最澄撰
﹃大唐新羅諸宗義匠
依
想天台義集﹄
に
関する諸問題
て
問
題
の
所
在
震直挺『大庖新羅諸宗義匠依切天台義集』に関する諮問I!(片 側﹃大鹿新開棚諸宗義匠依
w m
天台義集﹄(以下﹃依怨集﹄)
一
巻は、伝教大師目取澄(七六六/七
│
八
二
二
)によって著
された、その名の通り、中国・朝鮮半島の天台宗以外の諸
師が天台宗義に﹁依惣﹂した文例を挙げた典籍である。目最
澄は日本天台宗の開祖であるが、決して天台教学の典籍の
みをもって、自らの教学を形成したわけではない。最澄は
天台数学のみならず、天台教学以
外
の
典
籍
も
研
開
閉
し
、時に
は批判を加え、激しい論争を展開させるなどして、自らの
教学を形成したのである。最澄教学を研究していくよでは、
天台数学のみならず、天台数学以
外の教学を最澄がいかな
る視点でもって解釈し、理解していっ
たのかということを
考慮に入れる必要がある。そして、﹃依怒集﹄は、最澄に
おける天台数学以外の数学への理解を知るための重要な資
博士課程二回生米
森
俊輔
料であると
言
え
よ
う
。
﹃依溜集﹄は現在、伝全三、回路七七に収められるが、
日蔵本の底本は伝全本であり、伝全本は慶安四年刊本を底
本としている。伝全本にしたがえば、﹃依惣集﹄は、序文
/本文十
三
項目/政文という桁成を採る。このうち本文は、
全て他師の著作の引用からなっているが、序文と政文に関
しては、田沼澄のオリジナルの文章である。また、本文は十
三項目からなるが(以下、本文十三項目を順に
O
番号で表
す)、①は道宮一(五九六
│
六六七)の﹃大唐内政(録﹄、②
は嘉祥大師吉蔵(五四九
l
六二三)の﹃仁王経疏﹄、③は
撲陽大師智周(六六八│七二三)の﹃菩薩戒経疏﹄、③は
青龍寺良質(七一七
│
七七七)の﹃仁王
経疏﹄、⑤は賢首
大師法蔵(六四三
│
七二一)の﹃華厳五教章﹄、⑥は静法
寺慈苑(六八四
│
七
O
四!?)の﹃続華厳経略疏刊定記﹄、
⑦は李通玄(六三五
1七
三
O
)
の﹃新華厳経論﹄、③は清
涼大師澄観(七三七│八三八)の﹃華厳経随疏演義紗﹄、
2 百E谷大学的数学研究室年報第12号2004年3月 ⑨は元暁(六 一 七│六八六)の﹃浬祭宗要﹄、⑮は一行(六 八三 │ 七 二 七) の﹃大日経疏﹄、⑪は惟総( 生没 年不詳) 一 七 八 二 ) の﹃仏頂経疏妙﹄、⑫は妙楽大師湛然(七一 の﹃法華文句記﹄、⑬は意安大師濃頂(五六 一 │ 六 一 一 一 一 一 ) の﹃国清百録﹄を各々引用することにから成立している。 本文十三項目は、 天台宗以外の諸師(ただし⑫⑬は例外) の著作中に天台に関する肯定的な言及を引用したものであ る。最澄は、 天台宗以外の諸宗 の﹁依源天台﹂を主張することを目的として﹃依惣集﹄を これらの引用文によって、 製したと言える。 ﹃ 依
w m
集﹄の撰述年代については従来、議論があった。 議論の原因は、序文に八一六(弘仁七)年の撰述であるこ とが記され、 一 方で政文には八 二 ニ (弘仁四)年九月の記 述であると記されているところにある。 ﹂の議論に有力な見解を示したのは田村[一九七三] ある。すなわち、八一三年周辺の最澄の状況を見てみる と 、 八O
六年に最大の外護者であった桓武天皇を失い、八一二 年には自ら死を覚悟するほどの病に冒されている。また、 天 台 宗 に 年 分 度 者 二 名 が 認 め ら れ た の は 八O
七年である 育 が 成に 七
苦 年 労 経 が 過 あ し っ たた
7八 年 の 段 階 で は 比叡山では弟 子の 方 八一六年周辺の最澄の伏況は というと、まず、最澄は 八 一五年に大安 寺 にて南部の諸大 徳と論争している。また、 E h 澄 は八 一 六年から翌八 一 七年 にかけて、商品国へ天台宗の弘法に赴いたが、後に最大の論 敵となる徳一(七六O
?
l
八三五/八四二) が知ったのも、この頃と考えられる。さて、そこで﹃依想 の存在を最澄 集﹄の序文と政文とを見れば、 八二二年の政文には他宗に 対する批判的な態度は目立って見られず、これに比して八 一六年の序文には、 他 宗に対する強い 批判的な文 言が目立 つロ以上の最澄の時代的周辺状況と﹃依惣集﹄の序文と践 文の内容を合わせて考えたとき、国軍澄が苦境にあった八一 三 年には、宗内の弟子に向けて、 他 宗への批判はせずにた だ天台宗の優位性のみを示し、他 宗 との論争が活発になっ てきた八一六年に、今度は他宗に対し批判的な序文を付し て宗外に発表したものと考えられ、また﹃依慾集﹄は、 八 で 一 三 年 、 八 一 六 年の段階ではともに、徳 一 に向けた論争書 ではなかったが、論争が始まると、﹃守護国界章﹄に引用 されるなど徳一批判の書としての性格が付された。以上が 田村[一九七三] の説の要約である。 八 二 二 年と八一六年との二つの期間における最澄の状況 の変化に着目して、﹃依窓集﹄の成立が二段階に分けられ ることを指摘した研究は、田村[一九七 三 ]以前に佐守木3
[
一
九
三
八
]を挙げることができるが、過去の﹃依惣集﹄
成立に関する諸説を分煩し、逐一批判的に検討したことに、
田村[一九七三]
の指摘の発揮点があると言えよう。
さて、本稿では、以上の先学の重要な指摘の駿尾に付し、
いま一度﹃依惣集﹄について検討する。検討を通し、特に、
間取滋が﹃依惣集﹄を、自身の著作の中でもいかなる役割を
になう典籍と認識していたのかということに着目し
、
問
題
点を指摘したい。
母i
宣撰欧諸新羅諸宗義匠{氏想天台義集』に関する諸問Ii(封殺)二
、
白
球
漫
著
作に
おける
﹁ 依
滋
﹂
の語の用例
まずは
、 ﹃
依沼築﹄の本文の内容を検討する前提として、
﹃依滋集﹄における最も重要な用語である﹁依窓﹂につい
て、最澄の著作中における用例を見る。
﹁
依忽﹂とは普通、
﹁
よ
り
どころとする(ことごという窓
味であ
ろ
う
が
、
円
破
澄においては
、
どのように
﹁
よりどころ
と
す
る
(
こ
と
)
﹂
を
﹁
依沼
﹂
と称したのか、ということをできるだけ明確に
しておきたいのである。
﹃伝教大師全集索引﹄によって、伝全中から
﹁
依惣
﹂
の
語を倹索すると、十五例が見つかった。具体的には、﹃依
惣集﹄にこ例
、
﹃法隷去惑﹄に三例、﹃守護国界章﹄に三
例、﹃通六九証破
比
童文﹄に一例、﹃法務秀句
﹄
に
ニ
例
、
﹃
法
議肝要略注秀句集﹄に四例見ら
れる
。このうち、﹃法華肝
要略注秀句集﹄は最澄の撰述ではない。また、﹃法議去惑﹄
の三例は、﹃守護国界章﹄の三例と全く同じ文章である。
以下に、﹃司法議肝要略注秀句集﹄と﹃法草去
惑﹄の計七例を十五例の考察の対象から外した八例を、山間
し
た
が
っ
て
、
籍の成立年代順に
検討す
る 。
八
二
ニ
/八一六年の成立である﹃依窓集﹄の二例
を挙げる。この二例はいずれも、八一六年の序文に見える。
ま
ず
、
a
、
我
日本天下、門機己
熱 、
門教遂興。此間後生、各執
=
自
宗
-、
偏
破
-一
妙
法
-。
或
云
、
天
台
所
立
之
四
教
、
可
エ
外
道
説-。或云、新羅大唐、所
L咲疏也。今為
L明 一
一
定所
L咲
多
少
一
、
且
集
ニ
諸宗依惣
-、
以為
ニ
後
代
亀
鏡
-也
(
伝
金
三
・
三
四
三頁)
b
、略示三萩麦之殊¥悟
L目
ニ
珠
之
別
-。
護
著
ニ
依惣
一
巻
一
、
則贈ニ同我後哲
(伝全三・三四四頁)
a
の例は、自分の宗旨に執着する
日本仏
教諸宗の学匠が、
天台宗を外遊説
であるとか
、唐や新羅
で吻笑されているな
4 龍谷大学例徽守q研究室年報第12号2004年3月
どと主張することに対し、逆に諸宗の祖師が、天台宗に﹁依
川ごしていた例を集めて、後代の人の明確な手本としたい
と言ったものである。
つまり、新来の天台宗についての知
識に乏しいことに起因して、
天台宗を
﹁
外道の説﹂とまで
罵倒する日本諸宗の学匠のために
、
天台宗はむしろ、歴史
的には諸宗の学匠が﹁依惣﹂としてきたものであることを、
﹃依惣集﹄を著すことによって主張すると、国最澄は宣言し
たのである。ただ、
こ
こ
で
言
う﹁依凋叫﹂が、具体的に、ど
のように﹁よりところとすること﹂を
意
味するのか、判然
と
し
な
い
。
そ
こ
で
、
b
の例を見るが、ここで最澄は、﹃依惣集﹄を
著した目的を、豆と麦との違いが分からないような読者に
その遠いを示し、宝珠の善し悪しを見定めることを理解さ
せるためであると宣言している。
つ
ま
り
、
b
で
は
、
a
の
文
章を受けて、天台宗が決して
﹁
外道の説﹂であったり
、
﹁
新
羅大唐の咲う所
﹂
などではないということを主張するため
に
、
﹃
依
慰
集﹄を著
したと
言うのである。
この例の﹁依悠﹂
は、﹃依恕集﹄という山県籍の名称という
意
味で用いられて
ここで問題となるのは、とのような﹁依
惣
﹂
の例を集めたものが、最澄において﹃依窓集﹄と呼び
ここでもやはり、
﹁
依
窓
﹂
いる。ところで、
うるのかということであるが、
の具体的な意味が明かではなく、残念ながら、
a
、
b
の周例からは、﹃依想集﹄序文における具体的な﹁依惣
﹂
の
意
昧を見い出しがたいと
言
わざるをえない。
次に八
一
八年成立の﹃守護国界掌﹄の三例を見たい。
c
、若指二乗宗¥天台有
ニ
依想
-。
貞
観
以
後
、
日
照
三
歳
、
実叉難陀三蔵、流支三蔵、金剛智三蔵、無四百三施、乃
至不安
三
歳、般若三蔵等、所伝一乗正義、皆符
ニ
天
台
義
一
。
不
L同
二
食食義
一
。
d
、若欲
L知
L義
、
可
ふ
比
二 智
儲三蔵華版問答、
翻経賢首探玄記、新羅元暁
師浬
祭宗要、大唐
一
行阿悶梨遮那経疏
等
三
如
L是
等
宗
、
依
ニ
溜
天台
一
。
e
、
如
ニ
依溜
集
説
(巻中之中・伝全ニ
・
四
二
二
四
一
四
頁
)
c
、
d
、
e
は連続する文であるが、便宜よ三分
し
て
挙げ
た 。
c
の例では、天台数義には
﹁
依河とするところがあって、
それは貞観
一
九(六四五)年に訳経を開始した玄奨三歳(六
O
二
│六六四)以降、日照(六七六年に来底、生没年不詳)
5
から不空(七
O
五│七七四)
に至る各三臓がインドから伝
えた経論の一乗教義は、
みな天台数義に符合すると量
一 一
口 う
。
つまり最滋は、中国の天台数裁が、
インド伝来の数学と
致
し
て
お
り
、
﹂のことこそが天台宗の正当性を示すもので
あると主張するのであろう。そして、
こ
こ
で
﹁
依鴻とする
側は天台であり、﹁依叩仰とされる側は各三歳の一乗教義で
しかし、決して、天台宗が一方的に、各三臓の一乗
あ
る
。
教義をよりところとして成立した、と主張しているわけで
最滋撰『対苦折線路宗義匠{~乙rE天台義集』に関する諸問題ほ森)はない。ここで述べられていることは、あくまで、
天台数
義と各三識の一乗教義との一致のみである。
の対象となる各三路の一乗教義は、天台宗
つまり、この
場合の
﹁
依
怒
﹂
の正当性を主張するための傍証としての
﹁
よりどころ
﹂
と
なるものである。さらに言えば、ここでは天台宗と各三歳
の一乗教義が並列的な関係にあり、
この場合の﹁依沼
﹂
は
単
に
﹁
教義的に符合すること
﹂
という意味で用いられてい
ることになろう。
天台に﹁依慾
﹂
する智鍛(六
O
二
│
六六八)の﹃鋒厳問答﹄や法蔵の﹃探
玄
記
﹄
、
元
暁
の
﹃
浬
幾
宗
国
宝
﹄
、
d
の例は、もし
一
乗義を知りたければ、
一行の﹃大日経疏﹄を見る
べきであるとしている。ここに出る諸師とその著作は、﹃華
厳問答﹄以外はみな、﹃依溜集﹄で取り上げられる。﹃華
厳問答﹄に関しては疑問が残るものの、
d
は、まず﹃依惣
集﹄の存在を踏まえたものに違いない。また
d
は
Cを踏
まえて考えれば、諸三歳所伝の一乗義に符合するのが天台
義
で
あ
る
か
ら
、
一
乗
教
義
(
H
天台義)を知りたければ、さ
らに天台に
﹁
依叩怖とする諸師の著作を見るべきであるとい
う主張と解釈できる。この
c
か
ら
d
の文脈の流れを考えれ
ば 、
d
の﹁依怒﹂もやはり、諸師の教義と天台数義の
﹁
符
合﹂を窓味すると考えるのが自然であろう。
e
の例は﹃依感築﹄という
典
籍それ自体を指しているが、
c
と
d
の文脈の流れにそって
e
を解釈すれば、﹃依怒集﹄
という典籍は﹃守護国界章﹄の時点で、固定澄においては
﹁
諸
宗の諸師の教義と天台数義とが符合している例を集めた典
籍
﹂
と定義づけられていると言えるだろう。
八一九年頃の撰述である﹃通六九証破比量文﹄の
一
例
を
見
る
。
次
に
、
f
、又復支者
、
名
レ 因
。
亦名為
L梯、亦名
=
増
長
¥
亦 名荘厳
¥亦名ニ
依間四¥亦名
- F次
第
¥
亦
名
二
組
問
行
¥
室
宅
-。
以
エ
是
義
-故
、
性
名
為
L支
亦 名(
伝
全
ニ
・
七三八
頁
6 能谷大学制11数学研究室年朝日第12号2004年 3月
語を挙げたものである。
f
は求那政摩訳(三六七
l
四
三
こ
﹃謹口薩善戒経﹄巻第一の引用文であるが(大正三
0
・
九
六
二頁下)、﹃通六九証破比景文﹄では﹃菩薩善戒綬﹄を引
周
し
て
、
云伺名
L支
、
訪
-一
控
口
際
性
二
笠
口
薩
性
者
、
認
ニ
初
発
心
、
及
三
十
七
口
m -。何以故、菩隊隊詞薩、発一-菩提
心
一
。
乃
是
、
一切善法
線本
。
目
定
放
、
名
レ
支
(
伝
金
二
・
七
三
七
│
七
三九頁)
つまり、支とは菩薩性のことであるが、整ロ薩性とは初発心
及び三十七道口
問であり、どうして窓口薩摩詞薩が発菩提心す
るのかというと、発菩提心は一
切
善法の
根本であり、だか
ら支というのであると言っている。この場合、﹁支
﹂
は
﹁
支
であるから、
﹁
支えと
予 え ヲ ︿ W ﹂の
意
で
、
﹁
一
切
抽
出
国
法
の
根
本
﹂
なるべき根本のもの﹂というほどの意味になろう。そして、
f
はこの文脈で述べられたものである。
f
は﹁支
﹂
の異名
として﹁依惣
﹂
を挙げるから、
f
の場合の
﹁
依忽
﹂
は
、
﹃
守
護国界章﹄での
﹁
教義的に符合すること
﹂
という意味より
も積極的な、
﹁
根本となるよりどころ﹂としての意味を持
つことになろう。
つまり、﹃守護国界章﹄から﹃通六九証
破
比
且
皿
文
﹄
に
至
っ
て
、
﹁
依沼
﹂
の意味が変化しているとい
うことになる。
国 最
後 日
に 、
八二一年撰述の﹃法華秀句﹄の二例を挙げる。
g
、一
乗
君
子
、
依
ニ
源
仏
説
一
、
美
し
信
ニ
口
伝
-。
仰
ニ
信
誠
文
¥
莫 L信ニ偽会一。天台所釈、法華経宗、勝二於諸宗
-o 寧内
エ
ニ
所
伝
-哉
(
巻
下
・
伝全三・ニ凶五
l
二
四六頁)
h
、天台法華宗
、
能説之仏、久遠実成。所説之経
、管中
明珠。能伝之師、霊山聴衆。所伝之釈、諸宗惣拠。委
曲之依沼
、
具
有
二
別巻
一
也
(
巻
下
・
伝全三
・
ニ七九頁)
e
の例は、基の法相教学を批判した後の文章であるが、
乗の君子は仏説に
﹁
依溜﹂するべきであって、第三者の介
入した口伝を信用すべきではなく、また、経典の文章を仰
信しでも、誤った絞訳を信用するべきではないと言い、加
えて他宗に対する天台宗の優位性を主張したものである。
この文
章は
前の文脈から
、玄笑訳
﹃成唯識論﹄に代表され
るような、いわゆる﹁繰訳﹂を批判した文章であるが、回旺
澄にとって、
﹁
仏
説
に
依
河
川
﹂
、
﹁
誠文を仰信﹂、つまり仏説
をよりどころとするのが天台宗であり、﹁口伝を信﹂じ、
7
﹁
偽
会
を
信
﹂
じるのが法相宗であるということになろう。
本 A F t 、ここで﹁依惣﹂は、
﹁
仰
信
﹂と
いう語と対句で用い
られるように、
一乗を信じる君子が仏説に依拠することで
あり、﹃守護国界章﹄に見た﹁教義的に符合すること﹂と
いうよりも、積極的な意味を持ち、﹃通六九証破比量文﹄
に見た﹁根本となるよりどころ﹂としての意味とほぼ同ず
るものであろう。
﹂の場合、依惣する側(日
一
乗
そ
し
て
、
を信じる君子)よりも依相似される側
(
H
仏説)
の方が優位
最澄廃『大鷹新..諸宗義匠依j~天台義集J Iこ関する諸ι覗~ (米森)に
あ
り
、
両者は並列的な関係にない。
h
の例では、天台法華宗について、
﹃
法
華
経﹄能説の仏
は久遠実成であり、﹃法華経﹄それ自体は警中の明珠であ
り、その﹃法華経﹄を伝えた天台大師智鎖(五三八五九
七)は霊焼山での﹃法華経﹄の聴衆であり、伝わるところ
の智鈎'の解釈はべ諸宗が
﹁
惣拠﹂とするところであるとい
う
。
ま
た
、
天台宗が諸宗の
﹁
溶拠﹂となっていることにつ
いての詳細は、﹃依恕﹄という別巻がある、と言っている。
つまり、この場合の
﹁
依惣﹂は典籍としての﹃依溶集﹄の
ここで言う、﹃依沼集﹄に説かれる内容は
意味であるが、
何かというと、﹁天台宗が諸宗の恕拠となっていること﹂
つまり、﹁依惣
﹂とは﹁怨拠﹂と言い換えられて
いることになるが、﹁窓拠
﹂
とは、﹃法華秀句﹄巻上本に
で
あ
る
。
は
﹁
言
惚之
会
、
都
無
二
惣
拠
一
﹂
(
伝
全
三・五二頁
)
、
巻上末
には
﹁
都
伽
γ
怨拠一。明知
=
臆説こ(伝全三・八五頁)など
とあり、単に
﹁
根拠﹂というほどの意味である。
しかし
h
は、天台宗が仏説を正しく伝えてきたことを主張するから、
やはり
h
の場合も、積極的に、天台宗が仏説の如く諸宗の
根拠となっている意味を込めて、﹃依窓築﹄に説明を裁つ
たと考えてよいだろう。
以上、最澄における八つの﹁依沼
﹂
の用例を見たが、
見てきた限りでは、最澄における﹁依惣﹂という語には、三
種類の意味が考えられる。第一には、消極的な意味での
﹁
依
鴻 山 ﹂ 、つまり
﹁
教義的に符合すること﹂を意味するもので
あり、﹃守護国界章﹄の
c
、
d
、
e
の例である。第二には、
積極的な意味での
﹁
依
惣
﹂
、
というほとの意味で、
f
、
つ
ま
り
﹁ 線
本的なよりどころ
﹂
g
、
h
が該当する。第三には、
典籍としての
﹁
依慾
﹂
、
b
つまり﹃依惣集﹄を指すもので、
e
、
h
が該当する。そして、第三の意味で
﹁
依
滋
﹂
の
語が用いられる場合は、﹃依怨集﹄が第て第二のいずれ
の意味での﹁依惣
﹂例
を集めた典籍なのかを考えなければ
な
ら
ず
、
e
は第一の消僅的な﹁依慾﹂
の
例
を
集
め
た
典
籍
、
と
しての﹃依窓集﹄を意味し、
h
は第二の積極的な
﹁
依
源 ﹂
の例を集めた典籍としての﹃依慾集﹄を意味する。
8 龍谷大学的教学研究室年報第12号2004年3月
なお、前の検討の対象からは便宜上外したが、﹁依滋
﹂
の用例は、管見の及んだ限り八二二年の﹃依慾集﹄のタイ
トルが最初である。
しかし、この段階では﹁依溶﹂の意味
がはっきりしない。次は八一六年の﹃依恋集﹄序文である
この場合も意味がはっきりしない。次に、
八一八年の
力1で
は
、
﹁
依
鴻
山
﹂
は第一の消極的な意味で周
いられ、﹃依感集﹄という
典籍についても
、消極
的な﹁依
八
一
九年の﹃通
﹃
守
護
国
界
章
﹄
惣
﹂
を示したものと定義される。そして、
六
九
証
破
比
霊
文
﹄
、
八二一年の﹃法華秀句﹄に至ると、﹁依
円 ω﹂
は第二の積極的な意味で用いられ、特に﹃法議秀句﹄
では、﹃依惣集﹄という典籍も、はっきりと諸宗による天
台宗への第二の意味での
﹁
依鳩山﹂を示したものとして位置
づけら
れている
。年を追うごとに
﹁ 依
料どの意味が積極
的
になることの要因としては、国最澄と徳一との論争の激
化
が
まず思い浮かぶ。
つまり、論争の激化にともない、
八 八年の﹃守護国界章﹄と八二一年の﹃法華秀句﹄で﹃依滋集﹄
の位置づけが変化しているのではないだろうか。
二、﹃依想集﹄本文の検討
│
項目②④において
│
では次に、﹃依惣集﹄において最澄が具体的に何を主張
するのかを見てゆきたい。
そこで本来ならば、本文金十三
項目にわたって検討を加えるべきであるが、項目②④の二
点に絞って検討を加える。なぜなら、全休にわたる概略的
な検討はすでになされており、より限定しての検討の方が、
従来の研究を検証する意味で有議であるし、何よりも着実
な議論が可能であると筆者が考えるからである。
②④は、吉蔵、良質の而﹃仁王経疏﹄に関わる問題であ
る。最澄の時代までに存在した﹃仁王経﹄に関する注釈書
で、現在までに整った形で残存しているものは、智四期説濯
頂記﹃仁王護国般若経疏﹄(以下﹃天台疏﹄)、吉蔵撰﹃仁
王
般
若
経
疏
﹄
(
以
下
﹃
士
口
戯
疏
﹄
)
、
円
測
(
六
二
ニ
六
九
六
)
撰﹃仁王経疏﹄(以下﹃円
測疏
﹄
)
、
良
資
撰
﹃
仁
王
経
疏
﹄
(
以
下﹃良賞疏﹄)である(以下まとめて
﹁
現存四疏
﹂
と称す)
。また、現存四疏
以
前
に、真諦三蔵(四九九
l
五六九)に
よるとされる﹃仁王経疏﹄(以下﹃真諦疏﹄)が存在した
と
考
え
ら
れ
る
。
さて、﹃仁王経﹄は古来から、インドでの成立が疑問視
却される経典であるが、位一法畿(二三九
│
=
二
六
)
、
同
期
障
羅
什
(
三
四
四
│
四
一三/三五
0
1
四
O
九)
、真諦、不空のそ
れぞれの訳出とされる四種のものがあったとされ、
こ
の
・
つ
ち現存するのは鳩摩羅什訳﹃仁王般若波羅蜜経﹄(以下﹃什
9
訳仁王経﹄)、不空訳﹃仁王護国般若波羅蜜多経﹄(以下﹃不
空訳仁王経﹄)である。現存四疏のうち、天台、吉灘、円
測の各疏は﹃什訳仁王経﹄を注釈したものであり、﹃良資
疏﹄のみ﹃不空訳仁王経﹄にそって注釈する。また、現存
四疏に共、通して﹃真諦疏﹄が引用されることから、﹃真諦
疏﹄は現存四疏に先立って成立したものと言える。
最滋!毘『大唐新経路宗義匠依強天台義集JIこ関するi
昔日仏官Ii(米~)次に、現存
四疏の成立の前後関係を確認するが
、現存
凹
疏で成立が最も早いのは﹃吉蔵疏﹄である(五九五│六
二
三年の聞に成立)。次
に成立したものは、﹃天台疏﹄と﹃良
質疏﹄に引用が見ら
れる﹃円測疏﹄であ
る
。
﹃
門測疏﹄の
成立年時も残念ながらはっきりしないが、門測の没年が六
九六年であるから、
一応、七世紀後半(つ│六九六)の成
立であろう。その次に成立したのは﹃天台統﹄と考えられ
Nる。﹃天台疏﹄は﹃良資疏﹄に引用されているからである。
﹃天台疏﹄は﹁港頂記
﹂
とされるが、実は濯頂よりも後代
の人物による著作であり、佐藤[一九六二は、六六四
│
七三四年の間の成立であると推定している。そして、最後
の﹃良質疏﹄の成立は七六六年であふ。以上をまとめれば、
現存四疏の成立は﹃古口般疏﹄、﹃門測疏﹄、﹃天台疏﹄、﹃良
黄疏﹄の順ということになる。
みせて、現存悶疏の成立順序がはっきりしたところで﹃依
叩山山集﹄の検討に戻るが、まず﹃依惣集﹄の②の全文を次に
挙
げ
る
。
大唐越州嘉祥寺三論宗沙門士口蔵依ニ天台宗一造二仁王経
疏
二
巻
一
其仁王経疏上巻云、所
L集不し向。随
L流
各
里
(
。
不
L能
具
出
-。
天
ム
口
智
者
、
於
ニ
衆
経
中
-
、
悶
明
ニ
五
議
-。
今
於
L部
例
、亦五門分
別。第一釈
=経名¥第二
出
=
経休一、第三
明 白
一
経宗¥第四緋二経周¥第五論ニ教相一等、云云
(
伝
全
三
・
三四八頁)
②は非常に短いものであるが、
蔵が﹃士口蔵疏﹄において、智類の経典解釈法である五重玄
義を依周すると宣言した文章を引用している。これに対応
する﹃士口蔵疏﹄の箇所を大正蔵所収本によって次に挙げる。
つ
ま
り
、
﹃
依
鳩
山
集
﹄
は
、
吉
所
レ
集
不
レ
向。随
L流
各
異
。
不
レ
能
ニ
具
出
一
。天台智者、於
ニ
衆
綬
中
¥
閲
明
ニ
五
義
-o今於
此
部
-
例、亦五門分別。
m
一眠時名、割ニ出桂体.第三明軽宗.第四明暗周掃五抽経伺(
巻
上
本
・
大正三三
・
=二四頁中)
10 ß~谷大学似数学研究室年報第 12 号 2004年 3 月
右の文引用文の小さいフォントは、大正蔵本においては割
注になっている部分である。また、太字で示した箇所は、
前の﹃依想集﹄で引用されている文章と異なる部分である。
しかし、違いはあるものの、内容的には大きく異ならず、
﹃依怨集﹄は﹃士口蔵疏﹄をほぼ正確に引用していると言っ
てよいだろう。﹃士口蔵疏﹄は先述の通り、﹃天台疏﹄より
先行して成立したが、この場合の﹃吉蔵疏﹄が言う智輔副の
学説は﹃天台疏﹄とは関係なく、﹃士口蔵疏﹄は単に智鎖の
一般的な学説としての五霊玄義を採用したものと考えら
れ
る 。
次に④についてであるが、これも短いので全文を挙げる。
大唐音龍寺翻経諮論新法相宗沙門良賞依ニ天台義-判二
仁
王
経
文
一
其新仁王経疏下巻云、釈
二
本
文
一
者
、然
此
口
問
、
古
徳
西
明
寺測法師、玄範法師、紀国寺慧静法師、皆以二此口問¥
為 一
一
流通分
-
。天台智者、道安法師、安国大法
師、皆以
為
=
正宗分
-
。雌
= 一
皆詣レ理、倶有=所惣一、今依ニ天台等
(
伝
全
三
・
三
四九頁)
義
-
、云云
右の引用に対応する﹃良質疏﹄巻下の大正瀧所収本の箇所
を次に示す。
釈--本文-者、然此品経、古徳西明寺測法師、玄範法師、
紀
国
寺
慧
静
法
師
、
皆
以
こ
此
ロ
回
一
、
為
ニ
流
通
分
-。
天
台
智
者
、
道安法師、安国大法師、皆以ニ
此品
¥為三
正宗分
一
。
磁
三
一
皆
諸
理
、
倶
有
ニ
所溜
¥今依ニ天
台等義-、如
L前故
(
大
正
三
=
一
・
凹
九
四
頁
下
)
太字で示した箇所が両者で異なる点である。
こ
の文章は﹃仁
王経﹄の第七
﹁
奉持品(﹃什訳
仁王経﹄では﹁受持品﹂)﹂
を解釈したものであるが、ここで良賞は、﹃仁王経﹄を分
科するに当たって、﹁奉持品﹂を正宗分とするか流通分と
するかという問題に対し、過去に﹃仁王経﹄を分科した諸
師のうち、円測、
玄範
(
生
没
年
不
詳
、
唐
代
)
、
慧静(五七
八
?
)
は
﹁
奉持品
﹂
を流通分とするが、良賞は智顎や道
安全二二│三八五)、安国大法師(不明)などにならっ
て正宗分とするというのである。良質は﹁天台等義﹂によ
っ
た
と
言
う
が
、
つまり、智顕や道安、安国大法師の解釈を
参考に
し
て
﹁
奉
持
品
﹂
を正宗分と
したということになろう
。
しかし、道
安に﹃仁王経﹄の注釈があっ
たという記録はな
く、また、安国大法師が殺を指すのか明かでない。道安は、
11 一 般に、経典を序分、正宗分、流通分の三段に分科する方 問 法の創始者とされている。では、良質が こ こ で道安に求め る の は 、 ﹁ 泰 持 口 問 ﹂ を正宗分とする こ とではなく、経典を 三段分科することの正当性についての根 拠 であろうか。し それでは文脈上不自然である。また、道安を三段科 か し 、 経の創始者とする説には疑義が呈され、事実、現存する道 安の著作からは、三段 科 経の跡を見ることができない。良 質も直接、道安の経典注釈普から道安の三段科経を知った 最
i
.
l
1
撰『大鹿新履諸宗義匠:{<<![H:7C台義泉』に関する諸陪凶(封と森) わけではなく、後の伝承から知ったのではないだろうか。 関連して、成立が﹃良資疏﹄に先行する﹃天台疏﹄巻第一 には次のようにある。 次入 L 文解釈。夫震目一議説、不 レ向 。或有分レ文、或不 L 分者、只如下大論、釈三大口 問 -不 レ 分 一 一 科 段 一 、 天 親 浬 祭 、 即有 L 分 L 文、道安、 別置 = 序正 流 通 -、劉刻、但随 レ 文 解 釈 よ 。 此亦人情、一間菊好楽不 レ 同。意在 L 達 L 玄、非 L 存 L 渉 レ 事 。今且依レ分レ文者、況聖人説法、必有レ由 L 漸 。 故初明 ニ序 分 ︻ 。 序 彰 三 正顕 こ 利益一。当時名 ニ 正説分 -。 末世衆生、同一落ニ法利一、名ニ流通分三此経八口 問 。 序 口 問 為ニ序分¥観空下六口問、為--正説分-、隠累口問、為ニ流 通分 -。 若望ニ経文ぺ受持品末、仏告二月光一下、即是 流 通 分 一 宮 云 ( 大 正 三 三 ・ 二 五五頁中) 右のように﹃天台疏﹄は、道安の三段科経について言及す るが、﹃天台疏﹄ は 道安が三段科経をしたとは言って も 、 道安が﹃仁王経﹄を三段分科し、 ﹁ 受持品 ﹂ を正宗分とし では、これを良貨が誤解して、 道安がさも﹃仁王経﹄を三段分科し、 ﹁ 受 持 口 問 ﹂を正宗分 としたようなことになったのだろうか。しかし、この推測 たとまでは言っていない。 が成り立たないことは後述する。 また、前の﹃良質疏﹄引用文で、良資がよった天台義と は、右の﹃天台疏﹄引用文に相当すると思われる。﹃天台 疏﹄は、﹃仁王経﹄の三段分科説として二説挙げる。第一 説は、第一 ﹁ 序 回 問 ﹂ を序分、第二﹁観空口問(﹃不空訳仁王 経﹄で は 観 如 来 品 ) ﹂ から第七 ﹁ 受持 品 ( ﹃不空訳仁王経﹄ では奉持品) ﹂ までを正説分、第八 ﹁ 嘱累晶 ﹂ を流通分と するもので、第二説は、第一説とほぼ同じであるが、第 七 ﹁ 受 持 口 問 ﹂ の ﹁ 仏告月光 ﹂ の文以 下 を流通分とすふ。 結 局 ﹃天台疏﹄はいずれを探周するとも言わないが、第八 ﹁ 嘱 累 口 問 ﹂ の最初で ﹁ 大章第三流通分 ﹂ (大正三三 ・ 二八五頁 中)と し ているから、第一説を採用したことになる。そし て第一説は第七 ﹁ 受持品﹂を正宗分とするから、﹃良貴疏﹄12
n
i!谷大学側主主学研究室年報第 12号 2004年 3月の天台義と合致する。
﹃良質疏﹄が言う安国大法師が誰を指すか分からないが、
﹃良質疏﹄が
﹁ 知 目
類、道安、安国大法師
﹂の順に名前を挙
げていることを考えると、良賞にとって安国大法師の科段
も、あまり重要なものではなかったのではないだろうか。
つまり、良貨は三人の名を挙げながらも、直接知っていた
のは﹃天台疏﹄の説のみであり、したがって、三者を
﹁
天
台等﹂と天台に代表させたのではないだろうか。
ところで
、
前の﹃依級集﹄本文に帰ってみれば、﹃良質
疏﹄にはある
﹁刈前政﹂とい
う文草が、﹃依惣集﹄におい
ては引用されていないことが分かる。この
﹁如前故﹂にし
たがって﹃良資疏﹄を調べ
れば
、次に引用する箇所が注目
される
。
此経
一
部
、
総
有
二
八
口
同
一
。
此
口
問
居
L初
、
故
称
ニ
第
一
一
。
解
二
本文一者、先総
判
レ科、後随
レ
文釈
レ
経。真諦記、判ニ釈
此経
¥
大
分
為
b図。一発起分、即初序口問。ニ正説分、
謂次五品。三玉得護国分、即第七品。四流通分、即嘱
累品
。
且
固
有
晋
朝
道
安
法
師
、
科
判
エ
諸
経
¥
以
為
三
ニ
ハ
刀
-。
序分、正宗、流
通分。故至
ニ今巨唐¥慈恩三蔵訳下仏
地論
、
親
光
菩
耕
地
釈
一
-仏地経
一
、
科
ニ
判彼経
-、
以
為
中
三
分
九
然則東夏西天
、
処践
ニ 師
山畷¥
聖心潜契、妙旨
冥
符 。
今
判
=
此経
¥
依
L彼
三
分
。
一
教起因縁分、即初序回問。二
聖教所説分、次之
六
口
問
。三
依教
奉
行
分
、
訓
日
明
累
口
問
(
巻
上
・
第
一
﹁
序
口
問
﹂
・
大
正
三
三
・
四三五頁中)
つまり、﹃真諦疏﹄は﹃仁王経﹄を、第一
分、第二
﹁
観
如
来
口
問
﹂
から第六
﹁ 散
華晶
﹂
を正説分、第七
﹁
奉持
品﹂を王得護国
分、第八
﹁
嘱
累
口
問
﹂
を
流
通
分
と
、
﹃
仁
﹁
序
ロ
叩
﹂
を発起
玉経﹄を
四段に
分科している。しか
し、晋代の道
安は、諸
経
山
内を序分、正宗分
、流
通分の三段に分科している。だか
ら 、
今
の唐代に至って怒恩大師基(六三二六八
二
)
は
、
﹃仏地経﹄を親先菩薩(
六
世紀
│
七世紀)が三段に分科し
た﹃仏地経論﹄を訳出したのである。中国とインドという
はるかに隊れた場所に関わらず、道安と親光との解釈が合
致しているのは
、仏意の致す
ところである。だから、良貴
が﹃仁王経﹄を
分科する
に当たっては、道安と親光によっ
﹁
序
口
問
﹂
を教起因縁分、次の第二
﹁
観
如
来
口
問
﹂
か
ら第七
﹁
奉
持品﹂までを聖教所説分、第八
﹁
嘱累晶
﹂
を教
奉行分と、三段に分科するの
である。以上が右の引用文の
て
、
第
一
要点であろう。
注
目されるの
は 、
﹁
道安法師、諸経を科判するに、
以 つ13 て 三 分と為す﹂と 言 っており 、 良 質 は 、 ﹂こでは道安が 段科経をなしたのは経典一般に対してであり、決して﹃仁 王経﹄を分科したとは考えていないという点である。 つ ま り、右の文章に限れば、良賞は決して﹃天台疏﹄の文章を 読み誤っていない。前述の筆者の推測が成り立たない所以 である。また、右によれば天台の名は出てこず、良質が﹃仁 王続﹄を 三 段に分科する理由は、道安や抑制光が経典を分類 最滋撰防法新..諸宗義匠依1&'天台義築JIこ関する諸晶覗!i(米森) する際に 、 やはり 三 段に 分 科したことにならつてのようで あ る 。 そこで 、 次に親光菩薩等造玄奨訳﹃仏地経論﹄巻第一の 三 段分科の記事を引用したい。 於=此経中 一、総有 ニ 三 分 一 。 一教起因縁分。二聖教所説 分。三依教奉行分。総顕ニ己聞及教起時 一、別顕ニ教主 及教起処 - 。 教所 レ被 レ機 、 即 是 教 起 三 一 附図所 縁 -故、名 ニ 教起因縁分 -。 正顕 = 聖教所説法門、口問類差別-故、名 = 聖教所説分 -。 顕 下 彼時衆 、 聞 こ仏 聖 教 ヘ 歓 喜 奉行 主 故 、 ( 大 正 二 六 ・ 二九一頁下) 名 ニ 依 教 奉 行 分 一 右によれば、﹃仏地経﹄を起因縁分、聖教所説分、依教奉 しかし、﹃仏地経 行分の 三 段に 分 科するというのである。 論﹄を見ても 、 やはり良貨が﹃仁王経﹄﹁奉持品 ﹂ を正宗 分とする理由は明らかにされていない。 以上の論点をまとめると、﹃良質疏﹄の三段科経は、道 安、親光、﹃天台疏﹄ の説を統合して成立したという こ と になろう。﹃良賞疏﹄の三段科経という方法論は、道安と 親光の説に基づく。 しかし 、 こ と ﹁ 拳持品 ﹂ を正宗分とす ることなどの具体的な分科については、実質上﹃天台統﹄ によるところが大きい。 では、良資は ﹁ 奉持品﹂を正宗分とすることの根拠を ﹁ 天 台等 ﹂ の義によるとして、天台のみでなく道安や安国大法 師にも求めようとしたことは、 いかなる理由によるのであ ろうか 。 そこで﹃天台疏﹄ 、 ﹃良資疏﹄に先立って成立し た﹃ 円測 疏﹄に注目したい。﹃良賞疏﹄と﹃円測疏﹄を 比 較対照した武内 [ 一九七四 ] は、両疏の閣には密接な関係 その理由の 一 つとして、﹃円測疏﹄巻 が見られると言い、 上本の次の文章に注目する。 釈白、白下第二、判 L 文正釈。於二部内-、即其八口問。 一 依 = 本 記 一 、 大 分 為 b 四。一発起分、即 初序回問。二正説分、謂次五口問。三玉得護国分、即受持 自 有 ニ 両 判 -。 口 問 。 四 流 通 分 、 即 嘱 累 口 問 。 今 判 二此 経 一 、 依 ニ仏 地 論 ¥
14 龍谷大学例数学研究室年報第12号2004年 3月
大分為
Lニ
。
初
之
一
品
、
名
ニ
教
起
因
縁
分
三
次
有
=
五
口
問
一
、
名
ニ
聖教所説分
-
。後有
一 一 二
口
問
一
、名
エ
依教奉行分
(
大
正
三
三
・
三六一頁下)
文中の
﹁
本記﹂は﹃真諦疏﹄を指すが、
﹁
本記
﹂
の引用文
は、前に引用した﹃良賞疏﹄の
﹁
真
諦
記
﹂
の引用文とほぼ
同じ文章である。また、﹁本記﹂
の次に﹃仏地経論﹄を引
周することも﹃良質疏﹄と共通する。そして、ここで挙げ
る﹃仏地諭﹄も﹃良質疏﹄と同じく、前に本稿で引用した
つまり
、
﹃
良
﹃仏地経論﹄の文章に基づ︿ものであろう。
黄疏﹄も﹃円測疏﹄も、科経の教証は﹃仏地経論﹄の全く
同じ文なのである。ところが両疏の分科は、第七﹁受持口問
﹂
つまり、良賞は
﹁
受持品﹂を
の位置づけにおいて異なる。
正説分とするのに対して、円測は右の引用文のように、﹁受
持 口
問
﹂
を依教奉行分としているのである。これは、両疏の
教誌が﹃仁王経﹄ではなく、﹃仏地経﹄を注釈した﹃仏地
経論﹄であるということにより起こる矛盾である。﹃仏地
経論﹄がいくら三段科経を説いても、﹃仁王経﹄
の細かい
科段を説くはずがあり得ないから、円洲、良質の両疏で矛
盾が起こったのである。
良質は﹃仁王経﹄の分科に当たって、﹃門測疏﹄、﹃天台
疏﹄の両方を参照したと思われる。
しかし、﹃天台疏﹄の
科段を見れば、﹃円測疏﹄のそれと近いものの、第七
﹁
奉
持 口
問
﹂
の位置づけのみが異なる。そして、玄奨訳論番は当
時主流であったが、﹃円測疏﹄の科段は玄炎訳﹃仏地経論一﹄
によっている。ところが﹃円測疏﹄の具体的な科段は、﹃仏
地経論﹄の教証では充分に正当化されない。ここに﹃良資
疏﹄において﹃天台疏﹄の科段が採用される余地が生じた
と考えられる。この意味で、﹃良資疏﹄は
三
段分科に限っ
て、﹃天台疏﹄を依周したと言うことに誤りはない。
四
、
﹃
依
溜集﹄の撰述意図
前項の検討結果を整理すると、②は吉蔵が﹃吉蔵疏﹄に
おいて、自ら天台の五重玄義を依用して、﹃仁王経﹄を注
釈すると宣言した文章を引用したものである。また、④は
良貨が自ら、﹃良質疏﹄において、﹃天台疏﹄の﹃仁王経﹄
の三段分科を採用したと宣言した箇所の引用文であり、事
の三段分科は、﹃天台疏﹄の依用と言って
実
、
﹃
良
黄
疏
﹄
問
題
な
い
。
ところで、横超
[
一
九
七
三
]
は、﹃依窓集﹄の②の主張
に
注
目
し
て
、
﹁
吉蔵が天台の説に依ったということを最澄
15
は依窓天ム口集の中で仁王経疏の五門分別について言ってい
るが、思怨的に吉蔵が天台に承周する所あったとは認めが
たい﹂(一五五七頁)と言う。この提言は、②で士口蔵が依
周した五重玄義というのは、あくまで経典解釈の形式上の
天台の五重玄義を採用したからといって吉
蔵が何回類の思惣を依用したとは言えないということを指摘
したものであろ弘。また、隙超
[
一九七三]の指摘は﹃良
問題であって、
寅疏﹄と﹃天台疏﹄との関係にも通じる。﹃依怨集﹄が引
最
i
I
i
t
器r
大唐新f:
l
t
3
吉宗義匠依i
4
5
天台義集』に関する諮問題(米森)用した、﹃良黄疏﹄が﹃天台疏﹄を依期した関係は、あく
まで﹃仁王経﹄の分科という経典解釈の形式上の問題なの
である。つまり、最澄は﹃依怨集﹄②④において、吉蔵や
良賞が、単に天台の経典解釈方法を依用した例を挙げたこ
とになる。そして、
この場合の﹁依滋﹂は、教義の線幹に
関わるものではなく、
校末的なレヴェルでのことである。
﹃依惣集﹄という典籍が、第一の消極的な
﹁
依
想
﹂
、
まり他宗と天台宗との教義的符合の用例を集めた典籍であ
るというのなら、全く﹃依惣集﹄は、論理的整合性を持つ
しかし﹃依惣集﹄が
、第二の積極
た典籍であると言える。
的な﹁依惣
﹂
、
ろ
と
した
用例
を つ
集ま
めり
た議
他
~刀、ミヰが
天
る ムと 旦
ぃ
T
2
4
量
五歪
ら ど
ば2
『 り
依 ど滋 こ
集﹄の主張に、﹃依恕集﹄の続者は簡単には納得できない
だろう。筆者は、最澄においても、﹃依惣集﹄が、
その撰
述当初には、第二の積侮的な
﹁
依感﹂を意味した典籍とは
考えておらず、第一の消極的な
﹁
依滋
﹂と
しての意味合い
が強かったのではないかと考える。それが、
他
宗
と
の
札
制
師
、
特に徳一との論争の激
化
にともない、﹃依慾集﹄には相応
しくない第二の積纏的な
﹁
依惣
﹂
の意味が徐々に付加され
ていったのではないだろうか。
玉、結論
さて、本稿では﹃依怒集﹄を検討したが、最後に指
摘
し
得た問題点をまとめたい。
ま
ず
、
﹃
依
叩
岡
山
集
﹄
の
﹁
依想﹂の語についてであるが、白百
つ
澄は﹁依沼
﹂
という語を消纏的な意味と、積極的な意
味
で
用いる場合がある。消極的な意味とは、
﹁
教義的に一致符
であり、積極的な意味とは、
﹁
根
本
的
な
合する(こと)
﹂
よりどころとする(ことご
である。そして最澄の著作に
﹁依滋﹂の語が現れるのは
八二二年の﹃依惣集﹄が最
初で
あ
り
、
八二一年の﹃法華秀句﹄が最後であるが、
八 年の﹃依怒集﹄の段階で
は、消極的な意味合いが強かったと
思
わ
れ
る
。
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1-谷大学側数学研究室年報第12号2004年3月 田 村 [ 一九七三 ] は ﹃ 依 惣 集 ﹄ を 、 原 初 形 態 が 完 成 し た 八 一 三 年 と 、 序 文 が 付 さ れ た 八 一 六 年 と で は 発 表 の 目 的 が 違うという、 屈折した性格を持つ典籍と評価しているが、 本稿はこの指摘を受けて、 ﹃ 依 惣 集 ﹄ の 最 澄 に お け る 意 味 づけが、 八 二 二 年 か ら 八 一 二 年 に か け て 徐 々 に 変 化 し て い つまり、最澄においては、 八二二年の段 ったと考えたい。 階 で は 、 ﹃ 依 恋 集 ﹄ は 第 一 の 消 梅 的 な ﹁ 依 惣 ﹂ を 示 し た 典 籍という意味合いが強いが、 八 一 三 年 か ら 八 一 六 年 に か け ては他宗との札制怖が生じ、八一六年の﹃依惣集﹄序文では、 他 宗 に 対 し 激 し い 批 判 を 展 開 さ せ る 。 そ して 、 後にはついに、徳一との論争が始まる。 八一七年前 このように、最澄 の 他 宗 に 対 す る 態 度 は だ ん だ ん 硬 化 し て ゆ か ざ る を 得 な か っ た が 、 八 一 九 年 の ﹃ 通 六 九 証 破 比 量 文 ﹄ この過程で、 は 最 澄 に お い て ﹁ 依 惣 ﹂ という語の意味も積極的になり、 八二一年の﹃法華秀句﹄ そ れ が ﹃ 依 窓 集 ﹄ と い う 典 で は 、 籍には相応しくないのにも拘わらず、 な意味が付加されざるを得なかった。これは、﹃法議秀句﹄ ついに第二の積極的 に 至 っ て に わ か に ﹃ 依 滋 集 ﹄ の 意 味 が 変 化 し た と い う わ け で は な く 、 ﹃ 依 惣 集 ﹄ 撰 述 後 か ら ﹃ 依 惣 集 ﹄ の 意 味 が 最 澄 において、序文の付加、﹃守諮国界章﹄、﹃通六九証破比盤 文 ﹄ と い う 段 階 を 経 て 徐 々 に 変 佑 し 、 や が て ﹃ 法 華 秀 句 ﹄ に 至 っ て 、 ﹃ 依 窓 集 ﹄ と い う 典 籍 を 積 極 的 な ﹁ 依 惣 ﹂ を集めた典籍であると主張したのであろう。の
例 。注記 で ︼ 伝全本の奥岱には﹁原本慶安四年中野五郎左衛門刊行光映師 校訂本全一巻﹂(伝金三三六五頁)とある。 同 本文十三項目の憎成を以下に示す。 ①大唐終南山盛徳 寺律宗沙 門道宣造両大師伝/②大唐越州嘉作寺三論宗沙門吉漉依天台宗造ι
王経疏ニ巻/③大盾僕陽法相宗沙門智周依天台宗造菩薩戒経疏 五巻/③大庖背能寺翻経税論新法 相宗沙門良賞依 天台義判仁王経 文/⑤大唐京兆貌国西明寺華航宗沙 門法蔵依 天台義進撃厳義等二 十三巻/⑥大唐京兆静法寺華厳宗沙門恕苑判云法蔵師所立義影響 天台義/⑦大唐五台山居士華航宗李通玄判天台位造議厳会釈十四 巻/⑧大唐大原府崇福寺新華厳宗翻経沙 門澄観判天台 義理致円満 /⑨新羅国華厳宗沙門元暁賛天台徳証諸宗教時/⑩大唐南岳真言 宗沙門一行同天台三徳数怠三諦義/⑪大唐大蔚箔寺大仏頂宗沙門 惟諮引天台義造経疏井紗/⑫天竺名僧聞大麿天台数迩最堪簡邪正 渇仰訪問縁/⑬天台大師振法鼓於天竺文出三論宗士口蔵諸大師番。 凶吉津[一九七二]は、﹃依惣集﹄の各引用文の該当箇所を網羅 し 、 有 益 で あ る 。 ま た 、22232
も 参 照 。 ゐ﹁其時、奥田本第五十二菜 、 弘に七年丙申之歳也﹂(伝全三 ・ 三 四 四 頁 ) 。 凶 ﹁ 弘 仁 四 年 宍 巳 九 月 一 一 日 ﹂ ( 伝 金 三 ・ 三 六 五 頁 ) 。 血 福 井 [ 一 九 七 八 ] 参 照 。 叶 田 村 [ 一 九 七 三 ] [ 一 九 八 八 ] 参 照 。 ∞薗回[一九五二]参照. 由論争の経過については、田村ご九八八][一九九一ニ、及び浅 田 { 一 九 九 五 ] 参 照 。 ︼ C 以 上 、 最澄の時代的周辺状況については簡略に記したが、全17 最澄撰『大