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水川の年中行事 ~消えていった行事と変化していく行事~

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(1)

水川の年中行事

~消えていった行事と変化していく行事~

森脇結花

はじめに

1 代表的な年中行事とその実態 1.1 冬 (十二・一・二月)

1.2 春 (三・四・五月)

1.3 夏 (六・七・八月)

1.4 秋 (九・十・十一月)

1.5 尾呂久保の年中行事 2 楽しむ講

2.1 エビス講 2.2 山の講 2.3 庚申講 2.4 秋葉講 3 神道と仏教

3.1 水川神社 3.2 神棚 3.3 智満寺 3.4 暦

4 水川にみる信仰の多様性 4.1 当夜番

4.2 水川阿弥陀堂 4.3 愛宕地蔵 4.4 地の神

4.4.1 天神の森 4.5 しおばな 5 行事に対する意識 おわりに

参考資料・文献・HP

(2)

はじめに

当初私のテーマは「民間信仰」についてであったが、水川で直接話を聞くうちにこの地 域独特の年中行事が行われていることを知った。行事には祈りや願いが込められているこ とから、これもある種の民間信仰の形と言える。しかし、そのような仰々しいものとして ではなく、インタビューから感じた行事における人の意識を文章として残したいと思った。

消えていってしまっている行事もあるなか、この報告書を分析および記録として残せたら と思い本レポートを書きあげた。今回の調査で訪れた水川は、茶業を生業としており、ま た茶業が生活の中心となっている。詳しくは本報告書の調査地概要を参照されたい。

年中行事は、柳田民俗学の解釈としては、農事を行う日常状態をケ、仕事を休んで神を 迎え、ごちそうを食べるまつりや行事をハレととらえて、農耕生活に秩序とリズムを与え ているのが年中行事であるという

(小熊2006)

。水川でも、一番茶と二番茶の収穫期を節目に、

年中行事が織り込まれている。水川では、 5 月初めから一月ほどの茶の新芽が出る時期が一 番茶の収穫期であり、 6 月中旬あたりから二番茶の収穫期となるので、その時期を注目して みてもらいたい。

今回、年中行事を調査するにあたって、混乱したのが新暦と旧暦についてである。現在 使用されている太陽暦

(以下新暦と略す)

は、明治 6

(1873)

年以降から明治政府が国の暦として採 用したが、それ以前の太陰太陽暦

(または太陽太陰歴ともいう。以下旧歴と略す。)

は廃止されてな お旧歴と称され、人々の日常生活から離れがたいものであった

(宮2006)

。また、新暦に切り 替えられた時、旧暦の行事が新暦では合わないことは明らかだったので、その矛盾を解決 するため、行事を新暦の暦の上で一月遅れに行う「月遅れ」

(「月送り」)

という方法が考案さ れた。しかし十五夜や十三夜のような、月遅れにしても行えない行事についての矛盾は残 り、また季節の供え物が、新暦では間に合わないという問題もあった

(大島1978)

。それらの 問題からか、水川においても世帯によって行事に新暦と旧暦のどちらを使用するか分かれ ている。世帯別の年中行事については、詳しくは後記の表 1 を参照されたい。

本レポートは、基本的に鈴木貢著「水川村の来しかた」を軸として書いている。また、

年中行事の中には、宗教的な意味合いを持つものもあるので、水川における社寺について も触れておきたい。

1 代表的な年中行事とその実態

本レポートにおける年中行事は、毎年同じ暦時がくれば、同じ様式の習慣的な営みが繰 り返されるような伝承的行事を指す。それは個人が年々歳々繰り返す行事でなく、家族や 村落・民族など、集団ごとにしきたりとして共通に営まれるものであると定義する

(石井1998)

この節では、水川における年間行事の大まかな内容と流れを整理する。なお、旧暦で行 うものと新暦で定まっているものとがあるので、ここでは新暦の暦に沿って表記している。

個々の家によってその内容や行う日が多少異なるので、詳細は後記の世帯別の表 1 を参照

されたい。

(3)

1.1 冬 (十二・一・二月)

12 月の主な行事は、最終日曜日に水川神社大祓いがある。これは、古い札などを水川神 社に持って行き、神主にまとめてお祓いをしてもらったのち燃やす行事である。この時、

神社ではカタシロ

(ヒトガタ)

と天照大神のお札をそれぞれの班長に配り、班長は班の各家に 配る。昔は 31 日に行っていた行事だが、現在は人が来やすいよう最終日曜もしくは祝日に 行われている。その他の 12 月の行事については、世帯別に記した後記の表 2 を参照された い。

1 月の主な行事は、元旦に新年会がある。水川神社で行われ、拝賀式で執り行い、その後 集まった人々で話したり食べたりと宴会を行う。

7 日は七草粥を食べる行事がある。七種類の野菜を入れて粥にする。決められた野菜はな く、余ったもので作る。七草粥とは古くは中国において正月 15 日の上元

30

の日に小豆、栗 などの七種の穀物を炊いた粥といわれている。この日に大小豆粥を食べると一年中疫気を 防げるという中国の習慣を真似たものとも言われている

(重田 2009)

11 日は鏡開きの行事がある。 「開き」は「割り」の忌み詞であり、鏡餅を割って、小豆粥 に入れて食す行事である

(長沢 2009)

。水川では、餅は甘酒に入れて食している。

15 日は松送りの行事がある。組ごとに大井川に集まり、飾っておいた門松をまとめて燃 やす。現在は 15 日辺りの日曜に行われる。

1 月の行事の詳細については、世帯別にまとめた後記の表 3 を参照されたい。ただし、新 年会と七草粥はどの世帯でも共通なので省略している。

正月に飾る門松は、基本的に家々で手作りしている。基本的な飾りつけは縁起物として 松竹梅を用い、家によってはしめ縄を飾り付けている。現在では立派な竹を使って本格的 に作る家は少なく、簡略的なものが増えてきている。門松は「松」と呼称されており、親 しみ深いものだということがうかがえる。門松のように、行事で使用するものは現在でも 簡略化されることはあっても手作りしている家庭が多い。植物も庭や近隣にあるものを使 用している。

2 月の主な行事は、3 日に節分の行事がある。ヒル

(ニンニク)

の根と鰯の頭を、はなんば

(香

花) の葉で包んで枝で挟み、それを炙って「焼

やい

案山子

」を作る。それを庭や家の周りに刺す。

また、竹籠の四隅にはなんばをつけて、それを竹竿で吊るして玄関に飾る。これは鬼籠と いう名称があるが知る人は少ない。節分後の酉の日に、家から追い出した鬼を捕まえるた め、籠を竿から外し、逆さにする。

豆は自分の庭で取れた大豆をはなんばの葉を使って煎り、大声で掛声を掛けながら投げ る。その掛け声は「やいかがしがそうろう、なんむなんむそうろう、隣のばあさん白足袋

はいて

(くさいくさい)

しゃらくさいぞー!」である。

香りの強いものを飾るのは、鬼が臭いものを嫌うと一般的に言われているからであると

30

中国の暦法に基づいた三元の1 つ。 日本では盆行事と結合した中元7 月15日が盛んである(畠山

2009)。

(4)

考えられる。つまり厄除け、鬼払いの追難の意味合いを強く持つ行事といえる。

節分は世帯ごとによって差異が顕著であるので、世帯別に表にまとめた。後記の表 3 を 参照されたい。表 3 をみると、比較的若い世代では臭いものが好まれず、あまり焼案山子 やはなんばを使って豆を炒ることをやらなくなってきていることがわかる。

7 日は山の講がある。山に関わる人が山の神を祀る講である。11 月 7 日にもあり、年 2 回ある。詳しくは 2.2 山の講を参照されたい。

11 日は、阿弥陀堂の祭がある。昔は旧正月の 2 月 11 日に行っていたが、現在の建国記念 日に定めた。智満寺の住職もお参りに来て、昼過ぎから水川の部落の人もお参りする。千 回行といい、1 人 20 回般若心経を唱え、それを 10 人ずつ休みを挟みながら繰り返す。昔 は多くの人が来たが、今は減っているので千回出来ているか分からないという。ここでい う「昔」とは、恐らく現在 50、60 代の方の子供の頃なので 40~50 年前だと思われる。

また、昔は「もちなげ」と呼ばれる行事が行われていた。ついた餅を各家で持ちより、

祭の最後に餅とお供えしたみかんやお菓子を参拝した人に向かって投げた。餅は砂利の上 に落ちるが、子供は砂を払って食べる。そのうち包装された団子になり、今は投げずに札 と一緒に参拝しにきた人に配るようになっていった。お菓子を堂に供えて、終わった後に 子供たちはそのお菓子をもらえる。その時「めったし

(いただきますの意味)

」と言いながら食 べるよう言われることもあるそうだ。

近年の祭の様子では、午前中に智満寺から住職がお参りに来て、午後から部落の人がお 参りに来る。その情報は回覧版で回されており、強制ではないがご祝儀を 2000~3000 円持 ってくるため、これが堂の維持費などに使われる。近年では、子供を呼ぶため子供会でバ ーベキューをしてからお堂へ行くことも催されているという。

1.2 春 (三・四・五月)

3 月の主な行事は、17~23 日に彼岸がある。一般に、彼岸は旧暦 2 月と 8 月の、春分の 日と秋分の日の前後 3 日ずつを合わせた計 7 日間をいう。春分の日を中心とする春彼岸、

秋分の日を中心とする秋彼岸が存在する。 「彼岸」とは、迷いのこの世

(娑婆・穢土(えど))

から、

悟りの彼岸

(浄土・仏土)

へ至ることであり、寺院で法会を行う行事であったが、民間でも寺参 り、墓参りが一般化した。一般的に彼岸行事は「迎え」「祭り」「送る」の段階を示してい

(畑 2009)。

水川では、去年の 9 月~今年の 3 月の間に亡くなった方のところへ線香をあげ

にいくという。また彼岸を迎える前にみんなで相談して、同じ日に丸一日墓掃除をしに行 く。地区ごとに墓場は分けられており、空いている土地の所や病気で来られなかった人の 所も助け合ってみんなで掃除をする。また、この時期はぼたもちを作ってお供え物とする。

4 月の主な行事は、3 日にひな祭りの行事がある。前日に餅をついて 3 色の菱餅を作る。

人形は親戚などから貰い、代々受け継いでいる。昔は、古い雛人形は地の神の社に納め、

納められないときはその近くに捨てていたという

(6.4

地の神参照) 。

同日に妙理さんと呼ばれる行事も行われる。今の水川神社が移る前にあった、高智山に

(5)

ある水川神社跡へ、当夜番がお供え物を持っていく。そこでも氏神を祀っている。

5 月は、一番茶の収穫期のため、忙しくなるため行事は行われない。全国的には 5 日に端 午の節句があるが、次の月にずらされている。それに伴い他の行事も一カ月ごとにずらさ れているが、これは他の農耕地域にも見られるもので、農耕と行事を両立させるためのも のだと思われる。

1.3 夏 (六・七・八月)

6 月の主な行事は、 5 日にこどもの日の行事がある。この時期に上げられるこいのぼりは、

今は化学繊維で作られているが、昔は布や木綿だったため、雨にさらされないように毎日 上げ下げして大変だったという。こいのぼりは早い所だと 4 月下旬から飾り始め、裏節句

(6

16

日) まで飾っておく。この時期各家では柏餅

(写真1

参照) を作るが、水川では朴の葉を使 って餅を包む。朴の葉のほうが持ちがよいと言われているが、最大の理由は水川には柏の 木が少ないためである。

菖蒲とヨモギの束を 2 束作って、玄関の屋根の両脇に飾る。昔は杉皮の屋根だったので、

杉皮の間に束を挟んでいた。その後、風呂に束を入れて入浴する。この菖蒲とヨモギは庭 で育てている家がほとんどであり、菖蒲は匂いが強いため花が咲かないものを育てている という。

現在は国の祝日として「こどもの日」と名付けられているが、元は端午の節句である。

端午の節句とは、中国で 5月は悪月とされるため、 5 日にヨモギで作った人形を門戸にかけ、

薬草を摘み、あるいは菖蒲酒を飲むなどして邪気を払う行事であった。それが日本に伝わ り、鎌倉時代あたりには邪気を払う菖蒲を庶民の家の屋根にも葺くなど端午の行事として 定着していったという

(西村 2009)

16 日は裏節句の行事がある。この日にも柏餅を作る。こいのぼりを上げている家は、こ の日に下げる。

写真 1 柏餅

7 月の主な行事は、 15 日にたい流しの行事がある。旧 6 月 16 日の祇園祭の日に元は行わ れていた。班ごとに大井川の河原に集まり、筏

いかだ

を作りその上に藁のせて火をつけ川に流す。

昔は麦を各家で栽培していたので、とっておいた麦藁を使用していた。「たい」は班ごとに

形や作り方が異なり、藁をそのまま山盛りに乗せるところもあれば、平谷のたい流しのよ

(6)

うに藁を円の形に編んで松明をつけるところもあった。若い男衆が裸になって川の中央ま で「たい」を引っ張っていく。この行事は「虫流し」が始まりであり、作物の害虫を払う ための意味合いがあった。文化財の申請をしなかったため、大井川を汚すという理由から 廃止されてしまい、現在は行われていない。

23 日に阿弥陀堂の祭り

(地蔵尊)

がある。昔、日にちをずらしたら水難事故が起こったので、

この日は変えないようになった。行事内容は 2 月とほぼ同じだが、こちらは夕方からお参 りを始める。昔は茹でた米粉団子を作って各家で持ちより、2 月と同様に「もちなげ」を行 っていた。この時期は、二番茶が終わる時期で農休みを兼ねているので、行事は夜に行い、

その次の日が休みになる。

8 月の主な行事は、7 日に七夕の行事がある。竹に願い事を書いた短冊などを吊るして飾 る。飾った竹は後日、案山子の代わりとして畑にさされる。

13~16 日に盆がある。期間中に毎日夕方に、玄関の前で松の根を石や皿の上で燃やす。

松の根なのは、油がしみ込んでいて長く良く燃えるからである。13~15 日のものを「迎え 火」、16 日のものを「送り火」という。

里芋の葉の上に、キュウリの馬とナスの牛、角切りの茄子、洗った生米、ススキの茎で 作った杖と箸を模したものを置く。馬と牛は小豆の目、南天の葉の耳、トウモロコシの髭 の尻尾、ヘタを嘴に見立てている。ススキの茎を 4 本足としてさし、背にも同じように 4 本さして生の素麺をのせる。馬と牛であるのは、ご先祖様が馬で速く帰ってきて、牛でゆ っくり帰るためである。これらは仏壇に飾られ、盆が終わったら、みんなで集まれる日を 相談して集まり、大井川で流木などと一緒に燃やす。ナスの牛だけを作る家も少なくはな く、その場合新盆の時はご先祖様の分と新しい仏の分とで 2 体作るという。これは曹洞宗 で定められている盆棚

(精霊棚)

というものを略式にしたものではないかと考えられる。

もともと盆とは、先祖の霊をあの世から迎え、生者とともに祀る魂祭

(たままつり)

を中心と した 7 月 15 日前後の一連の行事である。それが、水川では茶業の関係により 1 カ月遅れで 行われている。盆は、一説には古く神霊への供物を盛る器の名に由来するとされるが、一 般的には盂蘭盆会の略をされている。盆の食べ物の多くが畑作の収穫物によって占められ ていることも特徴で、盆が畑作儀礼に位置していることを示している。

(倉石 2009)

1.4 秋 (九・十・十一月)

9 月の主な行事は、20~26 日に彼岸がある。今年の 3 月から 9 月までに亡くなった方の 所まで線香をあげにいく。墓の掃除など 3 月の彼岸と同じである。こちらは、おはぎを作 ってお供え物とする。

21 日に敬老の日の行事がある。集会場で 75 歳以上の人を祝う。昔は町規模で行っていた

が、今は町から補助が出て地区ごとに行っている。昔は 70 歳以上の人が対象だったが、最

近では 80 歳でもいいのではないか、という声もある。この行事は、戦後の落ち着いた時期

から始まったと思われる。参加するのは招かれた老人、区の人、女性の会

(婦人会)

の人々で

(7)

ある。

10 月の主な行事は、十五夜と十三夜に月見の行事がある。十五夜か十三夜のどちらかし かやらない片月見はよくないとされ、片方忘れたら両方やらないようにといわれていた。

団子はあまり丸いと月が嫉妬するので楕円形にするともいわれている。しかし、後記の世 帯別の詳細を書いた表 5 からは、そのようないわれも消えていっているのがうかがえる。

第二日曜に水川神社の祭がある。神事を行ってから、水川の人々で余興のような催しも のを行う。酒やおしるこを出して、堂の前で宴会をする。子供神輿、くじ引き、輪投げな どの催しもある。

20 日にエビス講がある。恵比寿・大黒天の神を祀る講である。詳しくは 2.1 エビス講を 参照されたい。

暦で干支の「亥」の日に「亥の日」の行事を行う。いのこもちを作り、恵比寿の神棚に 供える。いのこもちとは、里芋とサツマイモの屑を練って、トウモロコシの粉を混ぜ、き なこをまぶしたものである。これは、この時期が里芋の収穫期だからであり、収穫した時 に採れた屑を使用しており、食べ物を無駄にしない心が見て取れる。形は親として大きな ものを一つ作り、その周りを囲むように子として小さいものを作って供える。漢字は異な るが、猪子が子孫繁栄の象徴であるからではないだろうかと考えられる。

神無月に行うのは、エビス講同様に他の神がいない間に恵比寿を祀り、御利益を授けて もらうためである。他の神が帰って来たときに恵比寿が「何を貰ったか」と聞かれて、け ちな恵比寿はエビス講でたくさんの供え物を貰ったにもかかわらず「いのこもちを一つだ け」もしくは「何も貰っていない」と答えるという笑い話がある。

元来いのこもち

(亥子餅)

とは、 10 月亥日に餅を食すと万病が除かれるという中国の俗信を、

平安時代に朝廷の年中行事に取り入れたものといわれている。鎌倉時代までには亥の日ご とに行うようになっていたが、室町時代以降は 10 月亥日に将軍・御台から近しい臣下へ餅 を下賜する行事となった。江戸時代に民間に広まってからは旧暦餅を食し、贈る行事とな

った

(松園2009)

。このいのこもちが水川に伝わってエビス信仰と結合したのだろう。餅では

ないのは、米粉が大変貴重だったためとも考えられる。

11 月の主な行事は、1 日に 竈

かまど

の神の行事がある。昔はどの家にも竈があり、その上に竈 の神を祀った小さな神棚があった。重箱におはぎをたくさん詰めて風呂敷で包み、その上 に菊の花を添えた。これは竈の神だけでなく出雲へ出発する全ての神のための弁当である。

重箱は釜の上に置いた。

7 日に山の講がある。2 月 7 日にもあり、年 2 回行われる。

1.5 尾呂久保の年中行事

尾呂久保地区は水川地区から近い 8 世帯からなる部落である。水川と同じく茶農業を生

業としており、詳しくは本報告書の調査地概要を参照されたい。今回インタビューした方

は、尾呂久保に移り住んでから 42 年になる 69 歳の女性の方である。ここでも個人差があ

(8)

るので一概にはいえないが、水川との比較対象として特に水川と異なる大まかな内容をあ げておく。水川とほぼ同じ内容の行事の詳細は省略している。

12 月の主な行事は、 25 日辺りに大祓いがある。神主の都合によって日にちは前後するが、

古い札などを白羽神社に持って行き、神主にまとめてお祓いをしてもらったのち燃やす。

その時札と紙を貰うが、札

(写真2

参照) は神棚に仕舞い、紙

(写真3

参照) はヒトガタのように使 い、その後沢に流す。

1 月の主な行事は、7 日に七草粥を食べる。

2 月の主な行事は、 3 日に節分がある。鬼籠は籠に柊とビンカ

(葉)

をつけ、竹竿で吊るす。

焼案山子、豆まきを行う。

7 日は山の講とオンベ送りがある。山の講では白羽神社へ行き、饅頭を家の数だけ供え、

酒を家に回す。昔、オンベ送りは 8 日に行われていたが、人が減ってからは山の講と一緒 に行われるようになったという。オンベとは御幣のことで、御幣にヒル

(にんにく)

1 本と米を くくりつけ、神社の近くに一家で 1 本挿す。豊作を祈願する行事である。

23 日にはまた地蔵講が行われる。子供を守る神を祀っている。個人的には寿司や団子を 供え、班長がお神酒を1升用意する。

3 月の主な行事は、17 日~23 日に彼岸がある。

4 月の主な行事は、3 日にひな祭りの行事がある。

5 月の主な行事は、水川と同じく一番茶の収穫期のため、忙しくなるため行事は行われな い。

6 月の主な行事は、5 日にこどもの日の行事がある。

8 月の主な行事は、7 日に七夕の行事、13 日~16 日に盆がある。

9 月の主な行事は、20 日~26 日に彼岸がある。

10 月の主な行事は十五夜と十三夜に月見の行事がある。20 日にエビス講があり、大根 2 本と生魚

(鯛)

、御膳を恵比寿と大黒天の神棚に供える。

11 月の主な行事は 1 日に竈の神の行事がある。今は行っていないが、昔は蕎麦を供えて いた。おそらく竈が無くなってから消えていった行事だと考えられる。 7 日に山の講を行う。

27 日に白羽神社の祭がある。

尾呂久保も水川と同じく一カ月遅れで行事が行われている。ここでの大きな違いは、尾

呂久保全体の氏神として祀られているのが白羽神社であることだろう。また、世帯数が少

ないため全体で行う行事が多くみられる。

(9)

写真 2 注連縄につける紙と札 写真 3 水川でいうヒトガタの役割をもつ

2 楽しむ講

講とは宗教・信仰、経済などの目的で寄り集まった人々によって組織される結社集団で ある。人々の豊かな信仰生活や互助の精神を育むとともに社交・娯楽の場としても機能し

ている

(谷口 1998)

。水川にはエビス講、山の講、庚申講、秋葉講といった 4 つの講が存在し

ている。

2.1 エビス講

初めて私がこの神棚を見た時、恵比寿と大黒天という全く性質も系統も異なる神が一緒 に祀られているのは面白いと思った。大黒天は仏教とともに日本に伝えられたインドの神 であり、食厨を守る神とされている。一方、恵比寿は日本由来の神であり、もとは大漁を もたらす漁神である。この恵比寿と大黒天が共に祀られるようになったのは恐らく室町時 代中頃であり、これは多くの福神の諸徳を得たいという思想から生じたとされる。恵比寿 と大黒が中核をなす七福神も、同じ思想から生じたものである。「エビス」とは遠い異郷を 表わす語義を持ち、遠方の力の強い外来の神の意味である。伝わった当初は漁神の機能を 持っていたが、陸上に進出してきてから商家の商売繁盛の神になり、農村では豊穣の神に 変化した。大黒天は、中国文化の伝来に応じて日本的に変化した神であり、主に財運や豊 穣の神であるといわれている

(喜田

宮田 1990) 。

もとは旧歴 10 月 20 日に行われていた、恵比寿・大黒天をお祀りする講である。この旧

歴の 10 月は「神無月」と呼ばれ、その字の通り全国の神々がこの年の男女の縁を話し合う

ために出雲大社に集まるので家から神がいなくなる月である。しかし、恵比寿・大黒天は

外来の神のため出雲には行かないので、他の神様が留守のうちにお祀りして、御利益を授

けてもらおうという思想からの行事である。これに関連した行事として、亥の日や竈の神

(2.4

参照) がある。

(10)

恵比寿・大黒天の神棚の前に祭壇を設け、大根、山盛りの膳、尾頭付きの魚、酒などを お供えする。膳を山盛りにするのは恵比寿が欲深いからであるといわれている。お供えし たあとは、特に子供のいる家庭ではあみだくじをし、お供え物を家族で分け合う習慣もあ る。

2.2 山の講

鈴木氏によると、この山の講はおそらく江戸時代から始まったとされる。山の講は水川 では 11 月 7 日と 2 月 7 日の年 2 回ある。

この講は山の所有者、山仕事に関わっている人が行う。昔この日に山に入って亡くなっ た人がたくさんいるため、この日は山に入ってはいけないと言われている。酔って事故に 遭うという説もある。休みの少ない山仕事の人のための休日をいう説もあるが、山仕事が 出来ない代わりに家で畑仕事をしていたというのでこの説には疑問が残る。

山の神としての信仰対象として、大きな榊の木や杉の木が祀られている。昔は山の事故 で死んだ人を山の神として祀ったこともあったという。山の神のところまで行けない時は、

庭の適当な木で代用して、その木にお神酒を入れた「おみきすず」という竹筒を藁で2つ つなげた物を吊るし、藁で包んだ米粉団子を供えた。その後家に集まり、山の神の掛け軸 を掛け、宴会を催したという。

水川の部落内でもいくつかの地区ごとに分かれており、ある講では昔は 13 軒で行ってい たが、5,6 軒に減り、さらに減っていったため 5,6 年前にやらなくなったという。山の講 をやらなくなってきたのは、山仕事が無くなってきたためでもある。一時期は栄えていた 林業が衰退していったことで山に関わる人が減っていったのだ。林業に関しては、本報告 書の林田を参照されたい。

ある講では、今は大阪から疎開で水川に移ってきて住んでいた蒔絵師の人が描いた掛け 軸を使っているが、その前の掛け軸は伊勢の二見神社で買ってきたものだったらしい。今 は山の神として女の人が描かれているが、昔の掛け軸

(写真4

参照) には男の人と狼が2匹描か れていた。これは、畏怖されるものを祀ることは全国的によくあることで、狼が害を与え るものとして畏怖されていたため山の神と祀られていたのだろう。山の神が女の人となっ た経緯は謎である。正式な山の神として定められている存在はいない。

2.3 庚申講

庚申講に入っている人は、庚申の日に家に集まり道祖神の掛け軸を祭神として掛け、供 物をしてその前に座って拝むが、集まった人数によって拝む回数は異なる。それぞれの講 によってやり方や行う日にちは異なるが、やり方の一つとして記録されているものでは、

一同立ち上がり、両手を合わせて唱え、拝礼し、また立ち上がって同じことを 100 回以上

繰り返すという。水川では、庚申さんは豊作の神といわれている。女性は参加できず、男

性だけで行われていた。現在は、参加している家も減り、掛け軸を講に入っている家々で

(11)

回すだけになっているようだ。

庚申信仰の礼拝対象は様々であり、 「庚申縁起」に示された諸仏が対象となっている。水 川で信仰対象とされている掛け軸には、月日・三猿・二鶏付きの青面金剛が描かれている もの

(写真5

参照) や、剣を持った不動明王のものが存在している。全国的に庚申の日は不浄を 嫌い、女人講の庚申も存在する一方、女性の参加を禁止するところもある

(榎本 2001)

。水川 はその一例である。

写真 4 山神の掛け軸 写真 5 庚申さんの掛け軸

2.4 秋葉講

秋葉信仰は、近代以降全国に普及していった民間信仰である。秋葉寺の本寺は静岡県袋 井市にある宗洞宗寺院である可睡斎である。明治の神仏分離政策により大打撃を受けたた め、資料が失われ、内容は不鮮明だとされているが、貞享 2

(1685)

年の貞享秋葉祭以後、流 行神として全国各地に広まって常夜灯

(秋葉燈籠)

が作られた。そして伊勢参りに付随するよ うに秋葉参りが盛んとなり、秋葉道が開けていった。秋葉信仰の基盤は、山岳地帯におけ る火の信仰であり、焼畑農耕と結びついた火の信仰が、遠州で発展していた修験道と、越 後からもたらされた秋葉信仰と結合して発展したという。秋葉山への参詣が活発化してか ら、東海道の脇海道として、また信州と遠州を結ぶ流通路として秋葉街道が発達した

(田村 1998)

水川においては大正時代以前については記録が残っていないためはっきりとしないが、

水川では街道端に 4 か所くらい「秋葉燈籠」を設置し、夜は講中の人々が交代でろうそく

(そ

れ以前は油) をつけて秋葉の神を祀っていた。大正 13 年に水川に初めて電灯がつくようにな

った。その後電灯会社で増灯を進めるようになり、この秋葉燈籠も電柱に裸電球をつけて

(12)

代わりとするようになっていった。燈籠の明かりは油→ろうそく→電気と変化していった ようで、そこから時代の流れが読み取れる。昭和の初め頃にこの秋葉講は八十八夜に行わ れるようになっていき、この夜は地域の人々が外に出て秋葉燈籠の前で集まる。屋根もな にもないが、不思議なことに、ここ数十年は八十八夜に雨が降っていないという。

現在行っているのは部落を 4 つの班に分けた内 1 班だけである。昔は秋葉燈籠があった が、現在は撤去されており水川に現存しているのは水川阿弥陀堂にある 2 つだけである。

しかしその燈籠は使用されておらず、電柱に付けられた電灯を代わりにしている。

明りの下大人は酒を飲み、子供は菓子を食べた。昔はお菓子が貴重だったため、鈴木氏 の子供頃はキャラメル1つだったがそれが楽しみだったという。班長は茶を用意する。班 で 14、5 人が参加しており、当番制になっている。講で行うこともあるが、個人的に信仰 しているところもあり、6 月 3 日には新茶を献上しに秋葉神社へ行く人もいる。

3 神道と仏教

神道は近現代の若干の教派を除けば教祖を持たない自然発生的な信仰であり、日本民族 の神観念にもとづいた民族宗教である。神観念は基本的に多神的で、神に対する祈り・ま つり・修行・社会活動などの実践を伴う。確立した教義は持たず、基本的な価値体系や思 惟形式・行動様式の形で日本人の生活に深く絡み合っている

(平井 2001)

。水川における仏教 とは、智満寺を中心としているので曹当洞宗の教えをもとに実践されている。

3.1 水川神社

鈴木氏によると記録に残る限りでは、この社は永正 12

(1515)

年 12 月 19 日に創建した。

当時、水川より分家した後の中村藤五郎家の初代、中村甚右衛門尉安久が、当時水川で疫 病や火災が多かったため、村人の安泰を願って、現在の周智郡春野町の「春退山太白坊大 権現」

(大光寺 718

年創建) より、「大梵天帝釈天」、 「四天王」を奉じて、高知山に「梵天帝釈

大天王」

(神仏混合の神)

を祀ったのだという。しかし、延享 2 年 11 月 1 日、この社があまり

に高いところにあるため、参拝が困難なので近いところに移すことにした。伝説では、高 知山の社より太鼓を転がしてその止まったところに現在の社が建てられたと言われている。

またこの時、社名を「帝釈社」と改め、神社としての認識がはっきりするようになった。

明治元

(1868)

年に「神仏分離令」

(神仏判然令)

が政府から出され、水川の帝釈社は神社とし

て届け出て、 明治 7

(1874)

年 6 月 23 日に、水川にある 14 の社と併合した。さらに明治 12

(1879)

年 10 月 1 日に、「帝釈社」を「水川神社」と改称され、祭神は「スサノオノミコト」と定 められた。

平成 21

(2009)

年現在、水川の 84 世帯がこの水川神社に参加している。神主は神社省によ

って決められているが、神主が神社へ訪れるのは行事のときだけである。観光化されたも のではなく、地元に根差したものなので、祭以外にお参りに来る人はほとんどいない。

この水川神社で行われている行事は、 12 月末の大祓い、元旦の新年会、10 月の第二日曜

(13)

の水川神社祭典である。行事に参加する 95 パーセントは水川に住む人で、残りの 5 パーセ ントも水川所縁のある人々である。中でも 10 月の祭は 200 人程度が参加しており、このあ たりの地域ではとても参加人数が多いと言われている。

伊勢神宮への参拝もあり、氏神信仰だけでなく、天皇信仰もある。近年では伊勢神宮の 建て替えへの寄付も行った。しかし、終戦時に天皇は神ではなく人間であるという宣言が なされてから、天皇信仰への信仰心は減少しているといわれている。近年では愛国心を持 ち、同じ神を信仰することによって結束力を強め、意志統一を図る目的のため、神社で国 旗を配り、旗日

31

を行うよう働きかけている。部落の約 80 パーセントの人が実行している という。

3.2 神棚

昔の神棚は神仏混合だったが、ここでも明治の神仏分離政策が大きく関わっていると考 えられる。水川ではほとんどの家に 2つの神棚がある。 1つは氏神や天照大神を祀った神棚、

もう 1 つは恵比寿・大黒天を祀った神棚である。

中央に天照大神、右に氏神、左にいろいろな神社のお札が納められているのが基本的な 神棚である。恵比寿・大黒天を祀った神棚は、台所の近くにあることが多い。

他にも、昔はどの家にも竈の上に竈の神様を祀った小さな神棚もあったそうだが、現在 はほとんどの家が竈を持っていないためなくなっている。けれども、元神棚を設置してい た場所や台所に竈の神様のお札を張っている家もある。昔は玄関のすぐ近くに大きな竈が あり、その上に小さな神棚があった。この竈は料理に使うわけではないのでなぜあったの か謎である。一説では、昔は囲炉裏のカギの数で税をかけていたから、戸の近くに竈を作 ってカギがないことを見せ、税から逃れるためといわれているが、最も有力な説はカマ煎 りの茶を作るための竈であるといわれている。大正時代には豆を煮て味噌を作っていたと いう。

3.3 智満寺

今から 1000 余年前の平安時代に草創され千手観音菩薩像を御本尊とし、山号を千葉山と 云い、寺号を智満寺と称した。一説には、島田市の智満寺の末寺として奥大井に天台教学 の拠点として開かれたとの口伝があるという。その後、延徳 3

(1491)

年に駿河国・洞慶院よ り回夫慶文禅師を迎え曹洞宗に改宗開山された。

町の中心地の山裾に 5000 坪の境内を有し、樹木に囲まれた静寂な環境の中に七堂伽藍を 備えている。延享 2

(1745)

年の大火により焼失したが、第十三世一音法牛禅師により伽藍が 再建され、以降に増改築をかさね今日に至っている。

境内の奥へ進むと、川根大仏

(写真6

参照) という総丈 6.5 メートル、総重量 150 トンの石像 の大仏がある。全ての平和を願い、人権尊重・環境保護を念じて、西暦 2000 年に建立され

31

国民の祝日に国旗を家の前にあげる日のこと。

(14)

た。

(智満寺公式HP 2009 8

月)

この智満寺は信仰の対象としてだけではなく、訪れる人々の交流の場にもなっている。

また檀家は 2000 世帯くらいで、旧中川根のなかでは一番大きな寺である。

写真 6 川根大仏 3.4 暦

意識する人と意識しない人とがいるが、意識している人は干支や六曜を見るという。特 に言われているのは、仏滅では使い初めや見舞いはしてはいけないということだ。また丑 の日は、昔は仏滅と同じくらい嫌われる日だった。いまでも丑の日に餅はついてはいけな いという。丑の日は火を使ってはいけないとも言われていて、茶工場でも火を使うので作 業はじめは行われない。他には、さんぽうの日は、高い所に登るのはよくないといわれて いる。土の日は、木が水を吸うので切っていけないなど、このように縁起のいい日、悪い 日を見る占いのようなものである。

4 水川にみる信仰の多様性

水川において独特なものだと思うもの、または分類できないが取り上げておきたいもの を考察し、まとめた。

4.1 当夜番

水川阿弥陀堂の祭など部落全体で行う祭事を取り仕切るのが当夜番と言われている。水 川は 8 つの班に分けられており、その班が 2 つずつ組んで 4 組に分けられるようになって

いる。1 班は 20~30 軒くらいである。1 年ごとに回ってきて、7、8 人が担当する。1 年の

区切りは 7 月の水川阿弥陀堂の祭であり、次の班に引き継がれていく。

4.2 水川阿弥陀堂

水川観音堂ともいう。創建は天文 5

(1535)

年といわれ、当時は香王観音を祀った観音堂で

あったと思われるが、記録がないため詳細は不明である。天保 5

(1834)

年の江戸大火の時に

(15)

火災に遭い、倉庫に焼き残った仏像を中村藤五郎が譲り受けて祀った。この阿弥陀如来を 本尊として、以後この水川観音堂を「阿弥陀堂」というようになった。同時期に、准胝観 音を 9 両で購入して祀っており、先に祀ってある香王観音と共に三体の仏像が祀られてい る。

外観は外装の木彫りの彫刻もさることながら、阿弥陀堂で目を見張るのはその室内の天 井絵と壁絵である。この天井絵、壁絵は村松以弘の晩年の作と言われている。この村松以 弘とは、安永元

(1772)

年に掛川十九首に生まれ、江戸へ出て谷文晃、渡辺華山に学び、南画 で江戸画檀の中軸として活躍していた絵師である。後期には掛川藩太田候のお抱え絵師と なり、天保 10

(1839)

年に没している。この天井絵は大変貴重なものであるが、残念ながら剥 落が激しい状態となっている。しかし、修復には莫大な費用がかかるため今のところ修復 はされていない。阿弥陀堂の屋根は、茅葺→瓦→銅版と変化していった。瓦は昭和 31

(1956)

年に入ってから替えたのだが、普通の瓦を無理して置いたため、急な傾斜で瓦が落ち、重 さで堂が傾いてしまっていた。ワイヤーで釣るなどの措置がなされたが、その次の修繕で 軽くて丈夫な銅版にかえた。堂の修繕は時間と資金がかかるため、とりかかるまでに 7 年 かかり、修繕自体は 3 年かかったという。

その昔この阿弥陀堂には、宝が置いてあったが、戦時中に危ないので智満寺に移したと いう。記録から真実であることは確かだが、宝の内容は不明である。堂の中には仏像だけ でなく、水難から守ってくれる地蔵が納められている。地蔵は外に飾るべきものだと智満 寺のほうからも言われているが、昔から堂の中にあったのでそのままということになった という。本来地蔵は人が見えるところに置くものである。この地蔵は、いつからあったの かは謎であり、120、130 年以上前くらいからあるのではないかと言われている。

阿弥陀堂の扉は、昔は開けっ放しにしていたが、盗難と浮浪者の滞在防止のために現在 では鍵がかけられている。天井絵の保存などのためを考えると、換気をよくするため開放 するほうがよいとされているが、複雑な所だ。写真 7、写真 8 は阿弥陀堂の外観である。

写真 7 阿弥陀堂遠影 写真 8 阿弥陀堂近影

(16)

4.3 愛宕地蔵

愛宕とは本来火の神・防火の神であるが、それが転じてか水川では子供を水難から守る 神様だといわれている。この神様のおかげで水難事故に遭った人はいなくなったという。

子供が溺れた時、地蔵が留めてくれると言い伝えられていて、昔水川よりも上流の村か ら溺れて流された人がよく阿弥陀堂の前辺りの堤防に引っ掛かって発見されるのはこの神 様のおかげだといわれていた。現在は近くの民家が管理しており、詳細については本報告 書の加藤を参照されたい。写真 9 は愛宕地蔵の外観である。

写真 9 愛宕地蔵

4.4 地

の神

昔は家の敷地内だけでなく、外にも地の神があったが今はない。昔はどの家にもあった ものだというが、残っている家と残っていない家がある。家を建てる時に神主にお祓いを してもらう地神祭のときに使用した護幣を地の神の社にしまうという。他にもいらない札 や古いひな人形を納めていた。札やひな人形を収められる作りの社には中にしまうが、な い所は大きな石や榊の木を地の神としていてその下あたりに捨て置いた。どんな場所に設 置するかについて決まりは特にないが、北や丑寅の方角

(鬼門)

は嫌っていたという。

元来水川では氏神信仰が強く、恐らくこの地の神も氏神信仰の一つだと思われる。柳田 國男によれば、現在「うじがみ」と呼ばれるものには村氏神・屋敷氏神・一門氏神の三種 に分けられるとされている。ここで注目したいのは村氏神と屋敷氏神である。村氏神は中 世以降に普遍的となった、一定の地域間に住む者が氏子

32

としてその祭りに奉仕するもので ある。屋敷氏神は、同族結合が緩んだ結果、個別に守り神を祀るに至ったもので、屋敷の 一隅に祠を設けるなどして祀る一軒だけの守り神であり、比較的新しいものである。これ らから、水川における昔の地の神の体系は村氏神であり、現在残っている地の神は屋敷氏

32

氏神の祭りを行う地域的祭祀集団。氏は本来血族のことであり、氏神はそれら血縁集団・同族集団を結

合守護する神であったが、氏が次第に地域的性格を併せ持つにあたり、氏神も地縁集団の神として変化し

ていった(山本 2001)。

(17)

神に分類できる。

氏神の呼称については、南関東から西日本にかけて地神

(ジシン)

・チジン・地主様などが あるが、他にも稲荷・八幡・熊野・天神などの名で呼ぶことも珍しくない

(山本 2001)

写真 10 は、インタビューした方の庭の一角に建てられた地の神の祠である。近年建てか えられたものだという。

写真 10 地の神 写真 11 天神の森

4.4.1 天神の森

これは水川のある家においてのみの特有の神であり、敷地内に「天神の森」と呼んでい る杉の木と竹林がある。社が 2 つあり、根が 5 つに分かれている杉が本社で、もうひとつ 立派な松を祀っている。学問の神とも言われていて、テスト前に拝むといい点が取れたと いう。

現在も、この天神の森を管理している家人は毎日拝んでいるという。昔は氏神として他 の家の人も拝みに来ていたが、氏神の信仰対象として山の上にあった水川神社が通いやす い所に移ったので天神の森を信仰しているのは基本的に一軒だけである。昔、 7 晩続いた大 地震のときに天神の森で味噌を嘗めながら籠って難を逃れたことや、台風の時に天神の森 に入るとそこだけ不思議と安全だったことや、川の水が浸水して来たときも天神の森に祈 ったら助かった

(水が引いた)

という逸話がある。今はないが昔は小さい石を積んで作った石垣 があり、不思議と台風などの時も崩れなかったという話もある。正月に門松、餅、酒など を供える。

4.5 しおばな

潮花もしくは塩花と書くと思われるが、訛って「しょうばな」とも言われている。2 つ穴

のあいた竹筒に大井川の水と塩を入れて、片方の穴に笹を割いたものを指し込んで部屋な

どを清めるために水を撒く。家によってしおばなをする日は異なるが、現在は竹筒の代わ

りに瓶を使用した簡略化したものを使用する家も多い。現在では年末や大祓いの後などに

行う家が多い。昔は毎日行っていた家もあったという。

(18)

使用する水は大井川の水だけでなく、山の出水を使っていた家もあり、とくに決まりは ない。恐らく山に近いか、川に近いかの差ではないだろうか。

5 行事に対する意識

元来行事とは、娯楽の少ない時代に子供を喜ばすことがメインだったようで、特にお菓 子が貴重だった時代は、お供えしたものを子供に配ったりと、必ず行事の話には子供が絡 んでくる。インタビューからの話でも、子供の頃の行事の印象として楽しかったという意 見が多かった。中でも「

(子供ながらに)

昔は信仰心を持ち、神のようなものを感じることが楽 しかった」という言葉が印象的だった。

また、庚申さんや山の神の掛け軸から見られるように、信仰する神の形にこだわりは無 いような印象を受けた。形よりも心を大切にしているのだろう。神の形だけでなく年中行 事にも厳密に定められた形はないので、近所の人と話しているうちに行事の話になり、「他 の家でやっているからやる」といった感覚のようだ。

おわりに

冒頭であげたように、茶業だけでなく日常生活と密接に関係して年中行事は成り立って いるといえる。鈴木氏によると、年中行事のような風習は外から嫁いだ人などの影響で変 化しているという。昔の風習は周智郡の方からの影響、東からの影響と、水川土着のもの と3つに分けられると考えられている。だが今は家ごとに差があり、その実状はよく分か っていない。家々で行われる年中行事は、口伝や見よう見まねの記憶によって伝えられる ので変化するのは否めない。村全体としても明治の神仏分離令と神道国教化政策の影響に より、古代からの神仏混合的な宗教の在り方が大きく変わってしまい、そのせいで失われ てしまっている記録が多数あるのが惜しまれる。

日常の変化とは、秋葉講で見られる明りの変化や家の構造の変化

(竈、杉皮の屋根)

、林業の 衰退などによるものが大きな変化を及ぼしている。それは行事の形式だけでなく、日程に も影響している。けれども、変わらないものもある。ダム建設も水川全体における大きな 変化の一つだが、ダムの建設により大井川の水量が減少して水難がなくなっても、水難か ら守ってくれる地蔵に対する信仰心は今もある。

つまり、行いやすいように行事が変化し、消えていくものもあるが、その精神は消える ことはない。信仰心が薄れていっていると言われている現代、信仰心とまではいかなくと も、大切にしたいという気持ちはこれからも受け継がれていくだろう。

本報告書は、実際のインタビュー内容と、文献による行事の歴史を照らし合わせて自分

なりに考察し制作した。しかし、年中行事の正確な記録はなく、思い出していただいた内

容に頼ることになり、考察も推測の域を出ないことが残念だ。けれども、時代が変化して

いくように人の生活も行事も日々変化していくことは必然であり、日常生活に根付いたこ

れらの年間行事はこれからも変化し、消えていくものもあるだろう。

(19)

形式にとらわれず、先祖や神仏、日々の生活で与えられる自然の恵みなどに感謝して行 うことこそが正しい行事であり、楽しんでやることに意義があるのだと直接現地の人々の 話を聞き思うことができた。

謝辞

今回の 1 週間の調査において水川、於呂久保の皆様には大変お世話になりました。調査 に来ているのにこんなに楽しくていいのかと思えるほどで、人の優しさがとても身にしみ た 1 週間になりました。 私の拙い質問や突然の訪問にも丁寧に応じてくださったことには、

感謝しても感謝しきれない思いです。また、「ウッドハウスおろくぼ」の皆様、おいしい食 事と素敵な思い出をありがとうございました。

参考文献 大島建彦他

1978『講座日本の民俗 6 年中行事』 有精堂

大島建彦他

2001『日本の神仏の辞典』 大修館書店 佐々木宏幹他

1998『日本民族宗教辞典』 東京堂 鈴木貢

2006『水川村の来しかた』

田村貞雄他

1998『秋葉講』 雄山閣 宮田登

2006『暮らしと年中行事』 吉川弘文館 山田邦明他

2009『年中行事辞典』 吉川弘文館

参考 HP 智満寺公式 HP

http://www.chimanji.jp/chimanji.html

(20)

表 1 世帯別の年中行事

A(86)

女性

B(70)

女性

C(50

代) 夫婦

D(83)

女性

E(61)

女性

F(58)

女性

G(61)

女性

1

月 元旦 新年会 新年会 新年会 新年会 新年会 新年会 新年会

2

日 仕事はじめ

5

日 ごかんにち

7

日 七草粥 七草粥 七草粥

松送り

七草粥 七草粥 七草粥 七草粥

10

日 鏡開き

11

日 鏡開き 鏡開き

蔵開き

鏡開き

14

日 松下げ

15

日 もち 小正月 もち

松送り

もち 小正月

2

3

日 節分 節分 節分 節分 節分 節分 節分

7

日 山の講 山の講 山の講

11

日 阿弥陀堂の 祭

阿弥陀堂の 祭

阿弥陀堂の 祭

阿弥陀堂の 祭

阿弥陀堂の 祭

阿弥陀堂の 祭

阿弥陀堂の 祭 お薬師さん

3

17~23

彼岸 彼岸 彼岸 彼岸 彼岸 彼岸 彼岸

4

3

日 雛祭り 雛祭り 雛祭り 雛祭り 雛祭り 雛祭り 雛祭り

妙理さん 妙理さん 妙理さん 妙理さん

八 十 八 夜

秋葉講

6

5

日 子供の日 子供の日 子供の日 子供の日 子供の日 子供の日 子供の日

16

日 裏節句 裏節句 裏節句 裏節句 裏節句 裏節句 裏節句

7

23

日 阿弥陀堂の 祭

阿弥陀堂の 祭

阿弥陀堂の 祭

阿弥陀堂の 祭

阿弥陀堂の 祭

阿弥陀堂の 祭

阿弥陀堂の 祭

8

7

日 七夕 七夕 七夕 七夕 七夕 七夕 七夕

13~16

盆 盆 盆 盆 盆 盆 盆

9

20~26

彼岸 彼岸 彼岸 彼岸 彼岸 彼岸 彼岸

21

日 敬老の日 敬老の日 敬老の日 敬老の日

(21)

10

月 十五夜 月見 月見 月見 月見 月見 月見 月見

15

日 水川神社の

水川神社の 祭

水川神社の 祭

水川神社の 祭

水川神社の 祭

水川神社の 祭

水川神社の 祭

十三夜 月見 月見 月見 月見 月見 月見

20

日 エビス講* エビス講* エビス講 エビス講 エビス講* エビス講* エビス講*

11

1

日 竈の神 窯の神

**

竈の神 竈の神**

かまんだん の祭

竈の神 竈の神

亥 亥の日 亥の日 亥の日 亥の日 亥の日 亥の日

7

日 山の講 山の講 山の講

12

月 最 終 日 曜

水川神社大 祓い

水川神社大 祓い

水川神社大 祓い

水川神社大 祓い

水川神社大 祓い

水川神社大 祓い

水川神社大 祓い これはインタビューにもとづいて記したものであり、現在も行われているものだけであ る。また塗りつぶされている行は、地区全体で行われている行事である。

*旧暦の 10 月 20 日に行われている。

**旧暦の 10 月 1 日に行われている

***旧暦の 11 月 11 日に行われている。

(22)

表 2 世帯別の 12 月の行事について

A 31

日:ヒトガタを身体や服に払うようにかざし、1 日に川に流す。流しに行く時、後ろを振り向い てはいけないと言われている。

B 31

日:しおばなで各部屋を清める。

C 26

日~:大掃除。

28

日~:餅つき。

29

日くらいから門松を作る。

30

日:お節作り。

月末に榊を、玄関、部屋、神棚の順に外から飾る。これを「飾り込む」といい、福を家の中に呼び 込む意味がある。飾りを外す時は、穢れを外に追い出すため逆の順で外していく。

D 28

日~:餅つき。昔はたくさん作り、鏡餅だけでなく普段にも食べられるように、栗餅、ヨモギ餅、

米粉餅、きびもち、モロコシ餅などいろいろな味を作っていた。鏡餅は仏壇や神棚、水神(水場の 神様) 、物置の神様、竈の神様など様々な神様と門松の所にも供える。現在は餅をつかないので、角 餅を供えている。

E 26

日~:大掃除

31

日:しおばなで部屋と家族を清める。

ヒトガタを身体や服に払うようにかざし、河原の適当なところに納める(風で飛ばされないよう石 の下などに置いてくる) 。

F

ヒトガタで払ったりせず、そのまま神棚に納める。

G

ヒトガタを身体や服に払うようにかざし、南天の木の根の下に置いておく。松下げの時に一緒にも

っていき、燃やす。

(23)

表 3 世帯別の 1 月の行事について

A 10

日: 「鏡開き」

15

日: 「もち」門松を下げるかわりに、おこわ(赤飯のこと)や餅を供える。

B 14

日: 「松下げ」飾っていた門松を下げる。みんなで集まれる日を相談して、 「松下げ」から出 来るだけ早く「松送り」をする。 「松送り」のときに門松と一緒にお札を燃やすこともある。

C 7

日: 「松送り」

11

日: 「鏡開き」餅を甘酒に入れて食べる。

D 11

日: 「鏡開き」 「蔵開き」鏡餅を甘酒やおしるこに入れて、それを仏壇や神棚、一か所にまと めて置いた農具の所に供える。

15

日:これを「小正月」ともいう。 「松送り」この時、神棚などに飾った門松を下げること「松 上げ」という。

E 2

日: 「仕事はじめ」梅などの実のなる木に向かって「なるか、ならないか」 「なります、なりま す」と言いながらナタでキズをつけて、そのキズの上に粥をのせる。恐らく、虫退治の意味を持 つ行事だと思われる。

15

日: 「鏡開き」この行事は何故か「もち」と呼ばれていた。 「松送り」この前日に門松を下げ ることを「松下げ」という。

F 15

日: 「松送り」この前日に門松を下げることを「松下げ」という。

G 5

日: 「ごかんにち」門松や神棚などに乾麺の蕎麦を供える。

15

日: 「もち」「松送り」この前日に門松を下げることを「松下げ」という。

(24)

表 4 世帯別の節分について

A

はなんばを神棚、仏壇、畑、玄関などの入口に飾って、酉の日に外す。ヒルと小さい魚をはなん ばで挟んで囲炉裏で炙って焼案山子を作る。それを雨戸や蔵の前に立て掛けた。そのうち囲炉裏 からストーブに変化していったが、現在は匂いがするため行っておらず、豆をまく程度である。

鬼籠は、竹籠にはなんばを飾って竹竿で吊るし、一週間の間飾っておく。

B

「節分(せつぶ) 」と呼ぶ人もいるという。ヒルの葉とメザシをはなんばの葉で挟んだもので焼案 山子を作る。それを玄関などにさす。鬼籠は、竹籠の四隅に柊、はなんば、ビンカを付けた。

C

ヒルと鰯の頭(生臭ければいい)をはなんばの葉で挟み、それをはなんばの枝で挟んで焼案山子 を作る。それを例の文句(上記参照)を言いながら庭の鬼門と玄関にさす。鬼籠は、竹籠の周り をはなんばで飾り竹竿で吊るしたものを玄関に飾った。豆を香り付けのためはなんばの葉を箸の ように使って煎り、神棚に供えてから「福は内、鬼は外」と言いながら豆をまく。お菓子が無か った時代は、裕福な家が子供たちを集めて豆をまいてもらい、その代わりにお菓子を子供たちに 配っていたという。

D

ヒルの根と鰯の頭をはなんばの葉で包んで枝で挟み、焼案山子を作る。それを囲炉裏で炙って飾 った後、食べた。今はないが、メザシを食べる習慣があった。鬼籠は竹籠の四隅にはなんばをつ けた。

はなんばで豆を炒る。鬼籠ははなんばをつける。

E

F

既成の豆を使用。余った豆は半紙に包んで神棚に飾り、節分以降初めて雷が鳴った時に食べる。

これは雷=鬼からきていると考えられる。鬼籠ははなんばをつける。

既成の豆を使用。鬼籠ははなんばをつける。

G

表 5 世帯別の月見について 十五夜と十三夜どちらも行う。

A

B

十五夜では生の野菜と御白団子、ススキと榊を供える。十三夜では野菜を煮ものにし、団子を茹で、

榊を供える。野菜は家の畑で採れたイモや豆など。

C

十五夜に庭で採れた野菜を供える。先代が存命の頃は十三夜も行っていたが、現在は十五夜しか行 わない。団子は小麦粉だけで作った御白餅。

D

十五夜では生の野菜と団子、十三夜では煮た野菜と茹でた団子を供える。どちらもススキと榊も供 える。

南天の葉の上に米粉団子をのせる。どちらもススキを供える。

E

自分の畑で採れた野菜を供える。

F

G

使った豆の殻を取っておいて、4 月に初めて茶を焚く時に殻を燃やして焚く。

表 1  世帯別の年中行事     A(86)  女性  B(70) 女性  C(50 代) 夫婦  D(83) 女性  E(61) 女性  F(58) 女性  G(61) 女性  1 月  元旦  新年会  新年会  新年会  新年会  新年会  新年会  新年会  2 日  仕事はじめ    5 日  ごかんにち 7 日  七草粥  七草粥  七草粥  松送り  七草粥  七草粥  七草粥  七草粥  10 日  鏡開き  11 日  鏡開き  鏡開き  蔵開き  鏡開き  14 日  松下げ  15
表 2  世帯別の 12 月の行事について  A  31 日:ヒトガタを身体や服に払うようにかざし、1 日に川に流す。流しに行く時、後ろを振り向い てはいけないと言われている。  B  31 日:しおばなで各部屋を清める。  C  26 日~:大掃除。  28 日~:餅つき。  29 日くらいから門松を作る。  30 日:お節作り。  月末に榊を、玄関、部屋、神棚の順に外から飾る。これを「飾り込む」といい、福を家の中に呼び 込む意味がある。飾りを外す時は、穢れを外に追い出すため逆の順で外していく。  D
表 3  世帯別の 1 月の行事について  A  10 日: 「鏡開き」  15 日: 「もち」門松を下げるかわりに、おこわ(赤飯のこと)や餅を供える。  B  14 日: 「松下げ」飾っていた門松を下げる。みんなで集まれる日を相談して、 「松下げ」から出 来るだけ早く「松送り」をする。 「松送り」のときに門松と一緒にお札を燃やすこともある。  C  7 日: 「松送り」  11 日: 「鏡開き」餅を甘酒に入れて食べる。  D  11 日: 「鏡開き」 「蔵開き」鏡餅を甘酒やおしるこに入れて、それを仏壇や神
表 4  世帯別の節分について  A  はなんばを神棚、仏壇、畑、玄関などの入口に飾って、酉の日に外す。ヒルと小さい魚をはなん ばで挟んで囲炉裏で炙って焼案山子を作る。それを雨戸や蔵の前に立て掛けた。そのうち囲炉裏 からストーブに変化していったが、現在は匂いがするため行っておらず、豆をまく程度である。 鬼籠は、竹籠にはなんばを飾って竹竿で吊るし、一週間の間飾っておく。  B  「節分(せつぶ) 」と呼ぶ人もいるという。ヒルの葉とメザシをはなんばの葉で挟んだもので焼案 山子を作る。それを玄関などにさす。鬼籠は

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