静岡大学教育学部研究報告 (教科教育学篇)第 37号
(2006.3)77〜
87明治期の 日本人はどのようにして西洋音楽を受け入れたか
〜最新の音声分析 ソフ トによる先行研究の再吟味 と検証1)〜
How did the Jttanese people acceptWestem music in the Meli EraP
‐Review and verincation ofthe previous research by way of recent speech andyzer‐
北 山 敦 康
Atsuyasu nTAYAMA
(平
成17年 9月 30日受理)
はじめに
我々が うたを歌 うとき,いわゆる「音痴」や「調子外れ」と称 される音楽的能力の問題 とは異なった 次元で
,本
来の音階の音 とは違 った音で歌つて しまうことがある。とくに,西
洋音楽の歌唱訓練 を受け ていない人が西洋音階によるうたを歌 う場合,その音階が 日本人特有の音感覚によつて変えられて歌 われることがある。それを園部三郎は「音感覚の定着性」2)と呼び,繁下和雄は「うたいなまり現象」3) と称 している。この現象は,と くに明治末期か ら大正初期の録音において確認で きるが ,残念 なが らその絶対数は きわめて少ない。その中で も,1905年
(明
治 38年)に 録音 された『軍艦行進曲』は典型的な例 として 知 られている。これは,楽
器演奏の部分では正確 に演奏 している軍楽隊が同 じ旋律 を歌 うときに,本
来 ならば長音階の第4音にあたる音 を第5音で歌 つて しまう「 うたいなまり現象」を聴 くことがで きる 貴重な資料で ,現在で も復刻版のCD4)と して容易に手 にすることがで きる。こうした「うたいなまり現象」が どうして起 こるのかは,小泉文夫の基礎理論5)をもとにした繁下 の解説6)によつて十分になされているといっていいだろう。しか し,筆者は,音源データの数量的な 分析 をすることによつて,これまで研究者の聴感覚に頼 つてきた研究方法 をより客観的で精密なもの にで きるのではないか ということに着 目した。まず
;明
治・大正期の数少ない録音の中か ら分析可能な もの をさが して分析 を進めた。同時に,これまでに行われた先行研 究を調べ る過程で,1988年 に発表 された奥忍による 2つ の重要な研究 7)8)の 存在 を知 り,その再吟味 と検証 を行 つた。本研究では,上記の奥論文で も取 り上げ られている松井須磨子 による『カチューシャの唄』を分析 対象 とすることにした。奥論文では
,当
時の分析機器の制限か ら,計
測の過程で自らの人声 をサ ンプル に同調 させた ものを分析対象 としているが ,本研究では計測の過程 をすべてコンピユータによる客観 的かつ精密 な方法で行 つたうえで,それ らをセン ト値9)に変換 して分析対象 とした。その結果 ,本研 究 と奥論文に研究成果 とは大筋で一致 し,同氏 による他の一連の研究データに一定の信頼性を与える もの となった。そ して,さ
らに詳 しく分析 を進めることによつて,本研究では『カチューシャの唄』に おける松井須磨子の歌いかたに奥論文によるものだけではない新たな要素が確認 された。77
78
1口 分析 の方法
北 山 敦 康
1)分析の対象 とした音源 とデータの事前処理
分析対象の音源 と して
,日
本 コロム ビア株式会社 の復刻版CD『恋 し懐 か しはや り唄』(1998,
COCF15131)に収め られている Fカチューシャの唄
(復
活唱歌)』
10)を用いた。この録音は,無伴奏で 歌われているため,歌い手である松井須磨子が 自分の音感覚だけに頼 って歌 っている。したがって,「うたいなまり現象」を直接的に観察するための格好の素材 といえる。
楽譜1)「カチューシャの唄」
11)
力れ‐シ
,か
わ― ιヽやわか れ の―つら さ せ め てあわ ゆ ―き と け ―ぬ―ま一 か み にわが― い を ララ か け―ましょ かCDの音源 を分析 しやす くす るため に,デジタル音声信号 に変換 した音節 ご とのWAVフ ァイルを 作成 した。
(ひ
とつの音節 で音高が移動す る場 合 には ,そ れ らを1音ご とに分 けた フ ァイル を作成 し た。)さ らに,ピ ッチの測定 をよ り正確 に行 うために,ノ
イズ除去 ソフ トを使 つて ,そ れ らの ファイル を処理 した。ノイズの除去 には,Killer Noレ
e ver。1.57(Cycle of 5th)を 用 い,すべ ての ファイルに対す るノイズ検知 レベ ルは29.87dBで統一 した。2)ピッチの測定 と分析用 デー タの作成
SUGI Speech Analyzer ver。 1.0。 7.8(ANIMO IIMITED)を用 いて,ノ イズを除去 した1音ごとのサ ン
プルの振動 数 (Hz)を測定 した。図1は,1番の歌詞の冒頭 「 カチ ューシャ」の「 シャ」の音 による例 であるが ,各 サ ンプルか ら抽出 した測定可能な部分の周波数が グラフとインジケー タの数値で示 され る。これ らの数値の平均 をその音の周波数 として,1番の歌詞 に含 まれる1音ごとのデー タ
(計
49サ ンプル)を作成 した。?11■
lil卜111
赫
:輝:
│:‐1呻 .:‐
: ‐
││││││ │
1■
│:101■ ‐
::1‑::.:.:
‐ p● ■
││■t,チ
││=■│1静
71■
‐■│経ぽぽ FF
図1)SUGI Speech Analyzerに よる「シャ」の音のビッチ抽出
明治期の 日本人はどのようにして西洋音楽を受け入れたか
まず 。それ らのサ ンプルを音高ごとにまとめ,下第5音(B3)8サンプル
,下
第6音(C#4)6サンプル
,主
音(E4)10サンプル,第
2音(F#4)11サンプル,第
3音(G#4)8サンプル,上
第5音(B4)4サンプル
,上
第6音(C#5)2サンプルの 7グ ループに分け,そ
れぞれの周波数の平均値 を求めた。次 に,主音の振動数の平均値 (323.52Hz)を 0セ ン トとして,各構成音 と主音 との相対的な音程 をセ ント値で比較 した。同時 に,各構成音の楽曲内でのばらつ きを示すためにそれぞれのSDを求めた。
主音の平均周波数 (作323.52Hz)と 対象 となる周波数 (fl)の割合
(R)を
セ ン ト値 (cent)で求め るにあたっては,下記の計算式 を用いた。(ここでlogは 10を 底 とする常用対数。)
R(cent)=1200 X log(f1/fO)‐ ■10g2
3)基礎 デー タの観察
表1は,上 記の計算式 によって得 られたデー タをペ ンタ トニ ックの構成音 ごとにまとめた ものであ る。また ,グ ラフ1は,そ れ らのセ ン ト値 を平均率の基準値 と比較 した ものであ る。
79
表1)1番の歌詞における各構成音の平均セン ト値 とSD
下第5音 下第6音 主 音 第2音 第3音 上第5音 上第6音
音 高 B3 C#4 E4 F#4 G#4 B4 C#5
サ ンプル数
86 10
84 2
平均
(cent) ‐517.89
…307.53 0 195.43 378.81 761.63900.34
SD 38.86 31.62 17.69 20.88 44.68 15。
72
7.20″ ⊆ 0 0
1000 900 800700 600500 400 300200 100
‑1000
‑200
‑300
‐400
‑500
‑600
.34第6音
第5音
第3音
第2音
̲主 音
第6音
第5音
グラフ1)1番の歌詞における各構成音の基準値 との比較
80
2. 先行研究との比較
北 山 敦 康
前項 における基礎データの観察 をもとに,前述の奥 による『カチューシャの唄』を対象 とした同様 の研究結果lυ との比較 を行 った。表 2は,両者のデータをベ ンタ トニ ックの構成音ごとにまとめたも のである。また,グ ラフ2は,それ らのセ ン ト値 を平均率の基準値 と比較 したものである。
(◆
は北山 のデータ,■は奥のデータを示す。)
ちなみに,北 山の測定データでは主音の平均周波数は323.52彫,奥 の測定データでは
317.優
Lであ るが ,両 者 とも主音の周波数の平均 を0セ ントとして,その相対的な音程 を比較 しているのでこの点 において矛盾はない。表2)1番の歌詞 にお ける奥論文 との比較
下第5音 下第6音 主 音 第2音 第3音 上第5音
上 第
6音奥 平均
(cent) ‐502.64
‐310.83
0 193.09400.78
796.41920.46
SD 9。
28
27.74 27.26 17.50 12.76ゴヒ山
平均 ヽ
(cent) ‑517.89 ‑307.530
195.43 378.81 761.63900.34
SD 38.86 31.62
17.69
20.88 44.68 15.72 7.20りC00
1000 900 800700 600 500 400 300 200 100
‑1000
‐200
‑300
‑400
‑500
‑600
.46034 第6音
第5音
第3音 第2音 主 音
第6音 第5音
グラフ2)1番の歌詞 にお ける各構成音の奥論文 との比較
結果 として,各構成音の平均値を見る限 りでは,本研究のデータと奥論文によるデータは大筋では 一致 しているといえる。第3音と上の第5音
:第
6音の数値に差異は見られるものの,傾
向としては一 致 しているといって差 し支えないだろう。しか し,ひ とっひとつの音を音楽的文脈の中で観察 したとき,両者の間では若干の違いが見られた。
明治期の 日本人はどのように して西洋音楽 を受け入れたか
長 D
︱ む 長 い い や 二
⁚ ヽ
■ 里
゛
´ 便 J
⁚ 悩
⁚ 偲
︱ 卜 一 村 和 l e 姜 e V e や
=
● o l e 尋 ミ
■
︐ ニ ー
● ミ ま L ホ ミ
目景ヨ員層薇尋目員目・ 軍尋尋早早尋
:
左の図 2は
,前
項で得 られた基礎デー タをセ ン ト値の軌跡で記 した ものであ る。(◆
は1番の歌詞に現れる同一音高 のセント値の平均で,■はその時に歌われ ている音高のセント値である。)前 ページ の表 2と この図 1を 参照 しなが ら,奥論 文の観察 と筆者の観察 を比較 した。ア ンダーラインを付 した文章が奥 による ものである。主音
SDが27.26で安定感が ない。曲の進 行 とともに主音が上昇す る傾向が見 ら れ.barlの付点
4分
音符 とbar12の 主音 では86.58centの音程差が生 まれている。(奥
:前 掲書,p.39)
SDは 17.69で比較的安定 してい る。
曲の進行 とともに主音が上昇する傾向 は と くに見 られない。1小節 目の付点
8分
音符(原
譜は4分
の2拍子)と
12小 節 目の主音の音程差は24.11セントである。第2音
概 して旋律が上行する時には高めに.
低い音の合間に出現す る時 には低めに 歌われている。SDは 17.50で。主音 より は安定 している。
(奥
:前 掲書,p.39)
必ず しも旋律が上行す る時 に高めに 歌われているとは言えないが,低い音の 合間に出現す る時には低めに歌われる 傾向がある。SDは
20。
88な ので,主
音 より安定 しているとはいえない。
第
3音
bar10の ブレスの前で他の音の平均より 1/4音 高くなっているが
.全
体としては主音 に対 して長 3度をなしている3しか し。barllで4.99cent低いのに続いて主音が 23.82cent高 く歌 わ れ る の で 。調 性 的 に 曖昧な印象を与えている。
(奥
:前 掲書,町
図2)1番の歌詞におけるセン ト値の軌跡
p.39)
北 山 敦 康
10小節 目のブレスの前でほぼ半音高い音か ら始 まり
,す
ぐに半音下降 して長3度に収 まっている。11小 節 日で
19。
26セ ン ト低いのに続いて,第
2音は32.40セ ン ト高 く歌われる。それに続 く主音はほ ぼ平均値の音である。第5音
(上 )
上の第5音も4回 出現するが
.平
均796.41cent,SD12.76で 主音に対 して完全5度に近 く比較的安 定 している。(奥
:前 掲書 ,139)上の第5音は平均 して761.63セ ン トと4分の1音 以上高 く
,き
わめて不安定である。(完
全5度は 700セ ン トであ り,800セ ン トは増 5度 になる。)この顕著な「 うたいなまり」の現象が音感によるも のなのか,あるいは発声法によるものなのかは一概 に断定できないが,松井須磨子の歌唱法の特徴 を表す ものであるといえよう。第5音
(下 )
下の第5音にういては
,不
安定な冒頭音を除けばSDは 9。28で あ り,主
音 に対 して平均502.64cent で完全4度として比較的安定 している。(奥
:前 掲書,p.39)
冒頭の第5音
(下
)が半音近 く低い音で歌われているため,平
均値におけるSDは 38.86であるが,その不安定な冒頭の音 を除けばSDは26.04である。また
,冒
頭の音以外は主音に対 して平均507.32 セン トであ り,完全4度として比較的安定 しているといえる。第6音
(上 )
上の第6音
│よ
2回 出現するが,ど ちらも第5音か ら続 く擁音である。barlの 第6音は前後の第5 音 との関係は106.36.128.79cent上にあるが ,bar9で は121.94.139。
12cent高 く歌われている。(奥
:前掲書
,p.39)
上の第6音は2回 出現するが ,ど ちらも第5音か ら続 く刺繍音
(和
声音の 2度 上 または下に変化 して元に戻る音)である。第5音が1/4音 以上高 くなっているにもかかわらず,い
ずれの音 も± 5セ ン トで長6度として安定 してお り,結果的に,第 5音との関係は約半音近 くに狭 くなっている。第6音
(下 )
下の第6音もSD27.74で 主音 と同様 に不安定である。
(奥
:前 掲書,p.39)
下の第6音のSDは 31.62でばらつ きはあるものの,主音 に対 して平均307.53セン トで,平均値 としては,ほぼ正確な短3度である。
以上のように,ひとつひとつの音 を音楽的文脈の中で観察 したときに見 られる両者の相違点やセン ト数の平均値 と音楽的文脈 に見 られる矛盾等を考えると,この段階で松井須磨子の「 うたいなまり」
を本人の音感覚によるものと断定することはできない。それを判断するためには,さ らに全体的かつ 部分的な再現性の観察が必要である。
3.再現性の確認
同 じ旋律 における「 うたいなまり」の再現性 を確認するために,奥論文では行っていない 1番 の歌 詞 と2番の歌詞の基礎データによる比較を行った
(表
3及びグラフ3)。
1番 における主音の平均周波 数は 323.52Hz,2番 では 324.64Hzで あるが,両者 とも主音の周波数の平均 を0セ ントとして,その相 対的な音程 を比較 した。(グ
ラフ3に おいて,◆は1番,■は2番を示す。)表3及びグラフ3に 見 られ明治期の 日本人はどのように して西洋音楽を受け入れたか
るように,1番の歌詞 と2番の歌詞における各構成音の平均セン ト値についてはほとんど同 じ結果が 得 られた。図 3は,2番の歌詞の軌跡
(■
,数値 はその音のセ ン ト値)を 1番(◆
)と比較 した もので ある。(な
お ,旋律の進行は歌詞ではな く階名で表記 した。)
表3)1番と2番の基礎 データの比較
下第5音
下第
6音 主 音第
2音 第3音上 第
5音 上第6音1番 平均 (cent) ‐517.89 ‑307.53 0
195。 43
378.81761.63 900.34
SD 38.86 31.62 17.69 20.88 44.68 15。
72
7.202番
平均
(cent) ‐519。 00
‑324.84 0 200。97 385。 83
754.53 919。93
SD
49.24
46.3718.19
23.58 39.38 49.8941.67
18::
800 ュ
700 600
500
400300 200100
‑100
0
‐200
‑300
‐400
‐500
‐600
グラフ3)1番と2番の基礎 データの比較
第6音 第5音
第3音 第2音 主 音
第6音 第5音
mm 枷油 輌 櫛御 神枷 硼一 枷抑 枷榊 綱細
督 8
轟
図3)1番の歌詞 と2番の歌詞におけるセン ト値の軌跡の比較
84
北 山 敦 康1番 と2番の歌詞の基礎データに共通 していえる特徴は,第 3音の低 さと第5音の高 さ,下の第5 音 と第6音の低 さ,そ してそれらの音の不安定 さである。さらに,2番 の歌詞のセン ト値の軌跡 を 1番
と比較 してみると次のようなことが観察 された。
主音:2番のSDは 18.19で,1番 (SD17.69)と 同 じく他の構成音に比べ ると安定 してはいるもの の,3小節 日,10小 節 日,11小 節目に見 られるように
,そ
の前後関係によるビッチのズ レに同種の傾 向を観察することはできない。第2音 :概 して旋律が上行する時には高めに・下行する時には低めに歌われる傾向がある。1小 節 目の上行時にはそれほど大 きな差は見 られないが,9小節 目の上行時には 1番 と2番の差は83.57セ ン トもある。しか し,2番のSDは 23.58で ,主音ほどではないが,1番 (SD20.88)と 同様 に他の構
成音に比べ るとばらつ きは少ない。
第3音 :セ ン ト数の平均値でもわかるように
,他
の構成音に比べると,1番も2番 も第3音が全体的 に低 く歌われている。例外的に2番の1小 節 目の上行時に468.38セ ン トと4分の1音 以上高 く歌わ れ,372.56セ ン トで歌われている 1番 と約半音近 くの差がある。しか し,その直後では,2小節 目の 下行時には1番は351.29セ ン ト,2番は390.15セン トといずれ も低 く歌われている。第5音
(上
):上の第5音は4回 出現するが,2番の平均 は754.53セ ン トで,1番の761.63セン ト と同様 に4分の1以 上高い。とくに,冒頭の上行部分 (1小節日)に おいては,直前の第3音が高 く 歌われているということもあって,2番 では主音の増 5度 上 (800セ ン ト)を越す826.56セン トにも なっている。2小 節 目で下行する時にはそれよりも低い747.01セ ン トであるが,これ も主音の完全5度 上 (700セン ト)よ りも高い音である。
第5音
(下
): 2番では1番 よりもばらつ きが大 きい(SD49。 24)。
1番 にも同様の傾向が見 られ るが,同
じ音であるにも関わらず,ブ
レスの前後でかな りの音程のズ レが生 じている。7小節 目では それが著 しく,ブ レスの前後で139,79セ ン トもの差が生 じている。第6音
(上
):上の第6音は2回 しか出現 しない。2番の1回 目の冒頭部分(1小節 日)では949。15 セ ン トと約4分
の1音 も高いにもかかわらず,そ
の直前に歌われる第5音との差は122.59セ ン トで 半音に近 くなっている。第6音
(下
): 2番のSDは 46.37で ,第5音(下
)と同 じくかな り不安定である。とくに,2番で は第5音(下
)に向かって経過的に下行する時に低めに歌われる傾向が強 く,8小 節目の短 3度 下行 する部分では391.73セントと半音近 く低 く歌われている。1番 と2番の全データを比較 した結果 ,各構成音のセン ト数の平均値においては大 きな差が見 られ ない ということと,音 楽的文脈 における音程の特徴 に一定の傾向があるということがわかった。高音 域での音程の乱れや低音域でのブレスの前後の安定性のなさという点では,松井須磨子が音楽的に訓 練 された歌手ではな く俳優であったことか ら,音感 による「 うたいなまり」以前 に歌唱テクニ ックの 問題がないとはいえないが,奥による先行研究 と比較 しても
,こ
の『カチューシャの唄』には,松井須 磨子特有の「 うたいなまり」が見 られるといって差 し支えないだろう。明治期の日本人はどのようにして西洋音楽を受け入れたか
4E 特徴的 な部分 の詳察
次に,1番 か ら5番までの全曲を対象 に して
,第
3音の特徴が見 られる冒頭部分の上行旋律(表
及び グラフ4)と 下行時の第5音の特徴が見 られる 7〜 8小節 目の旋律(表
及びグラフ5)を 詳察 した。こ こでは,1番 から5番までのこの部分に存在する主音(ド
)を 0セ ン トとして各音高を相対的に観察で きるようにした。なお,旋律の進行は階名で表記 した。表及びグラフ4)1番か ら5番までの冒頭部分の比較
硼剛鰤珈剛珈佃鰤劉価 0
・ ︲ ∞ 捌判判
・ 5 0 0
側
表及び グラフ5)1番か ら5番までの下行部分の比較
86
北 山 敦 康表及びグラフ4に おいて,1番 を除 く冒頭部分では上行時に第3音 (ミ )が高 くなっているにもかか わらず,下行時には第3音 (ミ)は 低 く歌われている。
(上
行時 と下行時の平均値の差は62.78セン ト になる。)さ らに,2番 で冒頭部分の第3音 (ミ)が著 しく高いにもかかわらず,全曲を通 したセン ト数 の平均値が低 くなっていることを考えあわせると,全体 としては,ゃは り松井須磨子の音感覚はこの 音を低 くとる「 うたいなまり」の傾向があるといっていいだろう。また,こ
の冒頭部分の上行時では第 3音 (ミ )とそれに続 く第5音 (ソ)と第6音 (ラ)も著 しく高 くなっているが,その不安定 さからも,これは単に表声から裏声への喚声が うまくいかなかったためと考えるのが自然ではないだろうか。し か し逆に,この技術的稚拙 さが,訓練 された歌手ではなぃ当時の一般人が持っていた音感覚を探るた めの資料 として適 しているということもいえる。
表及びグラフ5の 7〜 8小節目にかけての下行旋律では,下第6音 (ラ)が平均377.82セ ン トとか な り低 く歌われ,平均481.54セン トである下第5音 (ソ)と の差は103.72セ ン トと半音の幅をな して いる。さらに,4番と5番については,下第6音 (ラ)と下第5音 (ソ)との音程が著 しく狭 くなって いることがわかぅた。
5. まとめ
この『カチューシャの唄』の旋律は,「律のテ トラコル ドと長音階 とが折衷 してで きあがった」131ョ ナ抜 き長音階の音で構成 されている。したがって,主音は ド(この場合はE4)であ りなが らも,律の テ トラコル ドの核音であるソ(この場合はB3)と レ(この場合はF#4)に重心 を持 った旋律 になっ ている。ところが,松井須磨子の場合
,と
くに下行時において第3音と第6音が低 く歌われている。こ れは,「律のテトラコル ドは,往々にしてその下降性が強まり,中音の音が半音下降して都節のテトラ コル ドになる」10伝統的な音感覚によるものと考えられる。楽譜2)『カチューシャの唄』の音階
律音階
都節音階
結果的に,この旋律は ドを起点 として見た場合には長調であ りなが らも,ソ を起点 とする都節の特 徴 を強 く持 ってお り,あたか も短調の ような印象を与えるものとなって,大衆芸能に哀愁趣味を求め る当時の人々に好んで受け入れられたと考えられる。『カチューシャの唄』の大 ヒットを経て,中山晋 平は『さす らいの唄』や『船頭小唄』といったヨナ抜 き短音階の曲を多 く発表 してい くが
,こ
うしたと│ろにも当時の人々の都節的音感覚への嗜好性の強さが うかがえる。この『カチューシャの唄』は,明 ョナ抜き音階
明治期の日本人はどの ようにして西洋音楽を受け入れたか
治以来学校唱歌として発展 してきたヨナ抜 き長音階から民衆の歌である「歌謡曲」への橋渡 しの役割 を果たしたといっても過言ではないだろう。
謝辞
本研究 を進めるにあたつて,岡山大学教育学部の奥忍教授 に再三にわたつてご意見 をいただきまし た。また
,日
本学術振興会科学研究費補助金による共同研究 グループの皆様 には,貴
重な資料の提供 と 本研究へのア ドバ イスをしていただきました。ここに深 く感謝申 し上げます。【註及び引用】
1)本研究は
,日
本学術振興会科学研究費補助金による「洋楽導入期から現在に至る異文化適応の歴 史的体系的研究〜日本人の身体 と音感の変遷〜」(基
盤研究B‐1,研 究代表 :嶋 田由美,研究課題番 号 15330190)の 一環 として行った。2)園部三郎,`矢沢保 ,繁下和雄「日本の流行歌・その魅力と流行のしくみ」
(大
月書店 ,1980)p.2033)上掲書:p.20
4)cD『軍艦マーチのすべて』(キ ングレコー ドKICG3073,1998)tr.11
5)小泉文夫「日本の音・世界の中の日本音楽」
(青
土社 ,1977)pp.2462796)小泉文夫「歌謡曲の構造」
(冬
樹社,1984)pp.213215(繁 下和雄による『解説』部分)
7)奥忍「中山晋平の流行歌はどのように歌われていたか〜松井須磨子 ,後藤紫雲,佐藤千夜子の場 合〜」
(奈
良教育大学紀要第 37巻 第 1号,人文 社会科学,1988)pp.37‐478)奥忍「大正時代に日本人の音感覚はどのように変化 したか〜アメリカ起源の 3つ の流行歌の音律` の分析〜」
(奈
良教育大学教育研究所紀要Vol.24,1988)pp.1‐99)音程 (2つの音の相対的な隔たり
)を
示す単位で,1オクターブが 1200セ ントと定義されている。平均律の場合,半音はこの 12分 の 1の 100セ ントで,全音はその2倍の 200セ ントとなる。音律や 純正な音程 といつた微細な音程差が問題になる場合に用いられる。
10 1914年
(大
正3年)に 芸術座の『復活』(ト
ルス トイ原作,島村抱月脚色)の 劇中歌 として女優の 松井須磨子 (18861919)に よつて歌われた。島村抱月(1871‐ 1918)/相馬御風 (1883‐
1950)作 詞,
中山晋平 (1887‑1952)作由。この録音には 1番 から5番までの歌詞による歌唱が収められている。
11)当時発表された楽譜はへ長調で書かれているが
,こ
の録音ではそれよりも半音低いホ長調で歌わ れている。また,当時の楽譜では,5小節目の「て」の音が実際に歌われている音よりも半音高 く書 かれている。121 奥忍「中山晋平の流行歌はどのように歌われていたか〜松井須磨子 ,後藤紫雲,佐藤千夜子の場 合〜」
(奈
良教育大学紀要第 37巻 第 1号,人文・社会科学,1988)pp.39‐40131 小泉文夫「歌謡曲の構造」