退屈論 : 世界の自明化と退屈の問題 (2)
その他のタイトル On Boredom (2) ; Toward a unified theory of fun and pleasure
著者 木村 洋二
雑誌名 関西大学社会学部紀要
巻 19
号 2
ページ 71‑90
発行年 1988‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00022681
関西大学r社会学部紀要」第19巻第2号, 1988,pp. 71‑90. ISSN 0287‑6817
退屈論一一世界の自明化と退屈の問題 (2)
木 村 洋
On Boredom (2) ; Toward a unified theory of fun and pleasure Yohji(Yorge) Kimura
Abstract
Varieties of methods of producing "surplus energy (signals‑supply)"
which gives us the sense of pleasure and fun are discussed from the, theoreti・cal standpoint we have developped in the former treatise. Real ‑thrills such as Russian roulette, chicken; games as well as safety‑proved thrill‑machines at playing lands or theaters are one of the wellknown methods to excitate the (supposed) signals‑supply system. The most powerful and graviest one , s war.
The pacifist‑tempered may adopt "make‑believe" strategy, which is the play. The more seriously one plays with nonsense, in other words, the more one becomes a fool himself, the more surplus energy (the fun) will be produced.
Intersubjective conspi ration is needed to such a make‑believe (or believing
; n general). ・seing looked・at‑‑by others will also adds to the excitation.
Especially the presense of representatives of society gives new dimension ("the sacred") to the nonsense play. The activities of loading and unloading (of schemata to activating‑siganals‑supply system) will make the mind more flexible ana free. Thus, "Gedatu", Japanese style of enlightenmen~, is often told to come after downright playfulnss.
Key words: play, fun, pleasure, thrill, war, gambling, game, intersubjectivity, make‑
beleive, stadium, honor, unload, gedatu 抄 録
退屈をしのぎ,余剰を生成して面白さを経験するさまざまな技法が論じられる。しなくてもい い仕事をして出力を高める物好きな方法から,暴走やロシア式ルーレットなど死に隣接する恐怖 を負荷する危険な方法がある。賭博は,獲得の期待に喪失の恐怖を乗じて負荷を高めるうまいエ 夫である。人命,国土,歴史,名誉など膨大な負荷がかかる戦争は, ヒトの出力を極限にまで高 める。他に,出力をあげる賢い方法に,とるにたらない馬鹿げたことを大事と見倣して虚の負荷 をかける「遊び」がある。遊びは真面目でなければ面白くない。 うまく見倣すためには間主槻 的な共謀が必要で,出力をあげるためには他者の視線を活用することが有効である。社会の目撃 は,遊びに聖なる次元を付加して栄光を生み出す。囲い込まれた遊びの場への参入と帰還の経験 は,負荷の脱着能力を高めて出力供給回路を自在化し,ときに解脱への道を開く。
キーワード:遊び,面白さ,賭博,スリル,戦争,見倣し,真面目,競技,他者,間主観性,
まなざし,スタジアム,表彰,栄誉,遊行,解脱
]I 面白さの探求
本号では,適応の成功によって生まれる快感の欠如,前号で見たあの耐えがたい退屈をしのぐ ためにホモ・サビエンスが持ち前の知恵をしぽって歩んだホモ・ルーデンスヘの道を「負荷ー出 カモデル」を用いて追跡する。
1. 負荷の快楽
余剰出力が快感を生成する(仮説3), という回路メカニズムは, 課題達成時にそれまでの努 力を快感として主体に報いるという,実に合理的な内的報酬のメカニズムであった。しかし,課 題の解決は負荷そのものの消失を意味し,図式化の進展は負荷レベルの低下をもたらす。出力は 負荷に応じてしか上がらない以上(仮説2),そうした低負荷状態のもとでは実出力は低迷し,
せっかく生じた余剰出力も,もはや微々たる快感しか生み出すことができない。こうしてホモ・
サヒ゜エンスは,何の課題もない理想的な適応状態のもとで,よろこびではなくよろこびの欠如,
つまり退屈を経験する。
この負荷の不在,問題もなく課題もない,することも何もないという負荷の真空状態から抜け 出して,なんとか真っ当な余剰の快感を味わう方法はないのだろうか。答えは簡単である。「必 要」を超えて, あるいは「必要」もないのに, それがなんであれともかく 「負荷」を課すこと だ。
1)道楽としての仕事
残業を抱えたサラリーマンや,繁盛している八百屋の主人は身体を壊すことはあっても退屈す ることはない。退屈するのは,窓際でする仕事もない人,さっぱり客の来ない売店の売り子,も う野良に出て稼ぐ必要もない近郊の農家など,なにもする仕事のない人たち,そしてしないから といって食べるに困らない「恵まれた」人たちである。
この負荷の不在からくる退屈を避けるための最も単純な方法は, ともかく 「何かすること」
何か「仕事」を出力系に与えてやることである。たとえ,さほどの快感は生まれないにして,そ れが一種の負荷となるかぎり,ともかくあの耐えがたい退屈の発生だけは避けることができるだ ろう。
実際この社会では,ウィンドーを磨きたてる売り子や露地の草取りに精を出す農夫,ぴかぴか に車を磨く運転手など,しなければしないで済む仕事を進んでしているかなりの人たちを見かけ ることができる。命令されたわけでもなく収入が増えるわけでもないそうした「余分」な仕事,
それほど勤勉に働かないでも済むその分以上の仕事をしている多くの人は,理論的には,一種の 道楽で「真面目な退屈しのぎ」をしている叫といっていい。
退屈論一世界の自明化と退屈の問題(2)(木村)
この真面目な退屈のしのぎ方の生産性,経済効果はもちろん絶大である。必要以上の「仕事」
をさがしだし,努力し,達成することを「楽しみ」とする真面目で生産的な退屈しのぎが,もし なかったとすれば,おそらく今日のわが国の経済発展もなかったであろう。日本にかぎらず,仕 事をせずにはいられないこの糞真面目な精神,仕事らしい仕事をしないでいることを堪えがたい 苦痛として経験する近代人の「退屈恐怖」は,「神亡き」あとの近代産業社会を支え, そのシス テムを駆動してきた「達成動機」の裏面である2)。
与えられた仕事にそれなりの楽しみを見出しながら,黙々と職業労働のパフォーマンスを追求 するという,そう稀でもない退屈しのぎのパクーンの他に,本業以外に頼まれもしない仕事,金 にもならない仕事を探し求めて自分に課す,「物好きな」退屈のしのぎ方も存在する。一定の自 由なコミットメントのなかでそれなりにアィデンティティの感覚を分泌するこの「ボランティ ァ」な退屈しのぎは, 「必要」としての負荷から(とりあえずは「不必要」な商品と欲望の氾濫 のなかへと)いっそう開放されつつあるこの脱産業社会のなかで,今後ますますその重要性を増
していくだろう。
2)エスカレーション
もちろん,こまごまとした仕事,こきざみな負荷で退屈を「しのぐ」ことはできても,内的報 酬といえるような良質な快感を味わうことができるとはかぎらない。図式化の成功が必要な出力 レベルを低下させる以上,課題の解決がそのつど生み出す余剰出力の快感は,熟達とともに微弱 化していかざるをえない。
達成の快感をそれなりに真っ当なかたちで味わおうとすれば,まったく新しい畑ちがいの仕事 をつぎつぎと課していくか叫それが無理ならば, 主体の習熟・図式化のレベルに合わせて,負 荷のレベルを徐々に上昇させていくことが必要である。負荷が適切なレベルに設定されるかぎ り,主体は引き続き余剰出力快感生成のメカニズムによってそれなりの快感を享受することがで きるだろう。
単調で低負荷な授業に退屈をもてあました子も,自分で問題を見つけて解く楽しみを発見した 後は,放っておいてもひとりで勉強をはじめる。解答を見つけたその瞬間,問題を解くために費
1)こうした言い方は不真面目であるとお叱りをうけるかもしれないが, しかし,つい先日までは,仕事が ない,ということは「飢えの恐怖」を意味していたことを忘れてはならない。 いまだにこの国の勤労者 の多くが,休日の退屈をもてあます,という事実は, 仕事が退屈しのぎの一種であること,あるいはす
くなくても仕事以外に退屈のしのぎ方を知らないことを明白に示している。
2) 「退屈はじつは必要である」「近代人は退屈することを知らなければならない」というB.ラッセルのメ ッセージはこの文脈で理解されよう。退屈を恐怖するあまり,本来外的適応上の「必要」を満たすため でしかない「仕事」を(しばしばそれ自体「価値」であるかのように思い込んで)ありがた<希求する 精神, 仕事を離れて「遊ぶ」ことをしらない精神は‑‑tt事そのものを遊んでいる高級な精神である可
能性もないではないが—―—すくなくとも自律した「遊びの文化」を生みだすことができない。
3)いわゆる「飽きやすい」タイプの人にはこの負荷の「種類」の変更, 「目新しい」負荷への更新が有効 である。そのつど「新しい」図式をつくらなければならないので,退屈している暇がないのだ。
やした苦しみが快感となって彼に報いるので,その気分の良さを再び味わうためにもっと難しい 問題を自分でさがしてくるようになるのだ°。
新しい事業や開発プロジェクトを任されたサラリーマンが,見違えるように生き生きとしてき たりするのも似たような事情による。適度な難題に恵まれた職場では,サラリーマンといえども 退屈しない。次から次へと新しい課題や難問が出てきて,そのつど対応をせまられるからだ。
この負荷の更新,従って快感のエスカレーションがつづくと,「仕事」もあっさりと「必要」
の域を超える。残業につぐ残業で奥方を不満に陥れるのは,この仕事の快感である。その快感は
「仕事に注いだエネルギー」に正確に比例するからだ。犠牲が大きいほど快感もおおきくなるの である。
たまたま大仕事が舞い込んで,張りつめた緊張のあとにくる気の遠くなるような快感を味わっ た人はとくにその後が大変である。それまでの課題はとるに足らない負荷と化し,色褪せた生ぬ
るい快感をしか予想させない。彼の快感中枢は退屈な日常の仕事をきらい,出力系は再び大仕事 へと思いを脹らますだろう。退屈に堪えることを旨とする職場では「野心」としてしばしば煙た がられるこの思いは,実業家には欠かすことのできない精神の動力であり,大切な資源である。
その負荷が大きく,難事業であるほど彼の野心は燃え上がり出力は高まるに違いない。
すでに人が羨むほどの所有を達成した事業家が,なおも飽くことなく親族の反対を押し切って まで新規の事業に挑戦するのはもっと所有したいという願望に加えて,そうした負荷量の大きい 大事業の達成それ自体がもたらす余剰出力の報酬,その激しい快感の虜となったからである。
一度岩登りの味をしめたアルビニストはより困難な壁を,山を,季節をめざして登攀目標を工 スカレートしていく。彼もまたこの負荷のエスカレーションによる内的報酬の鷹力に囚われてし まったのだ。恋人よりも強く山男を引きつけて離さない魔の山の魅力とは,困難で危険な登攀と いう負荷それ自体がもたらす余剰の快感である5)。
近代人の美徳であるこの達成動機はしかし近代の病でもある。それは次々とあたらしい負荷を 要求し,決してそれ自体みたされるということがない。 この種の快感の隅になってしまった人 は,次々と新しい課題を,目的を,問題を求めてやまない。彼らはちょうど麻薬中毒のように,
負荷中毒にかかったのである。中毒が終わる時は,病に倒れるときか,事業が倒れるときだ。
4)もちろん,その課題たとえば算数の苦手な子にはその授業ですらが過剰負荷となって, 苦痛となるかも しれない。主体の能力以上の過剰な負荷を課した場合は,出力不足による苦痛,シンドイ状態(前号の 図4)が生まれるので「算数の問題なんか二度と見たくない」ということもありうる。 良きトレーナー ならばだれでも知っているように, 主体の力のすこし上のあたりに新しい負荷のレベルを設定すること が,勉学スボーツにかかわらず,内的報酬による上達法のコツである。
5)何の役にも立たない無益で無償の行為に生命を賭する近代アルヒ°ニズムと, 実利を追いもとめてあくこ とのない企業家精神との間には奇妙な符合がある。企業家を奮い起たせて自然破壊をもたらしたあの近 代の「達成動機」は, 山男たちを岩へ雪へと誘惑して数々の「登攀記録」を打ちたてさせたその動機と 双子の兄弟なのだ。世論とやらを代表する新聞が暇人の趣味に過ぎない山の報道に大きく紙面を割くの は,この血縁によって殺伐な企業家たちの人生を山男がロマンチックに象徴するからにほかならない。
退屈論_世界の自明化と退屈の問題(2)(木村)
1 ‑a エスカレーション・ 1 ‑b ジェットコースター
区3余剰出力 巨蕊i不足出カ タテ軸出カヨコ軸時fill 一 釦 『 ノ ヽ / ^ 出 力 曲 線 図1 負 荷 の 快 楽
3)恐怖の負荷
上で見た負荷は,山男の負荷を除けばきわめて生産的なものであった。しかし,余剰の快感を 生み出す負荷は何も生産的なものだけとはかぎらない。ともかく主体の出力をあげることのでき
るものでありさえすればそれで十分である。
2) ‑1 スリル
たとえば,ヒザを摺るほどに車体を倒してプラインドコーナーを抜けて行く少年たち。いった い何が彼らをあのように限界点に向けて疾走させるのだろうか。それは単なる「違反」の快感で もなければ,スヒ゜ードのもたらす「眩量」の快感6)でもない。彼らを「暴走」へと突っ走らせる ものは,突然出現するかもしれない対向車の恐怖,曲がりそこねて転倒する恐怖,そこで意味も
6) R. カイヨワがIlinksと名づけて,遊びの主要なカテゴリーのひとつに昇格させた「眩彙」, 目が回わ り,身体が揺らぎ,世界がうねるようなあの独特の感覚は, 「負荷ー出カモデル」からは, 身体図式の 脱図式化によって生み出される出力のうねりである,と説明される。タカイタカイ!で赤ん坊が笑い,
ジェットコースターでおとながカナキリ声をあげて叫ぶのは, どちらも重力との関係で身体図式が脱図 式化され,この出力のうねりが生じたからである。それが余剰側にふれたときは笑いや快感が生まれ,
不足のほうにゆらぐと恐怖や悲鳴が生まれる。
急加速や急激なコーナリングの快感は, 異常な加速度や遠心力によって通常の「身体図式」が一瞬
「脱ー図式化」されて生まれる眩彙の快感である。 もちろん,スビードそのものが恐怖を感じさせるこ ともあるが,それはおそらく,強い眩最が驚きにちかい恐怖(狼狽)を生み出し, ついでその狼狽に気 づいた精神が生命の危険を感じて恐怖する,いう二段重ねの現象であろう。 たとえば,同じスピードで も,恐いと思いだすと, ますます恐くなる, ということがこの見方を支持しているように思われる。
(なお,この身体図式に生じる生理的恐怖と, 精神が感じとる死の恐怖とのあいだには,なにか相通じ るものもあるような気がするが,ここでは一応別のもの,と考えておきたい。)
なく生を終えるかもしれない恐怖それ自身である。その恐怖によって極限まで高められた出力 が,クリッビングポイントを越えたその瞬間に余剰化してスビードの眩量と相乗し,痺れるよう な快感となって少年の脊髄を貫くのだ。この快感を味わうためには,十分な快感を感じられる程 度に負荷を極限にまで高めてやること,つまり,死とぎりぎりに隣接するほどに「暴走」するこ
とがどうしても不可欠である。
その他,この種の負荷ゲームの典型に, 退屈をもてあました貴族たちが開発したあの有名な
「ロシア式}レーレット」をあげることができよう。撃鉄をあげて銃口を頭蓋にあて,引き金を震 えながら引きしぽるその数秒間のあいだに限界にまで駆け上った出力は,カチッという空音とと もに一挙に余剰化する。何しろ確率は%,死に隣接するその快感は,革命という恐怖の負荷をま だ知らなかった当時のロシア貴族を魅了するには十分に強烈だったのだろう。
もちろんこの種の「恐怖」の負荷,つまりスリルの快感は,何も退屈をもてあました道楽息子 たちの特許ではない。「恐いもの見たさ」の誘惑は, ものごころつくかつかないかの子供から,
いたずらざかりの少年たちはもちろん,ふつうの団地の主婦にいたるまで市民社会のいたるとこ ろに広く遍在している。
遊園地のジェットコースターから,お化け屋敷,怪談,そして毎年数百万人の観客を集め,数 十億円を稼ぎ出す「ホラー映画」などはすべて,「良識」ある市民たちが道楽息子たちに負けな いぐらいの戦慄と恐怖を感じようと,あの手この手の趣向を凝らし知恵を搾って作り上げた恐怖 の負荷装置である。我とわが身に毛も凍るような虚構の負荷を課して,恐怖の出力を搾り出そう とするこの技法は,嘘であり虚構であるとを知りながら,つい乗ってしまうこの象徴をあやつる 動物の習癖をうまく利用した確かに巧妙な余剰の生成法である。自分の財布の中身以外だれの身 体生命を損なうことがないという点では,それなりに洗練されたひとつの文化であるのかもしれ ない。ともあれ,そこで悲鳴をあげながら人々が購うのは,嘘と知りながらつい出力系のほうが 乗せられてしまう「二重負荷」の快感であり, それに続いて訪れるはずの余剰の放出(「安堵の 快感」)である。
2) ‑2 博 賭
この「負荷ゲーム」の白眉はおそらく何といっても例の「賭博」である。年末宝鐵では9千万 円の獲得という正の負荷がかかる。ただし確率はン百万分のーだ。これに対し丁半賭博では,勝 った場合には獲得のよろこびだけでなく,喪失の恐怖から開放されるよろこびも生じる。しかも 確率は%である。また,賭場では,借金ができる分だけ喪失の可能性が広がる。つまり,負荷は 負の方向に雪達磨式にころがる。負けが込むほど目がすわり,髄が震え,どうしても止められな くなるのは,なにも人より「意志が弱い」からとはかぎらない。なにしろ,獲得の喜びを喪失の 恐怖が倍乗して,財産が,家庭が,地位が,自分が受け継ぎ築いたすべてのものが未曽有の強烈 な負荷となって出力系にのしかかってくるのだ。主体の精神はまともであればあるほどその全出
退屈論一枇界の自明化と退屈の問題(2)(木村)
力をあげてこの負荷を受けとめずにはいないだろう。そして固唾を呑んで食い入るように見つめ るその視線の頂点で「賽は投げられ」, 間発を入れずに負荷は消滅する。極点まで張り詰められ た全出力が洪水のように主体を襲い,眩畳の渦のなかに置き去りにするのはそのときである。
当然,賭金が上がり,負けが込んでくればくるほど負荷は高まり,賽の目が出たその瞬間に生 まれる快感(と溜め息)の量もふえる。しかも「確率」は最後まで希望という負荷を捨てさせな い。普通の「余剰出力快感生成回路」をもつヒトならば,一端この博突の魅力にとりつかれたら 最後,そう簡単には止められないだろう7)。
ところで,賭博の結果は一瞬のうちに判明するのでなければならない。でれでれと結果が判明 していくような賭博は,その変動に出力系が追随することが可能になるので,快感の生成量が大 幅に減る。賭博でなくても遊びには勝ち負けをはっきり決めるいわゆる「勝負事」が多いが,そ れはまず,「勝つか負けるか」ふたつにひとつというだれの目にもはっきりした「負荷」をかけ てむりやりのように出力を上げ,結果が出たその瞬間負荷消滅と同時に,その極点にむかって高 められた緊張を一挙に余剰化して快感を貪ろう,とする遊びの戦略からくるものである8)。 いつ 終わったかも分からない,勝負がついたかどうかもわからない,というのでは一一実人生ではそ うしたことが少なくないが―いくら努力をしても「ヤッタ!」というあの飛び上がるような余 剰の快感はうまれるべくもないだろう9)。
2) ‑3 戦 争
さらに,大変りっぱな人々が好んできた退屈しのぎとして,「戦争」(あるいは「イクサ」と言 うべきか)をあげておかなければならない。なにしろ「賭け」としても桁が違う。賭突打ちはせ いぜい家産や家族を賭けるだけだが,戦争には国民の生命と国土がかかる。賭けられる側として はたまったものではないが,冷静に歴史を幡くならば,貴族や武将も帝王も退屈を嫌い戦争を好 んだことを否定するのは難しい CR.カイヨワ 1973)。
もちろん近代の戦争と古代のイクサを同列に論じることはできないが,しかし,どちらも大変 真面目で立派な人々が,自分と自分の愛する者たちの破滅と死を賭して,血の湧き立つような殺 人ゲームを享楽し,すくなくとも没頭した,という点では同じである。
いうまでもなく,それは単なるサディスティックな殺人ゲームではない。ひとびとは堂々と人 殺しの腕をみがき,理性を駆使して破壊の科学を探求する。しかもその成果を実践して罪の意識 に悩むこともない。なにしろ殺人を命令するのは「御上」である。戦争は,(それぞれの)「正 7)賭博の魔力への抗しがたさと中毒性の存在は, この余剰出力を神経回路において担っているであろう神
経伝達物質が,麻薬に似た機能的特性をもつことを暗示している。
8)後で思い起こすと,ジワーと湧いてくる快感の種類もあるが, それは成功の想起や所有による自己拡大 の幻覚などのような,また別のメカニズムによる快感である。
9)この負荷曲線における山場の欠如,だらだらの勾配の存在が, 実人生の退屈の一因であるのかもしれな い。実際,金儲けにしろ出世にしろ,人生をひとつの「勝負」と心得た人々は, 遊んでいるかどうかは ともかく,あまり退屈はしていないように見受けられる。
獲得の期待 山場
2 ‑a 期待と喪失 2 ‑b 山場のモデル
図2賭 博 の 出 力 曲 線
義」の名のもとで闘われる集団の死閾であり,殺人が讃えられ「人殺し」が「英雄」になること のできるほとんど唯一の機会である。
しかも,戦争は,官憲の目を盗んでどこかの屋根裏で開かれる賭場とは違って,白昼堂々と行 われる国家的パフォーマンスである。固唾をのんで戦局の帰趨を見つめる民衆の熱い視線は,こ の御上肝入りの殺人ゲームに新しい次元を加えずにはいない。戦士たちの勇壮な殺人ぶりはまも なく全国民の知るところとなる。もし運命の女神,いや戦争の女神が微笑めば,彼らは富や国土 だけにとどまらずに,不滅の名声と世界そのもの,すなわち「天下」を獲得するのだ。いずれに しても彼らはその存在を歴史によって目撃されるだろう。もし人間が「自己提示」 CE.ゴッフマ ン1974)をしたがる動物であるとすれば,これほどに壮大な舞台装置は他にない10)。
なお, これほど雄大でないが, 似たような舞台装置をもつ退屈しのぎとして,「決闘」という 個人的な戦争行為がある。親の仇であれもののはずみであれ,ともかく手袋を放り投げてしまっ た後は,古式に則ってわが身を着飾ざり,持てる勇気と武力のすべてを賭けて正々堂々と戦わな ければならない。戦利品という負荷はないにしても,自分の名誉と生命という負荷は出力を全開
10)退屈した戦士を戦場へと呼びもどすのは, 「負荷ー出力回路」が生み出すめくるめくような戦慄の快感 であるが,正義の戦いに立ちあがる市民を戦場という舞台へ送り出すのは民衆の歓呼である。観衆の視 線が「名」という鏡像に謳し取られた「自己」の「像」 (J. ラカン 1987)を想像の「英雄」へと変 容させるのだ。
ことわるまでもないが,現代の戦争はもはや退屈凌ぎにすらならない。計器をながめてボタンを押す だけではさっぱり出力もあがらないだろうし,ディスプレイの前に屈みこんだその姿は, たとえ観衆が いたとしても,全く様にならない。)
ちなみに,暴走好きの少年たちを「英雄気取り」にさせるのも, おなじく他者に「見られる」ことに よって自己に到来する「存在の幻覚」である。
退屈論—一一世界の自明化と退屈の問題(2)(木村)
させるに十分だし,なによりも恋人や友人,さらには主君といった第一級の銀客の存在がこの舞 台に異様な荘厳さを与える。戦争と違う点は,おそらくそれを遠巻きに眺める見物人に対しても 恰好の退屈しのぎを提供した,という点であろう。
「負荷ー出カモデル」によれば,尊敬すべき人々が戦争や決闘というあまりヒューマンとは言 い難い退屈しのぎを愛好してきたその理由は,余剰出力が快感を生成するという人間精神の成り 立ちにあったのである。
2. 遊びの快感
これまで見た負荷はすべて, システムとして存続していく上ではかならずしも必要のない負 荷,適応上の必要を越えた負荷であった。山登りも賭博も戦争も,必要を越えた自由な選択によ
る快感亨受行為11)である,という点では確かに一種の「遊び」であるということができる。
とはいえ,実負荷をかける以上失敗すれば墜落とか破産とか死のような重大な帰結を覚悟しな ければならない。しかも一緒に遊ぶ気もない他人を巻き添えにしかねないとあっては,この手の危 険な遊びの多くが禁止のうき目に会うのもいたし方ないと言わなければならない。
かといって,おとなしく寝て暮らしているだけでは,いかにも退屈である。あの髄が震えるよ うな緊張や胸のすくような余剰の快感を,なんとか実害を生み出さないようなかたちで,再び味 わうことはできないのだろうか。頭をひねり知恵を搾り,ついに人類が辿りついた結論が,あの 見倣し負荷の技法であった。まったく取るに足らない負荷をあたかも大負荷大目的であるかのよ うに「見倣す」ことによって,その実現に向けて出力を絞りあげて行くこの遊びの技法は,一見 馬鹿らしく思われなくもないが,すこし熟考すると,ホモ・サヒ゜エンスならではの賢い方法であ
ることが理解される。
1)見倣し
穴や籠にタマコロを入れた入れられたからといってまった<何の実益も実害もないことは別に たいしたサビアがなくても明白である。シンボルを操る動物であるヒトは,そのことを十分に知 りながら, その馬鹿げた玉ころがしを大事と見倣して象徴的に「同化」 CJ.ビアジェ 1975)し てしまう特技がある。うまく「見倣し」に成功すると,玉を転がす前に心臓が動悸打ち,武者震 いが起きるほどに出力があがる。首尾よく目的の穴ぼこに玉が転がり込めば,彼は文字通り飛び 上ってよろこぶだろう。
見倣し負荷の駆動に要した全出力が,困難な課題を達成したその瞬間に余剰化し,ふつうの日 常ではとても経験できない感動の高まりとなって,主体のそれまでの努力や緊張や練習の量に報
11) J. ヒ°アジェによれば「適応活動と思考が,同化と調節との均衡を構成するならば,遊戯は,同化が調節 に対して優勢になるところにおいて始まる」。この概念は本稿でいう見倣し負荷の重要な側面を衡いてい るCJ.ヒ°アジェ 1975)。
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いるのである。もちろん,その感激の強さは,負荷の内容,その有意義さや馬鹿らしさとは全く 関係がない。負荷実現時に実出力がどこまで上昇しているか,という一点だけが問題である。強 いよろこびを味わおうと思えば,球蹴りであれ球投げであれ,あるひとつの課題を決定的な負荷 と見倣して自分に課すこと,そして課した以上はともかくその実現にむけて全力をあげて努力す ることだ。言いかえれば,馬鹿に徹すること,これが「見倣し負荷」によって余剰の快感を生み 出す秘訣である。
実際,真面目を売りものにした一部の近代人を除けば,ほとんどすべてのホモ・サビエンスが 多かれ少なかれ馬鹿になって,そうした空虚な負荷の開発と実現に膨大な情熱を注いできた。そ こで創造された見倣し負荷つまり遊びの技法は,玉蹴り,玉投げ,チェス,マージャン,パチン コなどその馬鹿らしさのいかんを問わず,それぞれの社会でひとつのりっぱな文化的品目を構成 している。それどころか, J. ホイジンガ12)も指摘するように,この馬鹿らしい「遊び」の精神 は,「価値」ある思想や芸術作品の数々を生み出した文化的創造のエネルギーと通底している可 能性がつよい。
2)共 謀
しかし,「人間」にとって,それがなんであれなにかを自分ひとりで最後まで「見倣し」きるの は容易ではない。あのドン・キホーテでもサンチョ•パンサを必要としたのである。
真面目な「社会的現実」は他者との相互主観的共謀によってはじめてリアルなものとして経験 され維持される, とP.バーガーは論じた (P.バーガー 1974)が, 遊びの現実も同じである。
「すごい!」といって驚き,「やられた 1」といって悔しがる他者がいなければ,九連宝燈もホー ルインワンもただのめずらしい偶然となって,とりたててよろこぶ人もいなくなるだろう。他者 との共謀がなければ,課題目標価値といった負荷の多くは,もはや綱を解かれた泥船のようにエ ントロビーの海に没し去ってしまう。
ともすれば恣意性の海に向かって気紛れな漂流をはじめるイメージ13)を引き止め,なんとかひ とつの負荷と「見倣し」つづけることを可能にするのは, 他者の「協讃」であり, 「励まし」で
12)彼はかの名著(J.ホイジンガ 1973)のなかで次のように言う。「生活上の必要を直接満たすことを目 ざした行動ー~たとえば狩猟ーーでも. 原始社会のなかでは好んで遊びの形をとっていた。原始人の共 同体の生活に,動物よりも価値の高い, 単なる生物的なものを超えた特性を保たせていたもの,それが さまざまの形態の遊びである。 この遊びのなかで,共同体は生活と世界についての彼らの解釈を表現し た。といっても,それは遊びが文化にいきなり転化したとか, 文化に置換されたというふうに理解して はならない。むしろ,文化はその黎明期における根源的な相のなかでは, なにか遊び的なものを固有の 性質として保っていた,いや,文化は遊びの形式と雰囲気のなかで営まれていた,ということなのだ。」
(110‑111ページ)
13)遺伝子が突然変異によって「情報」を生成するとすれば, 意識は「恣意性」とでも呼ぶべき連関の「揺 らぎ」,気分・イメージ・思考に生じる,何の必性然もない気紛れな揺らぎによって新しい情報を生成し ているように思われる。主体を「不安」で満すこの「揺らぎ」は, 他者の気分やイメージ,思考と対応づけ られ相互主観化された時にはじめて収束をはじめ,情報構造もそれなりに安定化するのかもしれない。
退屈論_世界の自明化と退屈の問題(2)(木村)
あり,時に「嫉妬」である。
この相互主観的な支持の必要は遊びと現実を問わない。ヒトの精神にとってイメージは,他者 によって承認され支持されることによってのみ,出力を供給するに値する一個の「負荷」として 固定される。
ところで,ヒトの情態は常に個別化され自律しているわけではない。笑いがそうであるよう に14), ヒトの出力系はしばしば他者の情態(の知覚)によって影響される。他者の笑いは自己の 笑いを誘い,他者の緊張は自己を緊張させる。こうして他者の情態の知覚が自己の情態と互いに
フィールド
影響しあうと,個別主銀を超えたひとつの情態性の「場」,いわゆるその場の「雰囲気」ができ あがる。個人の出力系は, しばしばこの「雰囲気」に影響されて上昇し,ときに呑み込まれて
「熱狂」する15)。逆に,いったん雰囲気が「壊れ」,座がシラケたあとは悲惨である。ひとりで いくらはしゃいで見てももう「浮き上る」だけだ。
いったん愉快な雰囲気ができあがったら,できるだけそれを壊さないようにしなければならな ぃ。自分ひとりの「我が儘」を押し通したり,気分のムラをすぐ面に出したりすることは,この 遊びの共同体を破壊する。もちろん「独り遊び」も不可能ではないが,たいていの場合はすぐ飽 きがきてしまうし,それに出力もあがりにくい。楽しく遊ぶには,まずは「遊び友だち」や「飲 み仲間」と相謀ってできるだけその場の「雰囲気」をもりたてること,そしてその盛り上がりを 梃にして自分の出力系を煽りたてることが有効である。時には, 自分を「ホロン」化(清水博 1979)して「我が儘」をこらえ,その場の「全体性」にわが身をゆだねることも必要となるが,
たいていの場合,その遊ぶ「ホロス」,遊びの共同体は遊ぶものたちにその献身に応じた「楽し さ」や「おもしろさ」を出力系を通じて払い戻すだろう16)。
3)真面目さ
せっかくみんなで力をあわせてつくった愉しい雰囲気は,壊さないようにさらに盛りあげるこ とが望ましいが,できればそれがただの遊びであることを忘れてしまうほどに真剣に熱中するに 越したことはない。「ただの遊び」だ,と遊びの真っ最中に思うことは遊びの興趣を削ぎ, その 見倣し負荷に対する出力の供給をいい加減なレベルにとどめてしまう。不真面目なプレーヤーが
14)お笑い番組に笑い声をダビングして流せば, たいしておかしくもないのに連られて視聴者が笑うことは よく知られている(木村 1983)。
15)ひところ「赤信号,みんなで渡れば恐くない」というタケシのギャグが流行ったがことがあった。「雰 囲気」によって個体の出力系が励起される事情を言い当てて妙である。(その的確さは,後年「フライデ 一殴り込み事件」として彼自身の手によって実証されたほどだ。)
16)遊びが子供の社会化 (socialization)において占める絶大な位置は, この意識のホロン化の働きに由来 する。こどもは,遊びの「おもしろさ」という内的報酬と引き換えに,「我慢」と自己犠牲の精神を自分 からすすんで学習する。集団生活の美徳を育むものは「道徳教育」でもホームルームでもなく, 大人の 目を盗んでおもしろおかしく遊びまわるワルガキ集団 (gang)なのである。(言うまでもないことだが この集団生活の「美徳」が嫉妬反目あるいは排除といった集団生活の悪徳とワンセットになっているこ とは,アクタレ集団も聖職教員集団も別に差はない。)
ひとりでもいると,「雰囲気」が壊れて,せっかくの遊びのおもしろさも半減する。いったん見 倣した以上,その負荷にたいして, リアルな負荷とおなじほどに真剣に熱中するのでなければ ならない。不真面目な遊びぐらい,つまらないものはない。楽しく遊ぶためには真面目に遊ぶこ とが不可欠である17)0
もちろん, 真剣に遊び過ぎた結果, くやしさに負けて泣き出す子供のように,遊びの結果が
「現実」の世界へ「尾をひく」ようではお話しにならない。遊んでいる最中はそれに真面目に熱 中し,遊びが終わった時にはそれがただの楽しみのための遊びに「過ぎない」ことを識ることが できる,というその精神にこそ遊びの真髄があり,見倣し負荷の秘訣がある18)。
4)競 技
出力を上げるためには,うまい負荷の設定,その実現につい一生懸命になってしまうような課 題の設定が肝心である19)。「得点」や「記録」は負荷を可視的なものとし, それをひとつの課題 として自分に課すことを可能にする。孤独な「記録への挑戦」もなくもないが,しかし独りでヒ マラヤに登った男も頂上に旗を埋めて帰る。たいていの「記録」には本来,少なくともいつの日 かだれかが自分の偉業を「見て」くれるだろうとの期待が込められている。
ヒトのもつこの対他的意識性をもっと公然と煽りたてて,できるだけ出力をあげてやろうとい うのが競技の思想である。勝敗のカテゴリー分けに始まり,表彰台や優勝旗に象徴される「賞」
や等級の設定は,ヒトの羨望という対他的意識性をうまく利用して競争心をあおりたて,競技ヘ の参加を動機づける。この差別化のゲームのなかで,人々は下手糞をあざけり,公然と自己の優 越を求める。しかし,そこで手にする「栄光」や「屈辱」は,時にそのために生命を落とすこと もあるとはいえ,基本的にはなんの実益も実害もないただの虚構にすぎない。負荷が「見倣し」
である以上,結果として到来する差別も単なる「見倣し」であり,見倣しが終われば勝者も敗者 もただの普通の人間に舞いもどってしまう。
17)拙稿「象徴世界の4極構造モデル」のなかで, 「遊びの世界」を「遊」の次元を盲点化した真面目な世 界(「真事面」に平行に切りだされた世界)としたのは, この意味からである。 あとで見るように, こ
の「面」を行き来する力,遊びを可能にする力は,出力系にたいする図式の loadingとunloadingを 自由にできるその「負荷」のかけ降ろしの自在性にある。(もちろん, 遊びがこの自由度を増大する,
という逆の面もあって,遊ぶことを知らない少年や, 真面目一筋に生きてきた中年が一つの失敗で首を 吊ったりするのは,この自由度に乏しいからである。負荷の外し方を知らないので, 重荷を背負って地 嶽までいくのだ。)
18)よく「じゃれたり」「遊んだり」するイヌやサルといった高等哺乳類は, それなりの「見倣し負荷」の
「遊び」を知っているのかもしれない。筆者は昔, ほんの鼻先を遊び回る蝶の「影」を「標的」と見倣 してなんども飛びかかるシェパード犬を見たことがある。話はヒトに変わって,「アメリカ横断ウルトラ クイズ」というテレビ番組がある。いろいろな職業の若者が成田空港のロビーで, グアム島行きの航空 券をなんと「ジャンケンボン」で争っていた。額面を蒼白にして文字通り身体をブルプルと震わせながら 真剣そのものに闘われるジャンケンもそうざらにはないだろう。勝った方はもちろん,躍り上がってよ ろこび,負けた方はせっかく用意した巨大なスーツケースをかかえて案外あっさりと舞台から消えた。
19)退屈されてしまっては商売にならないファミコンなどのゲームソフトはその点で, 情報処理システムで ある人間の精神が,何をどのように「おもしろい」 と経験するかを実験的に研究する壮大なプロジェク
トである。ちなみに, 1988年2月現在ファミコンの国内総販売台数は1,170万台に達し,ソフトの売上げ
退屈論――‑ii!:界の自明化と退屈の問題(2)(木村)
始めから勝負のわかっている競技に熱をあげる人間はいない。競技を面白くするためには一定 の「公平」は不可欠の条件である。「フェア」な競争を実現するためにプレーヤーにはさまざま な制約やルールが課せられる。競技者は「正々堂々」と闘うことを誓わされ,規則違反は卑怯,
アンフェアーとして固く禁じられる。もっとも全員に同じ条件を適用するのがいつも公平と考え られるとは限らない。始めから能力に歴然とした差がついている場合には,横一線に並んで「ヨ ーイドン」式ではなく,技能の差に応じてハンディキャップをつけるほうが公平と考えられるこ ともある。どちらにしても,プレーヤーどうしがつい競い合って出力を高め,競技に熱中できれ ばそれでいい。
ところで,「オトリ」である見倣し負荷があまり簡単には達成されては, 主眼の出力の方が上 がらず大した快感も生じない。遊びの負荷ははじめから嫌にならないほどに容易で,簡単に飽き がこない程度に困難である必要がある。しかし,はじめ難しかった操作も慣れれば飽きが来るし だれでも上達するほどヘボとの対戦には退屈する。技能に「段」を認定してそれぞれの対戦相手 を制限したり,負荷に「役」をつけて出力のエスカレーションを誘ったりするのは,負荷をそれ ぞれのプレーヤーにとって最適の水準に設定することによって,各自が技能に応じて自己の出力 を高め,結果として等しく余剰の快感を味うことができるようにというホモ・ルーデンスヘの配 應である。
5)見られること
ところで,出力のアップを目的とするはずのほとんどの快感ゲームが,常に観衆の存在を予想 し,また前提にしているということは興味深い20)。実際,舞台であれ競技場であれ,ヒトは他人 の注視を浴びると独特の緊張を経験する。顔は紅潮し,動悸は早まり,言葉はふるえる。赤くな るにせよ青くなるにせよ,人は他者の視線のもとで自己を意識し,出力の上昇を経験せざるをえ ない21)0
は数千億円に至っている。対米輸出も88年度には1千万台をこえようと予測される。 H本のハイテク文 明は「暇を殺す」おもしろさを輸出して優に某国の武器輸出額以上を稼ぎ出している。
20)なかには,親衆のいない山岳や洋上で争われる競技もあるが, しかし, それも想像上の観客の目からは 決して自由ではない。最も超俗的に見える山男たちですら, 初登攀という「名誉」を,つまり他者の認 証を競って求める。
21)こどもの人身知りからおとなの赤面恐怖にいたるこれら一連の「羞恥」関連現象は, 他者の目撃,第三 者の視線は一般にヒトの出力系を上昇させる,という働きがあることを暗示している。他者の(想像され た)「まなざし」と自己意識の関連については, すでに C.H.クーリーの有名な "looking‑glassself"
(C. H. Cooly 1902)のアナロジーをはじめ,サルトルの羞恥論 (J.P.サルトル 1956)など社会学的 研究の興味深い蓄積があるが,ここで,疎漏を恐れずに,「負荷ー出カモデル」からとりあえずの臆見を 引きだすとすれば, (1)他者の視線は,それによって見られている(と想像される)自分の「姿」(「鏡像」)
を出力系に負荷して自分という存在をシャープに意識させると同時に, (2)その「像」(としての「自己 図式」)を駆動すべく主体の出力を煽りたてる機能をもっ, ということができるだろう。 これに, (3)こ の「鏡像」, 主体の自己像へのカセクシスは, まなざしの背後に秘められた他者の評価(の知覚)と連 動して増減し,自尊や自卑の感情を生みだす, という仮説を加えれば,個体にビルトインされた「社会 性の回路」のデザインがおぼろげながら見えてきそうである。
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その昔,どうせアガルならいっそ幾万の視線を一身に浴びて卒倒するぐらいに出力を上げてみ たらどうか,と考えついたホモ・サビエンスがいたにちがいない。ギリシャのスタジアムは,そ うした社会派快楽主義者が発明した遊戯装置の傑作である。わざわざ我とわが身を幾万という他 者の視線にさらすことによって,自分の出力を限界点にまで上昇させ,その目眩めくような緊張 と余剰の快感に酔い痴れようというわけだ。この「見られるための装置」のなかで,他者たちの 視線は一点に向かって溶融し,プレーヤーの出力系はその視線の熱を浴びて炎上する。
もちろん立派なスタジアムでなくても出力は上昇する。小学校の校庭でも村のゲートボール場 でも暴走族のサーキットでも,観衆さえいれば一種のスタジアムである。見物人は見ることによ って熱くなり,パフォーマーの出力は見られることによって昂揚する。
見て見られることによって互いに昂揚する遊戯の装置は他にもある。たとえば,鳥やけものに 出会うクロスカントリーや山スキーよりも,人にぶつかるゲレンデスキーの方が人々を引きつけ るのは,みんな自分の「姿」を見てくれているという「幻想」を互いに提供しあって,その幻想 の視線のもとで熱くなった自己の「鏡像」をナイープに楽しむことができるからである。ディス コの魅力も同様だろう。さらに,今日ではスタジアムならぬ「スタジオ」が人に「見られるため の装置」として欠かせない役割を果している。
ヒトはそうして他者に「見られる」だけでも相当に興奮するが, 「認められ」ればなお感激す る。競技に参加してパフォーマンスを競うのは確かに他でもない「自己」であり,自分の技量で あるが,その自分という「像」に屈辱や栄光を,さらには「存在の幻覚」全般をもたらすのは実 社会と同じく「他者」の視線であり,評価なのだ。競技の多くが「表彰」というかたちの「認証」
の儀礼を伴うのは, 「賞」によって差別化された自己の「存在」を他者に「見トメテ」もらい,
その見倣し存在のたわいない「偉大さ」をナイーブに「自慢」 してよろこぶためである。「どん な遊びでも,遊ぶ者が自分の成功ぶりを人々に向かって自慢することができるという点が,非常 に重要」CJ.ホイジンガ 1973)なのであり,スタジアムの表彰台は,社会派遊戯者が見られるこ との快感を絶頂へ向かって登りつめる最後の階段なのだ。
6)聖なる遊戯
ところで,そのスタジアムはしばしば神殿の前に設けられ,貴賓席からは神様に近い人たちが 競技を観戦する。そもそも神や王は社会の象徴であり (E.デュルケーム 1986),彼らによって 目撃されることは社会全体によって目撃されることを意味する。当然,出力はレッドゾーンまで 駆けあがらずにはいない。
神や首長の臨席は,ただの退屈しのぎを人生でもっとも神聖な時に変容させる。プレーヤーの 出力系は,貴賓たちの熱い視線をあびて激しく燃えあがり,世俗の人生ではまず体験できない極 点へと登りつめる。その栄えある光りにつつまれた緊張の頂点で彼はあの痺れるような快感を,
栄光の眩最を経験する。単なる楽しみのための活動が,共同体を象徴する立派な人々の臨席によ