• 検索結果がありません。

( 近世・近代における長崎の鮮魚流通と魚市場

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "( 近世・近代における長崎の鮮魚流通と魚市場"

Copied!
33
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

長崎大学水産学部研究報告 第80号

( 1 9 9 9 )

近世 ・近代における長崎の鮮魚流通 と魚市場

片岡千賀之

M odern HI St Ory OfFresh FI Sh DI St ri but l On and FI Sh M arketi n Nagasaki Chl kas hlKATAOl く ^

ThL Sp a pe rWl l lde s c r l bemo de m hl S t Or yOLf r e s hf l S hma L ke l l n gl nNa ga 5 2 L klf r om t h et l meO Ll t S e s t a b l 】 s hme nlt o【 heWo r l dWa rl l A s Na ga s a kl l l S hma r ke thsbe c o meabl gpr O duc l n gC e

n

t r e , t hr e e a pp T O a C h e sofl L S h】 a T ) d

l

ng. r O 】 eoft hema r ke t . a r L df l S hdl S t r l bu【 1 0 1 1We r eL r L t r O duc e da n dT T 1 0 de r T l l Z a 【 】 O T I S s u c ha sr e l a 【 】 o r L S h] pbe hv e e nf l S h e r me na ndT T ) L d dl e T

Tt

e n,Or ga nl Z a と 】 o r )a r ) dma r ke t l T l g

W

a y.【 r a r ) S P Or t a ‑ t l O r Lme t h

o

ds ,a n df l s he r 】 e sr e l a 【 l V ef a c I J l t yWe r ee mpha s l Z e dL nt h ep a p e r

Thl Spa pe rC l a s s l

fl

e d‑ t s hi s t or yl nt OS i xp e l L O d s① i u e da le r aNa ga s a k lf l S hT na r ke ta pp e a r e d Ln

l 6 2 0 s a ndI t spl a c ewa s) a t e rmo v e da l o ngt t l en V e r( 参Me l ) le r aThef t s hma r ke tl nF o r mo fa s s e mbl y o fE I S hw h o l e s a l e r swa s紬1 日ns ma l ls c a l edu et on on‑ mo t or l Z e df L S h e ne sa n dunde r ‑ de v e ) o pe dt r a ns ‑ pc ・ r t a t ] o T I S Wh o 】 e s a】 e r sdoml n a t e dt hef L S h e T l e S Na ga s a klFI S h er l e SUmo ns t ar t e dt oc D nt r O=he wh o l e s a l e r sa ndt hef l na nC ea ge n c yWa se S t a b 】 z s h e dL nt hema r

k

e t◎ be f o ' et heWo r l dWa r1 Wl t ht he e r n e T ‑ geOfs t e a mt r a w一 e ru s l n g】 C e a n dt het r a ns po r 亡 a山o nb yt r a l n. t h ef l S hma r ke te nl a r ge da n dbe c a me abl gPr O du c l ngC e r L t r eWh) c hf l n al l ymo v e dc l os e dt oNa ga s ak)h ar bo ura n dt h er a l l wa ys t at ‑ onSo me Ofbn dl n gSWe r eS e n tt Ot hebL gC l t l e SW] t ho u tp a s s l n gt heNa ga s akl f 】 s hma r

k

e t④ Ta ) 忌 h oe r aI ns t e a d ofs t e a mt r a wl e r . mo t o r l Z e dl o n gl l n ea n dt r a wl whl C hl mm】 gr a t e df r o m) S O) a l e dl s E a ndst oNa g a s a kl Cl t y a c c e l e r a t e d( h et t s hmar ke t l n gm( 】 d e r na l Z a t l O r )So mebl gf l S hde a l e r so ft hema r ke tl n VC S t e d 【 ot he s e f l S hc r L C S⑤ Showne r a Thef l S he r l e SC Or l S I S t mgO fI nde pe nde ntf l S hl nggr O l l pan df ) s hde a l e r ' s r n a n a gc T ne nte xp a nde dt he ) rbus l nC S S】 nf l S he r l e Sma t e r l a ls u ppl y me ntBya ddl ngt h epu r s es e l ne E I S he r y . t h er na T ke tr e a c h e dt hehl ghe s tde n ) a mou T l tAuc t l 0 】 1S y s t e mt o okpl a c ewhL I cr e E l 】 n dmc ntf r o m wh o l e s a l e r st ol l S he r me na n dm】 d dl e me nh a dpr e v a l l e d ㊨ Wor l dWa rT Ipe r l O d Dur l ng【 he

w

a r

,

f 】 S he ne sa n df L S hma r ke t L n gWe r eC e nt r a l 】 Z e dun de rt hego ve r nme nt a le o nt r o Ja nda tl a s tc o l l ap s

ed

1

日的 と魚市場の概要

1

日的 と視点

本崩は,長崎

(

ffT)における鮮魚流通 と魚市功の歴史をま とめた もd)であ る。対 象 とす るXq問は,魚市魅が発生 した近 世初頭か ら抑二次大戦終結時まで とする。水産 brlコ二品につい ては.郎魚流通 とは流通ルー ト,流通故紙,収扱い英名が追 うので対象外 とす る。本稲は,長崎におけ る政策,水揚げの 変化.魚市場の扱牌 と取扱 い,そ して阜f触出荷の動向につい て考察する も0)である。

本縞では,以下

O

)

3

点に留意 した。

長崎は呈良筆な産地市切であるに もかかわ らず. これまで こ の ような研究はなぞれていない り。長崎に取 らす,産地市域 q)雌史研究には‥ 軌市場の組織や敏雄柏だけを取 り上げた も のが多 く,その前後の過程 であ る鮮魚の水揚げや出荷 地元 7fl世 と統‑的に とらえたものは少ない。魚市場の取扱 いがそ の地域の漁業 と消幣動向を7王確に反映 しているな らば ともか く.そ うでない場 合か多 く. とくに大型産地 では水揚げ,市 勘取扱訂.L 出荷先の

3

着 が飛騰 しているq)が着通である。そ うした大型塵他市場 では,魚下fT場の取扱 いだけをみ るのでは 不十分であ る。水揚げか ら消班にいた る全体の流れのなかで.

魚frf槻Q)紫た した役割を考察する必要があ るo

2

は.産地市場 であれば.消焚他市場 と適 って,産地 市場特有C)魚椎施設 .稀就陳管 ,造船 鉄工所,製氷 燃料 供給 といった関連産梁,運搬手段の発達 といった側面 もあわ せて

附 しなければな らない.

3

従来,魚問掛 こよる漁村の前期的支定が強調 され る佼r目こあ り.資本制政美の勃興 と閉息野本 との関わ りや鮮 帆沈通の近代化,魚rL"臣の手数料耗人化q)過櫛が正当に評価 されているとはいいがたい。魚問屋 からすれば,漁業生産力 が低 く,兼荷立や出荷先が少な く,その他域 も限 られていれ ば,漁業 漁村支配 も可能であ ろう。し

し,

Tf本制漁巣が

展 し,漁業経紫 が

大 し,さ らに,その水耕他が選択 され るようにな る と

.

旧来の ような独英支配は不可能 となって く る。 漁業宅En肘 こよる托油過程への参入,新列漁業か らの近 って市場流通その ものか改指 されてい く。 さらに,魚pJJ助の 内部 か らも問屋 間の成争 に よって近 代化 への動 きが加速 さ 魚問屋の手数料商人化,Lu荷‑21に対す る'S戻 し (

也‑ ( ' ' J 奨

励金)が現れて くる。 軌問屋 による前期的支配が漁業の生産 力発展 を阻智す るといった ドグマか ら抜け出る必肇 がある。

同 じことは.魚市場 における問屋 と仲H人の関係について も いえることで,問屋の減少 と仲Xl人の増加,両名の菜務分化

(2)

片岡千ft之 近世 近代における長崎のか粗放iElと他市額

と競合,代金決折検閲の設立,六受入に対する8‑戻 しといっ た近代化が進行する。資本主我的境争によってrnl臣の価格 一 班為支丘王が朋わで くる。

したがって,長崎を舞白に(魚市場を漁粟生虎.鮮魚洗1 運搬 消費0)放れのなかで位虻づけ,産地市

ての特ガ

を食餌に吐 きながら.そのt幾鮭や役割変化をみてい くのか, 木槌の課勉である。

2

各時期 の鮮魚東通 と魚市1

本稿で払 長崎 (柿)のEF魚洗適 と魚市境のJd̲史について.

漁業の発展や氷の使用.沈通手段の発達.魚市場の立地.政 および取扱高な どから

6

つに時期区分 した。時期区分 と それぞれの威蟹は以下の とお りである9

日 )近 世

長崎のjrLTrgMi'在永年

問 ( 1 6 2 4‑

‑4

3

iF)に金屋町に

発祥し

. 慶安年間

( 1 6 4 8

‑5

1

年)に魚町へ,さらに

寛文 4 (

1

6 6

4)辛 に材木町本為 り,天保元

( 1 8

3

0 )

年に杉本町河岸通 りに移転 した といわれている。町の形成.町名.人口の推移,立地先 件からこの説を検証する。魚ffi執 ま魚問屋の集合体であった.

(2)

明治耕

nJl治初期に.帆TF場は

2

つに分割 したが.近世 と同様,無動 力漁掛 こよる漁菜.人力,牛札 和船に上る射魚流通の段輔 にあったb魚悶星に上る独楽への仕込みjE妃 (金融王亡己)那 行われていた。魚市場は中島Jll沿いに立.熊荷および出 荷准尉は捷めて限定されていた し,取扱高 も少ない。魚開度

と仲異人との分化ほ未成熟であった。

明治後期に11,汲兼q)発炭,人口増加を背景に,仲只人の Jb加.代金決前会itの出現,水産妊l合による魚市場の開設

ともなう魚開度 との対立が現れて くる。水産机合の魚TrI税捉 常が破産すると.HJl治末には県水産kL合連合会が

2

つの魚市 域の管理会社 となる。

(3

)明治末から大 JJ:初期

トロール漁業が勃押 し,水を使用 した漁&物の保存と 鉄道Ni送が本格化した。それ とともに,魚市t捌ま一大変革を 迫 らゎ.県水産血合連合会Ii.%r打切を鉄道駅に供披する長崎 港へ統 合移転 した。仲買人は県外Lh荷をも兼嬢 とするように なり,小売人 との兼務分化がi蛙'rTした。汽船 トロールが長崎 を基地 とするにあたって,水越地選択 を背架に.市営の魚郁 ni他所が設姓され 魚市場について も関屋および仲買人の輔 加.手数料の引 き下げを繁栄 している。水揚げの急増.LLi 田の広域化を担 う有力間足 仲只人が台し,階層格差が拡 大 した。閑兼産業 として載氷,fth‑会社などが設立された。

(4)大正Aq

邦一次大戦ガに汽船 トロールが洞落 し.それにかわってレ ソコダイ延縄.さらに故船庇曳朗が台頭 した。 こうした新邦 軌溝は. とくに徳島県人が五島を根拠 として展附 した。石油 発動軌 こよる動力漁船や運搬船が普し,集TuY免の増大かも

たらされた。長崎の屯力r..1 仲只人に上る新朋漁業への仕 込み と長崎港への水掛 デ誘致が進み,長崎は全国有数の産地 市場 となった。下関の林兼商店 も長崎に進出 して,漁業投郡.

兵狩の拡大をはかっている.一方,徳島県からの出漁同は.

転売市協の選択権を背景に,長崎魚市場の近代化 と鞘逓直奏 の萎偏を促 し.大正末にTL.f!,から長崎港へ移動てい く。魚 市場の取引き方法は.相対取引 きであるが,大都市Th助の価 格 と連動するようにな り,.軌間臣の手飲料前人化が進展する。

代金決済会杜による仲常人への歩圧 しが特徴 となった。

(5)昭和敬前期

以内故曳粥 (抜糸庇曳網)の長崎集折が進み.県水産叔舎 弟合金から県水産会へ魚市筋注晋が秒甘さhた。昭和恐慌を 艮て.絶島県人による任官梅毒の拡大 とtJ力魚問星の漁業正 常化がj畳み.他の魚開床や仲只人は漁業仕込みから紙過し.

手放科商人化を褒め る。以西旺曳網を

駅した掻営体は,関 連産業への投梁を行い.自給体制を強化 していった。昭和恐 慌後,魚価の訂占蜂 と底魚前'の減少のなかで.レンコダイ延 縄か ら‑/マ//イ カジキ延純への転換が進み またイワシ勘 繰網が急成長 して くる.魚市場での取引 きもセ リ売 りに変わ ってい く。出荷面では 近県への トラッ//鴇送が拡大 した.

(6)世時銃朝期

n巾政争 とともに.漁兼 および水左物従弟が耗iSlされ 群 仕に向かった。漁業は.貸付の欠乏が深刻 とな り.fi材の丘 絵統制81枚がflらわたものの,漁燕生産は.e速に脱凍 してい くb魚問屋は個別官業体制を解消 し,山T.'

J

統制組合として糾 合され 仲rE ト売人はその接能が召浸されて.廉恭 した

り,配給縦様に組み込まれた。

正̲近世における魚市場の発祥 と移転

1

近世の魚市場の尭拝と移転

長崎の魚市場の沿革について放れた最初は.大正

1 2( 1 9 2 3 ) i l 13 月

0

日の東洋 日の出新開や大正)4年刊の r長崎軌RJt 阪死所紀要Jであって,意外

し い21.上記の記述 も史料 的菓付けがない簡単なものであ り. しかも帆市場q)立地の変 遷に触れているだけである。以後,今 日までそのまま引用さ れている (それを通説 と呼ぶ)

それによると.長崎の魚市執 ま,生永年

r E l l( 】 6 2 4

‑4

3

年) に金屋■T(現在の金屋PT)に発

し,慶安年間

( 1 6 4 8

‑5

1

年) に垂足FTから東町 (現在の租の町)に,さらに4

( 1

66

4)

年に材木町 (現在の蘇rT)本並 りに捗転 した。つまり.通説

によれば,現Iの魚の町に魚市税があったのは

.1 6 5 0 6 0

代0)十数年riilということにな る。その後.魚市場は天保元

( 1 8

3

0)

iFIこ材木町本過 りから材木町河岸通 りに転 じたとし ている。

渡辺武彦Ltは.魚市場の発祥について邪論をFV.し.もっと 早い時期に 「魚の町」に開設された と

察 している日.その 理山 として

3

卓をあげている。住)金鹿町は高台にあって.魚 市場の立地粂件 としてふさわしくない。②兜永年rE]1というq) は.元

租 2 ( 1 5

71

)

年の見時開港から故十年 も捲 っており.

魚市場の取立が遅すぎる。③金座町 とは別に 「#

l

,「蝕 ノ町」があ り,「さ」が抜けて 「かなや町」 と誤 り伝えられ たでのはないか。そ して,渡辺矧,凧市萌が先TFしたのは,

r魚の町」の名蹄が初見される慶長L

9 ( 1 6)

4

)

年頃であ り.

金星■Iに魚I帯顎はなかった,とする.その按の魚市場の移転 については共生をはさんでいfJ:いので.渡RZ氏の説からする

(3)

長崎大学水産学 部研究報/LJ 那80号 (1999)

E 91

近 世 の 長 崎

@

Sl

r焦T#時 代ノ長崎 上巻J(明治3

6

年) 日次

(4)

片岡千焚之 近世 近代における長崎の鮮魚流通 と魚市場

と.r魚の町」に他市切があった朋 矧 ま5 0年間ほ どになる。

近世の魚市t 別1,F f . 世の定跡 r iと違 って,‑)1 で漁業か発 展 し.他方で揮市が発展すると.苛市にF E : J 藍が常設店 を維え,

日本の他市萌は.統一的施設を もたず.問屋か来合した形億 が普通であろ。そうしたlL 世的舟市掛 士.触町.召町の名前 が現れるか,名前は ともか くれ商が集仕する時をもって発作 とみなすのが常識的である1 1 。長崎は的鞍部r r T であったので.

「忠の町」の

b T L が現れる樽朋 を魚r h 一 機の成立時朋 とするの は.確かに説得力がある。

2. 町の発展 と魚市場

魚 F l f 朝の発生 と移転については.史FWl . ないので.鮮魚の i F I 骨をBL 定する長崎の町の形成や人口の推移などから推al し てみ よう 5) 。

長崎の町は,長崎漣が開港 した元亀 2 ( 1 5 71 ) 年に 6町が でき,文辞元 ( 1 5 9 2 ) 年に1 7 町が加わって23町 となった。 こ れを内町 と呼ぶが,1 7 町の うちには金屋町が含 まれている。

当時の内町の人口は約 3 千人であった。

慶 長 2 ( 1 5 9 7 )年 に.B: 崎の市街の発達や人口の増加で

くなった内町の外線 ( 外町 と呼ぶ)の中島J L F 沿いに 4 町がで きる。それには材木町 も含まれている。「魚のrT 」が初見さ れるのは,慶長1 9( 1 61 4 ) 牛 とされる.打水町 より中島川の 上維城 にあたる外町である.当時の長崎の人口は約2 5 千人 と なっている.

集束1 8( 1 6 4 1 )年頃にはr A I 町2 5 町.外r T 4 8 PT .計7 3 町に膨 れ l :かった。「魚の町」の町名は 「魚最Pl」 とな っている。

7

テ約 2 ( 1 6 5 9) 年の人口は約41 千人で,さらに増加 している.

このように1 6 世紀末から1 7 世紀前半にかけて,J を崎の町の膨 醍,人口増加は著 しいものがあった。

兇文 3 ( 1 6 6 3 )年 3 月に出火があ り,内町,外町合わせて 5 7 町が全焼 し . 6 町が

水.焼け残 ったのはわづか 3 町 とい う空前の大火事 となった。

r

租ノ町」

.

材木町 も焼失 している。

この後.町割 りが実b Eさ h .「魚の町」の町名は r今魚rT」

と記 されることが多 くなる。

その後 も人口は , 天和元 ( 1 6 8 ))年の約5 3 千人.元禄 9 ( 1 6 9 6)年の約6 5 千人 と杓えている。外町の発展や大火後q ) 市所地の藍備によって中島川の河口や川沿いが並鮪され 長 崎のJ P , ' t t 悦を彩る中島川の石噺 土 1 7 L U ‑ 妃後半に建策 されている.

「魚0 )FT 」の近 くに 「魚I JT 鴇」がかかったのは元律1 2( 1 6 9 9 ) 年の ことであるが,

の名I 榊 ま明治時代につけ られた もので, 建造時に魚市場があった ことにはならない。 それにして も

.

通説では2 0 0 年以上 も前の. しかも十数年 しかなかった魚

場にちなんで名前をつけたことにな り,鴇が架かかったのは.

魚市J Bが材木町本通 りに移転 した律の ことになる。

その後,中国船の長崎入轄故か減少するの と歩i F l を合わせ る上うに長崎の人 口は強少 し.寛政元 ( 1 7 8 9 ) 年は約3 2 千人.

天保 9 () 8 3 8)年は約2 7 千人 となっている.

町の毎こ りからすると金星町が古いが.当初の人口は少T J ‑ く,魚市場の発生は想定 しに くい。中島川沿いに町並が広が って 「魚 ノ町」あるいは r絶屋町」があ らわれる1 6 1 0年代に

は人口は2 5 千人に連 して.魚市場形成の粂件がで きている。

次に . 地 図 ( E g 1 )をみなか ら.魚市81 の立地条件から考 えてみよう。*T 並みは安置があるので.時代ご との他L g l が必 葬だが.厄林になるのでそれは省略するり。通説では,魚市 場は' &永年間( 1 6 2 4 〜1 3 年)に金尿町に先拝し, 慶安年間( 1 6 4 8

‑5 1 年)に金庫町から魚町に移転 した というが,その時点で はすでに 「乱 臣 町 」 .「軒l ノ町」があるのに,魚満ち 削ま企塩町 に出来た ということになってス

キ リしない し,人口規模か らしてそれ以前に魚F t 7 切が形成 された可縫性は高い.

ただ.渡辺蛇が官 うように.金屋町1 1応台にあるわけでは な く,中島川の此 ( 出払より北)を狂わろJ l l 沿いの船沖町に 帥接 し.対岸には恵比野町 ( 地図では思比酒町) もあること からして,船着 き場.水議場 としての地理的条件は肯わって お り.内町 ( 中心前)である金星町に魚市1 8があった可能性 は否定できない。船沖rTも内P lで.文律元 ( ) 5 9 2 ) 年には金

F

I

とともに名前か出て くる ( 恋比市町は後からで きた ) 。 金星町か ら凧町に移転 した きっかけ として.寛氷11 ‑1 3 ( ] 6 3 1‑ 3 6) 年に中島川河口に海外貿易基地 U. 砧が作 られ たことが考 えられる 。r l l 島の築造に上って,金屋E q T へは迂EJ

L

なければな らな くなるからである。ただ.この理由

I

L 山 岳が出来た時期 と金足FTに魚市場が出来た とされる時期が同 じで.それか ら十故年後に不都合となって魚町へ移転 したと いうことになって.説得性に欠ける.

免文 4 ( 1 6 6 4)年に魚市萌が材木kT . 4 ; 通 りに移転 した とい うのは,そり前年に長崎地域を放 き尽 くす大火があったこと.

AI名がその捷 「今魚町」に変わっていることからすると可能 性は高い. また.「魚

町 」 ,「魚 ノPr

J

から材木町への鞍点 は.い くらかでも下流域に移動 した ということであ り,河川 交通に とって も符合が艮い。河I l l を遡 る漁船0 )水揚場が,材 木艦 き場のある材木町 ( 材木 も河川を逝上 して運搬された) Q )上柾にあ るのほ,不郡合 となったのであろう。

町の形成や人口は,近世d i J 朋に急速l こ膨張するか,中期か ら後期にかけて人口が減少.惇落 して., %市切り炭損や検能 はかえって強小 したのではないか とヰえられる。

この ように, 魚市場の 発 祥 と移転については決め手がな い 。

魚市場は

間星が集合しているといっても 1 カ所ではな く.

分散していたことも考 えられる。魚市場が移転 した後 も

,「魚

の町」の町名だけが残 るからである。

魚市雛の横群.那魚の取扱い,あるいはその背景 となる汲 罪,漁村 とq) 関齢 こついても不明である。わずかに,長崎は 漁業が未発達で. 郎 任l の大部分は近郊から運ばれて きたこと, 近世兼の魚市場の状況は.魚を換竜することf J ・く 「面只い」

したこと,海r A I 1 1 こ 法. Q生予 を設臣 していたことを知 りうるの みである。当時.鮎 r f 場は道端に魚を並べて販売 していた。

魚は検̲ 生せず.すべて 「面買い」で.マグロ カツオは 1 尾 づつ.タイは救牧単位.エビは天保銭 1枚あた り,ハモやキ ビナゴはザル単位で販売 した。明治期になって ようや く計丘 されるようになった。取引 き単位が′ 小さいので,仲只人 と小 死人は未分化の状態にあった と思われる。

マグロやサワラの甥は軌間星の取 り分で.これから胎 を絞

った粕は肥料 として薩岸地方に販売 されたd この粕は絹の上

(5)

で屯煉するので臭気がたちこめ.3 i b行の邪y Eにもなったが.

当時は1 1 【 潤 にならなか・ , )1 =. また.J iEl 津の輔佐 と‑ 大酒地先 を生態均 とし.J j P行所やg肘の役人.外国の碓荊なt‑ に供 さ れた . r J J l 烏口j 封土ki J R在の1 4Xであった。 この うち 4, <l i.

只受入の代金支払いが不qE 実なためその輔卿 こあてた, とい 57 J .

I I ) 明治期の漁i KとA市場

1 長q用辺の漁3 tと*産物流通集件 日 長q市と古^ &拝fF の亜美

長qの魚市切の救梢祇園とみ られる兵q市 ( 明治22年市制 義行) と西彼杵珠のi h兼を枚機 しておこう. この他に而松

鉢 下丘Aからの人絹もあった.衣 1 は 鬼l 郎I iと西彼杵 e B の漁井戸乱 れ兼名払 漁船埋故の推移をみた ものである。

長崎了 f f O )独英勢力は小さ く,明約31(

18

9

8)

年l こr l 了 域が拡大

4 3年の沿岸漁集高は 3 T・ 円にすぎf J : い.

一九 西 彼 杵掛 ま ね男が盗んで 乱某戸故 i &文書故 漁 船故は明治中期まで4加したが.その枝は呼称する ( 漁村の

‑竜が足や市に投入されたことも一 国 ) . 漁J i金新は明治35

(19

0

2)

年の4 08千円から43年の5 2

5

f円に輔L ) [ ) している。

明結 .

43(19

L O

)坤には動力漁脈が山現 し,枕tt

mに遥拝独 英 というql日が' &示されるようになった。 とくに艮CT p d Tは動 力逸れの丑85 に上って漁鍵箱か火祉的に上梓する.そq )*半 は汽J)トT 3一ル池井に上るものである.西彼杵弘の遥拝漁某 は *助力緋 にJ :るもりか多く その主体は塀If海出漁で あ り.その他はか ソオー手釣 りやフカ釣 りなとであって 耗 qの郎h狂為 との関連 I i 滞い。

漁丑やがm沈j i Bに一大市銀をもた らす汽船 トE 3‑J L , につい ては次都で述へるとして.ここでは# ir I ! 沖難の漁農F L 占をT Jて おこう.明治4

3(

9

1 0)年の西彼杵tB の魚椎別 晩 生1 馬は 3 ,

いものから】 亡に.マ イワシ (

7.

7

52

ソ 1

831‑ 円).カツオ

(

4

22

トン.54千Pl ) .プ リ

(

L

87

トン , 43千円).タイ

(HS

トン,3 3

十円).サバ (

5 2汗

ソ.

2 67‑ 円). イカ

(

1 2

4

ン,

1 0 千 円).フカ

(

1

03

トン,1

0

千円). イセエビ ( 5 0トン. 9 十円

)

./イラ

(

1 3

2

トン

6千円).‑/ジ(

3 7トン

6

千F r u.

表 1 長崎t T fと西鉄Fr雌の軌澄戸救.汎男為政,漁船軌

(

グロ ( 2H‑

ノ. 5

千r r J )である日.兵略の卯 I i 糊への上J a b は,これらが巾, Ll にT J : つていたであろう。

明治34.3

5(

1 9

01

0

2)年における堤qp

Ji 近体 ( いずれも 西彼杵拓)の主な漁村 と良美をみていこうい.b S朽4t では.

E l見川 1粥J a i J t区を中 亡・ に タイ,, /リ,′、 モの娃qb' ・ 盛ん であ r ).他に イワi /kl I A粥 I f ‑ 淡粥 ( 庇 曳81 ).T Kラ粥など があった。戊木村も漁双が櫨んで.手繰網を五体 とし.ボラ 網 地

Ii

粥.イワ シ 蟻切網 (まき網) プ リ軌 か し粥 ( 種 柄). J Jイ フカ娃托T J : とがあった.茂木緋 ま.漁食物を金 地仲Tr人l こ売 るか.あるいl まあ等の呼人が長崎市内で行商す るようになった 。 qL m足から仕込みを卦 ナて1 , .る漁字 もあっ

1

.

r <哨帝では . 小榊川 ま沖ノ島地区のタイ,プ リ妊縄.蚊堆 1 寸は縫切網.プ リ姥軌 ホコ' 突き.かし網.‑ F ・ 捗網なと.作 W. 付は損切網,手娘粥.tT 漸網.かし網T J : ど , 土)絹3村

は牛

網.かし網 プ リ朋 イワン刺網,横切嗣なと,小ケ丘H I l施. k

粥.

i t f 加 ( J E史的) .手J #alr J .とである。長q半島の 先箱に行けは

,

漁男か蟻んな

IF

t i u寸が・ あ り GI切羽 イワシ 地史粥.ボラ折.か し的.手按的.カマス粥 ( 坂 内 ) . * 色

柄 (r

REaI J ).プ リ蛙粥.カ ソオVJり 1 リ PE J りなとが ・ あ っ

た。株払f lは.妊島に しては漁梁は少な く.S I切羽 手

.

ボラ 粥 . シラス網なとであった 。

外海では 式見付は1: 線粥 , 縫ウノ 網.プ リ姓糾.かし飼 犬魚群.サハ釣 Y )など.三重H は 払切羽.かし的.プ リ粥.

手提粥T J : ど あった.

2 )水産gl j t遺条件の変化

長崎1 f f の鮮 q t( ‑ 部

梅丘蝕を含tT

)維連は.明治期をj Z L じ て絵・ tに変化の兆 しが現れて くる.流池魚件の変化食中I L・ に みていこう。

日 )技巧の人口は.妹少,仲井 していたが r h l 制がひかh る明漁2

2(18

8 9

)

年には約55千人に回復した.列i

t

,

131日898)

年にはi T i J *が拡大 したこともあってII 3千人 とな r ). 43年に は1 7

8

f人とr J : って.研冶中期比降 , 人 口 か附 にL 廿加した。

(2)L ト烏I I r 沿いQ)触了 I ) 切への入荷先P f = が悪化した.中島川 を遡上 してのJf魚運搬は.その」こ甜L J &に水過都Rの1 . : め貯水

r

i 科 各年次 r 長qAt

J

t t 明治31 年に附けなとが長崎7 1 7 1 こ指入される。

池を遊放 したことで沈澱が減少 し 支牌をき1 L すようになった.すなわち.P

J始 24 日8

9

1)午

に本村n南部貯水池 , 3 6 年に11 7 lI 1 , 勺旺滞貯水 池.37年に西山貯水池が完成 し

染 中島川 の読J Lか 芳しく戎 じ.i A油でなけtl l fCの拭み 卸 しが

L

Ht lとT J :り.大郷 の運行が田l lとr Lっ

(3)

r

{崎藤は河川からの土砂の枕人と堆鮒 こ よって水T 3 t が挽 くなった。明糾 5‑2

2(L882・

8 9)年に汝淀か行われたものの.L f梁娩膜が小 さく.港帝政能を十分に先付 させるにいたらな

内の汝蕗.砂防工gt J .埋め立て.中島J r l 変淀二 r ̲

林が行なわれ 中尉 I I 変距̲ 工事では下i tを江戸

rTと日払rIの間を迂回させた。

(6)

片岡千欠乏 近世 近代における長崎の鮮魚流通 と魚市場

その後 も土砂の堆横で,LOOトンの位 も嬢岸で きな くなっ たので,さらに広 く湾内を

津B

E

L

.その土砂で大規模な填め 立てをすることが計貞 された。明30(1897)年に工市が粒 まり,37年に完成 した

(

2

Aq長崎港帝改良事業)。 その後.

埋め立て地の九分が行なわh,九州鉄立 (秩)の用地.道臥 宅地などとな り,尾」二rr,台garT 池TTfJ:とが生まれるn)

(4)漁獲物のtl1両状況をみると,長崎777から他府軒へ鮮魚 塩干帆を移tHするのは熊本地方だけで.長崎ffiより牛馬に 荷を析み.山並を伝って稲荷叫の戊^へ送 り.そこから8

1

で輸送 してい1.:。労力 と時間を姿 し,販路は取 らTLるので利 益 も少なかった。明治

6 ( 1 8

73

)

年か ら汽船の航路が閃け.

熊本

,

佐爪.村岡なとにも販路を拡張 し,取扱いも増加 した。

長崎か ら京,大阪への放煩の輪送が始 まったのは明治17

(1880)年頃のことであるbマグロが大池で,たまたま方良 町 (後述)の魚開度q)夫人が京阪地)ブに塩マグロを携新し, 試売 した ところ宮外な利益を得たことで.年 々槍送 販売す るものが増加 した。京阪に送 る頃 合は汽船で神戸に送 り,そ こから汽r&に鎖み替えた。ただ し,これは塩栽魚であって, 群魚でほない。

西彼杵EBにおいては,熊本,柳川.八代.鮭缶,伊万里.

長崎近傍へ漁実名自らが漁船 で

送 し,頼光 していた.豊

でJt魚だけで坂尤で きない輯合は,塩干敗や把科 に

正 して 運搬 した LI)

(5)明治末まで̲〜.Qの積送に鉄正が使われなかった。鉄道 の集術状況をみると,明治31(1898)年に長崎 FFl司間 ( 岐まわ り)が開通 し.京阪神,文京 までつながっている ( 門む峡は申開の抗み替え)。ただ し.粍噂駅 といって もそれ は現在の浦上駅のことであって,汎 Lから現Iaの長崎駅まで は梅で,汽科 ま市中に乗 り入YLできなかった。前述 したよう に.u)J胎37(904)年に長崎港の碓滑改良工事が完了 し

.

38年に台蛸町に長崎駅が作 られ 浦上駅 とつながったO群.% の鉄道嶋送 としては,明治末に汽船 トロール会社が大阪に送 ったのか最初である。

(6

)射水所はあったか,魚0)保護のために水を使用する

とはなかった。長崎では明治22(1889)年に長崎如来 (抹) がで き.日産

5

トソの袈氷枚を設定 しているLZ).水訣別 1汽 kiトE3‑JL/の豊Je,鮮魚の鉄崩N5送 とともに明治末以降に‑

披化する。

2

明治期の魚市場 と魚同塵 I)明治前期の魚市場の変化

長崎の魚市場は材木町河岸点 りにあったが.明治6(1873) 年に他聞垣間で板扱い上q)紛議を生 じ,一部の問屋が対岸の 万監町に移って新市坊を開いたので.rfELI11を挟んで材木町

と万屋P

l J L

2

カ所 となった L3㌧

休や理由は

,H I

l監株をめ く・ってのも0)なのか,汽船を使っ た広域性迅 (塩 私) と関係するのか.

述するように委託販 売 と3

1

取 り販売 という吸うモカ法をめ く・っての対立なのか,め るいは明治初期のiL会経済的混乱に関係 しているのか,わか らな

.

明治18

( 1 8 85 )

年に同異風 合準別により.長崎区および西

2

明辞,t2JI年の長崎市の魚市場

名 称 所在地 fi本金 株主 仲買 売上高 口銭

魚 市 場

海産会社 材大町万屋町 1,000 295 lO 2271,.089448

2.

7

0 9

rf 長商耕省長拐局 r水産事項特別弟査 上巻J(27年)

444.445ペ ー

彼杵郡長qflの魚群小売 繭.行商によって長崎魚柄同業挺合 が絵戎されている。その 「姐合BL的」には.組合は事果捉過.

E I

売上鼠 阻合決算を鼎に稚告する.組合員間の売ft税引 きは対入れ相場の

5

%増 しとする. とあ ることから州.小光 り神助の肘】殻をEl指 したq)かもしれない。

&2は,明治24(1891)牛のT<崎TfTC)魚市場C)状況を示 し たものである。材木町は他問屋 (株]三と記さTlている)が29

人.仲貿人が10人で,r.り良の方が多かった。il間取扱高は27

千rTlで.口銭 (手数料)は取扱高の1割であった。7Jp長町は

5FFq).%問屋が資本金千FJlで海産会社を組推 してお り,その 取扱高は22千円であった.海産会社 と魚問屋 との関係.海産 会ttの内容は不明である。 この海産会社は只取 り販売であっ

たI 対

.

帆rl..'J足は合計すると34人になる.両者の問屋掛 こ差はある が.J&扱高はかな り近似 している。両者の屯扱高の合計49 円 というのは,前述 した明.35

( 1 9

0

2 )

年の西彼杵孤の乱農

408千円 と比較 しても少な く.躯荷田がFR走 されていたこ とがわかる。

同年の九州各都市の魚市場取収高札 福岡T

r f

が21

0

千円, 熊本市17L)00千円,曲児島市が87寸門.佐世保市が14千円な ので.長崎市の魚市場の規模は小さかった

l

G)。長崎fGO)魚巾

ま.r

h T F

Jl消韓が対象であ り

,

しかも汎村からq)行商 (とく に茂大村) もあって.取扱高は少なかった。

その扱.明治36(1903)牛にJ羊魚沈凪をめ く・ってい くらか 変化がある。同年

2

月に万監町 と材木rlの点間庭数人が長崎 Pl妊i同業航合を息 し.問屋,仲P,′トラ売 りを計南 した とい うのである。その うち木下■r市場q)開設について.長q市ほ 個人で魚市場を開設すると不術生になるとい う理山で却下 し れる。明治18()885)年に親株さTLた長崎 魚類同案il合と名 称は同 じだが,一方は小死商の約台であ り.こちらは息r.,l の抱合なので.別物であろう。

同じく.明治36(1909)6)Jに材木町に賢本金25千円で.

長句他方l仲田 (抹)が設立さ

h

たIB)。 これは魚間足 とnl買入 との代金決済段関で,油菜者への仕込み較金の禁止と代金不 払いの取締 りを目的 として.17ffで設圧した。 これに

対 したrE.1蛭3軒 とので繋TD'lEMlが展開 した という.前述

た明治2Ll(1891)年の材木町のFll.129軒 と比べるとq軒少 な くなっている。材木FIとあるから,万屋町の魚Tfl掛 ま含ま れていrJいのであろう。汎第才へのLL込みの禁止が乗際に行 われた とは思えないが.代金決済会社を設立 したことで,敬

完代金の回収.漁業者への支払いがスム‑スになったことは 想像にかた くない。魚市場における代金決前便関の設立は.

(7)

長崎大学水産学部研究報告

那80 号 ( 1 9 99)

rpl良 仲門人関係の近代化を象徴するが,長崎市のそ州 ま先 駆的であったL91

2)

魚市場の横決と漁村

魚市場Q)状況i・みていこう。明治

3 0 (

1907)年頃の材.仁■ の魚Iti均の写耳をみると,川尉

こ佃1 0m.1 0

段はどの石段が あって.政空の和船が着岸 している.石段の上に石堤の広場 があ り,そこで魚の取引 きが行なわれている。拡場の両脇は 魚悶鼻 らしさ

2

帖建て0)崇か並んでいる

2 0 )

r

長崎魚類共同 販JJ'C所紀要Jにも旧魚市場の写拝があ り.沌 (軌見)肴耶ん だ和船が保留され 広場には担 い龍.I: 荷串,マグロ の倹且を見守 っている数名の‑TJ性.その).Jりに数名の女性

(ともに野物姿)が写 っている21I

万hl̲

仙Tl湖 については,渡辺代が

戊L

t

が省いた「

の よろず鴨」を縞介 している。それは明治後期の光景であろ うか。万艮町の川筋一帯は全市の台所をまかな

魚煩の集

地 として

Q

)意気 と活気にあふれていた。万機のたもとに魚問 星の小川息があ り.至f臥 拝島,式見,沖 ノ島からの漁船が 緊まり,庶t穂を次 々とitF塔に荷掛 1する。一方,陸路からほ EE上梓を越えてきた茂木の女性. 日見峠から担ってきた網等 の魚も加わって,天秤棒が林立するなか{・,大福帳 と矢立て を持ったJ!中が声拓に符丁でもって取引 きをした。小

川臣と

並んで官永.宮川.森ELl星 といった魚問屋があ り.町内には 洗足.舌Eil.久米 といった血糊匿 もあっ1.:.乍後は午前中 と うって変 わ って きれいに洗い托 された石盤の静け さに戻 る27)

次に.軌間崖 と浦添 との的続をE

Pl だ ; 2 4(1 8

91

)

年について みると,材木町の魚閃良は浜方 (El鬼村)へ前貸しをし

,

瓜を送って く川 よ.その都度版死

11

割を益 し引 き,残金 は年末に決井する習tFであった。搬入は船で運搬する

「 船‑ r E ; )

と弛共やその家族が担って くる 「陸荷」 とがあ り.後者に対 して

貸 しをすることが多い。方鹿町の海産会社の場合u.

浜方から運搬 してきたらそれを円い付け.放完にす るので

鋲な どはなかった.

漁業者は.村内の富裕者または魚rpl最から曲獲物廉売塀の

1 0‑2 5%

引 きを条件 として賢金を借 りることか多かった。多 くは官用llLで.証文などはない。退所期限は長 くて半年, 短期のものは

1

カ月,金利は月

10‑25 %

であった1㌔ 明治

37

(1904)年の状況もほぼ同 じで.長崎県下の大旗鋲漁菜へ の資金位与は.主に魚rL.q屋または産地仲rZ人が漁轟物の出荷 を条件にLL:込みを

し,

1‑ 2

嘗l引 きで集荷 した217.

3

水産抱合経営市場の萱場

明治

3 9 ( 1 9

0

6)

年に.西彼杵雌の軌染毛は長崎の魚市場に 対 し,片文呼称 (符丁)を

F

lli&呼称に改め.漁業者にも価格 形成がわかるようにすべきだ と交渉 した

i・r!T)足はそれを受 け入れfJ:かった0)で25),西彼杵長崎水産組合は賞本金

2

万円 で兆r司販死所の設立 を準備 し始めた。共同版死所がで きれば.

魚問屋が取 り扱 っていた西彼杵郡の漁獲物年間

5 0

千円を失 う ことになるといわれたので76). この時朋においても明治

2

4

(

1

8

91)牛の取扱高 とはとんと変わっていない。

共同吸死所の設鼓は,明治

4 0 ( ) 9 07 )

1 0

J7に許可され 霊11月に本紺屋■丁 (材Jk町の隣.lf,a,川の上淀佃l)に半切所 を開設

した2

7㌧ この共同廉売所Ill年後には早 くも苦境に陥 った。.%閉息 と

接 していた.)え上地が・狭 く,また郡IJの漁 秦‑I.Iの半枚は魚市場に水塊げ したからである。魚市場dJは共 同販尤所に出入 りするなら魚締切への出入 りを差 し止め,仕 込み金 (折貸 し金)を近鉄せよと乱者を脅 し, また早朝か

ら船を河口外に出して客引 きをしたからであ る28

明治

4 2 ( ) 9 09)

2

月,魚市場 と共同販売所の対立を長崎 商業会議所の永見貰二 ちか仲介 して変節をみた。永見は前年 に汽船 トロール会社の設立に呑hrlしてい

29㌧ その内掛 ま,

①水遮掛合は共同販売所の辞典を011場側に委ねる。③汲薬 石の他称l販売は共同販売所に限 っていたが 材木町 方出町

. t

h開展に販売するの も自由 とする。①瓜問屋の 口

6%

.)好を水産組合に授Lltする。(彰魚rul星は補習VTを矯正 .片文計算などをやめる. というものであった3Vl。共同吸 光所の和英を魚市韻鰍 こ委ね.取扱高

q)

I

%

を水産組合が取 得 し.それを水産さ1台の負f#生理rf金にあてるというもので ある。一方.魚市場佃 も仲間内にしかわからないfr文計井を やめ.門技で呼ぶことを

果 した. これで,取引 きがLい くら か明例になる。

その後.漁真書のよ掲げをめ く・って水産合 と魚問良 との 対立が

化 したq)で.仲介毛はさらに詞符を余儀な くされ が lT。その錦停宴は

, 6

台にわたっている。()長崎県^産嵐 合連合会が共同販売所 と魚市場を統合 して,新 し

帆焔炎伺 蝦TJt所の運営を行ない.魚r..1足はその下で卸売 業薪を行な う。②新 しい舟,頬共同販売所は材木町 と万屋町の

2

カ所 とす る。本村罷町の共同販死所はな くし.水産超l食の

負債3

8

. 00 0

FrJは迎 合全が依還する (取扱

1%

をあてる)。(卦原発は 肺魚 と塩魚の2機位 とする。(む組合員は新 し魚姐jtFlJ奴,rkT 所を扱ないで浄煩を薮死することを禁ITるUた1三し.自家漁 集物の行商.店舗売 りは究め る。(9販売手数料は売上高の

75%

とす る.⑥競売する仲間人,小売人は連 合会全長の帝 政を受けるJZl

ロ錘 (阪尤手数料)

を60%

ら75%

に引 き上げた理 由 ほ.水産抱合への配

分10 %

とjt合金の

児分

0

5

%,それに代 金決済後閑への配

分30%

を含めたからであろう。 この明治

4 2(1 9 08)

9

月に,資本金

25

千円で長崎魚腰仲買 (操)が 牧丘 された。明

治 3 6 ( 1 9

0

3 )

年に汲立された何社 を改や し.

代金決許諾湊を行った。以前は材木rITの魚市場だけであった 那,今LgJは万屋町の魚市場を含め,しかも連合会を通 じた決 済 となった。残 り

の60%

は,触関屋 と長崎魚頬仲

買で30%

つ配分する. 魚問屋の配分

が30%

というのは低いが,この 他に

.25%

Q) 「弁当料」,

10%

の沖仲仕 tl'

収 してい 1.:m

B

約42( 1 9

0

9)

7

月に開業予定であったが.rul垣か ら払 姶がでて延期 となった。異能 というのは.共同販売所は自然 に消滅 したりだから連合会の管理下に入らずに,独立 してや ってい くべきだ というもので.①魚郡の迷鞭経費 (

1

OWの 沖仲仕伎) と漁業者に酒食を供する

( 25%U

) 「弁当料」)の は従来為 りとする,(》水産組合の良能を依還 したは糊民の

表 1 2 水産物卸死市戦わ政市の推移 両村 a T J 舶 r 長崎県水 産 劉 7) ページ,汝オj t彦 「長崎 f,I Bl熊牧場 (魚市切)沿半時誌 ( ≡ )」 r 海の光 訴 8 6 号 J I( 昭秘 4 年) 1

参照

関連したドキュメント

断面が変化する個所には伸縮継目を設けるとともに、斜面部においては、継目部受け台とすべり止め

このように、このWの姿を捉えることを通して、「子どもが生き、自ら願いを形成し実現しよう

「海洋の管理」を主たる目的として、海洋に関する人間の活動を律する原則へ転換したと

ニホンイサザアミ 汽水域に生息するアミの仲間(エビの仲間

以上の基準を仮に想定し得るが︑おそらくこの基準によっても︑小売市場事件は合憲と考えることができよう︒

(batter)又はパン粉でおおった魚の切身、加熱による調理をした魚)

★分割によりその調査手法や評価が全体を対象とした 場合と変わることがないように調査計画を立案する必要 がある。..

 大都市の責務として、ゼロエミッション東京を実現するためには、使用するエネルギーを可能な限り最小化するととも