健康教育・教科保健における内容構成原理と内容領 域の構成
内 山 源
(1982年10月31日受理)
1.健康教育・教科保健における内容選択・構成原理検討の必要
最近は保健科教育においても「何を教える内容とするか」が問われ,いくつかの試案・私案が出 されている。このような試案が出される理由の1つには,これまでの学習指導要領が示してきた内 容領域・構造に対する1つの批判としてみることができる。批判なり問題点の指摘なり行なうこと は,その基準として批判する側のものが理想とする内容領域像を有していることが前提になる。
これが漠然としていると,これまでの多くの批判等にみられたように「バラバラ批判」「部分的 断片的批判」におち,批判としての有効性を余り発揮し得なかった面も少なからず存在したように 思われる。「何を教えるか」の根拠は学習指導要領作成側でも問われているし,同じように私案を 提示する側にもきびしく問われている。
問題にされなくてはならないのは,「どうしてそのような保健科教育の内容領域となるか」とい うことであり,試案として提示されたものが,この点を曖昧にしている場合,「どうしてそれが学 習指導要領の批判とされる試案となるか」が問われてくる。何人かの研究者達がそれぞれ異った私 案を提示することは,低調な保健教育の現状をみる時,それなりの意義をもつものと思われる。し かし,試案の提示の際に,その構成の根拠を理論的に,実践的に説明されぬ場合は果して試案とし て容認されるべきものかが問われてくる。
この場合,特定の研究団体が或る試案を提示したり,個人が試案を提示する場合でも「私たちが 研究・意見調整の結果」とか「筆者の教育的信念として」これらの「試案」を提示する,というよ うなことであれば,文部省・学習指導要領作りとあまり変らない。果して研究としての試案作成は,
この種のものでよいものなのだろうか,この種の観点は,同じように保健教育と密接な関連をもつ
「性教育の内容領域」や「安全教育のそれ」についても必要なことである。
むろん,性教育の内容が教科としての保健の内容にどのように関連するかということと,教科の 枠にとらわれぬ性教育を追究する場合は,当然その関連のあり方は異ってくるが,性教育の研究団 体の側でもこの種の「試案・私案」が出されている場合,先の教科保健に関する各種の私案もどの
ような関連をもつことになるかが問われてくる。これは安全教育領域についても同様であろう。
教科保健とか保健教育の内側で,これらが問われることは,外側に関連する分野・領域がある場
合,外側についても問われていることになる。しかし乍ら,保健教育の内部におけるいくつかの私
案と同じように,外部にある性教育等の「教育内容計画」についても,この辺は明確ではない。や
はり,そこにみられる論理は「私たち専門研究者が研究検討の結果,意見を調整して,このような
試案を得た」ということになるらしい。
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したがって,その外部にある者にとっては,「どうしてそのように内容構成になるのか」が不明 であり,納得し難い面もしばしば出現する。
健康教育に限らず,一体「教育内容の編成・構成」といった研究作業はこのようなプロセスでよ いものなのだろうか。一般の教育原理において,教育内容・教材の構成の原理・基準があるとすれ ば,これらは,教科教育・教科保健のそれらについて,具体的実際的にどのように関連するのか,
関連すべきなのか,それとも殆んど実際のプロセスには無用のものなのか,が改めて検討される必 要はないだろうか。
保健教育において,この点を国際的にみると国によってかなり異ってくる。結果としての「教材 内容領域」が異なることは,それなりの理由があろうから当然のことかもしれない。このことは我 が国の中でも同様である。だが,それなりの理由は総べて問わないでいて,先進国の理論を翻訳的 にただ紹介するということはどういうことになるのだろうか。紹介をすればわが国の健康教育のレ ベルが自然に向上することになるのだろうか,それとも自己の研究の「権威づけ」に有効なのだろ
うか。
たとえば,これまで,ターナーやグラウトから始まって近年のSHES等まで多くのものが紹介 されている。その事自体,我が国の状況においてみる時それなりの意義や価値を認めなくはならな いが,それから進めた研究として何が必要かが問われるべきではないだろうか,わが国の教材内容 領とアメリカやソ連のそれらと比較する場合,内容はかなり異るものがある。それらは一体,どうい
う根拠においてか,という追究である。
2.わが国の健康教育における健康教育内容の構成・選択の原理
「何を教えるべきか」については,一般の教育理論・原理等を歴史的にみると,いくつかの主要 なものをあげることができる。たとえば, 「コメニウス」「スペンサー」「カント」「トルストイ」
「デューイ」等から基本的な原理について学ぶことができる。また,現代における諸外国の Curricvlum Development関係理論関係からも一般的原理については得ることができる。しかし,
ここでは,これらの教科を超えての一般的原理については改めて論及することは避けて健康教育・ ㌧
ウ科保健教育の内容構成についてみることにしたい。
古いものから凡そ順に主なものをみていくと,先ず大正13年の井上・奥田1)らの生理衛生教授の 理論篇の中では「人生々活の必要から見て是非教へて置かなければならぬものと,生活上から見て 左程必要でもないが,児童の知能を錬磨し心情を陶冶する上に有効と認めて教えるものとの二つが ある」としている。理論篇といっても内容構成の基本的な考え方としてはこの記述程度で,この内 容についての論及はない。また,具体的教材構成への手続きとか基本的教材の構造,概念の構成等 については全くみられない。
昭和15年大西2)は学校体育と学校衛生の中で「健康教育とは何か」について述べている。ここで は特に詳しい説明はなされていないが,「健康訓練の要目」として「一、姿勢,二、清潔……二十 三、視聴」等をあげ「これらはいつれも国民生活に必須にして且つ健康建設の重要なる素材であり,
同時に学校生活の事実に即し,具体的に実践せしめることのできる事項に属する」としている。
戦後,昭和25年,前川,阿部3)らが「保健体育概説」 「学校における健康指導」等を教育大学講
座の中で書いている。前川は「健康教育の意義」について解説したり「健康教育の分野」について
アメリカのN・E・Aの紹介はしているものの内容選択・構成については殆んどふれていない。阿部 が「学校に於ける健康指導の基本的態度」でこの点について「健康教育は健康の価値を児童生徒に 体認せしめ,その体認を基盤として健康生活を自主的に営んで行く能力と意志とを培うべき目的を 有するものである故,その内容の選定には単に生徒児童としての立場に於いてのみ考慮さるべきで はなく,将来社会人として生活する立場をも考え併せ,社会人としての公衆衛生的生活を営むのに 必要欠くべからざる知識技能を含みうるよう取はからうべきであり,従ってその線に沿う限りに於いて
1 健康実践の根拠となるべき適当なる解剖学及び生理学上の知識 2 生命に危険をもたらすもの及びその予防法の理解
3 完全な家庭及び社会生活をするために必要なよい習慣及び態度 4 自己の健康を理解するにたる医学的知識
5 社会に於ける保健衛生的施設の認識とその利用
以上の五項目にわたる範囲の内容をもたねばならない」と述べており,かなり具体的でこの時点 では有用な観点を示したものといえる。これを内容構成の原理の観点で整理してみると,1は主体 の構造と機能に関する知識であり,時間的次元の観点は当人の時間と次世代への時間,人類の時間
・歴史性については欠けたものとなっている。2は健康問題,各種水準における健康問題解決過程 における対象の一部・安全事故災害等に関するものであり,対策・その過程における一部・予防法 を示したものとみることができる。3は社会的なニードに応ずる健康教育の目的を示したもので,
そのための具体的な内容の構成・選択については不明なものとなっている。4は,1が健康実践へ 向けての知識であるのに対して健康認識・状態・水準・指標・尺度の理解に必要な認識と解するこ
とができ,大きくは「問題解決過程」に必要な認識ということができるだろう。5は社会・人間的 環境条件の1つである施設設備の認識と利用ということで,これを現実の生活実践に結びつけた
「科学的問題解決過程」に必要な,近年でいう Consumer Health の一部に相当するものといえ
よう。
1〜5について知識や理解が,何故構成されるかの論究はないが,内容構成・選定と領域構成の 観点を一緒に示し,近年でも有用な観点を示したことは評価すべきところである。
この頃になると我が国でも健康教育関係の研究者が現われて,僅かではあるが独自的研究の動き がみられている。
昭和25年に文部省視学官の湯浅4)が「学校保健計画読本」を著し,当時としては学校保健計画に 関する最も優れた理論・実践指導の著作といえる。十二章の「学校保健委員会の討議内容」の中で
「健康の形成方式」を「健康(X)=環境(A)+行為(生活過程)(B)+身心(人)(C)」でて いねいに説明している。この形式・方式が「モデル」として把握され,それでもって説明されている 点は実に優れたものといえる。しかし,これがアナロジカルなモデルであるとしても(+)or(x)
であるか,各要素の内的な特性についてどのようになっているかは不明であり,モデルとして把握
されていたとしても認識論的アプローチから健康教育内容の構成原理としての「記述・説明」の明
示が全くないところをみると,内容構成・選択については,さほど自覚的積極性はなかったものと
思われる。というのは十九章の「健康教育の基本的な心得」の中でも再び「ノ(B)(行為あるいは
生活過程)=X(健康)=A×B×C」の「健康の形成方式」を説明はしているが,健康教育の内
容選択や構成には結びついていない。ここで必要なのは後期における他者の解釈による推測,あい
まいな推定ではなくて,当人による自覚的積極的な理論構成への「意欲の有無」とその「明示」で
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ある。
そして,「目標」では,先述の阿部が示したものと全く同一のものが5つ示されている。この点 になるとこの目標項目とそれに対応する健康教育内容と湯浅の「健康形成方式」の考えは,どのよ うな関連にあるのは殆んどはっきりしない。その三で「健康教育の内容と指導上の心得」の中で11 の項目を示しているが,どのような原理・根拠で選択・構成・決定されたかについては不明である。
しかし,その後で「知識と理解を総括してみればざっと次のごとく……」として7項目をあげて いる。この観点はきわめて優れていて示唆に富むものである。即ち
「1 健康の本質と健康の形成方式について
2 健康の障害とその予防ならびにその処理について 3 健康を評価するのに必要な科学的方法の内容
4 精神的健康を変化せしめる条件とそれらについての自律的,他律的な対策について,さらに その根拠について
5 身体的健康を変化せしめる条件とそれらについての自律的,他律的な対策について,さらに その根拠について
6 公衆衛生を変化せしめる条件とそれらについての対策ならびにその根拠について 7 健康の育成保持についての科学上の進歩ならびに歴史的発展の内容」
人間的営為を含めた保健安全現象の理解認識にとって,何が欠落し不充分であり,どの観点が充 され優れているかについては,ここで改めて述べないが,多くの重要な基本的観点を示したものと いえる。
昭和35年には文部省教科調査官の荷見5)が「学校保健・学校安全関係者の研究の参考」のために 書いたという「学校における保健教育」をみると「健康教育の内容」の解説はあるが,これらの内 容を「誰が」「いかなる原理,根拠をもって」「どのように選択・構成し」「どんな理由で」「そ の決定・拘束性・基準性をもたしたのか」等は全くふれていない。ここでも重要なことは「根拠・
原理」の「自覚的な明示・説明」である,後世の他者による推論でその存在を示すといった消極性,
曖昧性では不足するし,確信をもつわけにはいかないのである。
昭和34年には竹村6)が文部行政サイドではない立場から,コンパクトなものであるが初めて理論 書らしい著作を著している。竹村は,「理論として」は別にして,学校保健を「教育として」の学 校衛生と提示・表現したことは一つのユニークなポイントといえる。竹村以前の戦前にも昭和4年 の大西の「衛生訓練の実際としての学年配当要目」,昭和6年,斉藤・国瀬「小学校学年別体育と 衛生指導」,昭和11年,宮田「施設経営実施健康教育」,昭和13年,横田「健康教育の理解と実際」,
木村「体位管理健康教育の実践」,昭和14年,武立「健康教育経営の実際」,中尾「健康教育の基 準」などと健康教育関係の,現在では,貴重な著作が続くのであるが,これらについても特に積極 的自覚的な論理的構成に関する展開はみられない。竹村には,これらを超えるものとしていくつか の考究がなされているものの「内容構成」に関しては,つまり,frame workとかbasic concepts,
generalization, structure of subject matter等に相当する考えで,スコープとかシークエンスの 開発については,殆んどなされていないように思われる。
その中で,先述の湯浅の「公式」や村上の「健康=蹴x籍x穎」を示してはいるものの,これら の健康概念の構成・理論モデルが内容に結びついていないのである。
しかし乍ら,竹村の最も優れて,高く評価すべきところは,「健康の本質」論である。これは後
述の海外の健康教育,特にアメリカの著名な研究者であるホイマンのヘルスモデルの本質に通ずる ものであり,その後のSHESのHealth Model, conceptual model,その他,クラークら,ディ 一バー,ラロンド,プラム等のモデルの本質に通ずるものである。この要点の重要性については昭 和39年のセミナーのレポート以来の発表報告で繰り返し繰り返し述べてきたところである。
だが,どういうわけか一般は「教育としての……」のスローガン的感触が好みに合うらしく,こ の要点は全くといってよいほど無視されているようである。
ホイマンは自己のヘルスモデルから内容構成へのアプローチを展開するため,その論理的整合性 とか実践的関連性は別にするとして,ヘルスモデルを幾度か論究している。その中で,竹村の論及 はいくつか噛み合い,クラークらのモデルのもつ欠陥も,竹村のそれによって,十分に問題点の把 握と示唆を得られるものとなっている。昭和39年,阿部・森7)は「学校保健学」を著しているが特 に新しい点はみられない。
この頃から学校保健・健康教育関係の専門書が次々と出され,小栗,小倉,森,黒田,植村と続 き,新しいところでは,全集の中での小倉等がある。その中でも小倉8)の構造化教材の具体的な試 案はユニークな存在といえる。構造化教材の構成で比較的に新進の研究者が集中したと思われる時 期は「現代保健科教育法9)」が出された前後で,その中の大部分のものはその後,構造化とか概念 構成には殆んど関心を示すこともなく,ましてヘルスモデルとか基礎的な,理論モデルと健康教育 内容とがどのように関連するか等の論及に対しては殆んど冷淡な状況にあるといってよい。
この種のフレームワーク10)・11)作りの基礎的研究に対して,Curriculum Developmentの不可欠 なプロセスであるという認識は殆んどなく,「粗雑なもの」とか中には「観念論的」という批判も みられている。衛生・公衆衛生学研究者が提示したモデルは,そのもの自体は健康教育とは結びつ かない。それらのモデルをどのように使うか,モデルで何を考え,何のために使うかを健康教育関 係研究者が追究しない限り,内容や方法は関連しない。
しかし乍ら,不思議なことに,「粗雑なもの」等と批判した者たちも,「いつの間にか」自己の,
或は特定集団の保健教育内容をもっているのである。よくアメリカの研究者達との討論の中で,聞 かされたことであるが,実に毎回のことであるが,そのような「根拠」なり,「原理」なしに,「誰 が」「どんな根拠」で「いつ」「どのように」きめてしまったのだろうか。これは筆者の私的な経 験で客観性がないということになるかもしれない。(たまたま,我が国でも有名なカリフォルニアの
フォーダー教授が特別招聰教授として来日しているが,少しふれておこう。彼のファカルテイセミ ナーでも同じことが問われたので,思わず笑ってしまったが「日本では,誰が,どのような根拠・
原理で決定するのか」「神様が決めるのか」である。)
まさに「神様がきめるのか」である。何回も言われたことであるが「粗雑なこと」などと放置し ておくわけにはいかないのである。
論を戻して,以上の我が国の状況をみると昭和30年代のものには,かなり大きな新機軸を開いた ものもあるが特に内容構成原理の検討について論及したものはなく,小栗12)の一般教育原理からの
「①系統性,②学習者の条件,③社会の要求」があり,この内容についての追究は全くみられない。
ただ小倉13)の②に関する保健認識の発達に関する研究の必要性はユニークである。つまり,保健教
材の構成についての一つの大きな方向を示したものといえる。
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3.保健科教育内容領域教材・試案の構成提示における問題点
しかし,いずれにしてもこれは先述したように健康教育における基本的なCurricu1㎜Develop一 mentの追究は殆んどないように思われる。この頃も,その後も海外の健康教育の内容の紹介は多 くなされるが,それが,「何故」「どのような根拠・原理」で構成されたかについての論及は全く ない。この点はアメリカのそれらと全く異るところであろう。ホイマン14)・15)・16)にしてもSHES,
そして特にフォーダーは,口ぐせのようにrRationale」を問うているのである。残念乍らこの傾 向は 80年代に入っても「抽象的・粗雑なもの」的情感が漂うのである。
さて,昭和40年以降についてみると,森17)が昭和42年にこれについて述べ,各種の健康教育内容 を紹介し,「内容とその選択基準」についてふれている。森は次の三つが不可欠の「基礎条件」と してまとめている。「児童生徒のニード(学習者の発達段階)と社会のニード(教材の現代的な意 味)と学問のニード(学問性)の三つの側面からのアプローチが必要である」とされている。
その後,黒田,植村等があるがこの点に殆んどふれていない。もっとも植村18)のように「教育課 程の根拠と意義」の説明があるが,根拠の考え方が,ホイマンやクレズウエル,ストーン,フォー ダーらの考えるものと全く異ったものとなっている。
野尻19)は「健康教育概論」を著したが,この点は殆んど素通りしており,内容論のない「健康教 育概論」となっている。同じ時期に筆者は72年の日本学校保健学会でのシンポジウムのまとめの一 部を「現代保健科教育法9)」の中に示した。その骨子を示したのが「健康教育内容の選択・構成の 原理・基準。図1」である。
図1 保健教育内容の選択・構成の原理
Aレベル Bレベル Cレベル Dレベル
①保健・安全に関する科学知識と その論理
a)記述・説明部・要因構造 b)保健問題解決過程部 c)行動要因の構造
〔保健。安全に関わる現象・問題情報〕一一〔饗袋獺一一 ②学習者の条件・心身発達段階へ
@の対応
a)保健認識・学力,興味,態
@度等 一一
k新しい教育内容の構成〕
b)主体以外の学習条件
③教育理論 一( 現代化の方向教育内容の落差うめ)一(講磐造化)
↑騰響晶騰論
④国民的,人類的課題からのニー ド
ェ11:謡1跳」讐纒
時 間 的 縦 軸
(保健教育内容のTime lag)
図1についてはこれまで繰りかえし発表,説明したので改めてふれない。
この間に「教材の系統性」の論議は若干みられるが,「系統性の基礎」となっている「教育内容」
を「どう採り入,構成するか」については殆んど焦点はむけられていない。
先述の小倉8)は,クラークらのモデルに基づくという根拠の明示説明をして,「5領・6領域」
の試案を示している。これは確かに構成原理の一部であるが,つまり筆者のC一①の一部に凡そ相 当するものであり,これだけで内容が構成されるものではない。学習指導要領における内容構成も この種の考え方に似るものとする推察も可能であり,また,なされている。
しかし,モデル自体に問題が指摘されている場合,これは論理的に整合性を欠くことになる。例 えば時間的次元や空間的次元のカバリッジ等の事である。これについても多く述べたのでふれない。
それにしても唯一の明確な根拠を示したものとしてこの「試案の構成」は優れており,評価されな くてはならない。
昭和50年代に入ると新進の研究者のものがみられ,僅かではあるが「教育内容の構成原理」とし て論及するものがみられている。この種の観点で学習指導要領・概念について検討したものには藤 田20)がいる。もっとも,この種の研究に対して批判的なものもないではない。例えば数見21)は「…
内容選択の原理として,一定のr保健の科学』の体系性に依拠するということは,たてまえとして は正しいけれども,その体系性なるものが明確ではない現状においては,それをいくら頭でシェー マ化して構想しても,それはきわめて抽象化された粗雑なものにしかなりえず……」としている。
ここでは詳しい説明がなされていないので,この面の論究について,「何を,どうすべきか」は,
つまり,「粗雑なものであるとしたら,これに代るものがあるのか」「その根拠は何か」「代るも のが必要ないとしたら,その理由は何か」については全く不明なので,これ以上とり上げないが,
アメリカのSHES等の現代保健教育理論構成の論拠をどうのり超え得るのか,という課題を負う ことになることを述べておく。このことは,教材作りにカリキュラム論は欠かせないし,カリキュ ラム構成に,また,ontology, Epistemiol ogy, Axiol ogyは不可欠であることも補足せねばなるま
い。
この他,新しく出されたものもあるが,この点には全くふれないものもある。不思議なことであ るが,「試行錯誤」であろうと何であろうと,健康教育の内容を「これこれである」と全国的基準
・拘束性をもって,或は研究として提示するからには,「どんな考え方の基に,どんな理由で」構 成したのかが,無いことには「健康教育の内容」が「出現する」筈はないのである。フォーダーに
も,再び日本の地・筑波大学で「神様が作ったのか」といわせるのは,当然というべきであろう。
20年ほど前の保健科教育の授業の中で同じ表現をして,その必要性を説いたら,学生達は妙な顔を したが,その顔はずっと研究者の中にも存在していたのである。数年前の訪米時に同じ表現をきか されて意を強くしたが,これは筆者の個人的な経験と思っていたところ,研究者達に向って彼が再 び同じことをいって笑いをつくったが,重大な課題ととるべきであろう。
今年昭和57年になって森22)は現代学校保健全集の中で明確に「保健科教育の内容構成の原理」と して述べている。しかし乍らどういうわけか自著の「三つの基礎条件」についてはふれてなく,そ の関連・検討はみられない。ここで森はア,イ,ウの3項目について述べているが,これらは田浦,
三板,正木の論に拠るところが大きく,特に新しいものでも,より基本的な展開でもない。例えば,イ の「知識の質」については知識論的追究でもなければ記号,認識論的追究でもなく,かといって,
保健の科学の知識体系の追究,検討でもない。したがって,この中の一つであるモデル論的追究は
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ない。それにしても,「健康科教育内容の構成原理」として明示した形での論及はそれなりに評価 したいところである。
細い検討は余裕がないので別にしたい。このことはアメリカ,イギリス等の健康教育論のそれに ついても同様である。紙幅がごく限られているので省略せざるを得なかったが,これらにっいては これまでも多くふれたのでここでは省くことにする。
4.健康教育内容構成原理による教材領域の構成
筆者はこれまで疫学,公衆衛生学及び健康教育・Health Education関係のヘルスモデル等の検討 から,ヘルスモデルが十分に忠実にオリジナルを反映・カバリッジしているか等を追究し,そこか
ら健康教育内容を構成するため,ヘルスモデルにおける「記述部」 「説明部」 (予測部)の必要等 を説明してきた。(図1C一①a, b, c)領域の構成はモデルの各要素とその組合わせに対応する
こと,その内容は, 「記述」 「説明」部によって構成され,しかも「人間行動の要因構造」と「問 題解決過程」の特徴を最低必要とすること,しかも教材としての構成は「上位概念・基本概念」「中 位」「下位概念」「多種の具体的教材」でなされることを繰り返し述べてきた。
むろん,原理となるものはC一①の基準だけではない。C一②,③,④について各々の追求と分 析,統合が求められるのである。例えば,C一③の一部である教育目的論の中での健康教育の目的 の一つに「保健安全に関する科学的認識の発達」があり,これについては殆んど容認されるものと なっているが,C一①で追求される内容とC一③のそれは無関連,独立であったり,曖昧なもので あってはならない。科学的認識を「単純な因果認識」と想定しているとすれば,関連統合が因難と なるからである。最近の科学的保健認識を論じているものの中にも恰も自明のごとくそれを述べて いるものが少なくない。これでは教材の構成はその枠の中からして出てこないから,オリジナルを 理解認識するに足るカバリッジは構成の基本的な考え方において欠落したものとなってしまう。こ れらについても既に発表したので省くことにして先に進めることにしよう。
筆者は健康教育内容領域構成のための大型・上位モデルとして,わが国の教科書教材にもなった クラークらのモデルからホイマン,SHES,最近ではプラム,ディバー,ラロン等を検討した。
古い疫学的モデルと新しいモデルの異なるところは,なんといっても「人間の保健安全に対する主 体的,科学的な行動」といえる。この中に「保健的行動」もあれば「医療行動」もあり,現代では
この要因・条件の健康安全にもたらす影響は大きいことが最近のモデルで示されている。
これは古典的な個人的衛生行動のことのみを指すのではない。時間的次元,空間的次元も含めて の「ライフスタイル」の要因・条件であり,「現代における科学的医療活動」のそれである。ここ ではC一③以下の条件は別に考えることにしても,これらのモデルに共通する理論枠から,上記の 教材領域は導出されるし,同じくして時間軸と空間軸から「人類・人間の健康安全生活の時間的推 移,歴史的観点」を教材領域として構成しなくてはならない。また,「健康・疾病概念とその成立」
についても基礎理論として不可欠である。例えば,健康安全の生活における問題性の存在,指標,
基準,尺度等から健康水準の認識・判定がなされない限り,これに論理的に対応整合すべき各種の
「保健・医療的行動・予防行動」は導出し得ないからである。
時間軸にそって大型モデルの各要素をみる時,どれをとっても「変化変動」し,単に「主体Host」
に限定されずに健康安全現象は変化変動していることから,時間軸において相対的に恒常的なもの
とそうでない「現代的」な題材についての「各論的応用篇的」構成教材が当然必要となる。他は疫 学的モデルの構成においてなされればよく,主体や環境等の組合わせによってなされる。
凡そ以上のような理論枠・モデルで構成すると,C一②以下の条件は別に考えるとしても,次の ような教材内容領域が求められる。即ち,人・人間・人類の健康や安全を理解認識する場合には時 間的次元は不可欠であり,同時に空間的次元も入ることから,①これらの諸現象・事実の時間的推 移,変化変動,歴史的観点で構成される(1)「健康・疾病・観とその歴史」が一領域となる。「健康 権」に関する学習は主としてここでなされるわけで,単にWHOの憲章から,つまりC一④・社会 的ニードの一部として取入れるものではない。人が人間になる闘いの歴史の中で「健康権」等の学習
・認識はなされるものであって,「条文の解説」に終るような教材の構成であってはならない。余 裕がないので簡略して述べるが,次は,この時間軸の中で,時代と共に変化する「現代的・当面的」
な「生活課題中心的」領域が導出される。即ち(7)の「生活の中の健康問題」である。これらの健康 問題に対して,その解決に対応する科学的な解決の方法・過程が当然求められ,(6)として「健康問 題の解決過程」の領域が設定される。ここでは,問題の存在とその認識,指標,基準,尺度等から 科学的な解決過程のアプローチについて学ぶことになる。プラム,ラロン等の新しいモデルから⑤ の「健康と生活行動」の領域が導出され,他の②「人から人間へ成長発達・死まで」③「人体構造
と機能」(4)「環境・病因と健康」は,凡そ従来のモデルから導出されたものとなる。
これまで,いくつかの領域試案が出されているが,根拠の欠落した信念的私案であったり経験的 私案であることが少なくない。筆者のこの大枠からみると,そこには共通して(1)や(7)それに(6)等が 欠落していることが示される。「具体的でない」とか「現場に役に立たない」等の批判があるが,
重要であるのは「構成の論理」であろう。如何に具体的であろうと,欠落・欠陥したものは,それだけ のことになる。かつて多くの研究者が「生理衛生学的」教材領域を批判した。これと同じことがい えるのである。具体的な,各領域教材の「中枠・小枠・細枠」等については「授業研究・実践」結 果も含めて,個々に報告してきたし,今後もこの方向で追究し,提示するつもりである。
参考引用文献
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の