1
香港上海銀行の対日戦略
戦前期を中心として
立 脇 和 夫
目 旧 くはじめに>
1 香港上海銀行の設立 1 幕末維新期の対日戦略 皿 明治中期の戦略転換 IV 新通商条約実施後の対日戦略 V 戦後期の支店網再編 くむすび〉
〈はじめに〉
今日,金融の自由化・国際化時代を迎えて,外国の金融機関の日本進出は極めて盛んであ る。その結果,1987年6月末現在外国銀行79行が支店115か店,現地法人(信託銀行)9行 の
を設立しており,このほかに129の駐在員事務所が開設されている。
これら在日外国銀行中,日本進出の歴史が最も古いのは香港上海銀行(1866年横浜支店 ラ 開設)であり,それに次いで古いのがチャータード・バンク(1880年横浜支店開設),であ
る。とくに,香港上海銀行は,幕末開港(1859年=安政6年)後最初に日本へ進出したセ のントラル・バンク・オブ・ウエスターン・インディア(1863年横漂支店開設) に遅れるこ とわずか3年であり,以来121年の長きにわたって在日支店を維持している(但し,第2次
(第1表) 幕末維新期に日本へ進出した外国銀行
銀 行 名 銀行設立 横浜支店開設
Central Bank of Western India 1861年 1863年3月 Char七erd Mercantile Bank of India,:London&China 1853 1863 4 Commercial Bank of India 1845 ユ863 9 Oriental Bank Corporation 1842 1864 8
Bank of H:indusもan, China and Japan, L七d. 1862 1865 2 Hongkong&Shanghai Banking Company,:Ltd. 1865 1866 5 Comptoir d Escompte de Paris 1848 1867 9
Deuもsche Bank A.G. 1870 1872 5
(注)銀行名は日本進出時のものである。
(出典)立脇和夫『在日外国銀行史』日本経済評論社,1987年
世界大戦中は中断)。このため,同行の対日活動には,注目すべき事跡が少なくない。
本稿は,このように長年月にわたって在日支店を維持してきた香港上海銀行の対日経営戦 略を,同行が横浜に代理店を設けた1865年(慶応元年)から第2次大戦を経て今日に至る まで,体系的に考察しようとするものである。
1 香港上海銀行の設立
香港上海銀行は,1865年1月、P&0汽船会社(Peninsular and Oriental Steam Navi−
9・多i・nC・mpany)のサザーランド(Th・m・・S・七herland)やゲント商会(D・nt&C・mp・・y)
4)のコムリー(:F.Chomley)などイギリス領植民地香港所在の有力英商が中心となって香港 で設立されたイギリス系銀行(払込資本金250万ドル)である。当時香港には,すでにイギ のリス系植民地銀行8行が支店を開設していたが,香港に本店を置く銀行は皆無であり,地 元の期待は大きかった。
同行は,設立当初,Hongkong and Shanghai Banking Company,:Limitedと称し,法人 組織ではなかった。設立後,香港総督を通じて本国政府へ勅許状(Royal Charter)の下付 または法人組織法(Act of Incorporation)に基づく貸入化を申請したが,本国政府は植民 の地条例(Colonial Ordinance)による法人化を決定した。そのため,同行には勅許状こそ授 与されなかったものの,香港上海銀行条例には銀行券発行権限の付与,株主の倍額責任など が含まれており,勅許状とほぼ同等の扱いを受けている。同条例により同行は法人組織に改 めるとともに,1867年1月12日,商号をHollgkong and Shanghai Banking Corporation のと改称した。
H 幕末維新期の対日戦略
香港上海銀行の対日戦略は当初から積極的であった。同行は,1865年3月に香港本店と の
上海支店で同時に開業しだが,その翌月早くも神奈川(横浜)に代理店(委嘱先はマクファ ーソン商会=Macpherson&Marsha11)を開設した。次いで1866年5月目慶応2年4月)
横浜支店(当初Agency,後にBranchに変更)を開設するとともに,長崎に代理店(委嘱 の先はグラバー商会=Glover&Co.)を開設,68年(明治元年)には開港直後の兵庫(神戸)
にも代理店(委嘱先はアドリアン商会一Adrian&Co.)を開設した。そして1870年5月
(明治3年4月)に神戸代理店を支店に昇格させ,1872年(明治5年)初には大阪にも支店 を開設した。さらに,1886年(明治19年)函館代理店(委嘱先はへ著ソン商会=Henson
&Co.)を開設し,1892年(明治25年)1月には長崎代理店を支店に昇格させた。
この結果,条約改正(1899年)前に香港上海銀行が日本に開設した支店数は4か店(外地 を除く),代理店は5か店(支店昇格分を含む)にのぼり,当時日本へ進出していた外国銀行
香港上海銀行の対日戦略
(第2表) 19世紀後半の香港上海銀行首脳及び在日東回・代理店
3
頭 取 横 浜 支 店 神戸支店長 大阪支店長 長崎支店長 函館代理店
年
(Chlef Mana騨) 支店長 次 席 (代理店) (代理店) (代理店)
1865 V.K㎜r (M&M)
66 〃 R.Brett
67 〃 J.Gゴgor W.Gibson (G1・・雌C・.)
68 〃 〃 G.M。ody (A面an&C・.) ( 〃 )
69 〃 ノノ 〃 ( 〃 ) ( 〃 )
70 〃 〃 〃 H.Sm{th (Ad㎡an&Co.)
71 J.G㎎ig T.Jackson J.G. Hod卿n E.J. Ha㎡s ( 〃 )
72 〃 〃 〃 〃 E.J. Pepe1聡 (VD.&C・.)
73 〃 〃 〃 〃 (Fi曲&Co.) ( 〃 )
74 ノノ 〃 W.H. Hard〔碧 」.Walter ( 〃 ) ( 〃 )
75 〃 W.H. Iiar且〔s 」.Walt(誓 J.J. Winton ( 〃 ) ( 〃 )
76 T.Jad盤on John Wa正むer A。H.C. Haselwood A.M. Tow鯉nd ( 〃 ) (R.Hoユme)
77 〃 A.L. Tumor 〃 J.Mordson ( 〃 )
78 〃 A.W, Tow鯉nd 〃 〃 (T,Rob曲n)
79 〃 〃 〃 〃 (K.H◎1me)
80 〃 John Walter 〃 J.M. Ghgor ( 〃 )
81 〃 〃 〃 〃 (J.M.&Co.)
82 〃 ノノ J.F, Broadbent A.H.C. Iia総lwood ( 〃 )
83 〃 E.Mor憾 〃 J.F. Broadbent ( 〃 )
84 〃 〃 〃 〃 ( 〃 )
85 〃 〃 E.H. Oxlay A.H.C, Haselwood ( 〃 ).
86 〃 〃 A.H. Dam J.F. Bエoadbent ( 〃 ) (Hens。n&Co.)
87 〃 〃 〃 〃 ( 〃 ) ( 〃 )
88 〃 〃 〃 R。H. Cook (Bro、㎜e&Co.) ( 〃 )
89 G.E. NQble 〃 〃 〃 (. 〃 ) ( 〃 )
go T.Jackson H,M. Bcvis 〃 〃 ( 〃 ) ( 〃 )
91 F.De Bovis ノノ 〃 〃 ( 〃 ) ( 〃 )
92 〃 〃 R.H. Cook A.D. Mactavish A.B. Ande鳳)n ( 〃 )
93 T.Jackson D.Jackson 〃 〃 〃 ( 〃 )
94 ノ1 〃 〃 〃 〃 ( 〃 )
95 〃 〃 〃 G.T. How 〃 ( 〃 )
96 〃 H.M. Bevis J,C. Nicholson A.D. Mactavish T.S. Baker
97 〃 〃 〃 R.H. Cook 〃
98 〃 〃 〃 〃 〃
99 〃 D.Jackson 〃 〃 J.MacL〔an
(注) カッコ内は代理店を示し,M&MはMacpherson&Marshall, V.D.&Co,はVan Delden&Co., JM &Co.はJardine Mathes。n&Co.の略である。
(出典)各種ディレクトリー及び丁加Bα漉 πg/1伽απαc各年版。
のなかで最多であった。これに続くのはオリエンタル・バンク(Oriental Bank Corporation,
ユの
1864年横浜支店開設) の3支店・3代理店であった。しかも,香港上海銀行の神戸・長崎 両支店はそれぞれの開港場における最初の外国銀行であり,同行の積極戦略を反映したもの
といえる。
、
(1)横浜支店(Japan Agency)の開設
ユの
1866年5月未曽有の大恐慌(オーバーレンド・ガー二・一恐慌)がロンドンを.襲い,その影 響が横浜へも波及していた頃,香港上海銀行は横浜支店を開設した。前年5月に開設した代 理店を支店に昇格させたのである(当初はJapan Agency,1869年3月以降Yokohama
ユ ラ
Branch)。当時,香港上海銀行の払込資本金 は300万ドルで,支店はロンドンのほか,東 洋各地に9か店(上海,福州,寧波,ジンガ
ポール,マニラ,バンコッ久カノセカッタ1 .13)
ボンづイ)が開設されていた。
香港上海銀行百年史協4YFOOκGは横 浜支店(Y6kohama Branch)の開設が1866 年5月であったと記しており,また,同勢参 考資料(タイプ版)も同行が1865年5月に
横浜のマク.ファーソン商会に代理店を委嘱し,
翌1866年5月,横浜支店を開設して,前チャ ータード・マーカンタイル・バンク.(Chartered Mercantile Bank of India, London&Chi脇 エの
1863年横浜支店開設)横浜支店長ブレット
(R.Brett)を支店長に任命した,と記して
ユ う
いる。
ユの なお,横浜の英字新聞跣θ」⑳αη丁伽θ8.
紙上,1866年1月〜6月中に香港上海銀行;横 浜支店の開店広告は見当らないが,銃θDαみ
」⑳απ1琵rαZd 1866年10月1日号に掲載さ れたHongkong and Shanghai Banking Com−
pany,
香港上海銀行横浜支店の営業広告
.BムNKING・
nollgkong &Shangllai BankingCompa1i∫Llmited c・P肌35,0uo,ooo2 1 P川D u・,33・ceo・ooo・
17εα4q〃rc8−HONGKONG.
COURT OF DLR£CTORS.
CK∬ヨx那_】i王6買.」0ヨX DE}τT, ESQ.,(」髭ε澱鳳〜弛ヲg σo.;
D罵町TY C日』E∬一WOLDkXA君NISSEN,E3q. rM姻. S伽επご6α」
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Fi ερ廊πbl闘8,
No.・62,}1ε」…n S壷1=go門L
.}▽望5 ;t「
(出典)、餓θDα z:yJ伽αん砒rα認 1866年 10月1日
Limi七ed, Japan Agencyの営業広告の出稿日付及び同店が発行した洋銀券(図版参照)
の発行日付はともに1866年7月2日となっており,7月には本格的に業務を展開していた ことを示唆している。
(2)神戸支店(Hiogo Agency)の開設
安政5カ≦国条約に基づく兵庫の開港は,1868年1月1日(慶応3年12月7日),神奈川
(横浜)より8年半遅れて実現した。開港後,兵摩(神戸)に支店を開設した外国銀行第1号 は香港上海銀行であった。但し,支店開設時期に関しては,1869虚説と1870年忌とがある。
1869年説は,当時香港で発行されていたジャパン・ディレクトリー(外国商社年鑑,以 ヱの
下,ディレクトリーという)や香港上海銀行の所蔵資料に依拠し牟ものである。香港発行 の餓θσ加01Z弼θ&PZrθC古OZッノbrσんZπα,」@侃&亡舵Ph 伽画πθ8(以下,跣θσ加。π乞cZθ
&.窃rθc亡orッと略称)1870年版(同年1月刊)には,兵庫の欄にThe Hongkong and Shang−
hai Bank, H. Smith, Agentと記載されており,香港の欄には,同行本店が兵庫向け為替を の
取り扱う旨が明示されている。
香港上海銀行の対日戦略 5 また,上記WA yFOO1>Gは, Chapter 9に, The Hongkong Bank(香港上海銀行の略称=
引用者),which had been established in Yokohama since 1866(and in Kobe since 1869) , うと記し,Chapter 11の支店開設一覧表にも,神戸支店の開設が1869年と記している。
一方,1870年説は神戸で発行された英字新聞や英文刊行物に依拠したものである。神戸 の
のジャパン・クロニクル新聞社(Japan Chronicle Press)の発行した7舵」の侃σ毎。ηεcZθ
」泌 Zθθ1鞄πしわθr1868−1918(邦訳『神戸外国人居留地』)には次のように記されている。
開港後2年間の貿易量からみると驚くべきことであるが,2年半近くの間,神戸にも大阪にも銀行 の支店はひとつもなかった。香港上海,オリエンタル寸寸は当初アドリアン商会(Adrian&Co.)
に代理店を委嘱していたが,銀行のないことは貿易業者にとって不便なことであった。香港上海銀行 が最初にこの要求に応えて,1870年5月7日(明治3年4月7日),神戸支店を開設した。場所は居 留地80番であった。
初代の支店長はヘンリー・スミス(Henry Smith, Agent)で,当初は業務量も比較的少なく,
1878年(明治11年)ごろになっても欧州入スタッフは支店長のモリソン(J.Morrison, Agent)
と出納係のクレイク(J.J. Creyk, Cashier)の2人だけであった。同行は数年後に居留地2番を購 ヨ
入し,1898年(明治31年)に現在の建物を新築した。
の また,当時神戸で発行されていた週刊英字新聞7加H∫ogo!>θωs(1868年創刊)には,
1870年5月4日号及び5月7日号に香港上海銀行兵庫支店(Hiogo Agency)の開業広告
(出稿日は1870年5月3日)が掲載されているほか,5月7日号には,同行代理店アドリア ン商会の業務移管広告(出稿日は1870年5月7日)及び同行兵庫支店が同日開設された旨 の記事も掲載されている(広告参照)。これによって,香港上海銀行兵庫支店の開設が1870 年5月7日(明治3年4月7日)であったことが判明する。
Thεσ痂。π cZθα記.翫rθcω削1870年版には,香港上海銀行兵庫支店が掲載されているが,
これはすでに支店開設が予定されていたため,それを見越しての出稿とみられる。ちなみに,
香港上海銀行神戸代理店閉鎖・支店開設広告
箏。㎞渤bbeτ轍mc】、t5・
Hongkong and 8hanghai Banking Corporation.
The premlses of the above Cor・
poration、 at No・80, Main Streeち CqnCeSSi・n, wlll be・pened飴r Public Banking Buslness on 8αレ
㍑r4αy,ご乃θ7ごん五10y,1870.
H.SMITH,
Iliogo,ハ1ny 3rd,1870・ ノ19671 ・
賓1clU気bbcrti5CmCl、t5.
o
且ongkong and Shanghai Banking Corporation.
In aCCOrd組nCC With inSh・UC−
tions rcceived frOm the Ilead Omce, we have thls day tr血ns−
ferred土he Agency of Ule ab・ve Corporation toハlr・II£NRY SMITH.
ADRIAN&Co.
Hiogo,!」1〔題y 7d童,1870.
(出典)紐080Nεω81870年5月4日及び1870年5月7日
1870年2月8日開催された同行株主総会において,兵庫支店の新設を準備中( anew ageny あう
is being organized at Hiogo )と報告されている。
香港上海銀行は,1870年には払込資本金500万ドル,準備金80万ドルを擁し,支店を上 がラ
海,横浜,両州,ボンベイ,カルカッタ,サイゴン,ロンドンに開設していた。
(3)大阪支店・代理店の開設
香港上海銀行百年史暇YFOO1▽Gは,「同行が,香港から設備を購入して建設された大 阪造幣局の操業開始後,日本の商人と大量の地金取引を行うことを目的として,1872年初 う
め大阪に支店(Agency)を開設した」と記している。佐上武弘(大蔵省審議官)も,同罪 参考資料に依拠して,同行が「大阪には1872年(明治5年)に造幣局の金塊の現送を取り ラ
扱う関係で出張所を設けた」と述べている。
香港の銑θσ防。π cZθ&.翫rθC古0型等をみると,香港上海鐸行が大阪の欄に初めて登場す るのは1873年版(同年1月発行)であり,WA yFOO蝉Gの記述と一致する。したがって,
大阪支店の開設時期は1872年とみられる。他方,その閉鎖時期について,照y:FOO1>Gに は明示されていないが,ディレクトリーの記載は1873年版のみであり,1874年版〜77年版 のには,代理店としてフィッシャー商会(:Fisher&Co.)の名があがっており,支店閉鎖後4 年間,代理店が開設されていたことを物語っている。
結局,香港上海銀行大阪支店の開設はわずか1年間という短期間で終わった。しかも,そ の責任者は神戸支店長(または次席)が兼任していた点からみて,同支店がそれほど重要な 存在であったとは考え難い。大阪支店が短命に終わったのは,同店の主要な狙いであった大 阪造幣局への貨幣鋳造用地金の供給業務がオリエンタル・バンクの独占的支配下にあり,と
うてい香港上海銀行の入り込む余地はなかったためとみられる。
(4)長崎代理店
香港上海銀行は,長崎においては,1867年(慶応3年)にグラバー商会に代理店を委嘱 していたことが,7【肋σ痂。π cZθ&1)εrθcむ。削1868年版によって判明する。佐上は同行が ゆ
「長崎にも1870年に代理店を設けた」と述べているが,同行長崎代理店が,ディレクトリー に1868年版から掲載されている以上,1867年にすでに存在していたことは否定でき・ない。
香港上海銀行長崎代理店の委嘱先は当初はグラバー商会であったが,1870年(明治3年)
アドリアン商会,1872年(明治5年)バン・デルデン商会(Van Delden&Co.),1876年 ラ
R.Holme,1878年T. Robertson,1879年再びR. Holme,1881年号ャーゲイン6マセソ
ン商会(Jardine, Matheson&Co.),1888年ブラウン商会(Browne&Co.)へと変わった。
(5)対日戦略の特徴
香港上海銀行が横浜支店を開設した1866年(慶応2年)にはロンドンにおけるオーバー
香港上海銀行の対日戦略 7
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(出典) 7んθ」(加αηPωηcん,」μZ:y,1866(横浜開港資料館所蔵)
レンド・ガ一蹴ー恐慌の発生により,多数の銀行,商社が倒産した。当時,横浜に支店を開 設していた外国銀行5行のうち,チャータード・マーカンタイル・バンクとオリエンタル・
バンクの2行だけが生き残り,セントラル・バンク,コマーシャル・バンク(Commercial Bank of India,1863年横浜支店開設,1865年Commercial Bank Corporation of India&the Eastと改称),バンク・オブ・ヒンダスタン(Bank Qf Hindustan, China&Japan, Ltd.,
ラ
1865年横浜支店開設)の3行が破綻した。当時,横浜で発行されていた課刺漫画雑誌,7加 卸αηPμπcん(1862年創刊)は横浜の外国銀行界に波及した恐慌を象徴的に画いている。
そこでは,オリエンタル・バンクが強固な岩盤の上に立っているのに対して,セントラル,
コマーシャル両行がすでに沈没し,バンク・オブ・ヒンダスタンも傾いている(挿絵三無)。
このように,外国銀行横浜支店の大半が破綻した時機に香港上海銀行が横浜支店を開設し たのは,偶然とはいえ,良いタイミングであったといえよう。香港上海銀行の対日戦略は当 初から積極的であった。当時,外国銀行の主要業務は外国為替,預金,貸出であったが,香 港上海銀行の経営戦略上注目されるのは,預金に対する取組み姿勢である。
当時,預金は当座預金(Current Deposit)と定期預金(Fixed Deposit)であった。当座 預金は一般に無利子,無手数料であったが,香港上海銀行だけは利子を支払っていた点が注
ヨの
目される。定期預金に対してはもとより利子が支払われていたが,利率は銀行によってまち まちであった。ちなみに,1860年代における定期預金(期間1か年)の利率をみると,セ
(第3表) 1860年代の外国銀行預金利率 (単位・%)
Fixed Deposit Current
̀ccount 3mos 6mos 12mos
Savings ceposit Central Ballk of
vestern India 無利子 4 6 7
一
Chartered Mercantile Bank
盾・@India, London&China N.A. 有利子にて受入れ
『
Commercial Bank of
hndia 取扱可
(4か見) 3
5 7
一
Oriental Bank
borporation 取扱可 一 } 4 一
Bank of H:industan.
bhina&Japan 取扱可 有利子にて受入れ 一
器膿畿翻蹄 2 3 5 6 3.5
Comptoir d Escompte de
oaris 取扱可 有利子にて受入れ 一
(出典)「日本貿易新聞」1863年 「
Tんθ」(蓼)αηHεrαZd, Sept.12,1863,0ct.1,1863, Aug.20,1864;
跳θ」αραη,残mθ8 Dα〃)ノ.4(10θr古 8θr,Dec.28,ユ865;
7ワLθ1)αZZッ」(翠)αη11εrαZd, Oct,1,1866;
ユワLθ」(4)αηTεηzεs 0ひεrZαη(1ノレfα Z, Jan.4,1868
ントラル・バンク及びコマーシャル・バシクは7%,香港上海銀行は6%,オリエンタル・
バンクは4%であった(第3表参照)。香港上海銀行は,さらに定期預金に対して,所定の 利子のほかに, {ーナス(利益配当)を支払っており,預金獲得に対する積極的な姿勢がう ヨの
かがわれる。
香港上海銀行横浜支店は,長い間,居留地62番にあったたあ,しばしば「62番バンク」
う
と呼ばれていた。初代の横浜支店長はチャータード・マーカンタイル・バンクからスカウト したブレット(Robert Brett)であった。設立後,日の浅い銀行ゆえに輸入人事は止むをえ
ないごとであった。ブレットはチ帝一三ード・マーカンタイル・バンクめ上海支店次席を経 て,初代横浜支店長を勤めた経験が買われたものとみられる。
るの
香港上海銀行は,横浜支店開設当初から洋銀券を発行しており,今日も現存している洋銀 券(1866年7月2日付)にはRobert Brettの署名がある(図版参照)。同行横浜支店が発行
した洋銀券で今日現存しているものは五ドル券(日本銀行所蔵)と二十五ドル券(香港上海 ゆ
銀行所蔵)である。これらの洋銀券は,もともと香港で発行するたあに製造したものを転用 したもので,上部に「香港上三三理銀行」と漢字で印刷されており,その下部左側に発行地が 太字でYokohama, Japanと印刷され,また The Hongkong and Shanghai Banking Com−
pany,:Limited, promises to pay the bearer on demand at its Office here××××DOL−
LARS or the equivalent in the currency of Yokohama, value received の党換文言が印刷 されている。裏面には,上下左右の余白部分に日本語で次のように記されている。
香港上海銀行の対日戦略 洋銀○枚請取り事実正也
右洋銀○枚或ハ横浜之通用金ヲ以テ勝手次第何時ニチモ無相違算渡シ可申候 日本横浜出店香港上海為替組右回店之手代堅約定
9
また,表面中央の下部には,Engraved on Steel by Ashby&Co., Londonと記されてお り,イギリスで製造されたことを示している(図版参照)。
香港上海銀行は兵庫(神戸)でも洋銀券を発行していた。同地で洋銀券を発行したのは香 港上海銀行のみとみられる。今日,百ドル券,五拾ドル券,拾ドル券が現存しているが,何 のれも発行年月日の記載はなく,責任者の署名もない。
香港上海銀行が日本で発行した洋銀券がどのぐらいの規模にのぼるのか詳らかでない。た だ,1873年1月,横浜支店長ジャクソン(Thomas Jackson, Manager)が役員会(Court of Directors)の承認をえて実行した旧洋銀券(Hongkong and Shanghai Banking Compa一 ゆny,1.td.の名で発行されたもの)の消却額は210,480ドルであった。
ところで,横浜支店開設当時の業績は芳しくなく,ブレットは支店長就任1年後に,無能 の故をもって解雇された。次いで本店から派遣された2代目横浜支店長グリゴール(John Grigor)は本店の指示に反する貸付を行って2万ドルの損失を発生させたため,闇もなく 更迭された。そして,1871年置明治4年)にジャクソンが第3代支店長に就任したのち,
うようやく支店の営業基盤が確立されることとなる。
ジャクソンは,横浜支店長(1871〜74年)のあと,20年聞にわたって頭取(Chief Man−
ager)を勤め,香港上海銀行の飛躍的発展をもたらしたが,横浜支店長時代においても,オ リエンタル・バンクの独占的地位に挑戦を試み,日本政府当局と接触するなど,腐心の跡が みられる。すなわち,同行資料によれば,1870年9月(明治3年8月),彼は本店に対して,
わが国領政府と旧藩主に対する与信の承認を申請したが,役員会は十分な担保がない限り,
認められないと回答している。また,1871年11月(明治4年10月),ジャクソンは日本政 府向け150万ドル,期聞5年の借款供与を本店へ上申したが,その頃日本に台湾征伐の動き があり,清朝政府からその防衛のための借款の要請を受けていたので,双方にコミットする イののは問題である,という本店の判断から見送られた。このほか,彼の在任中の1872年(明 治5年)には,大阪造幣寮へ貨幣用金銀地金を売却する目的で大阪支店(Osaka Agency)
を開設したほか,横浜為替会社との取引を円滑に行うため,同年11月20日(日本暦10月 20日)以降「日々溜リ合決算ノ上」香港上海銀行「ヨリ貸シトナリタル高月ハ年5分ノ利 子ヲ牧メ」横浜為替会社「ヨリ借トナリタル高ハ年2分の利子ヲ付スルノ約定」を締結し,
ラ 取引を開始したのである。
こうして,ジャクソンは4年間に及んだ横浜支店長時代に,支店網の拡充,対政府取引の 折衡,横浜為替会社との取引開始など,積極的な戦略を展開したにも拘らず,オリエンタル・
バンクの強固な独占的基盤を突き破ることができず,さしたる成果をあげえなかった。
さらに,1876年(明治9年)ウォーター(John Water)が横浜支店長のとき,わが国政 府が外国銀行洋銀券の流通阻止を企てたため,これに対抗して,オリエンタル・バンクを除
く外国銀行が連合して第二国立銀行洋銀券の受取りをボイコットする事件が発生した。この とき洋銀券を発行していた香港上海銀行は当然のことながら,このボイコットに参加した。
だが,ボイコットへの参加が,対政府取引の獲得にマイナスに作用したことは否めず,前任 者ジャクソンの努力を無にするものであった。
事件は同年4月11日,政府が外国銀行洋銀券の排除方針を,開港場を管轄する府県に布 達したのをうけて,神奈川県が次のように県下に布告したことから始まった。
〔明治9年神奈川県布達第90号〕
くママラ
從来諸開港場二於テ外国銀行発行之証券「ハンクノート」ヲ以テ通貨同様致取引候趣二丁処,右証 券発行ノ儀ハ固ヨリ我政府ノ許可セシ者二才之且右銀行三儀ハ我国ノ条例ヲ遵奉シ官ノ検査ヲ経ル者 輯録之候得バ,其証券ノ多寡資産ノ厚薄不相知臨監付,万一破産閉店等二至ルトキハ売買上不測ノ損 害ヲ蒙り候モ難民候条,自今我政府発行ノ通用幣国立銀行ノ紙幣第二国立銀行ノ洋銀券及ヒ締盟国現 の
貨幣ヲ以取引致候様注意可致黒点布達候事。(句読点引用者)
横浜においては,神奈川県布達第90号が嘱せられた後も,外国銀行洋銀券の市中流通に 大きな変化はなく,「今以等閑二相心得轟轟取引致シ居候者モ有之哉ノ趣」にあった。この
たあ,神奈川県権令は6月3日布達第132号を発出し先に発した布達第90号の趣旨を繰り 返し強調するとともに,「右証券ノ多寡ト資金ノ当否モ難探知儀ニテ何時俄然破産分散致シ 候モ難計然ルトキハ其損害ハ直チニ所持人ノ手二帰シ不容易迷惑二立至リ候三二付決テ疎漏 ラノ取扱無之様精々注意可致」との警告を発したのである。
神奈川県布達第132号の浸透は迅速かっ強力であった。オリエンタル・バンクを除く全外 国銀行は第二国立銀行洋銀券のボイコットを決定し,横浜の英字新聞を通じて批判のキャン るのベーンを展開した。まず,横浜の7舵」⑳αησα2ε伽は1876年(明治9年)6月5日付で
神奈川県令の布達を報じたのに続いて,翌6日付同紙は外国銀行の動きを次のように報じた。
.横浜二在ル諸外国鋤ラ糊鱒権令野村氏ノ布告二対シ趾ノ返報ヲナシタリ・「チヤータルド メルカンタイル バンクヲブ インデヤ ロンドン エンド チャイナ」,「ホンコン エンド シ ヤンハイバンク」,「コントワールデスコント ドパリー」ノ3銀行二於テ,来ル12日ヲ始メ日 どの
本ノ「バンクノート」バー切請取ラザルベシ。(句読点=引用者)
当時,横浜に支店を開設していた外国銀行は,チャー二一ド・マーカンタイル・バンク
(J.Thurburn, Manager),オリエンタル・バンク(John Rober七son, Manager),香港上海 銀行(T.Jackson, Manager)及びコントワール・デスコント(Comptoir d Escompte de らの
Paris, E.G. Vouillemont, Manager)の4行であった。
香港上海銀行の対日戦略 、 11 チャータード・マーカンタイル・バンク以下,3外国銀行が連名で,1876年(明治9年)
6月6日付丁目」αpαη∬θrαZdに掲載した「ボイコット」広告は次の通りで〜ちった。
公 調
薬二掲載スル各銀行ハ本月12日即チ引写日後ハ日本各銀行ヨリ発行セシ証券ヲ受取ラザルベシ。
印度龍動及支那 チャルトルト,メルカンタイル銀行 支配人 ジェー・サルボルン
くママラ
香港,印度,上海銀行
副支配入 ジョン・ウオルチル コントアル,デスコント銀行
52)
支配人 イー,ジー,ウォイルモント
わが国政府による外国車行洋銀券の排除政策は「国立銀行条例」(明治5年太政官布告第 349号)をテコとしたものであったが外国銀行の強い反対にあって,その意図をただちに達 成することはできなかった。『明治貨政考要』も事件の結末を,「如斯ク紙幣頭ハ外国銀行証 券ノ処分二尽力シタリト雛モ其ノ結果ハ幾何力第二銀行洋銀券ノ流通ヲ弘メタルニ止リ遂二 当初ノ目的ヲ達スルコト挙世ザリキ,而テ此ノ後二三リ格別此事二関シ記スベキモノ起ラザ
うのリキ」 と結んでいる。
皿 明治中期の戦略転換
(1)円銀・洋銀の平価通用に協力
1878年(明治11年)に横浜支店長に就任したタウンゼンド(A.W. Townsend)が対政府 協調政策に転じ,また強豪オリエンタル・バンクが漸く退潮に向かったこともあり,やがて 香港上海銀行とわが国政府・企業との取引が始まる。すなわち,1878年にわが国政府が貿 易一円銀(円銀)の流通制限を撤廃し,翌年9月円銀の流通促:進を図るため,円銀と洋銀
(メキシコ銀貨)の平価流通を布告したのを受けて,香港上海銀行は,オリエンタル・バン クとともに,この布告の趣旨にそって,丁銀を洋銀と何ら差別なしに取り扱う旨を新聞に公 5の回し,日本政府から見返り預金を獲得した。
55)
政府は,虚血の流通促進のため,1879年(明治12年)9月12日,太政官布告第35号 を公布するとともに,当時横浜で開業していたオリエンタル・バンク及び香港上海銀行に協 力を求め,その見返りとして,円銀30万円を無利子・無抵当で,3年間両行に預託するこ
とを取り決めたのである(後に,3年間延長)。
政府が香港上海銀行との間に締結した約定書に規定された日本側の義務は次の通りであっ
た。
1.大蔵卿は日本円銀30万円を無利息,無抵当で香港上海銀行へ預け入れること。
2.大蔵卿は,香港上海銀行が,郵便汽船三菱会社の汽船を以て日本金銀貨幣及び金銀地 金を,大阪造幣局と日本国内一切の開港場又はその他の場所に運輸するときは,日本政府 が右等の運送に対して右郵便汽船三菱会社に支払うべき運賃の割合と同率の運賃を以て,
その運輸を行うことのできる特権を1879年9月12日より1882年9月18日まで3か年間,
香港上海銀行に付与すること。
3.大蔵卿は,1879年9月19日から1882年9月18日まで3か年間は日本円銀の量目,
純分又は模様を変更し,若くはその鋳造費の定額を増加するような場合には,6か月まえ にその通知書を香港上港銀行へ送付すること。
一方,香港上海銀行の義務として次の諸点が規定されていた。
1.香港上海銀行は,日本国内に設置する諸支店の取引上,日本円銀即ち量目416グレー
、ン,純分900位の円周を,メキシコ・ドル即ち量目416グレーン,純分900位のメキシコ 銀貨と平価を以て授受すること。
2.同行は,第1項に関して1879年9月13日,横浜発行の新聞紙に掲載する広告文を取 り消し,又は変更しないこと。
3.同行は日本円銀をメキシコ・ドルと平価に流通させることについて,その適当・公正 と思惟する方法手続を実施すること。
4.同行は,預託された日本墨銀30万回目,1880年9月19日,1881年9月19日及び1882 年b月19日に,それぞれ10万円づっ,大蔵省へ返却すること。
5.同行は,第4項の預り金の全額を大蔵省へ返却した後においても,第1項,第2項及 び第3項の義務を引き続き履行すること,但し,同行は,1882年9月19日以後,3か月 前に大蔵省へ通知書を送り,この約定を解除する
ことができる。
6.若し,同行において,本約定のうち,1項で も履行できないときは,第4項の順序に拘らず,
大蔵省より通知を受けた日から6か月以内に,預
託金を大蔵省へ返却すること。
政府はこれと同様の約定をオリエンタル・バンク との間でも締結した。これをうけて,オリエンタル,
香港上海の両掛は,1879年(明治12年)9月13日付の うの丁舵JdpαηDα殉πθrαZd及びTんθ」⑳απGα2θ伽
に右のような公告を出稿した。
この約定は,期限満了を2週間後に控えた1882 年(明治15年)9月4日,さらに3年間延長され
くママう
た。「右並価二通用ノ事タル当時日尚浅キヲ以テ外 側之ヲ取戻ス時ハ自然壱円銀ノ価格二影響ヲ来タス」
外国銀行の円銀・洋銀平価取扱公告
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1『okoh嘔α隔.80p㎞b●ぽ13・1879. 色1.
(出典)丁加」叩αηDαεZ:yHεrα認
1879年9月13日
香港上海銀行の対日戦略 13 う ラ
ことを恐れたからである。これに伴って,同月19日各30万円が両行へ再預託され,1883 年,84年,85年三日9月19日に10万円つつ返却されることとなった。
このようなわが国政府との友好関係を背景に,香港上海銀行は,1878年(明治11年)政 府保証付きで,期間6か月,年利7%,70万ドルを三井銀行へ,1880年(明治13年)8月
には生糸を担保に,三井物産へ30万円の短期貸付けを行った。そして,1884年(明治17 年)にオリエンタル・バンクが破綻したのを始め,多くの外国銀行が日本かち撤退し,香港 上海銀行は日本における最古,最強の外国銀行となった。このため,i888年(明治21年置 には,古河本店に25万ドルを,第一国立銀行の保証付き,12か月の分割返済を条件に融資
したのである。
② 貯蓄預金の取扱い
外国銀行在日支店では,一般に当座 預金及び定期預金を扱っていたことは すでに述べたが,香港上海銀行は,
1887年(明治20年)以降,貯蓄預金
(Savings Deposit)の取扱いを開始し た。わが国の「貯蓄銀行条例」(明治23 年,法例73号)の制定前であった。
香港上海銀行は1887年に貯蓄預金 部(Savings Bank Office)を設け,
同年以降本支店において,一般大衆を 対象とする貯蓄預金の吸収に力を入れ たのである。貯蓄預金は1回の預入額 が1ドル以上250ドル以内であること,
1預金者の預入額は年間1,500ドル以 内であること,預金の預入・引出しの 際には預金通帳の呈示が必要なこと,
などの制約がある。しかし,貯蓄預金 はいっでも引出し可能であり,毎月最 低残高に対して年3.5%の利息が支払
の われていた。
香港上海銀行貯蓄預金部の広告
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(出典)7ん・如・・Dε剛・・ツカ・エ887
(3)函館代理店・長崎支店の開設
香港上海銀行は1886年(明治19年)函館に代理店(委嘱先はヘンソン商会)を開設し,ま た1892年(明治25年)1月11日にはそれまでブラウン商会に委嘱していた代理店を廃止
し,長崎支店(Nagasaki Agency)を開設した。外国銀行の長崎支店第1号であった。初代 ヨラ
支店長はアンダーシン(A.B. Anderson, Agent)で,当初の営業所はそれまで代理店を委 の嘱していたブラウン商会(大浦居留地9番)内に設けられた(5年後,下り松42番に移転)。
支店開設の事実は7舵窺8 π8Sμπαηd!鞄8α8α屠琢prθ881892年1月13日号に掲載され た同店の開業広告(出稿日付1892年1月11日)から明らヵ〉である。また,各種ディレクト
リーにおいても,1893年版(同年1月発行)以降,香港上海銀行長崎支店が掲載されてい る。したがって,香港上海銀行長崎支店の開設時期が1892年目明治25年)1月11日であ ることは,疑いの余地がない。それ故,支店開設時期に関して,長い間1896年(明治29年)
説,1870年説,1865年説などが存在したのは,不可解というほかない。
1896年説は『明治維新以後の長崎』など長崎で発行された邦文文献において一貫して採 の用きれている。また,佐上も,香港上海銀行百年史の参考資料(タイプ版)に依拠して「1896 の年(明治29年)から,1930年(昭和5年)までは,支店があった」と述べている。1870年 掛は香港上海銀行百年史賜y:FOONGにみられる。すなわち,同書は, Four years after the branch at Yokohama(in 1866=引用者)an agency was opened at Nagasaki と記
している。、
1865年説に関しては,Grace Foxが,著書B漉α ηαπd J@απのなかで, Mr. J.R. Jones of the Hongkong and Shanghai Bank believes, however, that this bank opened a branch
in Nagasaki in 1865. と述べている。しかし,これ
らの諸説には,いずれも十分な根拠が示されていない。
香港上海銀行長崎支店の開業広告 長崎支店開設当時の香港上海銀行は,払込資本金
1,000万ドル,準備金630万ドルを擁し,オリエンタ ル・バンクの破綻(1884年)後,東洋で最大の規模 を誇っていた。その店舗網は,東洋一円(香港上海,
福州,丸面,天津,霊芝,横浜,神戸,マニラ,イロ イロ,バンコック,ペナン,シンガポール,バタビヤ,
サイゴン,ボンベイ,カルカッタ)はいうに及ばず,
欧州(ロンドン,リヨン,ハンブルグ),北米(ニュー ヨーク,サンフランシスコ)にまで及んでいた。
、香港上海銀行の長崎支店開設(明治25年)は,横 浜や神戸における外国銀行の支店開設に比べ著しく遅
く,長崎にはすでに地元銀行4行が設立され(うち,
2行は明治10年代に閉鎖),市外に本店のある銀行3 行が長崎市内に支店を開設していた。しかも,地元の アの
第十八国立銀行(十八銀行の前身)の発展は目覚しく,
71)
島の仁川に支店を開設し,国際化を進めていた。
罰じerti5εmell童5.
HONGKIONG&SHANGHAI
BA:NKING COR:PORATION,
By order of thθ Board of Directors, I ha▽e this day taken over charge of the 鳶agasaki Agenc又 of the I3ank from Messrs. Browne&Co.
(=〜∠7〜6θ αご 2』f乙8s7 8● Bro2cηθ づ〜
Oo.,8,ハ㌦).9,エヲαπ4.
A.B. ANDERSON,
AGε署丁.
Nα9α」α鳳U んJlα路uαry,1892・
(出典)7肋R観η8翫π&Nα9α8αん 琢prε8s,1892年1月13日
1890年(明治23年)には朝鮮半
香港上海銀行の対日戦略 15 従って,横浜や神戸に設置された外国銀行の支店とは状況を異にしていた。横浜(外国銀 行の支店開設は1863年)や神戸(同1870年)では,外国銀行の支店開設が本邦銀行の設立
(1873年7月第一国立銀行は開業と同時に横浜,神戸に支店を開設)に数年先行していたの である。したがって,香港上海銀行長崎支店の場合,横浜や神戸における外国銀行のように,
日本の銀行制度の先駆的役割を担うことはなく,それだけ歴史的意義も薄いものであったこ とは否めない。
(4)大阪出張所の開設計画
香港上海銀行は,1899年(明治32年)半ば,「神戸支店にては在阪清商の請求もあり,
殊に近来大阪商人の為替割引を依頼するもの漸次増加するを以て」大阪に出張前あるいは代 ラ
理店の設置を計画したと伝えられているが,これが実現した形跡はない。
(5)軍事公債の買入れ
日清戦争(1894年8月〜95年4月)後,政府は外資導入政策を積極化した。
政府は,外債発行の地ならしとして,1896年(明治29年)8月本邦外債のロンドン株式 取引所上場を実現させ,続いて1897年5月,大蔵省国庫預金部で保有していた軍事公債証 書(1894ん95年発行,総額1億2,492万円,期間60年,利率5%)額面4,300万円をロン の
ドンのシンジケート団に売却した。内国債の外国での売却は初めての試みであったが,その 理由を『明治財政史』は次のように述べている。
此ノ如ク多額ノ公債ヲ売却シタル所以ハ一具巨額ノ公債ヲ倫敦市場二売出シ其取引ヲシテ頻繁ナラ シムルハ当時売買開始ノ目的上最モ希望スル所タルト,又一ニハ明治29年臨時軍事費会計ノ閉鎖二 際シ預金部二於テ引受ケタル巨額ノ軍事公債バー時国庫金ノ内ヨリ融通シテ募集二応ジタルモノニ付 早晩売却ヲ要スルモノナルニ,内地ノ市場二於テハ前年来公債ノ価格大二低落シ銀貨ニテ98円内外 トナリタルノミナラズ,我が東京株式取引所二於ケル取引高ハ毎月四二2〜3万円二過ギズ,殊工商 業会社ノ勃興ニョリ一般資本ノ逼迫セル当時ニアリテハ到底巨額ノ公債ヲ内国二於テ八時売却スルコ 74)トハ為シ難キ現状ナリシユ由ルナリ(句読点引用者)
シンジケート団は,横浜正金銀行,香港上海銀行,・チャ脳タード・バンク(Char七ered Bank of India, Australia&China)及びサミュエル商会(Samuel, Samue1&Co.)の各ロ マの
ンドン店で構成された。
アの
政府(代理人日本銀行)のシンジケート団への売渡価格は,額面1,000円にっき102ボ ア ラ
ンドとし,1897年5月28日に契約が行われた。シンジケート団各行は,上記公債を額面 1,000円にっき,103ポンド12シリング4ペンスで売り出したところ,申込みが多く,「締 マ ラ
切り(6月1日)後其権利の如きも105膀2志4片まで騰貴した」ほどであった。
(6)政府発行外債の引受け
わが国政府は新通商条約(改正条約)の実施を1か月後に控えた1899年(明治32年)6月,
外国公債1,000万ポンド(利率4%,期間55年,無担保)をロンドンで発行したが,この
時香港上海銀行も引受けシンジケート団に参加した。当時,政府は内国公債金を支弁する予 定で着手していた鉄道建設,製鋼所設立,電話事業拡張,軍備増強などの事業をかかえてお り,鉄道公債,事業公債及び北海道鉄道公債の発行を進めていたが,資金の不足した国内市 場では完全消化は困難であった。
しかしながら,これら諸事業の繰延べも許されない事情にあったため,これら3公債の明 治31年度から繰延べた募集予定額明治32年度の募集予定額及びこれら諸事業費として 一時繰替支弁した償金特別会計への返償額合わせて1億円強を調達する目的で,外国公債 ヨの1,000万ポンドを起債したのである。そして,この外債の償還財源には新通商条約実施後の 関税率改正による増収分(年間約1,000万円)が予定されていた。
1899年6月1日,日本政府代表と引受けシンジケート団との間に,下記諸条件を内容と する引受契約書が調印され,翌日引受銀行によって発行目論見書が公表された。
1.発行総額
1.利 率
1.発行価格
1.政府手取額
1.利子支払 1.元金償還 1.証 券
1.払込 み
1,000万ポンド(邦貨換算9,763万円)
年4%
100ポンドにっき90ポンド 同86ポンド
毎年6月,12月に横浜正金銀行ロンドン支店に於て支払う
1899年の55年後,即ち,1953年12月末までに行う。但し,据置期 間10年を経過した後,抽籔償還を行うことができる。
50ポンド券
100 〃9 500 〃
(100ポンド当り)
応募申込時 公債割当時 1899年7月17日 8月17日 9月18日 10月18日
20,000枚 80,000〃
2,000〃
5ポンド 15 15 15 20 20
〃
〃
〃
〃
〃
1.募集取扱
合 計 90 〃 横浜正金銀行
思)
パース・バンク