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人多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢
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皆様、こんにちは。三週間くらい前、川添泰信先生 から突然電話がありまして、手帳を出してくれと頼ま れ、それで手帳を出しましたら、六月四日の予定を全 部やめてくださいと言われました。普段でしたら、 ﹁六月四日空いていますか﹂と聞くと思うのですけど、 ﹁全部取り消しにしてください﹂と言われたのです。 これは長年の友人ですから、何か大変なことだなと察 して、是非やってくれという要望だと思ってですね、 武蔵野大学教授ケ
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﹁はいわかりました﹂とお受けさせていただきました。 浅井成海先生の代理として到底先生のような講演はで きませんけれど、私なりの経験等を通して、﹁多様化 する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢||グロ
l バル的視点より l l l ﹂と、このような題でお話を させていただくことになったわけでございますの ご紹介いただいた私の経歴にもありましたように、 私は仏教にはアメリカで一一二歳の時に、それも英語で 出会いました。その前はキリスト教会にも一年半ほど 通っていまして、仏教に出会ってからは、日本での四 年間の留学を除けば、ずっと仏教の勉強は英語を通してやってきました。まあ近年、日本に十一年住んで、 日本語でも仏教を語ることができるようになりました。 今日、多様化というテ l マになりましたのは、これ は何をお話しようかと考えたら、自然に﹁多様化﹂と いうことが頭に浮かんできました。振り返ってみると このテ l マはまさに私が今まで研究してきたことを反 映していると思います。 宣伝がてらのようですけれども、最近、国際真宗学 会にも深く関わっています。国際真宗学会というのは、 ある意味で真宗の多様性を反映する学会ですね。日本 が最も大きい地区ですけれど、あとハワイ、北アメリ ヵ 、 南 ア メ リ カ 、 ヨーロッパ、そしてオ
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セアニア 東アジアと六つの地区があります。これも真宗の多様 化ということを考えれば色々な角度から真宗を見てい くという場としては、非常に興味深い学会なのです。 それからもう一つ、最近、日本仏教心理学会という 学会を私と二人の同僚とが立ち上げまして、そちらの 方にも力を入れています。これは、仏教を心理学・心 理療法との関係で考えていくという趣旨で始まり、こ 多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 れまでかなり良い反響がありました。すでに一年半で 一 五O
人くらいの会員が集まっています。先生方の中 で興味がありましたら、インターネットで検索してい ただければ、すぐホl
ム ベl
ジが出ますので、国際真 宗学会と日本仏教心理学会への御参加も検討して頂け ればありがたく思います。 それでですね、最近やっと ﹃アメリカ仏教﹄という 本を刊行することができましたので、そろそろ私の最 も興味のある現代真宗学に専念する予定です。私は、 真宗学が専門ではなく、浄土教と言うのが妥当でしょ う。博士論文は、中国浄土教で重要な役を果たした浄 影寺慧遠が書いた﹃観経義疏﹂を英訳し、解説と分析 を付けてカリフォルニア大学に提出いたしました。し かし、私は特に宗教・生き方としては、もちろん真宗 です。残った人生には、現代真宗学に専念してもっと 力を入れたいと思っています。 時間が経つのは早いですね。ここにいらっしゃる先 生方の中には、若い時から知っているのですが、我々 はみんな﹁長老﹂になりつつあってですね、私のよう。
九多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 な者でもこのような学会で記念講演者となってもいい 歳になったということです。ですから、﹁諸行無常﹂ というのは、変化するということだけではなく、変化 は思ったより非常にはやいということなのです。 それで、あともう一つですね、武蔵野大学では仏教 を専門とする仏教学科はありません。ですので、私が 担当しているのは初歩的な仏教概説のようなものです。 具体的に申しますと﹁共生原理︵仏教縁起論︶﹂とい う一年生・二年生の必修授業です。大学院の授業も一 つ受け持っていますが、これは﹁浄土教特講﹂という 浄土教理史のような内容で、真宗学・真宗研究を反映 するほどのものではありません。ですから私が今日話 すことは、伝統的な真宗学から離れた独自的な面が多 くなると思います。 今日の話の趣旨をまとめるには、 ストーリーが効果 的だと思いますので、まずアメリカ仏教での出来事を
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ご紹介させて頂きます。 ﹂ れ は 、 ハーバード大学でチベット僧侶と韓国の禅 僧侶が集まりまして、教義論争、英語では E 口 町 民 包 ωロ
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を行うことになりました。それで二OO
人 ほ どの観衆が集まって二人の高僧を迎えて、何が起こる かと静かに待っていました。やっとこ人の僧侶がス みんなも偉い先生がどういう テl
ジに出てこられて、 話をするのか、しーんとして待っていました。 そうすると韓国の禅僧侶が、懐からオレンジを突き 出 し て で す ね 、 ﹁ 巧 町 民 抗 叶 宮 町 叶 ﹂ ︵ こ れ は な ん ぞ や ? ︶ と問うのです。しかし、そのような動作は、 チベット 僧侶にとっては初めてなことだったのですね。この カール・リンボシエというチベット高僧は、韓国の僧 侶が何を言っているかと、自分の通訳とひそひそと相 談するのですね。その問、観衆は、どんな答えが出る のかとじっと待っているのですけれどなかなか返事が ありません。やっと、その通訳がチベット僧侶の代わ りにこう言ったのですね。﹁先生日く、この人ちょっ とどっかおかしいのではないですか? 彼の出身地にはオレンジというものがないのでしょうか?﹂ 0 これは、非常に面白い出来事だと思います。これは 今日の話の多様化に結び付くのですが、色々な宗派が 出会うからこそ予想しないことが起こるのですね。 チベットでは、禅は、 八世紀に有名なサムエ
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論争 で 敗 れ て 、 チベットから排除されました。 ですからチ ベット仏教のやり方と禅のやり方は全然違うのですね。 だから﹁禅禅﹂話が通じない ︵ 笑 ︶ 。 こ れ は 、 多 様 化 の環境の中で起こったことですけれど、必ずしも好ま しいことではないですね。全然通じなかったという話 です。まあ、この話は一応横に置いて後で戻りたいと 思 い ま す 。 多様化というところで私が好きな図がありまして、 それを今から描かせていただきます。ジョン・ヒック という南カリフォルニアのクレアモント大学の先生で、 まだ現役だと思いますけれど、この方はク沖積平野。 という喰えを使ってですね、この今の世の中、宗教界 を取り巻く環境というのは多様であるということを言 っ て お ら れ ま す 。 多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 ヒック先生によると、今まで宗教は、山と山の聞の 谷を長年、歩いてきた。自分の音楽を持って、自分の 物語を持って、自分の教義を持って、谷間を歩いてき た。そして山の向こう側には、別のグループが谷聞を 歩いていた。しかし山があるので、お互いに出会わな かったのですね。そのようなことが何千年と続いたの ですが、この一九世紀以降、そして特に二O
世 紀 、 一世紀になりますと、各宗教は谷間からこの沖積平野 に出てきたのです。そうなると以前のようにお互いに 隠れておられません。広い平野で共存するということ に な り ま す 。 ﹂の沖積平野の聡えこそ、我々の真宗も含めて、宗 教を取り巻く環境だと言えると思います。この平野に 居ますと、まず異なった宗教の人々が、身近に接近し て共存することになるのです。現時点では、日本社会 はそれほどではないかもしれませんが、近い将来、日 本においても色々な宗教の人々が向き合わなければな らない多様的な環境がより進行していくと思われます。 またそれだけではなく、この沖積平野では今後は宗多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 教を変える改宗者たちも増えてくるのです。今まで多 く の 社 会 は 、 一 つ の 主 な 宗 教 を 持 ち 、 一つの主な世界 観を持っていましたけれど、沖積平野では、沢山の宗 教 が 共 存 す る の で 、 一つの独占的な宗教世界観という ものはなくなるのです。そうなると、。ヒーター−パー ガ ︵ 司
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め 円 ︶ と い う 宗 教 社 会 学 者 は 、 所 謂 、 世 俗 化 ︵ 印R
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︶という現象が進み、そして それによって非独占化︵仏2
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Oロ︶という宗 教に関する傾向が高まる、と主張しています。この非 独 占 的 な 傾 向 と は 、 一つの宗教がこの沖積平野を独占 しないということです。そうなると今度はマーケット 現 象 が 起 ヲ ﹂ り 、 マーケットの商品を買うように、宗教 を選ぴ取ることができるようになり、宗教の多様化は どんどん進んでいくと言っています。あと無宗教の人 も増えていきます。そしてまた一つの宗教や宗派の中 でも、色々な差が出てくるということも言えると思い ま す 。 で す か ら と に か く 、 いろんな面で、異なる宗教 も増え、同じ宗教の中でも多様化し、そして無宗教の 人も増えていき、本当の意味での多様化が実現するの で す 。 それから、現代のもう一つの現象は、 スピリチユア リ テ ィ ー で す 。 スピリチユアルという言葉は、最近よ く聞きます。ただここで言うのは、 テレビでよく出て くるような﹁怪しい﹂意味ではなくて、宗教の根幹を 指し、仏教では﹁悟り﹂で、真宗では﹁信心﹂を指す ことなのです。だからスピリチュアルをどのように定 義 す る か と い う と 、 ﹁ 個 々 の 聖 な る 体 験 ﹂ 、 一 人 ひ と り の聖なる体験、と私は定義しています。そこで重要な のは﹁体験﹂ということであり、そして﹁個々﹂とい う こ と で す ね 。 ということは、宗教組織や団体に対しては、批判的 な 意 見 が 高 ま っ て い て 、 日本でもそうだとおもいます。 文化庁の調査では﹁宗教心は大切ですか?﹂との問い に 七O
パーセントの日本人が﹁はい﹂と答えています。 ということは、私が﹁スピリチュアル﹂という一言葉で表しているようなことに関しては大半の日本人は肯定 的ですね。しかし一方、宗教組織、宗教団体の関わり が必要とする﹁信仰や信心をもっていますか?﹂とい う問いには、三
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パーセントに減るのです。 それで私は大学の二年生の仏教の授業で﹁三つの宗 教性﹂に就いてアンケートをとりました。その三つと は、①狭義の宗教性、②広義の宗教性、そして、③最 広義の宗教性です。狭義の宗教性とは、ある宗教団体 に入会する、自分が意識的に入っていく、 メンバーに なるということを指すのです。これが狭い意味の宗教 性ですね。二番目の広義の宗教性とは、自分自身が選 んだ宗教ではなく、自分の家の宗教を受け継ぐことで、 ﹁私の家の宗派は浄土真宗﹂または﹁日蓮宗である﹂ という答えが象徴しています。自分自身はそれほどし っかりと関わっておらず、その宗派の教えもよく知ら ないが、葬式になるとその宗派のお坊さんを頼むとい う場合がほとんどです。そして最広義の宗教性とは、 毎年初詣に行ったりお墓参りしたりするような関わり 方 な の で す 。 多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 これは実は、本願寺派の大谷光真御門主の本の中に 出てくる範障ですけれども、これを使って私の学生に、 あなたはどのような関わり方をしていますかと聞いた の で す 。 そ う す る と 、 ﹁ 最 広 義 の 宗 教 性 ﹂ 、 つまり、初 詣やお墓参りに参加するという程度の宗教性が最も多 かったのです。これは、 スピリチユアルな面が若い世 代にも保たれていると考えられます。 一 方 、 日本の若い人たちは宗教団体等にはあまり興 味は見せないようですね。 アメリカでもそういう傾向 が比較的強くなっています。宗教団体は嫌いか、また はあまり興味はないけれど、 スピリチュアルな面には 興味があるという傾向はかなり強まっているのです。 ですから特に若い人でも宗教嫌いなようですけれども、 スピリチユアルという面では非常に興味を持っている ということが言えると思います。 四 では次に考えたいのは、浄土真宗の真宗研究、伝道多 様 化 す る 現 代 社 会 に お け る 真 宗 研 究 ・ 伝 道 の 姿 勢 の姿勢としては、このようなグローバル化した環境に どのように対応していくかという課題です。その中で は私は三つの姿勢が必要ではないかと思います。 一つは他宗教・他宗派への態度の明確化です。二つ 目には、普遍性の高い範臨時の採用の必要性です。そし て 三 つ 日 は 、 スピリチユアリティ
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の重視ということ で す 。 このような話をしますと、世俗に迎合していると、 批判的に見られる場合がよくありますが、決して﹁迎 合﹂ということではありません。今日深川宣暢先生が 伝道に関する発表の中で、人間学ということを中心に 置いて伝道することを強調されていました。これは私 も真宗の最も根幹というものを中心に置いて伝道する ということであろうと思います。 ですから妥協すると いうことではないわけです。 ニ一日うまでもなく、社会情勢や生活環境はどんどん変 わりつつありますから、それにもっと真剣に対応しな いといけないというのは先生方も感じておられると思 うのです。しかし、このような変化する世の中でも、 四 親驚聖人の教えをそのまま伝えればいいと主張する方 もいらっしゃるようですが、私はその姿勢だけでは不 十分だと思います。 ある意味で、教えをただそのまま伝えるということ は、不可能なことだと思われます。というのは、ちょ っと込み入った話になりますが、ポストモダン的な考 え で は 、 一 五OO
年 前 、 一OOO
年前、まあ五OO
年 でもいいですけど、そういう時代のことを、現代人、 我々がそのまま伝えるということは不可能であるとな っています。というのは、我々は現代の環境の中で生 きていて、現代の言葉を使って、現代の思考で考えて いますから、現代に限られた先入観や世界観が働いて いるのです。従って、我々が思っていることは必ずし も五OO
年前 一OOO
年前のことをまったくそのま まを伝えているということにはならないのです。 もう一つは、これは宗教学の世界で議論されている ことですけれども、聖典というものをそのまま何も解 釈なしに伝えるということは難しいことであります。 聖典というものは、読んでいる人、そしてそれを伝えょうとしている人との関わりの中で経典の意味が成り 立ち、生きてくるのですね。ですから聖典との対話と いう中で、内容が生きてくるのです。 ですから、現代 の問題意識を持って、聖典に積極的に関わっていくと いうことが必要であるということです。 つまり私の言 わんとしていることは、聖典をそのまま伝えるという のは不可能に近いようなことであるということです。 例えば親驚聖人の教えをそのまま伝えていると思われ るのでしたら、常に警戒心を持ち謙虐な姿勢で行うこ とが必要ではないかと思います。 五 それで先ほど、真宗研究・伝道の姿勢ということで、 一つに他宗教・他宗派への姿勢、二つに普遍性の高い 範轄の採用、そして最後はスピリチユアリティ
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の 重 視をあげましたが、先ず、 一つ日の他宗教・他宗派へ の姿勢について、私のある体験談を紹介させてもらい た い と 思 い ま す 。 多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 私 は 永 年 、 アメリカのパデュi
大 学 ︵ 司 ロ 丘 己 巾d
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︶というところで、仏教・キリスト教対話と いう会議に参加してきました。ある年の会議で、仏教 徒とキリスト教徒は救われるかどうかという課題が取 り上げられたのですね。それで、小グループに分かれ た後、あるキリスト正教の女性神学者へ、﹁私は救わ れますか?﹂と質問をしました。そしたら彼女は、 ﹁そうですねi
﹂と一瞬考え込んで、最終的に﹁円日 印 O R W i − −z o
﹂と答えたのです。﹁ノl
﹂と言ったので すね。それで、私は、﹁仏教徒である私は、 キリスト 教の枠では救われないかもしれないが、仏教徒として 私は救われますか?﹂と彼女に聞い続けました。答え は、また﹁ノl
﹂でした。私は、びっくりしましてで すね、そういう考えがあるということはよく聞いてい ましたけれど、面と向かって、あなたは仏教徒として も 救 わ れ な い 、 と 一 一 = 口 わ れ た の で す 。 私 で し た ら 、 はたしてどうでしょう。私はその時彼 女に、﹁もし私が、あなたが救われるかどうかと聞か れ た 時 に は 、 ノ ! と は 一 言 え ま せ ん ﹂ と 言 っ た の で す ね 。 五多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 彼女は進歩的な神学者でありましたから、 一 応 理 解 し ょうとしたのですけれど、彼女の教義・教えからは、 キリスト教徒以外が救われるということは認められな か っ た の で す 。 一神教の宗教の中では今でもやはりそ のような考えが根強くあるということを肌で知ったの で す 。 同じようなことが、二
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九年のG
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サミットに先 立って行われた世界宗教者会議で起こりました。その 会議は、二O
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九年六月にロl
マで聞かれ、私は大谷 光真御門主の代理として参加いたしました。会議の日 的は、宗教者の立場から一箇月後のG
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サミットに集 まる政治家に声明を出し、助言をするということです。 ﹂の会議は、数年前から毎年開催され、日本では二O
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八年の北海道洞爺湖G
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サミットに先立って行われ 牛 晶 、 ! レ れ ん 。 ﹂ の ロl
マ会議では、声明の原案が会議の叩き台と して議論されましたが、その中には、﹁我々は神の子 である﹂や﹁万物は神が創造され、人聞が動物等を支 配する立場にある﹂という文言が堂々と含まれていま ム ノ、 した。日本から行った我々参加者はほとんどが神道か 仏教徒でしたので、これは問題であるということで、 一応英語ができるということで、私が我々の立場を述 べ、このような考えに署名することは問題であると発 言いたしました。そうしたら、執行部の人たちはぴっ くりしているのですね。そこのリーダー格の人は、プ ロテスタントではなくてキリスト正教の人で、とても 偉い人だということでしたけれど、仏教やヒンドゥl
教ということに対してはほとんど無知なようでした。 最終的には問題の箇所は撤回してくれて、我々が納得 できるような声明を出すことができましたけれど、、
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かに多様化する世界でも、異なる立場を理解していな い人が多いかということがわかりました。 そこで、他宗教への三種類の態度として、排他的、 包容的、そして多元的を挙げたいと思います。先ほど の宗教対話の女性神学者の意見は、キリスト教以外で は救われないということでしたので、それは排他的 ︵a n
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︶な立場になると思います。 そしてもう一つは、包容的︵E
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︶という立場です。これはその宗教対話の時にですね、 チベット 仏教徒の人もいました。彼はキリスト教神学者の女性 が、我々仏教徒は救われないと言った時に、彼もある 意味で彼女の意見に賛同したのですね。彼は、自分が 所属するチベット仏教が最高であって、人類にとって もそう認めるべきだという立場をとったのです。とい うことは、他の宗教の道を否定はしませんが、自分の チベット仏教より低い位置にあるということです。 山の聡えを使いますと、最初の排他的という立場は、 山の頂点に登ることが目的であれば、頂点に到達する のはキリスト教の道のみであると考えるのです。他の 宗教は、この山さえ登れないというのが排他的だと考 えて良いでしょう。だから仏教徒はこの山は登れない ので、この山の下の辺でウロウロしているのです。 だけどこの包容的というのは、チベット仏教徒が取 った立場で、他の宗教や他の宗派の人も同じ山を登つ て い る が 、 チベット仏教徒のみが頂点に到達すること ができて、他の人たちはこの高い位置にまでは到達で きないのです。だから他宗教や他宗派の人々も一応認 多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 め る の で す が 、 チベット仏教徒ほど高いレベルまでは 行けないと見るのです。その上、他の教えは最終的に は、チベット仏教の教えに包括されると考えるのです。 例えば、真宗の教えは実は、最高であるチベット仏教 の教えに人々を誘導する方便的な役目を果たすものに 過ぎないということになるのです。 そして第三の立場というのは、多元的、英語では
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と言いますけれど、これは多様性を認める ものです。この聡えを使いますと、真つ直ぐ登る道も あり、行ったり戻ったりしながら登る道もあり、また、 山をグルグル回って登る道があるのです。色々な宗教、 色々な宗派が、異なる登り道を辿るのですが、最終的 には、同じ頂点に達するという立場です。 ただですね、私は、多元性の比喰としては同じ山を 登るのではなく、各宗教や宗派には自分の山があり、 その信者・門徒さんたちは、各山を登るということに なると思うのです。浄土真宗はこの山を登って、禅宗 はこの別な山を登って、 キリスト教は更に別の山を登 ってということです。そして皆白分が所属する宗教の 七多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 山をそれぞれ登り、その頂点を目指すのです。従って、 別な山を登っていても、ある程度同じレベルに達する 人たちは、宗教や宗派が異なっていても、人生観や世 界観はかなりよく似ている場合が多いと思います。別 な山からみても、景色や見晴らしは似ているというこ とです。このように考えるのが、私は健全な多元的な 立場だと思います。 そこで、親鷲聖人の他者への立場はどうであったで しようか? 皆様はどのようにお考えになるでしょう ﹃歎異抄﹄第二条に出てくる例のお話、関 か ? 私 は 東から弟子たちがわざわざ京都まで来て親驚聖人に念 仏以外に何か隠している教えはないのでしょうかと聞 きますね。そうしたら、 いや私は全部説いて伝えてい るが、もしそれでも納得できないのだったら奈良や比 叡山の学僧に聞きに行ってください、とお答えになっ ています。あれは、親驚聖人の他の道への態度が表れ ていると思います。 従って、親驚聖人はどちらかというと、包容的な立 場であって、包容的でも、まあ、多元的に近い方であ J¥ ったと、私は考えています。というのは、聖人の立場 には、﹁他の宗派の先生に話してもらっても良いが、 最終的にこちらに戻ってくる﹂という自信があったの です。その当時の末法の時代にはもうこの浄土真宗し かなく、全ての人々にとってもこの道しかないという お考えだったと思います。ただ親鷲聖人の魅力的なと ころは、﹁どうぞ他の道を自分で確かめてください﹂ と言い浄土真宗の道を強制しなかったというところで す ﹂れは包容的な立場の範障に入りますけれど、多元 的に近いと思います。ただ私自身は、今の多様性の世 の中では、浄土真宗は多元的な立場を取るべきだと主 張したいですね。 私が多元的な立場を取るということは、先ほどのキ リスト教神学者のように、他の宗教に属している方へ ﹁あなたの道では救われない﹂と言う根拠も理由もあ りません。それはですね、宗教的立場と倫理的立場と を区別しなければならないと思うのです。というのは、 現代人である我々はよく宗教的立場で他の宗教を評価
するのですね。それは、先ほどのキリスト教神学者も そうだつたですし、 チベット仏教徒の人もそうだつた のです。それは、自分自身がその宗教の道で救われた からです。喰えにすると、池で溺れている人がいて、 その人へ誰かがロ
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プを出して投げてくれたとします。 そしてその溺れる人は、そのロl
プにつかまって救わ れていくのです。そうしたらそのロl
プがその人にと って最も重要なのは当たり前なことなのですね。それ が他の宗教や宗派を一評価する時の宗教的立場になって し ま う の で す 。 だから、溺れから救われた自分自身にとっては、絶対 的 な ロl
プになるのですが、それは宗教的な立場なの です。しかし、この多様化する世の中では、今度は倫 理的立場にシフトしなければならないと思うのです。 今後、我々の宗教が絶対であって、他は間違っている とか劣等であると考えること自体が問題となります。 宗教的な立場からでは、自分の宗教が絶対に正しいと か最も優秀なものだと思っても構わないのですが、多 様化するこの世の中では、宗教聞の態度に関しては、 多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 宗教的ではなく倫理的な立場を取るべきだと思います。 私は、これを他宗教と他宗派への姿勢として提唱した い と 思 い ま す 。 -1... ノ、 次には、普遍性の高い範轄を採用することが求めら れているという課題に移りましょう。真宗研究、真宗 伝道において、﹁自力・他力﹂﹁聖道門・浄土門﹂とい う範障は、特有性というか独自性を強調するにはもち ろん重要でありますけれど、共通点を高める普遍性と いう点からは弱いのではないかと思います。 それでは 何が必要かといえば、普遍性の高い範時を採用して、 その中で真宗研究と伝道を進めていくことではないか と 思 う の で す 。 その一つの例としまして、私がカリフォルニア大学 で行った博士課程の研究というのは、浄影寺慧遠の ﹃観経義疏﹂でした。この論書を英訳しまして、それ にスタディをつけて学位は頂いたのですけれど、その 九多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 後この研究成果に就いてはほとんど何も行っていませ アメリカ仏教とか、現代真宗学に 力を入れてきましたが、近い将来には、浄影寺慧遠の ん 。 そ の 代 わ り に 、 浄土教に関する成果というものを再評価することに努 力 し た い と 考 え て い ま す 。 何故かというと、善導が浄土教という特有な道を中 国で確立するに大いに貢献したということは、言、つま で も あ り ま せ ん 。 た だ そ の 昔 且 忠 由 守 が 色 々 な 説 を 打 ち 出 す 時に採用した範障というものは、浄影寺慧遠が提供し たものが多いのです。ですから、浄影寺慧遠の﹃観経 義 疏 ﹄ と い う の は ﹃ 観 経 ﹄ の注釈書としては一番古く て、現存しているものです。だが伝統的な考えでは、 慧遠は﹁諸師﹂の代表として批判的に見られているの です。しかし、善導より一世紀くらい早い浄影寺慧遠 は、大乗仏教という広い範鴎の中で ﹃ 観 経 ﹄ を 解 説 し たのです。例えば、﹁散善・定善﹂という用語も浄影 寺慧遠が採用した言葉であり、﹁九品往生﹂を﹁十信﹂ ゃ﹁十地﹂という大乗修行段位の中で解説しています。 ま た 、 ﹃ 大 無 量 寿 経 ﹄ の省略名である ﹃ 大 経 ﹂ や世親
。
の ﹁ 無 量 寿 経 優 婆 提 舎 願 生 偶 ﹄ の ﹃ 往 生 論 ﹄ は 、 私 の 見た限り慧遠の書物に初めて現われる書名なのです。 まあ私が言いたいことは、彼が普遍性の高い範轄の 中で﹁観経﹂を説いたからこそ、善導が一OO
年 後 、 その範轄の中で、称名念仏ということを打ち出せたと いうことです。最初から狭い範曙で押し通していれば、 善導にはそれほどの説得力はなかったのではないかと いうことが言えると思うのですね。散善・定善という 枠組みがあったからこそ、その中で善導は、他力的な 称名念仏の独自性を明らかにすることができたのです。 そういう意味で、現代においても普遍性の高い範轄と いうものが必要であろうと考えるわけです。 そのようなことで、私は真宗研究の姿勢としては、 自力・他力、聖道門・浄土門という範轄というのは独 自性とか優越性を説くのにはもちろん必要であるけれ ど、この多様性の環境の中では、こういうような範曙 よりも、もっと広い範轄で真宗の共通性と普遍性を説 く必要があると思っています。 その件については、この辺ご存じの方に教えていただきたいのですけれど、 よく浄土真宗では、禅宗を ﹁自力﹂の道だと言いますね。親驚聖人は、﹁仏心宗﹂ を自力の宗派の一つとして見ていますけれど、ただこ れが曹洞宗の道元禅のことを言っているかどうかは疑 問だと思うのですね。というのが、道元の禅は非常に 他力的な面が強いですね。この辺は私も専門家ではあ りませんのでよくわかりませんけれども、この他力的 な 面 に つ い て は 、 アメリカの曹洞宗の人たちも同じよ うなことを指摘していました。 ですから、安易に、全 ての禅が自力の道であるということではなくて、大乗 仏教という広い範曙の中では、真宗の伝統的理解が ﹁自力﹂と決め付ける教えともかなりの共通点がある ということも強調するべきだと考えます。 もう一つですけれど、私が修士課程でテ!マとした のは、如来蔵思想です。東大の高崎直道先生のご専円 である﹃宝性論﹄、河
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品 。 円 高 せ N F p b h a ︵ ﹃ 宝 性 論 ﹂ ︶ と いうサンスクリットの論書があります。その中で私が 驚 い た の は 、 如来蔵思想というのは何か非常に難しい 思想であるという印象がありましたが、 如来蔵思想の 多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 中心の考えの一つは、如来蔵が存在するのは、法身が あるから存在するというものでした。だから法身がな ければ如来蔵は存在しないのです。ただ、真宗の立場 からは、如来蔵とか仏性というような教えは自分とい うものが清浄であると解釈するとして批判されるので す。しかし、如来蔵思想では法身が存在するから、 我々には如来蔵が存在するのであるとはっきりと説く の で す 。 これは別の言い方をしますと、阿弥陀仏が存在する からこそ信心が我々凡夫に可能となるという教えとは、 非常に似た構造なのです。阿弥陀仏は究極的にはやは り法身のことですから、そのような関係は別な角度か ら見ると、そんなに自力対他力というような枠をもっ て安易に決め付けられないと思われます。 で す か ら 、 今後、真宗を打ち出していくには、如来蔵思想の法 身・如来蔵等と阿弥陀仏・信心の共通点などを認める 広い範轄の中で、なおかつ真宗の独自性を打ち出して いくということが必要となると思います。 後ですね、ちょっと範障が広まるのですけれども、一
多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 冒頭で私が日本仏教心理学会に関わっていると言いま したが、それもですね、真宗や仏教をこの多様化とい う環境の中で語っていくには、心理学・心理療法とい う範障を利用することも可能であり、重要であると考 えるからです。そうすることによって仏教のメッセ
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ジが、より多くの人々にも伝わるのではないかと願つ て い ま す 。 I h + ﹂ 阜 、1l
いつも同じような絵︵時計のような円形︶し か描かないのですけれども、ジヤン・ピアジエ ︵τ
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日 ︶ 目 白 m O 4 け︶ やその後の発達心理系統の人たちは、人間の 発達過程を、端的に言いますと、①プレパーソナル ︵U
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− ︶ 、 ③ ト ラ ン ︵ 可 自 由 − U 巾 吋 印 。s
−︶という三段階で考え ています︵時計に聡えると、上のゼロ分から二O
分 が プレパーソナルで、二O
分から四O
分 が パ ー ソ ナ ル で 、 四O
分から六O
分 が ト ラ ン ス パ ー ソ ナ ル と な る ︶ 。 これを仏教的に表現してみると、未我︵プレパl
ソ ナル︶、自我︵パーソナル︶、無我︵トランスパl
ソ ナ ル︶となるでしょう。それで私は、この図を見た時に一
ある意味﹁救われた﹂のですね。我々が一生懸命伝え ょうとしている仏教の教えは、仏教の話を聞いたこと もない一般の人々を対象とする場合が多いですね。そ の多くの人の関心はこのあたり︵二O
分から四O
分 の パーソナル︶なのですね。言い換えますと、自我の確 立であり、多くはどのようにしてこの世を生きていく か、ということに最も強い関心があるのです。しかし、 仏教の根幹は、この境地︵四O
分から六O
分のトラン スパーソナル︶なのです。このようにして見ると、自 我と無我は対立しているようであるけれど、この絵を 見ると実は自我と無我とは、 階のことを指していることがより明らかに見えたので 一つのプロセスの違う段 す。だから心理学はどちらかというとこの辺り︵ゼロ 分から二O
分のプレパーソナルと、二O
分から四O
分 の パ ー ソ ナ ル ︶ のことを主に問題視しているのです。 仏教とは究極的には無我の境地を目指し、それは、 このような普遍性の高い範曙の中ではこのあたり︵四O
分から六O
分のトランスパーソナル︶を指すのです。 しかし、仏教は自我の形成にも関わるこの辺り︵二O
分から四
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八刀のパーソナル︶に関する教えも説くこと ができるわけなのです。そのレベルで仏教の教えを語 れば、私自身もよりよくわかりますし、聞いている人 も、もちろんわかり安くなると思うのです。そこで、 一般の人にこの辺︵四O
分から六O
分︶だけの教えで 説いていると、なかなかピンとこないのではないでし ょうか。多くの人にとっては、この辺り︵二O
分から 四O
分 、 ま た は 、 四 五 分 ︶ で生きているので、当然そ の辺に関心があるのだと思います。 私は、﹁自我の確立﹂とか、﹁自己実現﹂とかそうい う心理学用語を使うことによって、仏教が説く﹁信 心﹂や﹁悟り﹂という自我を超越︵トランスパーソナ ル︶する真実の方向へ進んでもらう形を取ることも必 要ではないかと思います。因みに、﹁自己実現﹂︵本来 は 英 語 の 、 印 色 目 白 − F N巳
F O ロ︶という用語は一九五O
年 代に仏教に影響されてできた言葉という説もあります。 このようなことからも、心理学の範障を採用するとい うことは、私にとっては非常に有意義なものになって い る の で す 。 多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 七 それでは第三のスピリチユアリティーのニl
ズ と い う課題に移らせてもらいます。これはですね、先ほど 申しましたように、多様化する現代社会には、個々の 聖なる体験というものを求める人が増えているという ことです。宗教学者の島閏進先生は、日本でも一九七0
年代にク新霊性運動 ψ とか。新霊性文化。という現 象がすでに始まっていることを指摘されています。で す か ら こ れ は 、 アメリカとか外国の話だけではなくて、 日本でもこのようなスピリチユアリティ!というもの が既に強く求められているのです。 アメリカのウェイド・クラl
ク ・ ルl
フ ︵ 当 主 。n
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拝見。。同︶という宗教学者は、﹁スピリチユアリテ ィーとは、個人が求めるものに合った深遠な一人ひと りの体験である﹂と定義しています。それでルl
フ 教 授 に よ り ま す と 、 スピリチユアリティl
の特徴はどう いうところにあるかと言いますと、ク連結性。︵円 O ロ ’一
多 様 化 す る 現 代 社 会 に お け る 真 宗 研 究 ・ 伝 道 の 姿 勢 ロ ゆ 門 司 い 巾 ︹ 凶 ロ ⑦ 印 印 ︶ 、 ク 一 体 性
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︵ 己R
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︶ 、 ク 平 和ψ
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2
2
︶ 、 ク 調 和 ψ ︵F
R
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− 、 及 び ク 落 ち 着 き ψ ︵B
E
q
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’ ロ命的印︶という五つのキーワードで説明しています。そ こで、こうした特徴こそ仏教の性質とかなりマッチす る と こ ろ が あ り 、 アメリカでは仏教が一種のスピリチ ユアリティ!として求められていると一言えるのです。 ﹂ れ ら の 特 徴 は 、 キリスト教という西洋における伝統 的な宗教とは明らかに異なるのです。その伝統的な宗 教 の 特 徴 は 、 今 神 ψ ︵ の え ︶ 、 ク 罪 。25
︶ 、 ク 信 仰 タ ︵E
E
、 ク 憐 悔 。 ︵ 吋3
2
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巾 ︶ 及 び ク 道 徳 。 ︵B
O
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− 印 ︶ と い う キーワードで説明できるのです。 私の師の一人である宮地廓慧先生は、 よく真宗には 教義、教学、教育という二一つのレベルがあるというこ とをお話してくださいました。教義とは親驚聖人の教 ぇ、そして教学とは伝統に基づいた理性的・体系的な 営み、そして教育というのは人々が育まれていく営み であるのです。私はこの教育というレベルでこそ、 個々の聖なる体験であるスピリチユアリティーが促さ れるのであると考えます。この教育というレベルのこ 四 とをより充実したものにし、 スピリチュアリティーが 育まれる環境を構築していく必要があると思います。 従って、この学会を通して教学と教育が確固たるもの になることを大いに期待しています。 そこでスピリチユアリティl
に関して、浄土真宗が アメリカでどのように見られているかということにつ いて興味深い体験談があります。去年、 カリフォル ア大学パl
リ レl
校でd
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巾 ロ ’g
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︵アメリカにおける禅の五O
年︶と題するシンポ ジウムがあったのですね。私もたまたまアメリカへ戻 っていましたので、聞きに行きました。隣に座った女 性は、サンフランシスコ禅センター所属の私くらいの 年齢の白人女性だったのですね。その彼女が自己紹介 して﹁当E
ぺ 印 一 司O
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え2
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見﹂︵貴方の所属は?︶と 聞き、私が﹁ H.
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﹂と答えたら、彼女は、 ﹁F
− MHO 己 山 門 ゆ 吾 巾2
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ロロ豆昏E
こ ︵ そ う で す か 、 貴方がキリスト教仏教徒ですね!︶と返してきたので す 。 ﹁キリスト教仏教徒﹂だと、それは、ショックでした。浄土真宗が時々そのように見られていることは、 私も知っていました。しかし面と向かって言われたの は初めてでしたので、﹁かちん﹂ときました。そこで 反論と説明を彼女にしようとしたら会議が始まり、そ の後のチャンスを逃がしてしまったのです。残念でし た 。 彼女のような仏教への改宗者の中には、キリスト教 に飽き飽きして仏教に移る人が多いのです。彼女も多 分そうであったと私は感じました。そういうような人 たちにとってこそ、キリスト教はスピリチユアリテ ィ
l
に欠けていて、ただ教義を信じる宗教であると見 ている場合がよくあります。例えば、ご存じのように キリスト教の教えの根幹には、ある出来事を真実とし て信じることが求められます。その出来事とは、簡単 すぎる表現になるかもしれませんけれども、﹁イエ ス・キリストが、我々の罪の為に命を捨てた﹂という ことですね。この出来事を真実として信じることが最 も重要なのですね。 ですから、仏教へ改宗した彼女に とっては、キリスト教はク信じる宗教。であって、禅 多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 のようなゥ目覚める宗教 ψ で は な い の で す 。 ク信じる宗教々とク目覚める宗教。と分けるならば、 アメリカで説かれている仏教はク目覚める宗教タとし て説かれているのです。ク信じる宗教タではないので す 。 禅 と か 、 チベットとか、東南アジアの仏教は、そ のように説かれているのです。しかし一方、浄土真宗 はこういう人たちから見れば、キリスト教と同じよう に映るようです。例えば、法蔵菩薩は、我々の為に多 大な苦労をされて本願を建ててくださった、という真 実の出来事を受け入れることによって救われていくの だという教えの構造は、キリスト教と同じに見えるの です。ですから彼女のような視点からは、 キリスト教 も浄土真宗も同じくク信じる宗教。なのです。 だけど、私は時間があったならば彼女には、表面的 に似ているようですが実は違うのです、と詳しく説明 したかったのです。では、どこが違うのかと言います と、二点あります。それは、①真実とする教えのとら え方、②身体の関わり方という二点です。 最初の違いについてですが、イエス様は我々の罪の 五多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 ために命を捨てた、そして法蔵菩薩は我々のために多 大な苦労をされ願を立てられた、となっています。似 ているようですが、根本的な違いがあります。キリス いわゆる歴史的な ト教のこの信じる対象というのは、 事実なのです。だけど浄土真宗の法蔵菩薩の〆
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日 仏 2 0 H M H ︵聖なる物語︶。と私は言っていますけれども、 ﹂れは必ずしも歴史的な事実ではありません。そこに 大きな違いがあると思うのですね。 ですからこれを土台としてある音山味で象徴的な ク 印 国 門 叶 巾 ︵ 目 印 件 。 門 司 タ と し て と ら え る こ と に よ っ て 、 よ り 多くの人々が阿弥陀様への方向に進めるようになるの です。ですから、本願の生起本末を聞くということは、 本願という言葉を超える広大なスピリチユアルな世界 に出会い、またそのはたらきに目覚めるようになると い う こ と で す 。 ですから﹁信じる﹂か﹁目覚める﹂と いう点では、浄土真宗は、。目覚める宗教 ψ あるいは ク目覚めさせて頂く宗教クであると見ることができる と思います。しかし特にアメリカでは、そのように見 ていない人が多くいて、そのことは、我々の大きな課 ~ ノ、 題なのです。浄土真宗は、教義をただ単に﹁信じる宗 教﹂ではないのだ、ということを正しく伝える必要が あ る と 。 では、それはどうすれば良いかという解決策の一つ として、先ほど申しました二点目の﹁身体の関わり 方﹂が挙げられます。基本的にはですね、お念仏を称 える、声を出して称えることをより強調することです。 報恩感謝の精神を感じながら声を出して称え、それが 全身を育むことに繋がるのです。ですから個々の聖な る体験というスピリチユアリティーを体得するには、 教義を頭で理解することだけではなくて、身体を使つ てプラクテイスすること、行動を起こすことが求めら れ る の で す 。 で す の で 、 スピリチユアリティl
の ニl
ズに対応するのでしたら、もっとこのように身全体で 念仏することが大事だと思います。この要素が、現在 のキリスト教と異なる点ですね。 私は、今回日本に来る前、三年間カリフォルニアの お寺の住職を務めましたが、その期間﹁あなたのお寺 ではメデイテl
シヨンをしますか?﹂という問い合わせがよくありました。我々浄土真宗の僧侶は、教義上 行いませんし、座禅の訓練も受けていないので実際に メディテ
l
シヨンはやっていません、と答えました。 し か し 、 メデイテ1
シヨンのようなことは行います、 ということも付け加えました。 それはどういうことかと申しますと、 メデイテl
シ ヨンを行わなくても、作法や読経などはアメリカ人が 求めている身体に関わる役目を果たしてくれるからで す。例えば、本堂に入ったら丁重に礼拝し、作法に基 づいて正しくお焼香をすることは、ある種のメデイ テl
シヨンと似た効果があるのです。そして経本を頂 戴し、正しい姿勢でお経を読むということも多くのア メリカ人にとって魅力的に感じられるようです。この ように本堂という神聖な環境の中で身体を動かすこと によって、多くの人はそれで満足するのですね。です ので、座禅というメデイテl
シヨンをしなくても、浄 土真宗独特の礼儀や作法でスピリチユアリティl
の一 一
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ズに十分答えることができるのです。 そして最後はですね、真宗のスピリチユアリティー 多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 をどのように日常の段階で育むかという話をしたいと 思いますが、本格的にしますと込み入った話になりま すし、また似たようなことは他の先生も言われている ょうですから、もうさっと言及することにします。私 は先ほどの教育のレベルでは、阿弥陀様を超越した仏 様というイメージでとらえるのではなく、無量寿・無 量光というはたらきとしてとらえる方が、多くの現代 人に理解され、親しみを持ってもらえると考えます。 そうすると、﹁無量寿﹂とは、﹁いのち﹂というものを 指し、我々の物質的・社会的ニl
ズを満たしてくれる 酸素とか食べ物とか教育機関や病院が果たすはたらき として受け取ることができると思います。そして、 ﹁無量光﹂とは、﹁光﹂または﹁智慧﹂を指し、周りの 先生とか親とか先輩によって我々のメンタルや精神の 面が育まれていく、そういうはたらきとして受け取る ことができるのです。 阿弥陀仏を現実生活の中で、命と光・知日慧というは たらきとしてとらえることは、教育のレベルでも伝統 的な解釈ではないかもしれませんが、 五木寛之さんも 七多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 言われるように、現代人には教えに親しみを感じても らうことが必須であると考えます。我々のような専門 家にとっては、真宗や仏教は親しいものでありますけ れど、多くの一般の人にとって仏教とはかなり異質な ものとして映るということを忘れてはならないのでは な い で し ょ う か 。 ですから、我々が当たり前と思って いるような言葉は一般の人にとっては、なかなかわか りにくいのです。ですので、そういう言葉を世俗的な 範轄の中で、わかりやすく説明しながらどんどん使つ て良いと思います。例えば、﹁他力﹂とは、宗教的な はたらきだけではなくて、それを味わっていける日常 のはたらきであるということを、もっと積極的に打ち 出して行くべきだと私は思います。 またこのように味わわせてもらうことによって、 キ リスト教の神と阿弥陀様との違いも見えてくるのです。 キリスト教では、神が中心であることは一言うまでもあ りませんが、食前の祈りでは、感謝は全て神にささげ られ、食べ物として命を犠牲にした牛や豚や鶏への感 謝の意識はほとんど感じられません。その一方、阿弥 J¥ 陀様をはたらきとしてとらえる浄土真宗の習慣では、 頂く生き物のいのちへの感謝がより強く意識されてい る と 思 い ま す 。 }\ これで、多様化する社会に対応する三つの仕方の話 が終わりました。その三とは、繰り返しますと、 つ は、他宗教・他宗派に対する姿勢ですね。二つ目は、 常に自力・他力、聖道門・浄土門という枠のみではな く、大乗や仏教一般や心理学までを含むもっと広い範 轄で真宗を説いていく必要性ということでした。三つ 目 は 、 スピリチユアリティ!ということをもっと意識 する必要があるということです。現代人の宗教的ニ l ズというのは、我々が子供であった時代からもかなり 変わったということは確かですね。 もう一時間お話しましたので、これで主な話は終わ りたいと思います。
※このあとご講演では、アメリカ仏教に関するさまざまな スライド写真をお見せいただきました。以下、スライド 紹 介 後 の ま と め の お 話 の み 掲 載 い た し ま す 。 ︿ 編 集 部 ﹀
九
そういうことで、重要なところは、 アメリカの仏教 徒は全人口の一パーセントに当たる三O
O
万人にまで も増えたということす。しかし、実際に﹁仏教徒﹂だ とアイデンティファイしない人も含めますと、この数 は倍くらいいかなくても、四O
O
万 、 五O
O
万位の人 たちが、かなり仏教のことを知り、実践しているとい うことが言えるのです。 現在アメリカでは、 ユダヤ教徒が二パーセント、仏 教が一パーセントで、 ユダヤ教に改宗する人たちはほ とんどいません。人口も相対的に減っていますので、 もう仏教はこの四O
年ぐらいでユダヤ教を超えて、キ リスト教につぐ第二の宗教になると思っています。と いうのは、仏教はアジア系の宗教の中で一番改宗者が 多 様 化 す る 現 代 社 会 に お け る 真 宗 研 究 ・ 伝 道 の 姿 勢 多いのです。ヒンドゥl
教徒もかなり多いのですけれ と も 、 ほとんどがインド系の人たちです。 一 方 、 仏 教 に改宗した人々は、三O
O
万人という仏教人口の約半 分となっています。それ以外にも、仏教徒と言わない け れ ど いわゆる。ナイト・スタンド・ブディスト。 ︵Z
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忠 告 門 目 白Z
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︶という人たちを含めれば、 先ほど言った四O
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万 、 五O
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万人位になると思いま す 。 最 後 に 、 アルベルト・アインシユタイン ︵ ﹀52
汁 開 呂 田Z5
︶が言ったことですけれど、この最も有名な 科学者は宗教を、ク畏れの宗教。︵ヨロ柱。ロ。同貯R
︶ 、4
埠 徳 の 宗 教 。 ︵B
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oロ︶、そしてク広大無辺の 宗教 ψ ︵ 円gE
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ロ︶と分類しました。結論から 言いますと、彼は、仏教こそ広大無辺の宗教の要素を 持っている、と考えたのです。もし近代科学に対応で きる宗教があるとすれば、これは仏教であると、もう 八五年くらい前に発言しています。 ということは、このような仏教のイメージを背景に 持ちながら、仏教はク目覚めの宗教。であって、多様 九多様化する現代社会における真宗研究・伝道の姿勢 性に対応できる宗教であるというような認識が高まつ ています。私は今後、 アメリカだけでなく、西洋にお いて仏教は爆発的には伸びませんが、徐々に、仏教の 影響が増していくと思います。とにかく、衰退すると いうことは、もうないと思っています。それほどこの 多様性に対応できている宗教ではないかと思うのです。 そこで真宗が、これに対応できるかという点につい ては、十分可能であると考えています。私はこの前ア メリカに戻りまして、本土の真宗教団である米国仏教 団 ︵ ∞ ロ
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鬼門訂正SBO
同 ﹀B2
−
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︶ は、かなり良い 線を行っているのではないかと感じました。開教使は 六O
人位ですが、彼らをサポートし得度を受けた開教 使補佐が七五人も養成されてきたのですね。この七五 人の開教使補の半分は、非日系人なのです。そしてカ リフォルニア州以外のお寺の中には、ほほ全員が白人 で構成されるお寺が二筒寺できています。こういう面 でも、真宗が多様性という環境の中で対応できる夕日 覚めの宗教 ψ であるということは自信を持って言えま す。ただ今後は、アメリカや日本の先生方のリーダー。
シップが重要となると思うのです。そこで今日私が言 わんとしていたことですが、真宗の独自性を強調する ことはもちろん必要でありますけれど、﹁クリスチヤ ン・ブツディスト﹂︵キリスト教仏教徒︶というイ メ1
ジを取り払うためにも、やはり仏教一般やスピリ チュアリティ!との共通性というところも、もっと意 識して打ち出す必要があるのではないかと思います。 ということは、今日の講演の最初に述べたハl
パl
ド大学でのあのディベl
トの話ですが、あのように終 わっては駄目だと思うのですね。韓国の僧侶が、 ほ と んどコミュニケーションをとる気持ちもなく、﹁当町田仲 F m 岳克﹂と聞くやり方自体が問題です。そしてチベ ット僧侶の対応も問題ですね。﹁この人ちょっとどっ かおかしいのではないですか? 彼の出身地にはオレ ンジというものがないのでしょうか?﹂と答えていま したね。そのような反応しかできない仏教や宗派には 将来性がないと思います。 では、どうしたらよかった かと私は考えました。私がチベ y トの僧侶でしたら、 その韓国の僧侶に、﹁そのオレンジを頂けますか﹂と聞いて受け取り、皮をむいて、半分ごっこしてオレン ジを食べながらお互いがどのように考えているかを話 し合ったと思います。これこそが、多様化の杜会で活 用しなければならない知恵ではないかと思います。 ご清聴ありがとうございました。 参照文献 ケネス・タナカ著﹃アメリカ仏教||仏教も変わる、 アメリカも変わる﹄三