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伊勢は、小野小町とともに平安前期の女流歌人の代表で あるが、現代においてその歌名は小町と比べてあまりにも 低い。しかし、﹃古今集﹄には、小町を緩いて、こすこ首 を採歌され、古今集女流歌人の筆顕である n 又その五十年 後、伊勢の没後しばらくして編纂された﹃後撰集﹄や、紫 式部・和泉式部・清少納言の活路した時代に編纂された﹃拾 遺集﹄においても、女性としても伊勢がもっとも多く採飲 されているのである。伊勢の影響は、中古最高の文学作品 とされる﹃源氏物語﹄にもつよく見てとれる。桐車車帝が、 亡き更衣を偲んで明け暮れ﹁長恨歌の御絵﹂をご覧になる 場面がある。この﹁長恨歌の御絵﹂こそは字多天皇が、伊 勢と貫之に詠ませた歌を賛’として書き込ませたものである。 文、空蝉の巻の末尼に見える﹁空蝉の楽におく露の木、がく れてしのびしのびに滞るる紬かな﹂という歌は、その巻名 ともなっているが、これも﹃伊勢崎県﹄所載の歌である。虚
構
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﹃今昔物語﹄巻二十四には﹁延喜御扉風伊勢御息所、読和 歌語﹂として長い税話が見られるが、ここには終始歌人伊 勢への称賛が記され、﹁サレパ御息所ナホメデタキ歌詠ミ トナム穏リ伝へタルトヤ﹂と結ぶ。また﹃無名草子﹄にも、 ﹁まことに名を得ていみじく心にくくあらまほしきためし は、伊勢の御息所ばかりの人はいかでか普も今も侍らん﹂ と伊勢の歌名は最大級に讃えられている”このように、 伊勢のその歌は非常に高い評価を受けていたことがわかる のである。その伊勢の家集として﹃伊勢集﹄がある。五百 弱の軟からなり、その官頭三十首余の歌物語の態をなして いる部分は伴信友により﹁伊勢日記﹂と称され、伊勢の半 生が歌と詞書で綴られている。字多天皇に入内した藤原基 緩女温子に仕える女房伊勢が、温子の兄弟である仲平のか りそめの愛を受け、やがて失恋。失意のうちに大和に退く が、主人温子の薦めで再び出仕し、申 T 多車市の寵を受け皇子をなす。その皇子と離れ、なおも宮仕えを続けるうちに字 多帝は譲位、落飾し、仁和寺に隠出世することとな・り、皇子 も早逝するの温子と伊勢はその悲しみを歌に託しなぐさめ 合う。以上が﹁伊勢日記﹂部分の内容であり、それが第三 者の目を介して、かつ自照的に描きあげられている。﹃伊 勢集﹄は、伊勢について知る最も有用な資料の一つである が、その冒頭部分﹁伊勢日記﹂は歌物語の原型ともいわれ、 多分に物語的であり、そのすべてを事実とはとらえがたい ものである。本稿では﹁伊勢日記﹂の物語的作為・虚構の 例を挙げて周辺を明らかにしつつ考策していくこととする。 ﹃伊勢集﹄は、同一の但本から生じた諸本が三系統︵西本 願 寺 ・ 群 書 類 従 本 ・ 歌 仙 家 集 本 そ れ ぞ れ 一 ・ 二 ・ 一 ニ 類 本と称すこととする︶あり、そのうち最古の書写である。 西本願寺本が祖本の形を比較的よく伝えているとする見解 が支持を得ており、本稿でもこの西本願寺本を底本とする ことにする。本分引用の際には、原則的に西本願寺本を、 明らかな誤写を改めつつ引用することにするが、その中に も、注記の混入と思われる箇所等、他系統を用いたほうが より祖本に近いと恩われるところもあるので、随時他の二 系統本も用いてゆく。 ﹁伊勢臼記﹂は、楓子の弟である仲平との恋の破綻から物 語は始まり、その失恋の痛手を乗り越えて宮中に仕える伊 勢が今度は言い寄る男たちには目もくれず、一心に温子に 忠節を尽くすことが諮られている。再び言い寄ってくる仲 平然り、混子や仲平の兄である時平然りであるが、それら 主要人物以外にも伊勢に言い寄りながらもそでにされ続け る男たちが登場している。 また人数とも思はぬに心ざし深き人ぞそゐて言ひける。 文おこすれど返りごともせねば ⑩山がつは言へどもかゐもなかりけりこひこそそらに われこたへせよ 猶かへりごともせざりければ、﹁否ともいかにとも、 わが君﹂とせむれば ⑪いかにせん言い放たれずうきものは身を心とも せぬよなりけり とばかりいひてやみじけり。 これを、この一類本にそって解釈してゆくならば、,恋人の 数にも数えない男の求愛をずっと無視しつづけ、男の﹃古 今集﹄恋一︵四八八︶の﹁わが恋はむなしき空にみちぬら し思いやれどもゆく方もなし﹂をふまえた訴えにも、一向 にかえりみようとはしない。男はなおも訴え続け、やっと のことで返事がくる。しかし、それは、取り付く島もない
ようなものだったのである。この⑩の歌であるが、三類本 をみると︵第一句﹁いなせとも﹂︶、その詞書には﹁:男 文をこすれど、返りごともせざりければ﹂とあり、男から の歌であるととれる。幾度手紙を送っても、女からの返事 は一向にこない、そこで男はたまらず哀願する。﹁いやだ とも、いいともあなたからはっ.きりしたお言葉をいただけ ないままでおります。締めなければならぬ事と知りながら、 つらいことに、我が身ひとつも思いのままになりません。﹂ となるのだが、ここはやはり伊勢の歌ととりたい。﹃後国間 集﹄恋五︵九八三︶に、 おやの守りける女を、﹁いなせとも言ひ放て﹂と申し け れ ば 伊 勢 いなせとも−一目ひ放たれず憂きものは身を心ども せぬ世なりけり とある。この詞書を信じるならば、﹁伊勢日記﹂冒頭に﹁ 親いと愛しうして、男などもあはせざりけるを﹂︵三類本一︶ とあるように、まだ伊勢が親元に守られていた少女の頃に、 男に言い寄られたときの飲ということになる。歌意も、 ﹃親が私を厳しく守っておりますので、つらいことですが、 我 と 我 が 身 の ま ま に は な り ま せ ん 。 ﹂ ﹃ 伊 勢 集 ﹄ の作者は、この伊勢の歌にある、相手の思いを歯牙にもか けず、するりとかわす態度を、物語のこの文脈の中に取り と な る 。 込んだのではないだろうか。そして物語のなかでは、男も 伊勢のすげない返事にとうとう締めがついたのであろう、 男との交流はここで終わるのである。これまでの、返事す らしない黙殺の態度と並んで、最後の﹃とばかりいひてや みにけり﹂という、冷たく切り離すような物雷いによって、 伊勢の接近してくる男に対する強固な拒絶の姿勢を、一層 鮮明にしている。 かくいふほどに騒ぎいできて、兵衛のすけなる人解か れて、但馬の介のなりにけり。﹁近くてはさもおぼえ でやみにしを、かくとほく流されたるがあはれなるこ と﹂といひたるかへりごとに ⑬かけて言へば一俣の河の水脈はやみ心づからや または流れむ ﹁かくいふほどに騒ぎいできて﹂は二類本﹁かかる時の大 臣 な が さ れ 給 ふ ﹂ 三 類 本 ﹁ か く て 世 に さ わ ぎ い で き て 、 大匡もながされ給ひける﹂とあり、そこに明らかなように 菅原道真の配流事件のことである a 厳原時平側が作成した賞 旨には﹁右大臣菅原朝臣、寒門より俄に大臣に上りて止足 の分を知らず、専権の心あり。佐伯嗣の情を以て前上皇の御 意を欺惑す。詞は煩にして心は逆、これ天下の知るところ なり。﹂とある。これが藤原氏側の立場からする発言であ っても J 当時異例の出世をした菅原道真に対し.﹁止足の
分を﹂知れ、分際をわきまえろという声があったことは﹁ 天下の知るところ﹂であったようである。道官再が右大臣に 叙せられたのは園田泰二年︵八九九︶のことであるが、その 翌年には、三善清行に大臣辞任を勧められている。そして 昌泰四年︵九
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一︶の亙月二五日、道真は、太宰権帥とし て左遷されることになる。失脚の直接の理由とされたのは 道真が倒醍帝を廃し、女婿の斉世親王を擁立せんと企て 上 皇 の 同 意 を も 得 た と い う こ と で あ っ た が 、 こ れ が 事 実 であったかどうかは定かではない。この、道古典の左還に伴 って﹁兵衛のすけなる人﹂も任を解かれて但馬の介になっ た の で あ る ・ 一 類 本 に は そ の 関 係 に つ い て は 何 も 配 さ れ ていないが、二類本には、﹁むこにて兵衛佐よりたぢまの 介になされてながされけるを﹂、ゴ一類本﹁むこにて兵衛佐 よりたちまの介にその人もながされにけり﹂とあり、この 努が道真の女婿であったと明らかにしている。道官 H が太宰 府に流されるに伴いその子息たちは、長男の大学頒高視は 土佐介に、式部丞景行は駿河梅介に、右衛門尉景茂は飛騨権 橡に、文章特業生淳茂は播磨へとそれぞれ流されていった。 女婿の方は、字多天皇、字多皇子斉世担割王以外は必ずしも はっきりしないが、伴侶友の﹃喪章伊勢日記附征﹄が考証 するところによると、﹃政事要略﹄に所載の局泰四年正月 廿七日の左降除目に﹃但馬権守源敏相左兵﹂ 衛佐 とあるバまた、秋山堤氏は皇胤紹運録に敏相は醐醍皇子源 允明を生んだ兵衛御息所の父ということになっていること を紹介されてる。敏相が道真の女婿であったという記録は 見えないが、疑うべき根嗣間もなく、ここでは特に問題にし ない回しかしここで、一つの不自然がある。はやくは染谷 * 2 本河 進氏、関根慶子氏が指摘されているとおりこの道真配流に かかわる記事がここにおかれてあることは事実から離れる のである。道真の事件は、字多天皇退位から四年たった昌 泰四年のことである。﹁伊勢日記﹂にはこの後に、伊勢が 在任中の字多天皇の寵を得て皇子をなす記事、﹁帝おりさ せたまひで二年といふに﹂とある国事情二年の記事がある。 この時間的矛盾が、﹁伊勢日記﹂の他作税の有力な棋処の 本 4 一つになっているのである。片桐氏は、この﹁かけていへ ば﹂の歌が﹃中院本後捜集 h に他作として収められている ことを指摘されている。 文などおこせける男、但馬の国にまかりけるを、 がとひにおこせければ、 伊 勢 藤原さねただが妹 かけていづる謂恨の川の水はやみ心づからや今はなかれむ これによれば、但馬に流された男と関係があったのは﹁さ ねただが妹﹂であって、伊勢はこの女性を慰めたのであり この歌はその見舞いに対する彼女の答えということになる。そこで氏は、﹁伊勢日記﹂の作者が、伊勢の手元に残つ ていた歌反古を利用して物語に仕立てていったのではない かと想定されている。つまり、この段は、作者の構想に沿 って創作されたのではないかといわれ吋いる。また、ここ に描かれる伊勢の姿について秋山氏は以下めように説明さ れている。﹁注意すべきは、ここに女から男への同情の歌 があげられているのではなく、ただ﹃あはれなることとい ひたるかへりごと h とだけある点である。︵中略︸すなは ち女は男に対して、はからずもおのずから優越的な立場に 立ち、そこから相手を同情してやるという態度なのであっ て、そのような女の態度は軟に託するにも及ぱぬという体 であると考えられよう。にもかかわらず男の方からは、か くも深沈たる表訴の歌が寄せられるというところに、おの ずから女の姿勢の、酷薄なまでに、騎慢なまでに、男・女 のつながりの次元を越えた舵立が諮られているといえよう U ここでの伊勢は、これまでの仲平、時平のように相手に気 を持たせたり、反輸しやり込めることもなく.ただ黙綬し つづけるのである。それは伊勢の舵立として、容赦ないま でに冷たく、すきのない態度をこの段で明確に示している の で あ る 。 平占同文に関わる段も、前記章段と同一一線上に語られていく。 閉じ女年来言ふともなく言はずともなき男ありけり、 返りごともせざりければ、﹃年経にけるを、などか見 っとだにのたまはぬ﹂とはべりければ、この女﹁みつ﹂ となむ、名をばつけたりける。たちかへり、男 ⑬たちかへりふみゆかざらば浜千鳥跡見っとだに 君嘗はましや かへし @年経ぬることおもはずば浜千鳥ふみとめてだに 見べきものかは 夏いとあっきさかりに、おなじ男 @夏の日の燃ゆるわが身のわびしさに水こひ烏の 音をのみぞなく かへりごとなし ここでは相手の男について明記されていないが、﹃平中物 語﹄第二段によってこの男が、﹁平中﹂こと平貞文である ことが知られるのである。 また、この男の、懲りずまに、いひみいはずみある 人ぞありける。それぞ、かれを憎しとは思うひはてぬ ものから、返りごともせざりければ、﹁この、車中る文 を見たまふものならば、たまはずとも、ただ﹃みつ h とばかりのたまへ﹂とぞいひやりける。
男やる 夏の日に燃ゆるわが身のわびしさにみつにひとりの 音をのみぞなく また、返りごと いたずらにたまる俣の水しあらばこれして消てとて 見すべきものを かういひかわしつつ、ほどは経ぬれど、あふことは いとかたうぞありければ、 この貞文については‘﹃古今集﹄の二三八に 寛平御時、蔵人所のおのこども、さが野に花みんとて 主かりたりけるとき、かへるとてみなうたよみたりけ る つ い で に よ め る 平 さ だ ふ ん 花にあかでなにかへるらんをみなへしおほかるのベに ねなまし物を とあり、また二七六には、 仁和寺にきくの花めしける時にうたそへてたてまつれ とおほせられければよみたてまつりける 秋をおきて時こそ有句けれ菊の花うつろふからに 色のまされば とある。この二首について、松原輝美氏は、前の歎を宇多 天皇の盛時に、貞文が帝に近侍していた頃の歌とし、後の 歌は、仁和寺に御遜御になっだ帝の落飾の後も親しく拝眉 帝のなお側醍帝の御後見としてあられる御稜威を賀 したものと説明されている。この上うに、占同文が字多天皇 に近しくお仕えしていたのであれば、伊勢と交渉を持つ機 会も自然多くなるものであろう n ﹁伊勢日記﹂本文にそっ て、伊勢と、平貞文との交渉を見てみると、さきの﹃心ぎ しふかき人﹂が﹁そゐて一一一ひける﹂のとは異な旬、この今 度の男は、﹁いふともなくいはずともな﹂く、何年も求愛 してくるにしては態度の岡崎昧な、伊勢にしてみれば扱いづ らい男であった。この男に対しても、伊勢は黙殺の態度で 応ずる。男は﹁せめて、私の手紙を見たとだけでもお返事 ください﹂といってきたので.伊勢は男に﹃みつ﹂という あだ名を付けた、と一類本を読むかぎりでは解釈できるの だが、二類本、三類本を見ると事情が変わってくる。二類 本﹁などかみっともの給はぬ、といへりければ、ただみつ とのみぞいへりける。それより此女をみっとぞつけたりけ る﹂、三類本﹁などかみっとだにのたまはぬといひければ、 みっとぞいひたりける。それより、この女をみっとぞつけ たりける﹂とあり、﹁みつ﹂とあだ名を付けられたのは女 の方であることになっている。③の男からの散の中にある ﹁水こひ鳥﹂が﹁水を欲しがる鳥﹂と﹁﹃みつ﹄を欲しが る鳥﹂の意を掛けているととれば、﹁水こひ鳥﹂とは男の ことをさし、﹁みつ﹂と呼ばれているのは女であることに し て 、
﹃水恋鳥が鳴くように、﹁みつ︵水︶﹂とお っしゃるあなたを求めて、ひとり泣いております﹂︵秋山 氏口語訳︶ととれば、これはどちらにして
ι
差し支えない。 怯原氏は、﹁せめて﹃みつ﹄とだけでもと懇願する男に 対して、女はただ、その願いのままに﹃みつ﹄とだけ言っ てやった。その上に、男の怒願のその言葉をそのままに 名として男にかぶせて、笑いのめしてやる。そういう一類 本の、男に対する軽いあしらいを述べるほうが、﹃年頃﹄ の求愛に対しても、一願の﹃返りごともせ﹄ずに黙殺して きた男に対する処遇としてより適わしいのではないか。﹂ といわれる。たしかに﹃平中物語﹄においても女にあしら われ、嚇弄される色好みとして描かれている彼である、 ﹃平中物語﹄と﹁伊勢日記﹂とを同じく一考えるのは問題で はあるが、﹃平中物語﹄によって好色人平中の定評があっ たとするなら、﹁伊勢臼記﹂の作者もその上で、この段に おいても、徹底的な三枚目役として平中を登場させること は充分考えうる。それでは、﹃平中物語﹄の方が﹃伊勢集﹄ よりもさきに成立していることになるが、そのことについ * 8 て片桐氏は冒頭の書き出しに触れて説明されている。つま り、叫平中物語﹄には、﹁おなじ男﹂︵第三段︶、﹁また、 このおなじ男﹂︵第四段・第一O
段・第一四段・第二二段︶、 なる。また、 ﹁ こ の お ぼ じ 男 ﹂ ︷第二二段︸などと﹁おなじ男﹂で始ま る用例が多いことから、﹃伊勢集﹄の﹁また、おなじ女﹂ とい目フ書き出しを見ると﹃平中物語﹄を意践してこの﹃伊 勢集﹄がつくられているのではないか、といわれるのであ る 。 ﹁たちかへり﹂と﹁年経ぬる﹂の贈答は﹃平中物語﹄に は見えない円ただ一言ではあっても、やっと女から返事を もらって、平中は、この機を逃すまじとすぐさま歌を贈っ てくるのそれに対する伊勢の返歌であるが、これには二通 りに解釈の違いがある円一つには、﹁長年私のことを思っ てくださったからこそ、お手紙を手元にとどめて拝見した のですわ﹂あなたの熱意に免じて、とりあえず手紙を見る だけは見た、ということである。秋山氏はこの解釈にたっ て、いかにも思着せがましい、そして、相手に決して心を 開いていないのである、といわれる。そしてもう一つには ﹁何年もの問、お手紙をいただいていることを思わなけ れば、手紙をとどめておいて、引刊は現朝剖割パ可あなた にお見せしたりするでし上うか。﹂︵片桐氏口語訳︸畏年 あなたからお手紙をいただいていたからこそ、﹁みつ﹂と 返事をしたのであって、そうでなければ返事などしません でした、と言っていると取ることである。どちらも、返事 をしたからといって、あなたを受け入れるということでは 決してないのですよ、という基本の意味においては同じであるが、この時の伊勢の姿勢にははっきりと違いがあるの である。前者の取り方をするのであれば、暗に心を開いて いないことを示すにとどまる。しかし、後者は、﹃心ざし ふかき﹂とも恩われない、しかし好機に乗って言い寄って こようとする男へのあからさまな拒絶である。この段の最 後の言葉﹁かへりごとなし﹂はこの前の段でもたびたび出 てきた、伊勢のもっとも辛練な拒否の意思表示なのである。 前段とあわせてこの章段を伊勢の頑ななまでに男を俳寸る 姿勢を描いているとするならば、@の歌意も後者のほうが より相応しいのではないかと思うのである。 ところで、片桐氏の口語訳中の下線部﹃それに書いて﹂ というのは、伊勢が平中に﹁みつ﹂と返事を書いて遣った そ の 返 事 は 、 当 時 往 々 に あ っ た よ う に 、 相 手 の 手 紙 の 余 白に奮いたのであろうと氏は解されている。平中の綿々た る手紙の余白に、ただ﹁みつ﹂とだけ書いて送り返す、そ のことに伊勢の男に対する冷徹さ、もしくは柵陣織の姿態が 見えるのだが、これよりもっと平中のこの呼び掛けに対し て、かれを噸弄したおんなのことが楢かれている記事が﹃ 今昔物語﹄巻三十にある。平中が、本院の大臣︵時平︶の 家の若い女房で、侍従の君という人に年頃言葉を尽くせぬ 程に言い寄っていた。しかし、 侍従消息ノ返事ヲダニ不.為ケレパ、平中嘆キ伶テ、消 息ヲ書テ遺タリケルニ、 ダニ見セ給へ﹂ といってよこしたところ、 ﹁只﹃見ツ﹄ト許ノ二文字ヲ 其ノ返事ヲ急ギ取テ見ケレパ、我ガ消息ニ﹁﹃見ツ﹄ ト許ノ二文字ヲダニ見セ給へ﹂ト書テ遺リタリケル、 其ノ﹁見ツ﹂ト言フ二文字ヲ破テ、薄様ニ押付テ遺タ ル也ケリ。 と、徹底的に軽んじられているのである。﹃伊勢日記﹂や ﹃平中物語﹄にあるところのものと同詣であるが、ここで は、平中の相手は侍従の君となっており、伊勢の名前は消 えているのいったいどちらが、事実であるのか。﹃伊勢集﹄ の な か に 散 在 す る 伊 勢 と 平 中 と の 贈 欧 を 見 て も 、 伊 勢 で ある可能性は低くないが、断定に及ぶほどの根拠もなく、 疑問の残るところであるが、今は本文を追ってゆくしかな
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ν 伊勢にぴしゃりとはねつけられた平中であったが、また 懲りずに文をよこすのである。一、一ニ類本では返事をせず 黙殺した、と書かれているが、二類本では、 夏のいと暑き日盛りに、おなじ人 ⑫夏の日に燃ゆる恩いのわびしきはみつにひかりの 音 を の み ぞ な く 返 し@いたづらにたまる漢の水ならばこれして消てと 言はましものを とあ旬、多少の諮の違いはあるにせよ、その構成において は﹃平中物語﹄そのままである。﹃平中物語﹄においては これに続けて更に初冬の頃まで季節の推移のなかに二人の 交渉が諮られており、その中に折り込まれる十首の歌のう ち五首が﹃伊勢集﹄のなかに散在している。このこ類本の @の歌は後人の増補である、というのが定説となっており ここはやはり﹁かへりごとなし﹂として、伊勢の枢絶を 強く表していると取るほうが、これまでの﹁伊勢日記﹂の 文脈に孫うように思うのである。 この、女からどこまでも陣織され、銅弄される平中は、 ﹁伊勢日記﹂における男のありょうそのものである。秋山 氏は、﹁﹃伊勢日記﹄における伊勢は、欧という言語によ って男と直対し、そのことによって矩否的な自己の姿勢に 生きたといえよう﹂・と結論づけておられるのだが、それは あくまで﹁伊勢日記﹂における上での伊勢の姿である。こ れまで述べてきたように、この章段は虚構からなっている のである。﹁伊勢日記﹂の作者の構想に治った虚構。この 作者の構想について片桐氏は、群がりよってくる男たちを 矩否
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尽くすことによって、宇田帝の寵を得るに至ったと いうことが、この物語的部分の主題であり、そのための虚 構であると説明される。また﹁この部分は、伊勢を毅然と した女性として意図的に備いている。本当は、もっと弱く やさしい女だったようであるが、物語のヒロインとしての 彼女は特にこのように儲かれなければならなかったのであ る。﹂といわれる。それに加えて、彼女も才気あふれる宮 廷女房である。打てば響くような手応えのある応酬にその 闘を蹄かせたに違いない。それを証明する歌は数限りない ほどに残っているのである。そんな才女の伊勢から、稀に 垣間見れる弱さや、にじみでる優しさが彼女の魅力となっ て男たちを惹きつけたのではないだろうか。﹁伊勢日記﹂ に捕かれるような購慢とも言える鉄の女であっては、人間 的魅力に乏しく、その後、字図阜市から寵を得ることもなか ったのではないか、とすら思えるのである n それは雷いす ぎだとしても、﹁伊勢日記﹂部分以外に見える時平との贈 答や、その他﹃伊勢集﹄に収められている優しく鈍な歌の 数々を見たとき、秋山氏の言われるように、男を徹底的に 打ちのめすことが、わが自立の紅とするような女ではない ように思うのであるの四
以上のように、伊勢の頑なに冷徹に男を矩否する姿勢は物 語としての文脈l
他の男に心を動かさず、一心にお仕えするうちに帝の寵を得るに至った