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龍谷大学佛教学研究室年報 第12号(2004) 002米森 俊輔「最澄撰『大唐新羅諸宗義匠依憑天台義集』に関する諸問題」

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全文

(1)

最澄撰

﹃大唐新羅諸宗義匠

想天台義集﹄

関する諸問題

震直挺『大庖新羅諸宗義匠依切天台義集』に関する諮問I!(片 側

﹃大鹿新開棚諸宗義匠依

w m

天台義集﹄(以下﹃依怨集﹄)

巻は、伝教大師目取澄(七六六/七

)によって著

された、その名の通り、中国・朝鮮半島の天台宗以外の諸

師が天台宗義に﹁依惣﹂した文例を挙げた典籍である。目最

澄は日本天台宗の開祖であるが、決して天台教学の典籍の

みをもって、自らの教学を形成したわけではない。最澄は

天台数学のみならず、天台教学以

、時に

は批判を加え、激しい論争を展開させるなどして、自らの

教学を形成したのである。最澄教学を研究していくよでは、

天台数学のみならず、天台数学以

外の教学を最澄がいかな

る視点でもって解釈し、理解していっ

たのかということを

考慮に入れる必要がある。そして、﹃依怒集﹄は、最澄に

おける天台数学以外の数学への理解を知るための重要な資

博士課程二回生

俊輔

料であると

﹃依溜集﹄は現在、伝全三、回路七七に収められるが、

日蔵本の底本は伝全本であり、伝全本は慶安四年刊本を底

本としている。伝全本にしたがえば、﹃依惣集﹄は、序文

/本文十

項目/政文という桁成を採る。このうち本文は、

全て他師の著作の引用からなっているが、序文と政文に関

しては、田沼澄のオリジナルの文章である。また、本文は十

三項目からなるが(以下、本文十三項目を順に

O

番号で表

す)、①は道宮一(五九六

六六七)の﹃大唐内政(録﹄、②

は嘉祥大師吉蔵(五四九

l

六二三)の﹃仁王経疏﹄、③は

撲陽大師智周(六六八│七二三)の﹃菩薩戒経疏﹄、③は

青龍寺良質(七一七

七七七)の﹃仁王

経疏﹄、⑤は賢首

大師法蔵(六四三

七二一)の﹃華厳五教章﹄、⑥は静法

寺慈苑(六八四

O

四!?)の﹃続華厳経略疏刊定記﹄、

⑦は李通玄(六三五

1

O

)

の﹃新華厳経論﹄、③は清

涼大師澄観(七三七│八三八)の﹃華厳経随疏演義紗﹄、

(2)

2 百E谷大学的数学研究室年報第12号2004年3月 ⑨は元暁(六 一 七│六八六)の﹃浬祭宗要﹄、⑮は一行(六 八三 │ 七 二 七) の﹃大日経疏﹄、⑪は惟総( 生没 年不詳) 一 七 八 二 ) の﹃仏頂経疏妙﹄、⑫は妙楽大師湛然(七一 の﹃法華文句記﹄、⑬は意安大師濃頂(五六 一 │ 六 一 一 一 一 一 ) の﹃国清百録﹄を各々引用することにから成立している。 本文十三項目は、 天台宗以外の諸師(ただし⑫⑬は例外) の著作中に天台に関する肯定的な言及を引用したものであ る。最澄は、 天台宗以外の諸宗 の﹁依源天台﹂を主張することを目的として﹃依惣集﹄を これらの引用文によって、 製したと言える。 ﹃ 依

w m

集﹄の撰述年代については従来、議論があった。 議論の原因は、序文に八一六(弘仁七)年の撰述であるこ とが記され、 一 方で政文には八 二 ニ (弘仁四)年九月の記 述であると記されているところにある。 ﹂の議論に有力な見解を示したのは田村[一九七三] ある。すなわち、八一三年周辺の最澄の状況を見てみる と 、 八

O

六年に最大の外護者であった桓武天皇を失い、八一二 年には自ら死を覚悟するほどの病に冒されている。また、 天 台 宗 に 年 分 度 者 二 名 が 認 め ら れ た の は 八

O

七年である 育 が 成

に 七

苦 年 労 経 が 過 あ し っ た

7八 年 の 段 階 で は 比叡山では弟 子の 方 八一六年周辺の最澄の伏況は というと、まず、最澄は 八 一五年に大安 寺 にて南部の諸大 徳と論争している。また、 E h 澄 は八 一 六年から翌八 一 七年 にかけて、商品国へ天台宗の弘法に赴いたが、後に最大の論 敵となる徳一(七六

O

?

l

八三五/八四二) が知ったのも、この頃と考えられる。さて、そこで﹃依想 の存在を最澄 集﹄の序文と政文とを見れば、 八二二年の政文には他宗に 対する批判的な態度は目立って見られず、これに比して八 一六年の序文には、 他 宗に対する強い 批判的な文 言が目立 つロ以上の最澄の時代的周辺状況と﹃依惣集﹄の序文と践 文の内容を合わせて考えたとき、国軍澄が苦境にあった八一 三 年には、宗内の弟子に向けて、 他 宗への批判はせずにた だ天台宗の優位性のみを示し、他 宗 との論争が活発になっ てきた八一六年に、今度は他宗に対し批判的な序文を付し て宗外に発表したものと考えられ、また﹃依慾集﹄は、 八 で 一 三 年 、 八 一 六 年の段階ではともに、徳 一 に向けた論争書 ではなかったが、論争が始まると、﹃守護国界章﹄に引用 されるなど徳一批判の書としての性格が付された。以上が 田村[一九七三] の説の要約である。 八 二 二 年と八一六年との二つの期間における最澄の状況 の変化に着目して、﹃依窓集﹄の成立が二段階に分けられ ることを指摘した研究は、田村[一九七 三 ]以前に佐守木

(3)

3

[

]を挙げることができるが、過去の﹃依惣集﹄

成立に関する諸説を分煩し、逐一批判的に検討したことに、

田村[一九七三]

の指摘の発揮点があると言えよう。

さて、本稿では、以上の先学の重要な指摘の駿尾に付し、

いま一度﹃依惣集﹄について検討する。検討を通し、特に、

間取滋が﹃依惣集﹄を、自身の著作の中でもいかなる役割を

になう典籍と認識していたのかということに着目し

点を指摘したい。

i

宣撰欧諸新羅諸宗義匠{氏想天台義集』に関する諸問Ii(封殺)

作に

おける

﹁ 依

の語の用例

まずは

、 ﹃

依沼築﹄の本文の内容を検討する前提として、

﹃依滋集﹄における最も重要な用語である﹁依窓﹂につい

て、最澄の著作中における用例を見る。

依忽﹂とは普通、

どころとする(ことごという窓

味であ

澄においては

どのように

よりどころ

(

)

依沼

と称したのか、ということをできるだけ明確に

しておきたいのである。

﹃伝教大師全集索引﹄によって、伝全中から

依惣

語を倹索すると、十五例が見つかった。具体的には、﹃依

惣集﹄にこ例

﹃法隷去惑﹄に三例、﹃守護国界章﹄に三

例、﹃通六九証破

童文﹄に一例、﹃法務秀句

議肝要略注秀句集﹄に四例見ら

れる

。このうち、﹃法華肝

要略注秀句集﹄は最澄の撰述ではない。また、﹃法議去惑﹄

の三例は、﹃守護国界章﹄の三例と全く同じ文章である。

以下に、﹃司法議肝要略注秀句集﹄と﹃法草去

惑﹄の計七例を十五例の考察の対象から外した八例を、山間

籍の成立年代順に

検討す

る 。

/八一六年の成立である﹃依窓集﹄の二例

を挙げる。この二例はいずれも、八一六年の序文に見える。

a

日本天下、門機己

熱 、

門教遂興。此間後生、各執

=

-、

-一

-。

説-。或云、新羅大唐、所

L

咲疏也。今為

L

明 一

定所

L

諸宗依惣

-、

以為

-也

(

三頁)

b

、略示三萩麦之殊¥悟

L

-。

依惣

則贈ニ同我後哲

(伝全三・三四四頁)

a

の例は、自分の宗旨に執着する

日本仏

教諸宗の学匠が、

天台宗を外遊説

であるとか

、唐や新羅

で吻笑されているな

(4)

4 龍谷大学例徽守q研究室年報第12号2004年3月

どと主張することに対し、逆に諸宗の祖師が、天台宗に﹁依

川ごしていた例を集めて、後代の人の明確な手本としたい

と言ったものである。

つまり、新来の天台宗についての知

識に乏しいことに起因して、

天台宗を

外道の説﹂とまで

罵倒する日本諸宗の学匠のために

天台宗はむしろ、歴史

的には諸宗の学匠が﹁依惣﹂としてきたものであることを、

﹃依惣集﹄を著すことによって主張すると、国最澄は宣言し

たのである。ただ、

う﹁依凋叫﹂が、具体的に、ど

のように﹁よりところとすること﹂を

味するのか、判然

b

の例を見るが、ここで最澄は、﹃依惣集﹄を

著した目的を、豆と麦との違いが分からないような読者に

その遠いを示し、宝珠の善し悪しを見定めることを理解さ

せるためであると宣言している。

b

a

章を受けて、天台宗が決して

外道の説﹂であったり

羅大唐の咲う所

などではないということを主張するため

集﹄を著

したと

言うのである。

この例の﹁依悠﹂

は、﹃依恕集﹄という山県籍の名称という

味で用いられて

ここで問題となるのは、とのような﹁依

の例を集めたものが、最澄において﹃依窓集﹄と呼び

ここでもやはり、

いる。ところで、

うるのかということであるが、

の具体的な意味が明かではなく、残念ながら、

a

b

の周

例からは、﹃依想集﹄序文における具体的な﹁依惣

昧を見い出しがたいと

わざるをえない。

次に八

八年成立の﹃守護国界掌﹄の三例を見たい。

c

、若指二乗宗¥天台有

依想

-。

実叉難陀三蔵、流支三蔵、金剛智三蔵、無四百三施、乃

至不安

歳、般若三蔵等、所伝一乗正義、皆符

L

食食義

d

、若欲

L

L

二 智

儲三蔵華版問答、

翻経賢首探

玄記、新羅元暁

師浬

祭宗要、大唐

行阿悶梨遮那経疏

L

天台

e

依溜

(巻中之中・伝全ニ

)

c

d

e

は連続する文であるが、便宜よ三分

挙げ

た 。

c

の例では、天台数義には

依河とするところがあって、

それは貞観

九(六四五)年に訳経を開始した玄奨三歳(六

O

│六六四)以降、日照(六七六年に来底、生没年不詳)

(5)

5

から不空(七

O

五│七七四)

に至る各三臓がインドから伝

えた経論の一乗教義は、

みな天台数義に符合すると量

一 一

口 う

つまり最滋は、中国の天台数裁が、

インド伝来の数学と

﹂のことこそが天台宗の正当性を示すもので

あると主張するのであろう。そして、

依鴻とする

側は天台であり、﹁依叩仰とされる側は各三歳の一乗教義で

しかし、決して、天台宗が一方的に、各三臓の一乗

教義をよりところとして成立した、と主張しているわけで

最滋撰『対苦折線路宗義匠{~乙rE天台義集』に関する諸問題ほ森)

はない。ここで述べられていることは、あくまで、

天台数

義と各三識の一乗教義との一致のみである。

の対象となる各三路の一乗教義は、天台宗

つまり、この

場合の

の正当性を主張するための傍証としての

よりどころ

なるものである。さらに言えば、ここでは天台宗と各三歳

の一乗教義が並列的な関係にあり、

この場合の﹁依沼

教義的に符合すること

という意味で用いられてい

ることになろう。

天台に﹁依慾

する智鍛(六

O

六六八)の﹃鋒厳問答﹄や法蔵の﹃探

d

の例は、もし

乗義を知りたければ、

一行の﹃大日経疏﹄を見る

べきであるとしている。ここに出る諸師とその著作は、﹃華

厳問答﹄以外はみな、﹃依溜集﹄で取り上げられる。﹃華

厳問答﹄に関しては疑問が残るものの、

d

は、まず﹃依惣

集﹄の存在を踏まえたものに違いない。また

d

C

を踏

まえて考えれば、諸三歳所伝の一乗義に符合するのが天台

(

H

天台義)を知りたければ、さ

らに天台に

依叩怖とする諸師の著作を見るべきであるとい

う主張と解釈できる。この

c

d

の文脈の流れを考えれ

ば 、

d

の﹁依怒﹂もやはり、諸師の教義と天台数義の

合﹂を窓味すると考えるのが自然であろう。

e

の例は﹃依感築﹄という

籍それ自体を指しているが、

c

d

の文脈の流れにそって

e

を解釈すれば、﹃依怒集﹄

という典籍は﹃守護国界章﹄の時点で、固定澄においては

宗の諸師の教義と天台数義とが符合している例を集めた典

と定義づけられていると言えるだろう。

八一九年頃の撰述である﹃通六九証破比量文﹄の

f

、又復支者

レ 因

亦名為

L

梯、亦名

=

¥

亦 名

荘厳

¥亦名ニ

依間四¥亦名

- F

¥

¥

-。

-故

L

亦 名

(

七三八

(6)

6 能谷大学制11数学研究室年朝日第12号2004年 3月

語を挙げたものである。

f

は求那政摩訳(三六七

l

﹃謹口薩善戒経﹄巻第一の引用文であるが(大正三

0

二頁下)、﹃通六九証破比景文﹄では﹃菩薩善戒綬﹄を引

云伺名

L

-一

m -

。何以故、菩隊隊詞薩、発一-菩提

一切善法

線本

(

三九頁)

つまり、支とは菩薩性のことであるが、整ロ薩性とは初発心

及び三十七道口

問であり、どうして窓口薩摩詞薩が発菩提心す

るのかというと、発菩提心は一

善法の

根本であり、だか

ら支というのであると言っている。この場合、﹁支

であるから、

支えと

予 え ヲ ︿ W ﹂

なるべき根本のもの﹂というほどの意味になろう。そして、

f

はこの文脈で述べられたものである。

f

は﹁支

の異名

として﹁依惣

を挙げるから、

f

の場合の

依忽

護国界章﹄での

教義的に符合すること

という意味より

も積極的な、

根本となるよりどころ﹂としての意味を持

つことになろう。

つまり、﹃守護国界章﹄から﹃通六九証

依沼

の意味が変化しているとい

うことになる。

国 最

後 日

に 、

八二一年撰述の﹃法華秀句﹄の二例を挙げる。

g

-。

¥

莫 L

信ニ偽会一。天台所釈、法華経宗、勝二於諸宗

-o 寧

-哉

(

伝全三・ニ凶五

l

四六頁)

h

、天台法華宗

能説之仏、久遠実成。所説之経

、管中

明珠。能伝之師、霊山聴衆。所伝之釈、諸宗惣拠。委

曲之依沼

別巻

(

伝全三

ニ七九頁)

e

の例は、基の法相教学を批判した後の文章であるが、

乗の君子は仏説に

依溜﹂するべきであって、第三者の介

入した口伝を信用すべきではなく、また、経典の文章を仰

信しでも、誤った絞訳を信用するべきではないと言い、加

えて他宗に対する天台宗の優位性を主張したものである。

この文

章は

前の文脈から

、玄笑訳

﹃成唯識論﹄に代表され

るような、いわゆる﹁繰訳﹂を批判した文章であるが、回旺

澄にとって、

誠文を仰信﹂、つまり仏説

をよりどころとするのが天台宗であり、﹁口伝を信﹂じ、

(7)

7

じるのが法相宗であるということになろう。

本 A F t 、

ここで﹁依惣﹂は、

﹂と

いう語と対句で用い

られるように、

一乗を信じる君子が仏説に依拠することで

あり、﹃守護国界章﹄に見た﹁教義的に符合すること﹂と

いうよりも、積極的な意味を持ち、﹃通六九証破比量文﹄

に見た﹁根本となるよりどころ﹂としての意味とほぼ同ず

るものであろう。

﹂の場合、依惣する側(日

を信じる君子)よりも依相似される側

(

H

仏説)

の方が優位

最澄廃『大鷹新..諸宗義匠依j~天台義集J Iこ関する諸ι覗~ (米森)

両者は並列的な関係にない。

h

の例では、天台法華宗について、

経﹄能説の仏

は久遠実成であり、﹃法華経﹄それ自体は警中の明珠であ

り、その﹃法華経﹄を伝えた天台大師智鎖(五三八五九

七)は霊焼山での﹃法華経﹄の聴衆であり、伝わるところ

の智鈎'の解釈はべ諸宗が

惣拠﹂とするところであるとい

天台宗が諸宗の

溶拠﹂となっていることにつ

いての詳細は、﹃依恕﹄という別巻がある、と言っている。

つまり、この場合の

依惣﹂は典籍としての﹃依溶集﹄の

ここで言う、﹃依沼集﹄に説かれる内容は

意味であるが、

何かというと、﹁天台宗が諸宗の恕拠となっていること﹂

つまり、﹁依惣

﹂とは﹁怨拠﹂と言い換えられて

いることになるが、﹁窓拠

とは、﹃法華秀句﹄巻上本に

惚之

(

三・五二頁

)

巻上末

には

γ

怨拠一。明知

=

臆説こ(伝全三・八五頁)など

とあり、単に

根拠﹂というほどの意味である。

しかし

h

は、天台宗が仏説を正しく伝えてきたことを主張するから、

やはり

h

の場合も、積極的に、天台宗が仏説の如く諸宗の

根拠となっている意味を込めて、﹃依窓築﹄に説明を裁つ

たと考えてよいだろう。

以上、最澄における八つの﹁依沼

の用例を見たが、

てきた限りでは、最澄における﹁依惣﹂という語には、三

種類の意味が考えられる。第一には、消極的な意味での

鴻 山 ﹂ 、

つまり

教義的に符合すること﹂を意味するもので

あり、﹃守護国界章﹄の

c

d

e

の例である。第二には、

積極的な意味での

というほとの意味で、

f

﹁ 線

本的なよりどころ

g

h

が該当する。第三には、

典籍としての

依慾

b

つまり﹃依惣集﹄を指すもので、

e

h

が該当する。そして、第三の意味で

語が用いられる場合は、﹃依怨集﹄が第て第二のいずれ

の意味での﹁依惣

﹂例

を集めた典籍なのかを考えなければ

e

は第一の消僅的な﹁依慾﹂

しての﹃依窓集﹄を意味し、

h

は第二の積極的な

源 ﹂

の例を集めた典籍としての﹃依慾集﹄を意味する。

(8)

8 龍谷大学的教学研究室年報第12号2004年3月

なお、前の検討の対象からは便宜上外したが、﹁依滋

の用例は、管見の及んだ限り八二二年の﹃依慾集﹄のタイ

トルが最初である。

しかし、この段階では﹁依溶﹂の意味

がはっきりしない。次は八一六年の﹃依恋集﹄序文である

この場合も意味がはっきりしない。次に、

八一八年の

力1

は第一の消極的な意味で周

いられ、﹃依感集﹄という

典籍についても

、消極

的な﹁依

九年の﹃通

を示したものと定義される。そして、

八二一年の﹃法華秀句﹄に至ると、﹁依

円 ω

は第二の積極的な意味で用いられ、特に﹃法議秀句﹄

では、﹃依惣集﹄という典籍も、はっきりと諸宗による天

台宗への第二の意味での

依鳩山﹂を示したものとして位置

づけら

れている

。年を追うごとに

﹁ 依

料どの意味が積極

になることの要因としては、国最澄と徳一との論争の激

まず思い浮かぶ。

つまり、論争の激化にともない、

八 八

年の﹃守護国界章﹄と八二一年の﹃法華秀句﹄で﹃依滋集﹄

の位置づけが変化しているのではないだろうか。

二、﹃依想集﹄本文の検討

項目②④において

では次に、﹃依惣集﹄において最澄が具体的に何を主張

するのかを見てゆきたい。

そこで本来ならば、本文金十三

項目にわたって検討を加えるべきであるが、項目②④の二

点に絞って検討を加える。なぜなら、全休にわたる概略的

な検討はすでになされており、より限定しての検討の方が、

従来の研究を検証する意味で有議であるし、何よりも着実

な議論が可能であると筆者が考えるからである。

②④は、吉蔵、良質の而﹃仁王経疏﹄に関わる問題であ

る。最澄の時代までに存在した﹃仁王経﹄に関する注釈書

で、現在までに整った形で残存しているものは、智四期説濯

頂記﹃仁王護国般若経疏﹄(以下﹃天台疏﹄)、吉蔵撰﹃仁

(

)

(

)

撰﹃仁王経疏﹄(以下﹃円

測疏

)

(

下﹃良賞疏﹄)である(以下まとめて

現存四疏

と称す)

。また、現存四疏

に、真諦三蔵(四九九

l

五六九)に

よるとされる﹃仁王経疏﹄(以下﹃真諦疏﹄)が存在した

さて、﹃仁王経﹄は古来から、インドでの成立が疑問視

される経典であるが、位一法畿(二三九

=

)

(

一三/三五

0

1

O

九)

、真諦、不空のそ

れぞれの訳出とされる四種のものがあったとされ、

ち現存するのは鳩摩羅什訳﹃仁王般若波羅蜜経﹄(以下﹃什

(9)

9

訳仁王経﹄)、不空訳﹃仁王護国般若波羅蜜多経﹄(以下﹃不

空訳仁王経﹄)である。現存四疏のうち、天台、吉灘、円

測の各疏は﹃什訳仁王経﹄を注釈したものであり、﹃良資

疏﹄のみ﹃不空訳仁王経﹄にそって注釈する。また、現存

四疏に共、通して﹃真諦疏﹄が引用されることから、﹃真諦

疏﹄は現存四疏に先立って成立したものと言える。

最滋!毘『大唐新経路宗義匠依強天台義集JIこ関する

i

昔日仏官Ii(米~)

次に、現存

四疏の成立の前後関係を確認するが

、現存

疏で成立が最も早いのは﹃吉蔵疏﹄である(五九五│六

三年の聞に成立)。次

に成立したものは、﹃天台疏﹄と﹃良

質疏﹄に引用が見ら

れる﹃円測疏﹄であ

門測疏﹄の

成立年時も残念ながらはっきりしないが、門測の没年が六

九六年であるから、

一応、七世紀後半(つ│六九六)の成

立であろう。その次に成立したのは﹃天台統﹄と考えられ

N

る。﹃天台疏﹄は﹃良資疏﹄に引用されているからである。

﹃天台疏﹄は﹁港頂記

とされるが、実は濯頂よりも後代

の人物による著作であり、佐藤[一九六二は、六六四

七三四年の間の成立であると推定している。そして、最後

の﹃良質疏﹄の成立は七六六年であふ。以上をまとめれば、

現存四疏の成立は﹃古口般疏﹄、﹃門測疏﹄、﹃天台疏﹄、﹃良

黄疏﹄の順ということになる。

みせて、現存悶疏の成立順序がはっきりしたところで﹃依

叩山山集﹄の検討に戻るが、まず﹃依惣集﹄の②の全文を次に

大唐越州嘉祥寺三論宗沙門士口蔵依ニ天台宗一造二仁王経

其仁王経疏上巻云、所

L

集不し向。随

L

(

L

-。

-

-。

L

、亦五門分

別。第一釈

=経名¥第二

=

経休一、第三

明 白

経宗¥第四緋二経周¥第五論ニ教相一等、云云

(

三四八頁)

②は非常に短いものであるが、

蔵が﹃士口蔵疏﹄において、智類の経典解釈法である五重玄

義を依周すると宣言した文章を引用している。これに対応

する﹃士口蔵疏﹄の箇所を大正蔵所収本によって次に挙げる。

向。随

L

。天台智者、於

¥

-o

今於

-

例、亦五門分別。

m

一眠時名、割ニ出桂体.第三明軽宗.第四明暗周掃五抽経伺

(

大正三三

=二四頁中)

(10)

10 ß~谷大学似数学研究室年報第 12 号 2004年 3 月

右の文引用文の小さいフォントは、大正蔵本においては割

注になっている部分である。また、太字で示した箇所は、

前の﹃依想集﹄で引用されている文章と異なる部分である。

しかし、違いはあるものの、内容的には大きく異ならず、

﹃依怨集﹄は﹃士口蔵疏﹄をほぼ正確に引用していると言っ

てよいだろう。﹃士口蔵疏﹄は先述の通り、﹃天台疏﹄より

先行して成立したが、この場合の﹃吉蔵疏﹄が言う智輔副の

学説は﹃天台疏﹄とは関係なく、﹃士口蔵疏﹄は単に智鎖の

一般的な学説としての五霊玄義を採用したものと考えら

る 。

次に④についてであるが、これも短いので全文を挙げる。

大唐音龍寺翻経諮論新法相宗沙門良賞依ニ天台義-判二

其新仁王経疏下巻云、釈

、然

西

寺測法師、玄範法師、紀国寺慧静法師、皆以二此口問¥

為 一

流通分

-

。天台智者、道安法師、安国大法

師、皆以

=

正宗分

-

。雌

= 一

皆詣レ理、倶有=所惣一、今依ニ天台等

(

四九頁)

-

、云云

右の引用に対応する﹃良質疏﹄巻下の大正瀧所収本の箇所

を次に示す。

釈--本文-者、然此品経、古徳西明寺測法師、玄範法師、

-。

道安法師、安国大法師、皆以ニ

此品

¥為三

正宗分

所溜

¥今依ニ天

台等義-、如

L

前故

(

=

)

太字で示した箇所が両者で異なる点である。

の文章は﹃仁

王経﹄の第七

奉持品(﹃什訳

仁王経﹄では﹁受持品﹂)﹂

を解釈したものであるが、ここで良賞は、﹃仁王経﹄を分

科するに当たって、﹁奉持品﹂を正宗分とするか流通分と

するかという問題に対し、過去に﹃仁王経﹄を分科した諸

師のうち、円測、

玄範

(

)

慧静(五七

?

)

奉持品

を流通分とするが、良賞は智顎や道

安全二二│三八五)、安国大法師(不明)などにならっ

て正宗分とするというのである。良質は﹁天台等義﹂によ

つまり、智顕や道安、安国大法師の解釈を

参考に

を正宗分と

したということになろう

しかし、道

安に﹃仁王経﹄の注釈があっ

たという記録はな

く、また、安国大法師が殺を指すのか明かでない。道安は、

(11)

11 一 般に、経典を序分、正宗分、流通分の三段に分科する方 問 法の創始者とされている。では、良質が こ こ で道安に求め る の は 、 ﹁ 泰 持 口 問 ﹂ を正宗分とする こ とではなく、経典を 三段分科することの正当性についての根 拠 であろうか。し それでは文脈上不自然である。また、道安を三段科 か し 、 経の創始者とする説には疑義が呈され、事実、現存する道 安の著作からは、三段 科 経の跡を見ることができない。良 質も直接、道安の経典注釈普から道安の三段科経を知った 最

i

.

l

1

撰『大鹿新履諸宗義匠:{<<![H:7C台義泉』に関する諸陪凶(封と森) わけではなく、後の伝承から知ったのではないだろうか。 関連して、成立が﹃良資疏﹄に先行する﹃天台疏﹄巻第一 には次のようにある。 次入 L 文解釈。夫震目一議説、不 レ 。或有分レ文、或不 L 分者、只如下大論、釈三大口 問 -不 レ 分 一 一 科 段 一 、 天 親 浬 祭 、 即有 L 分 L 文、道安、 別置 = 序正 流 通 -、劉刻、但随 レ 文 解 釈 よ 。 此亦人情、一間菊好楽不 レ 同。意在 L 達 L 玄、非 L 存 L 渉 レ 事 。今且依レ分レ文者、況聖人説法、必有レ由 L 漸 。 故初明 ニ 分 ︻ 。 序 彰 三 正顕 こ 利益一。当時名 ニ 正説分 -。 末世衆生、同一落ニ法利一、名ニ流通分三此経八口 問 。 序 口 問 為ニ序分¥観空下六口問、為--正説分-、隠累口問、為ニ流 通分 -。 若望ニ経文ぺ受持品末、仏告二月光一下、即是 流 通 分 一 宮 云 ( 大 正 三 三 ・ 二 五五頁中) 右のように﹃天台疏﹄は、道安の三段科経について言及す るが、﹃天台疏﹄ は 道安が三段科経をしたとは言って も 、 道安が﹃仁王経﹄を三段分科し、 ﹁ 受持品 ﹂ を正宗分とし では、これを良貨が誤解して、 道安がさも﹃仁王経﹄を三段分科し、 ﹁ 受 持 口 問 ﹂を正宗分 としたようなことになったのだろうか。しかし、この推測 たとまでは言っていない。 が成り立たないことは後述する。 また、前の﹃良質疏﹄引用文で、良資がよった天台義と は、右の﹃天台疏﹄引用文に相当すると思われる。﹃天台 疏﹄は、﹃仁王経﹄の三段分科説として二説挙げる。第一 説は、第一 ﹁ 序 回 問 ﹂ を序分、第二﹁観空口問(﹃不空訳仁王 経﹄で は 観 如 来 品 ) ﹂ から第七 ﹁ 受持 品 ( ﹃不空訳仁王経﹄ では奉持品) ﹂ までを正説分、第八 ﹁ 嘱累晶 ﹂ を流通分と するもので、第二説は、第一説とほぼ同じであるが、第 七 ﹁ 受 持 口 問 ﹂ の ﹁ 仏告月光 ﹂ の文以 下 を流通分とすふ。 結 局 ﹃天台疏﹄はいずれを探周するとも言わないが、第八 ﹁ 嘱 累 口 問 ﹂ の最初で ﹁ 大章第三流通分 ﹂ (大正三三 ・ 二八五頁 中)と し ているから、第一説を採用したことになる。そし て第一説は第七 ﹁ 受持品﹂を正宗分とするから、﹃良貴疏﹄

(12)

12

n

i!谷大学側主主学研究室年報第 12号 2004年 3月

の天台義と合致する。

﹃良質疏﹄が言う安国大法師が誰を指すか分からないが、

﹃良質疏﹄が

﹁ 知 目

類、道安、安国大法師

﹂の順に名前を挙

げていることを考えると、良賞にとって安国大法師の科段

も、あまり重要なものではなかったのではないだろうか。

つまり、良貨は三人の名を挙げながらも、直接知っていた

のは﹃天台疏﹄の説のみであり、したがって、三者を

台等﹂と天台に代表させたのではないだろうか。

ところで

前の﹃依級集﹄本文に帰ってみれば、﹃良質

疏﹄にはある

﹁刈前政﹂とい

う文草が、﹃依惣集﹄におい

ては引用されていないことが分かる。この

﹁如前故﹂にし

たがって﹃良資疏﹄を調べ

れば

、次に引用する箇所が注目

される

此経

L

本文一者、先総

レ科、後随

文釈

経。真諦記、判ニ釈

此経

¥

b

図。一発起分、即初序口問。ニ正説分、

謂次五品。三玉得護国分、即第七品。四流通分、即嘱

累品

¥

-。

序分、正宗、流

通分。故至

ニ今巨唐¥慈恩三蔵訳下仏

地論

-仏地経

判彼経

-、

然則東夏西天

処践

ニ 師

山畷¥

聖心潜契、妙旨

符 。

=

此経

¥

L

教起因縁分、即初序回問。二

聖教所説分、次之

。三

依教

(

四三五頁中)

つまり、﹃真諦疏﹄は﹃仁王経﹄を、第一

分、第二

から第六

﹁ 散

華晶

を正説分、第七

奉持

品﹂を王得護国

分、第八

を発起

玉経﹄を

四段に

分科している。しか

し、晋代の道

安は、諸

内を序分、正宗分

、流

通分の三段に分科している。だか

ら 、

の唐代に至って怒恩大師基(六三二六八

)

﹃仏地経﹄を親先菩薩(

世紀

七世紀)が三段に分科し

た﹃仏地経論﹄を訳出したのである。中国とインドという

はるかに隊れた場所に関わらず、道安と親光との解釈が合

致しているのは

、仏意の致す

ところである。だから、良貴

が﹃仁王経﹄を

分科する

に当たっては、道安と親光によっ

を教起因縁分、次の第二

ら第七

持品﹂までを聖教所説分、第八

嘱累晶

を教

奉行分と、三段に分科するの

である。以上が右の引用文の

要点であろう。

目されるの

は 、

道安法師、諸経を科判するに、

以 つ

(13)

13 て 三 分と為す﹂と 言 っており 、 良 質 は 、 ﹂こでは道安が 段科経をなしたのは経典一般に対してであり、決して﹃仁 王経﹄を分科したとは考えていないという点である。 つ ま り、右の文章に限れば、良賞は決して﹃天台疏﹄の文章を 読み誤っていない。前述の筆者の推測が成り立たない所以 である。また、右によれば天台の名は出てこず、良質が﹃仁 王続﹄を 三 段に分科する理由は、道安や抑制光が経典を分類 最滋撰防法新..諸宗義匠依1&'天台義築JIこ関する諸晶覗!i(米森) する際に 、 やはり 三 段に 分 科したことにならつてのようで あ る 。 そこで 、 次に親光菩薩等造玄奨訳﹃仏地経論﹄巻第一の 三 段分科の記事を引用したい。 於=此経中 一、総有 ニ 三 分 一 。 一教起因縁分。二聖教所説 分。三依教奉行分。総顕ニ己聞及教起時 一、別顕ニ教主 及教起処 - 教所 レ 、 即 是 教 起 三 一 附図所 縁 -故、名 ニ 教起因縁分 -。 正顕 = 聖教所説法門、口問類差別-故、名 = 聖教所説分 -。 顕 下 彼時衆 、 聞 こ 聖 教 ヘ 歓 喜 奉行 主 故 、 ( 大 正 二 六 ・ 二九一頁下) 名 ニ 依 教 奉 行 分 一 右によれば、﹃仏地経﹄を起因縁分、聖教所説分、依教奉 しかし、﹃仏地経 行分の 三 段に 分 科するというのである。 論﹄を見ても 、 やはり良貨が﹃仁王経﹄﹁奉持品 ﹂ を正宗 分とする理由は明らかにされていない。 以上の論点をまとめると、﹃良質疏﹄の三段科経は、道 安、親光、﹃天台疏﹄ の説を統合して成立したという こ と になろう。﹃良賞疏﹄の三段科経という方法論は、道安と 親光の説に基づく。 しかし 、 こ と ﹁ 拳持品 ﹂ を正宗分とす ることなどの具体的な分科については、実質上﹃天台統﹄ によるところが大きい。 では、良資は ﹁ 奉持品﹂を正宗分とすることの根拠を ﹁ 天 台等 ﹂ の義によるとして、天台のみでなく道安や安国大法 師にも求めようとしたことは、 いかなる理由によるのであ ろうか 。 そこで﹃天台疏﹄ 、 ﹃良資疏﹄に先立って成立し た﹃ 円測 疏﹄に注目したい。﹃良賞疏﹄と﹃円測疏﹄を 比 較対照した武内 [ 一九七四 ] は、両疏の閣には密接な関係 その理由の 一 つとして、﹃円測疏﹄巻 が見られると言い、 上本の次の文章に注目する。 釈白、白下第二、判 L 文正釈。於二部内-、即其八口問。 一 依 = 本 記 一 、 大 分 為 b 四。一発起分、即 初序回問。二正説分、謂次五口問。三玉得護国分、即受持 自 有 ニ 両 判 -。 口 問 。 四 流 通 分 、 即 嘱 累 口 問 。 今 判 二 経 一 、 依 ニ 地 論 ¥

(14)

14 龍谷大学例数学研究室年報第12号2004年 3月

大分為

L

=

聖教所説分

-

。後有

一 一 二

、名

依教奉行分

(

三六一頁下)

文中の

本記﹂は﹃真諦疏﹄を指すが、

本記

の引用文

は、前に引用した﹃良賞疏﹄の

の引用文とほぼ

同じ文章である。また、﹁本記﹂

の次に﹃仏地経論﹄を引

周することも﹃良質疏﹄と共通する。そして、ここで挙げ

る﹃仏地諭﹄も﹃良質疏﹄と同じく、前に本稿で引用した

つまり

﹃仏地経論﹄の文章に基づ︿ものであろう。

黄疏﹄も﹃円測疏﹄も、科経の教証は﹃仏地経論﹄の全く

同じ文なのである。ところが両疏の分科は、第七﹁受持口問

つまり、良賞は

受持品﹂を

の位置づけにおいて異なる。

正説分とするのに対して、円測は右の引用文のように、﹁受

持 口

を依教奉行分としているのである。これは、両疏の

教誌が﹃仁王経﹄ではなく、﹃仏地経﹄を注釈した﹃仏地

経論﹄であるということにより起こる矛盾である。﹃仏地

経論﹄がいくら三段科経を説いても、﹃仁王経﹄

の細かい

科段を説くはずがあり得ないから、円洲、良質の両疏で矛

盾が起こったのである。

良質は﹃仁王経﹄の分科に当たって、﹃門測疏﹄、﹃天台

疏﹄の両方を参照したと思われる。

しかし、﹃天台疏﹄の

科段を見れば、﹃円測疏﹄のそれと近いものの、第七

持 口

の位置づけのみが異なる。そして、玄奨訳論番は当

時主流であったが、﹃円測疏﹄の科段は玄炎訳﹃仏地経論一﹄

によっている。ところが﹃円測疏﹄の具体的な科段は、﹃仏

地経論﹄の教証では充分に正当化されない。ここに﹃良資

疏﹄において﹃天台疏﹄の科段が採用される余地が生じた

と考えられる。この意味で、﹃良資疏﹄は

段分科に限っ

て、﹃天台疏﹄を依周したと言うことに誤りはない。

溜集﹄の撰述意図

前項の検討結果を整理すると、②は吉蔵が﹃吉蔵疏﹄に

おいて、自ら天台の五重玄義を依用して、﹃仁王経﹄を注

釈すると宣言した文章を引用したものである。また、④は

良貨が自ら、﹃良質疏﹄において、﹃天台疏﹄の﹃仁王経﹄

の三段分科を採用したと宣言した箇所の引用文であり、事

の三段分科は、﹃天台疏﹄の依用と言って

ところで、横超

[

]

は、﹃依窓集﹄の②の主張

吉蔵が天台の説に依ったということを最澄

(15)

15

は依窓天ム口集の中で仁王経疏の五門分別について言ってい

るが、思怨的に吉蔵が天台に承周する所あったとは認めが

たい﹂(一五五七頁)と言う。この提言は、②で士口蔵が依

周した五重玄義というのは、あくまで経典解釈の形式上の

天台の五重玄義を採用したからといって吉

蔵が何回類の思惣を依用したとは言えないということを指摘

したものであろ弘。また、隙超

[

一九七三]の指摘は﹃良

問題であって、

寅疏﹄と﹃天台疏﹄との関係にも通じる。﹃依怨集﹄が引

i

I

i

t

r

大唐新f

:

l

t

3

吉宗義匠依

i

4

5

天台義集』に関する諮問題(米森)

用した、﹃良黄疏﹄が﹃天台疏﹄を依期した関係は、あく

まで﹃仁王経﹄の分科という経典解釈の形式上の問題なの

である。つまり、最澄は﹃依怨集﹄②④において、吉蔵や

良賞が、単に天台の経典解釈方法を依用した例を挙げたこ

とになる。そして、

この場合の﹁依滋﹂は、教義の線幹に

関わるものではなく、

校末的なレヴェルでのことである。

﹃依惣集﹄という典籍が、第一の消極的な

まり他宗と天台宗との教義的符合の用例を集めた典籍であ

るというのなら、全く﹃依惣集﹄は、論理的整合性を持つ

しかし﹃依惣集﹄が

、第二の積極

た典籍であると言える。

的な﹁依惣

を つ

~刀、ミ

ヰが

る ム

と 旦

T

2

4

五歪

ら ど

2

『 り

依 ど

滋 こ

集﹄の主張に、﹃依恕集﹄の続者は簡単には納得できない

だろう。筆者は、最澄においても、﹃依惣集﹄が、

その撰

述当初には、第二の積侮的な

依感﹂を意味した典籍とは

考えておらず、第一の消極的な

依滋

﹂と

しての意味合い

が強かったのではないかと考える。それが、

特に徳一との論争の激

にともない、﹃依慾集﹄には相応

しくない第二の積纏的な

依惣

の意味が徐々に付加され

ていったのではないだろうか。

玉、結論

さて、本稿では﹃依怒集﹄を検討したが、最後に指

得た問題点をまとめたい。

依想﹂の語についてであるが、白百

澄は﹁依沼

という語を消纏的な意味と、積極的な意

用いる場合がある。消極的な意味とは、

教義的に一致符

であり、積極的な意味とは、

合する(こと)

よりどころとする(ことご

である。そして最澄の著作に

﹁依滋﹂の語が現れるのは

八二二年の﹃依惣集﹄が最

初で

八二一年の﹃法華秀句﹄が最後であるが、

八 年

の﹃依怒集﹄の段階で

は、消極的な意味合いが強かったと

(16)

16

i

i

l

1-谷大学側数学研究室年報第12号2004年3月 田 村 [ 一九七三 ] は ﹃ 依 惣 集 ﹄ を 、 原 初 形 態 が 完 成 し た 八 一 三 年 と 、 序 文 が 付 さ れ た 八 一 六 年 と で は 発 表 の 目 的 が 違うという、 屈折した性格を持つ典籍と評価しているが、 本稿はこの指摘を受けて、 ﹃ 依 惣 集 ﹄ の 最 澄 に お け る 意 味 づけが、 八 二 二 年 か ら 八 一 二 年 に か け て 徐 々 に 変 化 し て い つまり、最澄においては、 八二二年の段 ったと考えたい。 階 で は 、 ﹃ 依 恋 集 ﹄ は 第 一 の 消 梅 的 な ﹁ 依 惣 ﹂ を 示 し た 典 籍という意味合いが強いが、 八 一 三 年 か ら 八 一 六 年 に か け ては他宗との札制怖が生じ、八一六年の﹃依惣集﹄序文では、 他 宗 に 対 し 激 し い 批 判 を 展 開 さ せ る 。 そ して 、 後にはついに、徳一との論争が始まる。 八一七年前 このように、最澄 の 他 宗 に 対 す る 態 度 は だ ん だ ん 硬 化 し て ゆ か ざ る を 得 な か っ た が 、 八 一 九 年 の ﹃ 通 六 九 証 破 比 量 文 ﹄ この過程で、 は 最 澄 に お い て ﹁ 依 惣 ﹂ という語の意味も積極的になり、 八二一年の﹃法華秀句﹄ そ れ が ﹃ 依 窓 集 ﹄ と い う 典 で は 、 籍には相応しくないのにも拘わらず、 な意味が付加されざるを得なかった。これは、﹃法議秀句﹄ ついに第二の積極的 に 至 っ て に わ か に ﹃ 依 滋 集 ﹄ の 意 味 が 変 化 し た と い う わ け で は な く 、 ﹃ 依 惣 集 ﹄ 撰 述 後 か ら ﹃ 依 惣 集 ﹄ の 意 味 が 最 澄 において、序文の付加、﹃守諮国界章﹄、﹃通六九証破比盤 文 ﹄ と い う 段 階 を 経 て 徐 々 に 変 佑 し 、 や が て ﹃ 法 華 秀 句 ﹄ に 至 っ て 、 ﹃ 依 窓 集 ﹄ と い う 典 籍 を 積 極 的 な ﹁ 依 惣 ﹂ を集めた典籍であると主張したのであろう。

例 。注記 で ︼ 伝全本の奥岱には﹁原本慶安四年中野五郎左衛門刊行光映師 校訂本全一巻﹂(伝金三三六五頁)とある。 同 本文十三項目の憎成を以下に示す。 ①大唐終南山盛徳 寺律宗沙 門道宣造両大師伝/②大唐越州嘉作寺三論宗沙門吉漉依天台宗造

ι

王経疏ニ巻/③大盾僕陽法相宗沙門智周依天台宗造菩薩戒経疏 五巻/③大庖背能寺翻経税論新法 相宗沙門良賞依 天台義判仁王経 文/⑤大唐京兆貌国西明寺華航宗沙 門法蔵依 天台義進撃厳義等二 十三巻/⑥大唐京兆静法寺華厳宗沙門恕苑判云法蔵師所立義影響 天台義/⑦大唐五台山居士華航宗李通玄判天台位造議厳会釈十四 巻/⑧大唐大原府崇福寺新華厳宗翻経沙 門澄観判天台 義理致円満 /⑨新羅国華厳宗沙門元暁賛天台徳証諸宗教時/⑩大唐南岳真言 宗沙門一行同天台三徳数怠三諦義/⑪大唐大蔚箔寺大仏頂宗沙門 惟諮引天台義造経疏井紗/⑫天竺名僧聞大麿天台数迩最堪簡邪正 渇仰訪問縁/⑬天台大師振法鼓於天竺文出三論宗士口蔵諸大師番。 凶吉津[一九七二]は、﹃依惣集﹄の各引用文の該当箇所を網羅 し 、 有 益 で あ る 。 ま た 、

22232

も 参 照 。 ゐ﹁其時、奥田本第五十二菜 、 弘に七年丙申之歳也﹂(伝全三 ・ 三 四 四 頁 ) 。 凶 ﹁ 弘 仁 四 年 宍 巳 九 月 一 一 日 ﹂ ( 伝 金 三 ・ 三 六 五 頁 ) 。 血 福 井 [ 一 九 七 八 ] 参 照 。 叶 田 村 [ 一 九 七 三 ] [ 一 九 八 八 ] 参 照 。 ∞薗回[一九五二]参照. 由論争の経過については、田村ご九八八][一九九一ニ、及び浅 田 { 一 九 九 五 ] 参 照 。 ︼ C 以 上 、 最澄の時代的周辺状況については簡略に記したが、全

(17)

17 最澄撰『大

r

!

I

i

府信者宗義匠依

i

f

n

天台義集』に関ずる祐四位

E

保請、) て田村[一九七三]による。また、同{一九八八]も参照。 ニ 他宗への批判が全くないわけではない。たとえば﹁但窓苑所 及、名獄之失、利渉所致、煩霊之務、則挙恥於後生、顕慰於可由民﹂ ( 伝 金三 ・ 三六四頁 )とあり 、恵苑に対してのみ批判的である。 ただ、序文に比べれば、政文の態度が全体的に柔和である。 ロ特に﹁新来真言家、則混策授之相承、旧到華般家、則隠影響 之軌出版。沈笠三論宗者、忘弾阿之屈恥 、覆称心 之心酔、若有法相 宗者、非倹陽之帰依、帰青龍之判経 ﹂ ( 伝 金三 ・ 三 四 四 頁)とい う一節は有名であろう。 ロ﹃法華肝要略 注秀句集﹄は、日曜澄の著作に傑せ られるが、最澄 の後代、日蓮宗系の学徒によって一話さ れたと考えられてい る 。 E ﹃法草去感﹄と用例が重なる﹃守強固界章﹄の部分はいすれも 巻中であるが、﹃守護国界準﹄巻中と﹃法華去惑﹄はほぼ同内容 である。田村[一九九二

a ]

参 照 。 広佐々木[一九三八]は﹃依惣集﹄序文について﹁これ実に新 伝の此宗に対して南部方よりして種々の逆宣伝があるために、そ の中傷緋紛をば一掃せられるためであろう.(略 ) か くそれ等無 根の論難を破斥するには、彼地の諸宗人姉の著書について天台に 依想せる点を示すことが、具体的な最も有効な方法であるとされ るばかりではなく、その結論として一代教中に法華経の法門を以 て最上とすることとなりて、教判的の効果をも収めうるものであ る﹂(九O頁)と言っている。 -B ﹃通六九庇敏比量文﹄に関する研究では、品開谷[ニ

0

0

0

]

が 最近のものである。 コ全体にわたり概略的な検討を加えたものに、吉津[一九七三]、

22C32

がある。あわせて参照されたい。 お平井有国国[ 一 九 七六]は、散逸むや断簡で残存するものを含 め、古来の﹃仁王経疏﹄を網羅しており、非常に有益である.

S

字井[一九二九]参照。 ND ﹃仁王経﹄は学者によって微妙な異なりがあるものの、ほぼ五 世紀後半から六世紀初めの成立とさ れ る 。 し か し 、 成立地に関し て、はっきりしたことは分からない。 ピ平 井宥鹿[一九七六]参照。 N N 平 井 俊 柴 [ 一九七六]は﹃吉蔵疏﹄を、吉郎の諸般若経典傾 注疏の中で は最も遅いが、吉蔵の会福嘉祥寺時代(五九O?l五 九七)の成立であろうとする。しかし同[一九九O]では﹃士口厳 疏﹄の成立が吉蔵の長安時代(五九九l六二三)とされており、 一貸していない。そこで、吉蔵撰﹃大口間経義疏﹄の成立が五九五 年であるから、﹃古口蔵疏﹄の成立を智定的に五九五│六二三年と し た 。 出﹃天台疏﹄に﹃円測疏﹄の引用が見られることは若杉[一九七 三 ] 、 ﹃ 良 質 疏﹄に﹃門測疏﹄の引用が見られることは武内[ 一 九 七四]をそれぞれ参照。 立﹃良質疏﹄には、﹃天台疏﹄を参照したと思われる次に示す箇 所 が あ る 。 ﹁ 欲色諸天、得無生忍固天台解云、即十行也﹂(巻下一 ・大正三三・四九二頁上)、﹁旧云 、 行花。天台解云、表三賢位所 修、無量福懇之行。今言蓮花、表行不染﹂(巻下一・大正三三 ・ 四九二頁中)、これに対応する﹃天台疏﹄の箇所は、﹁無生法忍即 十行也﹂(巻第五・大正三三 ・ 二八二良中 ) 、 ﹁ 初 行花、表三賢位﹂ ( 巻 第 五 ・ 大正三三二八一頁下)。 以佐藤[一九六二は、﹃天台疏﹄が﹃吉蔵疏﹄を参照して、滋 頂より後代の天台学徒によって著されたものであるとしている。 なお、若杉[一九七三]は﹃天台疏﹄の成立の上限を、﹃円測疏﹄ との引用関係から円測の没年の六九四年とする(六九六年の誤り か?)。また、その下限についても湛然の著作に﹃天台疏﹄の引 用がないことなどから疑義を呈しているが、この疑義を尊重する ならば、﹃天台疏﹄成立の下限を﹃良質疏﹄成立の七六六年以前 とも考え得る。佐藤[一九六二の﹃天台疏﹄の成立年代説には 見直しの必要があるのかも知れない。 NE ﹃良資疏﹄の末尾に﹁永泰二年十一月八日奉詔修疏沙門良賞 上表﹂(大正三三 ・ 五二三頁中)とある。良貴については今井[ 一 九 八 六 ] 参 照 。

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