ネパール北西部マナンをめぐる社会変容 トランス ナショナルな生活戦略
著者 森本 泉
雑誌名 明治学院大学国際学部付属研究所研究所年報 =
Annual report of the Institute for International Studies
巻 16
ページ 93‑96
発行年 2013‑12‑01
その他のタイトル Social Transformations through Transnational Livelihood Strategies in Manang, Northwest Nepal
URL http://hdl.handle.net/10723/1957
図
1 研究対象地域位置図
ネパール北西部マナンをめぐる社会変容 トランスナショナルな生活戦略
森 本 泉
1.
はじめにヒマラヤに位置する内陸国のネパールは、世界経済がグローバルに拡大・発展する過程で周辺 化され、ネパールの首都カトマンドゥはもとより、車道の通じていないヒマラヤにある村々もこ の過程に包摂されることになった。
1990
年にネパールでは民主化が達成され、経済の自由化が 進められるようになると、カトマンドゥに経済機会が集中するようになり、地方との格差が拡大 していった。インフラストラクチュアの整備が進まない地域では開発も進まず、経済発展から取 り残されていく。しかし、そのような地域も、外部世界と切り離されて存続してきたわけではな く、むしろ村人は外部世界に生活手段を積極的に求めてきた。本報告で取り上げるヒマラヤの高 山地域に位置するマナン1 には車道が通じておらず、マナンはいわば開発から取り残されてきた ような地域として認識されてきた。ここでは、マナンをめぐる社会変容を、世界経済の拡大・発 展と関連させつつ村人の生活戦略に着目して考察することを目的とする。2.
研究対象地域の概要マナン郡はネパール北西部に位置し、北は チベット(中華人民共和国)に接している
(図
1)。マナンに住む人々はチベット・ビ
ルマ語系の人々で、自らをマナンのグルン2 と名乗ることがあるが、他者からはマナンギ として認識されてきた。チベット(大乗)仏 教を信仰する人が多く、マナンにある村はそ れぞれ仏教寺院を中心に形成されてきた。
マナンは、
1960
年代後半にネパール政府 がモンスーン季に増水して通行不能になる川に架橋し、河岸壁に交通路を開削するまで、夏季は二カ所ある標高
5,000
メートル以上の峠を越 える以外交通手段がなく、これらの峠も冬季には雪に閉ざされ、他地域から隔絶された地域とし て認識されていた(Clint 2004)。標高が高いために気温が低く、平地に乏しく、乾燥しているこ とから土地生産性が低く、マナンの人々はソバや麦類の栽培やヤクの放牧を行う他に、インド等 近隣地域との交易で生活の糧を得てきた。1960
年代に入ると、当時の国王マヘンドラのマナンに対する貧困削減を目的とした計らいに よって、マナンの人々に貿易特権が付与された。他方で1960
年に創業したタイ航空の国際線の発展に伴って、彼(女)らの交易・貿易活動範囲は東・東南アジアに広がっていった。この交 易・貿易で成功した人々は、
1970
年代以降地方都市のポカラやカトマンドゥに移住するように なり、マナンは過疎化していく。1980 年代に入ると、アンナプルナ・トレッキング・ルートの 最高所である標高5,416
メートルのトロン・ラを通ってアンナプルナを一周する外国人トレッカ ーが増加するようになった。こうして、車道から徒歩で約6
日間の距離にあるマナンにも、トレ ッカー用に宿が開かれるようになった。他方、1990
年以降の経済の自由化により競争が激化し たことで、マナンの人々のアジア地域での交易・貿易活動は低迷するようになった(Van
Spengen 1987, Zivetz 1992, Clint 2004
他)。これを受けて、マナンに経済機会を求める人々が現れるようになった。
3.
マナンにおける生活戦略先述したようにマナンは厳しい自然環境のために資源が限られ、古くから外部に生活手段を求 める必要があった。同様の環境にあるヒマラヤに位置する山村では、ヒマラヤを越える交易が発 達していった。マナンの場合、隣接するムスタン郡を故地とするチベット・ビルマ語系民族のタ カリーが塩の交易を独占していたため、タカリーと競合しない分野を開拓しなければならなかっ た。その結果、獣皮や麝香、ヤクの尻尾(払子)、薬草、骨董品等を地元で調達し、それらを交 易品とするようになった。これらの交易は国境が引かれる以前から行われていた。
1960
年代に入ってマヘンドラ国王(当時)より貿易特権が付与されると、英連邦をはじめと した国・地域への入域を容易にするために、インド等他国・地域のパスポートを所持し、国境線 を積極的に利用して活動を広げていった。彼(女)らの活動は、ネパールにおける国際貿易の先 駆けといえる。冒頭で述べたように、マナンは開発から取り残され、隔絶された地域のように認 識されてきたが、その実態は、土地の生産性が低い故に、必要に迫られて早くから外部との関係 を構築し、生活を維持させてきたのであった。交易・貿易に成功するようになった
1970
年代に都市部への移住が増加していくと、交易・貿 易で蓄財した資本を不動産に投資し、都市部にマナン出身者の集住地区が形成され、マナン・コ ミュニティがマナンの外に展開するようになった。1980
年代から1990
年代にかけて、貿易にお ける競争が激化したことを受けて、当時経済機会として可能性が見いだされつつあったホテル産 業等新規産業に進出するようになった。これらの既存権力が浸透していなかった新規産業におい て、マナンの人々はコミュニティの相互扶助機能を基盤に、外国経験と資本力を生かして他と差 別化を図って事業を成功させ、ネパールを代表する「企業家」集団として知られていった(Zivetz1992
)。4.
マナンをめぐる社会変容積極的に外部に生活手段を求めてきたマナンの人々の生活戦略は、彼(女)らの社会を変容さ せてきた。交易・貿易活動を展開する過程で、バンコクや香港等に拠点を築き、東・東南アジア で活動を展開していった。また、ネパール国内での移住のみならず、国外に拠点を移した人々も 少なくない。この動きとともに、コミュニティ内の諸事を決定する機関の重心がマナンからカト
(写真
1)カトマンドゥの寺院前に建造された仏像
(写真
2
)寺院内に設けられたマナンの 村カンサールのオブジェ 寺を中心に広がる村をイメージ マンドゥに移動することになった。カトマンドゥに形成されたマナン集住 地区には、マナンの人々のアイデンティ ティを投影した記念碑的建造物が出現す るようになった。例えば、巨大な仏像や 寺院を建てたり(写真
1
)、寺院を中心に 広がるマナンの山村を象徴的に模したオ ブジェをカトマンドゥの寺院内に建造し たりしている(写真2
)。マナンにアイデ ンティティを持つ人々のネットワークが トランスナショナルに拡大していく一方 で、これらの建造物はヒマラヤに位置す るマナンとの結びつきを維持強化するも のとして理解される。経済機会があればカトマンドゥ生まれのマナンで暮 らした経験のない若者もマナンで起業し、そこに新し い知識や技術を導入するようになった。例えば、車道 が通じていないマナンでは、化石燃料の輸送が困難で あるために、限られた資源を有効活用すると同時に、
新技術を導入している。具体的には、周囲の森林から 薪炭材を無制限に採集することが禁じられているため、
限られた薪を有効利用するために熱効率の良い竃や、
竈の排熱を利用して温水をつくるシステム等が導入さ れた。また、太陽光を利用して発電した電気は夜間の 照明に利用し、太陽熱からは温水を確保している。大 型ダム開発ではなく、マイクロ・ハイドロ・プロジェ クトによって小規模発電し、限られた範囲であるがそ れによって照明や暖房、調理の熱源をも確保している。
これらの最先端といえる新技術の導入には国内外の援
助団体や
NGO
等が関与している。こうして、標高4,000
メートルを超える場所にある山小屋で も外国製のオーブンやオーブントースター、電子レンジ、電子コンロが導入され、外国人トレッ カーにピザやパイ、パスタ等が供されている。国家による近代化が段階的に進められずとも、自 ら最先端のエネルギー技術を導入することで、近代的な電化製品を利用できるようにしている。この点から、マナンが隔絶された閉鎖的な空間として今も開発から取り残されてきたのではなく、
グローバルに、外に開かれた空間として再編されてきたことが指摘できる。
他方、マナン社会のネットワークがトランスナショナルに拡大し、コミュニティの重心がマナ ンの外に移動する一方で、マナンの寺院を中心にした村人が生活の場としてきた村落と隣接して、
より正確に言うと彼(女)らの生活空間の外側に、
1980
年代以降こうした外部者用の空間が創 出されてきた。トレッカー達が村内を散策する際に学校や寺院をのぞくことがあっても、そこに 滞在することは殆どない。また、この新しい動きに対して生じた労働力需要を埋めるために、近 隣の郡をはじめ外部から労働者が流入するようになった。これらの人々がマナンで土地や家屋を 購入することは、現在のところ受け入れられておらず、住人を失った古い家屋の中には手入れが なされないまま放置されて倒壊し、過疎化が可視的に明白に分かる景観を呈している。これらの 側面から、コミュニティの紐帯とその反面である排他性が伺われるが、コミュニティ構成員の関 係性は、年配者によると希薄になりつつあるという。しかしながら、上述したように機会さえあ ればマナンにアイデンティティをもつ若者がその紐帯を利用して起業することが可能な、ネット ワークを柔軟に往来できるトランスナショナルな社会であるといえる。5.
おわりにマナンを事例に、世界経済の拡大・発展過程で周辺化される地域の変容を考察してきた。全て の周辺化が卓越する地域に共通して言えることではないが、マナンの場合は、欧米中心に展開す る世界経済にただ包摂されるのではなく、自ら積極的に世界経済を利用しつつ、別のグローバル 化の過程を経験してきたと言えよう。
今日、隔絶された地域として認識されてきた場所が、その周縁性を「秘境」として資源化、商 品化し、トゥーリストを惹き付けるようになり、「秘境」と呼ばれる空間が世界各地に創出され てきた。マナンもその例に含まれる。しかし、「秘境」は「秘境」として周知された時点で「秘 境」ではなくなる。また、上述したようにこのような周縁的な地域は限られた資源故に孤立して いては成り立たないことが多く、他者に「秘境」として知られるよりもずっと以前から、その地 域の人々は世界と関わり続けてきたといえる。
本事例から伺える以上の社会変容は、多様で多元的なグローバル化を再考する端緒となろう。
本報告はそれを概観したに留まるが、詳しくは稿を改めて論じる予定である。
<注>
1 ここでは、マナンとはマナン郡の中でもアッパー・マナンの範囲にある7村、カンサール、タンキ・マナン、マナン、
ブラカ、ガワル、ギャル、ピサンを指示する。
2 チベット・ビルマ語系民族にグルンという民族集団があるが、その集団とはアイデンティティを異にする。マナンギと いう他称に由来するネガティヴなイメージを回避するためにグルンを名乗り、差異化を図って自身の故地に言及してマ ナンのグルンと名乗ることが多い。
<参考文献>
Clint, Rogers(2004)Secrets of Manang The Story Behind the Phenomenal Rise of Nepal’s Famed Business Community, Mandala Publication, Kathmandu.
Van Spengen, Wim(1987)The Nyishangba of Manang: Geographical Perspectives on the Rise of a Nepalese Trading Community, Kailash A Journal of Himalayan Studies, Vol. XIII, No.4-5, pp.131-277.
Zivetz, L.(1992)Private Enterprise and the State in Modern Nepal. Madras: Oxford University Press.