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ハイデヅガーの實存哲學に於ける
豫備問題.
6
佐々木一義
■一︑問題措定
二︑ハイデッガ置の存在論
ω存在者と存在
⑭山仔在者の由仔在の性皿絡と存在凱灘の意藍﹁
三︑荏在論と現存の分析
四︑現象學と存在論︑ 1
0
'嗣︑問題措定
ノ "ハイデッガー(竃碧齢貯潤︒芽震臼)は彼の哲學に於て現存(貯険09︒伽魯)︹人間︺を存在論的に(O暮o一︒@q一97)
分析してゐる︒然し彼は斯様な現存の存在,論的分析を以つて絡始し︑之を唯}の而も究極の目標としてゐる者
ハイデツガ,の實存哲學に於ける藻備問題(佐々木)三三
ノ
︑ ・三四
遥なのであらうか︒その意圖するところのものに封する充分なる理解乏深甚なる考慮とを佛ふことなく︑彼の實.
存哲學(穿§窪趨運8名三︒)に於ける成果のみに着眼して之を批判し去るものがあるとするならば︑その批判
が如何に嚴密に秩序付けられたものであらうとも︑否それが嚴密であればある程︑彼は批判の偏狭な抽象性に︑
堕し︑ハイデッガーの哲學への無理解を自己自らから暴露するといふ大いなる危瞼性に曝らされることになる
であらう︒我々はかくの如ぎ危瞼性から冤れる爲めには︑彼の哲學が如何なる性格を有してゐるものであるか
を︑換言すれば︑其の研究の封象と之が究明の根本的態度とが抑も如何なるものであるかを︑豫め端的に彼の
哲學への理解の基礎概念として︑明晰且つ判明に把握して置く必要がある︒
ハイデッガーの哲學は︑其の封象の側面から考察すれば存在論︑(O具oざσq冨)であるが︑其の方法からする
ならば現象學(勺薮ぎ日窪巳︒σq貯)であると謂はれる︒然し彼によれば︑存在論と現象學とは﹁其の他の哲學に
属する特殊科學と並んで存する二つの相異れる特殊科學であるのではない︒此の爾者の名稻は哲學そのものを
●,ヘカ封象と方法とに從つて特徴付けてゐる﹂ものであるに過ぎないのである︒換言すれば︑現象學は存在論であ
り︑存在論は唯だ現象論であることによつてのみ成立の可能性を有する︒このことは叉同時に存在論の封象へ
Oの通路が現象學であることを意味する︒・
然らば︑ハイデッガrに於ては存在論と現象學とが如何なる意味に於て同一性を有するものなのであらう
コヘセへもか︒そして彼は何故に彼が研究の究極目標として絡始してゐるかの如く一般に考へられてゐる現存の存在論的
︑
●'
'
職 5分析を前面に押し出して︑之を第一の課題としてその解決に多大の榮力を費してゐるのであらうか︒此等の疑
問への解答の方向として先づ第一に我々に必然的に與へられる課題は︑彼の存在論が如何なる性格と内容とを
その中に含むものであるかの検討に思索の焦瓢を合はせることでなければならない︒我々は其庭に彼の複雑に
して難解なる哲學的膣系の糸を解きほぐす端緒と擦り虜とを求める︒
0り現存︑現實存左或は生存等と種々に鐸されてゐる山器U帥器ぎを概括的に﹁入間﹂として註を施して置いた︒ハイデツガ
ーに於て﹁入間﹂の意味に使用せられる此の語の嚴密な解曜學的定義付けは後になされるであらう︒
②出o置£αq臼鱒ロ◎o盲§山No凶陣●国匿o国鐵津P剛8い●ψU◎◎.
郵 笥
ニ︑ハイデッガーの存在論
ω存在者と●存在
抑々ハイヂッガーをして存在問題を問題として現代に復活せしめた外面的な必然的動機は︑彼にとつては
の﹁存在問題の由來の高貴﹂なる盧にあつた︒就中此の存在問題に封する解答が︑否︑之に關する充分なる問題措
定一般さへ訣如してゐる盧にその起因を有するものであつた︒事實︑プラトーンやアリストテレースの︑そし
てそれ以後の哲學的研究の主要課題であグ︑彼等の研究を奔命に疲らせたものは確かに存在そのものなので
あつた︒此の爾哲學者の息苦しい研究と思索とによつて獲得せられた業績は多角的な推移と幾多の曲解とによ
ハイデツガーの實存哲學に於ける豫備問題(佐々・木)三五
ノ ノ三六
つて歪曲せられながらも︑申世を脛てヘゲールの鍮理學に至るまで完全に維持されてゐる︒虚が此の存在問題
は︑假令それが噺片的であり︑哲學的には全くその端緒に着いたといふ域を一歩も出でなかつたにしても︑爾
來久しい聞全く俗流に隙し去つて︑現代に於ては殆んど忘却されんとしてゐる観がないでもない︒だが此の形
而上學を再び肯定するととは確かに時代の熱烈なる要求である︒斯くてハイヂッガーの思索の目標として措定
された研究封象も亦此の存在に他ならなかつた︒存在論こそ彼の哲學の根本的性格を構成するものであ抄︑彼
の哲學的方向を明瞭ならしめる一つの指標で壁もある︒
私はこれまで﹁存在﹂なる語を不用意に使用して來た様に見える︒然しハイデッガーの存在論に於て方法論
的に重要な意義を有するものは此の﹁存在﹂なる概念と﹁存在者﹂なる概念との相違なのである︒即ち彼は圏
方に於ては存在するもの︑謂は讐﹁存在者﹂(畠9go◎OO一〇昌口O)を︑他方に於ては同時に﹁存在者の存在﹂を立て
る︒換言すれば﹁存在﹂を﹁存在者﹂から存在論的に嚴密に匠別して措定する︒ところが若し此の際我々がア
リストテレースの如く︑﹁存在者とは如何なるものであるか﹂と問ふならば︑此の輔般的問題そのものが飴り
にも無規定的であることを稜見する︒だから﹁此の問題に封する解答が一艦何庭に︑そして如何にして一般に
の求めらるべきであるかと云ふ問を最早襲せす︑叉それに樹してあらゆる支鮎を拒絶するのではなからうか﹂と
さへ思はれる位である︒それは高々存在するところのものであり︑實艦的なものである︒即ち激や幾何學的封
象は勿論現實の時聞︑室聞的制約下にある個別的攣化的な多種多様なる経験的封象であると謂ぴ得るに過ぎな
︑
〆 い︒然し﹁存在者そのものは何であるか﹂といふ問題措定に於ては︑圏般に存在者を存在者として︑存在者に
まで規定するところのものに關して問はれてゐるのである︒ハイデッガーは之を存在者の存在と名付け︑之に
關する問題を存在問題と稽する︒つまり存在問題は存在者を存在者として規定するものに關して探究するので
ある︒此の規定的なものはその規定の仕方に於て認識され︑斯く斯くとして解繹され把握されねばならない︒
'そして存在に依擦する存在者の本質規定性を把握し得る爲めには︑規定的なものが完全に掴まれてゐなければ
ならない︒最初に存在者そのものではなくして︑存在そのものが豫め前以つて把握されてゐねばならない︒だ
'から存在者とは何であるかといふ問題の中に於ては︑既に豫め理解されてゐる﹁存在どは何⁝を意味するか﹂
といふ︑存在者そのものよ砂も一層根源的な問題が横はつてゐるのを見出す︒
'ω毘o置⑦σq囎ごωΦ冒き◎N9・こo・GQ・
②=︒置︒びqσqo罪閑国見5傷畠・・竿号冨日負臼言o仲唱ξ甑ドおいやqo・曵い●
②︑存在者の存在の性格と存在論の意㎝義
︑︑n斯くて存在者の存在とは︑ハイデッガーによれば﹁存在者を存在者として規定するもの﹂或はh存在者その
ララ ヘへ ものを規定するところめもの﹂ではあるが︑﹁それ自む存在者ではあり得ない﹂ところのものである︒だから
﹁存在問題の理解に於ける哲學的第剛歩は何等の紳話をも受け纏がないと云ふこと︑即ち如何なる物語も語ら
ハイデツガーの實存哲學に於ける豫備問題.(佐圃木)三七 ︑ 9
︑
!
三八
のへももぬぬヘへもりもあももへらないといふことの中に存する﹂︒換言すれば︑存在者としては存在者を恰も存在者が一つの可能な存在者の性
ももへもへもヘへもうぬへ りぬぬもカぬヘへぬへもぬヘへもヘヤリヘへあももぬもへもうももも格を有するかの如くに︑その由來を辿つて他の存在者へ還元することによつて規定してはならないといふ庭に
在る︒兎に角︑存在者の存在なる概念は斯様に消極的に規定する以外に何等解明の方法を有し得ない定義不可
能な概念なのである︒何故ならば﹁存在﹂は饒りにも﹁噌般的な﹂概念であるからである︒即ち存在に封する
理解は︑人が存在者に於て捕へる全てのもの玉中にその都度含まれてゐるからであり︑そして叉理解の申に最
初に與へられてゐるものは存在なの距あるからである︑と同時にそれは又︑ハイデツガーも云へる様に︑除り
のにも﹁自明な概念﹂でさへあるからである◎すべての認識︑言表︑そして凡ゆる存在者への態度並びに自己自
らへの態度の中に﹁存在﹂は使用せられ︑而も此の場合その表現は躊躇なく理解されてゐる︒只だ大抵の場
ヘヘへ合︑一般の人々にはそ脚が意識の上にまで登つて來ないだけである︒例へば﹁塞は青くある﹂︑﹁私は愉快であ
ももへる﹂︑或は﹁今日は祭日である﹂等々の夫々の表現に於て我々は﹁ある﹂を︑從つて又斯の如き﹁存在﹂を理
解してゐる︒﹁火事1﹂といふ怒にも似た叫び聲の中にも.﹁火事が起つた︑救護が必要だ︑逃げられる者は
逃げろ!彼自身の存在を救護せよ﹂の如き豊富な意味内容が塵縮されてゐる︒之に反して我々が存在者に就
て特別に意見を述べることなく︑むしろ沈黙してそれに關係する場合に於ても︑假令それが覆はれて意識の上
もぬヘへもへに登つて來ないにしても︑それの﹁何であるか﹂︑﹁⁝⁝である﹂或は﹁眞である﹂等の如く相互に關係する
諸性格を理解してゐる︒我々は斯様に存在を理解してゐるのではあるが︑而も飴りにも自明なものであるが ̀
﹂