日本のパックスという

ものが現れてくる︒そして日清戦争に敗

北した段階で︑世界中のどの国も清国に

パックスを見なくなり︑パックス・シニ

カとしての幻想はほぼ完全に消滅して︑

かえって︑日露戦争に勝利した日本が

パックスという形で新たに台頭してき

た︒それとともに︑こぞんじのように清

国留学生取締規則が出て︑本当は愛国的 行動だったわけですが︑清国留学生の政

治的行動を規制するような動きが日本政

府の方に現れてきた︒つまり︑最大の問

題は︑明治維新以降の近代化政策の中で

日本がかなりの成功を遂げていくプロセ

スの中では︑中国をはじめとした多くの

アジアの国々が日本に学ぼうとする︑日

本に来れば何か得られるのではないかと

考える︑求心的な魅力を日本は持ってい

た︒

しかし日露戦争を境にして︑かえって

そうした魅力が急激に色あせていく︒日

本は︑孫文自身が一九二四年の最晩年に︑﹁大アジア主義﹂の講演の中で日本に対す

る警告を発したように︑逆にアジアの友

にならずにアジアの敵になるという側面

を強く持ち始める︒事実はどうであれ︑

少なくともアジアや中国からそう見られ

るようになったことは確かで︑そこから

根の深い問題が生じてきたと思います︒

もう一つ大きなポイントは︑日本と中

国の間に︑真の相互理解というものが近

代以降成り立っていたか︑という問題で

す︒今日ほど日中間の相互交流が活発化 してきていても︑相互理解というものが

むしろ困難に遭遇していて︑問題が大き

いと私は感じています︒

私たちの愛知大学の前身校である東亜

同文書院は︑校名からして﹁同文﹂を掲

げており︑同文であることをもって︑ア

ジアは一つという岡倉天心的な考え方に

基づいて教学を目指したところがあるわ

けです︒しかし︑同文同種というのは極

めて問題が多く︑一見︑同文同種だから

理解が可能であるかのように思われます

が︑実際はそうではありません︒

中国人留学生を見ていますと︑ダニエ

ル・カールやデーブ・スペクターほどの

巧みな日本語を操る人は残念ながらほと

んどいない︒十何年以上の長い付き合い

のある留学生が︑どうしても託りやイン

トネーションが取れない︒

逆に︑日本人で完壁な中国語を話せる

人もまた非常に少ない︒例えば中国の映

画によく中国語通訳の日本人が出てきて

変な中国語をしゃべる︒本当に完壁な中

国語を話す日本人もいないわけではない

でしょう︒私も完壁に近いと思う人を

(3)

知っていますが︑比率からいけば極めて

低く︑圧倒的に日本人の中国語の語学力

には問題があります︒ですから︑中国人

からみて高レベルの中国語を話せる日本

人はきっと非常に少ないのです︒

なぜそうなるのかと考えたとき︑むし

ろ同文同種こそが問題なんだということ

に私は気付いたわけです︒日常会話は大

変巧みなのですが︑内容が複雑な問題︑

感情的な問題︑微妙なニュアンスを含む

表現が非常に重要になる内容の複雑な会

話になると︑途端に駄目になる︑あるい

はしゃべれなくなる人が多い︒学術界で

も同様で︑学問的に高度な内容のある話

をしなければならなくなると︑中国語に

自信がないために途端に口を閉ざす学者

が多い︒

なぜなら︑漢字の字面だけなら何が書

いてあるかは大体わかるので︑意読で中

国語の斜め読みもでき︑とても速いス

ピードで読める︒しかしいくらこのよう

な読み方で多読をしても︑その文章に使

われている表現をそのまま使って話せと

言われると︑できない︒音で読んでいな いのでわからない︒本当は音で読んで初

めて中国語の表現が頭の中に記憶されて

いく︒それが実は︑日本の場合︑一線級

の研究者でもハイレベルな中国語を話せ

ない最大の理由です︒英語は違います︒

英語の文献を数多く読めるということ

は︑多くの場合音読しているので︑使え

る表現が豊かになっていく︒

中国人が日本語を学ぶ場合︑最大の問

題は︑語尾が変化する動詞は︑ほとんど

例外なく訓読みだということです︒音と

訓という二つの読みがあることが中国人

にとっては非常に理解しにくい︒もう一

点は漢字を見るだけで意味が通じること

です︒だから︑仮名を全然読めなくても

一定程度漢字が入っていれば︑大体の意

味が取れる︒中国人も︑日本語の文章で

使われている漢字を見る時︑音を無視し

て意味だけで取ってしまう︒とりわけて

訓読みを無視する︒そうすると訓読みの

下の語尾変化についていけない︒音で聞

かないから頭の中に入らないという意味

では日本の中国語学習者と同じです︒音

で読んでいれば︑必ずその表現は︑非常 に複雑な表現でも︑音で耳から記憶され

ていきます︒ところがまず漢字を目で見

るために身に付かない︒一方︑欧米人の

方が身に付くのは︑全部音でマスターす

るからです︒欧米人も︑上達する人は中

国語が日本人よりうまい︒

それが実は︑同文同種の落とし穴です︒

通常︑アメリカに行って︑五︑六年留学

してきたら相当の語学レベルです︒中国

人では日本に五︑六年留学して帰っても︑

まだ日本語が会話レベルにとどまって︑

深いハイレベルな内容は話せない方がた

くさんいる︒同じことが逆に日本人の場

合でもいえて︑中国に何年いました︑と

帰ってきても︑会話は普通に上手だけれ

ども︑難しい話はできない︒こういうこ

とが︑歴史的に見ても日中相互理解を歪

めてきたと思います︒同文同種であると

考えていたことと︑実はよく考えてみる

と違いは明確にあって︑その違いをきち

んと踏まえていなかったことが一番大き

かったのではないでしょうか︒現代中国

学部を設立した最大の理由は︑まず第一

にこのような壁を越えたい︑そう思った

歴史 に学 び新 世紀を拓 く

r3

(4)

からです︒

もう一つ元に戻って︑日本人はパック

ス・シニカというものを︑非常に脅威視

するところがある︒さきほど言いました

ように︑パックス・シニカは︑近代以前

のものであって︑西欧との遭遇以降︑と

りわけてアヘン戦争以降急激に衰退した

わけですが︑にもかかわらず︑パックス・

ジャポニカやドイツのパックスと同一に

考えています︒日本は﹁軍国主義︑軍国

主義﹂と批判されますが︑その軍国主義

の秤で︑中国の大国化を恐れている︒日

本はこんな小さな国であの軍国主義︑あ

れほど大変なことをやった︒中国はあん

なに大きな国で︑それが日本のような

パックスになったら︑何をやるか分から

ないと当然なるでしょう︒パックス・シ

ニカの背後には決定的な誤解があると思

います︒パックス・シニカは︑やはりパッ

クス・ジャポニカ等とは決定的に違うも

のになっています︒

日本は︑明治維新から日露戦争までの

間︑アジアにとっては非常に魅力ある国

でした︒魅力とは︑人を惹き付けて︑そ こに多くの人々を集めさせる力です︒そ

れによって日本は実は大きな成長を遂げ

た︒日本が非常に魅力ある国家・社会で

あることが近代化の初発です︒ところが

それから後︑日本は魅力を決定的に衰弱

させたのです︒

ところが︑中国を考えますと︑例えば︑

唐の時代の長安には︑日本から遣唐使が

行くだけではなく︑世界から多くの人が

長安を目指して︑その時代の最も優れた

ものを求めてやって来たわけです︒言い

換えれば︑長安に代表される当時の唐と

いう国家は︑世界にとって極めて魅力の

ある国だったわけです︒魅力がある故に

吸引力を持っていて︑吸引力が唐という

国を大きくした︒それは漢代から続いて

きたパックス・シニカの基本的な特徴で︑

中華というものはそれだけ人を惹き付け

て止まない吸引力というものをもってい

たのです︒

その逆に︑むしろ人を吸引できない︑

さきほどの清国留学生取締規則に代表さ

れるような︑排他性が非常に強まってい

くパックスは︑それゆえにこそ逆に世界 に対する発信力を増強させようと考え

る︒吸引力がないのに発信力を増強させ

ようとすると︑それは有無を言わせず鉄

拳をもって支配をしていくという外へ向

かっていく拡張主義的なパックスになら

ざるを得なくなります︒

その意味で︑現代にパックス・シニカ

が今後近代以前と同じ形で出てくるとい

うことは全く意味のない議論です︒中国

が現在︑かつての唐代のような魅力ある

国家であるとはどうしても申し上げられ

ない︒つまり︑世界の人があそこには素

晴らしいものがあるからと集まってくる

ような︑かつての吸引力を現在の中国は

持っていない︒しかし︑中国がやはり同

じように世界に発信力を持ちたいと考え

る時に︑パックス・シニカではない別の

パックスが働くという可能性があるとい

う危惧はもっともなものかもしれませ

ん︒しかし︑私はそれほど危惧していま

せん︒後で申し上げますが︑中国ほど大

きな人口と版図を持つ国が︑外へ向かっ

た拡張主義的なパックスになる時は︑か

えって国内的な統合力に破綻をきたす︒

14

(5)

だから︑むしろ国内の統合的な危機を自

ら招来させる結果になるので︑パックス・

ジャポニカと同じような意味でのパック

ス・シニカというものが今後台頭すると

は思いません︒

劉大変興味深いお話でした︒同文同種

のことをおっしゃいましたけれども︑全

く同感です︒日本に来て感じたところで

言いますと︑例えばNHKの﹁漢詩紀行﹂

という番組を見ていますが︑あたりまえ

のことかも知れませんが︑中国人が中国

を見ているのと全然違う感覚で番組がで

きているなという感じをうけます︒つま

りあれは明らかに日本人の感じ方に訴え

ている番組の作り方です︒それを見て感

じたのは︑日本人が中国を見る時には︑

どうしても日本人が理解し易いように対

象を解釈する︑あるいは再構築して︑そ

の後にそれを受け入れるということで

す︒つまり原形のまま︑それを色々な角

度から見るような見方はあまりしないの

ではないかと思います︒

逆に︑中国の人たちが日本を見る時に

はどうかといいますと︑やはり自分たち

劉 傑[LiuJie]

が思い込んでいる日本はこうだと︑最初

から決めつけてこれを見ています︒さき

ほど加々美先生がおっしやったように︑

日本に来て五︑六年経っても日本語があ

まりしゃべれない︑深い議論ができない

というのは︑まさに︑議論しなくても相

手が何を考えているのか私はわかるん

だ︑という思い込みが非常に中国人の中

ではあるからです︒例えば︑中国人が日

本各地を旅行して︑寺院や神社を見て回

る︒私も案内したことがありますが︑こ

んなのは見たくない︑中国にはもっと立

派なものがいっぱいあります︑という反

応がほとんどです︒いや︑思想や歴史の

角度から見なくても︑建物そのものを細

かく見ると違いが色々あるんだよと説明

しても︑いやあそんなものはどうでもい

いと︒早い話︑中国のものはこうだ︑日

本は中国から吸収したものばかりで︑別

に大したものはない︑という思い込みが

非常に激しい︒これがやはり相互理解に

とって︑大きな障害にも当然なっている

わけです︒

言語のレベルの話ならまだいいんです

歴史 に学 び新世紀 を拓 く

1$

(6)

が ︑ 外 交 問 題 な ど の レ ベ ル に な り ま す と ︑

か な り 相 互 理 解 の 障 害 に な っ て き ま す ︒

相 互 依 存 関 係 が 戦 後 ︑ 特 に 日 中 国 交 回 復

し て か ら 大 分 強 化 さ れ ま し た け れ ど も ︑

し か し 相 互 理 解 は む し ろ 逆 の 方 向 に 進 ん

で い る 感 じ も し ま す ︒ 本 来 な ら ︑ 相 互 依

存 が 経 済 的 に ︑ あ る い は 政 治 的 に 強 化 す

れ ば す る ほ ど ︑ 相 互 理 解 も ま す ま す 不 可

欠 に な っ て き ま す ︒ け れ ど も 相 互 理 解 の

程 度 は 未 だ 低 い 水 準 に と ど ま っ て お り ︑

相 互 依 存 と の 間 に 大 き な ギ ャ ッ プ が 存 在

し て い る の が 現 状 だ と 思 い ま す ︒ し た

が っ て 同 文 同 種 が ︑ か え っ て 相 互 理 解 を

阻 害 し て い る と い う 御 指 摘 は 全 く そ の 通

り だ と 私 も 感 じ て い ま す ︒

嶋 倉 お 互 い に 相 手 を 思 い 込 ん で い る ︒

相 互 に 誤 解 が い っ ぱ い あ る と 思 い ま す ︒

一 九 九 八 年 に 日 本 人 で 中 国 を 訪 間 し た 人

は 一 六 〇 万 人 い る ︒ 一 日 平 均 四 三 〇 〇 人 ︒

大 変 な 増 加 で す が ︑ 私 は 日 中 相 互 理 解 は

全 然 深 ま ら な い ど こ ろ か ︑ 中 国 の 人 は の

ち ほ ど 話 題 に す る 戦 争 の 問 題 で も 思 い 込

み が あ る し ︑ 我 々 も 中 国 に つ い て あ か ら

さ ま に 言 わ な い け れ ど も 複 雑 な 思 い が あ

る︒それが全然改善されていないのは恐

ろしいことだと思います︒

経 済 関 係

古森それでは経済関係を中心にした日

中関係について︑嶋倉先生お願いします︒

嶋倉まず述べたいのは︑日本の高度経

済成長は一九六〇年代で︑所得倍増政策

で六〇年代から七〇年代にかけてニケタ

成長した︒中国は六〇年代初頭の災害期

から文革で最悪だった︒日本の経済が際

立った高度成長をしていた時︑中国は全

然駄目で︑日本人の頭の中では中国経済

というのはどうしようもないという思い

込みや刷り込みがある︒

ところが︑日本のバブルがはじけて駄

目になった頃から︑つまり八三年くらい

から中国は二桁成長に入り︑九四・九五年

までは二桁成長となる︒日本が落ち込ん

で駄目になって苦しんでいる時に︑中国

は高度成長した︒そうすると﹃NOと言

える中国﹄というわけです︒中国が駄目

な時には︑日本の方が﹃NOと言える日 本﹄となる︒このギャップが思い込みで

残っていっても困ることです︒中国の若

い人に聞いてみましても︑中国はニケタ

成長で︑日本は苦しんで就職もできない

わけですから︑最近の鼻息の荒さはすご

い︒私は最近の日中関係で︑まずこの

ギャップが気になります︒

第二点は︑日中経済交流︒毛沢東時代

までは︑いつも日本が中国に売るものば

かりあった︒中国から買うものは金目の

ものがなくて︑細かい軽工業品を集めて

も金にはならないので︑いつでも日本が

黒字で︑中国が赤字でした︒それで中国

はいつも文句を言って︑日本側も延々と

文句を言われるものだから︑貿易拡大協

議会などで︑一生懸命中国からものを輸

入する努力をしていた時期が毛沢東の時

代です︒郡小平の時代になってから様変

わりしまして︑最近は毎年一〇〇億ドル

から二〇〇億ドル日本の赤字です︒去年

は一九五億ドル日本が入超です︒日本の

対中輸入は四三〇億ドルぐらい︑輸出が

二三〇億ドルぐらいです︒過去五︑六年︑

ずっと一四〇億ドル︑一九〇億ドル︑二

t6

(7)

○○億ドル︑一七〇億ドルと日本が中国

に対して赤字続きです︒

つまり︑中国がいかに大量のものを日

本に輸出できるようになったかというこ

とです︒貿易の学者たちは︑垂直統合か

ら水平統合とか︑製造工業製品の貿易だ

とか言いますが︑もう日本と中国の経済

関係の深まり︑構造的な結びつきという

のは︑一次産品は問題ではなくなってき

ています︒私が北京で仕事をしていた六

〇年代末は︑中国からはトウモロコシ︑

ソバ︑塩︑石炭などの一次産品を買って

いました︒現在︑中国は製造工業製品輸

出国で︑しかも日本が二〇〇億ドル近く

も中国に対して赤字だということは︑中

国にとって日本は大変な顧客なわけで

す︒だから︑この結び付きは相当深まっ

たし︑簡単に壊れるようなものではなく

なっていると思います︒

それともう一つ︑ここで申し上げてお

きたいのは︑アジアNIESやASEA

N︑つまり東・東南アジアの国々が農産

物や水産物︑鉱産物等一次産品から製造

工業製品の輸出ウェイトを高めていく︑ 輸入代替を高めていく段階にはかなりの

時間をかけていますが︑中国は︑もとも

と毛沢東時代から重化学工業の基礎もあ

るので︑アジアNIESやASEANと

違って︑工業製品輸出国になるスピード・

テンポが非常に速いことです︒九〇年代

に入り︑日本の対中輸入総額の中で︑初

歩的な中間材が多いにしても︑製造工業

製品や機械類の割合が極めて急増し︑台

湾や韓国と比べても非常な速さです︒中

国の経済の底力︑層の厚さは他のNIE

SやASEANと違い︑やはり工業力の

基礎があるので︑一挙に国際化してきて

いると思います︒

私が最近心配していることの第三は南

と北の比較です︒一九世紀の後半︑私が

生まれるちょうど百年前の一八三三年に

東インド会社が対中貿易の独占権を放棄

して︑産業革命の背景の下でイギリスの

マニュファクチュアが中国にどっとなだ

れ込んでいった︒だから清朝が国を開い

たのはやはり広東からで︑広東がまず豊

かになった︒しかし行き着いたところは

アヘンで清国は滅びたようなものです︒

二 〇 世 紀 に 入 り ︑ 前 半 は 日 本 も 含 め て 世

界 列 強 が 中 国 を 荒 ら し た ︒ 後 半 五 〇 年 の

人 民 中 国 の う ち ︑ 三 〇 年 は 毛 沢 東 の 時 代

で す が ︑ 最 近 の 四 分 の 一 世 紀 ぐ ら い は や

は り 広 東 の 時 代 で す ︒ 外 国 に 国 を 開 き ︑

盛 ん に な っ て い く の は 一 九 世 紀 も 二 〇 世

紀 も や は り 広 東 な ん で す ね ︒

こ の 広 東 と ︑ 東 北 の 比 較 を 近 頃 大 い に

気 に し て い ま す ︒ 例 え ば ︑ こ の 二 〇 年 間

で 広 東 省 の 人 口 は 四 割 増 え て い る の に ︑

東 北 三 省 は 二 割 増 え た だ け で す ︒ ま た ︑

一 九 七 八 年 = 期 三 中 全 会 の 頃 ︑ 第 二 次

産 業 生 産 額 の 全 国 に 占 め る 割 合 は 広 東 省

が 五 % で 遼 寧 省 が 九 ・ 三 % と 広 東 省 が 遼

寧 省 の ほ ぼ 半 分 で し た が ︑ ち ょ う ど 二 〇

年 後 の 九 八 年 に は 広 東 省 が 一 〇 ・三 % で

遼 寧 省 が 四 ・八 % ︒ 遼 寧 と 広 東 が こ の 二 〇

年 間 で 完 全 に 逆 転 し て い る ︒ 広 東 は ど ん

ど ん 発 展 し 豊 か に な り ︑ 北 の 方 は 伸 び 悩

ん で い る ︒

も う 一 つ 大 変 な こ と は ︑ ﹁南 糧 北 調 ﹂ と

い う 言 葉 が あ っ て ︑ 中 国 の 南 が 食 糧 生 産

地 帯 で ︑ 北 に 食 糧 を 運 ん で い た ︒ 中 国 に

は >> 1 1 の 1 級 行 政 区 が あ り ま す が ︑ 北 と

歴史 に学び新世紀 を拓 く

17

(8)

南︑一五と一六に分けて計算すると大変

興味深い数字が出る︒食糧でいいますと︑

一九五二年は南が六割で北が四割です︒

その後徐々に比率が下がり︑九八年は

ちょうど半分半分︒つまり︑広東が工業

地帯化していき︑広東など南の農民は儲

けにならないからと農業を止めてしまっ

た︒北の方はあまり発展していないので︑

結局農業をやらざるを得ず農業の割合が

高くなる︒

その結果︑消費水準も変わってきてい

る︒一九八五年には︑北京を一〇〇とす

ると︑遼寧省は六九︑広東は六〇で︑七

対六で遼寧省の方が良かった︒ところが

現在は逆転して︑広東省の一人当りの消

費水準は北京と同じで︑遼寧省は七六%

と︑広東省の四分の三のレベルに落ちぶ

れている︒

つまり︑中国は開放政策の中で︑南か

ら︑広東の方から良くなっていき︑北は

遅れをとった︒これは中国国内の政治に

も関わることです︒さらに言えば︑一九

世紀の後半︑中国は南から国を開いて︑

二〇世紀の後半にも南から国を開いてい る︒しかし︑南から入ってくるものはい

いものだけではない︒二〇世紀の前半は

世界列強が中国を荒し回った︒北方には

日本やロシアが進出した︒現在は違うか

も知れないが︑中国はやはり南の方から

国が変っていくのではないでしょうか︒

劉大変面白いお話でした︒これは経済

だけではなく︑政治についてもいえます︒

中国近代の政治でいうと︑革命は南の方

から起りました︒太平天国も孫文の革命

もそうでした︒南の方には港町が多く︑

次々と開放していきますし︑外国との接

触の機会が多いということはやはり一つ

の大きな要素だろうと思います︒

北の方が遅れているのは︑これは非常

に厳しい現実で︑新中国ができてからも

重化学工業を東北地方に置いた︒今も国

有企業の問題を一番抱えているのは東北

地方です︒構造的なものというよりも︑

中国が最初の二〇年ぐらいは戦略的な構

想を持ちえなかったという問題が︑今︑

後遺症として残されています︒全体のバ

ランスがよく取れていない産業構造と地

域分布というものがやはりあるのではな

Ig

(9)

いかと思います︒

また︑伝統的に南の方の教育水準は一

般的に高く︑大学入試を見ても南の方の

平均点数は全国平均より高い︒やはり経

済的にも自然環境にも恵まれているとい

うこともあると思います︒

加々美今の話で少し感じるのは︑一つ

は日中の経済関係が今ご説明になった背

景の下で︑現状さまざまな意味で膠着状

態に入ってきているところがある︒例え

ば︑技術協力の問題でも中国側の不満が

かなりあります︒貿易は日本の方が入超

になっていて︑相当中国を潤しているこ

とは確かでしょうけれども︑直接投資面

でも問題があるという意味でかなり警戒

的になってます︒

例えば︑トヨタはそれに応えつつある

のですが︑中国側は日本の最先端技術を

導入してもらいたいと求めている︒とこ

ろが日本側は︑最先端技術というのは中

国に持っていくとアフター・ケアが非常

に難しいことなどもあって出し渋る︒中

国側から見れば︑日中間競争を日本が警

戒するがために最先端のものを導入しな いんじゃないか︒それが︑例えば家電な

どによく現れていて︑その結果︑むしろ

日本の家電製品が中国で売れなくて︑逆

に中国製品の方が市場をどんどん伸ばし

ている︒その結果日本に︑中国製の家電

が相当入ってくるようになってしまった

という面も見落とせないような気がしま

す︒

QrS北と南の関係という問題と含め

て︑同時にそれが日中関係にどういう影

響を及ぼすのか︒つまり︑北と南の成長

曲線に明らかな逆転現象が生じたことと

日中関係との組み合わせはどうなってい

くのかということがちょっと気になりま

す︒

古森北と南の関係というのは︑改革開

放の政策の中で広東省を中心に経済特区

をつくったりして発展していったのに

伴って︑日本からの投資がまず広東省を

中心に集中し︑それから大連︑上海︑北

京周辺という北の方に移っていったとい

う経緯もありました︒

嶋倉中国に入っていく外国の直接投資

の中で日本の占める割合というのは二割 にもなったことがないでしょうし︑基本

的に全中国経済を左右するほど︑直接投

資は大きなものではない︒経済特区は香

港のすぐ側の深別から︑郡小平が最初始

めたわけですけれども︑劉先生がおっ

しゃったように︑変な遺産がない方がや

りやすい︒東北には日本が残してきたも

のやソビエトが造った巨大な国営の重化

学工場があって︑それらはかえって発展

にとって邪魔なのに︑北方は大掃除でき

ずにいる︒広東省はもともと重厚長大型

の遺産がなく︑人々は昔からパナマ運河

を掘りに行くなど海外労働力として華僑

になって流れだした︒何もない所の方が

外国の遺産があるよりいいのかも知れな

い︒日本も資源がないが故に海外から資

源を輸入し︑かえってうまくやってきた︒

また中国の東北は︑北朝鮮︑ロシア︑モ

ンゴルに囲まれた封鎖的な地域で︑華僑

の故郷でもないため︑海外情報も少ない︒

加々美しかし例えば北東アジア経済圏

構想とか︑環日本海経済圏構想とかが打

ち出された︒この地域は逆の考え方で︑

日本がかつて慣れ親しんだ所だから︑投

t9一 歴史 に学 び新世紀 を拓 く

(10)

資環境がいいんじゃないかと一時騒がれ

た時がある︒それが花咲かないうちに枯

れてしまったバラみたいな感じになって

しまった︒

古森日本海側の各県が力を入れたとい

う面もありますね︒

嶋倉日本海側の諸県というのは︑例え

ば新潟でも︑輸出する時は全部大阪︑東

京の大市場に運んでいます︒新潟の港か

らウラジオストックに行くのではなく︑

東京・大阪の問屋からウラジオストック

に行く︒だから︑環日本海とかなんとか

言ってる人がいるけれど︑なかなか⁝⁝︒

加々美というよりも︑中国の場合︑香

港から開いても︑上海に行き︑徐々に北

に上がっていく︒政治も経済もそうです︒

だから九二年の南巡講話の頃︑郵小平が

考えていたのは︑北へ上がっていくと︑

それが最終的には国有企業改革にまで到

るという構想があったような気がしま

す︒中国が成長を遂げていく時に日本は

停滞の経済に入るという︑非常に皮肉な

歴史がありましたが︑日本が経済の好調

を重ねていたら︑おそらく日本の資本が 相当東北に入ったと思います︒

劉やはり環境が大事です︒例えば︑日

本資本はどちらかというとわりと入りや

すい所にまず入っていきます︒かなり冒

険的なやり方をする人もいますが︑大抵

の人は︑無難な所に投資します︒

東北地方はどうかと言いますと︑歴史

的に見て︑あそこは資源や産業などの意

味でも注目されましたが︑同時に軍事的

な要所として認識された︒旅順はロシア

と中国とが争っていた軍港を中心とした

地域です︒東北は戦略的な要地として考

えられてきましたが︑一方の南の方はそ

うではなくて貿易︑経済が中心です︒近

代百年間の歴史を見ても︑このような側

面があります︒戦後も東北は安全保障上︑

今アジアで一番問題になっている所とし

て︑政治的な要素が非常に強い︒投資が

うまくいかないという側面も︑そこに起

因するのではないでしょうか︒

嶋倉日本シベリア学会に講演に行った

おり︑﹁東北は遅れていて駄目だ﹂という

話をしましたら︑東北・シベリアを一生

懸命調査している人の集まりですから︑ ﹁そんなことないですよ︑東北だって相当

な開放化が進んでいる﹂と盛んに言って

いましたが︑南とは違いますよね︒

劉私は︑日本に来る前一年間長春にい

まして︑一昨年一四︑五年ぶりに行きま

した︒長春もある程度発展し︑変化しま

したけれども︑やはり他の都市の変化の

度合いと比較したら︑まだまだ遅れてい

ます︒

嶋倉東北は重厚長大型︑ソ連型で︑零

細・中小企業は育っていません︒日本で

言えば三菱重工︑トヨタのような大企業

をみな崇拝して︑町工場みたいな中小企

業は蔑視している︒東北の思想は︑巨大

な重厚長大型︑重化学工業にこそ一流の

人材が行き︑それこそが国の柱だという

思想です︒南の方はそうではない︒薄汚

くてもなんでも︑儲かればいい︒紹興酒

工場でも蝿がワンワンたかっているよう

な所で︑どんどん作って︑売って儲けて

いる︒そして︑その蝿がワンワンたかっ

ていた工場も最近見学したら外国の技術

を入れて清潔になり近代化を遂げてい

る︒北の方はこのような精神が少ないん

(11)

です︒

戦 争 と 平 和

古 森 非 常 に お お か ま に 言 う と ︑ 日 中 関

係 は 日 清 戦 争 辺 り か ら 五 〇 年 は 戦 争 の 時

期 ︑ そ の 後 は 全 般 的 に は 平 和 な 状 況 が 続

い て き ま し た ︒ そ し て ︑ 二 〇 世 紀 後 半 の

最 初 の 二 〇 年 間 ︑ 日 本 は 台 湾 の 中 華 民 国

と 外 交 関 係 が あ っ て ︑ そ の 後 ︑ 中 華 人 民

共 和 国 と の 国 交 が 正 常 化 す る と い う こ と

で 日 中 関 係 が 進 ん で き た わ け で す ︒ こ の

二 〇 世 紀 を ﹁ 戦 争 と 平 和 ﹂ と い う 切 り 口

か ら 回 顧 し ︑ 今 ま で の ご 研 究 も ふ ま え て ︑

劉 傑 先 生 か ら ご 発 言 い た だ き た い と 思 い

ま す ︒

劉 戦 争 と 平 和 を 考 え る 時 に は ︑ 中 国 と

日 本 は ︑ お お ま か な 捉 え か た を す る と ︑

二 〇 世 紀 の 前 半 は 戦 争 の 歴 史 を 共 有 し た

と 考 え て い い わ け で す ︒ 歴 史 認 識 が 共 有

で き る か ど う か は こ れ か ら の 問 題 で す

が ︑ 少 な く と も こ の 数 十 年 間 の 歴 史 を 共

有 し た こ と は ま ず 押 さ え て お か な け れ ば

な ら な い と 思 い ま す ︒ し か し ︑ 共 有 し た

けれども︑戦争のあり方は日本と中国で

は当然違います︒おおむねどういう点で

違いがあるかと言うと︑二〇世紀の戦争

を見ると︑内戦というほどのものは日本

の中にはないわけです︒二・二六事件のよ

うな国内部の争いはありましたが︑内戦

というほどのものではなかった︒一方︑

中国はかなりの期間﹁内戦の時代﹂だっ

た︒日本も戦争をしましたが︑ここが一

番大きな違いです︒

しかもこの内戦というのは︑純粋たる

内戦ではなくて︑各勢力の裏には必ず外

国がいて︑したがって︑これは内戦であ

りながら外国との争いでもありました︒

一番典型的なのは︑例えば︑日本が東北

の奉天系の軍閥の後ろにいて︑中国の内

戦に加わっていたことです︒この意味で︑

内戦には実は日本が介入していたという

ことです︒日本と中国の戦争の歴史を考

える時︑この問題は非常に大きな一つの

特徴だったと思います︒

もう一つは︑一九三〇年代に入って︑

中国ではいわゆる﹁抗戦﹂︑つまり外来の

勢力への抵抗がありましたが︑日本は二 ○世紀に抗戦という名の戦いはなかった

わけです︒我々に残された課題を考えて

みると︑このポイントも大事です︒

それから戦争の場所です︒日本本土で

戦った戦争はほとんどないという点も大

きなポイントです︒太平洋戦争の最後に

は原爆を落とされ︑これは非常に大きな

問題ではありますが︑沖縄を除く日本本

土が戦場となったことはなかった︒戦争

の歴史を日本と中国は共有しましたが︑

戦争のあり方がこれだけ違うということ

は︑戦争を考える時の一つ大きなポイン

トになるかと思います︒

次に二〇世紀の後半についてみると︑

五〇年代以降︑日本はいわゆる戦争とい

うものを全く行なっていません︒これも

また中国と違うところで︑中国は断続的

にいくつかの戦争を二〇世紀の後半にお

いても戦った︒朝鮮戦争から始まって︑

ソ連との国境紛争︑あるいは中印戦争︑

中越戦争など︑規模は小さいけれども世

界全体の政治的バランスに大きな影響を

与えた戦争です︒

二〇世紀の中国を考える時に﹁戦争と

歴史 に学 び新世 紀を拓 く

21

(12)

革命の時代﹂というのは︑文字通りそう

ですが︑やはり戦後の中国が戦ったいく

つかの戦争をみた場合︑かなりの部分が

政権の正統性を証明するために戦った戦

争だったという点が︑重要だと思います︒

つまり︑中国共産党が政権を掌握してか

ら五〇年経ちましたが︑この政権は︑自

信を持って安定した政権だと言えるかと

いうと︑まださまざまな問題を抱えてい

ます︒特に︑六〇年代ないし七〇年代は︑

国際的な環境も複雑だったものですか

ら︑やはり安定した政権をいかに維持し

ていくかが︑戦後の中国が戦った戦争に

繋がっていった部分があると思います︒

これは何を教えてくれているのかという

と︑これからの中国についてこの﹁戦争

と平和﹂の問題を考える時には︑やはり

最大のポイントは︑政権の維持︑国内の

政治の安定ということです︒これを抜き

にして︑中国は戦争をするのか︑しない

のかというのは語れないと思います︒

加々美全くその通りだと思います︒

最後に指摘された︑国内政権の維持と

いう目的を外しては︑今後︑中国の戦争 への係わりは考えられないという問題で

すが︑パックス・シニカの問題に係わっ

てお話したことと関係があって︑問題は

日本が中国を見る時︑あるいは世界が中

国を見る時︑自分の甲羅で人の甲羅を計

るところがどうしてもある︒つまり日本

の国家というもののあり方をそのまま映

して捉えるところがあるけれども︑実際

は中国の国家というのは日本と非常に違

う原理で動いている︒だから︑政権の正

統性といっても︑言葉としては同じでも

実際にもつ力学は違うし︑相当の異なり

があると思います︒つまり外に向かって

中国が拡張主義的な戦争を仮にやるとす

れば︑むしろ国内的な政権のインテグ

レーション︑統合力というものを衰弱さ

せる結果になる︒過去の状況を見てみる

と全て防衛的な意図が非常に強い︒その

意味では︑この戦争が政権の正統性を立

証すると考えられるような外向きでなく

内向きの内容をもった戦争だということ

は︑おっしゃるとおりだと思います︒で

すからそれを超えて︑国家間の国益の衝

突だけで︑例えば西沙・南沙の海底油田

(13)

をめぐる直接的な利権に係わる問題で︑

中国が大規模な戦争を起こすというよう

なことは考えられない︒それよりは︑チ

ベット︑新彊︑台湾といった内向きの統

合に係わる争点地域がはるかに戦争の危

険性が高いということです︒

古森劉傑先生︑加々美先生のお話で︑

五〇年代以降も中国は朝鮮戦争︑中印戦

争︑中越戦争を戦ってきたということが

指摘されました︒ただその時に中国は︑

外からの挑戦︑中国として戦争をせざる

を得ないような状況が外から作られたの

で行なったのだという︒中越戦争にして

も︑ベトナムに対して懲罰を加えるとい

う大義名分を掲げて戦いをしましたし︑

インドについても同じことです︒

ということは︑そのような状況が出て

くれば︑あるいは中国として理屈がつけ

ば戦争をすることがあるいは今後もない

とは言えない︒少なくともこの五〇年間

だけをとっても中国がいくつかの戦争を

やったこともあり︑周りの国から見れば

やはり中国は怖いという脅威感は残って

いるし︑今後も残るだろうと思います︒ これに対して中国は自国の立場であれこ

れと説明はするでしょうけれども︑周り

の諸国がそれを信じるかどうかは別問題

であり︑過去の経験をふまえて︑中国が

このまま経済発展をすればそれに応じて

軍事力も強化されると思っています︒例

えばインドが核実験を行なった時も︑中

国からの核の脅威を理由としてあげてい

るわけです︒だからそう簡単に︑中国だ

けの理屈では東南アジアなど周辺の国々

を完全に説得することはできないのでな

いかと思います︒

嶋倉二〇世紀後半︑人民中国五〇年︑

戦後五〇年︒今︑劉先生からお話のあっ

た中国が余儀なぐされたいくつもの内

戦︑それから朝鮮戦争・ベトナム戦争な

どあるわけですが︑日本経済はお蔭様で

好景気を得てそれを神風としてここまで

来たわけです︒それがまず一点︒

もう一点は︑文革が終わって︑中国の

人たちが開放政策の波で西側世界︑資本

主義世界に視察に出たのは︑みな六〇代︑

七〇代の老年層だった︒要するに文革で

苛められた人たちです︒日本では︑戦争 に負けた時にアメリカ占領軍のパージ

で︑五〇万近い老人が全部︑経済界も官

界も教育界も公職追放されて︑その後に

若い人が上がってきた︒中国は︑文革が

終わっても︑若い人ではなく老人が戻っ

てきて老人支配が始まった︒

明治維新の時︑日本は国家の主要な人

たちが二〇〇人ぐらい︑二年近くヨー

ロッパ・アメリカを視察に行きました︒

彼らは︑平均すると二〇代から三〇代で

す︒私は日中経済協会で︑中国の開放政

策の初期七〇年代に︑中国からお見えに

なる人のお世話をして︑日本のメーカー

や企業を案内したことがありましたが︑

老齢者が多かった︒それはそれなりに有

意義だったかも知れませんが︑若い人の

時代はこれからでしょう︒

劉さきほど古森先生がおっしやった︑

過去の戦争によって︑東南アジアの国々

がかなりの危機意識を持っているという

ことですが︑これはその通りだと思いま

す︒けれどもやはり客観的に見て︑現在

中国が置かれている国内状況︑あるいは

国際環境というものは︑当時と比べると

歴史に学 び新世紀 を拓 く

23

(14)

大分変化したと私は考えます︒

第一は︑当時はイデオロギー的支配と

いうものが決定的で︑国益はその路線上

で考えられていたわけです︒現在はイデ

オロギー云々と国益とが繋がらず︑まず

経済発展とか︑近隣諸国との協力関係を

いかに構築するか︑これが国益に繋がる

というように変化したと思います︒

もう一つは︑いわゆる日本でよく指摘

される中華思想の問題です︒これは世界

革命の中心と呼びかけた毛沢東の考え方

の影響でもあろうかと思いますが︑当時

は強かったのではないかと思います︒特

に朝鮮戦争︑あるいはベトナム戦争︑中

越戦争など近隣諸国と戦った戦争を考え

てみますと︑戦争の相手はかつての華夷

秩序の中に組み込まれていた国です︒中

華思想の発想なしで朝鮮戦争に参加した

のかというと︑そうじゃないと思います︒

ベトナムに対する懲罰戦争は︑まさにそ

の言葉通りで︑なぜ中国に懲罰する権利

があるのかというと︑この発想が残って

いたからだと思います︒

しかし︑中華思想的発想をなくそう︑ 中国は世界の中では遅れているんだと︑

中国の指導者としては初めて公に認めた

のは郵小平であって︑それ以降中国人の

意識が大分変化したと思っています︒中

華思想が姿を消したとはいえませんが︑

中国は発展途上国という現状認識が一般

の国民の中にも浸透していると見ていま

す︒したがって︑将来的にはどうなるか

はわかりませんが︑現状では︑周囲の国

にとっていわゆる中華思想に基づく脅威

というものは︑あまり考えられません︒

特に︑さきほど加々美先生がおっ

しゃったように︑国内政治の安定を維持

するためにはどうしても戦争を避けなけ

ればならないというのが現実だと思いま

す︒

嶋倉近隣関係では︑郡小平になってか

ら︑毛沢東時代と違う路線をとったとい

うより︑郵小平自らがベトナムを懲らし

めたのではないですか︒

劉これは屍理屈になると思いますが︑

急には変わらないのです︒

加々美私は劉傑先生の言葉に︑あえて

逆のことを言いたいのですが︑江沢民に なっても︑中華という概念・意識は︑一

般の漢人にとって潜在的にかなり強く働

いている︒それは危機意識に繋がる︒つ

まり中華世界の統合に対する危機意識で

すから︑基本的に内向きのものです︒中

華は外に向かう︑拡張的なものだと誤解

しているのですが︑そういう性格ではあ

りません︒そこがどうしても日本人には

わからない︒

古森それは日本人だけではないと思い

ます︒漢人の立場からすればそのような

理屈でいいかも知れませんが︑中国の中

に住んでいる少数民族の立場はまた別で

しょう︒ましてや︑東南アジアなどの小

さな国の人たちが中国の主張を理解し受

け容れて︑その上で中国を心から信頼す

るようになるのはそう簡単なことではな

いと思いますし︑仮にそうなるとしても

相当の時間がかかることになるでしょ

う︒

だからむしろ︑中国の方が非常に気を

使わなければならないと思います︒相当

長期間に亙って我慢しなければならな

い︒もし中国がそれに感情的に反発して︑

24

(15)

行動したりすると︑﹁また﹂とか﹁やは

り﹂という反応が周辺諸国から出てくる

のはむしろ自然のことではないでしょう

か︒

現 状 認 識

古森次のテーマは︑日中関係の現状を

どう認識するかについてです︒

一方の当事者である中国について見れ

ば︑毛沢東時代は内政も激動続きで後継

者選びにも失敗しましたし︑郡小平もや

はり最初の二人の後継者選びには失敗し

ています︒しかし最後の江沢民は︑三度

目の正直でしょうか︑種々の問題点は内

包しながらも︑一〇年以上の長期政権を

維持していることからいって︑やっと後

継者選びに成功した︑その結果︑内政も

比較的安定しているといえます︒

日中関係は全体としては大きく発展し

てきていますが︑同時に種々の問題も

あって︑ギクシャクした時もあり︑一昨

年の江沢民総書記の訪日の際には日本側

から強い反発が出ました︒その後︑去年・ 今年の状況は︑中国側の対応が非常にソ

フトになってきたこともあって︑あまり

波風は立っていません︒中国側が世界戦

略を見直しているとか︑対日政策を見直

したなどさまざまな見方もありますが︑

現時点で︑日中関係がどうなっているか

という点についてのご認識をお聞きした

いと思いますが︑いかがでしょうか︒

加々美去年五月に社会科学院アメリカ

研究所副所長の陶文釧と座談した時︑

彼は︑米中日の三国関係で言えば︑日米

関係が一番濃密︑その次が米中関係︑日

中関係が一番弱いと言ってました︒

私がその時に問題にしたのは︑どうし

て日本も中国も対米関係を中心軸に据え

て︑対中︑対日関係というものを副次的

なものに置いてしまうのか︑ということ

です︒

こぞんじのように︑九五年に李登輝が

訪米して一気に米中関係が悪化し︑同時

に九五年は日中関係が戦後最悪と言われ

ました︒この年八月一五日に村山富市首

相が歴史認識にかかわって謝罪といえる

発言をしたにもかかわらず︑日中関係は 悪化の一途をたどった︒日本の敗戦五〇

周年であったことも手伝って︑米中関係

の悪化が日中関係に余計に酷い影響をも

たらしたことは確かです︒九六年︑九七

年と米中関係が緩和されてきて︑それで

橋本龍太郎が訪中し藩陽の盧溝橋記念館

に行ってスピーチをした︒戦争の歴史認

識について一定の謝罪に近い発言を改め

て行って改善の兆しが現れた︒その矢先

に出てきたのが九七年九月の日米安保の

新ガイドラインの問題で︑その結果日中

関係はまたひっくり返る︒さらに︑梶山

清六が︑橋本訪中旅行の最中に︑新ガイ

ドラインでいう﹁周辺﹂は台湾海峡を当

然意味するんだと発言したために︑橋本

発言の効果は帳消しになったわけです︒

いずれにしても︑九七年から︑米中関

係が相当改善されたのに比べると︑日中

関係の改善の速度が︑私から見れば︑遅

いと思わざるを得ない︒

だから︑日中関係に一番大きな壁に

なっているのは︑新ガイドラインと台湾

の位置です︒中台の問題は︑南北朝鮮が

これだけ融和に向けて劇的に動く中で︑

歴史 に学 び新世紀 を拓 く

25

(16)

新総統の陳水扁も大陸に働きかけたいと

いう気持ちが強くあるようです︒しかし

今のところ︑中台関係は膠着状態のまま

です︒膠着状態の中で︑﹁周辺﹂と台湾と

いう問題︑つまり新ガイドライン問題が

障害の一つになって︑容易に日中関係も

改善が難しく︑乗り越えられない面が一

方である︒しかし新ガイドラインを日本

に要請してきたのはアメリカなんです

ね︒むろん日本の側も要請した面がある

でしょうけれども︒そのアメリカがむし

ろ日本と比べれば︑対中関係において改

善を進めているのに︑日本はそのアメリ

カとかわした新ガイドラインが棘のよう

に引っ掛かって︑日中関係を画期的に変

える改善策は出てきていない︒現在︑森

内閣になって︑事実上日本の外交は死ん

だ状態にあります︒沖縄サミット後の一

〇月頃に朱錯基首相が来た時何を話す

か︑どれだけ森内閣がきちんとしたもの

を出せるかという問題があります︒しか

し今のままだと期待できない︒

嶋倉経済面では︑アジアの金融危機以

降︑私の見るところ︑中国は︑周りの国 に対する影響も含めて︑かなり評価すべ

き乗り切り方をしている︒

日中関係をどう見るかという点では︑

相互理解は深まっていないと思います︒

腫れものに触るように︑他所行きのお付

き合いで事なきを得ている︒決して︑腹

蔵の無い対話はない︒ただ︑経済交流の

面では︑相互の必要からかなり動きだし

ていると思います︒

また︑現在の国際情勢は日中関係の発

展に有利かといえば︑必ずしも有利とは

言えないけれども不利でもないと思いま

す︒ある意味で︑加々美先生がおっしゃっ

たように︑大きな動きのない時期なのか

も知れませんけれども︑小康を得ている

と思います︒

劉まず日中関係の現状については︑私

もあまり楽観的ではありません︒私は特

に日本側にこのような傾向が強いと思う

のですが︑比較的短期間に関係の改善が

あると喜びますが︑長期的な日中関係の

ビジョンというものが果たしてあるのか

どうなのか︑という点が不安です︒

というのは︑これは長期的な日中関係 という国際関係の問題だけではなくて︑

日本の国家像自体が今は非常に不安定な

時期に差し掛かっている︒つまり︑いか

ようにも日本は変わることが可能である

という時期に日本が来ているのかも知れ

ません︒日本の政治と経済は︑構造的な

変革を迎えようとしているのです︒ただ

これは︑中国で一般的によく最近言われ

ているような︑日本が少し右翼傾向があ

るんじゃないか︑という意味で言ってい

るのでは決してなくて︑つまり日本は二

一世紀にどのような国際関係の枠組みを

構築していくのかということを考える余

裕がまだないんですね︒第一︑国際関係

で明確なイメージを︑あるいはビジョン

を提示する政治家が指導的立場にいるこ

とが日本ではないわけですから︑その意

味では︑日本が置かれている国際環境へ

の危機意識というものが︑日本人には足

りないのではないかと思います︒

これが︑日中関係を考える時には︑ど

うしてもマイナスの影響を与えてしまい

ます︒したがって︑もう少し長い目で日

中関係を構築する必要があります︒例え

i6

(17)

ば︑朱鋳基が一〇月に訪日して︑ある程

度成果があっても︑来年の一月にまた何

か問題が起る可能性があります︒例えば︑

李登輝が訪日するとか︑そういったこと

によって︑また一気に悪くなってしまう

というような不安定な要素がありすぎま

す︒構造的にこれらを安定させるための

努力を考えていかなければならないと見

ています︒

そのためには歴史認識の問題も含め

て︑日本の対中政策に︑さらに新しいビ

ジョンを提示する時期が来ていると思い

ます︒

加々美全くそう思います︒李登輝の訪

日だけで崩れるということの背後にある

のが︑私が今かなり繰り返して強調した

台湾というのが棘のように刺さっている

という問題だろうと思っています︒

今のところ︑日中関係で急激な悪化を

見るという要因が︑他にあるでしょうか︒

例えばチベットで問題が起きた時に︑日

本がコミットをするだろうかというと︑

ダライ・ラマに対する共感が世論的に

あったとしても︑私はそこまでいかない と思います︒でも︑台湾では十分に何か

起きる可能性はある︒だから︑それが何

かにつけて日本を縛っている面がある︒

私はそれを﹁台湾コンプレックス﹂と言っ

ているのですが︑これはそう簡単に融け

ない︒アメリカにももちろん台湾コンプ

レックスはあります︒台湾で何か問題が

起きれば︑ということですが︑実はアメ

リカと比べれば日本の方がはるかに根が

深いんですよ︒

﹁歴 史 認 識 ﹂ の 共 有 は 可 能 か

古 森 今 の お 話 は 当 然 の こ と な が ら ︑ 今

後 の 問 題 に 繋 が っ て い き ま す ︒ 一 = 世 紀

の 日 中 関 係 を 展 望 す る に あ た っ て ︑ 日 中

間 に 存 在 す る さ ま ざ ま な 問 題 や 懸 案 の 中

で も ︑ と り わ け 今 ご 指 摘 の あ っ た 歴 史 認

識 の 問 題 と 台 湾 問 題 の 二 つ は 避 け て 通 れ

な い 重 要 な 問 題 で す ︒ ま ず 歴 史 認 識 か ら

入 り ま す が ︑ 歴 史 認 識 の 共 有 は 可 能 か ︑

と い う 究 極 の 設 問 に ど う 答 え る か ︑ 最 近

出 さ れ た こ 著 書 の 反 響 も 含 め て ︑ 劉 傑 先

生 か ら お 話 を 承 り た い と 思 い ま す ︒

劉最近書いたその本(﹃中国人の歴史

観﹄文春新書)は︑将来的に日中関係︑

あるいは日米中三力国関係を考える時に

は︑歴史認識がどのような位置付けにな

るのかを一つのテーマにしたわけです

が︑私がそこで一番強調したのは︑やは

り一二世紀は︑中国も日本も︑もちろん

アメリカも︑これらは世界の政治に対し

て大きな影響を与える三つの重要な国で

あるということは現実であって︑そのよ

うな世界に対して責任を負わなければな

らない国が︑過去の歴史の問題で︑認識

の違いを長く持ち続けてしまうと︑これ

は世界の平和にとって非常な不幸である

というような基本認識です︒

したがって︑歴史認識の共有というも

のが非常に望ましいのですが︑しかし現

状は︑ほぼ不可能であると私は思ってい

ます︒

非常に悲観的ではありますが︑しかし

これをいかに越えるか︒越えて︑相互信

頼関係を築き上げるか︒これが必要なの

ではないでしょうか︒つまり責任ある大

国としての果たすべき義務︑あるいは役

歴史 に学 び新世紀 を拓 く

27

(18)

割をこの三力国は︑各自の立場から自覚

していかなくてはなりません︒

具体的に言いますと︑まず日本に関し

ては︑日本の過去の歴史問題への認識は

甘いと︑中国の国民のほぼ八割九割がそ

う思っていると︑理解していいと思って

います︒こういう現状は当然相互の信頼

関係にダメージを与えるというのは非常

によくわかります︒

しかし︑今の若い人は将来の日中関係

をどのように考えているのか︒悲観的に

しか捉えていないのか︑というと必ずし

もそうではありません︒例えば︑去年︑

私のゼミの学生たちと復旦大学の学生た

ちが︑夏休みに共同ゼミという形で︑こ

の歴史問題について議論したことがあ

り︑そこでは歴史認識の問題でそれぞれ

非常に見解が違ったわけです︒新華社の

女性の新聞記者に︑たまたま共同研究で

資料を提供してもらったということで一

緒に来てもらいました︒その人が﹁この

ような過去の問題を今の若い人たちに議

論させるのはちょっと酷じゃないか﹂と

言っていたんですね︒どういう意味かと いうと︑例えば南京事件のような話がそ

の場で出てきます︒そのような問題に関

して中国側から言われると︑日本の学生

たちは中国の人たちの前で謝ったりする

わけですね︒そのような気まずい場面に

今の一〇代後半あるいは二〇代前半の人

たちを置くことはちょっと酷なのではな

いか︑という主張です︒

つまりこの考え方の是非は別として︑

お互いに相手を許すという心をそろそろ

持たなければならない︒そういう時代に︑

おそらく二一世紀は来ていると思いま

す︒中国側から見ますと︑世界からこの

ような広い心を求められていると︑私は

思います︒

一方︑経済大国として︑世界の政治・

経済に大きな影響を与えている日本︒し

かもこれは︑先進国の一員としての︑政

治も民主的な制度を確立した国が︑もっ

とそれなりの責任を果たさなければなら

ないとも思います︒

したがって︑日本にはこの歴史認識の

問題で︑戦後いくつか大きなチャンスが

あったわけですが︑例えば︑戦後五〇周 年の時の国会決議を行なうということ

は︑非常に素晴らしい︑いいチャンスだっ

たわけですが︑その決議案の内容を見て

みますと︑必ずしも近隣の国々にとって

満足がいくような内容ではありませんで

した︒日本の国内でも︑中途半端な内容

だという批判が出たことと思います︒

実は︑日本の中では︑果たしていつま

で謝ったらいいかという発想が非常に強

い︒あるいは国会議員の中には︑最近︑

歴史問題になるとすぐにしりごみし︑そ

の話はあまりしたくないという傾向があ

ります︒

しかし︑傷をお互いに癒すということ

の持っている意味は︑二一世紀の日中関

係を考える時には非常に大事ではないか

と思いますね︒

現在︑中国の中では︑政府に対する不

満の形で反日感情に走っている傾向が非

常に強いと思います︒つまり︑国交回復

した時に︑過去の歴史問題を周恩来の判

断であの形で処理したことは︑国民の意

志を無視したものである︑という意見が

さまざまなところで出始めている︒これ

28

参照

関連したドキュメント

(2)施設一体型小中一貫校の候補校        施設一体型小中一貫校の対象となる学校の選定にあたっては、平成 26 年 3

1年次 2年次 3年次 3年次 4年次. A学部入学

 関西学院大学のミッションステートメントは、 「Mastery for Service を体現する世界市民の育成」にあります。 “Mastery for

山口 友実

Photo Credits:Stefanos Tsakiris Copyrightⓒ ECSCRM2016 Conference Photo Credits:Stefanos Tsakiris Copyrightⓒ ECSCRM2016 Conference.

市民社会セクターの可能性 110年ぶりの大改革の成果と課題 岡本仁宏法学部教授共編著 関西学院大学出版会

 「世界陸上は今までの競技 人生の中で最も印象に残る大 会になりました。でも、最大の目

A アルフォンソ lfonso A エーベル bel A アレクサンダー lexander さん.