論文】
大川周明の世界構想における 「大東亜戦争」 の意味について (後編)
──「不条理」(「神の摂理」)としての「世界戦争」、その体験と予見──
菅谷 務
クラウゼヴッツとカイワヨの間には、近代の一世紀半の歴史が経過している。要するにこの二つの戦争概念の間には「世界戦争」が横たわっているのだ。近代の端緒には、それを遂行する主体つまり国家の力量によって限定されていたために、それは主体の遂行する目的志向的な行為でありえた。だが世界の「リンケージ」の完成とともに、いったん遂行され始めた戦争は個々の主体の意図とコントロールを一挙に超え、「破壊の先」の目的は露呈する〈全体〉の中に霧散して、ただ「破壊」だけがあらわな目的として突出するようになる。そのような条件の下では、戦争は起こす前には「政治の一手段」たりうるが、いったん起きてしまうともはやそれは手段ではなく、逆に破壊行為とその後始末がその後の政治を決定することになる。そこでは戦争と政治との関係は逆転し、戦争の「現実」が政治を規定する。いいかえれば、もはや戦争に主体はなく、逆に戦争そのものが盲目の主体として権能を揮うことになる。(西谷修『戦争論』
四二~四三頁)
はじめに
わたしたちが日本の近現代史を考える場合、未だ「東京裁判史観」なるものの呪縛から解放されていないことは前稿の冒頭において指摘した。そこでも述べたように、「東京裁判」とは西欧的な秩序を世界秩序として全世界に承認させ、それを新たな戦後体制の土台を形成する世界構想として宣布するため英米ソなどの戦勝国によって周到に仕 立てられた政治ショーといってもよいものであった。その経緯と詳細については関係諸書において度々言及されてきたことでもあり、ここでは繰り返さない。しかし、各当事国の政治的な思惑から一旦離れてこのことを思想史的な視点から捉え直してみると、現代世界が抱えている同時代史的な難問がすでにそこに突きつけられていることに気づかされる。それは第一次世界大戦からはじまる「世界戦争」といわれる戦争がこれまでの戦争とは人間の認識とコントロール能力を大きく凌駕している点において大きく異なる戦争であり、したがって、この世界的大変動を説明し適正に対処するための誰もが納得し得る答えが今もって見出されていないということである。 こうした現代にまで続いている不安に満ちた状況を「世界戦争体制」と呼ぶのは、それが世界的規模における恒常的な戦争状態(「冷戦」以降、大規模な国家間戦争が起きていないのは原子爆弾の出現が「顕在的戦争状態」を「潜在的戦争状態」に変えただけのことであり世界が恒常的な戦争状態にあることは変わらない)を表しているからであり、二度の「世界戦争」によって露出した国際的な力関係の現状だからである。冒頭に引用した西谷修の『戦争論』の一節が示しているように、西欧的秩序によって一元化され余白がなくなった後の世界において、第一次大戦を始点とし第二次大戦と戦後の冷戦体制を経て、冷戦崩壊後の東欧、中東やアフリカ、中国における地域紛争や民族紛争の続発、東アジアにおける激化する政治的不安定、激発する国際テロなどに見られるように、М・ハイデカーの言い方を借りれば、得体の知れない何かに突き動かされているような、「存在」の根底から湧き上がってくる世界崩壊への底しれぬ「不安」が蔓延する時代といってよい。
以上のようなことを念頭に置いて、「東京裁判」の論理を考えてみると、最大の訴因となった国家犯罪としての「戦争犯罪」を構成する「平和に対する罪」と「共同謀議」とは、それまでの国民国家(主権国家)を主体とした国際法の概念には見られなかったものであり、このこと自体が第二次世界大戦に象徴される「世界戦争」というものが従来の戦争とは異質な戦争であったことを暗に示している。すなわち第一次大戦頃までは交戦権は主権国家としての当然の権利とされていたのであり、主権国家間の戦争は「犯罪」とはみなされないどころか、戦争はむしろ国際紛争解決のための最終的な手段として肯定されていたのである。各国の自衛権の行使がその国の主権に属することからいえば当然のことであった。こうした国家間における紛争解決のための国際慣行に大きな亀裂が生じたのは世界文明のモデルとして自己を形成してきた西欧世界を未曽有の惨状に陥れた第一次世界大戦の勃発であった。この経験から生まれたのが大戦後のベルサイユ条約や不戦条約にみられる「罪悪」としての戦争観であり、わけても「侵略戦争」を「国家犯罪」として見る視座が形成されたのは人類史上特筆に値することであったといってもよい。
しかし、国家主権に属する「自衛権」の存在や「侵略」の解釈をめぐる問題などもあり、侵略を目的とする戦争だけではなく国際紛争解決のための手段としての戦争は道義的、概念的には否定されたものの、これを国際法として厳密な法体系のなかに定着させ、法としての実効性を持たせるための国際的合意の形成と具体的な機構の構築には、主権国家の存在を前提とする国際関係の現状においては幾重にも困難があり、主権国家による武力行使の全面的禁止への道は現代に至るまで 国際秩序形成と保持の上で最大の難関となっていることは周知のとおりである。 第一次、第二次とたて続けに起きた世界大戦が「世界戦争」としての側面を如実に示してしているのは、すでに述べたように、この戦争が参戦各国のコントロール能力をはるかに超え瞬く間に世界の主要国とその植民地を席巻し次第に収拾不可能な状況に陥り、第二次大戦に至っては原子爆弾という「最終兵器」の使用によってようやく終息を見たという事実である。この戦争による破壊の質と規模が開戦当初の想定をはるかに絶したものであったことは今更いうまでもなく、西谷の言うように、政治の延長としての戦争ではなく戦争に政治が引きずられるかたちで展開し、戦後世界の国際秩序の再編もまた戦争の延長線上において画策されたものであることは、戦争終息直後から東西両陣営の戦争状態が朝鮮戦争というかたちではじまり「冷戦」という名の潜在的戦争状態が半世紀近く続き、発端となった朝鮮戦争は現在に至っても「停戦」というかたちの戦争継続状態にあるということがそのなによりの証左といってよい。 こうした世界戦争における原爆投下といい、総力戦体制といい、航空機や潜水艦による無差別攻撃といい、有毒ガスを使ったユダヤ人の大量虐殺といい、当時における最高水準の科学技術の総てを駆使し技術的思考のエッセンスを傾注した結果であったことは周知の事実である。すなわち「世界大戦」は大局的に見れば、西欧的思惟、とくにキリスト教的自然観(聖書が肉体をはじめ人間に内在する「自然性」を「原罪」として見ていることからもわかるようにキリスト教にとって「自然」は征服と支配の対象でしかなかった)に淵源しその土台の上に構
築された科学技術と世界構想がもたらしたある意味における必然的な帰結であったといっても過言ではない。これと同じように「東京裁判」の論理もまた、「共同謀議」といい「平和に対する罪」といい、そのまま西欧的な論理構成に基づいた秩序観の延長線上に構成されたものであった。前者はキリスト教的終末論を起源とし進化論と科学的決定論などの近代科学思考と、論理学における因果律や目的合理性という考え方をベースとしており、後者は広大な植民地を持ち「経済大国」「軍事大国」として不動の地位を確立した西欧「主権国家」、すなわち被植民地側の視点に立てば「侵略国」によって作り上げられた優勝劣敗の現状を国際秩序として固定し肯定することを「平和」ということの基本条件として成立するものだからである。いいかえれば、「共同謀議」というのは結果から原因を特定する目的論的な考え方をそのまま犯罪構成上の主因(動機)の特定に援用したものであり、「平和に対する罪」というのは、フランス革命以降の西欧が生んだ「自由」と「民主主義」に基づく「国民国家」としての「主権国家」を世界の文明国が規範とすべき国家形態とし、それらによって形成された国際秩序の存在がその前提とされているのである。以上で述べたように、この裁判自体が「西欧中心主義」の世界観を如実に反映していることが納得されよう。
略戦争として一方的に規定されており、これが裁判成立の前提とされについての当事国の認識と見通しは基本的にはクラウゼヴィッツの のために「民主主義国家」に対して「ファシズム国家」が仕掛けた侵すなわち、開戦時における戦争終結までの戦争計画や終結後の状況 界制覇」であるとして、また「平和に対する罪」はこうした目的達成ある。 その目的は戦勝国によって敗戦国が実行した「侵略戦争」による「世文明圏に属していた日本や中国においても同断であったということで 的が明確化されていなければならないが、国際戦争裁判所条例により果に終わったという厳然たる事実であり、このことは欧米とは異なる 「共同謀議」が成立するためには何に対する「謀議」なのかその目立し実行することができず逆に戦争に引きずられたため、惨々たる結 牲者や被害を最小限に止め最大限の成果を得るための有効な戦略を樹 力では全くその本体および全体像を捉えることができず、このため犠 たこの戦争が、それまで培ってきた合理主義的世界観に基づく認識能 トロールを優に超え世界を破壊尽くすほどの未曽有の惨状をもたらし おける最も深刻な問題は、西欧世界だけでなくすべての参戦国のコン て済むほど事態は簡単ではない。既に述べたように、「世界大戦」に る。ただし、一方的に戦勝国における「自己認識」の欠落のみを責め 論それ自体の土台を覆すほどの世界規模の大変動であったはずであ それは科学とヒューマニズムに立脚した西欧が世界に誇る学問的方法 るほどの深刻な事態に対する自己認識が全く欠けていたことである。 いて顕現したという西欧世界にとっては自己存立の基盤崩壊を意味す きた西欧近代政治思想の破綻が「世界戦争」の勃発というかたちにお ているだけではなく、なによりも世界の文明化を標榜して突き進んで るべき法的手続きや運用などに関する基本的な必要諸条項を欠落させ 問題は、この裁判が通常の裁判が成立するためには当然の前提とな 際正義」の実行という名に下に行われたのである。 の正否を判定し罰を下すという「懲罰」行為が「国際裁判」による「国 たのである。いわば戦勝国の掲げる戦争の論理によって戦争それ自体
『戦争論』(一八三二~三四)にいう近代主権国家草創期の戦争観である「政治の延長としての戦争」の枠を超えるものではなく、新しい戦争形態であるこの戦争が勃発した真の理由とそれが意味するものとその後の展開については西欧の主戦国はもちろんのこと、後れて「主権国家」の一員として国際社会に参入した日本および中国などアジアの参戦国も戦時体制の構築に追われ、「国際社会」の歪みを通じてその奥底から噴出してくる「世界戦争」の特異性を正確に認識できるほどの余裕はなく、これまでモデルにしてきた「主権国家」という在り方を見直し、あらたな秩序の形成に向かうための学問的方法論を確立しそれを駆使して未曽有の事態に対処できるほどの思想的な境域には至っていなかったというのが実情であった。日本をはじめアジアの諸国は、西欧中心主義による国際秩序に対してそれがアジアの不安の根源であることは等しく感じてはいたものの、当時の国際秩序のなかで外交、貿易、軍事面における対外政策を含めた綜合国策を樹立し国際法のルールの下に行動する限り、これまでの東洋的な学問や制度に代えて近代(西欧)科学や法制を採用するなどしてウェスタンスタンダードに則した認識基準と行動規範に照準を合わせざるを得なかったからである。要するに、世界全体がこれまでの合理主義による認識の範囲を超えた「戦争」になんらかのかたちで巻き込まれざるを得なくなったということが二〇世紀前半の国際社会の現状であったのである。
戦争の展開において歯止めの掛らない事態は名実ともに「世界戦争」であった第二次世界大戦に典型的に表われており、それは人間の「想像力」をその極限にまで麻痺させ、戦争を早期に終結させるという名目に止まらず同じ連合国の内部から台頭した次なる敵対勢力ソ連の動 きを牽制するためにも「人間」として外してならない最後のストッパーに手がかけられ、「人類の自殺兵器」(「最終兵器」)といわれる原子爆弾の使用に踏み切らせたのである。さらにこうした行為を正当化し、その結果を成果として戦後の国際社会の再編に繋げていくためには、日本、ドイツ、イタリアなど敵対した枢軸国の戦争目的を「世界侵略」と規定し、とくに日本に対しては「共同謀議」「平和に対する罪」など従来の国際法にはなかった罪状を新たに適用することによってこの戦争の「元凶」をなんとしても特定し、それに一切の罪過を負わせ断罪することが最も好都合であり、一方、「無条件降伏」という事態に追い込まれた日本もまたこの結果を受け容れることによってしか戦後生存(国際社会への復帰)への余地は残されていなかったのである。 しかし西欧世界においてもこうした世界的大変動が実は西欧的世界観の基盤としての西欧的思惟、とりわけ西欧近代思想の自己展開が招いた必然的結末であるのではないかということに逸早く気づき事態の深刻さを衝撃的に受け止めた少数の人々がいた。フロイト、C・G・ユング、М・ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、ベルグソン、アドルノ、ホルクハイマーら戦後それぞれの分野で顕著な功績を遺し現代思想の形成に大きな影響を与えた西欧の思想家や哲学者、文学者、心理学者、精神病理学者たちであった。自らの生きる同時代に対する知識人特有の「直観」が彼らを捉えていた世界崩壊に対する「不安」の感情の出どころを究明する方向に向かわせ、それまでの西欧的思惟について根底からの再検討と、西欧合理主義によって「非合理」なものとして排斥されてきたもの、たとえば人の心の深層、神秘思想、修辞学、占星術などの再評価や合理主義そのものが必然的にもたらす「非
合理性」などこれまでは正統な学問的対象とは看做されてこなかった領域の新たな開拓に取り掛からせることになったのである。そのなかでも注意すべきことは、これまで排除や克服の対象としか見られてこなかった東洋思想に対する新たな発見であり、とりわけインド哲学や仏教思想と西欧思想との比較研究の道を切り拓き、東西に共通する思想的基盤の模索を始めたことであった。 一方、アジアの側でも、以上のような西欧の知識人の動きに呼応するかのように、たとえば前稿で取り上げた中国の辜鴻銘、インドのタゴール、ガンディー、日本の大川周明、西田幾多郎など何人かの思想家が辛亥革命、ロシア革命、第一次世界大戦、四つの世界帝国の崩壊などの混沌とした世界情勢の中で、東洋思想を世界史的観点から新たに捉え直し、これまで支配的であった西欧形而上学に代わる新たな哲学を提示することによって閉塞状態に風穴を開け世界史に新たな展望を切り開こうと独自の思想的活動を展開していたのである。なかでも大川周明は「大東亜戦争の思想家」といわれたように、この戦争に対する思想的意味づけに全力を傾注した人物であった。そうした大川周明の世界観をメインテーマとして追究してきた本論において、C・G・ユングのいう「集合的無意識」の概念や、それよりやや時代を遡るがR・シュタイナーの神智学などのいわゆる「西欧神秘主義思想」と、大川が自己の思想の基底としたインド哲学やイスラム神秘主義思想(「スーフィー」)、大乗仏教、朱子学などの東洋思想をリンクさせて世界大戦前夜の世界的変動期における大川の世界構想の意味とその可能性について論じてきたのは、以上で述べたような西欧思想界の新たな動きから「世界戦争」の時代の日本における思想界の営為を「共時性」とい う時間的な概念を通して捉え直してみる必要を感じたからである。こうした観点から、敗戦以来、国際社会のみならず国内からも負の側面とされ否定的に評価されてきた日本の精神文化=「曖昧性」というものに日本文化の基底を形成してきた大乗仏教、とりわけ禅の思想が脈打っていることに止目し、それが西欧的思惟に基づいた社会科学的認識論とは異質なもうひとつの有効な世界把握の方法であり行動様式であることを大川の著作の中から探ってみたのが前稿「大川周明の世界構想における「大東亜戦争」の意味について(前篇)──日本の「曖昧性」と新たな世界像の模索」である。 本稿(後篇)でのメインテーマは、前稿(前篇)での視点を継承しながら、第一次世界大戦から始まり、満州事変、日中戦争を経て第二次世界大戦の一環としての太平洋戦争終結までの期間、すなわち「世界戦争」の時代という中にあって、この世界的大変動と大川周明という思想家がどのように自己の思想的生命を賭けて向き合おうとしたのかということ、そしてこのことを通して、大川によってあらためて提起された「戦争」というものの意味を「世界戦争体制」としての現代を生きるわたしたちの同時代史的観点から新たに考えていくことである。ただし、アプローチの方法としては、(前篇)とはやや趣を変え、新たに「配置」という空間的な概念を援用してみることにした。 あらかじめいえば、「配置」という概念は、宋学とりわけ気の哲学に詳しい桑子敏雄が朱子学における世界理解の方法として朱子学研究から導き出したのもので、C・G・ユングのいう「共時性」に近いが、「共時性」が因果関係の対立概念として時間概念の枠内にあるのに対して「配置」はそもそも時間とは異質な概念とされるものである(桑
子 八
二頁)。「配置」の概念については、行論中において随時論じることになるが、要するに主体としての自己と自己を取り巻く環境とそれを包括している宇宙との関係を構造的に示すものであり、たとえば「地図」における「配置」とは、顕在的な「図」に対してその下地となり隠れた存在として「地」があることによって「地図」が成立しているように、不定形で不可視なものを構造として包摂しているゲシュタルトまたは「状況」であり、方法論として見れば、こうしたゲシュタルト、状況を認識対象とする空間的把握の方法といってよい(桑子八二頁)。
こうした視点を援用したことについては、因果論でいう原因―結果の関係を目的―動機の関係に代え、目的から時間的に動機に遡ることによって、動機を原因として特定していくのではなく、それでは捉えることができなかった「世界戦争」というものの全体像と、その中で生きる多様な人々にとって「戦争」というものが各人ごとにどのような意味を帯びいかなる位相の下に見えてくるのかといった歴史の複数性という問題に迫ることができるのではないかと考えたからである。同時に大川自身の世界把握の仕方がこれまでも見てきたように、まさに朱熹の方法、すなわち主体を含む多面体としての世界の構造的(状況論的)把握にあったからでもある。さらにいえば、こうした大川に見られる世界把握の方法は東洋思想に限られたものではなく、古代のメソポタミア地方に淵源し、ユダヤ教のカバラや、古代地中海沿岸地域に広く見られた地母神信仰、イスラムのスーフィー思想などのように正統思想からは排除されながらも西欧思想の母体として長くその根源に脈打っていたものにも同様のものがあり、このことからも、大川 の世界構想の方法は現代においても複数の領域間、そして多次元間を繋ぐ媒体として東西の間だけではなく人類社会に共通する新たな思想的次元を開いていく上での糸口の発見につながると考えられるからである。 こうした全体論的な視点に立って世界を構造(状況論)的に把握することは、「東京裁判」の論理をその深層から再度検討していく上においても重要な視点になることは間違いないと思われる。たとえば、社会哲学者小坂井敏晶は刑事裁判における「犯罪」の成立と裁判との関連について「ひとを裁くということは、誰かを犠牲にすることを意味する。実は裁き自体が犯罪行為なのだ」と言っているが、その理由として次のように述べていることは、「配置」という概念の有効性を示す恰好の例として示唆するところが大といわなければならない。
犯罪者とそうでない者を分け隔てる何かが各人の心の奥底にあるのではない。因果関係が逆だ。実際に行為に走った者には、もともと殺人者の素質があったと我々は後から信じ、またそのように本人が思い込まされているのである。人間は意志に従って行動を選び取るのではない。逆に行動に応じた意識が後になって形成される。警察の厳しい取り調べの下、犯罪動機が後から作られる。また、服役生活において罪を日々反省する中で、犯行時の記憶が一つの物語としてできあがる。
(小坂井 一九〇~一九一頁)
このように裁きの現象学から見た犯罪と裁きの関係は、近代の主権国家間における「世界戦争」の原因追求とそれに対する「裁き」の場
合においても構造的には同一であり、「東京裁判」の深層を構造的(=配置的)な視点から捉え直してみることによって、そこから透けて見えてくる大川周明が描いた「世界大戦」というものの構図がどのような意味をもって現在のわたしたちに迫ってくるかを考えていくための一つの道標を提供するはずである。
一
「第一次世界大戦」と大川周明の戦争観
大川周明の戦争観を考えていく場合、先ずは大川が同時代史としての「第一次世界大戦」をどのように受け取り意味づけをしたのかということから見ていくのが至当であろう。大川は大戦勃発の翌年の一九一五(大正四)年八月と翌々年の一六(同五)年一月、大戦終結後の一九一八(同八)の七月と一〇月、二〇(同九)年の五月と立て続けにこのヨーロッパを主戦場とした「世界大戦」について直接論評した論文を雑誌に発表している。大戦中に発表された最初のものは「板谷男爵の平和論を評す」というタイトルで、「平和論者」の代表者ともいうべき法学者板谷芳明が平和協会主催の例会において講演した「平和論」への論評を中心に当時の「平和論者」といわれる人々の論調を取り上げそれに対する自己の見解を述べたものである。その翌年には「君国の使命」と題して、西欧の有色人種に対する差別の実態と大戦において露呈した「科学的蛮民」としての西欧世界の限界と日本をはじめとする東洋諸国の世界史的使命の自覚について論じている。大戦終結後に発表したものは「我等の進む可き路」、「講和会議に於けるウィルソンの失敗」、「新しき世界戦」という三本の論文であり、前 者は大戦によって醸成された世界的な「不安」とその出所についての考察、次のものはアメリカの真の参戦理由とウィルソンが提出した講和の条件および戦後構想との矛盾の指摘、後者の「新しき世界大戦」は大川によるこの戦争に対しての総括である。これらの論文のなかから大川の「戦争観」が直接読み取れる箇所を見ておこう。先ず「板谷男爵の平和論を評す」である。 大川によれば板谷の講演の大要は次のようである。 大戦が勃発したことはこれまでの平和論者の主張を蹂躙するものであった。しかし、次第に非戦論と厭戦気分が高まり戦争は早期に終結し、戦後には平和論が高まり平和論者の勢力が増大することが十分想定される。その理由として近代ヒューマニズムの精神が国際間の道徳秩序の形成にも大きな影響を与えており、また経済的、政治的にも国家間の関係が緊密になったことが平和への志向を助長していることが考えられる。以上が大方の平和論者の世界大戦勃発時における情勢判断であり、したがって日本はこうした世界の論調に十分配慮しこれに逆行するような行動には慎重でなければならない。 これに対し大川は、むしろヨーロッパの大勢はそれとは正反対の傾向を示しているのではないかとして反論を試みている。その要旨は、板谷の「平和論」にいう「平和」とはいわば人道主義的なものであり人類の歴史とともに古く存在しているもので、戦争の度ごとに唱えられたが戦争を抑止する力にはならなった。それに、「平和論」というのであれば近代の「平和論」に相応しく国家の経済的利益の獲得を最優先とした「経済的平和論」でなければならない。しかし、こうした「平和論」も今回の大戦勃発によって不毛に帰した。要するに、時代によっ
て宗教的、道徳的、経済的立場に立つ「平和論」が唱えられ、その実現のための様々な制度の構築や条約の締結が試みられてきたが、こうした努力と成果が大戦の勃発によって一挙に「蹂躙」されるという「一大奇観」を呈したことに対して板谷の「平和論」は根本的な説明にはなっていないということであった。その上で、大戦勃発後におけるヨーロッパ諸国の戦争をめぐる具体的な動向を挙げ、そこから次のような注目すべき見解を導き出している。
若し独逸が瞬く間に聯合軍のために敗られて屈辱の講和を余儀なくされるやうな次第であつたならば、世界の平和論者は一斉に鼓を鳴らして軍国主義の失敗を難じ、各国の民心に戦争の愚を印銘し得たかも知れぬ。又若し独逸の最初の戦略が見事に成功し、聯合軍の醜き敗戦によつて早く戦乱の局を結び得たりとすれば、戦争に対する恐怖と厭忌との心から却つて平和主義に走る人が多くなつたも知れぬ。然るに事実は板谷男爵の想像に裏切して、戦争が長期に亙るに従つて、前述の如く平和論は次第に軍国主義のために圧倒されて来たのである。
(関係文書 一〇〇~一〇一頁)
すなわち「平和論者」か「軍国主義者」かのどちらに分があるかという問題は、戦争の動機(原因)や勝敗(結果)には関係なく、早期に終結すれば「平和論者」のいうように非戦論者が多数を占め平和実現の気運が高まることも想定されようが、現在のように戦争が長期化の様相を示すようになるにつれて「軍国主義者」が圧倒的に多くなっているのがヨーロッパの現状であるという認識を示し、その真の理由 について次のように述べるのである。このことは、大川が第一次大戦についての一連の論考において最も強調したいことのひとつであった。
戦争に強き国家は発展の威力を包蔵せる国で、戦争に弱いやうな国家は既に其の運命が中天を過ぎたる国であるとの自覚を生じ、若し今日の欧羅巴列強を打して一国となして了ふか、然なくば各国が一切の活気を失へる老衰の状態に陥るに非ざる限り、戦争は到底避く可らざる事実であつて、善悪損得の如何を問はず、戦つて必ず勝つだけの軍備あるに非ずんば、竟に国家の威厳を保ち国運の隆興を期し難しとの思想が、次第に明確に且強くなりつゝあるのである。(中略)曾て米国の一軍人ホーマー・リーが其の注意すべき著書『無智の勇気』の中に、国民が或る程度まで発達すれば、総て必然的に発展するか萎縮するかの岐路に立つものなる事を論じ、此の重大なる危機に際して敢然として干戈を提げて起つ事を辞せざる国家は、偉大なる発展の能力を包蔵せる事を示し、若し此時に於て既に戦争を忌避するやうな国家は、最早頽廃の運命を免れざる事を示すものであると論じて居る。吾等は此の主張の中に拒み難き真理を認めざるを得ぬ。独逸帝国の如きも要するに今や其の拡張発展の極端に会し、ホーマー・リーの所謂必然の法則に駆られて、其の国民は如何にしても戦争をしなければならぬ場合に到達したものと見る事が出来る。されば我等は独逸が国運を賭して未曽有の大戦を敢てした事に向つて、是非善悪の批判を下さうとは思はぬ。