ある若年被爆者の軌跡
はじ めに
一︑
被爆
まで
二︑
被爆
体験
三︑
﹁枯
島田
市・
鯵捧
験﹂
小掌 生時 代 中学 生時 代 高校 生時 代 蹴 職 結婚
おわ
りに
迎
洋子さんの場合
山下
出産
被爆体験について
姉( 七子 さん ) 妹( 久美 子さ ん)
現在の生活
重
はじ めに
﹁戦 争の 世紀
﹂と 呼ほ れ立 平世 紀で は︑ より 破壊 力の ある 兵器 を他 の国 に先 んじ て開 発・ 製造 する こと が︑ 国際 関係 にお いて 力の 源泉 とな って いた
︒そ のよ う・ な状 況の 結果 とし て生 み出 され たの が稼 兵器 であ る︒ その 意味 で二 十 世紀 は﹁ 核の 時代
﹂で もあ った
︒ 一九 四五 年︑ 広島 と長 崎に 原子 爆弾 が投 下さ れ︑ 人類 は﹁ 核﹂ の威 力の 凄ま じさ を知 った
︒そ の後 も核 兵器 を国 際 関係 にお ける 力の 源某 とす る傾 向は 続き
︑ア メリ カ︑ ソ浦
q fギ リス
︑フ ラン ス︑ 中国 など が核 開発 を進 めた
︒核 保
有H
大国 (﹁ 核大 国( ニュ ーク リア
・パ
l ) ワ
﹂) とな った ので ある
︒二 十世 紀が
﹁戦 争の 世紀
﹂と 呼ば れる と同 時に
﹁核 時代 (ア トミ ック
・エ イジ
︑ニ ュー クリ ア・ エイ ジ)
﹂と 呼ば れる 所以 であ る︒
第二審厚大戦捷大国が核開発を進める中︑日本は﹃日本国憲法﹄で不戦︑平和を誓でた︒被爆国として核兵
器の 開発 保持 に反 対を 訴え 続げ たが
︑皮 肉に も米 ソ冷 戦中
︑日 本の 安全 はア メリ カの 核軍 事カ によ って 保障 され て いた ので ある
︒ 戦後 四十 年以 上続 いた 冷戦 の終 駕は 米ソ の安 全保 障の ため の軍 落
L歯止めをかけえその後米ソ以外の核保有国も
軍縮 の動 きを 見せ
︑﹁ 核時 代﹂ は二 +世 紀と とも に終 着す るも のと 考え られ た︒ しか し︑ 二十 一世 紀に 入る やい なや
︑
﹁核 時代
﹂の 存続 をに おわ せる 出来 事が 次々 と起 きた
︒具 体的 に言 えば
︑二
OO
一年 九月 十一 日の アメ リカ での 同時 多発 テロ
︑二
OO
三年 の北 朝鮮 核開 発問 題イ ラク の大 量破 壊兵 器問 題な どで ある
︒現 在ア メリ カと イラ クは 緊張 状 態に あり
︑戦 争の 足音 が日 に日 に近 つい てい る︒ この よう な時 代で ある から こそ
︑核 兵器 が人 間に 何を もた らす のか とい うこ とを 改め て再 認識 しな けれ ばな らな い︒ 一九 四五 年八 月九 日に 原子 爆弾 を投 下さ れた 長崎 には 現在 も原 爆の 後遺 症に 苦し む多 くの 被爆 者が いる
︒そ こで
︑著
者は 被爆
‑者 本人 から 直接 話を 聞く こと で原 堤か 人間 にど のよ うな 影響 を及 ぼす のか を実 証的 に考 委で きる と考 える
︒ これ まで の原 爆に 関す る研 究に おい て︑ 広島
・長 崎に 盤卜 され た原 子爆 弾の 破壊 力や 被害 の規 模︑ 人間 に誌 はし た 外傷 的な 被害 とい った もの は明 らか にさ れて いる
︒ま た︑ 被爆 者本 人が 講演 など によ り︑ それ ぞれ の被 爆体 験( 八月 九日 の状 週を 語る 機会 も多 い︒ しか し︑ 原爆 に関 する 研究 や被 爆者 の体 襲警 は︑
﹁被 爆体 験﹂ に焦 占郁 あて られ
︑ その 前後 のこ とに つい ての 言及 は十 分と は言 えな い︒ (注 1 ) 原堤 か人 々に 何を もた らす のか を明 らか にす るた めに は︑ 被爆 費か 被璽 則に どの よう な生 活を おく つて いた か︑ そし て被 爆し
︑戦 後を どの よう に生 き抜 いて きた のか とい うこ と房 横証 しな けれ ばな らな いと 考え る︒ 墾衰 の﹁ 被爆 体験
﹂だ けで はな く︑
﹁被 爆・ 前体 験﹂
・﹁ 被爆
・後 体験
﹂を 含む いわ ば事 務の
﹁被 爆体 験﹂ を理 解し なけ れば なら ない ので ある
︒
さらに︑塑在被爆者自身が記した書物あるいは研究霊泉多薮ある︒しかし︑その多くは被爆筏何らかのかた
ちで 国に 対し て運 動を 行な って いる 人々 のも のが 多く
︑戦 負運 動に 加わ るこ とは なか った
︑い わゆ る﹁ 普通 の﹂ 被 爆者 によ って 述べ られ てい るも のは 少な い︒ 以上 のよ うな 現状 を警 芝︑ 著者 は︑ 被爆 者の 本当 の姿 を捉 える ため に は︑ 大多 薮の
﹁普 通の
﹂被 爆者 の歩 みを 見て いく 必要 があ ると 考え るの であ る︒ そこ で本 稿で は︑ 五歳 で被 爆し
︑現 在長 崎県 長与 町に 住ん でお られ る謝 罪圭
dん(一九三九年ょにインタビュー を行 い︑
﹁被 爆品 目︑
﹁被 爆﹂
︑﹁ 被爆 後﹂ それ ぞれ の体 験を 聞き
︑迎 さん の︿ 生活 患と いう かた ちで 構盛
9る ︒
思﹁
︑﹁ 一︑ 被壁 広で
﹂に おい ては
︑事
Cん
やか 生ま れて か
A議
厳守 るま でを
︑﹁ 二︑ 被爆 体験
﹂に おい ては
︑被 女の 文字 通り の被 爆体 験を
︑﹁ 一二
︑被 爆後 体験
﹂に おい ては
︑被 爆じ てか ら現 在ま での 歩み につ いて 述べ る︒
注
‑被爆者の﹁被爆・後体験﹂にまで言及されているものとして石田忠氏の﹃郎官の生活喜(未 来社
・一 九七 一二 年)
﹃続 反原 字会 話被 爆者 の生 活喜 (未 来社
・一 九七 四年 )が 挙庁 られ る︒
一︑
被爆
まで
ここ では
︑五 歳の 時に 長崎 で被 爆し た迎 (旧 姓本 村) 洋子 さん への イン タビ ュー (注 1 ) をも とに
︑彼 方ヘ か被 爆す るま での 生活 史を 構成 する
︒ 抑律 子さ んは 父・ 栄三 郎( 当時 四十 八事
︑母
・ワ カ( 当時 四十 一患 の六 女と して
︑一 九一 二九 年( 昭和 一四 年) 十 一月 十五 日に 現在 の長 崎市 湖町 で生 まれ た︒ 上に は姉 か五 人︑ 兄が 二人
︑下 には 妹が 二人 おり
︑十 人兄 姉妹 の八 番目 であ った
︒ 生ま れた とこ ろは 工場 と住 居が 混在 して いる 住宅 地で あっ た︒ 地理 的に は平 地で
︑周 りに は病 院や 学校
‑火 葬場 な どが あっ た︒ 父・ 栄三 郎は 一八 九二 年( 明治 二十 五年 )に 生ま れ︑ 小営 生の ころ に両 親を 亡く して いる
︒そ れで 彼は 三菱 の職 工 学校 に通 い︑ 三菱 の職 工に なっ た︒ それ から ハン マー ひと つで 仕事 に励 み︑ 自分 の鉄 工所
︑﹁ 本村 鉄工 所﹂ を持 つよ う にな った
︒そ して 鉄工 所の 横に 家を 建て
︑家 庭を 築い たの であ る︒ 鉄工 所で は二
︑三
O人の醤責が働いており︑造
船の 下請 けと して
︑船 の部 品を つく って いた
︒そ のた め︑ 車
dん
は小 さい ころ 毎日 工場 から
﹁ト ント ン︑ トン トン
﹂ と音 がし てい たと いう 記憶 があ る︒ 父は 子ど もた ちに 厳し く︑ 上の 姉や 兄た ちに は厳 格た った が︑ 翠
Cん
は下 のほ うの 子ど もと いう こと で比 較的 甘や かさ れて いた
︒ま た︑ 父は 町内 会長 もや って おり
︑家 廃た けで なく
︑地 域で も中 心的 な存 在で あっ た︒
塑d
んの 家は 先祖 代々 カト リッ クを 信仰 して いた
︒そ のた め︑ 迎さ んは 幼少 のこ ろか ら浦 上天 主堂 (注 2 ) まで 約
四十 分か けて 歩い て通 って いた
︒迎 さん は教 会で のお しえ に何 の疑 問通 くこ とな く︑ 純粋 にお しえ を守 り︑ 受け 入 れた
︒ま た︑ 憧れ から 自分 もシ スタ ーに なり たい と思 って いた
︒理
dん
は小 さい ころ に両 親か ら比 較的 甘や かさ れ︑ しつ けら れる とい うこ とが あま りな かっ たた め︑ 教会 での おし えが 彼女 の自 我形 成に 大き く関 わっ た︒
塑d
んは 五歳 とい う若 年で 終戦 を堪 える が︑ 大き な出 来事 につ いて は戦 時中 の記 憶も ある
︒
二︑描指房俸験
一九 四五 年( 昭塑 干年 )八 月九 日︑ 連
dん
の家 の二 階で は︑ 事
dん
より も十 一歳 上の 姉・ 節子 さん (当 時士 ハ患 が風 邪の ため 寝て おり
︑姉 の友 人が 二人 お見 舞い にき てい た︒ 理
Cんよ盟議上の姉・七子さん(当時七草と迎さ ん本 人( 当時 五車
︑二 歳下 の妹 久美 子さ ん( 当時 三車
︑三 歳に なる 長女 智恵 子さ ん( 昭和 二十 年七 月死 去) の子 ど もの 四人 登一 階に おり
︑風 邪で 寝て いる 節主
dん
を取 り囲 むよ うに して 座っ てい た︒ 小さ い子 ども たち がい ると いう こと で︑ 見舞 いに きて いた 節子 さん の友 人二 人も 一緒 に﹁ 先生 ごっ こ﹂ をし て車 んで いた
︒事
dん
たち は節 子さ んの 友人 の一 人に
﹁あ なた たち
︑歌 をう たい なさ い﹂ と言 われ
︑
tS 9は 七歳 の姉 七子 さん
︑そ して 迎さ んが 歌っ た︒ 一二 歳 の妹
・久 美子 さん は﹁ 私は ど主 声だ から 歌い きら ん﹂ と言 った ので 次に 長女 の子 が﹁ 七つ の子
﹂を 歌い はじ めた
︒そ して 長女 の子 が歌 い終 わっ たと 同時 にピ
lカ
ツと 光り
︑す ごい 音が なっ た︒ 壬平 一時 二分
︑ア メリ カに よっ て原 子 爆弾 が撃 卜さ れた ので ある
︒迎 さん の家 は爆 心地 から 一︑ 四キ ロ離 れた とこ ろに あっ た︒ (注 3 )
事d
んは ピカ
i
ッと 光っ た瞬 間う つ伏 せに なっ た︒ 理
dん
は右 膝の 上を 火模 した
︒そ の日 はワ ンピ ース 房着 てい た が︑ それ は想 えて ボロ ボロ にな った
︒円 し場 所に いた にも かか わ忌 す︑ 歌を うた って いた 長女 の子 は原 爆で 飛ば され
︑ すぐ 亡く なっ た︒ お見 舞い に来 てい た姉 の友 人二 人は けが です んだ が︑ 風邪 で寝 てい た節 子さ んは ガラ スの 破片 を正 面か らあ びて ひど いけ がで 九月 一日 に亡 くな った
︒七 歳の 姉・ 七子 さん は崩 れた 家の 下警
﹄に なっ てい て近 所の 人が 助け よう とす るが
︑な かな か体 が抜 けな かっ た︒ 近所 のへ か﹁ 片輪 にな って もい いの か?
﹂と 聞く と︑
﹁片 輸に なっ て もい いか ら引 っぱ りだ して くれ
!﹂ と父 が言 った ので
︑無 理や り体 を引 っぱ って 出さ れた
︒そ のた めひ どい けが だっ
た︒ 迎さ んの 隣に ど媒 の久 美子 さん はひ たい に傷 を負 った
︒ 空が ピカ
Iッ
と光 った 筏二 階建 ての 家が 一瞬 で潰 れて しま った ので ある
︒迎 さん はし ばら くし て起 きあ がる と﹁ 痛
いl
︑痛
lい
﹂と いう 声が 聞こ え︑ どっ しよ うか とウ ロウ ロし てい ると ころ に鉄 工所 から 父が 来て 事
dん
存薩 へお ろ した
︒そ して
︑一 階の 八畳 の聞 にい た姉 の清 子さ んが 梁の 下敷 きに なっ てい たの を助 けた
︒ 原爆 が落 とさ れる 時︑ 父は 鉄工 所の 中に いた
︒ピ
カl
ッと 光っ た瞬 間鉄 工所 の中 から 外を 見る と︑ 真赤 な原 子塞 が 見え た︒ 次の 瞬間
lガ
ッと い主
9ご
い音 と事 れに 襲わ れた
︒そ して 家が 心配 です ぐに 駆け つけ てい る︒ 中学 生た った 兄の 保さ ん( 当時 十四 事は 昼寝 をす るた め︑ 押入 れの 中に 入っ てい た︒ それ で助 かっ てい る︒ 母は 家の 外で 被爆 し たた め︑ 四日 後の 八月 十三 日に 亡く なっ た︒ 被爆 した 後‑ 母と 節子 さん は稲 佐小 学校 で治 療を 受け てい たが
︑そ のま まそ こで 亡く なっ た︒ 七子 さん はけ がが ひ どく
︑稲 佐小 学校 から 大村 の国 辻病 院に うつ され た︒ そこ で七 子さ んは
﹁私 の体 がこ んな にな って しま った
︒歩 けな い︒ 私の 体を こん なに した アメ リカ 人疹 蓮れ て来 い! 殺し てや る!
﹂と 言っ て騒 いだ
︒他 の家 族も 小学 校に いて 治療 を受 けて いる とい う状 態で あっ た︒ この よう に︑ 理
dん
の家 族は 全員 話爆 し︑ 寝込 んで いた ため
︑被 爆後
︑迎 さん と 妹の 久美 子さ んは 近所 のお ばさ んに 連抗 られ て病 院の 防空 壕へ 氷高 の治 療を 受け に行 って いた
︒八 月士 ニ司 防容 瑳 ヘ治 療を 受け に行 く途 中︑ 母の 死体 が相 巣‑ にの せら れて 焼か れに 行っ てい た︒ そこ で﹁ お母 さん にお 別れ しな さい
︒﹂ と一 育わ れ︑ 手森 広
Pわ
せて 心の 中で
﹁さ よな ら﹂ と言 った
︒あ とは おば さん に連 れら れて 母が 焼が れる のを 振り 返り 振 り返 りし なが ら行 った
︒死 体が たく さん あっ たた め︑ それ を担 架で 運ん で寝 台の 鉄の 枠戸 ほし かな いも のの 上に のせ
︑