武 藤 長 藏 教 授 を 想 う
宮 崎 震 作
人は生れ︑人は苦しみ︑そして人は死せり
− ア ナ ト ー ル
・ フ ラ ン ス 1
わたしは武蕗先生を直接には知らない︒会ったことは一度もな
い︒だから此の一文を革することは︑わたしにとって可なりの冒
険である︒然し︑わたしはいつか一皮は武藤さんのことを書いて
見たい︑と云うよりも寧ろ︑いつかは自分がそれを書くであろう︑
また書かねはならぬと云う気がしていた︒そしてそれは奇妙なこ
とには何か殆んど薄着的な感じを伴っているのであった︒
わたしは武藤さんの著述と蔵書を通じての外\何一つ直接には
武藤さんに就て知る研がない︒臨場教授が武藤さんの没後︑たし
か﹁国家学会雑誌﹂ ︵註l︶かに或る追憶文を発表されたことを
わたしは同教授から開いて知っているが︑それさえその雑誌の行
街の判らないために未だに読んでいない︒わたしは武躊さんの性
粗︑思慮︑人物等についてもう少しよく知り︑調べ︑考え︑親の
熟成を待って始むべきであったろう︒然し﹁鉄は赤い中に打て﹂ と云う言裏もある︒頭の燃えている今を外づしては︑いつ亦それを書く積金があろうかと自ら疑い︑勃々にわたしは筆をとることに
した
︒
故にこの一文は︑わたしの頭の中にこの一両年の問︑自然に出
′来上っていた武藤さんの姿の或る一つの粗雑なデッサンにすぎな
いものと考えて頂きたい︒﹁斯くありLL武藤長蔵の実態ではな
い︒﹁斯ノヽ吾が憩う﹂武藤先生の影像である︒それは現実の姿と
は或は著しく興っているであろう︒然し︑異つていようといまい
と︑今はもうわたしの関知する所ではない︒罪はわたしの硯にあ
る︒誰の罪でもない︒
この頃︑わたしは或る奇妙な錯覚を頭に感じて時々自ら苦笑す
る・ことがある︒つまりわたしと云う者が︑永い問武藤さんに親し
く接し交はり教えを受け︑生活と仕等を共にした人机であったか
の如き錯覚を起すのである︒これは無論︑わたしにとって誠に恩
武藤長蔵教授を恕う一三三
註(1)これは違っているかも知れない0
経 営 と 経 済
いがけない心理現象である口然し同時にまた︑それはわたんに拭
って何か楽しい幻想でもある口
師弟︑知己︑先蛮︑ーーその他凡そいかなる何人的な人間関係
も︑わたしと武藤さんの間に存するのではない口存ずるのは唯単
に機械的な関係︑即ち武藤さんの蒐めそして残
L
た資料︑いわゆる﹁武際文庫﹂そ抑制々わたしが図書館員の資格と任務に於て義務
的に分類し︑カードを取り︑日銀を作っているのにすぎないので
ある口われら両者の問にはほとして常に百歩の距離が存ずる︒然
し錯覚は一瞬︑その百歩の距臨を忽ち十歩に短縮してわたしに見
ぜるのである︒︐
何がその明︑因であるか︑何がとう云う奇妙な錯覚をわたしに覚
えさせるのであるかは︑わたしに判らないとともない︒手短かに
・云えば︑それは職安︑義務︑興味︑理解︑向調︑尊敬:::と︑次
第にわたしの頭の中で発展して行った一連の感情の仕業だと説明
出来るであろう︒けれども︑其等の感情の発する所が武路さん個
人にあるのか︑その著述にあるのか︑それ王も亦武球文庫に存す
るのかは︑わた
L
自身にも定かには判らない口要するに︑これらすべてを引つくるめた或る漠然たるものに対する漠然たる憧憶と
云うより外はない・のである︒
一 一
わたしは武藤さんを全然知らないと書いた︒確かにそうである
に違いないが︑然し名前くらいは古くから聞き知っていた︒わた
し
ξ
艇も長崎人の端くれである︒﹁高商の名物﹂であの郷土の︐名︑︑
︑
士でさえあった武藤長政と一去う目名前が︑いかにわたしがつんぼで
あるとは一広え︑耳に届かない筈はないではないかDた
わたしは
w f
一三
四 大
E
の中期から昭和終戦の翌々年にいたる二十幾年かを速い合泊で過ごしていたから︑武藤さんの華々しい活躍振りを目のあたり
に親しく眺めることの出来なかっただけの話である︒
長崎中学時代︑同じグラスに
K
という男がいた口附を病み若く して死んだが〆K
のお父さんは武藤さんと同じ長崎高向教授であった口そのKが時々武限さんの名を口にしたのを憶えている︒何
でも変り者で大変な勉強家だと云うことであった︒つうちの淵爺
なんか駄目さ﹂と吐き出すように云ってレたが︑これは無論Kの︑
謙遜だったであろう口
その頃わたしは長中のぢき上にある高林寺と云う寺(今でもあ一
る)に下宿していた口ほかには一品商の学生が二三人いたロその学
生速からも時々武藤さんの名前を聞いたように忠ぅ︒学生と一緒
に写した写真を見せて買った記憶もある︒
h その頃のある日︑わたしは共益館と云う其頃勝山町にあった古
本屋に出かけたことがあるD多一分受験用の参考吉か何かを民うつ
もりだったであろう︒その時︑奥の荷暗い所で主人と話しこんで
いる人の杭闘をど乙かで見憶えがあると思ったDあとで写真で見
た武際さんの顔だと気づいたが︑その時の人が果して武藤きんで
あったかどうかは︑無論判らない︒その時わたしは目指す参考吉
は何JO買はないで︑代りに木村荘入さんの訳した﹁グアン・プオホ
の手紙﹂を買って知ったことを︑人7でもはっきりと憶えている︒
値段は五十鈴であったDプオホのことは其頃まだ続いていた﹁白
樺﹂で知っていたロ
その年わたしは中学そ卒業したが︑すっかり人生と自分に絶望
を感じていて︑将来何をやればよいか判らなかった︒自分では何
となく文学をやりたかったが︑自信があるわけでなく︑郷旦の父
が許して呉れる告もなかった︒父が医者になれと一云うので医専を
受け︑序でどと思って高尚も受ける無方針ぷりだったが︑小説ば
かり読んで怠けていたので︑両方共見事に搭第したのは当然であ
った?その翌年︑わたしは久しぶりに帰省した姉夫婦につれられ
て台市に波り︑そこのの学校に入り卒業
L
そして終戦までそこで勤めていたので︑その間のことは新開で得た知識以外︑長崎のこ
とは何も知らないD
然し武践さんの話は台湾でも時々聞いた︒と一五うのは義兄が古
い長川市尚出身︑でおり︑その親しいこ三の友人達も皆同窓だった
ので︑彼等の話の聞に時々武一際さんの名がとび出して来るからで
あった︒ある時﹁武躍さんてどんな人ですか﹂と聞いたら︑何と
か一云う本にはこう苦いてある︑何とか云う本にはあL苦いてある・
と本の話ばかりしている変り者だと義兄は笑っていたD
そのお凡の号制に古い﹁国民経済雑誌﹂が揃っていて︑それに
何か武泌さんの長い論文が連政されていたが︑今考えるとそれが
例の﹁銀行なる名辞の由来について﹂と出する考証論文であって
これが武出さんの次第に学界に存在を認められるようになった機
設だと思う︒然し︑その頃はまだとう一五うととに興味を持たなか
ったので︑わたしは読みは︑しなかったD
ずっと後になって︑丸訪日の﹁学鐙﹂に﹁スミス富国論﹂のこと
を苦いた武成さんの寄稿が絞ったDその頃手に入れられたと云う
初版本の解説であったが︑これが武践さんのものをわたしが読む
最初であった
D ζ れは興味深く読んだ口然し︑その粘っこい︑少
L
いんどいくらい阿川市な主主万には閉口したQ武路長政救援を畑山う また少し絞って︑こんどは﹁台湾時報﹂に何か台清の人口問題に関する考証的な論文が掲諒されたが︑原則胞を見ただけで読んだ記憶はない︒然し何故また武藤さんがわざん¥台湾あたりの雑誌に寄稿したのか一寸不思議に感じたが︑その頃総官府の情報部一雑誌の発行所)に長崎一品簡の卒業生がいたから︑その依頼で書いたのだろうと恕保した口
以上がわたしの武隠さんに闘する知識の全てであった口
一 一 一
だから終戦の並々年︑二十何年ぶりかで郷里に引揚げ︑暫らく
して長崎に出℃経専(現在の経済学部)図書館に勤めることにな
り︑或る日O校長の前に呼ばれて﹁あなたには武藤文庫の整理を
やって買います﹂と云はれた時にも︑わたしには別に特別な感興
は湧いて来なかった︒正直な所︑武藤さんのことなど既に夙の昔
にわたしの頭からどこかに蹴し飛んで仕舞っていたD
尤もわたしにすれば︑それも少しも無理はなかったのであるQ
何年間の顕の空白であったか知らないが︑大東亜共栄固などと愚
にもつかぬ途方もない夢を教えこまれて︑たど紙の上で﹁関印資
源調査﹂に協力を命ぜられている聞はまだよかった口次一話に戦争
は怪しくなり︑わたしの如き者まで兵隊にとられて毎日穴掘りと
草を引いて野菜の買出しに追い使はれ︑コ一月目に除隊した時は既
に台北の目ぼしい建物は大半焼き払はれていて︑それからは毎日
担袋︑疎開と休む限もなく︑やがてあっ気ない終戦となってから
は︑一旦十数旦も雌れた山の中に疎開させてあった凶号館の本を
幾日もかLってト一フヅグで台北に運び返し︑まだその取り片づけ
も泊まないうちに中国側が乗り込んで来て掠枚︑尚用となり︑毎
一三
五
経 営 と 経 済
朝﹁三民主義﹂の国歌を唱はされ︑怒々引拐事けと決ってからはそ
の準備に忙殺され︑やがて集結︑乗船︑上陸︑やっと郷里の生家
に辿りついてやれ/¥と一息ついていたら︑今度は大火事にあっ
て荷物語共焼け出され︑仕方なく叔父の家に転げこん'でいると二
花月日に妹に癌で死なれたDまことにどうも呆れるほどの目まぐ
るしい変転ぶりであった︒
漸く就職の決ったことは嬉しかったが︑わたしはもう疲れ呆℃
何をする気力もなかったD数日間はたどぽかんとして与えられた 三階の一室一で︑山のように積まれた本の堆積を眺めて暮らしたD
本はその後もあとから/¥とわたしの部屋へ︑次で隣室ヘ搬びこ
まれた︒どれもこれも挨に汚れ︑表紙は傷み︑或は虫に蝕はれて
・い
た
D本の山は見る/¥大きくなって行ったD
それ
は本
と一
式う
よ
りも︑寧ろ何か符態の知れない不気味な圧迫をもってわたしに迫
った
D
次第に内地で初治ての冬山川深まって来たDわたしはガラスは破
れ扉は歪んだ際問だらけの'薄暗い部屋にたど一人︑小さな火鉢をかLえてガタ/¥果︑さに傑え乍ら︑相変らず何も子につかなかっ
た︒思い出は台湾のととばかりであったロわたしは勤めていた研
究所の図書室を思ったD一部の建物こそ空襲で焼けたが︑図書室は無庇であったDそれは白翠の真新しい鉄筋コング.リ1ト三階建の堂々たる建物で︑明るくそして清潔であったD戦時中こそ慎し
んだが︑夏は終日官一闘が捻り︑冬はあの常夏の台湾だと云うのに
電気ヒーター︑で足を混めながら仕事をした︒
わたしは亦︑苦しかった図書の疎開を憶った︒台北から十︑数旦
臨れた部溶の山中に分室を追って)そこに幾日も幾日もかL
って
一三
六
ト 一 プ
Wノグで運んだ︒時々上空を米機の編隊が通りすぎるのに出港
った
iそれを木底に避け︑ト一アヅグに積んだ本に腰かけて自分で
炊いた握り飯をぱくついたこともあった︒・もう其頃は家肢は回合
に疎開させ︑わたし一人が台北の家に踏み尚っていたのであっ
たD然しやがて終戦が来た︒どうせ中同さんにほられるものなら
本はあのま
L
あそこに放っておけばよいではないかと云う人々もあったが︑所長のI博士は﹁研究所の看板は図書だ︑きれいにし
て渡そうよ﹂とわたしに云った︒それでまた︑幾日も幾日もか
L
って台北に運び返すことになった︒図書の係員も抜術員もない共
同の仕事であったが︑あとの取り片づけは係員でやるほかはなか
ったロ一ヶ月余りもか
L
ってやっと整理したが︑もうわたしも外の者も本の姿を見ることさえ苦痛であった︒それなのに︑また本
の山が目の前に整えているではないか︒
わたしはうんざりした口けれども職務は職務︑いつまでもうん
ぎりしているわけには行かなかった口わたしはやっと勇をこし℃
整理にか
L
ったが︑忽ちにして或る疑惑に陥った0・本
が︑
いや
本
の種類が多すぎるのである︒わたしは最初︑武藤先生の蔵書なら
どラせ経済か商学か︑それに精々怪史の本の加はるくらいだろう
︑ ︐
とたかをくLっていた︒ところが突際に当って見て語いたロ何で
もある口実に何でもある︒Oから初まって九に終る分類表の︑そ
のどの部門にもそれん¥該当する本がちゃんとあるロわたしはこ
れが一個人の蔵書であろうかと怪しみ︑そして呆れた︒本好きの
金持の隠居道楽ではあるまいのに︑こう一式う本の蒐め方があるも
のだろうかと疑ったDどんな本でもあると云うことは二百奨を反
せば︑どんな本でも楕はず無方針に手当り次第に買いこんだと云
うことになるではないか︒これが個人の︑しかも学者のする蒐善
方法であってよいものだろうか口然し武藤さんほどの人がそんな
品劣な其似をナる告はない︒それならば一体︑武藤さんはどう云
う気でこう矢鱈に必裂もなさそうな古本ばかり︑せっせと買いこ
んだのだろうか:::︒
四
わたしは方針を変えた︒本の整理は後廻はしにして︑先づ武藤
さんの者告や論文を読むことにした︒もっとよく武路さんと云う
人を知ることが必要だと日ったからであロた︒
日以初に﹁日英交通史の研究﹂を選んだ︒然し︑こLでも亦わた
しは見込み追いをしていた︒そ北は交通史の研究と一五うよりも︑
宇ろ交渉史料の研究と称さるべきものであった︒この約入百頁に
及ぶ治大な大冊は長初からひどくわたしを苦しはり︑それを読み通
すには可なりの努力と忍耐とを必一場とした口それは何も矢鰐にむ
つかしい杭文字や漢文の飛び出して来るからばかりではなく︑武
際さんの一吐き方が必要以上に冗どすぎるのであった口忽ちわたし
はむて読んだ﹁スミス官同論﹂の考証を思い出した︒﹁日英交通
史の研究﹂はそれにも出して読むに国倒な代物で︑和文と欧文と
波文とがほY同じくらいの割合を以て交るん九︑︑殆んど応接にい
とまのないほど頻繁に現はれて来て︑そのたび毎に本を横にした
り︑縦にしたりせねばならぬ煩らはしさは︑到底わたしには堪えら
れなかった︒遂にわたしは棋士市にも︑初めから本を斜めに梢えて
読み進む方法を覚えた︒
けれども︑煩らはしさはそれのみに止まらなかった口たった今
ある本の若者名から者名︑副題︑版次︑発行地︑発行所︑発行年
武藤長波救援を恕う :と順々に長々と一一一一一行にも豆ヲて読んだばかりなのに︑半頁
も 先 に 進 む と ま た /
¥ わ た し は 其 の 同 じ 本 の 著 者 名
︑ 書 名
︑ 副 題 品 d
誌阿n
︑版
次:
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と長
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一一
一一
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旦っ
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まさ
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始末
であ
った
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そ 昨
牢 日
荏
↑
・ ー
し て
︑ そ う 云 う こ と が ご 良 の 中 に 再 三 繰 り 返 さ れ て い た 口 日 問 附
わたしは次第に疲れ︑焦ら立ち︑何故こう一疋う無駄な書き方をはん叫
するのか︑一体︑武膝さんは暑記法を知らないのか︑それとも好丹︑
E w r ま な い の が と 腹 を 立 て た り し た ロ 怯 訓
&
ι朝 刊
U6
けれども︑いつか次第にわたしも武藤さんの文章にも馴れ︑そ
A u m
の煩雑な拷証にも大して誌かないようになって来たD
そ し 亡
﹁ 日 波 山 肌
4 H A U
英交通史之研究﹂を読み終り︑次で幾つかの墾両論文ぺ註2)を恥叫凶
読み進む頃には︑いつか次第にわたしも武藤さんのベ1
ス に 引 つ 時 間 同
﹁l . u a とまれ︑それに同調し︑かくて段々とその哀さが判るような気が(河川
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‑ 4 Y
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し て 来 た
︒ 佳 品
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︐H再びわたしは分類の仕事に移った︒今度は柏々順調に作業が進杖
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捗したD
そ し て 次 第 に こ の 一 万 冊 に も 達 す る
﹁ 武 藤 文 庫
﹂ が 決 し 読 吋 川
判 ぃ
hb!
て無方針に手当り次第に蒐められたヨものではなく︑矢張り一定の得T M
方 向 主 主 品 自 主 の︑
i
即 ち そ れ は ど こ ま で も 武 す ご は
んの政主であって他の誰のものでも江く︑一つ一つに武藤長十周と戦い
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云う一個の秀れた人格の穆み出たものであることを感得するよ万駒子九刊
になった
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・教
らい
山h
t藤 げ 脚 内
﹁耳科学﹂{註
3d
と一云う本があるロわたしは初め︑何故にこう官溺れい.
一云う純粋の医円子宮︑が武際文庫中に紛れこんでい£かを誇った︒然
U
閥 ︑
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の本の若者ジョセフ・トインピーなる医者が名だたる経済学は四日制
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者且つ社会改良家たるア1ノルド・トインピ1の 父 親 で あ る こ と 註 註 一
を知った時に︑そして亦武践さんがア1
九 ル ド を 心 か ら 敬 慕 し
︑ 一 一 一 一 一 む 一
経 蛍 と 経 済
伎の幾つかの評伝を底々一学術雑誌に発表している事実(註4)を知った時に︑わたしの疑問は忽ち雲散した︒ジョセフ・トインピ
ーの﹁耳科学﹂が武藤さんの﹁ア1ノルド・トインビ1評伝﹂執
笠にいかなる効呆を与えたかをわたしは知らない︒恐らく何の
足しにもならなかったであろうD何の足しにもならず︑
J Jヘ
た自
分
の専門とは活かに懸け追った本ではあるが︑それが敬慕する経済
学者トインピlの父親の著作と知つては︑黙って買はずに見逃す
と一疋う法はないではないか︒学者とは︑或は武酪さんとはそう一一Aう人である︒
.一七九九年フラングフ必ト出版のカントの﹁安用的見地より見
た人類学﹂(註
5 )
と云う紙京紙の蒋神本があるDこの本の初版
は前年即ち一七九八年ケ
1 ‑
一ヒスブルグで発行され︑同じく武藤文庫の中にあるが︑再肢は一入
OO
年に刊行されたから︑この一
七九九年版は初版の異版本であろう口
さて此の一七九九年版﹁人類学﹂が我凶に長も平く伝はったカ
シトの︐著作であるととを︑武政喧んは論一証した︒とれはもと文久
'時代から引続き長崎出品に居住していたドイツ商人ボエヂングハ
ウスと云う人の所減であったが︑死後その未亡人が本国へ帰国一の
際︑長崎の古本屋共益館に売払ったのを︑偶々そこへ徳官掠峯氏射
を案内して来合せた武藤さんが見つけて手に入れたのだそうで
あるD
カントと武践さん︑との対照は少しも可笑しくはない︒のみな
らず︑その干に入れ方がいかにも武藤さんらしくてよい︒然しそ
れよりもっと武臨さんらしい場面が此の本には伴っているのであ
る︒ことは桑木政翼民の﹁カントと現代の哲学﹂が出版され︑武
一三
八 藤さんがそれを読んだ時に初まるD桑木博士は﹁日本の子供は其
地で商売するオランダ人を見ると︑おL何て大きな眼玉だ︑大限σ
白 川 王ゃあいと叫んで後からついて来る﹂とカントが﹁人類学﹂の中加
M
l s c
に苦いていると述︑へ︑どの出典はケンベルの﹁日本志﹂(註6)
・ 叫 閣
だろうと思うが︑然しケンペルにはこれに類似の記述はあるが︑一切制 限 玉 の と と は 出 て い な い と 苦 か れ た ロ 以
G
C T h d
とLで武藤さんは忽ち一流の活躍そ始め︑忽ちその出典を探し
‑ m
ヴ
︒ ︐
1 ' I
出して見ぜた口付/ンベルグの﹁欧国旅行記﹂(註
7 )
で あ っ た 口 い M K
ζの考証のいきさつを﹁カント若人性論とツンベルグ長崎出品川州知仙川
イ
叶i
a
在記﹂(註
8)
として漬時さんは発十点火したが︑それを立証するたに川匂
‑ J I
‑
‑ J
めにツンペルグの瑞典諸原文ばかりでなく独訳︑仏訳︑英訳本か涜叫d
.らそれ外¥訳文を引用して彼我対照するの綿密さを発揮した口の枇.川町みならず︑円/ンベルグの﹁大限﹂は﹁岩山(アオメ)﹂(註り)の
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刷
聞 き 探 り だ ろ う と 註 れ し た り し た
︒ . 平 市 唱 団
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谷文見の﹁日本名山凶会
L (
註凹
)と
一疋
う本
が一
おる
口浅
間山
等一
一二
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︐ . 日本の名山の写生図であって︑文化元年の出版である口中に雲仙山川叫 岳の絵があるが︑とれを眺めて︑前にどこかで見たようだと武聡段し
L
由今 九 児 明 唱
さんは考えた口調べて行くとシ1ボルトの大著﹁日本﹂(註日)制約
m p b
だと判ったo両方の絵を較べて見ると殆んど同じである︒なんだ刊m
叫町t i
︑dra‑‑AU︐drtnu且シ
1
ボルトは文誌を積本にしたのかと何よく見ると︑下に小さく日叫此町ι1uau ﹁ブシチユウ・ヤボン﹂(註ロ)と出ているD
何か出ていること前
L H L
は前から知っていたが︑まさかブンチユウが谷文苑だとは流石の
) ) J )
武藤さんも︑一ついそれまでは気がつかなかったのではなかろう付日市何' ー
か︒﹁シ
. 1 Hボルト大著日本に掲ぐる出泉松の絵は谷文地
回 く 所 の 註 註 註
雲仙岳に拠りしものなる事の立一証﹂円註日)と云う報文の生れた
次第である︒
ー ー
五
﹁古朽木﹂と則する入十頁足らずの茶色の向い本があるD
関誠堂
喜三二と一広う江戸時代の戯作者の苦いた小説示であるロ原本は安
永九年に上板ちれたそうであるが︑武藤文庫本は明治年代京京金
拍川
町発
行に
か
L
る百万塔本の一つであろう︒(註M)わたし等とうていこう云う古くさい黄表紙本の名前を知ってい
る皆はないが︑然し武路さんと臨も最初からそうと知って買った
わけではないD将来何かの参者になろうと思って買いこんだので
もなく︑況して比の小説の内容に文学的の興味を感じたからでも
ない︒山崎党次郎氏に教えられて︑ある必要上︑急いで買ったの
である口(註日)
何のためかD何のためでもない︒たY次の一行を親しく踏めて
見た
かっ
たま
でい
ふあ
る︒
リヨウがエヤ
﹁紺屋町には紺屋の数尤も多く︑両替丁に銀行あれ共瀬戸
物町にせと物屋のあるに非ず﹂(凶︺
いや︑との一行ではない︑その中の﹁銀行﹂(リヨウガエヤ)と
一云う唯との一一副そ武除さんは自分で陪かめて見たいのであった︒
思えば此の数年問︑武磁さんは血限になって比の言葉を文献上
に採し廻っていた︒一刻も頭から蹴れたことのない唯このご話の
巨体そ摘むために︑武藤さんはどれ程苦しんだかD猟れるだけの
木を猟り尽し︑書を医々旧師先輩に飛ばし︑それもまだるかしく
なると休暇そ利用して諮々東京や京都まで出かけて︑諸方の図吉
館や研究室そ訪ねて相一るのであった︒そしてそれは凡て参場しよ
うと忠ラ本の手許にないからであった︒
武一防長政教授を想う ﹁余はこの稿な草するに当り身西陸の僻地にありて参考書の一貧弱なるそ悲しむの情に堪えず︒余のへ参考し得るものは僅かに長崎高商の図書と余が所政を主とし︑外に一二学友の所蔵する両三冊を出でず︒:::その他参考せんと欲する書物少から守され共長崎に於ては如何ともする能はざる也︒﹂ E
﹁これらの害︑我長崎高商関吾郎は勿論︑県立図書館其他各学校
図書室其他私人のとれを所減するものあるを聞かず︑東京︑京都
等にありてはとれを所持する公私図書館または学者政書家等少か
らざるベし口然るに長崎に於ては事情全く異る︒有名にして珍百
しからざる伊藤長胤の﹁名物六帖﹂にして既に然り︑況んや他の
珍書に於てをや︒:::余は研究上の不便大なる余の境︑過に就て自
ら感慨なき能はず:::(註口)
主︑屡々とう云う悲痛な感懐を浪らしているのを見ても︑い︑か
に武藤さんが欲しい資料の不足に悩んだか︑またいかに懸命に追
求を続けていたかが察ぜられるのである︒
扱て︑わたしはこLで︑どう一五う理由でこの﹁銀行﹂なる言葉
を武路さんが懸命に追いつめるようになったか︑その理由そ少し
諮らねばならない口(知っている人も多いであろうが︑知らない
人も
あろ
う︺
﹁青淵先生六十年史(註回)﹂と一広う木が発行されたのは明治三
十三年であったロ青淵先生とは無論︑後年の所詣渋沢財閥の創始
者男爵渋沢栄一のととである︒その上巻銀行業第一節結論の中で
との評伝の稲斡者は次の上うに書いたロ
﹁背淵先生の名は我邦銀行誌の医史と蹴るべからず
D:
::
銀行と
云へる名称は先生が初めてパングの訳字に用いたるもの也︒支那
一一
ニ九
はなくづちシラ戸版の全集に土られたのであお。
註
(7) Thunberg , Karl l ' e t e r . ‑Resa u t i Europa , A f r i c a , Asia , f o r r a t t a d Aren
1770 ‑1779 , 4 v . , Upsala , 1788 ‑9 3 .
この出典原版は独訳、仏訳と共に武藤文庫にある口向学校の図書砲には原!況と英訳とがあるo
一 一 一 ー さ十 ( Q~ r商 笠 〉 経 治
l
箆8 年 第 2
~ì骨経 営 と 経 済
認の何洋行など一疋へるにより考付たる也
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﹂
とれで見ると︑我国で初めてパングの訳字に銀行なる名辞を与
えた者は渋沢栄一であって︑ぞれもす(那語から借用したものでな
︿1渋沢自身が考え出したものLょうである︒
果してさうであろうか︒呆して渋沢栄一が日本で初めて銀行と
云う
一一
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︒ 忽ち武一服さんは﹁疑問﹂をいだき︑持前の﹁病踊﹂を出したD
﹁されど余は生来語源に興味を感ずる病癖あり︑自ら啓戒しつL
あれど胸川中間き来る疑問を幾分なりとも解決せんとする欲望にか
られ:::﹂一云々(註四)と自ら述懐するその病癖であった︒そし
て此の病癖が遂に武践さんを馬車馬の如く駆り立て︑文献を求め
て東奔西走︑足は日本を臨れて中国にまで及んだ所の﹁銀行なる
名辞の由来に就て﹂と題する前後六年︑補遺を合せて十入回(註
幼)にも一定する長大なる考証論文を草させるに到ったのであっ
た ︒
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法学博士山崎覚次郎氏は既に逸平く明治三十入年に﹁銀行﹂な・
る器の由来について研究し︑何側めて簡単ながらそれを学界に発表
していた︒(註幻)博士は後にこれを﹁貨幣銀行問題一斑﹂なる
著書に収録したが︑その中で次の如く︑述べた︒
﹁銀行なる語の一般に用いられるに至りしは明治五年国立銀行条
例の制定せられたるに基因するものとすロ此条例は米国の法律を
模倣せるものにして﹁国立銀行﹂は﹁ナシーナル・バシグ﹂
(児帥門戸g
払 切
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の訳語に他ならず口:::斯の如く﹁国立﹂の二
字は条例起草者の醜訳に係ると躍も︑﹁銀行﹂なる語に至りては
一四
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既に存在砕いしるものそ採用したるに過ぎず︒明治三年福地源一郎氏
の訳せる﹁会社弁﹂守見るに其小引の一節に日く﹁会社とは総てだホわ 百般の商工会同結社せし者の通私にて︑:::特に銀行に限るの義明k昨
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d暫く﹁パング﹂の訳字として銀行の字に代
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用ナ﹂と口叉明治の初年には三井一組﹁パング﹂小野組寸ハング﹂剖い制 等﹁パング﹂なる需用いられたりしがブ明治コ一年二月二日の造幣﹀叩悶‑ M T O
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察首長キシドル佑入条約には﹁東京銀行﹂なる文字あり口明治四X
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竿十二月開業を出願せる東京銀行亦﹁銀行﹂なる名称を唱へり口れ引に 監リの﹁銀行﹂なる語は呆しモ何人の創治せる所なるやロ福地氏倍︒仇け
の才学そ以てするも︑氏の突出に非るは前段に述べたる四由に依とい貼も
りて明かなりとす口献て当時の辞書を検一討するに文化七年に出版すれいは
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仰 せる関和字書﹁訳鎚﹂(註沼)にはパングを﹁かわせ処トξ訳し勺沖稽ω
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刊丸
庭応二年上粋の﹁英和字奨﹂(註お)はパングを訳して﹁金銀をつで引すん
預り為替を取組む限﹂と日へりD叉鹿応三年そ以て︑世に公にせ流紙一日
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ーられたる神田孝平氏の﹁経済小学﹂には﹁民法﹂﹁商法﹂﹁同法﹂
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﹁経治学﹂等の話語あるに拘らず︑﹁銀行﹂なる文字なく︑氏は斗賀諮
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﹁金館﹂なる訳字そ以て之に充つるを見るなりD
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川 口
1年(問問応二年)脊治に於て刊行せられたる英華字血古河口弘)は﹁パM‑のは一の悶
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シグ﹂の訳語とし丈﹁銀行﹂そ第一に官会之に践ぐに﹁銀舗L﹁銀制点ベ利レ
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号﹂﹁銭舗﹂等を以てす︒想うこ此辞書は忽ち本日こ輸入せられI涼一庫パは
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は に 文 シ わ 而して学界の珍重する所となれるや疑なきを以て︑我国に於け文初際ェ
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る﹁銀行﹂なる誌は︑此害に淵源せるものと推定せざるを得ざる
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も更に一歩を進めて﹁英華字血(﹂以前に遡る時は︑実径註註
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武藤さんが﹁背削先生六十年史﹂を読んで其の記述に疑問をい
だき
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i・自ら銀行なる名称の由来に関する研究を志して先づ第一に
読んだものは︑右の山崎拙士の著述であった︒それは武藤さんの
今後の研究目標と其の方訟を決定するのに︑大いに役立ったこと
は断るまでもなかろう︒全ては山崎博士の研究が踏台であり︑﹁英
華字典以前に遡る時は其径路を知るを得ず﹂と︑山崎博士の停止
した所から武際さんは出発したのであったD
﹁支那に於ても近時は銀行と称するものなきに非れども︑革党本
邦より輸入せる新語に仙ならず﹂と山崎博士は断定したけれど︑
武路さんはそれが必ず支那に於て造語されたものに遠いあるまい
左信じ︑かくて武路さんの目標は一入六六年一有法版﹁英霊字血︿﹂
以前に遡って凡そ支那に於ける銀行なる名辞の起源と沿草︑銀行
特に﹁行﹂なるものL武義︑近世支那金融機関の組織︑制度及び
その業務の出史的変遷︑並びに吾凶に於ける銀行なる詑の沿革︑
由来等そ確実に文献主に突き尚めることであった︒
それは誠に博引労託︑話くべき脳細詳密且つ煩坑を純一むる一大
考証諭であって︑とのために武跨さんが渉猟した古今内外の資料
の数は九そ幾十種に注するであろうか︑わたしは今夏それを数え
上げるの品を避けるであろラ︒﹁身西陸の僻地にあって参考書の
金弱なるを悲しむの府に堪えず﹂と慨嘆した武政さんの骨を削る
が如き苦労と︑其担を究明せずにはおかぬ烈々たるん一河川別と校誠と
を思って︑前然としてわたしは松を疋すのであるD
前記朋誠壁一喜三二なる江戸時代の戯作家の若はす﹁古朽木﹂と
期する黄表紙本(安永九年刊)も︑そのために武路さんがわざ
武藤長政教授を想う /¥一特を与えた︑資料の一つであったロ﹁
古 朽 木
﹂ は 硲 か に
﹁ 銀 行
﹂ な る 言 葉 を 載 せ
︑ そ れ を
﹁ リ ヨ ウ ガ と け エヤ﹂と読ませていだ口若し此の金港内口市百万塔本﹁古朽木﹂の詑版一
年 一 一 述が信用すべきものであるならば︑﹁銀行﹂なる名辞は︑たとえ7
宣
︒ ノ げ デ
近 代 的 意 義 の も の と は 具 る に も せ よ
︑ 兎 に 角 お そ く と も 安 永 年 間 回 れ に は 既 に 一 般 庶 民 の 問 に 日 常 使 用 さ れ て い た と 解 釈 し て も よ い の は 刊
であった口然し︑念のため此の本の原本を所蔵する京大藤井乙男阿J
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教 授 を わ ざ ノ ヘ 京 都 に 訪 れ て 親 し く 瞥 見 し た 武 藤 さ ん は
︑ 原 本 に 叶 仇 は
﹁ 銀 行
﹂ な る 詰 は な く 尋 常 に
﹁ 両 替 屋
﹂ と な っ て い る の を 発 見 別 行
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一
し た
︒ つ ま り
﹁ 銀 行
﹂ な る 近 代 垣 間 を 用 い た の は 原 作 者 の 明 誠 堂 喜 畑 侃 三 こ で は な く
︑ 後 世 明 治 の 中 期 に そ れ を 金 港 立 百 万 塔 本 の 一 つ に
・ 州 日 収 録 す る に 当 り
︑ そ の 侃 輯 者 が 勝 手 に 施 し た 政 官 な の で あ っ た 口 問 明 けれども一方︑伊藤田氏胤の﹁名物六帖﹂(註お)には﹁金銀行﹂は︒H
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﹀0・Zとあってそれをリヨウガエヤと解説してあったD亦ζの﹁金銀行
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pb'PJ﹂または﹁金行﹂なる名称は︑支那に於ては既に倍︑宋︑或は明︑引に
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時代に一般に広く使用されていたことが明の拐偵の著﹁宮升庵集﹂U
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によって判った口既にして﹁金銀行﹂や﹁金行﹂があるめに︑ど別収山猫叶
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大正入年三月の或目︑武藤さんは長崎の古本屋ず益札て私然一1
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